368karasu @Wiki 稲荷神


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稲荷

1989年(昭和64年)1月7日 - 昭和天皇死去(「崩御」)、今上天皇の即位

阪神淡路大震災(平成7年1月17日発生)ですが、長田には長田神社摂社に
楠宮稲荷社はあります、7117は、ない稲荷と読めますので、稲荷神の御神力
が弱っています。6の平方根の2.4494897西をよくしばくなの始まりでした。
1995年より中京の時代で、2005年の愛.地球博につながります。

稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)は、日本の神。稲荷大明神(いなりだいみょうじん)ともいい、お稲荷様・お稲荷さんの名で親しまれる。稲荷神は、宇迦 之御魂神(うかのみたま。倉稲魂命とも書く)などの穀物の神の尊称であり、宇迦之御魂神の他、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都 比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)などとされている。稲荷神は本来は穀物・農業の神であるが、広く産業全般の神とし て信仰されている。稲荷神を祀る神社を稲荷神社という。日本にある稲荷神社は3万社とも4万社とも言われており、屋敷神として企業のビルの屋上や工場の敷 地内などに祀られているものまで入れると稲荷神を祀る社は無数と言って良いほどの数になる。江戸に多い物を表す「伊勢屋稲荷に犬の糞」という諺があるほど である。

伏見稲荷大社(楼門正面から)
 全国の稲荷神社の総本社は、京都市伏見区の稲荷山の西麓にある伏見稲荷大社である。元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神であった。『山城国風土記』逸文に は、伊奈利社(稲荷社)の縁起として次のような話がある。秦氏の祖先である伊呂具の秦公(いろぐのはたのきみ)は、富裕に驕って餅を的にした。するとその 餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去った。そこに稲が生ったので(伊弥奈利生ひき)、それが神名となった。伊呂具の秦公はその稲の元へ行き、過去の誤ちを悔い て、そこの木を根ごと抜いて屋敷に植え、それを祀ったという。また、秦氏の氏神の稲荷神の他に荷田氏(荷田春満はその末裔である)も稲荷神を氏神としてい た。秦氏の稲荷神は稲を持った老人の姿を、荷田氏の稲荷神は女性の姿をしているとされた。稲荷山にはそれぞれの氏が稲荷神を祀る社を建てていたが、近世に なって1つの社に統合された。稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり、稲束をかついだ翁の姿をしているとされることから「稲荷」の字が宛てられた。 都が平安京に遷都されると、元々この地を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、それにより稲荷神が広く信仰されるようになった。さらに、東寺建造の際に 秦氏が稲荷山から木材を提供したことで、稲荷神は東寺の守護神とされるようになった。『二十二社本縁』では空海が稲荷神と直接交渉して守護神になっても らったと書かれている。東寺では、真言密教における荼枳尼天(だきにてん)に稲荷神を習合させ、真言宗が全国に布教されるとともに稲荷信仰が全国に広まる こととなった。
 稲の神であることから食物神の宇迦之御魂神と同一視され、後に他の食物神も習合した。中世以降、工業・商業が盛んになってくると、稲荷神は農業神から工 業神・商業神・屋敷神ともされるようになり、農村だけでなく町家や武家にも盛んに勧請されるようになった。明治の神仏分離の際、多くの稲荷社は宇迦之御魂 神などの神話に登場する神を祀る神社になったが、一部は荼枳尼天を本尊とする寺になった。

稲荷神と狐:伏見稲荷の狐
 宇迦之御魂神は別名「御饌津神」(みけつのかみ)と言う。狐の古名を「けつ」と言い、御饌津神を「三狐神」と解して、狐が稲荷神の使い、あるいは眷属で あるとされた。狐を稲荷神の使いとする民間信仰は、中世より始まったものである。後に、狐が稲荷神そのものであると誤解されるようにもなった。ちなみに、 御饌津神とは、神饌の神様でもある。神社など御饌殿(みけでん)の神様でもある。また、摂津国、志摩国、伊勢国は御饌津国(みけつくに)と呼ばれている。 この地方の神社には御饌殿または稲荷神社が併設されていることが多い。
 稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれる例が多い。稲荷神には狐の好物とされる油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を稲荷と称するようになった(稲荷寿司など)。

信仰
 稲荷神社では、2月の最初の午の日に「初午祭」が行われる。これは、伏見稲荷神社の祭神が降りたのが和銅4年(711年)2月の初午であったからと言われる。日本三大稲荷と呼ばれる稲荷社は、伏見稲荷大社は一定しているが、あとの2つは諸説ある。

伏見稲荷大社
■伊奈利社創祀前史
■伊奈利社ご鎮座説話
■稲荷社のあけぼの
伊奈利社創祀前史
 欽明天皇が即位(539または531)される前のことについて、『日本書紀』では次のように書かれています。
欽明天皇がまだご幼少の頃のある日のこと「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になられた時にかならずや、天下をうまく治めること ができるでしょう」という夢をみました。天皇は目覚めてから早速方々へ使者を遣わされて探し求められたところ、山背国紀伊郡深草里に秦の大津父がいたので す。
 天皇はこれを大いに喜ばれて早速彼を宮廷に呼び寄せられ、「今までに何事かなかったか」と問われたところ、彼は「別段何もありませんでしたが、伊勢のほ うへ商いに行っての帰り道、山(稲荷山南麓の大亀谷)にさしかかったところ、二匹の“おおかみ”が血を出しながら争うのを見つけましたので、馬より降り、 口をすすぎ、手を洗って『汝は貴い神であるため荒い事などを好まれるが、もし狩人が来たならばたやすくとらわれてしまうから争うのはおやめなさい』と血を ぬぐって山へはなしてやったので、その“おおかみ”は二匹とも命を全うできました」と答えました。そこで天皇は、「夢で見たとおりの人に会えたのは、おそ らく神のおかげであろう」と仰せられて、彼を厚く遇せられ、やがてにぎわいを呈するようになり、即位されると共に、彼を今でいう大蔵省の重席に任じたとあ ります。
 稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅四年(711)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊呂 巨(具)との200年たらずの脈絡についてはほとんど不明です。しかし不明であるから全く関連はないとは言えないでしょう。深草の里が早くから開拓され て、人の住むところであったことは深草弥生遺跡に見ることができます。ここへ秦氏族が住みつき、在地の小豪族として勢力を伸ばして、ついに秦大津父の輩出 となったのですが、皇極天皇2年(643)11月のこと、当時の宮廷において権勢をほしいままにしていた蘇我入鹿が、政敵である聖徳太子の御子・山背大兄 王を亡きものにせんと斑鳩に攻めた時、王の従臣たちは、深草屯倉に逃れられるようすすめたとあります。この「屯倉(みやけ)」とは、朝廷および皇族の直轄 領のことで、その運営については、在地の豪族、深草屯倉の場合は秦氏族の勢力に期待するところが大きかったのであろうと考えられています。この頃の族長は 誰であったかわかりませんが、大津父から伊呂巨(具)に至るちょうど中間に相当する時期に、深草の里に秦氏族の存在が予測できるのはたいへん興味深いこと です。
 平安時代初期に編集された数少ない書物の中に、『新撰姓氏録』という記録があります。これは弘仁5年(814)6月に奉られたもので、その当時近畿に住 んでいた氏族の姓および出自等が伝承されていた1,182氏を、皇別、神別、諸蕃に分けて31巻に編んでいます。 諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の 御代に、また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して帰化しました。その際に金銀玉帛等を献じ、仁徳天皇の御代にこの127県の秦氏を諸郡に 分置して蚕を飼育させ、絹を織らせて献上させました。天皇は、これらの絹織物は肌膚(ハダ)に温かであると詔せられ、その時に「波多公」の姓を賜ったとさ れています。降って雄略天皇の御代に、秦公酒という者が、天皇の御前に絹帛をうず高く積んで献上したので、「禹都万佐(うずまさ)」という号を賜ったとあ ります。
 以上の来歴は、実際にはあまりあてにならず、近年では、秦氏は朝鮮半島の新羅地方出身であろうと考えられています。ともかく、雄略天皇の御代には、当時 の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でていた一方、大津父が大蔵省に任官されたよ うに計数に明るかったようです。このようにして渡来あるいは帰化氏族は、秦氏に限らず、当時の先進地域であった大陸および朝鮮半島の文物をわが国にもたら し、これが後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われます。例えば、記録、出納、徴税、外交事務それから文字使用を業とするのは、もっぱらこれらの 氏族であったと考えられています。朝廷の渡来あるいは帰化氏族に対する処遇がよかったことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことであろうと されています。彼らはたいてい畿内の小豪族としての生活を認められ、それぞれの特技を生かした専門職の地位を与えられていたようです。
 大津父の時代を下った山城国における秦氏族の本拠地は右京の太秦であるとされています。たしかなことは不明ですが、深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、 太秦の秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理《はたのとり》の弟が、稲荷社を祀った秦伊呂巨(具)となっており、いわば分家と考えられていたようです。 この太秦の秦氏族は、7世紀頃、今の桂川の大堰を築堤したり、奈良期から平安期にかけて、当時外戚として勢力を伸ばしてきていた藤原氏と姻戚関係を結び、 長岡遷都やこれに引き続いて行われた平安遷都の際にも、河川の改修や都城の造営等で大いに影響を与えたとされています。また一方において、山背国における 古くからの由緒正しい豪族である賀茂県主族とも早くから姻戚関係を結んでおり、ついには賀茂県主の子孫を自称するようになるのです。言うまでもなく賀茂県 主族は天下の名社・賀茂社を奉祀していた名族で、新参の渡来氏族が彼と結びつくことによってその名をとり、一方賀茂氏族の側にあっては、そうなることに よっておそらくは当時としては近代的な文化及び経済などの実をとったのであろうと考えられています。
 こうして太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701)桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となったのです。

 稲荷大神のご鎮座に関する最も古い記録とされているのは、『山城国風土記逸文伊奈利社条』です。これにはまだ和銅4年(711)云々というご鎮座年代は 出てきていません。しかし「秦中家忌寸《はたのなかつえ いみき》等遠祖伊呂巨(具)秦公」の時代に、彼が「積二稲梁一有二冨祐一」であったところから 「用レ餅為レ的」したところ、それが「白鳥」と化して山の峰に飛んでゆき、「生レ子」んだ或いは稲が生じたので、その奇瑞によって「遂為レ社」した、そし て「其苗裔悔二先過一而抜二社之木一殖レ家祷レ命也」とあり、「為レ社」した者が「伊呂巨(具)秦公」であったことが明記されています。この伊呂巨(具) について、「稲荷社神主家大西(秦)氏系図」によると、「秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナ ル、天平神護元年8月8日卒」と記され、先にも述べた通り賀茂県主の子孫と称されています。
 ここに和銅4年という年代が出てくるのですが、この年にご鎮座になった由縁として、この頃全国的に季候不順で五穀の稔りの悪い年が続いたので、勅使を名 山大川に遣わされて祈請させられたときに神のご教示があり、山背国の稲荷山に大神を祀られたところ、五穀大いに稔り国は富み栄えた、この祭祀された日こそ が和銅4年の2月初午であった、との伝承があります。これは全くそのとおりだと言えない面もありますが、唐突にこの日が伝承されたのではなく、やはり同氏 族の間に何らかの明記すべき由縁があったものと推測されるのですが、それがどのような事象であったのか今のところはわかっていません。しかし強いて言え ば、一族の族長、すなわち祭政を一人で行うあり方の中から、大神の祭祀を専門にする職掌(先に見た系図で「稲荷明神御鎮座ノ時禰宜トナル」と記されている のがこれに当たる)が確立した時期であると考えてもよいのではないでしょうか。
 先の系図によれば、「風土記」に出てくる“秦中家忌寸”は、伊呂巨(具)から数えて九代目に相当し、「賜姓秦忌寸、禰宜、嘉祥3年3月従六位上」と記録 されています。この中家に至るまで、稲荷社祠官は代々禰宜1名でありましたが、彼の代にその弟“森主”が「祝、嘉祥3年3月従六位下」と記録され、この頃 から禰宜・祝の2員制に移行したことがわかります。いわば中家が奉仕していた時期は、中家の譜に忌寸賜姓のことが記されており、和銅4年が記憶されるべき 年であったと同様に、稲荷社にとっては重要な時期であったろうことが予測されます。またそれは、稲荷大神に初めて神階奉授がなされたことからかもしれませ ん。この神階奉授のいきさつについては淳和天皇の御代・天長4年(827)正月の詔に、「頃間御体不愈」によって「占求留爾稲荷神社乃樹伐礼留罪祟爾出太 利止申須然毛此樹波先朝乃御願寺乃塔木爾用牟我為爾止之弖東寺乃所伐奈利今成祟」(天皇の健康がすぐれないために占いを求められたところ、先朝の御願寺= 東寺の塔をつくる材木として稲荷社の樹を伐った祟りであることがわかった)、ということで、「畏天」内舎人の大中臣雄良を遣わして「従五位下乃冠授奉理治 奉(従五位下の神階が授けられた)」とあって、まさに大神の御神威が大きく顕れ、以降の勇躍を約束されるような一大展開期であったことがうかがえるので す。
 東寺(教王護国寺)五重塔延暦13年(794)に長岡京から山背へ都が遷されたとは言うものの、初めのうちはその市街地の区画整備がされている程度でし た。宮廷が完全に整ってから新京もだんだんと賑わいだしましたが、都の正面玄関に相当する羅城門の東西に建立された「東寺」「西寺」の造営さえも長くか かっていました。東寺の造営が空海(弘法大師)の手に委ねられたのは、大師が大同元年(806)に留学先の唐から帰朝してまもなくの弘仁14年(823) のことですが、この頃から伽藍構築もだんだん軌道に乗り、その工事の途中に、先に述べた稲荷大神のご神威が顕れたのでした。
 都が遷ってくるだけでも重大事であった上に、大神のお力が天下に知れわたり、それを畏って神階奉授がなされる。これはまさに一社の重大事として記憶され て当然のことです。“忌寸”の姓を賜った中家の奉仕時期は、ちょうどこの頃でした。伊呂巨(具)が「秦中家忌寸等遠祖」と称されたのと同様、中家も100 年ほど後に「秦氏祖中家云々」と良く似た表現で記録されています。天暦3年(949)頃の『年中行事秘抄』という文献には次のように書かれています。
— 稲荷神 —
 件神社立始由慥無所見
 但彼社禰宜祝等申状云此神和銅年中始顕坐
 伊奈利山三箇岑平処是秦氏祖中家等抜木殖
 蘇也
 即彼秦氏人等為禰宜祝供仕春秋祭等
 依其霊験有被奉臨時御幣相次
 延喜八年故贈太政大臣藤原朝臣
 修造始件三個社者

この文には、中家が秦氏祖と書かれていること以外にもう一つ重要な部分があります。それは延喜8年(908)、都が平安京に遷ってから約100年ほど後 に、歌舞伎などでは悪役に仕立てられ、菅原道真公の政敵とみなされている藤原時平公によって、初めて三個社の御社殿が造営されたと書かれています。
 重要文化財に指定されている本殿には、下社・中社・上社
ならびに摂社である田中社・四大神の五社が一宇相殿に奉祀されています。
これら五柱のご祭神名は、稲荷大神の広大なるご神徳の神名化されたものです。
◆◆ 御 鎮 座 ◆◆
 当社の起源については「山城国風土記」の逸文に《秦中家ノ忌寸等の遠祖、伊呂具秦公の的にして射た餅が白鳥と化して飛び翔けり、その留った山の峰に “稲”が生じた奇瑞によって、イナリという社名になった》とあり、また「神祗官勘文」や「年中行事秘抄」などに引く「稲荷社禰宜祝等甲状」には《この神 は、和銅年中、初めて伊奈利三ヶ峰の平処に顕坐してより、秦氏人等が禰宜・祝として春秋の祭りに仕えた》とあります。さらに社記(十五箇條口授伝之和解) には《元明天皇の和銅4年2月壬午の日に、深草の長者“伊呂具秦ノ公”が勅命をこうむって、三柱の神を伊奈利山の三ヶ峰に祀ったのにはじまり、その年は五 穀が大いにみのり、蚕織なって天下の百姓は豊かな福を得た》と伝えています。このように、ここ深草の里は秦氏とは極めて深いかかわりをもち、御鎮座は和銅 4年(711)2月初午の日と伝承されてきました。しかし、信仰の起源は、これよりも更に古くさかのぼると考えられています。
◆◆ 御 神 号 ◆◆
 山城国風土記の逸文には、イナリを「伊奈利」と記しています。イナリとは、イネナリ・イネニナルのつづまったもので、人間生活の根源であった稲によっ て、天地の霊徳を象徴した古語とされています。「伊奈利」を稲荷と書くにいたった最初のものは、類聚国史の淳和天皇の天長4年(827)正月辛巳の詔です が、扶桑略記の和銅6年(713)5月甲子の條に《諸国郡郷名著好字、又令作風土記》とあることよりすれば、風土記撰進のときには、すでに「稲荷」なる “好字”が用いられていて、風土記に「伊奈利」とあるのは、その原史料にあった古い用字法が活用されたものと思われます。
◆◆ 御 神 徳 ◆◆
 社記に、当社は《衣食住ノ大祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ》(稲荷谷響記)と、また《上ハ天子ヨリ下ハ萬民ニイタル幸福豊楽ノ神明ナリ》(十五箇條口授伝 之和解)とあります。平安の昔から、稲荷山が民衆信仰の“お山”であったことは、女流日記文学の第一にあげられる「蜻蛉日記」、あるいは清少納言の「枕草 子」、また和泉式部の筆によってしのぶことができます。今日では、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神として、あまねく信仰をあつ め、そのご神威は日本の津々浦々はもとより遠く海外にまで及んでいます。
 楠宮稲荷社の御神木と痔病平癒の赤えい絵馬
赤えい(魚のエイ)絵馬の奉納祈願由来
 長田神社は、茅淳の海の入江に流入する苅藻川の河口の上流、北に約550?程の川中の中州、旧字名中島の樟等照葉樹林の繁茂する杜に鎮座する。(現在は2.5km程はなれる。6世紀以前の海抜等高線や池の痕跡から海岸線が推定される。)
現社頭の八雲橋架橋は文化9年(1812)、古来参拝者は川の置石を裸足になり渡っていた。
 古伝によると、6世紀頃の初秋、繁殖の為岸辺近くに寄ってきた赤えいの群が、夜の台風による暴風雨で増水した苅藻川を溯り、水でひたひたの境内に入り、 近在の人がこれを発見捕獲しようと後を追ったが、御神木「樟」の付近で見失ってしまった。以来、この御神木「樟」は、神の化身である「赤えい」の宿る処 「長田神社摂社・楠宮稲荷社の御神木」と崇敬敬仰されてきた。
 昔も今も、赤えいは、瀬戸内海に多く棲み、その繁殖期は夏の終わりから秋の初めであり、当時海浜漁業によって多量に得られる赤えいは、安価で貴重な蛋白 源であり、現今の牛肉にも匹敵するものであった。この美味で貴重な赤えいを食べることを断ち、諸願を掛け祈ったのであるが、その内、腫物(できもの)でも 特に痔疾(じのびょうき)に効き目があるとの評判が高くなり、広く信仰されてきた。
 絵馬奉納の始まりは、明治25年(1892)頃、楠宮稲荷社の井戸の傍らで茶店を営み、放し飼いの鶏(長田神社の神使)の餌の大豆を売っていた谷本もん と云うお婆さんが、細長い尾の先端に毒のある棘(とげ)を取り除いた赤えいを書いた絵馬を作り、参拝客の願掛けに勧めたのに始まると伝える。
茶店は大正13年(1924)の火災で廃絶、以来神社が引き継いで授与し今日に至っている。赤えい絵馬に、年令、干支、男女別を書き 御神木周囲の透垣に 掛けて祈願するが、あらゆる疾病に効験があるとの病気平癒の深い信仰があるが、その90%は痔疾平癒の祈願であり、楠宮稲荷社は「痔(じ)の神様」と言わ れている。痔の平癒を願う赤えい絵馬の奉納者は、主として神戸をはじめ近畿一円に多いが、北は北海道、南は沖縄、又韓国・台湾からの奉納依頼もある。

 稲 荷 大 神 様 
〜稲荷大神様のご加護とその姿〜岡の森稲荷大明神
 私にとって、稲荷大神様は、生きるための導き神です。日頃の日常生活において様々な手助けをしてくださいます。なにか困ったことや不満に思うときでも、いつもなら考え付かないようなアイデアをもたらしてくださいます。
 しかし、その後どのように行動をとるかは私次第であって、神様から賜った力を、生かすも殺すも、己次第…と言うことです。
 また、稲荷神様にご加護を頂くと、人間関係が円滑に進みます。自分に今一番必要な人を呼び、また、今の自分にマイナスになる人は関わりがなきようにして くださいます。神様の配慮により、用意周到にその仕組みを頂けます。このように、稲荷大神様の力は、私達の生活にとても身近なところに大きく作用される、 ありがたい神様です。日常生活において、他人様との人間関係を良好に保てるといわれる方は、稲荷大神さまのご加護を頂いている方と考えます。また、先見の 目、正邪の判断力はそのまま稲荷大神様のご神格ともいえるものです。
 除霊浄霊の類にも稲荷大神様のその力を持ってすれば、怖いものなしです。
 稲荷大神は古来から農耕の神様であり、作物の豊作を祈願する神様です。
昔も今も、五穀豊穣の祈願は稲荷大神様を中心にして行われます。稲荷大神様は、作物がすくすくと育ち、豊かな実りを迎えるための環境を整えてくださいま す。栄養豊かな土、適度な水、適度な気温、暖かな日の光、それらの条件に不可欠な「自然界の気」をコントロールし、豊かな実りへと導かれます。人は、田畑 に種を蒔き、芽が出て花が咲き、実を結ぶまで、あらゆる手を尽くします。そして、たわわに実った作物を神に感謝しながら収穫します。その昔ながらの、原始 的な、いわゆる稲荷神様と人の「法則」的な思考は、今でも脈々と形を変えて受け継がれています。豊作であると言う事は、財をもたらす、金品をもたらすと言 う事です。ですから、現代においては商売繁盛の神様としても崇められるようになりました。稲荷大神様は、私達の遠い祖先の頃から、私達の生活に、一番身近 なところにいらっしゃる神様なのです。
 しかし、あまりにも身近な神様として信仰されてきた稲荷神様ですが、残念ながら、人の欲望はとどまるところを知らず、あくまでも稲荷神様の奉祭するとい うことは事業成功のための一つの手段としか考え付かない人が多いことも事実です。おかげをもって成功を納めた事を、いかにも己だけの才能であったと慢心し てしまい財を成したとたん、神様への祈りと感謝の心を忘れ、あろうことか放置する、あるいは邪魔なものとして闇に葬ってしまいます。このことで神様の怒り をかい、再び正しい行いをするようにと、導きを頂いているにも関わらず、今の現象だけに目を奪われ結果、どこかの霊能者に頼り、「イナリを奉ったらケモノ を祭ることと同じ」「イナリは願い事の数倍の見かえりを求める」などの教えを請い、己の悪い心や行い、先祖の間違った信仰を振返り反省することなく、力で 無理にねじ伏せようと試みます。稲荷神様をケモノにしてしまったのは、他ならぬ人間様なのです。神様が一番怖いもの…それは人間の身勝手な姿とその心で す。
 稲荷神は決して「ケモノ」ではありません。自然界には欠かすことの出来ない、自然のパワー、大地の源でもある大いなる神様です。私達が日頃食する作物 も、稲荷大神様よりいただく力そのものです。食物を通して、物質的なエネルギーとともに、神様の霊的なエネルギーもいっしょにいただいているのです。この 大いなる稲荷大神様に感謝をして心から信じ、祈願をすること。そして、祈願成就の後も感謝とご守護を忘れることなく正しくお奉りする事。また、神様に対し てもっとも重要な「お詫びの心」を持つ事。そうする事で、このうえない大きなご加護をいただくことに間違いありません。

稲荷神は狼だった

稲荷神は狼だったのか」 狼 http://www6.ocn.ne.jp/~kanpanda/kitsune.html
狐狼の論理 近藤喜博著「古代信仰研究」
近藤喜博氏の稲荷研究の集大成、「古代信仰研究」の内容は伴信友によって論じられたものがほとんどとはいえ、稲荷社の狐と狼の関わりについては信友より多弁ですし、提示した狼の資料も増えています。
近藤氏の「狐と狼」の関係は、「狐が狼から生まれた」というより稲荷山にはもともと二種類の動物、狼と狐がいて、「狼は衰え、狐は盛んになった」というようなものです。
秦大津父が山中で出遇った狼は、一種の護法として早く稲荷山に関係し・・・狐も狼も共に、稲荷山には古い時代からの護法の連続であったと考えられ、後々狐のみが、稲荷山を占領した如くなってしまった。(P.291)「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
「欽明前紀の狼神(P.307)」と語る如く、近藤氏も古代に狼が神として信仰されていたことは確信していますが、ここでの「狼」はキツネとともに、神というよりむしろ「護法的存在」として欽明天皇以前から稲荷山に存在したとしています。
しかしながら「護法」とは守護者、召使いを意味する仏教の概念で、稲荷山のキツネが「護法」とみなされるのも、稲荷山がもともと真言密教(東寺)と関わりがある神仏習合の山だからです。とうぜん稲荷山に「護法」の観念が現れたのは仏教がそこに関わってからですから、空海の真言密教の時代、あるいはそれ以後のことになります。いっぽう「護法」の概念によく似た「神の使者」という語は、すでに「日本書紀」「古事記」のヤマトタケル説話に現れています。
膽吹山山神化大蛇當道。爰日本武尊不知主神化蛇之謂。是大蛇必荒神之使也。既得殺主神。其使者豈足求乎。因跨蛇猶行。・・・「日本書紀・景行天皇四〇年」
是化白猪者、其神之使者、雖今不殺、還時将殺・・・此化白猪者、非其神之使者、当其神之正身、・・・「古事記・景行天皇」
伊吹山で出会った「大蛇」あるいは「白猪」のことです。
近藤氏は、この「神之使」や「神之使者」まで「護法的存在」と見なします。たしかに近世の寺社における「神使」と「護法」は似たような概念になっていますが、それは中近世に神仏習合が進んだ結果として同じような意味合いを持つに至っただけで、ヤマトタケル説話の「神之使」まで「護法」と見なすのは、まったく時代を無視した考えと思われます。かといって勘違いをしているというのではなく、近藤氏はあえて仏教の「護法」という概念を用いているのであり、「護法」の概念を再定義までしています。
護法を精霊的なもの、スピリット的なものとして取り扱おう・・(P.222)
護法そのものは本来凡眼には見えぬが、存在を信じられた精霊の一種なので、そうした護法の典型的なものは、「信貴山縁起」に現れてくる護法であろう。(P.224)
「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
「信貴山縁起」に現れてくる「剣の護法」は、童子形で仏教の護法そのものとも思えますが、再定義した結果、「精霊」の一種にされてしまいます。果たしてこのような「護法」の再定義が、既存の「護法」、つまり仏教の「護法」の概念と折り合いをつけられるでしょうか。たとえば、近藤氏は「弘法大師行状絵図」に描かれた「二童子を従える稲荷明神」を見て、稲荷神はもともと山神であるからとして次のように語っています。
この二童子はもともと山神の護法に発するものとも思われる(P.247)
「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
近藤氏の意図は明白で、稲荷明神が従える「童子」を日本書紀などに現れている「山神の使者=動物」に結びつけることです。つまり童子は山神の護法であり、山神の使者であり、キツネと言いたいのです。ついでに稲荷山のキツネのいわれを記紀の時代まで遡らせようということでしょう。
ただし近藤氏は、童子あるいはキツネを使役する主体を「山神」と決め付けて、「山神の護法」と言っていますが、本来の解釈では「弘法大師行状絵図」に描かれた稲荷明神(山神)には本地仏があり、童子はその本地仏の護法とは言えますが「山神の護法」とは言いません。修験道の「護法」についての宮家準氏の解説を再掲します。
護法は主尊や行者の眷属となって、その使役に応える童子、王子、天狗、鬼さらに動物の類である。・・・護法はもとは山の神、鎮守、地主神、社寺の主尊の眷属などである。・・また、修行の末に主尊の験力を獲得した行者などに使役されて悪霊の調伏にあたると信じられている。(P.871)「修験道思想の研究」
実際は「山神」そのものが「護法」であって、たとえば役行者が地主神である一言主を使役するというような形がふつうであり、童子も山神もともに仏者の護法です。たしかに近藤氏は「精霊=護法」と再定義していましたから、「精霊」に守護するとか使役されるという概念があるのかないか気にはなりますが、言葉のうえでは「山神の護法」は「山神の精霊」とも言い換えることも可能です。しかし、経典や修法まで備わっている「護法」を「精霊」という曖昧なものに転化させること、もともと仏教の概念である「護法」をすべて「精霊」とか「神の使者=動物」に置き換えること、そこにはどうしても無理が生じてしまいそうです。「神の使者=動物」と「護法」を同一視すべく護法の例を挙げればあげるほど近藤氏は混乱してきます。
熊野詣還幸に於ける稲荷奉幣が、稲荷の護法にあるとして、稲荷山の狐への関係を辿る順序を付けた・・(P.249)「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
「護法」といえば、「山神の使者」である「動物」を思い浮かべてしまう近藤氏は、熊野詣において「長者」が護法であった時代もあるにもかかわらず、ここでも「狐の護法」を虚しく捜し求めています。「動物の護法」について、再び宮家氏の見解を挙げます。
修験者によって操作される神霊の種類を見ると、次のような時代による差異が感じられる。すなわち、まず古代に於いては、役小角が鬼神を使役したという話に見られるように鬼神が操作されている。ところが古代末から中世初期には護法が用いられている。しかし、中世期を通じて多く見られるのは童子や飯綱などの類である。そして近世になってくると、狐、蛇、狸、犬などの動物霊を操作するというようになり、さらにその後は、神霊が見られるようになってきているのである。(PP.29-30)「修験道と日本宗教」
キツネは動物のうちでは早くから護法の地位を確保していたとはいえ、当初の「護法」には鬼神や童子があてられ、動物が充てられるようになるのはかなり時代が下がります。
けっきょく「護法」の再定義など無理な話で、近藤氏が「狩場明神と犬」を語るとき、その破綻は明らかになっています。
「狩場明神御影」に「高野護法、御足常裂血流」と着賛されて、諸国廻遊の趣を示すのは、中世これが他ならぬ高野の護法と思われていたことを傳えていよう。しかも、この高野護法を役使する狩場明神は、もとを正せば南山の犬飼、即ち狩師であった。
(P.290)「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
「狩場明神御影」に描かれている犬と狩場明神のうち、足が裂け血を流しているのは狩場明神であって、犬ではありません。しかし近藤氏にとって「護法」と言えば「山神の使者」としての「動物」ですから、「高野護法」と書かれているからにはそれは「犬」であろうと考えます。それゆえ「高野護法を役使する狩場明神」と言ってしまったのです。ところが「高野護法」とは狩場明神自身で、実際、狩場明神や丹生明神が、空海や真言密教の「護法」とされるのは周知の事実です。「神」が仏者の「護法」になってしまうのが神仏習合の論理です。
なぜ古代のキツネや狼を論じるのに、神仏習合後の概念である「護法キツネ」を必要とするのかもよくわかりませんが、神仏習合そのものであるような「護法」という概念から、古代のキツネや狼がまともな姿で現れてくるとは思われません。
次に、狼について書かれた部分を検証します。
「古代の稲荷山に狼が存在した」根拠として近藤氏が挙げた「狼・山犬」の資料は、ほとんど全滅かもしれません。
1 高野狩場明神が従えた白黒二犬の動物も、単なる犬ではなく、狼に近い山犬と見られるのが思い起こされる。(P.290)「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
梅原猛氏も「狩場明神の眷属は山犬」と語っていました。梅原氏や近藤氏がいつの時代に作られた伝承に基づいて、山犬と言っているのかわかりませんが、少なくとも初期の「高野山開山伝説」では「単なる犬」です。
空海と高野山、そして稲荷山の三つの関係において、キツネの起源を狩場明神の「山犬」に求めるというなら、せめて最初の高野開山伝承くらいは「山犬」でなければ意味がありません。後の時代に作られた伝承で「山犬」とされていたところで、それはその時代の要請に応えて書き換えられたというに過ぎません。近藤氏は、初期の高野山開山伝承に基づく「大小ニ黒犬」ではない「黒白二犬」を取りあげていますので、かなり新しい伝承に基づいての発言かもしれません。引用元を確認してみましょう。
「秘密縁起」にこう伝えている。一人の猟師に行逢ぬ。・・・黒白の犬を二疋具せり・・・この事はすでに「弘法大師御遺告二十五箇条」にも、或いは・・「高野大師御廣傳」にも見える古傳である・・・(P.81、82)「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
近藤氏がその内容まで引用したのは「秘密縁起」だけですが、ここにも「犬」としか書かれていませんし、「高野大師御廣傳」でも「犬」で「弘法大師御遺告二十五箇条」に至っては狩場明神も犬も登場しません。これは「太政官符案并遺告」と勘違いしたのかもしれませんが、そこでもやはり「犬」です。
次は「狼の神符」、白山比?神社の黒白二犬です。
2 加賀の白山比?神御影の下に侍る白黒の山犬は、これ亦眷属として大口真神的なものと眺めなければならない。(P.291)「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
白山比?神社の起請文絵図の動物を「山犬」とみなすべき根拠はどこにもありません。また「白山比?神御影の下」と書いていますが、これは間違いで、これもまた「狩場明神」です。(「白山の御犬」参照)
下記は、言うまでもありません。
3 丹後国加佐郡大川大明神、一名を狼大明神と呼ばれるは、狼を使者とし・・・大和の玉置山でもまた狼を神使とし、これについて南方熊楠翁の述べるところ詳細である・・・(P.291)「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
「大川大明神」は、伴信友からの引用なのか南方熊楠のものか、両方からとも言えますが、「玉置山」の方には熊楠の名がはっきり書かれています。熊楠の意見を鵜呑みにした気の毒な人は、ここにもいたことになります。
近藤氏は、稲荷山近くの「大亀谷」についても語っています。この谷は、秦大津父の狼の伝承に基づいて、伴信友などは「狼谷」と解釈していました。
おおかみ谷とは、・・オガミ谷(拝み谷)で、イナリへの拝所でなければならなかった。
(P.150)「古代信仰研究」近藤喜博著(角川書店1963)
これは、近藤氏の意見が正しいかもしれません。また、水神である「オカミ神」を祀ったから「オカミ谷」とする見方もありますが、これも有効な見解でしょう。
近藤氏は「古代信仰研究」から十五年経って再び著した「稲荷信仰」においても、その論点は変わっていません。護法も狼と狐の関係もです。
では護法とは何であるのだろうか。『日本霊異記』には早く見えていたが、それは精霊的なものと考えられ・・・稲荷山にももちろん護法が存在していた。・・・そのはじめイナリ護法は狼によるかと思われなくもないだろう。(P.167、168)
「稲荷信仰」近藤喜博著(塙書房1978)
ところで、実際、狼がいつごろから神使になったのか明確ではありませんが、「太平記」(1370年ころ)に書かれている「弘安の役」の蒙古襲来で、日本を護る為に立ち上がった「神使」たちのなかに狼はいません。しかし狐はいます。
  • 春日野ノ神鹿・熊野ノ霊烏・気比宮ノ白鷺・稲荷山ノ名婦・比叡ノ猿、社々ノ仕者、悉虚空ヲ西ヘ飛去ルト・・・異賊ヲ退ケ給ハム・・・
(P.453)巻第三十九「太平記三」日本古典文学体系36(岩波書店1962)
「稲荷山ノ名婦」と呼ばれる「狐」は、この時代にたしかに現れていますが、かといってそんなに古くまでは辿れません。稲荷山にキツネが現れたのを1070年頃としているものもありますが、信用できるものは1200年代になってからで、いずれにせよ狼が書かれていた欽明紀とは五百年以上離れています。そうすると、「狐の起源は狼である」説は、狼について云々することより、欽明紀どころか空海の時代にも達しない稲荷山のキツネの歴史のほうこそ大きな問題です。
野干
真言密教では、稲荷神は「狐に跨ったダキニ天」として考えられていますが、中国の「ダキニ天」は「野干」に跨ったものとされていました。日本にやって来てから「キツネ」に跨ったものとみなされたのです。
南方熊楠や平岩米吉氏は、「野干」のもともとは「ジャッカル」であったと推測していますが、これはインドのゴールデンジャッカルのことで、二人の言葉を信じれば、本来は「Canisaureus に跨ったダキニ天」ということになります。
平安期は、この「野干」を狼と見なす考えも一部にはあったかもしれません。
「本草和名」(918) 「犲 皮一名野干和於保加美」
もちろん「本草和名」におけるこのような分類は中国からの受け売りでしょうが、当時の日本に「野干にまたがるダキニ天」を「狼にまたがるダキニ天」と考える思想があっても不思議ではありませんし、さらに言えばもともとの「ゴールデンジャッカルに跨ったダキニ天」の絵図などが、平安期に描かれていてもおかしくはありません。
ただし、中近世の日本では、野干はキツネとしてだけ認識され、平安以後は上記の「本草和名」のような例外すら存在しなくなります。つまり、もともとはジャッカルであったとしても、中近世に描かれたダキニ天が乗る動物はキツネ以外のものではありません。
狩場明神の山犬
近藤氏が「狩場明神の山犬」の根拠とした「高野大師御廣傳」と「弘法大師御遺告二十五箇条」、そして参考までに「太政官符案并遺告」も引用しておきます。
「高野大師御廣傳」
逢猟者。其形深赤。長八許尺。着青衣袖狭。骨高筋太。執弓帯箭。大小二黒犬随之。
(P.131)「高野大師御廣傳・上」「弘法大師全集・首巻」(密教文化研究所1978)
「弘法大師御遺告二十五箇条」には、「明神ノ衛護アリ」とあるだけで、狩場明神(高野明神)も犬も登場しません。「丹生津姫命」は登場しています。
「弘法大師御遺告二十五箇条」
高雄ノ旧居ヲ去リテ移リテ 南山ニ入ル 厥ノ峯ハ遙ニシテ遠ク人気ヲ阻テタリ 吾レ居住ノ時 頻リニ 明神ノ衛護アリ。常ニ門人ニ語ラク 吾ガ性山水ニ狎レテ人事ニ疎ナリ。亦 是レ浮雲ノ類ナリ。・・・(P.786、787)
「弘法大師全集・第二輯」(密教文化研究所1978)
「太政官符案并遺告」は、金剛峰寺の領する高野山の土地がどの範囲までのかを「紀伊国司史」宛てに書いたもので、「太政官符案文」、空海の「遺告住山弟子等」、犬について書かれた「丹生津比賈及高野明神仕丹生祝氏」、そして「高野山の絵図」が添付されています。それぞれ弘仁七年(816)、承和元年(834)、延暦十九年(800)、承和三年(836)の日付があり、最後に建武二年(1335)の日付が書かれています。
まず「遺告住山弟子等」は「弘法大師御遺告二十五箇条」によく似た表現で、「高野明神」の名がここに登場しています。
「遺告住山弟子等」
是ノ峯ハ絶遙ニシテ人気ヲ阻テタリ 吾レ住スル時 頻リニ 明神ノ示現アリ。名ヲ丹生津比女高野明神ト曰フ・・・(P.773)「太政官符并遺告」「弘法大師全集第二輯」
下記の「丹生津比賈及高野明神仕丹生祝氏」では、初期伝承での「ニ黒犬」が変化して「黒白二犬」になっていますから、建武以後、高野山開山伝承の犬は「黒白二犬」に変わったと思われます。
なお文中の「犬黒比」には「続年譜においては大黒比」という「注」が付けられていますから、「イヌ黒比」ではなく「ダイ黒比」が正しいのかもしれません。
「丹生津比賈及高野明神仕丹生祝氏」
  • 並ニ二柱進物(たてまつるもの)ハ紀伊国ノ黒犬一件(ひとつら) 阿波遅国三原郡ノ白犬一件・・・又此ノ犬耳(いぬかひ)ノ蔵吉人(くらよしひと)ハ三野ノ国ニ在ル牟毛津(むもつ)ト云フ人ノ児 犬黒比(いぬくろひ)ト云フ人ハ此ノ人ヲ寄セ奉ル。此ノ人等ハ 今ノ丹生人ト云フ姓ヲ賜ハラセシメテ 別ケ奉ル犬黒比ト云フ者。彼ノ御犬(みいぬ)二件率ヒ 弓矢ヲ引ク。・・(P.776、777)
「太政官符并遺告」「弘法大師全集第二輯」
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稲荷山と秦氏と動物
稲荷山に関係する動物は、キツネだけではありません。中村禎里氏や吉野裕子氏などは、キツネ信仰が生まれる前の稲荷山には「蛇信仰」があったと推測しています。
伏見稲荷の縁起はまた、稲作を主轄する動物がヘビからキツネに転換していった経過を明らかにするのにも役立つ。
稲荷山にがんらいヘビ信仰が存在していたことはほぼ間違いないだろう。
(P.158、159)「日本人の動物観」中村禎里著(海鳴社1984)
ここで中村氏が指摘している伏見稲荷の縁起とは「稲荷明神流記」のことで、この縁起はキツネと稲荷神の関係を説いていると同時に「竜頭太」というヘビ(竜)についても書いています。下記に「竜頭太」の資料あり。
参考資料「稲荷神とダキニ天」
また秦氏に関係する動物も、キツネとオオカミだけではありません。
秦氏の氏神社(氏寺)として有名な「大避神社(太秦広隆寺)」は「牛祭り」が有名で、とうぜん大避神社では「牛」が眷属です。この牛の由来は、平安初期の最澄や慈覚大師に置くのが一般的ですので、古代まで溯れるというわけではありませんが、キツネよりはずっと古くからの関係です。
「稲荷神は狼だった」をウェブ検索する

「稲荷神とダキニ天」 狼

荼枳尼天
インドのシヴァ神の妃・パールヴァティーの化身の一つ、カーリー女神(黒き女神)の従者だった「ダキニ」は、むかし生きた人の肝や肉を食うヒンズーの魔神でした。しかし、釈迦から生者の肉を食うことを禁止され、死肉だけを食べるようさせられます。すると今度は一転して、半年前に人の死を予期するとか、ダキニに自分の肝を捧げる約束をすると、ダキニが願いを叶えてくれるなどと言われるようになります。
加持祈祷を得意とする密教には、荼枳尼(ダキニ)が願いをかなえるということに由来する「荼枳尼天法」という術が存在し、真言密教にも天台密教にもあります。
その真言は次のようです。
オン キリカ ソワカ オン ダキニ ギャチ ギャカネイエイ ソワカ
(P.211)「天台密教の本」(学習研究社1998)
「荼枳尼天法」の修法壇には、人や狐の頭蓋骨(髑髏)を据えるなどともいわれ、下記は「寂照堂谷響集」にある「荼枳尼」の項ですが、真言を唱えたあと、最後に左手で口を覆い舌で掌を舐めるのが、その印であると書かれています。
大日經第四。説荼枳尼印眞言。眞言云頡履二合訶。疏第十四釋 印言云。次舒 左手覆掩口。以舌觸掌。即荼枳尼也。(P.154)「寂照堂谷響集第九」
「大日本佛教全書」(佛書刊行會・大正元年)
豊川稲荷では、上記の真言とも異なるもので、次のような真言を二十一回唱えると、功徳を得ることができるとされています。
オンシラバツタニリウンソワカ (P.35)
「実録豊川いなり物語」安井四郎著(東京経済1986)
最後に、有名な伏見稲荷の真言です。
「ダギニ バザラ ダトバン、右掌を左肩に伏、ダキニ アビラ ウンケン、合掌、オン キリカク ソワカ」。
荼枳尼天(ダキニテン)の真言や印は、密教の種々の法で使われるのをはじめ、陰陽道などでも見られ、伊勢神宮においてもその痕跡は明らかですから、その影響は広範囲に及んでいます。(文責:中村民)
狐 2001/12
やまいぬ

「稲荷神とダキニ天」 狼
豊川稲荷
真言密教は、荼枳尼天(ダキニテン)を「白晨狐王菩薩」と同じもので「稲荷神」であるとし、白い狐にまたがる剣と宝珠を持つ天女として表現しています。キツネと一体となった荼枳尼天は、主として東寺を中心とする真言宗によって世間に広められましたので、真言密教、荼枳尼天、狐、稲荷社は不可分の関係です。
ところでキツネ神社(寺)を、神社、寺ごとに分けることがありますが、これは明治以前の神仏習合の無理解から来ているあやまった分け方とも思われます。
江戸時代の神社、寺、修験は、不可分で、教義もその活動も独立したものではありませんでした。そして、明治の神仏分離に際し、三者が共存していた寺社の多くは、なんとか寺として存続できるように努力しています。例えば、豊川稲荷はむかしから寺であったと主張し運良く認められましたが、一方、秋葉山秋葉寺はいろいろ証拠を提出しましたが認められず、結局、神社とされました。このように、今ある多くの「寺」は、神仏分離の際、神社にされる運命をあやうく免れたものと言えます。
ですから、現在、寺は勿論、神社にキツネがいるということは、それらがむかし密教に関わっていたことの証しで、多くの場合は真言密教(修験道当山派)が存在していたのでしょうし、同じように荼枳尼天を祀る天台密教(本山派修験)が関わった場合もあったかもしれません。天台の山門派ではこのダキニ天の修法は比叡山の黒谷の僧、「渓嵐集葉集」を書いた光宗の一派にだけ伝えられると言われます。
豊川稲荷(妙厳寺)の荼枳尼天(稲荷)の由来は、寒厳禅師(義尹)が伝えた荼枳尼天像です。義尹は天台僧ですが、宋からの帰りの海路で海上で荼枳尼天を感得し、その像を手彫りしたと言われています。豊川稲荷(妙厳寺)の開祖である東海義易(1412-1497)は、この義尹の法系でしたから、荼枳尼天像が伝えられ、豊川稲荷(妙厳寺)に祀られたということです。
ただし、東海義易は、八幡山歓喜院という寺を再興しているのですが、この歓喜院はなぜか真言宗で、義易はこの寺に二年のあいだ滞在し再興に力を尽くしたと言われています。この真製 Υ心遽,箸隆愀犬里曚Δ?∨?邂隹戮陵獲茲砲倭蟇?靴修Δ任后
ところで、秋葉山秋葉寺の三尺坊大権現の姿は、狐に乗っている天女(荼枳尼)でなく、狐に乗った烏天狗(カラステング)です。これは、密教のダキニの姿から、更に発展させられた形なのかもしれません。「狐にのった烏天狗」は、呪法色が強く「天狗修験道」とも呼ばれる戸隠山系の飯綱大権現と同じ姿で、この飯綱修験道の流れを汲むのが秋葉山のキツネのようです。しかし、秋葉山の三尺坊は新潟県・栃尾の楡原からやってきたという話も存在します。
楡原は、信仰文化の中心地であり・・・その塔頭のひとつにいた三尺坊が・・・静岡の秋葉山にカルラの姿で現われ、不動三昧法を修し、・・・。現に楡原の曹洞宗常安寺が三尺坊の遺跡とされている。(P.12)「修験道と地域社会」(名著出版1981)
栃尾の楡原は蔵王(御嶽)信仰の土地です。蔵王信仰は天台宗と真言宗の両派に関わっていますから、この場合、単純に真言密教だけとの関わりとは言えないかもしれません。
ところで、真言宗と一口に言ってもその法流はいくつにも分かれていて、一心同体といえる状況ではありません。中世から近世まで、真言密教の山・高野山においても、学侶、行人、聖方が三者に分かれて抗争をしていますし、高野山と東寺とのあいだでも争いは継続していましたし、高野山から追い出された覚鑁から新義真言宗が生まれるといった具合で、山門派と寺門派で抗争を繰り返した天台宗とそれほど変わったところはありません。

稲荷神
稲荷信仰はもともと稲荷山あるいは伊奈利山と呼ばれた山に対する信仰を始まりとするのですが、山の信仰というのは曲者で、山が大きければそのふもとも広大になり、利害の一致しない種々の集団が分かれて住むことも可能になります。平野にある小さな独立峰であれば回り巡って元の場所に戻ってくることもでき、ふもと間の往き来も簡単で、いわゆる「カンナビ山」と呼ばれる信仰が生まれやすいでしょうが、すこしでも山すそが長いとなれば、その山ゆえにふもとに住む集団の往き来は阻害されます。表と裏のふたつの集団に別れ、山の呼び名さえ異なって、確実にふたつの信仰集団が生まれてしまいます。「伏見稲荷神社」の成立起源に諸説あり、その始まりの年に二種類の説があるのも同じ理由と考えられます。
「伊奈利山」と呼んでいた秦氏の「伊奈利」信仰は「大和国風土記」逸文、つまり「稲荷大明神縁起」をもとに語られ、そこに書かれた「和銅四年(711年)」という年を始まりとしています。「稲荷山」と呼んでいた荷田氏の「稲荷」信仰は、真言密教、東寺の「稲荷明神流記」に基づく「弘仁十四年(823年)」を始まりとします。これは空海が東寺と関係した最初の年ですが、最終的にふたつの信仰が空海によって強引にまとめられたと考えれば、「伊奈利と稲荷」の語の違いや創始の年の問題などが簡単に説明できます。「六国史」の天長四年(827年)に「稲荷神、稲荷神社」の名が現れたときは、すでに合体した後です。
空海が東寺および稲荷山と関わったのは、高野山開山のすぐ後のことなのですが、初期の弘法大師の伝記には稲荷神のことがまったく書かれていません。鎌倉中期以降になってようやく空海と稲荷神遭遇の伝承が作られた程度ですから、種々の伝承をつくったのは空海自身ではなく空海以後の真言密教です。その伝承での「稲荷神」は、高野開山伝承の狩場明神の姿によく似た「赤顔の老翁」で、稲を担ぎ二人の女と二人の子を連れています。
稲荷山も熊野や白山などと同じ三山形式で、一ノ峰、ニノ峰、三ノ峰があり、まとめて「稲荷大明神」とか「稲荷神社三座」とか呼ばれていましたが、のちに麓に三神を祀る下社が造られ、その後、上社と中社も加えられ「稲荷三箇所大明神」となったようです。さらに、ふもとに「田中大神」と「四大神」の二社が加えられ「稲荷五社明神」となり、現在と同じ形になっています。ですから、田中大神と四大神は山上にはないことになります。上・中・下の社に当てられる祭神は、いろいろな説があります。
伏見稲荷 祭神いろいろ
* 上社 中社 下社
「稲荷明神流記」
(本地) 稲荷明神(上御前)
(十一面観音) 中御前
(千手観音) 大多羅之女(下)
(如意輪観音)
「二十二社註式」 猿田彦命 倉稲魂命 大宮女宮命
「神号伝」秦氏 イザナミ 瓊々杵尊 岩倉稲姫魂命
「稲荷社由緒注進状」
(同上の異説)荷田氏 級長戸辺命(三社)
(大巳貴命) 級長津彦命(二社)
(稚産靈神) 倉稲魂命(一社)
(保食神)
神社「明細図書」 大宮賈大神佐田彦大神宇迦之御魂大神
(P,102)「古代信仰研究」近藤喜博著
いわゆる「稲荷神」と言われるのは稲荷明神はとうぜんとして、上記の表では倉稲魂命、岩倉稲姫魂命、保食神、宇迦之御魂大神です。地方の神社においては、そのほかに「稚産霊」「豊宇気都比売神」「大気都比売神」「御膳神」「御食持命」「三狐神」、蛇の「宇賀神」などの穀物神、五穀豊穣の神々が稲荷神とされることがよくあります。
現在の伏見稲荷の五社形式の祭神に、本地仏を当て嵌めれば、宇迦之御魂大神が十一面観音、大宮賈大神が如意輪観音、佐田彦大神が千手観音、そして田中大神が不動明王、四大神が毘沙門天となるようです。
キツネに関係する「命婦社」は上記に挙げませんでしたが、命婦社は下社にあるとか、上社がそうだとか時代により
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