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聖心女子大学、香淳皇后、美智子皇后

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聖心女子大学、香淳皇后、美智子皇后

麻布にあった久邇宮邸の敷地は、現在は聖心女子大学のキャンパスとなっており、御常御殿(日常の居所)は久邇パレスと呼ばれ現存している。久邇宮邸は香淳皇后の生家であり、聖心女子大学は今上天皇后である美智子皇后の出身校である、奇しくも二代にわたり皇后と縁のある地となっている。

美智子様と小泉信三氏

小泉信三氏は昭和八年から二十二年まで慶大塾長、および総長を兼任、経済学者として終始マルクス経済学批判の立場から『マルクス死後五十年』『共産主義批判の常識』など多くの著作を残し、大きな社会的影響力を持った。その彼が戦後になってあらゆる要職を絶って専念したのが東宮御教育係である。昭和四十一年彼が急逝した時に、港区麻布の小泉邸においでになった皇太子、皇太子妃両殿下の沈痛な面持ちが、教育係としていかに細かい心遣いや努力を、小泉が続けていたかを雄弁に物語っている。学者、思想家、教育者、そして愛国者として小泉を語る時、誰もがその“信念ある良識”を指摘した。「よきスポーツマンは“あくまで戦う人、潔く敗れる人”である、といわれるが、相手を尊敬することは、即ち己を尊敬することであることを思い、何処までも規則を重んじて善く戦い、潔く敗れることがフェアプレイである」。小泉自身が記すフェアプレイの精神だ。デンと構えた墓は、彼の一生を表現するのにふさわしい。(にわか神道墓に似ています。)平成天皇家生みの親。

小泉信三、慶応、小泉純一郎

5月10日 小泉信三(1888~1966)経済学者
小泉信吉の長男として東京で生まれました。小泉信吉は福沢諭吉を助けて慶応義塾を立派な学校にし、その塾長もつとめましたが、彼が6歳のときに亡くなり、福沢諭吉は、この親友の忘れ形見である彼を特に大切にしました。
その後、彼は、慶応幼稚舎、普通部を経て慶應義塾を卒業して海外に留学し、ドイツのベルリン大学やイギリスのケンブリッジ大学で経済学、社会学を勉強しました。帰国して慶應義塾大学教授になり、経済学者として多くの本を書きましたが、昭和のはじめに書いた「経済原論」は名著と言われています。
1933年(昭和8年)に慶応義塾の塾長に選ばれました、終戦後の1947年にしりぞいた後、東宮御所教育参与として皇太子明仁親王(現天皇)の教育にあたりました。
 皇太子の家庭教師であったヴァイニング夫人と共に、陛下の少年時代の人間形成に良き影響を与えたといわれています。又、皇太子と美智子妃とのご結婚に際しても、皇太子のよきアドバイザーとして尽力されたといわれています。
 その一生は師の福沢諭吉のように、一貫して教育者の立場にありました。1959年に文化勲章を受章しています。

主な著書
『海軍主計大尉小泉信吉』(文藝春秋)
『ペンは剣よりも強し』(恒文社)
『福沢諭吉』(岩波書店)
『マルクス死後五十年』(泉文堂)
『近代経済思想史』(慶應義塾大学出版会)
『わが文芸談』(講談社)学徒出陣

ヴァイニング夫人
1902年10月6日、米ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。ブリンマー大、ドレクセル大学院卒。46年10月から50年12月まで日本に滞在し、当時皇太子だった天皇陛下の家庭教師を務めたほか、学習院でも英語を教えました。50年11月に勲三等宝冠章を受章。帰国後に「日本での四カ年」(51年)「皇太子の窓」(52年)「天皇と私」(70年)を執筆。「皇太子の窓」は各国語に翻訳され反響を呼びましだ。多くの児童文学や伝記を著し「旅の子アダム」(42年)で児童文学のニューベリー賞、「サンディ」(45年)でヘラルド・トリビューン賞を受賞。文学・教育学博士。国際基督教大などから名誉博士号も受けました。

義塾からの出陣学徒は、二千八百六十三人。その多くは幹部候補生として陸海軍へ入っていった。十月二十一日、雨の神宮で行われた出陣学徒壮行大会はあまりに有名だが、義塾ではこの二日後に三田で壮行会を開催。三千余名の塾生が三田山上で塾歌、応援歌を熱唱し、隊列を組んで福澤諭吉の墓を詣でて、戦勝を誓った。
ときの塾長小泉信三は、出陣学徒に対し次のように激励している。「今、別れに臨んで、特に新たに言ふべき事は何もない。私は諸君を知っているつもりである。諸君も亦た私の言はんと欲することを知ってゐるであらう。たゞ言ふ。『征け、諸君。君国のために。父母の墳墓の地を護らん為めに』」(『三田新聞』祝塾生諸君出陣特集号)。
学徒動員を受けて「教育界は之により極めて大なる影響を蒙ることゝなれり」と落胆した小泉塾長にとって、勇ましいこの言葉はむしろ悲痛な響きをはらんでいた。

奇しくも、慶応出身の小泉首相も皇太子御一家の守り神。小泉が重要、
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