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ツクヨミノミコト」(2006/01/21 (土) 18:34:33) の最新版変更点

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<h1 class="title">ツクヨミノミコト</h1> ツクヨミ(月讀、ツクヨミノミコト)は、日本神話の神。記紀においては、イザナギによって生み出されたとされる。普通には月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。名前の読み方はツキヨミとも。<br> 一般には男神と考えられているものの、記紀の中では性別を決定づけるような描写はない。<br> 神話での記述<br> ツクヨミは、月の神とされているが、その神格については、文献によって様々な相違がある。古事記では伊邪那伎命が黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に右目 から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大御神、鼻から生まれた建速須佐之男命と共に重大な三神(三柱の貴子)を成す。一方、日本書紀では古事 記とは逆に左目から生まれたという話、右手に持った白銅鏡から成り出でたとする話もあり、支配領域も天や海など一定しない。<br> ツクヨミは太陽を象徴するアマテラスと対になって誕生するが、比較神話学の分野では、様様な神話に同様の発想があることが指摘されている。例えば、中国の 盤古伝説(『五運歴年記』)には、盤古が死してその左眼が太陽に、右目が月になったという起源譚があり、ギリシア神話においても太陽神アポロンと月の女神 アルテミスが双子とされる(『神統記』によればゼウスとレトの子)ことなどが挙げられる。また、旧約聖書の創世記では、天地創造の四日目に、神が空の中に 「二つの巨いなる光」、すなわち太陽と月を創り上げて、それぞれに昼と夜を司らせ、光と闇を分けたという日月の創造が語られている。アマテラスとツクヨミ の誕生もまた、太陽と月が対として誕生したという、世界中に共通する日月起源譚のパターンに沿ったものと考えられる。<br> 日本神話において、ツクヨミはアマテラス・スサノオと並ぶ重要な神とれているにもかかわらず、全般的に活躍に乏しい。わずかに日本書紀第五段第十一の一書 で、穀物の起源が語られているぐらいである。これはアマテラスとスサノオという対称的な性格を持った神の間に何もしない神を置くことでバランスをとってい るとする説もある。同様の構造は、タカミムスビとカミムスビに対する天之御中主神、ホオリ(山幸彦)とホデリ(海幸彦)に対するホスセリなどにも見られ る。<br> <br> 古事記<br> 古事記上巻では、伊邪那伎命の左目を洗った際に生み成され、アマテラスやスサノオとともに「三柱の貴き子」と呼ばれる。月読命は「夜の食国を知らせ」と命ぜられるが、これ以降の活躍は一切無い。<br> 神代紀<br> 日本書紀神代紀の第五段では、本文で「日の光につぐ輝きを放つ月の神を生み、天に送って日とならんで支配すべき存在とした」と簡潔に記されているのみであ るが、続く第一の一書にある異伝には、伊弉諾尊が左の手に白銅鏡を取り持って大日?尊を生み、右の手に白銅鏡を取り持って月弓尊を生んだとされる。<br> 支配領域については、天照大神と並んで天を治めよと指示された話が幾つかある一方で、「滄海原の潮の八百重を治すべし」と命じられたという話もあり(これは月が潮汐を支配しているという発想からきたものらしい)、複数の三神生誕の話が並列している。<br> 書紀第五段第十一の一書では、天照大神と月夜見尊がともに天を治めるよう命じられたが、のちに天上で天照から保食神(ウケモチ)と対面するよう命令を受け た月夜見尊が降って保食神のもとに赴く。そこで保食神は饗応として口から飯を出したので、月夜見尊は「けがらわしい」と怒り、保食神を剣で撃ち殺してし まったという神話がある。保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となった。天照大神は月夜見の凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒 り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住むようになったという。これは「日月分離」の神話、ひいては昼と夜の起源である。<br> しかし、古事記では同じようにして食物の神(オオゲツヒメ)を殺すのはスサノオの役目である(日本神話における食物起源神話も参照のこと)。この相違は、 元々いずれかの神の神話として語られたものが、もう一方の神のエピソードとして引かれたという説がある。その他、ツクヨミ・スサノオ同神説も提唱されてい る。<br> 顕宗紀<br> ツクヨミは、神々にかわって人間の天皇が支配するようになった時代にもまた現れる。書紀巻十五の顕宗紀には、高皇産霊をわが祖と称する月の神が人に憑い て、「我が月神に奉れ、さすれば喜びがあろう」と宣ったので、その言葉通り山背国の葛野郡に社を建て、壱岐県主の祖・押見宿彌(オシミノスクネ)に祭らせ たという記録がある。これが山背国の月読宮の由来であるらしい。<br> 風土記<br> 出雲国風土記の嶋根郡の条には、伊佐奈枳命の御子とされる「都久豆美命」が登場する。<br> 千酌の驛家 郡家の東北のかた一十七里一百八十歩なり。伊佐奈枳命の御子、都久豆美命、此處に坐す。然れば則ち、都久豆美と謂ふべきを、今の人猶千酌と號くるのみ。<br> 「ツクツミ」は、海神ワダツミや山神ヤマツミなどと同じように、月の神霊を意味するものと考えられている。<br> 山城国風土記(逸文)の「桂里」でも、「月読尊」が天照大神の勅を受けて、豊葦原の中国に下り、保食神のもとに至ったとき、湯津桂に寄って立ったという伝 説があり、そこから「桂里」という地名が起こったと伝えている。これは月と桂を結びつける古代中国の伝説から月読命が桂のもとに立ったとされたのであろ う。万葉集にも月人と桂を結びつけた歌がある。日本神話において桂と関わる神は複数おり、例えば古事記からは、天神から天若日子のもとに使わされた雉の鳴 女や、兄の鉤をなくして海神の宮に至った山幸彦が挙げられる如く、桂は神が降り立つものとされていた。<br> 万葉集<br> 万葉集の歌の中では、ツクヨミは「月読壮士」のように月を象徴する存在として詠まれている一方で、老いた人も若返るという変若水(をち水)を持つものとして詠んだ歌も存在する。(詳細は変若水の項を参照)<br> 月を擬人化した例として、他に「月人」や「ささらえ壮士」などの表現も見られる。<br> その他の文献<br> 『続日本紀』には、光仁天皇の時代に、暴風雨が吹き荒れたのでこれを卜したところ、伊勢の月読神が祟りしたという結果が出たので、荒御魂として馬を献上したとある。<br> 『皇太神宮儀式帳』では、「月讀宮一院」の祭神に、<br> 月讀命。御形ハ馬ニ乘ル男ノ形。紫ノ御衣ヲ着、金作ノ太刀ヲ佩キタマフ。<br> と記しており、記紀神話では性別に関する記述の一切無い月読命が、太刀を佩いた騎馬の男の姿とされている。<br> 逆に月を女と見た例としては、『三代実録』における、貞観七(865)年十月九日の記事や、貞観十三(871)年十月十日に出雲国の「女月神」(「めつき のかみ」、あるいは「ひめつきのかみ」)が位階を授けられている記事が挙げられる。これは月の女神を祭った神社らしい。この神は記紀万葉には登場しない が、出雲国風土記の意宇郡の条には「賣豆貴社」とあり、同一の神社と考えられる。しかし、『三代実録』には「女月神」とは別に、貞観元(859)年九月八 日に「山城国月読神」の記事があるので、ツクヨミ命とは別系統の月神であると考えられる。<br> ツクヨミの表記<br> 古事記では「月讀命」のみであるが、日本書紀第五段の本文には、「月神【一書云、月弓尊、月夜見尊、月讀尊】」と複数の表記がなされている。万葉集では、 月を指して「月讀壮士(ツクヨミヲトコ)」、「月人壮士(ツキヒトヲトコ)」「月夜見」などとも詠まれている。風土記には、出雲国風土記に「都久豆美命」 (ツクツミ=月津見?)が登場する。逸文ではあるが山城国風土記には「月讀尊」とある。<br> やや後世に成立した延喜式では、伊勢神宮に祭られている神の名として「月讀」「月夜見」の表記がなされている。<br> なお、「ツクヨミ」の上代特殊仮名遣を表記ごとにまとめると、以下のようになっている。<br> 古事記<br> 月読 ヨ乙・ミ甲<br> 日本書紀<br> 月読 ヨ乙・ミ甲<br> 月弓 ユ?・ミ甲<br> 月夜見 ヨ甲・ミ甲<br> 万葉集<br> 月読 ヨ乙・ミ甲<br> 月夜見 ヨ甲・ミ甲<br> 月余美 ヨ乙・ミ甲<br> 以上のように、記紀万葉においてツクヨミの「ミ」はいずれも甲類で一致しているが、ヨの甲乙は両方にまたがり、「ユ」の例すらある。<br> ヨ、ユ音に着目して表記例をまとめると、<br> ヨ乙 月読、月余美<br> ヨ甲 月夜見<br> ユ  月弓<br> に分かれる。<br> ツクヨミの名義<br> ツクヨミの神名については、複数の由来説が成り立つ。<br> まず、最も有力な説として、ツクヨミ=「月を読む」ことから暦と結びつける由来説がある。上代特殊仮名遣では、「暦や月齢を数える」ことを意味する「読 み」の訓字例「余美・餘美」がいずれもヨ乙類・ミ甲類で「月読」と一致していることから、ツクヨミの原義は、日月を数える「読み」から来たものと考えられ る。例えば暦=コヨミは、「日を読む」すなわち日読み=カヨミであるのに対して、ツクヨミもまた月を読むことにつながる。「読む」は、万葉集にも「月日を 読みて」「月読めば」など時間(日月)を数える意味で使われている例があり、また暦の歴史を見ると、月の満ち欠けや運行が暦の基準として用いられており、 世界的に太陰暦が太陽暦に先行して発生したのである。「一月二月」という日の数え方にもその名残があるように、月と暦は非常に関係が深い。つまり、ツクヨ ミは日月を数えることから、時の測定者、暦や時を支配する神格であろうと解釈されている。<br> 一方、日本書紀に見える「月弓」は、三日月と弓が結び付けられたものであろう。万葉集の歌には、上弦や下弦の弦月を指して「白真弓」と表現した歌があり(巻十・二〇五一)、「月弓尊」の表記は、このような発想から呼ばれた異名と考えられる。<br> その他にも、海神のワタツミ、山神のヤマツミと同じく、「月夜のミ」(ミは神霊のミ)、あるいは「月夜のミ」から「夜の月の神」とする説がある。<br> このようにはっきりと甲乙の異なる「ヨ」や、発音の異なる「ユ」の表記が並行して用いられていること、そして記紀万葉のみならず延喜式などやや後世の文献 でも数通りの呼称があり、表記がどれかに収束することなく、ヨの甲乙が異なる「月読」と「月夜見」表記が並行して用いられていることから、ツクヨミの神格 は一義的に決定できるようなものではないことは明らかである。ツクヨミの管掌についても、古事記や日本書紀の神話において、日神たるアマテラスは「天」あ るいは「高天原」を支配することでほぼ「天上」に統一されているのに対し、月神の支配領域は、日本書紀に「日に配べて天上」を支配する話がある一方で、 「夜の食国」や「滄海原の潮の八百重」の支配を命じられている話もある。支配領域の不安定ぶりも、ツクヨミの神格は複数の観念が統合された、不安定かつ多 様なものであることを意味している。<br> 万葉集におけるツクヨミを詠んだ歌<br> 巻四・六七〇 月讀の 光に来ませ 足疾(あしひき)の 山寸(やまき)隔(へ)なりて 遠からなくに<br> 巻四・六七一 月讀の光は清く 照らせれど 惑へるこころ 思ひあへなくに<br> 巻六・九八五 天に座す 月讀壮子 幣(まひ)はせむ 今夜の長さ 五百夜継ぎこそ<br> 巻七・一〇七五 海原の 道遠みかも 月讀の 明(ひかり)少なき 夜は更けにつつ<br> 巻七・一三七二 み空ゆく 月讀壮士 夕去らず 目には見れども 因るよしもなし<br> 巻十三・三二四五 天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月夜見の 持てる越水(をちみづ) い取り来て 公(きみ)に奉りて をち得てしかも<br> 巻十五・三五九九 月余美の 光を清み 神嶋の 磯海の浦ゆ 船出すわれは<br> 巻十五・三六二二 月余美の 光を清み 夕凪に 水手(かこ)の声呼び 浦海漕ぐかも<br> ツクヨミを祭神とする神社<br> ツクヨミを祭神とする神社には2つの系統がある。1つはアマテラスの弟神としてツクヨミを祀るもので、その代表例が伊勢神宮内宮別宮の月読神社・月読荒魂神社である。また、外宮別宮にも月夜見宮がある。<br>  <br> もう1つの系統は、本来はツクヨミとは関係のない月の神を祀っていたものが、後に神話に登場するツクヨミに習合した神社である。代表例は出羽三山の一社の 月山神社(山形県東田川郡庄内町)である。全国にある月山神社の多くは、出羽三山の月山神社から勧請を受けたものである。また、壱岐市の月読神社もツクヨ ミとは別の(さらに出羽三山とも別の)月の神を祀っていた神社と考えられている。松尾大社(京都府京都市西京区)摂社の月読神社は壱岐の月読神社から勧請 を受けたものである。

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