明治期の風俗
- 尺貫法
- 明治期におけるシャツの位置づけ
【尺貫法】
明治期の官報では尺貫法が用いられています。
1寸=3.03cm
1尺=10寸=30.3cm
1間=6尺 =1.818m
1丈=10尺=3.03m
1町=36丈=109.09m
1里=36町=3.927km
時間がないので後で追加
【明治期におけるシャツの位置づけ】
Wiki Pedia
「シャツ」の項-日本のシャツ文化 より抜粋
シャツは、江戸時代最末期~明治時代初頭の頃に日本へもたらされた。
当時の日本人の一般的な服装は着物であったが、文明開化の名の下に(特に東京近辺において)洋装の導入が進み、シャツの着用も行われるようになった。
ただし、民衆の一般的な服装はやはり和装であり、シャツ等の洋装を行う者は「キザ」「西洋かぶれ」というネガティブなイメージで見られていたようである。(夏目漱石の『坊っちゃん』にも嫌味な登場人物として「赤シャツ」が描かれている。)
その後、都市部では洋装が普及し、シャツの着用も一般的となっていったが、農村部においては太平洋戦争(大東亜戦争)期頃まで和装が普通であり、シャツはあまり普及していなかった。
戦後は日本文化のアメリカ化が進み、農村部へもシャツを始めとする洋装が広がっていった。
ということから、明治期にシャツを着ていた者は先進的で少なくともいわゆる赤貧などというものからは遠い存在であったことが窺える(もちろん行旅死亡人の中には散財したものもあるだろうが)。