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廃仏毀釈 - (2006/01/18 (水) 19:27:33) のソース

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく、廢佛毀釋)とは、仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者が受けていた特権を廃するなど、仏教に対する攻撃を指す。文献によっては「廃仏稀釈」と表記されることもあるが、誤用である。<br>

明治の廃仏毀釈<br>
 一般に「廃仏毀釈」と言えば、日本において明治維新後に成立した新政府が1868年(明治元)3月に発した太政官布告神仏分離令、1870年(明治3)
の大教宣布など神道国教・祭礼一致の政策によって引き起こされた仏教施設の破壊など指す。これは決して仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として
廃仏毀釈運動とも呼ばれる民間の運動を惹起してしまった。神仏習合の廃止、神体に仏像の使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、
寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の取り壊し、仏事の禁止、民間への神道強制など急速な実施のために大混乱となった。1871年(明治4)ごろ
嵐が収まった。しかし、長い間回復は困難であった。<br>
インド・中国などの廃仏毀釈<br>
 インドの有力仏教寺院ヴィクラマシラー寺へのイスラーム教徒の軍勢による攻撃や、中国での「三武一宗の法難」と呼ばれる北魏の太武帝・北周の武帝・唐の武宗・後周の世宗による仏教への弾圧などが、廃仏毀釈の事例として挙げられる。<br>

江戸時代の廃仏毀釈<br>
 国学の普及による神仏習合への不純視や江戸時代の寺社奉行による寺請け制度での仏教寺院を通じた民衆管理への反発が背景にあり、政府主導による神道有位の風潮が影響した。<br>

 平田篤胤派の国学や水戸学が盛んであった地域ではとくに仏教排斥の動きが激しく、神道を国教化する運動へとむすびついていった。国家神道の発端となった。
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