368karasu @Wiki 本来仏教に神はいない


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本来仏教に神はいない

仏(ぶつ)
梵語ブッダの音写。悟れる者、目覚めたる者、完全な人格者、絶対の真理を悟った人。究極の覚者。

 仏教を考える場合、釈尊の教えとそれを継承していった教団のレベルと、土着信仰を取り込んだ民衆レベルを混同しないで、それぞれについて議論する必要がある。
釈尊の場合は神の否定者であり、ヴェーダンタの宗教を否定・捨てた人である。日本の浄土真宗の親鸞でさえ阿弥陀仏を非神話化し最晩年の手紙で「阿弥陀仏と いうのは自然(じねん)ということを知らせようとする手立て(手段)である」と教え、崇拝する対象も具体性の強い「阿弥陀仏の姿・画像」ではなく、抽象的 な・観念的な「南無阿弥陀仏という文字」を専らにしている。更に、日本の神を拝むことを禁止し、和讃で、俗人が「鬼・神」を崇めるのを嘆いている。このた め、浄土真宗では神棚を祭らないのが常識である。また同じく真宗の曽我量深は「阿弥陀仏が存在するから信仰するのではなく、わたしが信仰するので阿弥陀仏 が存在する」、金子大栄師は「浄土は観念である」と教えている。これは阿弥陀仏や極楽浄土を実在するもの、実体と考え信仰する事を否定しており、これも無 神論の流れを受けている。 この事が成立するのは仏教が縁起の道理、空、無我の上に成り立っているからである。このレベルでは、ブッダ(仏)と所謂神は別のものであり、神は否定的存 在である。
 しかし、しかし釈尊の仏教からかけ離れた「土着信仰を取り込んだ民衆レベル」になると、阿弥陀仏も極楽浄土も実在するものとして信仰されており、元来の仏教が土着信仰の中に飲み込まれて変質している。
同様に、日本では葬式仏教などと仏教が批判されているが、これは民衆レベルでは実態が土着の先祖霊崇拝(霊魂不滅を前提)になりきっているためである。仏教では、死後も残ると考えられていたアートマンのようなものを否定する立場なので、これは大きな逸脱である。
そもそも、ブッダ(仏)は「真理に目覚めた人」で人間であり、実際、釈尊は最後は食中毒で亡くなられている。この釈尊は、自己・魂(アートマン)が死後も 残るのかの議論に対し、回答をしないという態度をとり、アートマンが残り輪廻するというヴェーダンタの宗教を拒否している。 しかし仏教教団は、その当時のインド人が誰もが信じていた「輪廻」という世界観を受け入れなければならず、バラモン教側からの批判「輪廻する主体はアート マンではないのか」という難問が生じたが、最後までアートマンという実体を認めず、代わりに、業(カルマ:行為の影響力)が輪廻するのだと答えている。
なお、原始仏典に、釈尊が悟った後「悟りは微妙であり、欲に縛られた俗人には理解できない。布教は無駄である。」として沈黙していたので、神(デーバ)の 一人梵天(ブラフマン)が心配してやって来て「俗人にもいろいろな人がいるので、悟った真理を布教するよう」に勧め、釈尊がそれに従ったという物語(有名 な「梵天の勧請」の神話)などが残っているが、それは釈尊の心の中の迷いを示すものであり、当時の心理描写の文学的な手法である。
一方、土着信仰の民衆レベルでは、仏も神々の一種でしかなく、更に死者までも「仏さん」と言われるようになっている。この場合、単にお願いをする対象でしかなく、「教えを学び、悟る・覚醒する」という対象にはならない。例えば元朝参りとして川崎大師にお参りする場合など。
また、ベーダンタ系の宗教でも、いわゆる「神々」に対する説明がある。七つの身体論によると第四身体に意識的に到達した人物が肉体を離れると、その空間 (メンタル界)に意識的に留まることができ好きなだけ留まることができる。肉体を持たずにこの世界にやって来たり、影響を与えることができる。これが、い わゆる神々であったり、いわゆる神のように振舞うことが出来る。
一般に、仏教では、解脱には無用なので、神の存在を扱わないが、ゴータマ・ブッダの対話に以下の例がある。
『朝、ある人が来て仏陀に質問した。「神は存在しますか?」。仏陀は「存在しない」と答えた。
昼に、別の人が来て仏陀に質問した。「神は存在しますか?」。仏陀は「存在する」と答えた。
夜になって、また別の人が来て仏陀に質問した。「神は存在しますか?」。仏陀は目を閉じた。質問した人物も目を閉じて座っていた。そこに長い沈黙があり、しばらくして質問者は涙を流しながら、「ありがとうございました」と言って帰って行った。
深夜になって、アーナンダは仏陀に質問した。アーナンダは仏陀のいとこでいつでも仏陀の側にいて世話をしていた。「朝、昼、夜のあなたの答えは私を混乱させます。どうか説明して下さい」
仏陀は答えて言った。「まず第一にそれはあなたに対して答えられたものではない。あなたはそれを自分への言葉として受け取るべきではなかった。
「朝来た人物は有神論者だった。私が神が存在すると言ったら、それは彼の信じ込みを強めるだけだった。」
「昼来た人物は無神論者だった。私が神は存在しないと言ったら、それも彼の信じ込みを強めて、真理への到達の邪魔をするだけだった」
「夜来た人物は、信じ込むタイプの人物ではなく、真実を知る準備が出来ていた。私は真実を示し、彼はそれを受け取って帰って行った。アーナンダよ、真実は語ることは出来ない。私は道を指し示すことができるだけだ」』
ゴータマ・ブッダが光明を得た後、沈黙していたので神々がやって来て彼に光明を和かち合うことを勧めたのは、このような存在だと言われる。神々も光明を得 るためには、肉体に入る必要があり、人間としてもう一度生まれる必要があるとされる。人間の肉体にいる間に第五身体以上に到達する必要がある。


松平實胤の「やすらぎ説法」(22)八百万の神様たち
犬山市 寂光院住職  

さて、神と仰ぐ人がお一人しかいない一神教徒にとって、日本人のようにありがたそうなものには何にでも頭を下げる「お参りのはし ご」は、不思議な光景に見えるであろう。 さらに言えば、お正月の神社仏閣への初詣で風景、バレンタインデーのチョコレート騒ぎ、お彼岸やお盆のお寺参り やお墓参り、七五三にクリスマス、そして除夜の鐘。これらは日本人にとって全部恒例の年中行事として抵抗なくかかわることができる。しかし、外国人にはい かにも奇妙に見えるのではなかろうか。
 実は、日本人は多神教徒なのである。いや、東洋を発祥の地とする宗教は、みな間違いなく多神教である。とにかく緑豊かで、 気候温暖な所でできた宗教は、自然が恵みを授けてくださる天地自然のおかげで、生かされて生きているという観念が強い。天地自然、森羅万象の一つ一つがす べて神なのである。インドの神々は無数にあるといっていいし、古代中国では、得意の時は儒教に依り、失意の時は道教に頼り、晩年は仏教に親しむ」と言われ ていたとか。当時の中国人も、三つの宗教を渡り歩くのになんの抵抗もなかったようである。

日本はもともと神道の国である。海には海の神、山には山の神、大地には大地の神。とにかく森羅万象すべてに神が宿る。すなわち神 道は、八百万(やおよろず)の神々を戴く多神教なのである。多神教ならばこそ、異国の宗教である仏教に庇(ひさし)を貸し、キリスト教にも庇を貸すことが できた。とにかく多神教徒は寛容なのである。「庇を貸して母屋を取られた」と言う人もいるが、これは正確ではない。日本人は、もともと無意識のうちに神道 徒なのである。 その神道徒が仏教徒になった。あるいは同時に仏教徒であるということである。神棚と仏壇の共存は決して珍しい光景ではない。実際、神道と仏教は対立するこ となくうまく共存してきた。神道は、「すべてに神が宿る」と考えた。一方、仏教は、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)生きとし生け るものはすべて仏になる可能性がある」。つまり「すべてに仏宿る」と説いている。さらに、草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)「草も木 も土も岩も国土全体までもが成仏する。すべてが仏である」とも説いている。仏教では天地自然、この宇宙は「仏の集合体」、すなわち「曼荼羅(マンダラ)」 と考えるのである。日本人が対立よりは寛容を好み、排除よりは包容を好むのは、多神教徒なるがゆえと言っていい。日本人の「あいまい性」もこのあたりに由 来するのではなかろうか。とにかく日本人が日本人である証拠は、ひょっとすると神と仏の区別のつかないところかもしれないし、宗教の相違にあまりこだわら ないところかもしれない。だからといって、それを無宗教と言うべきではない。これこそが日本人の宗教であり、日本人のよさなのである。有名な西行法師は、 天下の伊勢神宮に詣でて、失礼にも天照大神の神前で、こんな歌を詠んでいる。何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる「どなた様がお祀り されているのかは知らないが、とにかくありがたくて涙がこぼれる」というのだ。西行法師ですら、御神体が何様だかわからないが、とにかくありがたいものに すべて頭を下げているのである。だとしたら、神と仏の区別がつかない人々も「神も仏もあるものか」と息巻いている御仁も、典型的な日本人と言ってよいので はなかろうか。もっと穏やかに表現するなら、神も仏も何でもあり。これが日本人の宗教と言ってもいいのではないか。とにかく異文化理解は大切である。文化 の根源は宗教であるから、異宗教理解は特に大切である。これこそが国際化の第一歩であり、国際平和実現の第一歩であろう。今、世界各地で宗教の名のもとに 行われている争いを見るにつけ悲しい思いがつのるのである。


第1回 仏とは
 そもそも仏とは何のことなのであろう。
 まずそこから、明らかにしていきたい。
「けさ、祖父が仏になりました」
「仏さまに、手を合わせてやってください」
 こう言えば、その日の朝に人が死んだ、ということであるし、死んだ人に手を合わせてください、という意味であることは誰でも分かる。
 まさか、祖父が仏像になった、とは思わない。
 このように、今日、仏といえば死んだ人のことを指すことになっているが、本来の仏教に、そんな意味があるのだろうか。
 結論から先にいえば、全くないのだ。
 仏とえば死んだ人のこと、死人の後始末をするものが仏教だと、現代のほとんどの人がそう思っているから、仏教に対する一般的なイメージは、じめじめとした、暗い、老人臭い、または抹香臭いものになっている。
 少なくとも、若者が聞くものというイメージはない。
 しかし2600年前、インドでは、お釈迦様の弟子はみな若者であった。
 日本では親鸞聖人が、わずか9歳にして出家している。
 それもそのはず、仏教とは生きている人に用事があるもので、死んだ人には関係がない教えであるからだ。
 こう言うと意外な感じがするかもしれないが、実際に釈迦の教えを聞いてみよう。
 あるときお釈迦様に、質問した人がいた。
「長いお経を読んでもらったら、死んだ者が極楽へ行って仏さまになれる、と言う人がいるのですが、本当でしょうか」
 するとお釈迦様は小石を手にとって池の中に投げ込んだ。
「この池の周りを、石よ浮かび上がれ、石よ浮かび上がれ、と言いながら回ったら、あの石が浮かんでくると思うか」
「そんなことで、石が浮かぶはずがありません」
「そうだろう。石は石の重さで沈んでいったのだ。どんなに浮かび上がれと言ったところで、浮かぶものではない」
 あっさりと否定されている。
 それなのに死んだ人のことを仏だと言うのは、全く仏教に対する無知からくるものである。
 仏とは、大宇宙最高のさとりを指した言葉なのだ。
 一口にさとりといっても、下から上まで、じつに52ある。これを、さとりの52位という。
 山を高くのぼるほど眺めがよくなってくるように、この位を一段一段のぼっていくにつれて大宇宙の真理が分かってくる。
 てっぺんまでのぼれば、みな分かる。
 ではそこまで到達するにはどれくらいかかるのかというと、三大阿僧祇劫の間断なき修練が必要だという。
  阿僧祇というのは億や兆とは比べものにならない高い桁で、劫とは4億3千2百万年のことであるから気の遠くなるどころでない時間である。41段目に至るま でに第一阿僧祇劫、41段目から47段目までに第二阿僧祇劫、47段目から50段目に到るまでに第三阿僧祇劫を経て51段、52段となるという。
 その、さとりの52位の頂上の位を、仏というのである。
 そこまで登りつめた人は、今日まで、お釈迦様以外にない。
 また41段までいった人は古往今来、龍樹と無著の二人だけである。中国の南嶽慧思禅師が10段目、天台大師は臨終に弟子の智朗が「師はいずれの位に居る や」と尋ねたのに対して「我れ衆を領せずば必ず六根清浄の位に至らん。されど、利他の為に己を損して只、五品弟子位あるのみ」といって、9段目までしかさ とれなかったと自ら告白して死んでいるのであるから、いかに仏のさとりが高遠であるか分かるであろう。
 同時に今日、私は仏のさとりをひらいたと言っている教祖たちが、いかにあわれであるかが分かる。
 数あるさとりの中でも最高の、仏というさとりをひらいたお釈迦様が、私たちに最も大事なことを教えていったものが、仏の説かれた教え、つまり仏教なのである。
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