薔薇学卓球部
「ここが、あの女の卓球部ね」
体育館前、真紅は決意を新たにしていた。
事の発端は3週間前。体育のレクリエーションで行われた卓球。
才色兼備に文武両道を自負していた真紅に敗北をもたらした忌まわしき記憶。
卓球なんて地味な球遊びだというそれまでの認識を彼女は改めた。
狭いテーブルに迅く、的確に、瞬時の判断でピン球を打ち返す。
最速の球技……それが卓球。
「あの屈辱――ここで雪ぐ!!」
そして、体育館に足を踏み入れる。中では練習の音が響いていた。
カッコッカッコッカッコッ、キュッキュッキュッキュッ
ピン球とラケットが、テーブルが叩き合う音、シューズが床を擦る音。
締め切られた体育館の中、一心不乱に必死に練習する部員たち。
その中に――宿敵の姿があった。
「水銀燈ッ!!」
「ホラホラどうしたのぉ?」
「くっ、あっ」
「おばかさぁん!!」
こちらの打つ球は返され、浮いた球は容赦なく打ち込まれた。
あの日の苦い記憶を噛み締めながら、真紅はまたここに立っている。
……
「あらぁ?真紅じゃない。どうしたのぉ?」
真紅の存在に気付いた水銀燈は、練習を切り上げて近づいてくる。
「ええ、この間卓球の面白さに目覚めてね。部長様にご教授してもらおうと」
真っ赤な嘘だった。暗い情念の滾った眼差しが、水銀燈を捉える。
無論、そんな嘘に気付かないはずはない。
「あらぁ、この間アレだけコテンパンにされたのに?Mの気でもあるのかしらぁ」
以前の真紅ならば、その一言で完全に頭に血が上っていたかもしれない。
だが、今の真紅――3週間の特訓により生まれ変わった――は、それを軽く流す。
「アレだけ清々しく負ければそういうこともあるのかもしれないのだわ」
挑発に乗ってこないことに気を悪くしたか、一瞬表情を歪める水銀燈。
だがすぐにまた、にやりと嗤う。
「そう。まあ、今日は私も忙しいしね……薔薇水晶」
「はい、何でしょうか」
笑顔のまま、呼んだ薔薇水晶を真紅に引き合わせる。
「この娘に勝てたら、あなたの好きな日時に私が戦ってあげるわぁ」
性悪極まりないとしか思えない水銀燈の笑みに、嫌な予感がした。
だがここで退く訳にはいかない。退路など最初からありえないのだ。
「審判はそうねぇ……ベジータぁ~ちょっと来てぇ~(猫なで声)」
「銀嬢のお呼びだ、ちょっと行ってくるぜジュン!!」
「(頑張れベジータ。僕にはここから見ていることくらいしか……)」
あっさりベジータ捕獲。そして試合が始まる。
公式の試合でもない。ゲームは21点先取の1セット。
「(何をやってるんだ俺は……)サーブ、薔薇水晶」
ベジータが声をあげる。互いに頭を下げて、卓の前に着く。
薔薇水晶のラケットは卓球部では珍しい中国式ペンホルダー。
対する真紅はオーソドックスなシェイクハンドである。
「……銀姉さまの手を煩わせるまでもないわ」
開かれた手の平から、ピン球が20センチほど上がる。
そして落ちてきたそれを、薔薇水晶が下から切る!!
(薔薇水晶のサーブの切れは並大抵じゃあない……)
固唾を呑んで見守る水銀燈。なんだかんだで心配なようである。
強烈な斜め回転。卓上を真紅に向けて飛び交う。
だが――真紅には完全に軌道が見えていた。
「そこッ!!」
「なっ!!」
真紅の前面サイド、横に曲がっていって球は床に落ちる。
薔薇水晶はそう思っていたはずだった。だが、そうはならない。
真紅は既にそこにいた。体を低く落とし、力を溜めて待ち構えていた。
真紅の腕がカーブを描く。完璧なタイミング、サーブを高速ドライブで打ち返す。
反応さえ出来ないまま、薔薇水晶の脇をピン球が擦りぬけていった。
そして向かった先は……
「ちッ!!」
左手でそれを受け止める水銀燈。自ら受け止めたからこそわかる。
強烈なドライブだった。止めて暫くはその回転が続くほどの。
「0-1」
普通に審判するベジータの事は特に誰も気に留めていない。
「さあ、次行くわよ」
薔薇水晶を挑発するように、真紅が微笑んだ。
「薔薇水晶、負けたらお仕置きよぉ」
妖艶に嗤う水銀燈、怯える……なのに何故か頬を染める薔薇水晶。
(……負けたら何されるのかしらこの娘)
試合はほぼ互角に進んだが、やや真紅がペースを握っていた。
長く打ち合っているうちに、双方相手のクセがある程度掴めてきている。
(でも、これはこの娘の本気じゃない……)
秘密裏に真紅は人をやって卓球部のことを調べさせていた。
そう、まだ薔薇水晶には隠し玉がある。
「15-20、チェンジサーブ。マッチポイント真紅」
サービスに無駄な回転はかけず、真紅は速さを重視していた。
小手先の技は通用しないとわかっているからこその策だった。
慎重に、慎重に双方がラリーを続ける。
先に動いたのは――薔薇水晶。
起死回生の一撃を狙ったか、少し無理をしてフォアサイドに回り込む。
気迫が先程までとはダン違いだった。そして、ラケットを立てた。来る
「なんとかエッジショットーーーーー!!」
絶叫しつつ、ラケットの角で返球する薔薇水晶。
なんであんなところで打ってちゃんと返ってくるかはわからない。
だが……
「卓球ナメんな馬鹿水晶がぁッ!!」
「ぶぇ!!」
見事に打ち頃だったピン球を力の限りに叩きつける。
そして薔薇水晶の顔面直撃。――とりあえず、勝った。
「うぅ、やっぱりゲマトリアよりピンポン星のヒーローのが……」
「そうね、そっちの方が卓球的には確実に正しかったと思うわ」
「ゲームセット。勝者、真紅」
最後まで、よくわからないままベジータは審判をやり遂げた。
「まさか、薔薇水晶がねぇ……甘く見てたわぁ真紅」
何故か酷く愉しそうな表情で、水銀燈が嗤う。
「さあ、約束通りね。日時は追って通達するから、ガタガタ震えてなさい」
それだけ言い残し、嗤いながら卓球場を後にしようとする真紅。
水銀燈が、くすくすと嘲笑った。
「ホントにおばかさぁん。その程度で、私に勝つつもり?」
部員たちは言い争う二人の背後に虎だとか龍だとかゲッゲッゲッな笑い声だとかを見たそうな。
「ところで、薔薇水晶?」
「ひ、ひっ!!」
「大丈夫よぉ……イタイのは最初だけだって、わかってるわよねぇ」
1時間後、二人が消えた体育倉庫の中、ややピンクがかった悲鳴が聞こえた。
試合の日時は1週間後と決めた。
そして無論、その1週間を真紅は無駄に使う気はなかった。
「うふふ……目にモノ見せてくれるのだわ」
人目につかない物影で静かに素振りを繰り返す。
と、小さな足音が近づいてきていた。
「……首尾はどうかしら」
「バッチリなのかしら。この頭脳派の金糸雀様にかかればこの程度」
ふっふっふっと笑いながら真紅に封筒が手渡される。
封筒の中に手を入れ、その中身を確認した真紅の表情は、酷く黒かった。
「良い仕事だわ。これで――勝った!!」
良心の呵責とか多少なりとも感じつつ、金糸雀は何事もなかったように去っていく。
お小遣いで暖かくなった懐をさすりながら、上機嫌で。
たかが1月足らずで、現役の卓球部部長に勝てるなど最初から思っていない。
無論、いずれは実力で勝つつもりではあるが、今はまだ無理だ。
相手との力量差は真紅も重々承知の上だった。悔しくはあるが。
だが、そもそも真紅の目的は卓球で正々堂々水銀燈に勝つことではない。
「フフフ……無様な姿を晒してあげるわ、水銀燈」
決戦前日。
水銀燈は、手紙で体育館裏に呼び出されていた。
差出人の名前は――桜田ジュン。
「な、何の用かしらぁ……まさか……キャー!!」
指定の時間の10分前。一人妄想しつつ水銀燈ははしゃいでいた。
死角から伸びてくる怪しい視線には、まるで気付いていない。
視線の主は、数分前からそれを見て噴出しそうになるのを堪えていた。
こんな風に想い人を待ち焦がれるこの姿。可愛いではないか。
10分経ち、20分経ち、30分経って……水銀燈は不審に思い始めた。
桜田ジュンという少年は、人をこんなにも待たせるような人間ではない。
まさか、彼の身に何かが起こったのだろうか……
「あら、こんな所で奇遇ね水銀燈」
「真紅……どうしてアナタがここにいるのかしらぁ?」
本当に、偶然ここを通りがかったような真紅。
水銀燈は虚勢を張っていたが、真紅にもそれは見透かされていた。
「ちょっと面白いことがあるのだわ……ホラ」
鞄の中から取り出した小型の機械を操作すると、音声が流れ始める。
『ジュン……わ、私なんて答えればいいのかしらぁ』
「ッ!!し、真紅」
レコーダーから流れる、先程までの水銀燈の声。
本人が聞いてもそりゃあもう恥ずかしくなる妄想世界の住人な声
その表情を見た瞬間、完全に真紅は勝利を確信した。
(この女……陥落た!!)
彼女の想いも裏が取れた。計画通りだ。
「な、何が言いたいのかしら?そ、それをどうしよ」
「更に倍率ドン」
動揺する水銀燈に更なる揺さぶりをかける為の切り札。
先日金糸雀から受け取った封筒の中身、数枚の写真を出した。
「こっ、これを何処で!!」
「情報元は秘密なのだわ。でもまあ……まさかアナタがねぇ」
完全に動揺しきって半ば呆然としている水銀燈を見て、少し可哀想になってきた。
「えーっと……似合ってるわよ、メイド服」
「いやああああああああああああああああああ!!」
そう。数枚の写真には、ヒラヒラフリルのメイド服姿の水銀燈が写っていた。
情報屋の金糸雀が掴んできた面白い情報。曰く、水銀燈がメイド喫茶で働いている。
根も葉もない噂だとしか思わなかったが、まさか真実だったとは。
まあここで同情しても仕方がない。使えるものは利用しよう。
「これ……ジュンに見せてもいい?」
「お願いしますからやめてください。いや、ホントに」
予想以上の効果に正直真紅本人が驚いていた……
そして決戦当日。
本日の卓球部の練習は休みになった。
卓球場にいるのは真紅と水銀燈、見届け人の薔薇水晶とジュンだけである。
公式ルールでやることはない。前回と同じ、21点1セット。
焦りも、緊張感も存在しない。真紅の瞳に宿るは圧倒的な優越感と、愉悦。
「さあ、行くわよ。水銀燈」
対する水銀燈の眼には、嫌悪と憎悪、苦渋に満ちた表情をしていた。
ちらりと、観客の――ジュンの方を見る。
今日の彼は審判も兼ねている。何も知らない彼は、作業に徹するだろう。
(……彼にだけは、知られたくない)
前日
「ええ、ジュンには黙っているけれどその代わり」
「試合に、負けろと言う訳ね。なかなか卑劣で効率的な手段ねぇ」
「断ってもいいのだけれど。まあその場合どうなるかは」
「いいわ、その条件は呑むから……」
「そう。無事試合が終われば、両方アナタに渡すわよ」
……試合は、接戦だった。あくまでスコアの上だけであれば。
常に2点。2点の先行をしつつ、試合は終盤へと向かう。
不自然に見えない程度に水銀燈は手を抜いていた。
真紅も、全く鍛えなければこの程度の芝居を打つことさえ出来なかっただろう。
17-19。
心労が普段以上の疲労を与えていた。滝のように汗が流れる。
嘲笑われていながら、ちっぽけな自分の想いの為に戦えない。
屈辱だった。それを味あわせているだけで、真紅にとっては満足だったかもしれない。
「そろそろ、終わりにしましょう」
笑う真紅。不安そうな表情で薔薇水晶が見つめている。
……まだか、まだなのか。まだ、来てくれないのか。
自分から攻めることは滅多に出来ない。ひたすら、カットで耐え忍ぶ。
前陣速攻が本来のスタイルである水銀燈には、荷が重かった。
「あっ」
疲労がミスを生んだ。カットしたピン球が僅かに浮かぶ。
そして、それを見逃すほどに今の真紅は甘くはなかった。
「17-20」
機械的にジュンがスコアを読み上げる。
……もう、終わりだろうと。その場の誰もがそう思った。
だが――卓球場に響く足音。ここにいる4人のものではない。
「待たせたな!!」
「お、お前はどうしてここに!!」
駆け寄ってくる姿は、どう見てもベジータです。
(本当にありがとうございました!!)
水銀燈は生まれて初めて、心の底からベジータに少しだけ感謝した。
真紅のことだ、どうせ例の証拠物件は持ち歩いていたに違いない。
そして、ロッカールームに制服と一緒にそれらが置かれているという読み。
間違っていなかった。ベジータに賭けて、本当に良かった。
前日行われたベジータとの取引。
試合が開始した後、気付かれないように忍び込み、荷物を奪取すること。
……その際、真紅の私物や衣服類に少々手を出しても良いと許可した。
(時間かかったけどコイツ何してたのかしら……)
「はっはっは!!依頼の品だぜ銀嬢!!」
素晴らしい笑顔で駆け寄ってくるベジータの手にはレコーダーと封筒がある。
「そ、それは!!水銀燈アナタ!!」
うろたえる真紅の姿を見て、漸く水銀燈が普段どおりの笑みを見せる。
「さあ、試合はここからよぉ。ジャンクにしてあげるから覚悟なさ」
そこまで言いかけたところで……ベジータが転んだ。
手を離れるレコーダー。宙を舞う封筒。誰も反応できない。
飛んで行く。飛んで行く。落ちた先は……ジュンの手の中。
不幸なことに、封筒には糊付けがされていなかった。
写真が舞って、ジュンの手の中。ポカンとした顔で、それを凝視する。
唖然とした表情のジュンがレコーダーを取り落とす。
当たり所が悪かったか、丁度再生スイッチと床が激突したらしい。
『ジュン……わ、私なんて答えればいいのかしらぁ』
『ジュン……私、ずっと前からジュンのことがってキャーキャー!!』
空気が凍った。誰も状況を把握できていない。
なんだこれは、なんだこれは、なんなのだこれは。
「あ……そ、その……ご、ごめん」
転んだままの体勢で、空気に耐え切れなくなったベジータが謝った。
直後に水銀燈のラケットがベジータの脳天を叩き割った。
「あ……私、見たいアニメがあった」
走って出て行く薔薇水晶。誰も止めようとさえしない。
完全に沈黙したベジータは除き、残っているのは3人。
「あ、あの水銀燈」
なんだか申し訳無さそうに頭を掻きながらジュンが言った。
「あ……見た。みみみ見られた。あ、あ」
すいぎんとうはこんらんしている。
「そ、そそそれはっていうかさっきのは」
すいぎんとうはこんらんしている。すいぎんとうはたすけをよんだ。
「し、真紅にむむ無理矢理!!そう、全部真紅がししし真紅のせ」
完全に混乱しきっている。というか半分泣いている。
これはこれでなかなか見られないものだと真紅は場違いに思っていた。
ああああああああわ、私帰るます」
日本語さえおかしくなった水銀燈は脱兎の如く消え去ろうとした。
だが、その手をジュンが握り締めた。
「待って、水銀燈」
「え?」
動揺する。何故引き止められるのか。何故ジュンはこんなに冷静なのか。
「そ、その……言いにくいんだけど」
ズレた眼鏡を直しながら、ジュンが水銀燈に向き直り、言った。
「ぼ、僕なんかで良かったら。いや、僕も水銀燈のことが好きだ」
「……は、はい?何言ってるの?」
唐突過ぎて、リアクションが非常にしにくい状況だった。
コノヒトハイッタイナニヲオッシャッテイマスカ?
「そ、その……このメイド服も凄く可愛いし、に、似合ってるよ」
「え?ジュン?何?え?あ……う、嘘。だって私」
漸く状況を理解できるほどに頭が働きだした。
今、受けたのは、ひょっとしなくても、告白、デスカ?
「わ、私も!!私もジュンが好き。ずっと、ずっと好きだったのぉ」
ロクに考えもしないで、返事をした。考えていたら、遠くに逃げていってしまいそうで。
「あ、うん。あ、ありがとう……なんだか照れるね、こういうの」
ジュンが笑った。水銀燈も笑った。
「良かったわね、二人とも。それじゃあ私はこれで」
大団円を装って真紅も帰ろうとした。が、水銀燈に捕まった。
「さあ、これからが本当の地獄よぉ?おばかさぁん」
喜色満面。幸せオーラに取り戻した自信まで付加し、水銀燈が嗤った。
「……ふぅ、疲れたのだわ」
1週間後、全てを終えた真紅は視聴覚室に一人いた。
自分のお節介さにはあきれ返るほどだと、自分自身思いながら。
情報を集めていくごとに、状況は面白い方向へと転がっていった。
ジュンの趣味は知っていたし、水銀燈に好意を寄せていたのも丸わかりだった。
自分の復讐にかこつけて、わざわざ橋渡しをしてみたというわけだ。
わざわざ写真を持ち歩いていたのも、ある程度状況を先読みできたからだ。
……帰って下着が何故かべとべとしていたのは想定外だったが。
とりあえずベジータを殴り倒して良いこととした。
今やあの二人は初々しいながらも周囲がイラつくほどのラブラブである。
そんな姿に少々真紅本人も苛立ちを覚えながら、生暖かく見守っていた。
結局水銀燈に勝つことはできなかったが、屈辱は与えられた。
なかなか見ることが出来ないだろう。あんな水銀燈の面白い姿は。
「……いたのかしら。頼まれていた例のもの、出来上がったかしら~」
今日も金糸雀は元気だなあと思いつつ、無言で品を受け取る。
「毎度ありなのかしら~」
事務的な会話だけ終えて、気付けばその姿は消えている。
真紅は受け取ったばかりのそれを開封し、ビデオデッキに入れた。
「うふふ、面白いものを手に入れたのだわ」
黒い笑顔を見せる真紅。視聴覚室のモニターに映る映像を眺める。
それは、先日の騒動の一部始終が余すところなく見られるビデオ。
最近の技術は素晴らしい。小型でありながらこの性能で撮影できる。
「うふふ、暫くはこれで水銀燈をからかえるのだわ……うふふふふふふ」
END