368karasu @Wiki 泉涌寺 (せんにゅうじ)


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泉涌寺 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内(やまのうち)町にある真言宗泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は 釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊?(がちりんだいししゅんじょう)で ある。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓 があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。

起源と歴史
 仁和寺、大覚寺などとともに皇室ゆかりの寺院として知られるが、草創の時期や事情についてはあまり明らかではない。伝承によれば、斉衡3年(856 年)、藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣(おつぐ)が、自らの山荘に神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという。なお、 『続日本後紀』によれば藤原緒嗣は承和10年(843年)に没しているので、上述の伝承を信じるとすれば、藤原緒嗣の遺志に基づき、菩提寺として建立され たということになる。
 別の伝承は開創者を空海とする。すなわち、空海が天長年間(824−834年)、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年(855年)藤原緒嗣に よって再興され、仙遊寺と改めたとするものである。空海による草創年代を大同2年(807年)とする伝承もあり、この寺院が後の今熊野観音寺(泉涌寺境内 にあり、西国三十三箇所観音霊場の第15番札所)となったともいう。以上の伝承を総合すると、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後期には荒廃し ていたのを、鎌倉時代に再興したものと思われる。鎌倉時代の建保6年(1218)、宇都宮信房が、荒廃していた仙遊寺を俊?(しゅんじょう)に寄進、俊? は多くの人々の寄付を得てこの地に大伽藍を造営し、霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたという(旧寺号の「仙遊寺」と音が通ずる点に注意)。宇都宮信房 は源頼朝の家臣で、豊前国守護に任じられた人物であり、俊?に帰依していた。俊?(1166−1227)は肥後国(熊本県)出身の学僧で、正治元年 (1199年)宋に渡り、足かけ13年の滞在で天台と律を学び、建暦元年(1211年)日本へ帰国した。彼は宋から多くの文物をもたらし、泉涌寺の伽藍は すべて宋風につくられた。
 泉涌寺は律を中心として天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えた。貞応3年(1224年)には後堀 河天皇により皇室の祈願寺と定められた。後堀河天皇と次代の四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれ、この頃から皇室との結びつきが強まった。江戸時代には後水 尾天皇以下、幕末の孝明天皇に至る歴代天皇が山内に葬られている。このため、皇室の香華院(こうげいん)となり、「御寺(みてら)」と尊称されている。 (「香華院」とは、香をたき、花を供える場所、すなわち、先祖が眠る寺の意。)

 明治天皇別人説は重要なテーマです。泉涌寺をご存じですか。
 泉涌寺 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内(やまのうち)町にある真言宗泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は 釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊?(がちりんだいししゅんじょう)で ある。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓 があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。
 明治天皇はすぐに、いわゆる廃仏毀釈をだし、以後、神道を復活して、泉涌寺は不要になりました。(国家神道成立)(一般に「廃仏毀釈」と言えば、日本に おいて明治維新後に成立した新政府が1868年(明治元)3月に発した太政官布告神仏分離令、1870年(明治3)の大教宣布など神道国教・祭礼一致の政 策によって引き起こされた仏教施設の破壊など指す。)
 明治天皇より、北朝より南朝に代わったと理解することも可能です。明示維新は南朝革命ともいわれる所以です。 このときに、水戸家は中川宮(後に、くに のみや)そして、香淳皇后(こうじゅんこうごう、名:良子(ながこ)、旧名:久邇宮 良子女王(くにのみや ながこじょおう)。1903年(明治36年)3月6日 - 2000年(平成12年)6月16日)は、昭和天皇の皇后で、第125代天皇明仁の母。父は久邇宮邦彦(くによし)王、母は薩摩藩十二代・公爵 島津忠義の七女・俔子(ちかこ)。 久邇宮初代・朝彦親王の孫娘にあたる。初の皇族首相・東久邇宮稔彦王は叔父。)に繋がります。島津家には適当な玉がなく、毛利家に大室某がいたというわけ です。突然、神道中心主義になったわけではなく、水戸学は南朝学=神道といっても良い内容です。国学もしかりで后
 ですから、会津藩は勤王でしたが、北朝天皇側だったのかもしれません。伊達、南部は南朝側ですので、奥羽列藩同盟はすぐに瓦解したのも理解できるのではありませんか。


鹿島氏は、孝明天皇逝去に対して次のような見解を述べている。

 「1866年12月25日孝明天皇暗殺はまぎれもない事実であり、北朝という一つの王朝の消滅であった」。「孝明天皇弑殺は12月24日深夜というが本 当は25日の早朝であった。暗殺の立会人となる人物は中山と岩倉の関係者となる。将軍家茂が慶喜と慶永によって毒殺されたあと、孝明天皇は妾の堀川紀子の 屋敷の便所で、床下にかくれていた長州の下忍伊藤博聞の忍者刀によって高貴なるお尻をえぐって殺され、その子の睦仁は御所に潜入した長州忍者の猿廻の猿に よって手を傷つけられ、岩倉が買収した医者がその手に毒を塗って暗殺した。今やこのことを知る国民は一人もいない] (堀川紀子は岩倉具視の妹である)
 「南朝滅亡ののちに長州に潜んで南朝の光良親王の子孫と稱する大室 寅之佑が西郷に伴われて薩摩邸に入り、岩倉と中山忠能の助けを 借りて睦仁とすり代わってついに南朝の天皇家が復活した」。
 「中山や岩倉は天皇の遺体を洗い清めて食中毒という事にして睦仁に見せたから、睦仁も一応は納得しト慶応3年1月9日に踐祚せんそした。先帝には同年2 月16日、正式に孝明天皇の謚(おくりな)が贈られたが、睦仁は宮中の慣習によって女装して女言葉を話すなど、16歳にしては体格も悪くて華奢な少年で、 かって岩倉のオチゴさんであった孝明の血統を引く天皇であった」。

 孝明天皇暗殺の背景事情について次のように記述している。
 基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。 (英・仏と言った欧米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり切っている。つまり、天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した 事になり、開国倒幕派(薩長)にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。
 明治42年には伊藤博文が暗殺されたが、その翌年には南北朝いずれが正系かという史論が生じたときに、明治天皇は自ら乗り出して南朝正系論を正しいとした。しからば、孝明天皇までの北朝は偽朝であったということになる。 (p.21
 昭和4年2月に、かつて宮内大臣として権勢を振った田中光顕が、「実は明治天皇は孝明天皇の子ではない。後醍醐天皇の第11番目の皇子ミツナガ親王の子 孫で、長州萩で毛利氏が守護してきた。薩長連合には、この南朝の末孫を天皇にするといとう密約があった」と述べている。(p.22)
【松浦家側から見た明治天皇】
 後の明治天皇となる祐宮(睦仁親王)は、大納言中山忠能卿と松浦家第34代松浦清山(1760ー1841)の第八女愛子との間に出来た慶子を母としてい る。「平戸の藩主家出身の松浦愛子と中山忠能との間に誕生した中山慶子が明治天皇の御生母」ということになる。『甲子夜話』の著者・平戸藩主松浦静山は母 方の祖父、祖母は松平定信の娘である。そういう縁戚関係で、外祖父に当る大納言中山忠能卿が松浦家第35代松浦煕(ヒロム)(乾 斎)公(1791- 1867)に宛てた添翰が遺されている。その中で、祐宮(後の明治天皇)の御誕生等について詳しく記されている。それによれば、 娘典侍慶子(ヨシコ)が皇子を懐妊し、9.22日、中山家の産所において若宮降誕とある。
「松浦詮伯伝」の中に、次のような記述がある。
 明治10(1877)年1月5日、天皇及び皇后両陛下の御真影を拝戴す。21日、宗族規約を設け、始祖源融(トオル)公神影の前に於て、誓約書に連署 す。署名人は正四位松浦詮、その長子従五位厚、次子従五位靖(ハ力ル)、分家従五位豊及び従五位渡辺章綱の5名でこれに詮の家令・家扶(何れも正四位)、 靖の家令(従五位)、渡辺章綱の家扶(従五位)の4名が副著している。これは、「実質的に渡辺章綱だけを拘束する規約」となつている。何故この時期にそれ が必要であったのか。実は、渡辺章綱(後に子爵)は、鹿島氏の著書によれば、泉州伯太一万三千石の藩主であり、役職は大坂城の定番であつた。徳川慶喜の命 を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べ、それが岩倉と伊藤であることを知り、後年設立した長崎の青年学校でこの事実を広言したため、伊藤の仕向けた刺客に襲わ れ、1894年、死亡している。実は、逃れて1911年まで生きたという数奇な運命の持主である。
 「私の考えでは、松浦家は維新の舞台裏を知つた上で、内乱等の不穏な動きに対処するため、宗族規約という名目で、渡辺章綱の言動を牽制することを図つたのではないだろうか。その背景には他よりの圧力もあつたかも知れない」。
 これにつき、作曲家の宮崎鉄雄氏による次のような決定的な証言が為されている。
 宮崎鉄雄氏の父は、渡辺平左衡門章綱といって、幕末、伯太(はかた)藩1万3千石の小名として大阪城定番を勤めていた。渡辺 家は、もともと嵯峨天皇の末蕎であり、宮崎鉄雄氏はその渡辺平左衛門の子供として15五歳まで育てられ、のち、宮崎家の養子に出されている。平左衛門は、 徳川慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べていたが、それが岩倉具視と伊藤博文であったことをつきとめた。しかし、そのために伊藤博文から命を狙われ る羽目になり、実際、長州人の刺客に稲佐橋の付近で襲われて重傷を負った。

 1997.7月、宮崎鉄雄氏(当時97歳)が、鹿島氏に次のような平左衛門の遺言を語った。
 「父が語ったところでは、伊藤博文が堀河邸の中二階の厠(かわや)に忍び込み、手洗いに立った孝明天皇を床下から刀で刺したそうです。そして、そのあと 邸前の小川の水で血刀と血みどろの腕をていねいに洗って去ったということでした」。
 さらに、宮崎氏の話では、伊藤博文が忍び込むに際しては、あらかじめ岩倉具視が厠の番人を買収しておいたという。だとすれば、岩倉具視が伊藤博文を手引 きしたことになる。それまでずっとこの証言を世に出すかどうか迷っていたそうだが、鹿島?の著書を読んで公表する決心をした。「日本の歴史家に鹿島氏のよ うな勇気があれば、日本史がウソ八百で固められることもなかったろう」と、宮崎氏はその著書の中で語っている。
 幕末、藩主の命を受けて情報活動を行つた平戸藩士に籠手田(コテダ)安定(1840-1900)なる人がいる。1867年京に上り国事を偵察し、薩摩の 五代、長州の伊藤の知遇を受けた。後に滋賀県令・貴族院議員となり、天皇の寵を辱くし、平戸藩士中ただ一人華族(男爵)に列せられたこの人こそ、明治天皇 の出自を確実に知つていたといえるだろう。
 平戸島にはその北端に田助港というところがあり、幕末各藩の志士をのせた船舶が寄港し、多々良孝平という篤志家のところに、西郷吉之助(隆盛)、桂小五 郎(木戸孝允)、山県狂介(有朋)、大隈八太郎(重信)等が屡々来て国事を談じたとのことである。その意味で平戸は、吉田松陰遊学のことと併せ、明治維新 にゆかりのある地である。
 
【鹿島説の吉田松陰論】
 吉田松陰の歴史観は次のようなものてせあったと考えられる。1、日本は神国であり、皇祖・天照大神(ああてらすおおみかみ)の神勅を奉じ、「三種の神 器」を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきた国である。2、日本国民は古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え、国運の発展に努めてきた。3、その皇 統は、南北朝時代に北朝と南朝に分かれ、足利将軍家の押す北朝が代々を世襲することになった。4、皇統は、後醍醐天皇の南朝が正系であり、北朝天皇が天皇 の座にあるのはおかしい。5、孝明天皇の公武合体政策、日和見攘夷政策は北朝系譜の不正に起因している。今こそ偽朝である京都北朝の天皇を廃して、正系た る南朝の天皇を再興しなければならない。南朝革命を起こさねばならない。
 吉田松陰も水戸学の藤田東湖(とうこ)も上述の観点に立って南朝尊皇且つ攘夷を主張した。但し、同じ南朝革命論としての尊皇攘夷ではあるが、吉田松陰と 藤田東湖ではその内容が異なる。吉田松陰が再興すべしとしている南朝は、歴代にわたって長州が匿ってきた大室天皇家であった。それに対して、藤田東湖が再 興すべしとした南朝は、歴代にわたって水戸藩が匿ってきた熊沢天皇家であった。それぞれが、みずからが握る「玉」を担いで南朝革命を成立させようとしてい たことになる。
 吉田松陰は、更に民族主義の見地を色濃くしていた。次のように述べている。「富国強兵し、蝦夷(北海道)をたがやし満州を奪い、朝鮮に来り、南地(台 湾)を併せ、然るのち米(アメリカ)を拉き(くだき)(両手で持って折り)欧(ヨーロッパ)を折らば事克たざるにはなからん」。それは、アジアの大国であ るインドや中国までもが実質的に欧米の植民地にされてしまうという情況に対する松陰なりのアンチテーゼであった。

大室寅之祐は何者かというと、後醍醐天皇の末裔の光良(みつなが)親王の子孫 で、長州に匿われていたという。当時、南朝の正系の良泰(ながやす)親王の子孫は熊沢天皇 家として水戸藩に、美良(よしなが)親王の子孫は三浦天皇家として尾張藩に、そして長州では 大室天皇家としていずれも貧窮のうちに棲息していた。このような天皇家のスペアーは、何事 にも用意周到な徳川家にもあり、日光東照宮の宮司がそれで代々天皇家の血筋である。
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