それは高校時代の最後の思い出。
夕日が照らす屋上で、彼は言った。
それは愛の告白。今の関係を壊すかもしれないというリスクを覚悟しての行為。
嬉しかった。と同時に驚きでもあった。
いつも下僕として扱ってきた。いつも文句を言いながら彼は従っていた。
嫌われていると思っていた。いつも傍にいて欲しかった。
ずっと好きだった。本当に嬉しかった。
…でも、出てきた言葉は
「……め、迷惑よ」
違う
「いい? あなたは私の下僕」
違う違う違う
「思い上がらないで頂戴」
そんなことを言いたいんじゃない。
そんなことが言いたいんじゃない。
彼は「ゴメン」と言う。何で謝るの? 悪いのは私。
悪いのは全て私。謝るべきは私なのに…
素 直 に な れ な い
彼をふったその日、私はひとりで泣いた。
それから彼と会うことは減って行き、お互いに話すことも無く私たちはそのまま卒業を迎えた。
あれから数年。
私は今だに自分でふったはずの彼のことが忘れられないでいる。
今現在私はただの女子大生をやっているが、はっきり言ってあの頃のような充実感は無い。
何も無い日常をただ繰り返すだけ。
言い寄ってくる男も多かったけど、彼ほどの魅力を感じることは無かった。
ただ満たされない毎日を繰り返すだけ。
最近になってふと思う。
…もし、私があの時素直になれていたなら?
…もし、あの時私が素直に彼を受け入れていたのなら?
そんな時だった。私のもとに一通の招待状が届いたのは…
届いたのは薔薇学同窓会の招待状。
出席しますか しませんか
私は……
同窓会の会場のホテルに着くと受付を済ませ、中に入る。
もしかしたら彼に会えるかもしれない。彼に会ってしまうかもしれない。
期待と不安。二つの感情がせめぎあう。
何故出席することにしてしまったんだろう。後悔の念が少しわいてくる。
辺りを見回しながら歩いていると、うっかり誰かにぶつかってしまった。
顔を上げ、相手を見て驚く。
変わらない。変わっていない。間違えるはずが無い。彼だ。
しかし、
「あらぁ? 真紅じゃなぁい」
彼の腕に自分の腕を絡ませながら現れる女性。水銀燈だ。
「…その、久しぶり。真紅」
水銀燈の行動に嫌がる様子も無く挨拶をしてくる彼。昔は嫌がっていたはずなのに、何故?
少し呆然とする私に気づき、水銀燈は言う。
「あら、言ってなかったかしらぁ? 私たち、この間結婚したのよぉ」
もう一度彼のそばに行くこと。
今日私がここに来たのは多分、そんなことを期待していたからなのかもしれない。
でもそれはもう叶わない。なぜならもう彼の隣は空席ではないと知ってしまったから。彼の隣には彼女がいるから。
彼女、水銀燈。彼女は私のライバルであり、親友だった。
いつも真剣に張り合っていた。くだらないことでも真面目に張り合っていた。それはもう周りがあきれるほどに。
お弁当の早食いからテストの成績、そして恋。どんなことでも真剣に向き合える親友。
彼女は猫のように甘え上手で要領が良く、他のクラスの男子からも人気があった。
正直少し羨ましかった。いつも彼にきつく当たっていた私とは正反対。だから今彼女が彼の隣にいるのは仕方の無いことかもしれない。
私ではとてもあんな風に接することは出来ない。
変わりたかった。変われなかった。その結果が、あの日なのだ。
私が彼をふった日、私が失恋した日、私が彼を失って空っぽになった日。
そういえばその日以来彼女とは争った記憶が無い。
彼女は私を元気付けようと勝負に誘うなど、彼女なりに頑張った。
でも、当時の私に彼女の心は届かなかった。
そして完全に彼女が私を相手にしなくなった日。彼女の言った最後の言葉。
「今の抜け殻みたいなあなたに私が勝負を挑む価値はないわ」
何をしても上の空で無反応。そんな私に彼女が愛想を尽かせた瞬間だった。
衝撃の結婚宣言。あれからどうしたかはあまりよく覚えていない。気がついたらホテルのテラスから外を眺めていたことは覚えている。
今はテラスのテーブルに座り、一人で紅茶を飲んでいる。葉も温度も淹れ方も完璧なはずなのに、美味しくない。味がわからない。
「あら真紅、ここにいたのね」
現れたのは水銀燈。何故か一人だ。
「……水銀燈?」
「ええ」
彼女はうなずくと、私の正面の椅子を引いた。
「前の席、いいかしらぁ?」
「ええ……」
特に拒否する理由も無い。
「本当に久しぶりねぇ」
「ええ」
「顔を会わせるのは卒業以来かしらぁ?」
「そうね」
質問する。答える。ただそれだけの会話。
しかし、質問と質問の間に入るのはお互いを探っているかのような奇妙な「間」。
きっと他の人間はこの光景を見ても私たちが親友だったとは気づかないだろう。
続く会話。その内容は社交辞令という表現がぴたりとくる。
でもそれでいい。今は彼女が彼の事に触れないでくれていることがありがたかった。
ふと、彼女が黙る。
俯いて、何か思いつめたような、考えているような、複雑な表情をしている。
「……水銀燈?」
訝しむ私。何を考えているのだろうか。
やがて彼女は顔を上げる、その表情は何かを決意したような、そんな顔だった。
私はその表情に驚き、少し怯んでしまう。
彼女は真っ直ぐに私の目を見つめて言った。
「……真紅。次の日曜日、会えないかしら?」
いつもの彼女とは違う真剣な眼差し。きっと彼のことだ。
私は少し考えた後、彼女の誘いに乗ることにした。
彼をふったあの日から、彼のことは何度も忘れようとした。
でもできなかった。そして今もできないでいる。
その証拠にほら、今私はこんな所にいる。
こんな所。それは待ち合わせの喫茶店。水銀燈を待ちながら、私はずっと彼について考えていた。
彼、桜田ジュン。
かつて彼女と奪い合った男性。
かつて青春を共に過ごした異性。
きっかけは些細なこと、ずっと幼い頃に彼が破れたぬいぐるみをなおしてくれた。ただそれだけのこと。
それからずっと彼だけを見ていた。他の男なんて考えられなかった。
彼といるだけで全てが輝いて見えた。ずっと思いを伝えたかった。
…でも、勝負がついてしまった今、もういいのかもしれない。
彼を諦める時が来たのかもしれない。
私の心はもう輝かない。輝くことはない。あの頃には戻れない。
彼女が来たら伝えよう。まだ言っていないあの言葉を
『結婚おめでとう』
それを伝えた時、きっとながかった私の恋は終わる。
「…ねぇ真紅。本当はあなたジュンのことどう思っているの?」
いきなりだ。
私は紅茶、彼女は珈琲。品物を運び終えたウェイトレスが去るのを見計らい、彼女は真剣な表情でそう切り出した。
「な、何って……何かしら?」
あまりにもいきなりすぎたため、紅茶を少し吹いてしまった。落ち着け、取り乱すな。
「ジュンのことよぉ。あなた、私が結婚して大分ショックだったみたいじゃない?」
「そ、そんなことないのだわ」
相手の言うことをただ否定するだけの返答。これでは取り乱していることがバレバレだ。
「あなた、彼のこと今でも好きなんでしょぉ?」
「そ、そんなことは…」
言葉が詰まる。答えられない。
「……ねぇ。あなた、何時まで彼から逃げ続けるつもりぃ?」
「わ、私は…逃げてなんか……」
言葉が続かない。出てこない。彼女の顔を見ることが出来ない。
「……そう? じゃああなたはジュンのことが嫌いなのぉ?」
「…ジュ、ジュンは……。た、ただの下僕よ」
これでは質問に答えていない。
もうやめて欲しい。
しかし、彼女は質問をやめない。
「……ふぅん。じゃああなたはジュンのことはただの遊びだったってことぉ?」
「そ、そんな……」
違う。遊びなんかじゃない。
「ジュンがかわいそぉ。告白までしたっていうのに、彼はあなたにとってただの使い捨ての玩具だったのねぇ?」
違う。彼は玩具なんかじゃない。
「こき使うだけこき使って捨てるなんて、非道い話しねぇ」
違う。私はそんなつもりはない。
違う。違う。チガウチガウチガウ。
揺らぐ。決心が揺らぐ。この恋を終わらせる決心が揺らぐ。
「違う!!」
そして無意識に私は立ち上がり、彼女に向かって叫んでいた。
気がつくと私は立ち上がって叫んでいた。
何人かの客が驚いてこちらを見るが、そんなことは気にしない。ほとんど一気にまくし立てる。
「私はジュンのことが好き! ずっとずっと、子供の頃から好き!好きなの!
下僕になれっていうのも彼にそばにいて欲しいから! きつくあたったのも照れ隠し!
遊びなんかじゃない! 私はずっと真剣だったの! 好きなの! 大好きなの!!」
それはずっと抑えていた感情の濁流。幾年にも渡って積もり積もった想いの爆発だった。
叫び終わる、息が荒い。
私は一度深呼吸して、再び椅子に座る。何事かと驚いていた客たちも私に興味を失い再び自分たちの世界へ帰ってゆく。
そして私は、はっと我に返る。
「…あ、いえ…これは……」
気まずい。しかし、
「…良かったぁ。あなたの本心が聞けてぇ」
笑っている。さっきの意地悪な笑顔とは違う、嬉しいときの笑顔。
「……え?」
どういうこと? わからない。
わかっているのは彼女が笑っていることだけ。
彼女はさらにしゃべり続ける。
「私、昔言ったわよねぇ? あなたに『私が勝負を挑む価値は無い』って。あれ、撤回するわぁ」
晴れやかな笑顔。
突然のことに呆然とする私。
「……どういうこと?」
しかし、彼女は質問に答えない。そして、真剣な表情で言う。
「もう一度訊くわ。あなた、ジュンのこと、好き?」
…彼女の態度には戸惑うけれど、これだけははっきりと言える。もう大丈夫。私は素直になれる。自信を持って答えられる。
「もちろん!」
「…ふふ、さすがは私のライバルね。じゃあ勝負しましょう」
「勝負…?」
「そう、女同士のプライドを賭けた、最後の勝負」
そう言って彼女は嬉しそうにニヤリと笑った。
渡されたのは、一枚の紙。
緑の文字で書かれたそれは、離婚届。しかし、名前もハンコも、妻の欄にしか書いてない。
片方だけの不完全な離婚届。
「あなた、これからジュンにアタックしなさい」
意図がわからない。
彼女は離婚届を指差しながら言う。
「ジュンにそれを書かせることができれば、あなたの勝ち」
ああ、そういうこと。
「簡単でしょぉ?」
彼女らしい挑発の仕方だ。
それに自分からこんな事をしてくるなんて、よほど自信があるんだろう。
でも、もう迷わない。私の答えは決まっている。
「当たり前よ。後で後悔させてやるわ」
私たちはお互いに笑いあった。それは本当の友達に見せる笑顔。本当に認め合った好敵手同士が交わす笑顔。素直な笑顔。
きっと、明日からは忙しくなる。
きっと、明日からは充実した日々が戻ってくる。
さようなら、何も無い日常。
さようなら、満たされない日々。
そしてこんにちは、素直な私。