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超越してしまった彼女らと其を生み落した理由」(2016/11/03 (木) 17:05:21) の最新版変更点

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【傷の方は治ったのかい? バーサーカー】  人目のつかない裏路地だった。 <新宿>ほどの人口密度の都市で、人気が完全にない場所を探す事などほぼ不可能な事柄であるのだが、此処の所のこの街の異常性は、 聖杯戦争開催と同時に倍以上に強まって来ている。アウトローが目に見えて少なくなってきている、と言う事実がその最たる事柄であろう。 それでもやはり、この街は<新宿>。聖杯戦争開始一日目程度では、まだまだ街に人は大勢いる。 彼ら――ザ・ヒーローの主従が、全く人のいない裏路地を発見出来たのは、全くの偶然と言っても良かった。 【召喚された当時の、十全の状態とは言えんが、動く分には支障はない】  念話であろうとも、力強さの衰えが微塵にも感じられぬ声音で、ヴァルゼライドは返答した。 例え心臓を抉り取られようとも、数時間は活動出来る、と言われても、この男の場合それも仕方がないと皆に思わせてしまう。 それ程までの力強さで、このヴァルゼライドと言う男は満ち満ちているのである。  あれから、桜咲刹那と、彼女が従えるランサーである高城絶斗を探し回っては見たが、一向に彼らは見つからない。 当たり前と言えば当たり前だ。何せ相手は、空を飛べる上に、サーヴァントに至っては数百m間を一瞬で転移して移動出来るサーヴァントである。 如何にザ・ヒーロー達が強いとは言え、地上を移動するだけしか移動手段がなく、特に気配察知にも優れている訳でもない主従が、彼女らを見つけられる筈がなかった。  結局あれから二時間経過し、その内一時間半ばかりの時を、<新宿>を無駄に歩くだけの徒労に終えさせてしまった。 今やタカジョー達の主従は勿論の事であるが、半身に悪魔を宿す蒼コートの剣士すらも、今や見失ってしまった。 これ以上は無駄に自分もサーヴァントも消費するだけだと考えたザ・ヒーローは、急遽、先程の戦いで傷付いたヴァルゼライドの治療に方向性を変更させる。 その方針変更の結果、彼らはこうして、一目のつかない裏路地で、回復活動に専念している、と言う訳だ。  サーヴァントの肉体の蘇生は、人間とは違い、蛋白質や水分、と言ったものではない。 マスターから供給される魔力と、自前の魔力が活動のリソースであるサーヴァント達。これらの事実からも推察出来る通り、マスターが保有する潤沢な魔力がそのまま、 サーヴァントの活動出来る時間に直結する。つまり、魔力が多ければ多い程、越した事は全くなく、寧ろ少ないとデメリットしかないのである。 ザ・ヒーロー自体には、そもそも魔力回路等と言う物自体が存在しないと言っても良い。元を正せば、彼は市井の人間であり、魔術的な才能など皆無だった。 それにもかかわらず、彼が潤沢な魔力を保有し、ヴァルゼライド程のバーサーカーを平然と御せている理由は、今や悪魔の一匹も収められていない、 彼のCOMPにそれこそ無駄に詰め込まれたマグネタイト、=魔力があるからであった。  このマグネタイトを、ヴァルゼライドの治療に使っている。 身体の構成要素が魔力であると言う事は、外部からそれを供給させられれば傷の治りも早い事を意味する。 尤もこれは、ヴァルゼライドの固有の性質と言う訳ではなく、サーヴァントと言う存在である以上誰もが分け隔てなく有する共通項と言っても良い。 故に特筆すべき所など本来はない筈なのだが、ザ・ヒーローが溜めこんだ無尽蔵のマグネタイトの故に、傷の治りも早い。 バージルとタカジョーと戦った際の負傷など、尋常の手段では幾日掛かろうが治せるレベルではない筈なのに、今やもう、傷が塞がりつつあった。 先程のヴァルゼライドの言葉は強がりでもなく、正真正銘の、事実であったのだ。 【この聖杯戦争に招かれる存在だ。弱き者など一人としてあり得ぬ。そう考え、俺はあらゆる敵に対して、油断せず、全力で戦って来たつもりだ】  それは、ザ・ヒーローもよく解っていた。  【ままならぬものだ。お前に不様な姿を幾度も晒す事になるとはな】 【気にする事はないさ。だったらより一層――】 【そうだ。輝けば良い】  其処で英雄(ザ・ヒーロー)が言葉も英雄(ヴァルゼライド)も、言葉を切った。 そして、次なる宣言を行うのは、光り輝く鋼の英雄であった。 【俺は、力が強いだけの愚物が世を導くだなどと、死んでも思わん。強くそして――正しい者こそが。遍く悪を灼く光を放てる者こそが、勝者になれるのだと俺は信じている】  再び、言葉を区切る。 【腕がある、脚がある、頭もあり、心臓も脈を打っている。俺はまだ生きている。まだ全力でいられる】  【だからこそ、だ】 【完全なる勝利を求めて。今度こそ勝ちに行くぞ、マスター】 【そうだな】  コンクリートの剥げ掛けた壁に背を預けていたザ・ヒーローが立ち上がる。 その一瞬の間、彼は考えていた。勝利、と言う言葉が含む意味を。  自分は今度こそ、勝てるのだろうか。 絶望の中で得た友を再び失う事無く、誰もが笑って暮らせる人の世の楽園(ニルヴァーナ)を、今度こそ築く事が出来るのだろうか。 九十八%の理想の成就など。九十九%の理想の成就など。最早、彼は求めていない。 求める者は、たった一つの、完全なる勝利。自分の様な不幸が例え偶然でも起る事が許されず、家族も友も、理不尽に失う事がないそんな世界。 その為に、彼は剣を振い続けた。鬼に食われた母の為。自分とは異なる理想に殉じた友の為。最期の最期まで、自分について来てくれたパスカルの為。 全ての涙も悲しみも、この戦いで、彼は終わらせたかった。完全なる勝利が、それを払拭させてくれると、彼は信じていた。  ――……見ていてくれ……――  その祈りが、誰に向けられた物なのか。それすらも、最早英雄は、理解が出来ずにいるのだった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  公正な競技を行う上で、最も必要な要素は、選手間の能力差の解消でもなければ、厳格かつ完璧なルールの施行でもない。 有能かつ極めて中立的な立場からジャッジを下す審判の存在こそが、この場合最も重要なファクターとなる事は疑いようもない事柄だ。 如何に完璧なルールを下地にし、如何に選手の能力を水平的に保とうが、結局、審判を下す者が偏向的で無能であれば、著しくその公正性と公平性を欠いてしまう。 競技性、と言う、根幹的な要素を崩さない為には、その様な審判の存在をこそが、求められるのである。  万能の願望器である聖杯を巡って行われる、広義の意味で競技と言うべき聖杯戦争。 これを管理、運営する、極めて特殊なクラスこそが、『ルーラー』と呼ばれるサーヴァントであるが、では、此処<新宿>のルーラーは、公正なのか? と言われれば、答えは否だ。いや、正確に言うのであれば、ルーラーとして召喚された人修羅自身は、何の要因もなければ特に何も口出ししない。 問題は、彼を呼び出したマスターが、著しく公正さを欠いていると言う事だ。 聖杯戦争を管理する為の存在であるルーラーの手綱を握る者が、実は誰よりも聖杯を欲しており、本来ならば戦争運営に支障を来たさない為に与えられた数々の特権を、 最後の最後で聖杯を獲得する為に用いる等、最早公正さ以前の問題としか言いようがない。  聖杯戦争は持久戦としての側面も有している。 現世に留まる為の魔力がマスターから供給されていると言う性質上、当然マスターの魔力は限りある資源であり、無駄には出来ない。 ルーラーのサーヴァント人修羅のマスターであるエリザベスが保有する魔力量は、最早膨大と言う言葉ですら尚足りない程のそれだ。 真正の悪魔、しかもその中で最上位の格を誇るとも言うべき人修羅を維持してもなお、膨大な余裕に満ちている程であるのだから、その程度が知れよう。 もしも、ルーラーのサーヴァントを用いて聖杯を欲すると言うのであれば、参加者に戦いを挑み回ると言うのは愚作である。 聖杯戦争の管理・運営者と言う表向きの立場を利用し、一見すれば個々の争いには不干渉。そして、ジャッジするべき所では審判を下す。 このように振る舞って、一見すれば誰の目から見ても明らかな程の中立性を見せびらかしつつ、参加者が少なくなってきたところで、打って出る。これが、基本的なやり方と言えようか。  ――とは言え、簡単には行かない事も、エリザベスは知っている。 聖杯戦争参加者の中には、聖杯を求めると言う目的を持った者もいれば、『自分達を明白な敵性存在と認識』して行動している者も、少なくない、と。 自分達に聖杯戦争なる催しを教えた『蛇』は、報告してくれた。それは、彼女も解っていた事だ。 中には聖杯戦争等と言うイベントに勝手に呼ばれ、殺し合いをしろ、とのたまう自分達を許せない、と思う者は、居る筈なのだ。 当面の目的は、彼らに対して如何に遠回しな不利を強いるか、と言う事になるだろう。危険な目は潰して起きたい。 しかし……しかし。エリザベス、つまり、力を司る者と総称される彼女らは、総じて好奇心が旺盛で、好戦的な人物が多いのも事実だ。 他の主従に潰して貰うのがベストだと、思っていても……自分達が出て行って戦いたい、と思っている自分がいるのだ。 「……ハッ。いけませんいけません」  かぶりを振るい、エリザベスは考えを正した。 自分の本当の目的は、今も世界の果ての果てで、人類を破滅から防ぐ為の大扉の錠前になっている、有里湊の解放だ。 彼を救う為であれば、自分は、如何なる犠牲をも払うつもりだと、心に決めたではないか。 現に彼女は、既に、大事な姉弟を捨ててまでこの地にいる。此処で、目的を果たさねば、彼女らを裏切ってまで此処までやって来た意味がないのだ。 「……戦いたいのか」 「えっ?」  と言って、エリザベスは声のした方角に顔を向ける。 見事な黒色に緑色に光る縁取りを成させた入れ墨を、体中に刻み込んだ、上半身裸の青年は、呆れたように彼女の事を見ていた。 彼こそは、<新宿>の地にて開かれた聖杯戦争を管理する役目を任された、ルーラー(統率者)のサーヴァント。真名を、人修羅と呼ぶ、真正悪魔そのものであった。 「まぁ……ルーラーは、読心術まで使われるのですね。スキルなり宝具なりに説明しておけば宜しいですのに」 「使えない。お前の顔にそう書いてあるだけだ」  これ以上となく澄み切った、玲瓏たる美貌の持ち主。 男は勿論の事、悋気に煩い女性達ですら、エリザベスの顔を見れば、美人、と言う評価を下しようがないだろう。 基本的に、顔の表情を動かす事が少ない彼女であるが、いざ動かすと、驚く程、内面の感情が露になる。 今の彼女の浮かべていた表情は端的に言って、戦闘に対する欲求不満とでも言うべきか。一番勝率の高いクラスである事は否めないが、その勝率の高さとは、 権限や特権等を用いた待ちの一手による高さであって、戦闘を行っての勝率の高さ、と言う訳ではない。それが如何してか、エリザベスには、微妙な風であるらしかった。  ラジオを聞きながら、エリザベスは、簡素なパイプ椅子に腰を下ろしている。 何を聞いているのかと言えば、ニュースチャンネルだ。聖杯戦争開始から現在に掛けて、<新宿>で起った異変を、彼女らは具に纏めている。 そんな事を彼女らが行う理由は単純で、<新宿>で何が起ったのかの情報を集める為である。  結論から言うと人修羅は、サーヴァントとしては申し分ないどころか、間違いなく単純戦闘では超が付く程一流のサーヴァントである。 だが、この男はルーラーと言う観点から見たのであれば、三流どころか失格の烙印すら押されても最早文句は言えないサーヴァントでもあった。 この男は、ルーラーと言うクラスが有するべき様々な資質を著しく欠いている。 危難が起りそうな、起った所を指し示す『啓示』のスキルも無い。<新宿>全域を監視する『状況把握』もそれに類する宝具も持たない。 自身の分身を送り出すスキルもなければ、ルーラー自身に与えられる気配の察知能力も、この男は有さない。 とどのつまりは、真名看破と、極めて高ランクの神明裁決を除けば、人修羅は他クラスのサーヴァントと最早何の違いはないのである。 だからこそ、エリザベスらはこのように、ラジオと言う古典的かつ、聖杯戦争の状況を把握する為にルーラー達が用いるとは思えないデバイスで、情報を集めているのだ。  何故、人修羅はこのようなルーラーになったのか。 一つ。どちらかと言えば彼は、『聖杯戦争の管理者』と言うよりも、『帝都の守護者』としての側面が強いと言う事。 今の彼は、坂東にまします、ある『やんごとなき神格』から、帝都即ち東京の守護を任されている、と言う設定状態にある。 そう、彼が護るべきものは聖杯戦争でもなければ聖杯でもなく、東京そのものなのだ。だからこそ、彼には高ランクの神明裁決と、スキル・『帝都の守護者』が与えられた。 帝都の守護こそが優先任務であり、聖杯戦争の管理など二の次。だからこそ今の人修羅には、本来ルーラーが有するべき、状況の把握に関わる宝具もスキルもないのだ。 東京の平和を脅かす者を叩き潰す戦闘能力と、それを如何なく発揮する為のスキルこそは持って来れたが、本来ルーラーならば有していて然るべき、 そう言ったスキルと宝具がない。これが、人修羅と言うルーラーなのだった。  そもそもこの男がルーラーで呼ばれると言う事自体が、強引なこじつけだ。 曲がり間違っても、彼がルーラーで呼び寄せられる事などあり得ないし、そもそも聖杯程度の魔力でこの男を召喚する事など不可能だ。 それにもかかわらず、人修羅がルーラーのサーヴァントとして、エリザベスの願いに従っている理由は、この聖杯戦争の異常性を証明する事の一つ以上に……。 彼の上司とも言うべき、とある大悪魔の意向によるところが大きい。端的に言えばエリザベスが人修羅をサーヴァントとして使役出来ている訳は、 その大悪魔からの手解きを受け、しかも直々に、人修羅を召喚する為の触媒を渡された事が大きい。これがなかったら、もっと別の存在が呼び寄せられていた事は、想像に難くない。  ――余計な事をするな……あいつも――  舌打ちを響かせそうになる人修羅だったが、グッと堪える。つくづく、ロクな事を考えない魔王だと思う。 エリザベスに従う事自体は、別に人修羅は文句はない。東京をなるべく破壊せず、聖杯戦争を管理・運営すると言う事自体にも、積極的だ。 ――よりにもよって、何故その上司自体が、聖杯戦争に参戦しているのかと、人修羅も、そのマスターのエリザベスも、ほとほと呆れ返っている。 しかもサーヴァントとして、ではなく、マスターとして、だ。ご丁寧に、身体能力の水準も一般的なマスターのそれと合わせているのだ。 何処までも、あの男は茶々を入れたいらしいな、と……。何だか頭痛が隠せなくなって来る。  ラジオの掠れた声が、様々なニュースを人修羅達に告げて行く。 ――天気予報に予測されない降雨や雷鳴。 ――新宿二丁目に突如として現れた、馬に騎乗した西洋系男性二名と、巨大な鬼の様な生物。 ――突如として早稲田鶴巻町に巻き起こった、二か所の大破壊。 ――落合のあるマンションとその駐車場で勃発した、謎の切断現象。 ――黒礼服の殺人鬼(バーサーカー)が暴れ回った神楽町で発見された、巨大な怪物の死体と、新大久保のコリアンタウンで発見された世にも奇妙な怪物の死体。 ――香砂会と呼ばれるヤクザ組織の邸宅が完膚なきまでに破壊され、しかも、その時に、黒礼服のバーサーカーの姿を見たと言う目撃談。  <新宿>は狭い。やはり、既に大規模な戦闘は起っているらしく、更に、これは推測だが、小規模な小競り合い程度ならば、もっと起っているだろうと、 人修羅もエリザベスも判断した。良い感じに、戦局は混迷を極めつつあるようだ。そして、着実に……<新宿>は破壊されていっているらしい。 「……」  顔を抑えて、溜息を人修羅は一つ。 「どうかなされましたか?」 「後で公の大目玉があると思うと憂鬱だ、俺も」  ある程度の破壊が齎されるであろう事は、人修羅も読んでいた。 なるべくならそれを、最低限度に済ませたかったが、如何も現状を見る限り、最早それも難しいらしい。 今の内に、申し開きの一つや二つを探しておいた方が良いのかも知れない、と人修羅は本気で考え始めた。 エリザベスが引き当てたサーヴァントとして、一応の責務を果たしつつ、帝都の守護者としても振る舞わねば行けない、と言う板ばさみ。何で俺がこんな目に、と思うようになってきた。  情報がラジオ頼みと言うのは不便極まりない。何故ならばラジオと言うメディアを通じて伝えられる情報とは、意図的な編集が加えられているからだ。 ルーラー達が聞きたい、生の情報なのである。魔術、=神秘の事を知らぬ一般人から見た情報など、役に立たないのだ。 こう言う時に動いてくれない辺りが、実に、あの魔王らしいとしか言いようがない。  人修羅がルーラーとして落第点であると言う事の最たる理由が、聖杯戦争を監視したり、危難を未然に察知するスキルや宝具を持たないから、と言う事が大きい。 しかし、それを補う方法は、ないわけではない。人修羅はこれを、『配下の悪魔を利用して』解決した。 とは言え、ルーラーとして召喚された人修羅は、『彼自身の強さと指導力』を強調されて現れたサーヴァントの為に、『率いていた悪魔と共に戦っていた』、 と言う側面が排されている。つまり、今の彼には悪魔の召喚能力は完全に存在しない。 だが逆に言えば、召喚される前の人修羅は、これを有していたと言う事を意味する。――結論から述べるのならば、人修羅は、 彼の大魔王からルーラーとしてこの地に赴けと言われる前に、大魔王の傘下にある悪魔の何体かを、此処<新宿>に先に潜入させておいたのだ。 この時侵入させた悪魔は、擬態能力で完璧に人間に変身しており、人修羅及び彼の上司の大魔王から、聖杯戦争には不干渉を貫けと厳命されている。 彼らの役割とは即ち、聖杯戦争の参加者についての情報収集である。彼らの集めた情報があったからこそ、ルーラー達は、 遠坂凛の主従やセリュー・ユビキタスの主従の顔写真を用意し、契約者の鍵を通して皆にその姿を教える事が出来たのである。  但し、制約も多い。 先ず悪魔の数が多すぎると、逆に目立ちかねないので、その総数は抑えておいた。十体もその数はいないが、その分、実力の高い悪魔を揃えておいた。 次に不干渉を貫く、と言う事は、彼らは基本、人修羅が危機に陥ったからと言って、彼を助ける事もない。完全な中立である。 これは、ルーラーがこのような不正を行っていると言う事を他参加者に知られ、要らぬ不信感を招く事を防ぐと言う意味もある。 そして決定的な制約が、これらは人修羅の指導下ではなく、大魔王の指導下にある存在である、と言う事だ。 つまり、人修羅の命令よりも、大魔王の命令の方を優先して聞く傾向にある。これはそもそも、正体が露見された時に、他参加者に脅され、 誰の手による者かと聞かれた時に、人修羅の名前を出さないようにする為、と言う上司の有り難い配慮の故なのだが、これが人修羅には不安だった。 大魔王の命令で動く悪魔。この時点で、もう人修羅には嫌な予感しかしなかった。情報の意図的な編集を行うのは、メディアだけではない。 『アレ』にしたって、それは同じだからだ。……いや、場合によりては、向こうの方がずっとタチが悪い。  エリザベスにしても、それは同じ意見であるらしい。 裏方で、あの魔王も――ルイ・サイファーと言う千回ぐらい聞いた偽名を用いてるらしい――動いているのは確実だ。 彼の齎す情報は、ルーラーとしての活動の一助になっている事は紛れもない事実であるが、同時に、なるべくならば頼りたくない。 不本意ながら、ラジオに情報収集の源として頼っているのは、こう言った事情もあるからであった。 「何でも願いの叶う、と言うお題目を掲げた戦争だ。参加者も必死になるのは解るが……なるべくなら、俺が怒られないようには誘導したい」 「まるで子供みたいですね」 「不興を買うのを避けたい奴は、俺にだっている」  チッ、と舌打ちを響かせる人修羅。 混沌王と呼ばれる悪魔になって幾久しく、明けの明星が有する切り札として数多の戦場を駆け抜けて来た期間など、これよりもっと永い。 そんな人修羅でも、喧嘩を避けたい存在の一人や二人は、存在する、と言うものだった。この場合公は、マサカドゥスを借り受けたと言う恩義から、反目に回りたくない人物だった。  どうしたものかと苦い表情を浮かべる人修羅と、ラジオに耳を傾けるエリザベス。 ――両者の表情が一瞬で、真率そうなそれへと変貌し、互いに顔を見合わせたのは、本当に殆ど同時の出来事だった。 「やれやれ、こんな早くから殴り込みか。ルシファーの差金か? これは」  とうとう人修羅も、上司に対する配慮も何もかもかなぐり捨てた。 「……恐らくは、此方に対して宣戦布告を仕掛けて来た、と言う事は事実でしょうね。問題は……」 「何だ」  ふぅ、と一息吐いて区切りをつけてから、エリザベスは口を開いた。 「宣戦布告をしに来たであろう人物が、私の関係者、と言う事でしょうか」 「……そうか」  それについて人修羅も、特に何も言う事はなかった。ただ、現れた敵についての処遇を、冷静に考えるだけ。  ルーラーとしての知覚能力は最低クラスだが、サーヴァントとして、そして、真正悪魔として。 彼が有する気配察知の知覚能力は、容易くこの病院一つはカバーする。 人修羅の知覚能力が。エリザベスの血の疼きが。この病院にやって来た存在の、並々ならぬ殺意を感じ取っていた。 その存在は――エリザベスの姉に当たる人物だとは、まだ人修羅は知らない。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  この病院に、目当ての主催者がいると言われた時、浪蘭幻十は自らのマスターを訝った。 朽ち果てた、という表現がこれ以上となく相応しい病院だった。ガラスは割れ、外壁の所々が欠けていたり、剥がれていたり。 サーヴァントの優れた視力は、割れた窓ガラスからその部屋の内部をよく窺える。見るも見事に蛻の殻の、荒れ果てた状態だ。 幾年と言う年月を、時間の流れるがままに任せていたのだろうか。そもそも、病院と言う、通常は潰れる事などありえない施設が、何故こんな事になっているのだろうか。  ――<新宿>衛生病院。其処が、今幻十達が見上げている場所である。 そして、幻十のマスターであるマーガレットに曰く、此処こそが、彼女の妹にして、此度の聖杯戦争の首謀者の拠点である、と言う。  このような、都会の只中にある事自体が珍しい廃病院を、よりにもよって拠点とするとは。成程、盲点であった。 と同時に、何故、このような場所を本拠地に設定したのか。そしてそもそも、マスターは如何して此処に主催者がいると解ったのか。 マーガレット曰く、如何なる理屈でも説明出来ないとされる、姉妹の共感性、としか返って来なかった。 馬鹿を言うなと、幻十は言わなかった。自分もそれには覚えがあるからだ。何故ならば彼もまた、その共感性を以て、このケチな<魔界都市>に、親友――仇敵――がいると認めたのだから。  そして現に、この病院には確かに、『いる』。 如何なる術法を用いているのかは解らないが、病院の前に立っただけでは、サーヴァントの気配を察知する事は出来ない。 しかし、幻十は妖糸の使い手である。人の目には絶対に捉えられないナノサイズのチタン糸を病院内部に張り巡らせた所、気配が二つある。 どちらも、怪物だった。一人は確かにサーヴァントのもの。そしてもう一つは、そのサーヴァントに追随する程強い存在。 おまけに相手は、糸に気付いているらしい。糸を切断しながら、歩いて此方に向かっているのが幻十には解る。 切断しているのはサーヴァントの方。鋭利な剣で、チタン妖糸を切り払いながら迫っている。 「どうかしら、アサシン」  不遜な態度を隠しもせず、マーガレットが言った。 「如何なる手段でか、<魔震>と<亀裂>を再現した女の呼び寄せたサーヴァントだけはある。相当な手練だ」  幻十を知る者が聞けば、それが彼にしては珍しい、最大限の賛辞であると皆が言うであろう。 諸霊諸仏の類ですら恋慕の念を沸き立たせるやも知れぬ、幻十の美貌。彼の美を以て褒められてしまえば、その者は皆、この男に無条件で尽くすようになるのではなかろうか。 「僕の妖糸を認識してる事は確実だし、何よりも、如何なる手段を用いてか、病院自体の大きさも、三次元の法則に囚われていない。普通より拡張されている」  病院の中のサーヴァントらを確認する傍ら、幻十は病院の構造を妖糸で把握していた。罠等を感知する為だ。 結論を言えば院内にはそう言った類は存在しなかったが、外見上の病院の大きさと、内部の広さが合致しないのである。 空間自体を広くさせる術を用いている。幻十は即座にそう判断を下した。それを除けば、この病院に施された不可思議な現象はそれだけだ。 この病院を拠点だと言われた時、幻十は、魔界都市の住民の誰もが想起するであろう、あの『病院』の事を連想した。 幻十ですらもが敵に回す事を恐れる魔界医師が運営する、史上最も堅固で最も危険な要塞、メフィスト病院を。 ただ、中に探りを入れて見れば、メフィスト病院などとは比べるべくもない、無その物と言っても良い防衛システムに、少しだけ幻十も安堵した。 但し――その中に鎮座する存在は、彼のメフィストと同等か、それ以上と呼んでも差し支えのない存在であるのだが。 「中に入るわよアサシン。意地でも、止めて見せるわ」 「解ったよ」  聖杯戦争の主催者、並びに、ルーラーを葬り去ると言う事は、最悪の場合聖杯戦争のシステムの根幹すらも破壊すると言う事を意味するかも知れない。 だが、知った事ではない。マーガレットも幻十も、共に、聖杯などに大した意味を見出していない。 幻十にしたって、聖杯戦争に乗り気なのは、主催者の殺害と、恐らくは呼ばれているであろうせつらとの決着の為だ。 聖杯はあくまでも、手に入れてから使い道を考える程度の代物に過ぎず、本命は、その過程にある、と言う点で、幻十は他の主従を逸脱したサーヴァントであった。  二人は病院の内部に足を踏み入れる。 嘗て病院のロビーであった場所は、当たり前の事であるが、無人の野、とも言うべき状態であった。 果たして、最後に人の気配がなくなってから、幾つの月日が流れたのだろうか。 スプリングとスポンジの飛び出したソファ。堆積した塵と埃。床に飛び散ったガラス。そのガラスの元と思しき、割れた蛍光灯などの照明類。 このような廃墟を、拠点に選んだ意味を、二人は考えない。此処にいる、と言う意味だけが、今や重要なのであった。  妖糸を張り巡らせなくとも解る。 ――『とてもなく、恐ろしい悪魔の気配』が、体中に叩き付けられてきているのであるから。 それを理解してなお、幻十もマーガレットも、その場にとどまった。何が来るのか、と言う事への期待感。 そして、如何なる存在を呼び出し、どのような戦いを繰り広げられるのか、と言う強い関心もあった。 マーガレットもまた、新たなる力の萌芽を喜ぶ『力を管理する者』の一員なのであった。 「姉上がこの地にやってくる事――私、薄々ながら理解しておりました」  それは、マーガレットから見て、広いロビーの右側の四隅の右上側、其処に位置する曲がり角から聞こえて来た。 姉とは女性としての声質は似ていないが、酷く落ち着いていると言う点だけは、共通していた。 先程から糸を動かそうとしているが、動かせない。動かす前に、彼女のサーヴァントが妖糸を切り刻んで無力化させているからだった。 一ナノmにも達する程の細さのチタン妖糸を視認或いは感知し、しかも、幻十程の手練の操る糸を斬るとは、やはり、普通ではない。  ――そして、二人が姿を現した。 マーガレットの来ているスーツと似たような配色をした着衣物を身に纏った、銀髪の美女。 その背後に控える、全身に特徴的な、光る入れ墨を刻み込んだ青年男性。上半身裸にハーフパンツと言う、蛮族もかくやと呼ばれる程ラフな格好である。 マーガレットと幻十は、即座に理解した。この聖杯戦争の主催である彼女――エリザベスが、此度の戦争運営に関して、とんでもない怪物を呼び寄せたのだ、と。 ルーラーのサーヴァント、人修羅から発散される、無色の覇風。断じてこれは、並一通りの英霊が放てるそれではない。 果たして幾度の戦場を駆け抜ければ、幾度の死を踏み潰せば、幾度の万魔を葬れば、彼と言う個になれるのか。 いや、そのような事を達成させたとしても。あれ程の存在に、なれるのか? この世に存在すると言う事自体が、奇跡にして、必然。そうとしか言外出来ない程の、超越的な存在。それが、人修羅であった。  エリザベスの方も、マーガレットの呼び寄せた存在を見て、一瞬だけ驚いた様な表情を浮かべた。 無理もない。今エリザベスの視界に映るアサシンのサーヴァントは、この世の美なる概念の絶対の規矩にして、絶対に手を伸ばせぬ高嶺の花。 人が如何なる神を信奉しようとも、如何なる悪魔に魂を売ろうとも、そして、運命なる物を自由に改竄させようとも。 彼の美を手に入れる事は出来まい。そして、彼の美を侵すことも、また。そう言う存在なのだ。浪蘭幻十とは、そんなサーヴァントなのだ。  力を管理する者の心すら、数瞬空白にさせる程の、恐るべし、浪蘭幻十の美貌よ。 しかし、エリザベスと只人の違う所は、美貌に当てられた驚愕から復帰する速さだ。 直に元の状態に戻れたのは、彼女自身の精神力の凄まじさもそうであるが、人修羅自体が、ロビー全土に己の存在感を行き渡らせたからに他ならない。 強烈な磁力めいたエネルギーを内包したその存在感は、幻十やマーガレット、エリザベスに衝突するや、直に彼らの気を引き締めさせに掛かった。 これがあったからこそ、エリザベスは、即座に精神を元の状態に通常よりも早く安定させる事が出来たのだ。 「エリザベス」  聞き分けのない子供か妹を、折檻する様な口ぶりで、マーガレットが言った。 「色々貴女には言いたい事があるわ」 「口上を承りましょう。姉妹の好です。全て、お答えいたします」  そうエリザベスは、厳粛そうな口ぶりで言うのを聞くや、マーガレットは懐から群青色の鍵を取り出した。 それこそは、契約者の鍵。この<新宿>で開かれる聖杯戦争に招かれる為の、血塗られたチケット。破滅と栄光への片道切符。 「これを、この地に呼び寄せる文字通りの鍵にした理由を、話しなさい。これを鍵にしたのであるのならば、私か、テオドアが呼び寄せられる事位、読めた筈よ」  マーガレットには、ずっと疑問であった。 この鍵は、力を管理する者と呼ばれる者達であれば、手にしていておかしくない代物である。 マーガレットは他の参加者達とは違い、この鍵の意味と重みを誰よりも理解している存在の一人である。 これを切符にしたと言う事は必然、エリザベスと肩を並べる強さのテオドアか、彼女よりも強いマーガレットもこの地に呼び寄せてしまう事位、解っていた筈だ。 そうなってしまえば、聖杯戦争の運営に、滞りが生じるのは当たり前の話。何故、その危険性を解っていた筈なのに、彼女はこの鍵を? 「深い意味は、ありません」  対するエリザベスの答えは、マーガレットが予期していたものよりも、ずっと簡素だった。 「本心を言うのであれば、私とて、聖杯戦争が正しい事であるなど、少しも考えておりません。聖杯戦争――何と聞こえの良い言葉でしょうか。そして……」 「何て、最低な催しなのか」 「ですね」  ふぅ、と息を吐いたのはエリザベスの方だった。 「そのような大仰で、そして、業の深い戦いを繰り広げる以上、半端なものを鍵にしたくなかったのです」 「だから、契約者の鍵を? 間抜けにも程があるわね」 「でしょうね。これを鍵に設定してから、気付きました。姉上が来るであろう、と言う可能性に」 「テオドアは考えなかったのかしら?」 「テオは……あれで甘い所がある、可愛い弟ですから。来るのならば、姉上であろうと。初めから決めつけておりました」  苦笑いを浮かべながら、更にエリザベスは言葉を続ける。 「でも、来たのが姉上で良かったのかも知れませんし、姉上に叱られて、私、嬉しく思います。 私の行っている事が、横暴だと言う事は、誰に言われるでもなく理解していた事でしたから……、貴女が来てくれて、私は、大変嬉しく思います」  苦笑いは直に、悲しげな、風に吹かれれば砂と塵とに消えてしまいそうな、儚い笑みに変貌する。 姉のマーガレットも見た事のない、エリザベスの初めて見せる一面であった。 「其処まで解っているのならば、エリザベス。今すぐ聖杯戦争を取りやめなさい」 「お断りします」  エリザベスの即答は、鋼だった。其処だけは、譲る事は出来ないと言う不退転の意思が、言葉と態度から表れていた。 「最低な催しだと解っていても、人道に悖る行為だと理解していても。私には、叶えたい願いがあるのです」 「……世界の果てに囚われた男の話かしら?」  それは、エリザベスがベルベットルームから出て行く時に、彼女自身が語った事。 初めは御伽噺だと思っていたが、彼女らの主である長鼻の男も、彼の存在を認めていた。 世界を滅びから救い、今も、遥かな世界の果ての果てで、大いなるネガティヴ・マインドを防ぐ事を強いられている、男の話。 「人の業に踊らされ、世界の滅びを招かされ。そして、一人で滅びの扉の錠前になっている。私には、彼がそんな風になっている事が、許せなかった」 「その彼の為に、貴女は、聖杯戦争を行うと? 一人の為に、何人もの命を弄ぶのは、それこそ許されない事よ」 「それと解っていても――」 「退かない、と言う訳ね。馬鹿な妹」  其処でマーガレットは、今まで腋に挟んでいた青い装丁の本を開いた。 本からは、この時を待っていたと言わんばかりに、幾つものカードが勢いよく飛び出し、彼女の周りを衛星めいて旋回し始める。 「痛い目を見せてでも、貴女をベルベットルームに引き摺り戻すわ。貴女の旅路は、此処で終わりよ。エリザベス」 「終らせません。姉上であろうとも私の道を、邪魔させません」 「――下らないな」  姉妹の会話が今終わり、戦いが始まろうとした、この瞬間を狙って言葉を挟んだのは、他ならぬ浪蘭幻十だった。 楽園で天女が掻き鳴らす天琴の如くに美しいその声には、途方もない無聊と、怒りとで、横溢していた。 「此処までやって来て、姉妹の御涙頂戴を聞かされる僕の身にもなって欲しいな。君達の麗しいやり取りを見る為に、僕は此処に来たんじゃない」  其処で、幻十が押し黙る。この世の如何なる槍の穂先よりも鋭い殺意を双眸に込めて、彼はエリザベスらを睨んだ。  空間が恐れを成して、収縮するような感覚を一同は憶えた。この様な雛に稀なる美男子ですら――殺意を露にするのかと。 そして、美しい者の決然たる表情は――此処まで壮絶な美しさを湛えるのかと。 「君を殺す為に此処に来たんだ、<新宿>の冒涜者よ」  其処まで言った瞬間、人修羅の全身が茫と消えた。 気付いたら彼は、エリザベスの真正面に立ち尽くしていた。その背で彼女を守る騎士が如き立ち位置の関係である。 彼の右手は薄紫色に光り輝く、魔力を練り固めて作っただけの、原始的で武骨な剣を握っており、それを持った右腕を水平に伸ばして構えていた。 「――ほう」  と、嘆息するのは幻十の方だった。 幻十ですら後を追う事が困難な程の速度で人修羅が動き、エリザベスを百六個の肉片に分割させんと迫らせた不可視のチタン妖糸を、 このルーラーは尽く斬り裂いて回り、無害化させた。その事実を、果たしてマーガレットとエリザベスは把握していたかどうか。 今の嘆息には、侮りの意味を込めてない。驚きの感情の方が強い。何故ならば幻十は、エリザベスを斬り裂くのに、 『現状』持てる全ての技量を費やして、妖糸を操った。幻十が本気で妖糸を動かした場合、気配察知や心眼、直感等と言った、 第六感に類するスキルや特質を超越し、本来物理的な干渉を無効化する性質すらもランク次第でいとも容易く切断する。無論それは、秋せつらにしても同じ事が言える。 その幻十の操る糸を、一方的に、あの魔力剣で切り裂くなど、尋常の事ではない。恐るべし、ルーラーのサーヴァント、人修羅よ。  そして内心では人修羅も唸っていた。 生半可な攻撃など、例え公から賜った無敵の盾を用いなくとも、彼は容易く迎撃、無力化出来る。 付け焼刃の不可視、フェイント、妨害。そんな物、飽きる程彼は経験して来た。 百や千では到底効かぬ修羅場を潜り抜け、万を超す神魔の戦場を勝ち残って来た彼の心眼と直感は、並の事では鈍らない。 その彼の常軌を逸した戦闘経験の全てを以ってしても、幻十の攻撃を防ぎきるのは、かなり危険な所であった。 如何にサーヴァントとしてその身を窶し、元々の実力を発揮出来ぬと言っても、彼をして此処まで危ぶませる程の攻撃を放つなど、尋常の事ではないのだ。 「マスターの姉と言うが……成程、大したサーヴァントを引き当てたようだな。血、と言う奴か」  元より、人修羅とて油断していた訳じゃない。 マーガレットがエリザベスの姉だと解っていた以上、一切の驕りを彼は排していたし、幻十の姿を一目見たその時から。 警戒心は最大限にまで高められていた。幻十の不意打ちを見た今、その警戒心は敵を排除すると言う『殺意』へと昇華された。 このサーヴァントを、自分が葬って来た幾千万もの万魔の屍山の一員に加え入れる。そう、人修羅は決意した。 「――デッキ、オープン」  其処まで言った瞬間、エリザベスもまた、小脇に抱えていた辞書を展開させる。 この時を待っていたと言わんばかりに、辞書――通称、ペルソナ辞典に挟まっていたカードの一枚が勢いよく飛び出し、それを彼女は素早く手に取った。 瞬間、瞬きよりも早い速度で、衛生病院のロビーと言う空間が、『書き換えられた』。 くすんだリノリウム、散らばるガラス片、電気系統が死んで久しい照明類、やれたソファ。それら全てが、世界から消えてなくなり、 代わって現れたのは砂漠だった。オアシスも無ければ岩場も無い、ただただ茶けた砂粒が無限に広がっているのではないかと言う程の、渺茫たる荒野。 これこそは、エリザベスもとい、力を管理する者がその力を以て作り上げた、一種の閉鎖空間、或いは、固有結界であった。 彼女程の存在であれば、このような空間を作り、相手が逃走するのを防ぐ事など訳はない。無論、エリザベスにもそれが出来ると言う事は、マーガレットにもこれが出来ると言う事なのだが。  エリザベスが、この空間を展開した理由は一つ。 マーガレットを、逃さない為? いいや違う。この<新宿>聖杯戦争の主催者は、自分の姉がそのような気質の持ち主でない事をよく理解している。閉鎖空間を展開させた理由は、ただ一つである。  ――自らが引き当てた、究極の真正悪魔(ルーラー)が、その本領を発揮させられるようにする為。この一点のみに他ならない。 「ジャッ!!」  裂帛の気魄を込めた一喝を上げ、魔力剣を地面に叩き付けた。 叩き付けた所を中心に、直径数十mにも渡り巨大な亀裂が走り、地面が上下に激震した所から、人修羅の人智を超えた膂力と言うものが窺い知れよう。 しかし本当の攻撃はこの亀裂を用いたものではない。単純に、剣先から生み出された橙色の熱波(ヒートウェーブ)である。 高さ六m程にもならんとしているこの熱の波は、音に倍する速度で、幻十とマーガレットを呑み込み消滅させんと迫りくる。  これを、不可視のチタン妖糸を以て防ごうとする幻十であったが――慄然の表情を明白に彼は浮かべた。 戦艦の主砲ですら無力化する程のチタン妖糸を、人修羅の放った熱波は、まるで泥のように溶かしながら進んで行くのである!! 熱波を避けんと、マーガレットは垂直に、熱波の高さよりも高い所まで跳躍。いざという時の為に、マーガレットに妖糸を巻き付けていた事が、功を奏した。 跳躍したマーガレットを起点に、巻き付けた糸を動かし、自身も、マーガレットと同じ高さまで跳躍する幻十。 砂粒を更に細かい粒子に破砕させながら、ヒートウェーブは二人を通り過ぎて行く。 「ルーラー、私は姉上を対処致します」 「あぁ」  だから貴方は、相手のサーヴァントをお願いします。 そうエリザベスが言いたかった事は、人修羅にも解る。息の合った、良い主従と言う様子が、マーガレット達にも見て取れる。 砂地の上に、マーガレットが着地する。幻十は、空中に張り巡らせたチタン妖糸の上に直立し、人修羅達を見下ろしていた。 せつらや幻十程の腕前の持ち主となれば、糸を巻き付ける物が絶無の空間においてすら、妖糸を展開、空中に張り巡らせる事など造作もない事なのである。  「あ」の一音発するよりも速い速度で、幻十は、エリザベスと人修羅の周囲に糸をばら撒いた。  一ナノmの細糸は、地面に根付き、空中に固定される。幾千条を超し、万条にも達さんばかりのチタン妖糸は、敵対者を逃さない不可視の檻となって彼らを包み込んだ。 マーガレットがこれと同時に、ペルソナ辞典から飛び出したカードを手に取った。 人間と言う種がいる限り滅ぶ事のない高位次元、『普遍的無意識』にアクセス。心と精神の溶け合ったスープの大海原に漂う神格に形と定義を与え、彼女はそれを物質世界へと招聘させる。 「ジークフリード!!」  美女の背後に現れたのは、乾いた血液の様な皮膚の色をした金髪碧眼の美男子だった。 鱗を編んだような軽鎧と兜を身に纏い、岩をも切断出来そうな佇まいの剛剣をその手に握った戦士風の男。 彼なるは、北欧はドイツの叙事詩、ニーベルンゲンの歌に記される大英雄、ジークフリード。 悪竜ファフニールを勇気と知恵で以て打ち破り、竜を倒して得た数々の宝を以て比類なき武勲を立てて来た英雄の中の英雄であった。 人の思念と想念が入り混じる普遍的無意識の海は、斯様な存在をもカバーしているのだ。  討竜の大英雄が強く念じたその瞬間、エリザベスと人修羅が直立している地点と地点を結ぶ線分、その中心の空隙に、爆発が巻き起こった。 いやそれは、正確に言えば爆炎だ。摂氏七千度を超す程の大火炎は、爆発現象が起ったのではと錯覚する程の勢いを伴っていたのである。 エリザベスも人修羅も、これに反応。共に横っ飛びに跳躍する事でこれを回避した。結局爆炎は二人を焼滅させる事は敵わず、地面の砂粒をマグマ化させる程度にとどまった。  人修羅の姿が霞と消え、エリザベスの前に立った。 手にまだ握っていた魔力剣を、肩より先が消失したとしか思えない程の速度で振り抜いた。 その攻撃で、エリザベスに殺到していていた二千百二十一条ものチタン妖糸が切断され、無害化されたと言う事実を知るのは、 攻撃を放った幻十と、それを防いだ人修羅だけだった。もう一度、魔力剣を一振りさせる。剣自体は元より、剣から生まれた衝撃波が、チタン妖糸を切断して行く。 幻十の瞳にのみ見えていた、大量のチタン妖糸の結界は、この瞬間一本もなくなった。 「マスターあのアサシンは目に見えない糸を使ってお前を切り刻む。攻撃の時は最大限注意しろ、お前なら見えない筈はないだろう」 「やってみましょう」  そう会話を終えると、人修羅の背中からエリザベスが飛び出た。 それと同時に、人修羅は小さく息を吸い込み、幻十目掛けて呼気を放出した。――その呼気は、一万度を超す熱量を伴った火炎の吐息だった。 人修羅程の悪魔ともなれば、竜種などの最上位の幻想種に匹敵、或いは上回る奔流(ブレス)を吐き出す事も可能なのである。 吐き出された火炎の吐息(ファイアブレス)は、息と言うよりは最早レーザーで、凄まじい速度で大気を焼きながら幻十の方へと向かって行く。 不可視のチタン妖糸を目の前に展開させる幻十。ブレスが糸に直撃する。傍目から見れば、目に見えない凄まじい耐火性の壁に、炎が阻まれている様にしか見えないだろう。 チタン、と言う明らかな金属で出来た糸にも拘らず、それは、融解しない気化しない。幻十の繊指によってのみ成し得る奇跡の体現だった。  此処で幻十は、一つの事実に気付いた。糸が破壊されないと言う事実についてだ。 人修羅の攻撃は、常識を超えた強度と靱性を誇る妖糸を絹糸の如く切断したにもかかわらず、彼が放つ炎の息は、難なく防げている。 この『差』は、果たして何なのか。幻十は一瞬、この事を推理した。何か、大きな秘密がある事は相違なかったからだ。  先程、人修羅の背後から飛び出して行ったエリザベスは、一直線にマーガレットの方へと向かっていた。 自己強化の魔術をかけているとか、サーヴァントからの補助を受けているとか、その様な合理的な理屈を一切無視して、時速六百㎞程の速度で地面を駆けている。 「ドロー」  言ってエリザベスは、冷静に、ペルソナカードを辞典から取り出した。 彼女の背後に現れたのは、白く光り輝く騎士鎧で己を鎧った、整った顔の美男子であった。 もしもこの場に、浪蘭幻十と言う規格外の美貌の持ち主さえいなければ、この場で最も美しい男は、間違いなく彼であったろう。 その手に白銀の槍を握り、黒髪をたなびかせるこの戦士の名は、クー・フーリン。アルスターの伝承にその名を轟かせる、光神ルーの息子たる半神の剛勇だ。  風速二百mを超す程の突風が、マーガレットの下へと吹き荒ぶ。 鋼で拵えた城郭すらをも吹き飛ばす程の勢いの大風には、人体を塵より細かく切り刻む程の真空の刃が幾つも孕まされており、まともに直撃すれば、 人間など紙屑のように空を舞い、五体は瞬きする間もなく挽肉となるであろう。その風の中を、マーガレットはまさに不動と言う佇まいで直立していた。 足裏から根でも生えているのではと言う程、彼女は堂々と風の中を立っている。その美しいウェーブのかかったロングヘアは全く動く事もないし、服も切り刻まれる事もなし。 まるで彼女だけが、この世の物理法則の外の存在であるかのように思われよう。無論、エリザベスはそうではないと言う事を知っている。 クー・フーリンを見た瞬間に、このペルソナが使う魔術の属性を無効化するペルソナを、装備しただけに過ぎない。現にジークフリードの姿が、この場にない。 だがあの一瞬で、このような判断を下し、即座に実行するその反射速度と、実行スピードは、まさに、神憑り的なそれとしか、言いようがない。  マーガレットもエリザベスも、下した判断は全く同じで、下すタイミングも全く同一だった。 自らが普遍的無意識から引きずり出した存在に指示を下し、彼ら自身を戦わせる。それが、姉妹の下した判断だった。 マーガレットは先程と同じく、悪竜を撃ち滅ぼした大英雄を招聘させた。その妹は、影の国の女王ですらも一目置く大烈士を呼び寄せた。 姉妹の名代として世界に顕現した大英雄は、それぞれの敵に向かって宙を滑り、向かって行く。  ゲイボルグを凄まじい速度で振るうクー・フーリン。それを、鎧に覆われていない生身の左腕の下腕で防御するジークフリード。 右手に握った魔剣グラムを振い、光の御子の首を跳ね飛ばさんとする大英雄であったが、槍の石突で彼はこれを防御。 数歩分の距離を空中を滑って下がり、下がりざまに槍を下段から勢いよく振り上げ、魔剣を握った英雄の顎を破壊しようとするが、これをグラムで防御。 グラムを勢いよく振うジークフリード。空間に、五十にも届かんばかりの断裂が刻まれるも、これをクー・フーリンは高所に跳躍する事で回避。 目を瞑り祈ると、局所的な真空のナイフが発生し、ジークフリードを塵殺しようと刻みまくるも、その程度等意に介さないとでも言わん風に、無傷だった。 神話の再現、英雄譚の山場の再来、それらを可能とする聖杯戦争。それに於いて、音に聞こえた大英雄二人の戦いが今まさに、再現されていた。 誰もが心の底では待ち望んでいた光景が、今まさに繰り広げられていた。但しそれは、サーヴァントと言う超常存在を用いた存在ではなく、普遍的無意識からサルベージされたペルソナと呼ばれる存在であると言う点が、大きく異なるのだった。この点からも、此度の聖杯戦争の異常性の一端が垣間見えようと言うものだった。  ――それでは、彼の大英雄が空中で熾烈な戦いを繰り広げているその下で戦う、彼らを呼び寄せた主達の戦いぶりは、どうなのか?   エリザベスの頸椎目掛けて上段の回し蹴りを放つマーガレット。これを屈んでエリザベスは回避する。 辞典から引き抜いたペルソナカードを数枚飛び出させ、マーガレットの下へと飛来させ、凄まじい速度でその場で旋回させる。 瞬間、マーガレットの姿が、カードが空中を飛び回っている渦中から一瞬で消失する。彼女の姿が消え失せてから、ゼロカンマ一秒以下の時間が経過した後だった。 地面にありとあらゆる方向からの、深く大きな斬撃痕が刻み込まれたのは。それと同時に、エリザベスの背後に、マーガレットが空間転移して現れる。 あられもなく右足を振り上げ、踵が上に垂直に来る程にマーガレットは持ち上げる。位置エネルギーと、力を管理する者が誇る膂力を相乗させて、 マーガレットは勢いよく踵を振り落とした。エリザベスはこれに対応し、パタン、とペルソナ辞典を閉じ、その装丁部分でマーガレットの踵落としを防御。 大気が波を打つ。辞典と靴の踵部分が衝突したとは思えない程の大音が鳴り響くと同時に、姉妹を中心として直径三十m超のクレーターが地面に刻まれる。 大量の砂が一気にクレーターの底に流れて滑り落ちて行く様は、天然の巨大なアリジゴクのようであった。  エリザベスが辞典に力を籠め、マーガレットを跳ね除けさせる。 エリザベスの膂力も異常な事と、マーガレット自身が不安定な体勢であった為に、何の抵抗もなく彼女は空中へと吹き飛ばされる。 が、直にマーガレットは空中で後方宙返りを披露し、姿勢の制御を行い、その場で転移。これと同時だった、マーガレットが召喚したペルソナである、 ジークフリードが霞か何かの如く姿を消したのは。それを受けてエリザベスも、自らが呼び出したクー・フーリンを消失させる。 その瞬間頭上から、エリザベス数十人分にも匹敵しようかと言う程の大きさの大氷塊が、隕石めいた速度で彼女の下へと飛来して来たのは。 焦りから来る発汗もないし、呼気の乱れもまるでない。そう来たか、とでも呟きそうな程、彼女は落ち着いている。 辞典からカードをドローする。彼女の背後に、普遍的無意識のスープに溶けていた神格が顕現する。墨の様に黒い体表に、炎を模した様な紅蓮の入れ墨を刻んだ大男だった。 その手に燃え盛る大剣を持ったこの魔王は、北欧の神話体系が成立する以前よりも存在したとされる古の大巨人。神々の黄昏を生き残ったムスペルヘイムの王。スルトそのものであった。  氷塊目掛けて炎の大剣、世にレーヴァテインとも呼ばれる、剣とも杖とも呼ばれる神造兵装を振り下ろす。 百tにも届こうかと言う大氷塊は、炎剣の一撃を受けたその瞬間、大量の水蒸気へと変貌。一帯を白い靄で覆わせてしまう。 邪魔だ、と言わんばかりにスルトはレーヴァテインを掲げると、その水蒸気も蒸発してしまい、視界が一気に明瞭なそれに変貌――したわけではなかった。 レーヴァテインが内包する余りの熱量で、陽炎が発生。水中から水面を見上げているかのように、視界がグニャグニャになっていた。  エリザベスも空間転移は使う事は出来る。 出来ていて敢えて、彼女は徒歩でアリジゴクからの脱出を試みた。流れ落ちる流砂など意にも介さず、彼女は砂地の上を歩いて行く。 十秒程で、彼女は其処を抜け出た。視界の先には、マーガレットが腕を組み此方を睨んでいるのが解る。 彼女の背後には、川流れの如く更々の金髪を長く伸ばした、黒色のつなぎを身に付けた男が佇んでいる。蝙蝠を模した様な翼が、ただ者では無さを見る者に実感させる。 魔王ロキだと理解するのに、エリザベスには刹那程の時間も不要であった。  マーガレットの方が先に、ペルソナの力を解放させた。 ロキがその右手を動かすと、一瞬で場の空気は零下二十度を割り始める。気温が下がるだけならば、まだ良い。 これだけに飽き足らず魔王は、砂地を一瞬で凍結させ、更に、分厚い氷の膜を地面と言う地面に張らせて行き、行動を阻害させる。 更に、その氷の上から天然の樹氷とも言うべき、鋭く尖った氷の柱を幾十幾百本も展開させ、動きを完全に殺させる。 此処までにかかった時間は、ゼロカンマ五秒も無い。其処からマーガレットは空中から大量の氷塊を降り注がせようとするが、エリザベスもエリザベスだった。 スルトがレーヴァテインを掲げるや、太陽の破片が落ちて来たと錯覚する程の炎の塊が凍結した地面の上に落下、そして着弾。 一瞬で、ロキが生み出した全ての氷の細工を蒸発させるどころか、更に下がった場の気温を一気に真昼時の砂漠のそれにまで上昇させる。  ――嗚呼、流石は。流石は、我が妹。 人道を外れ、修羅道を歩み終え、畜生道と餓鬼道を今正に歩み、そして行く行くは、地獄道を歩く羽目になろうとする愛しい妹。 許せないと思う。此処で討たねば、被害は甚大なものになるだろう。エリザベスも、此処で討たれる方が、幸福なのだと思っているかも知れない。 それと解っていても、エリザベスは退かない。嘗て愛した男の為に、彼女は如何なる誹りや非難、罪を、浴びようが背負おうが由としたのだ。 其処に至るまでの覚悟は、どれ程の物だったろうか。如何なる道を歩き続ければ、その様な悲壮な決意が出来るのだろうか。 エリザベスは、最後に戦った時よりも、ずっと強くなっている。世界の果てに封印された少年を救う為に、様々な修羅場を見て来て、味わったのだろう。  愛する妹が、値の付けられぬ絆を得、それを守り、取り戻したいと覚悟を決める。 それは姉として、とても、とても、喜ばしい物だった。それがどうして、このような間違った形になったのだろうか。何処で、エリザベスは道を間違えたのか。 千の言葉を尽くしても、万の行為を示しても。最早彼女の心が変えられないと言うのなら――。 「殺すしかないのね、エリザベス」  展開したロキを消失させ、再びペルソナカードを手に取った。 エリザベスを見るマーガレットの瞳には、慮りの心など欠片もなく。目の前の『敵』を撃滅させんとする、強い意思に満ち溢れていた。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  千七百二十五条のチタン妖糸が、入れ墨を刻んだ青年の悪魔に殺到する。 右腕と左腕を神業の様な軌道で動かし、その全てを断ち切る悪魔、人修羅。 しかしそれらは全てフェイント。本命は、頭上から落下させ、足元から跳ね上げさせた、それぞれ一本づつの妖糸だった。 直撃すれば、上からの糸は右肩甲骨から右足の指先までを、下からの糸は左足の土踏まずから左肩甲骨までを切断する筈。であった。 だが、その程度の猿知恵など見えていると言わんばかりに、人修羅の姿が掻き消える。 彼は一瞬で、高度十五m程の高さ地点に、妖糸を張り巡らせ、その上に佇立する浪蘭幻十の頭上に移動。転移ではない。瞬間移動と見紛う程の速度による『移動』だった。  刻まれた黒い入れ墨から、千万Vを超える程の『放電』現象が発生。 入れ墨が一瞬光った事に警戒し、自身に糸の鎧を纏わせる。傍目から見れば平時の幻十としか思えないだろうが、その実、目に見えないナノmの糸が、 頭から足先までカバーしていると言う事実を、多くの者は悟るまい。 スパークがチタン妖糸に直撃する。蒼白い火花が人修羅と幻十の間で弾けるが、幻十は全く平然としている。放電が、自身に届かないからだ。 チタンと言う明らかな金属を使った糸にも関わらず、それを操る幻十には、一切の電流が届かない。彼の操る糸は、自身の意思次第で、ゴムより強力な絶縁体にする事も可能であるのだ。  今まで足場にしていたチタン妖糸を一瞬で回収するや、幻十の姿が消失する。 一秒と掛からず彼は砂地の上に降り立ち、人修羅の方を見上げた。身体に糸を巻き付けさせ、砂地の下に隠れた岩地をその意図で貫き、 その妖糸を勢いよく収縮させる事で、音速でその場から退避したのである。  百条程度の糸を、人修羅の周辺に展開させ、これを殺到させる。 拳足を、幻十にすら視認不可能な程の速度で動かし、その全てを破壊する悪魔のルーラー。  幻十の疑惑は確信に変わった。 人修羅と言うルーラーが何故、自分の妖糸を断ち斬れるのか。無論、相手の技量自体が半端な物ではないと言う事は、既に幻十も認めている。 それを加味しても、余りにも人修羅は、チタン妖糸を簡単に破壊する。幻十程の技量の持ち主が操る糸を、何の苦も無く破壊する。 この裏に、何かトリックがあるのではないかと幻十は推理。破壊出来た攻撃と、出来なかった攻撃の差異を発見し、その答えの一つに行き着いた。 素手の攻撃だ。人修羅は現状に至るまで、強力なブレスや放電と言う、悪魔としての体質をフルに生かした技を使っていた。 確かにこれらも、尋常のサーヴァントでは抵抗すら許さず殺し切れる程の必殺の威力を内包していたが、実際に、幻十はこれを防げていた。 こう言った攻撃は防げたのにも関わらず、生身の一撃だけが、一切の抵抗を許さず妖糸を破壊する。 肉体自身に何らかの加護が纏わされているのか、或いはスキルか、宝具か。生身の攻撃とは違う、一部の、エネルギーを具現化させて放つ攻撃も、 妖糸を破壊していた事があったが、『生身』が重要なファクターである事は間違いないと幻十は判断。この可能性を、彼は先ず想定に入れた。  幻十の推理は正しかった。 人修羅の生身による攻撃には、明けの明星と称呼される大魔王から賜った究極の矛である『貫通』の加護が成されている。 より言えば、『物理的な干渉力を秘めた攻撃の全て』にその加護が成されていると言って良い。 この場合の物理的干渉力と言う言葉は非常に曖昧で、人修羅の生身から繰り出される格闘攻撃は元より、彼が生み出したエネルギーや『気』の波ですらも該当する。 物理攻撃は貫通の効果を与れるが、逆に言えば、魔術的な攻撃は一切その庇護下に入らない。放電や炎の吐息は、その対象外なのである。 幻十の妖糸が破壊されるのは当たり前で、この貫通の効果と威力は凄まじく、殆どの宝具やスキルの防御効果を無視して、 本来与えられる筈だった威力をそのまま相手にぶつけられると言う点からも、その凄まじさが知れよう。 技術程度では止まらない、人修羅の暴威の象徴。それに晒されれば、如何に幻十の妖糸スキルと言えども、無力と言う他ないのである。  飛燕に百倍する速度で、人修羅が着地した幻十の真正面へと移動する。 移動途中で幻十は糸を操ろうとするが、それが人修羅に向かって行くよりも速く、砂を巻き上げ、人修羅は幻十の前まで移動していた。  上半身が消滅したとしか思えない程の速度で、腰より上を動かし、右腕を振り被る。 幻十の顎目掛けて、フックを放ったのだ。極々一般的な成人男性の拳と、人修羅の拳の大きさに、さしたる差はない。 その筈なのに、幻十は、人修羅のこの一撃で、超猛速で飛来する、巨大な石臼のビジョンを見た。直撃すれば、死は免れない。 人修羅の右拳には殺すと言う意思以上に、『死』と言う物で満ち溢れていた。 音の十三倍の速度で放たれたその一撃を、幻十は、魔界都市に生きる魔人としての反射神経を以て、辛うじて後ろにステップを刻む事で回避する。 衝撃波が、インバネスコートごと幻十を切り刻む。胸部に深い斬撃が刻まれ、血がドッと噴き出る。拙いと思い、幻十は糸を操り、切創をチタン妖糸で縫う。 優れた医者の縫合めいて、チタン妖糸は見事に幻十の傷を塞いだ。痛みも、少しだけ和らぐ。  人修羅が追撃を仕掛けんと、地面を蹴った――瞬間。 それまで地面に張り巡らせていた妖糸が、彼が地面を一定以上の力で踏み抜いた、と言う事をスイッチに、一斉に跳ね上がった。 約八百九十七条のチタン妖糸が一斉に向かって行く。こう言う使い方も出来るのか、と言った様な表情で、人修羅が腕を動かした。 それだけにとどまらない。幻十はポケットに入れていた左手の指を動かした。 チタン妖糸は何も斬るだけが使い方じゃない。糸と糸どうしを紙縒り合せ、不可視の針を作る事だって可能なのだ。 幻十は神憑り的な指捌きで、チタン妖糸を紙縒り合せた針を何十本も生みだし、それを人修羅目掛けて射出させた。 砂を巻き上げて、人修羅がその場から消え失せる。針がスカを食う。左方向に幻十が顔を向ける。幻十から見て左脇二十m地点まで、人修羅が遠ざかっていた。 右手指を猛禽の様に曲げ、指を曲げた側の手首を左手で握っている様子がハッキリと解る。そして、その手に超高速でエネルギーが収束して行くのも。  地面を不様に幻十が転がった、と同時に、人修羅の右手首から、エネルギーを練り固めた、野球ボール大の弾丸が凄まじい速度で飛来する。 砂を巻き上げてそれは、幻十が先程までいた空間を貫いた。もしも幻十が横転していなければ、あの弾丸は彼の身体を粉微塵にしていただろう。 発射されたのを見てからでは、到底間に合わなかった。至近距離で放たれた拳銃ですら余裕で掴める程の幻十ですら、これなのである。 人修羅の放った、あらゆる悪魔を粉々にする『破邪の光弾』は、エリザベスが展開した閉鎖空間の地の果てまで素っ飛んで行く。 衝突する対象がなかった為に、幻十としても何とも言えないが、恐らくあれが直撃していたら、高層ビル程度なら簡単に破壊していただろう。  視界の端では、相当ヒートアップしているエリザベスとマーガレットの戦闘模様が確認出来る。 摂氏数万度にも達する炎が荒れ狂い、絶対零度と見紛う程の冷たさの吹雪が舞い、稲妻が地面を焼いて落下して、風速数百mの大風が吹き荒ぶ。 かと思えば、凄まじい轟音が砂を舞い飛ばせながら連続的に響きまくったり、強烈な呪力や破魔の力が交錯したりと、エネルギーが目まぐるしく変遷して行く。 初めて見た時から、人間に似た何かとしか思えない程強い存在だとは、妖糸で幻十も解っていた。だが、あれ程までに強いとは思わなかった。 と言うよりあれは殆ど、下手なサーヴァントを超越した強さではないか。エリザベスを追い込むその手際に、遠慮や手加減などと言う物はない。 明らかに、妹であろうと殺して見せる、と言う気概で満ち溢れていた。それ自体は、良い。だが此方がそうも行かない。 率直に言うと、エリザベスなる主催者と共にいるこのルーラーの強さは、桁違いも甚だしい強さだ。悔しい話だが、『今』の幻十では到底敵う相手ではあり得なかった。  ――そう、『今』は。浪蘭棺の中で技術を高めれば、恐らくは詰められる。少なくとも現状では、到底勝利を拾える相手ではありえない。 癪に障る話だが、敵のマスターを殺そうにも、人修羅は完全にそちらの方にも油断がない。とどのつまりは、全方位で隙がないのである。  ――“私”のせつらならば、倒せるか……?――  確実に、この街にいるであろう、あの<魔界都市>の体現たる黒コートの美魔人は、この敵を相手に、どの様な手段を講じるのだろうか。 敵わない相手がいるのならば、決まっている。幻十もせつらも、『逃げる』のだ。そして、次に見える時にこそ、殺して見せる。それが、<魔界都市>の流儀である。 一見すれば、此処はエリザベスが展開した、逃げ場のない閉鎖空間。逃げる方策など、ないとしか思えないだろう。 しかし、幻十は知っている。人の手で作られた閉鎖的な空間も、超自然的現象が生み出した閉鎖空間にも、少なからぬ間隙があると言う事を。 どのような空間にも、綻びよりなお小さい、蟻の開けた穴よりも小さいポツポツとした穴がある物である。 空気を取り込む為の物であったり、外界から魔力を供給させる為の穴であったりと、兎に角、そう言った物があり、現にこの空間にも、それはある。 何も幻十は人修羅とエリザベスの周りだけに糸を張り巡らせていた訳ではなく、遥かな頭上にも糸を展開させていた。 その結果、エリザベスの展開した閉鎖空間には、その様な穴がある事が解った。この穴は、人間の目には、先ず目視は不可能であり、 尋常の方法ではいかなる干渉手段を用いようとも、突破口にすらなり得ない穴なのである。  エリザベスのミスは、その穴を一ナノmよりも小さい穴にしなかった事であろう。 幻十の操る妖糸は、その穴を潜り抜け、既に閉鎖空間の外、つまり、<新宿>衛生病院のロビーにまで伸びていた。 それを確認するや、幻十は両手指を一斉に動かした。  ――その瞬間、空と地平線に断裂が生まれ、その断裂から閉鎖空間が崩れ落ちた。 「何――!!」  人修羅がその黄金色の瞳を驚愕に見開かせた。そして、閉鎖空間を生み出した主であるエリザベスや、彼女と死闘を繰り広げていたマーガレットすら。 嘗て灰色の空だった破片が、雲母の如く舞い散って行き、嘗て渺茫たる地平線だった破片が、ポロポロと剥離して行く。 鶏卵の殻を破って、雛が初めて外界を見た時の光景とは、果たして、このような物なのであろうか。 舞い散り、剥離して行く破片の先には、陰鬱とした<新宿>衛生病院のロビーの光景が広がっている。そう、殻だった。 エリザベスが展開した閉鎖空間は、一種の殻の様な物であったのだ。 【マスター、このルーラーは想定よりも遥かに強い、この場は逃走した方が良いかも知れない】  苦渋の決断と言うべき声音で幻十が念話を行う。 これは演技でもなく彼の本心で、敵を相手に背を見せると言う事は、気位の高いこの男だ。絶対に、許せる事柄ではなかった。 しかし、戦略的にそうする必要があったのならば、仕方がない。こうするしかなかった。 【私も、そう思っていたわ。予想よりも、貴方の戦いぶりが情けなくて、困っていた所よ】  と、マーガレットも悪態を吐くが、今はそれに対して返答をする時間すらも惜しい。 何故か人修羅もエリザベスも、マーガレット達の動向を窺っていると言う行為に止まっている。 罠か? と幻十らも思ったが、何て事はない。人修羅達は動きにくいだけなのである。 その圧倒的な強さの故に、本気を出せば<新宿>程度簡単に滅亡させられる人修羅だ。閉鎖空間を展開していない状態では、余り本領を発揮したくないのだ。 そんな彼の心境を慮って、エリザベスは、閉鎖空間を展開した等と、まさかマーガレット達も夢にも思うまい。 【好機だ。退くぞ】 【そうね】  そう言って幻十が糸を張り巡らせようとした――瞬間だった。人修羅と幻十が共に、カッと目を見開かせた。  インバネスの美魔人は、自身とマーガレットにチタン妖糸を巻き付かせ、更に別所に糸を巻きつかせ、 これを以て振り子の要領で、音速超の速度で自分達が直立していた地点から、遠ざかった。 入れ墨を刻んだ混沌の悪魔は、エリザベスを横抱きに抱えながら、跳躍。その場から距離を離した。  両者共に、距離を離したその刹那だった。病院のロビーを、『黄金色に激発する光の帯』が貫いたのは。 病院の壁にぶち当たった瞬間、それは、爆風と衝撃波を伴い大爆発を引き起こし、外の光景が見える程の大穴を其処に空けた 十枚以上の壁を打ち抜いた事もそうだが、光の帯の軌道上に存在した民家が、跡形もなく消滅し、<亀裂>の様子すらも窺える程であったと言う所からも、その被害の程と、光の帯の威力が知れよう。  四人は、病院の入口にその顔を向ける。 黄金を溶かして作り上げた様な光り輝く刀を、振り抜いた姿勢から元々の自然体の状態に戻さんとしていた男の姿を、彼らは認めた。 黄金色の髪、風にたなびく黒い軍服。腰に差した何本もの刀。そして、巌の如き強烈な意思を宿した、傷の刻まれた相貌。 四人はこの存在が、明らかな人間である事を理解したが、なのに、何だ? 人でありながら、人を超越した様なその佇まいは。 四人の内人修羅は、『超人』、と言う言葉が頭を過った。人の身でありながら、人間を超越した強さを誇る怪物。 嘗て、明けの明星も思い出話をするように語っていた。自身の遣わせたアスラ王と、神の遣わせたミカエルを斬り殺した、吉祥寺の青年の話を。 「其処までだ、サーヴァント共」  佇まいだけではない。その声音もまた、鋼だった。 「俺とマスターの覇道の為。此処でその命、散らせて貰おう」  光り輝くガンマレイを纏わせた、アダマンタイトの刀を構えながら。 鋼の英雄にして最悪の破壊者、人類を愛する救世主にして勝利しか求められないバーサーカー、クリストファー・ヴァルゼライドは、己の勝利が、物は上から下に落ちるのだと言う程に当たり前の事なのだと言う核心を以てそう言ったのだった。 **時系列順 Back:[[一人女子会]] Next:[[混沌狂乱]] **投下順 Back:[[征服-ハンティング-]] Next:[[混沌狂乱]] |CENTER:←Back|CENTER:Character name|CENTER:Next→| |12:[[SPIRAL NEMESIS]]|CENTER:マーガレット|28:[[混沌狂乱]]| |~|CENTER:アサシン(浪蘭幻十)|~| |39:[[有魔外道]]|CENTER:ザ・ヒーロー|28:[[混沌狂乱]]| |~|CENTER:バーサーカー(クリストファー・ヴァルゼライド)|~| |39:[[有魔外道]]|CENTER:エリザベス|28:[[混沌狂乱]]| |~|CENTER:ルーラー(人修羅)|~| ----
【傷の方は治ったのかい? バーサーカー】  人目のつかない裏路地だった。 <新宿>ほどの人口密度の都市で、人気が完全にない場所を探す事などほぼ不可能な事柄であるのだが、此処の所のこの街の異常性は、 聖杯戦争開催と同時に倍以上に強まって来ている。アウトローが目に見えて少なくなってきている、と言う事実がその最たる事柄であろう。 それでもやはり、この街は<新宿>。聖杯戦争開始一日目程度では、まだまだ街に人は大勢いる。 彼ら――ザ・ヒーローの主従が、全く人のいない裏路地を発見出来たのは、全くの偶然と言っても良かった。 【召喚された当時の、十全の状態とは言えんが、動く分には支障はない】  念話であろうとも、力強さの衰えが微塵にも感じられぬ声音で、ヴァルゼライドは返答した。 例え心臓を抉り取られようとも、数時間は活動出来る、と言われても、この男の場合それも仕方がないと皆に思わせてしまう。 それ程までの力強さで、このヴァルゼライドと言う男は満ち満ちているのである。  あれから、桜咲刹那と、彼女が従えるランサーである高城絶斗を探し回っては見たが、一向に彼らは見つからない。 当たり前と言えば当たり前だ。何せ相手は、空を飛べる上に、サーヴァントに至っては数百m間を一瞬で転移して移動出来るサーヴァントである。 如何にザ・ヒーロー達が強いとは言え、地上を移動するだけしか移動手段がなく、特に気配察知にも優れている訳でもない主従が、彼女らを見つけられる筈がなかった。  結局あれから二時間経過し、その内一時間半ばかりの時を、<新宿>を無駄に歩くだけの徒労に終えさせてしまった。 今やタカジョー達の主従は勿論の事であるが、半身に悪魔を宿す蒼コートの剣士すらも、今や見失ってしまった。 これ以上は無駄に自分もサーヴァントも消費するだけだと考えたザ・ヒーローは、急遽、先程の戦いで傷付いたヴァルゼライドの治療に方向性を変更させる。 その方針変更の結果、彼らはこうして、一目のつかない裏路地で、回復活動に専念している、と言う訳だ。  サーヴァントの肉体の蘇生は、人間とは違い、蛋白質や水分、と言ったものではない。 マスターから供給される魔力と、自前の魔力が活動のリソースであるサーヴァント達。これらの事実からも推察出来る通り、マスターが保有する潤沢な魔力がそのまま、 サーヴァントの活動出来る時間に直結する。つまり、魔力が多ければ多い程、越した事は全くなく、寧ろ少ないとデメリットしかないのである。 ザ・ヒーロー自体には、そもそも魔力回路等と言う物自体が存在しないと言っても良い。元を正せば、彼は市井の人間であり、魔術的な才能など皆無だった。 それにもかかわらず、彼が潤沢な魔力を保有し、ヴァルゼライド程のバーサーカーを平然と御せている理由は、今や悪魔の一匹も収められていない、 彼のCOMPにそれこそ無駄に詰め込まれたマグネタイト、=魔力があるからであった。  このマグネタイトを、ヴァルゼライドの治療に使っている。 身体の構成要素が魔力であると言う事は、外部からそれを供給させられれば傷の治りも早い事を意味する。 尤もこれは、ヴァルゼライドの固有の性質と言う訳ではなく、サーヴァントと言う存在である以上誰もが分け隔てなく有する共通項と言っても良い。 故に特筆すべき所など本来はない筈なのだが、ザ・ヒーローが溜めこんだ無尽蔵のマグネタイトの故に、傷の治りも早い。 バージルとタカジョーと戦った際の負傷など、尋常の手段では幾日掛かろうが治せるレベルではない筈なのに、今やもう、傷が塞がりつつあった。 先程のヴァルゼライドの言葉は強がりでもなく、正真正銘の、事実であったのだ。 【この聖杯戦争に招かれる存在だ。弱き者など一人としてあり得ぬ。そう考え、俺はあらゆる敵に対して、油断せず、全力で戦って来たつもりだ】  それは、ザ・ヒーローもよく解っていた。  【ままならぬものだ。お前に不様な姿を幾度も晒す事になるとはな】 【気にする事はないさ。だったらより一層――】 【そうだ。輝けば良い】  其処で英雄(ザ・ヒーロー)が言葉も英雄(ヴァルゼライド)も、言葉を切った。 そして、次なる宣言を行うのは、光り輝く鋼の英雄であった。 【俺は、力が強いだけの愚物が世を導くだなどと、死んでも思わん。強くそして――正しい者こそが。遍く悪を灼く光を放てる者こそが、勝者になれるのだと俺は信じている】  再び、言葉を区切る。 【腕がある、脚がある、頭もあり、心臓も脈を打っている。俺はまだ生きている。まだ全力でいられる】  【だからこそ、だ】 【完全なる勝利を求めて。今度こそ勝ちに行くぞ、マスター】 【そうだな】  コンクリートの剥げ掛けた壁に背を預けていたザ・ヒーローが立ち上がる。 その一瞬の間、彼は考えていた。勝利、と言う言葉が含む意味を。  自分は今度こそ、勝てるのだろうか。 絶望の中で得た友を再び失う事無く、誰もが笑って暮らせる人の世の楽園(ニルヴァーナ)を、今度こそ築く事が出来るのだろうか。 九十八%の理想の成就など。九十九%の理想の成就など。最早、彼は求めていない。 求める者は、たった一つの、完全なる勝利。自分の様な不幸が例え偶然でも起る事が許されず、家族も友も、理不尽に失う事がないそんな世界。 その為に、彼は剣を振い続けた。鬼に食われた母の為。自分とは異なる理想に殉じた友の為。最期の最期まで、自分について来てくれたパスカルの為。 全ての涙も悲しみも、この戦いで、彼は終わらせたかった。完全なる勝利が、それを払拭させてくれると、彼は信じていた。  ――……見ていてくれ……――  その祈りが、誰に向けられた物なのか。それすらも、最早英雄は、理解が出来ずにいるのだった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  公正な競技を行う上で、最も必要な要素は、選手間の能力差の解消でもなければ、厳格かつ完璧なルールの施行でもない。 有能かつ極めて中立的な立場からジャッジを下す審判の存在こそが、この場合最も重要なファクターとなる事は疑いようもない事柄だ。 如何に完璧なルールを下地にし、如何に選手の能力を水平的に保とうが、結局、審判を下す者が偏向的で無能であれば、著しくその公正性と公平性を欠いてしまう。 競技性、と言う、根幹的な要素を崩さない為には、その様な審判の存在をこそが、求められるのである。  万能の願望器である聖杯を巡って行われる、広義の意味で競技と言うべき聖杯戦争。 これを管理、運営する、極めて特殊なクラスこそが、『ルーラー』と呼ばれるサーヴァントであるが、では、此処<新宿>のルーラーは、公正なのか? と言われれば、答えは否だ。いや、正確に言うのであれば、ルーラーとして召喚された人修羅自身は、何の要因もなければ特に何も口出ししない。 問題は、彼を呼び出したマスターが、著しく公正さを欠いていると言う事だ。 聖杯戦争を管理する為の存在であるルーラーの手綱を握る者が、実は誰よりも聖杯を欲しており、本来ならば戦争運営に支障を来たさない為に与えられた数々の特権を、 最後の最後で聖杯を獲得する為に用いる等、最早公正さ以前の問題としか言いようがない。  聖杯戦争は持久戦としての側面も有している。 現世に留まる為の魔力がマスターから供給されていると言う性質上、当然マスターの魔力は限りある資源であり、無駄には出来ない。 ルーラーのサーヴァント人修羅のマスターであるエリザベスが保有する魔力量は、最早膨大と言う言葉ですら尚足りない程のそれだ。 真正の悪魔、しかもその中で最上位の格を誇るとも言うべき人修羅を維持してもなお、膨大な余裕に満ちている程であるのだから、その程度が知れよう。 もしも、ルーラーのサーヴァントを用いて聖杯を欲すると言うのであれば、参加者に戦いを挑み回ると言うのは愚作である。 聖杯戦争の管理・運営者と言う表向きの立場を利用し、一見すれば個々の争いには不干渉。そして、ジャッジするべき所では審判を下す。 このように振る舞って、一見すれば誰の目から見ても明らかな程の中立性を見せびらかしつつ、参加者が少なくなってきたところで、打って出る。これが、基本的なやり方と言えようか。  ――とは言え、簡単には行かない事も、エリザベスは知っている。 聖杯戦争参加者の中には、聖杯を求めると言う目的を持った者もいれば、『自分達を明白な敵性存在と認識』して行動している者も、少なくない、と。 自分達に聖杯戦争なる催しを教えた『蛇』は、報告してくれた。それは、彼女も解っていた事だ。 中には聖杯戦争等と言うイベントに勝手に呼ばれ、殺し合いをしろ、とのたまう自分達を許せない、と思う者は、居る筈なのだ。 当面の目的は、彼らに対して如何に遠回しな不利を強いるか、と言う事になるだろう。危険な目は潰して起きたい。 しかし……しかし。エリザベス、つまり、力を司る者と総称される彼女らは、総じて好奇心が旺盛で、好戦的な人物が多いのも事実だ。 他の主従に潰して貰うのがベストだと、思っていても……自分達が出て行って戦いたい、と思っている自分がいるのだ。 「……ハッ。いけませんいけません」  かぶりを振るい、エリザベスは考えを正した。 自分の本当の目的は、今も世界の果ての果てで、人類を破滅から防ぐ為の大扉の錠前になっている、有里湊の解放だ。 彼を救う為であれば、自分は、如何なる犠牲をも払うつもりだと、心に決めたではないか。 現に彼女は、既に、大事な姉弟を捨ててまでこの地にいる。此処で、目的を果たさねば、彼女らを裏切ってまで此処までやって来た意味がないのだ。 「……戦いたいのか」 「えっ?」  と言って、エリザベスは声のした方角に顔を向ける。 見事な黒色に緑色に光る縁取りを成させた入れ墨を、体中に刻み込んだ、上半身裸の青年は、呆れたように彼女の事を見ていた。 彼こそは、<新宿>の地にて開かれた聖杯戦争を管理する役目を任された、ルーラー(統率者)のサーヴァント。真名を、人修羅と呼ぶ、真正悪魔そのものであった。 「まぁ……ルーラーは、読心術まで使われるのですね。スキルなり宝具なりに説明しておけば宜しいですのに」 「使えない。お前の顔にそう書いてあるだけだ」  これ以上となく澄み切った、玲瓏たる美貌の持ち主。 男は勿論の事、悋気に煩い女性達ですら、エリザベスの顔を見れば、美人、と言う評価を下しようがないだろう。 基本的に、顔の表情を動かす事が少ない彼女であるが、いざ動かすと、驚く程、内面の感情が露になる。 今の彼女の浮かべていた表情は端的に言って、戦闘に対する欲求不満とでも言うべきか。一番勝率の高いクラスである事は否めないが、その勝率の高さとは、 権限や特権等を用いた待ちの一手による高さであって、戦闘を行っての勝率の高さ、と言う訳ではない。それが如何してか、エリザベスには、微妙な風であるらしかった。  ラジオを聞きながら、エリザベスは、簡素なパイプ椅子に腰を下ろしている。 何を聞いているのかと言えば、ニュースチャンネルだ。聖杯戦争開始から現在に掛けて、<新宿>で起った異変を、彼女らは具に纏めている。 そんな事を彼女らが行う理由は単純で、<新宿>で何が起ったのかの情報を集める為である。  結論から言うと人修羅は、サーヴァントとしては申し分ないどころか、間違いなく単純戦闘では超が付く程一流のサーヴァントである。 だが、この男はルーラーと言う観点から見たのであれば、三流どころか失格の烙印すら押されても最早文句は言えないサーヴァントでもあった。 この男は、ルーラーと言うクラスが有するべき様々な資質を著しく欠いている。 危難が起りそうな、起った所を指し示す『啓示』のスキルも無い。<新宿>全域を監視する『状況把握』もそれに類する宝具も持たない。 自身の分身を送り出すスキルもなければ、ルーラー自身に与えられる気配の察知能力も、この男は有さない。 とどのつまりは、真名看破と、極めて高ランクの神明裁決を除けば、人修羅は他クラスのサーヴァントと最早何の違いはないのである。 だからこそ、エリザベスらはこのように、ラジオと言う古典的かつ、聖杯戦争の状況を把握する為にルーラー達が用いるとは思えないデバイスで、情報を集めているのだ。  何故、人修羅はこのようなルーラーになったのか。 一つ。どちらかと言えば彼は、『聖杯戦争の管理者』と言うよりも、『帝都の守護者』としての側面が強いと言う事。 今の彼は、坂東にまします、ある『やんごとなき神格』から、帝都即ち東京の守護を任されている、と言う設定状態にある。 そう、彼が護るべきものは聖杯戦争でもなければ聖杯でもなく、東京そのものなのだ。だからこそ、彼には高ランクの神明裁決と、スキル・『帝都の守護者』が与えられた。 帝都の守護こそが優先任務であり、聖杯戦争の管理など二の次。だからこそ今の人修羅には、本来ルーラーが有するべき、状況の把握に関わる宝具もスキルもないのだ。 東京の平和を脅かす者を叩き潰す戦闘能力と、それを如何なく発揮する為のスキルこそは持って来れたが、本来ルーラーならば有していて然るべき、 そう言ったスキルと宝具がない。これが、人修羅と言うルーラーなのだった。  そもそもこの男がルーラーで呼ばれると言う事自体が、強引なこじつけだ。 まかり間違っても、彼がルーラーで呼び寄せられる事などあり得ないし、そもそも聖杯程度の魔力でこの男を召喚する事など不可能だ。 それにもかかわらず、人修羅がルーラーのサーヴァントとして、エリザベスの願いに従っている理由は、この聖杯戦争の異常性を証明する事の一つ以上に……。 彼の上司とも言うべき、とある大悪魔の意向によるところが大きい。端的に言えばエリザベスが人修羅をサーヴァントとして使役出来ている訳は、 その大悪魔からの手解きを受け、しかも直々に、人修羅を召喚する為の触媒を渡された事が大きい。これがなかったら、もっと別の存在が呼び寄せられていた事は、想像に難くない。  ――余計な事をするな……あいつも――  舌打ちを響かせそうになる人修羅だったが、グッと堪える。つくづく、ロクな事を考えない魔王だと思う。 エリザベスに従う事自体は、別に人修羅は文句はない。東京をなるべく破壊せず、聖杯戦争を管理・運営すると言う事自体にも、積極的だ。 ――よりにもよって、何故その上司自体が、聖杯戦争に参戦しているのかと、人修羅も、そのマスターのエリザベスも、ほとほと呆れ返っている。 しかもサーヴァントとして、ではなく、マスターとして、だ。ご丁寧に、身体能力の水準も一般的なマスターのそれと合わせているのだ。 何処までも、あの男は茶々を入れたいらしいな、と……。何だか頭痛が隠せなくなって来る。  ラジオの掠れた声が、様々なニュースを人修羅達に告げて行く。 ――天気予報に予測されない降雨や雷鳴。 ――新宿二丁目に突如として現れた、馬に騎乗した西洋系男性二名と、巨大な鬼の様な生物。 ――突如として早稲田鶴巻町に巻き起こった、二か所の大破壊。 ――落合のあるマンションとその駐車場で勃発した、謎の切断現象。 ――黒礼服の殺人鬼(バーサーカー)が暴れ回った神楽町で発見された、巨大な怪物の死体と、新大久保のコリアンタウンで発見された世にも奇妙な怪物の死体。 ――香砂会と呼ばれるヤクザ組織の邸宅が完膚なきまでに破壊され、しかも、その時に、黒礼服のバーサーカーの姿を見たと言う目撃談。  <新宿>は狭い。やはり、既に大規模な戦闘は起っているらしく、更に、これは推測だが、小規模な小競り合い程度ならば、もっと起っているだろうと、 人修羅もエリザベスも判断した。良い感じに、戦局は混迷を極めつつあるようだ。そして、着実に……<新宿>は破壊されていっているらしい。 「……」  顔を抑えて、溜息を人修羅は一つ。 「どうかなされましたか?」 「後で公の大目玉があると思うと憂鬱だ、俺も」  ある程度の破壊が齎されるであろう事は、人修羅も読んでいた。 なるべくならそれを、最低限度に済ませたかったが、如何も現状を見る限り、最早それも難しいらしい。 今の内に、申し開きの一つや二つを探しておいた方が良いのかも知れない、と人修羅は本気で考え始めた。 エリザベスが引き当てたサーヴァントとして、一応の責務を果たしつつ、帝都の守護者としても振る舞わねば行けない、と言う板ばさみ。何で俺がこんな目に、と思うようになってきた。  情報がラジオ頼みと言うのは不便極まりない。何故ならばラジオと言うメディアを通じて伝えられる情報とは、意図的な編集が加えられているからだ。 ルーラー達が聞きたい、生の情報なのである。魔術、=神秘の事を知らぬ一般人から見た情報など、役に立たないのだ。 こう言う時に動いてくれない辺りが、実に、あの魔王らしいとしか言いようがない。  人修羅がルーラーとして落第点であると言う事の最たる理由が、聖杯戦争を監視したり、危難を未然に察知するスキルや宝具を持たないから、と言う事が大きい。 しかし、それを補う方法は、ないわけではない。人修羅はこれを、『配下の悪魔を利用して』解決した。 とは言え、ルーラーとして召喚された人修羅は、『彼自身の強さと指導力』を強調されて現れたサーヴァントの為に、『率いていた悪魔と共に戦っていた』、 と言う側面が排されている。つまり、今の彼には悪魔の召喚能力は完全に存在しない。 だが逆に言えば、召喚される前の人修羅は、これを有していたと言う事を意味する。――結論から述べるのならば、人修羅は、 彼の大魔王からルーラーとしてこの地に赴けと言われる前に、大魔王の傘下にある悪魔の何体かを、此処<新宿>に先に潜入させておいたのだ。 この時侵入させた悪魔は、擬態能力で完璧に人間に変身しており、人修羅及び彼の上司の大魔王から、聖杯戦争には不干渉を貫けと厳命されている。 彼らの役割とは即ち、聖杯戦争の参加者についての情報収集である。彼らの集めた情報があったからこそ、ルーラー達は、 遠坂凛の主従やセリュー・ユビキタスの主従の顔写真を用意し、契約者の鍵を通して皆にその姿を教える事が出来たのである。  但し、制約も多い。 先ず悪魔の数が多すぎると、逆に目立ちかねないので、その総数は抑えておいた。十体もその数はいないが、その分、実力の高い悪魔を揃えておいた。 次に不干渉を貫く、と言う事は、彼らは基本、人修羅が危機に陥ったからと言って、彼を助ける事もない。完全な中立である。 これは、ルーラーがこのような不正を行っていると言う事を他参加者に知られ、要らぬ不信感を招く事を防ぐと言う意味もある。 そして決定的な制約が、これらは人修羅の指導下ではなく、大魔王の指導下にある存在である、と言う事だ。 つまり、人修羅の命令よりも、大魔王の命令の方を優先して聞く傾向にある。これはそもそも、正体が露見された時に、他参加者に脅され、 誰の手による者かと聞かれた時に、人修羅の名前を出さないようにする為、と言う上司の有り難い配慮の故なのだが、これが人修羅には不安だった。 大魔王の命令で動く悪魔。この時点で、もう人修羅には嫌な予感しかしなかった。情報の意図的な編集を行うのは、メディアだけではない。 『アレ』にしたって、それは同じだからだ。……いや、場合によりては、向こうの方がずっとタチが悪い。  エリザベスにしても、それは同じ意見であるらしい。 裏方で、あの魔王も――ルイ・サイファーと言う千回ぐらい聞いた偽名を用いてるらしい――動いているのは確実だ。 彼の齎す情報は、ルーラーとしての活動の一助になっている事は紛れもない事実であるが、同時に、なるべくならば頼りたくない。 不本意ながら、ラジオに情報収集の源として頼っているのは、こう言った事情もあるからであった。 「何でも願いの叶う、と言うお題目を掲げた戦争だ。参加者も必死になるのは解るが……なるべくなら、俺が怒られないようには誘導したい」 「まるで子供みたいですね」 「不興を買うのを避けたい奴は、俺にだっている」  チッ、と舌打ちを響かせる人修羅。 混沌王と呼ばれる悪魔になって幾久しく、明けの明星が有する切り札として数多の戦場を駆け抜けて来た期間など、これよりもっと永い。 そんな人修羅でも、喧嘩を避けたい存在の一人や二人は、存在する、と言うものだった。この場合公は、マサカドゥスを借り受けたと言う恩義から、反目に回りたくない人物だった。  どうしたものかと苦い表情を浮かべる人修羅と、ラジオに耳を傾けるエリザベス。 ――両者の表情が一瞬で、真率そうなそれへと変貌し、互いに顔を見合わせたのは、本当に殆ど同時の出来事だった。 「やれやれ、こんな早くから殴り込みか。ルシファーの差金か? これは」  とうとう人修羅も、上司に対する配慮も何もかもかなぐり捨てた。 「……恐らくは、此方に対して宣戦布告を仕掛けて来た、と言う事は事実でしょうね。問題は……」 「何だ」  ふぅ、と一息吐いて区切りをつけてから、エリザベスは口を開いた。 「宣戦布告をしに来たであろう人物が、私の関係者、と言う事でしょうか」 「……そうか」  それについて人修羅も、特に何も言う事はなかった。ただ、現れた敵についての処遇を、冷静に考えるだけ。  ルーラーとしての知覚能力は最低クラスだが、サーヴァントとして、そして、真正悪魔として。 彼が有する気配察知の知覚能力は、容易くこの病院一つはカバーする。 人修羅の知覚能力が。エリザベスの血の疼きが。この病院にやって来た存在の、並々ならぬ殺意を感じ取っていた。 その存在は――エリザベスの姉に当たる人物だとは、まだ人修羅は知らない。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  この病院に、目当ての主催者がいると言われた時、浪蘭幻十は自らのマスターを訝った。 朽ち果てた、という表現がこれ以上となく相応しい病院だった。ガラスは割れ、外壁の所々が欠けていたり、剥がれていたり。 サーヴァントの優れた視力は、割れた窓ガラスからその部屋の内部をよく窺える。見るも見事に蛻の殻の、荒れ果てた状態だ。 幾年と言う年月を、時間の流れるがままに任せていたのだろうか。そもそも、病院と言う、通常は潰れる事などありえない施設が、何故こんな事になっているのだろうか。  ――<新宿>衛生病院。其処が、今幻十達が見上げている場所である。 そして、幻十のマスターであるマーガレットに曰く、此処こそが、彼女の妹にして、此度の聖杯戦争の首謀者の拠点である、と言う。  このような、都会の只中にある事自体が珍しい廃病院を、よりにもよって拠点とするとは。成程、盲点であった。 と同時に、何故、このような場所を本拠地に設定したのか。そしてそもそも、マスターは如何して此処に主催者がいると解ったのか。 マーガレット曰く、如何なる理屈でも説明出来ないとされる、姉妹の共感性、としか返って来なかった。 馬鹿を言うなと、幻十は言わなかった。自分もそれには覚えがあるからだ。何故ならば彼もまた、その共感性を以て、このケチな<魔界都市>に、親友――仇敵――がいると認めたのだから。  そして現に、この病院には確かに、『いる』。 如何なる術法を用いているのかは解らないが、病院の前に立っただけでは、サーヴァントの気配を察知する事は出来ない。 しかし、幻十は妖糸の使い手である。人の目には絶対に捉えられないナノサイズのチタン糸を病院内部に張り巡らせた所、気配が二つある。 どちらも、怪物だった。一人は確かにサーヴァントのもの。そしてもう一つは、そのサーヴァントに追随する程強い存在。 おまけに相手は、糸に気付いているらしい。糸を切断しながら、歩いて此方に向かっているのが幻十には解る。 切断しているのはサーヴァントの方。鋭利な剣で、チタン妖糸を切り払いながら迫っている。 「どうかしら、アサシン」  不遜な態度を隠しもせず、マーガレットが言った。 「如何なる手段でか、<魔震>と<亀裂>を再現した女の呼び寄せたサーヴァントだけはある。相当な手練だ」  幻十を知る者が聞けば、それが彼にしては珍しい、最大限の賛辞であると皆が言うであろう。 諸霊諸仏の類ですら恋慕の念を沸き立たせるやも知れぬ、幻十の美貌。彼の美を以て褒められてしまえば、その者は皆、この男に無条件で尽くすようになるのではなかろうか。 「僕の妖糸を認識してる事は確実だし、何よりも、如何なる手段を用いてか、病院自体の大きさも、三次元の法則に囚われていない。普通より拡張されている」  病院の中のサーヴァントらを確認する傍ら、幻十は病院の構造を妖糸で把握していた。罠等を感知する為だ。 結論を言えば院内にはそう言った類は存在しなかったが、外見上の病院の大きさと、内部の広さが合致しないのである。 空間自体を広くさせる術を用いている。幻十は即座にそう判断を下した。それを除けば、この病院に施された不可思議な現象はそれだけだ。 この病院を拠点だと言われた時、幻十は、魔界都市の住民の誰もが想起するであろう、あの『病院』の事を連想した。 幻十ですらもが敵に回す事を恐れる魔界医師が運営する、史上最も堅固で最も危険な要塞、メフィスト病院を。 ただ、中に探りを入れて見れば、メフィスト病院などとは比べるべくもない、無その物と言っても良い防衛システムに、少しだけ幻十も安堵した。 但し――その中に鎮座する存在は、彼のメフィストと同等か、それ以上と呼んでも差し支えのない存在であるのだが。 「中に入るわよアサシン。意地でも、止めて見せるわ」 「解ったよ」  聖杯戦争の主催者、並びに、ルーラーを葬り去ると言う事は、最悪の場合聖杯戦争のシステムの根幹すらも破壊すると言う事を意味するかも知れない。 だが、知った事ではない。マーガレットも幻十も、共に、聖杯などに大した意味を見出していない。 幻十にしたって、聖杯戦争に乗り気なのは、主催者の殺害と、恐らくは呼ばれているであろうせつらとの決着の為だ。 聖杯はあくまでも、手に入れてから使い道を考える程度の代物に過ぎず、本命は、その過程にある、と言う点で、幻十は他の主従を逸脱したサーヴァントであった。  二人は病院の内部に足を踏み入れる。 嘗て病院のロビーであった場所は、当たり前の事であるが、無人の野、とも言うべき状態であった。 果たして、最後に人の気配がなくなってから、幾つの月日が流れたのだろうか。 スプリングとスポンジの飛び出したソファ。堆積した塵と埃。床に飛び散ったガラス。そのガラスの元と思しき、割れた蛍光灯などの照明類。 このような廃墟を、拠点に選んだ意味を、二人は考えない。此処にいる、と言う意味だけが、今や重要なのであった。  妖糸を張り巡らせなくとも解る。 ――『とてもなく、恐ろしい悪魔の気配』が、体中に叩き付けられてきているのであるから。 それを理解してなお、幻十もマーガレットも、その場にとどまった。何が来るのか、と言う事への期待感。 そして、如何なる存在を呼び出し、どのような戦いを繰り広げられるのか、と言う強い関心もあった。 マーガレットもまた、新たなる力の萌芽を喜ぶ『力を管理する者』の一員なのであった。 「姉上がこの地にやってくる事――私、薄々ながら理解しておりました」  それは、マーガレットから見て、広いロビーの右側の四隅の右上側、其処に位置する曲がり角から聞こえて来た。 姉とは女性としての声質は似ていないが、酷く落ち着いていると言う点だけは、共通していた。 先程から糸を動かそうとしているが、動かせない。動かす前に、彼女のサーヴァントが妖糸を切り刻んで無力化させているからだった。 一ナノmにも達する程の細さのチタン妖糸を視認或いは感知し、しかも、幻十程の手練の操る糸を斬るとは、やはり、普通ではない。  ――そして、二人が姿を現した。 マーガレットの来ているスーツと似たような配色をした着衣物を身に纏った、銀髪の美女。 その背後に控える、全身に特徴的な、光る入れ墨を刻み込んだ青年男性。上半身裸にハーフパンツと言う、蛮族もかくやと呼ばれる程ラフな格好である。 マーガレットと幻十は、即座に理解した。この聖杯戦争の主催である彼女――エリザベスが、此度の戦争運営に関して、とんでもない怪物を呼び寄せたのだ、と。 ルーラーのサーヴァント、人修羅から発散される、無色の覇風。断じてこれは、並一通りの英霊が放てるそれではない。 果たして幾度の戦場を駆け抜ければ、幾度の死を踏み潰せば、幾度の万魔を葬れば、彼と言う個になれるのか。 いや、そのような事を達成させたとしても。あれ程の存在に、なれるのか? この世に存在すると言う事自体が、奇跡にして、必然。そうとしか言外出来ない程の、超越的な存在。それが、人修羅であった。  エリザベスの方も、マーガレットの呼び寄せた存在を見て、一瞬だけ驚いた様な表情を浮かべた。 無理もない。今エリザベスの視界に映るアサシンのサーヴァントは、この世の美なる概念の絶対の規矩にして、絶対に手を伸ばせぬ高嶺の花。 人が如何なる神を信奉しようとも、如何なる悪魔に魂を売ろうとも、そして、運命なる物を自由に改竄させようとも。 彼の美を手に入れる事は出来まい。そして、彼の美を侵すことも、また。そう言う存在なのだ。浪蘭幻十とは、そんなサーヴァントなのだ。  力を管理する者の心すら、数瞬空白にさせる程の、恐るべし、浪蘭幻十の美貌よ。 しかし、エリザベスと只人の違う所は、美貌に当てられた驚愕から復帰する速さだ。 直に元の状態に戻れたのは、彼女自身の精神力の凄まじさもそうであるが、人修羅自体が、ロビー全土に己の存在感を行き渡らせたからに他ならない。 強烈な磁力めいたエネルギーを内包したその存在感は、幻十やマーガレット、エリザベスに衝突するや、直に彼らの気を引き締めさせに掛かった。 これがあったからこそ、エリザベスは、即座に精神を元の状態に通常よりも早く安定させる事が出来たのだ。 「エリザベス」  聞き分けのない子供か妹を、折檻する様な口ぶりで、マーガレットが言った。 「色々貴女には言いたい事があるわ」 「口上を承りましょう。姉妹の好です。全て、お答えいたします」  そうエリザベスは、厳粛そうな口ぶりで言うのを聞くや、マーガレットは懐から群青色の鍵を取り出した。 それこそは、契約者の鍵。この<新宿>で開かれる聖杯戦争に招かれる為の、血塗られたチケット。破滅と栄光への片道切符。 「これを、この地に呼び寄せる文字通りの鍵にした理由を、話しなさい。これを鍵にしたのであるのならば、私か、テオドアが呼び寄せられる事位、読めた筈よ」  マーガレットには、ずっと疑問であった。 この鍵は、力を管理する者と呼ばれる者達であれば、手にしていておかしくない代物である。 マーガレットは他の参加者達とは違い、この鍵の意味と重みを誰よりも理解している存在の一人である。 これを切符にしたと言う事は必然、エリザベスと肩を並べる強さのテオドアか、彼女よりも強いマーガレットもこの地に呼び寄せてしまう事位、解っていた筈だ。 そうなってしまえば、聖杯戦争の運営に、滞りが生じるのは当たり前の話。何故、その危険性を解っていた筈なのに、彼女はこの鍵を? 「深い意味は、ありません」  対するエリザベスの答えは、マーガレットが予期していたものよりも、ずっと簡素だった。 「本心を言うのであれば、私とて、聖杯戦争が正しい事であるなど、少しも考えておりません。聖杯戦争――何と聞こえの良い言葉でしょうか。そして……」 「何て、最低な催しなのか」 「ですね」  ふぅ、と息を吐いたのはエリザベスの方だった。 「そのような大仰で、そして、業の深い戦いを繰り広げる以上、半端なものを鍵にしたくなかったのです」 「だから、契約者の鍵を? 間抜けにも程があるわね」 「でしょうね。これを鍵に設定してから、気付きました。姉上が来るであろう、と言う可能性に」 「テオドアは考えなかったのかしら?」 「テオは……あれで甘い所がある、可愛い弟ですから。来るのならば、姉上であろうと。初めから決めつけておりました」  苦笑いを浮かべながら、更にエリザベスは言葉を続ける。 「でも、来たのが姉上で良かったのかも知れませんし、姉上に叱られて、私、嬉しく思います。 私の行っている事が、横暴だと言う事は、誰に言われるでもなく理解していた事でしたから……、貴女が来てくれて、私は、大変嬉しく思います」  苦笑いは直に、悲しげな、風に吹かれれば砂と塵とに消えてしまいそうな、儚い笑みに変貌する。 姉のマーガレットも見た事のない、エリザベスの初めて見せる一面であった。 「其処まで解っているのならば、エリザベス。今すぐ聖杯戦争を取りやめなさい」 「お断りします」  エリザベスの即答は、鋼だった。其処だけは、譲る事は出来ないと言う不退転の意思が、言葉と態度から表れていた。 「最低な催しだと解っていても、人道に悖る行為だと理解していても。私には、叶えたい願いがあるのです」 「……世界の果てに囚われた男の話かしら?」  それは、エリザベスがベルベットルームから出て行く時に、彼女自身が語った事。 初めは御伽噺だと思っていたが、彼女らの主である長鼻の男も、彼の存在を認めていた。 世界を滅びから救い、今も、遥かな世界の果ての果てで、大いなるネガティヴ・マインドを防ぐ事を強いられている、男の話。 「人の業に踊らされ、世界の滅びを招かされ。そして、一人で滅びの扉の錠前になっている。私には、彼がそんな風になっている事が、許せなかった」 「その彼の為に、貴女は、聖杯戦争を行うと? 一人の為に、何人もの命を弄ぶのは、それこそ許されない事よ」 「それと解っていても――」 「退かない、と言う訳ね。馬鹿な妹」  其処でマーガレットは、今まで腋に挟んでいた青い装丁の本を開いた。 本からは、この時を待っていたと言わんばかりに、幾つものカードが勢いよく飛び出し、彼女の周りを衛星めいて旋回し始める。 「痛い目を見せてでも、貴女をベルベットルームに引き摺り戻すわ。貴女の旅路は、此処で終わりよ。エリザベス」 「終らせません。姉上であろうとも私の道を、邪魔させません」 「――下らないな」  姉妹の会話が今終わり、戦いが始まろうとした、この瞬間を狙って言葉を挟んだのは、他ならぬ浪蘭幻十だった。 楽園で天女が掻き鳴らす天琴の如くに美しいその声には、途方もない無聊と、怒りとで、横溢していた。 「此処までやって来て、姉妹の御涙頂戴を聞かされる僕の身にもなって欲しいな。君達の麗しいやり取りを見る為に、僕は此処に来たんじゃない」  其処で、幻十が押し黙る。この世の如何なる槍の穂先よりも鋭い殺意を双眸に込めて、彼はエリザベスらを睨んだ。  空間が恐れを成して、収縮するような感覚を一同は憶えた。この様な雛に稀なる美男子ですら――殺意を露にするのかと。 そして、美しい者の決然たる表情は――此処まで壮絶な美しさを湛えるのかと。 「君を殺す為に此処に来たんだ、<新宿>の冒涜者よ」  其処まで言った瞬間、人修羅の全身が茫と消えた。 気付いたら彼は、エリザベスの真正面に立ち尽くしていた。その背で彼女を守る騎士が如き立ち位置の関係である。 彼の右手は薄紫色に光り輝く、魔力を練り固めて作っただけの、原始的で武骨な剣を握っており、それを持った右腕を水平に伸ばして構えていた。 「――ほう」  と、嘆息するのは幻十の方だった。 幻十ですら後を追う事が困難な程の速度で人修羅が動き、エリザベスを百六個の肉片に分割させんと迫らせた不可視のチタン妖糸を、 このルーラーは尽く斬り裂いて回り、無害化させた。その事実を、果たしてマーガレットとエリザベスは把握していたかどうか。 今の嘆息には、侮りの意味を込めてない。驚きの感情の方が強い。何故ならば幻十は、エリザベスを斬り裂くのに、 『現状』持てる全ての技量を費やして、妖糸を操った。幻十が本気で妖糸を動かした場合、気配察知や心眼、直感等と言った、 第六感に類するスキルや特質を超越し、本来物理的な干渉を無効化する性質すらもランク次第でいとも容易く切断する。無論それは、秋せつらにしても同じ事が言える。 その幻十の操る糸を、一方的に、あの魔力剣で切り裂くなど、尋常の事ではない。恐るべし、ルーラーのサーヴァント、人修羅よ。  そして内心では人修羅も唸っていた。 生半可な攻撃など、例え公から賜った無敵の盾を用いなくとも、彼は容易く迎撃、無力化出来る。 付け焼刃の不可視、フェイント、妨害。そんな物、飽きる程彼は経験して来た。 百や千では到底効かぬ修羅場を潜り抜け、万を超す神魔の戦場を勝ち残って来た彼の心眼と直感は、並の事では鈍らない。 その彼の常軌を逸した戦闘経験の全てを以ってしても、幻十の攻撃を防ぎきるのは、かなり危険な所であった。 如何にサーヴァントとしてその身を窶し、元々の実力を発揮出来ぬと言っても、彼をして此処まで危ぶませる程の攻撃を放つなど、尋常の事ではないのだ。 「マスターの姉と言うが……成程、大したサーヴァントを引き当てたようだな。血、と言う奴か」  元より、人修羅とて油断していた訳じゃない。 マーガレットがエリザベスの姉だと解っていた以上、一切の驕りを彼は排していたし、幻十の姿を一目見たその時から。 警戒心は最大限にまで高められていた。幻十の不意打ちを見た今、その警戒心は敵を排除すると言う『殺意』へと昇華された。 このサーヴァントを、自分が葬って来た幾千万もの万魔の屍山の一員に加え入れる。そう、人修羅は決意した。 「――デッキ、オープン」  其処まで言った瞬間、エリザベスもまた、小脇に抱えていた辞書を展開させる。 この時を待っていたと言わんばかりに、辞書――通称、ペルソナ辞典に挟まっていたカードの一枚が勢いよく飛び出し、それを彼女は素早く手に取った。 瞬間、瞬きよりも早い速度で、衛生病院のロビーと言う空間が、『書き換えられた』。 くすんだリノリウム、散らばるガラス片、電気系統が死んで久しい照明類、やれたソファ。それら全てが、世界から消えてなくなり、 代わって現れたのは砂漠だった。オアシスも無ければ岩場も無い、ただただ茶けた砂粒が無限に広がっているのではないかと言う程の、渺茫たる荒野。 これこそは、エリザベスもとい、力を管理する者がその力を以て作り上げた、一種の閉鎖空間、或いは、固有結界であった。 彼女程の存在であれば、このような空間を作り、相手が逃走するのを防ぐ事など訳はない。無論、エリザベスにもそれが出来ると言う事は、マーガレットにもこれが出来ると言う事なのだが。  エリザベスが、この空間を展開した理由は一つ。 マーガレットを、逃さない為? いいや違う。この<新宿>聖杯戦争の主催者は、自分の姉がそのような気質の持ち主でない事をよく理解している。閉鎖空間を展開させた理由は、ただ一つである。  ――自らが引き当てた、究極の真正悪魔(ルーラー)が、その本領を発揮させられるようにする為。この一点のみに他ならない。 「ジャッ!!」  裂帛の気魄を込めた一喝を上げ、魔力剣を地面に叩き付けた。 叩き付けた所を中心に、直径数十mにも渡り巨大な亀裂が走り、地面が上下に激震した所から、人修羅の人智を超えた膂力と言うものが窺い知れよう。 しかし本当の攻撃はこの亀裂を用いたものではない。単純に、剣先から生み出された橙色の熱波(ヒートウェーブ)である。 高さ六m程にもならんとしているこの熱の波は、音に倍する速度で、幻十とマーガレットを呑み込み消滅させんと迫りくる。  これを、不可視のチタン妖糸を以て防ごうとする幻十であったが――慄然の表情を明白に彼は浮かべた。 戦艦の主砲ですら無力化する程のチタン妖糸を、人修羅の放った熱波は、まるで泥のように溶かしながら進んで行くのである!! 熱波を避けんと、マーガレットは垂直に、熱波の高さよりも高い所まで跳躍。いざという時の為に、マーガレットに妖糸を巻き付けていた事が、功を奏した。 跳躍したマーガレットを起点に、巻き付けた糸を動かし、自身も、マーガレットと同じ高さまで跳躍する幻十。 砂粒を更に細かい粒子に破砕させながら、ヒートウェーブは二人を通り過ぎて行く。 「ルーラー、私は姉上を対処致します」 「あぁ」  だから貴方は、相手のサーヴァントをお願いします。 そうエリザベスが言いたかった事は、人修羅にも解る。息の合った、良い主従と言う様子が、マーガレット達にも見て取れる。 砂地の上に、マーガレットが着地する。幻十は、空中に張り巡らせたチタン妖糸の上に直立し、人修羅達を見下ろしていた。 せつらや幻十程の腕前の持ち主となれば、糸を巻き付ける物が絶無の空間においてすら、妖糸を展開、空中に張り巡らせる事など造作もない事なのである。  「あ」の一音発するよりも速い速度で、幻十は、エリザベスと人修羅の周囲に糸をばら撒いた。  一ナノmの細糸は、地面に根付き、空中に固定される。幾千条を超し、万条にも達さんばかりのチタン妖糸は、敵対者を逃さない不可視の檻となって彼らを包み込んだ。 マーガレットがこれと同時に、ペルソナ辞典から飛び出したカードを手に取った。 人間と言う種がいる限り滅ぶ事のない高位次元、『普遍的無意識』にアクセス。心と精神の溶け合ったスープの大海原に漂う神格に形と定義を与え、彼女はそれを物質世界へと招聘させる。 「ジークフリード!!」  美女の背後に現れたのは、乾いた血液の様な皮膚の色をした金髪碧眼の美男子だった。 鱗を編んだような軽鎧と兜を身に纏い、岩をも切断出来そうな佇まいの剛剣をその手に握った戦士風の男。 彼なるは、北欧はドイツの叙事詩、ニーベルンゲンの歌に記される大英雄、ジークフリード。 悪竜ファフニールを勇気と知恵で以て打ち破り、竜を倒して得た数々の宝を以て比類なき武勲を立てて来た英雄の中の英雄であった。 人の思念と想念が入り混じる普遍的無意識の海は、斯様な存在をもカバーしているのだ。  討竜の大英雄が強く念じたその瞬間、エリザベスと人修羅が直立している地点と地点を結ぶ線分、その中心の空隙に、爆発が巻き起こった。 いやそれは、正確に言えば爆炎だ。摂氏七千度を超す程の大火炎は、爆発現象が起ったのではと錯覚する程の勢いを伴っていたのである。 エリザベスも人修羅も、これに反応。共に横っ飛びに跳躍する事でこれを回避した。結局爆炎は二人を焼滅させる事は敵わず、地面の砂粒をマグマ化させる程度にとどまった。  人修羅の姿が霞と消え、エリザベスの前に立った。 手にまだ握っていた魔力剣を、肩より先が消失したとしか思えない程の速度で振り抜いた。 その攻撃で、エリザベスに殺到していていた二千百二十一条ものチタン妖糸が切断され、無害化されたと言う事実を知るのは、 攻撃を放った幻十と、それを防いだ人修羅だけだった。もう一度、魔力剣を一振りさせる。剣自体は元より、剣から生まれた衝撃波が、チタン妖糸を切断して行く。 幻十の瞳にのみ見えていた、大量のチタン妖糸の結界は、この瞬間一本もなくなった。 「マスターあのアサシンは目に見えない糸を使ってお前を切り刻む。攻撃の時は最大限注意しろ、お前なら見えない筈はないだろう」 「やってみましょう」  そう会話を終えると、人修羅の背中からエリザベスが飛び出た。 それと同時に、人修羅は小さく息を吸い込み、幻十目掛けて呼気を放出した。――その呼気は、一万度を超す熱量を伴った火炎の吐息だった。 人修羅程の悪魔ともなれば、竜種などの最上位の幻想種に匹敵、或いは上回る奔流(ブレス)を吐き出す事も可能なのである。 吐き出された火炎の吐息(ファイアブレス)は、息と言うよりは最早レーザーで、凄まじい速度で大気を焼きながら幻十の方へと向かって行く。 不可視のチタン妖糸を目の前に展開させる幻十。ブレスが糸に直撃する。傍目から見れば、目に見えない凄まじい耐火性の壁に、炎が阻まれている様にしか見えないだろう。 チタン、と言う明らかな金属で出来た糸にも拘らず、それは、融解しない気化しない。幻十の繊指によってのみ成し得る奇跡の体現だった。  此処で幻十は、一つの事実に気付いた。糸が破壊されないと言う事実についてだ。 人修羅の攻撃は、常識を超えた強度と靱性を誇る妖糸を絹糸の如く切断したにもかかわらず、彼が放つ炎の息は、難なく防げている。 この『差』は、果たして何なのか。幻十は一瞬、この事を推理した。何か、大きな秘密がある事は相違なかったからだ。  先程、人修羅の背後から飛び出して行ったエリザベスは、一直線にマーガレットの方へと向かっていた。 自己強化の魔術をかけているとか、サーヴァントからの補助を受けているとか、その様な合理的な理屈を一切無視して、時速六百㎞程の速度で地面を駆けている。 「ドロー」  言ってエリザベスは、冷静に、ペルソナカードを辞典から取り出した。 彼女の背後に現れたのは、白く光り輝く騎士鎧で己を鎧った、整った顔の美男子であった。 もしもこの場に、浪蘭幻十と言う規格外の美貌の持ち主さえいなければ、この場で最も美しい男は、間違いなく彼であったろう。 その手に白銀の槍を握り、黒髪をたなびかせるこの戦士の名は、クー・フーリン。アルスターの伝承にその名を轟かせる、光神ルーの息子たる半神の剛勇だ。  風速二百mを超す程の突風が、マーガレットの下へと吹き荒ぶ。 鋼で拵えた城郭すらをも吹き飛ばす程の勢いの大風には、人体を塵より細かく切り刻む程の真空の刃が幾つも孕まされており、まともに直撃すれば、 人間など紙屑のように空を舞い、五体は瞬きする間もなく挽肉となるであろう。その風の中を、マーガレットはまさに不動と言う佇まいで直立していた。 足裏から根でも生えているのではと言う程、彼女は堂々と風の中を立っている。その美しいウェーブのかかったロングヘアは全く動く事もないし、服も切り刻まれる事もなし。 まるで彼女だけが、この世の物理法則の外の存在であるかのように思われよう。無論、エリザベスはそうではないと言う事を知っている。 クー・フーリンを見た瞬間に、このペルソナが使う魔術の属性を無効化するペルソナを、装備しただけに過ぎない。現にジークフリードの姿が、この場にない。 だがあの一瞬で、このような判断を下し、即座に実行するその反射速度と、実行スピードは、まさに、神憑り的なそれとしか、言いようがない。  マーガレットもエリザベスも、下した判断は全く同じで、下すタイミングも全く同一だった。 自らが普遍的無意識から引きずり出した存在に指示を下し、彼ら自身を戦わせる。それが、姉妹の下した判断だった。 マーガレットは先程と同じく、悪竜を撃ち滅ぼした大英雄を招聘させた。その妹は、影の国の女王ですらも一目置く大烈士を呼び寄せた。 姉妹の名代として世界に顕現した大英雄は、それぞれの敵に向かって宙を滑り、向かって行く。  ゲイボルグを凄まじい速度で振るうクー・フーリン。それを、鎧に覆われていない生身の左腕の下腕で防御するジークフリード。 右手に握った魔剣グラムを振い、光の御子の首を跳ね飛ばさんとする大英雄であったが、槍の石突で彼はこれを防御。 数歩分の距離を空中を滑って下がり、下がりざまに槍を下段から勢いよく振り上げ、魔剣を握った英雄の顎を破壊しようとするが、これをグラムで防御。 グラムを勢いよく振うジークフリード。空間に、五十にも届かんばかりの断裂が刻まれるも、これをクー・フーリンは高所に跳躍する事で回避。 目を瞑り祈ると、局所的な真空のナイフが発生し、ジークフリードを塵殺しようと刻みまくるも、その程度等意に介さないとでも言わん風に、無傷だった。 神話の再現、英雄譚の山場の再来、それらを可能とする聖杯戦争。それに於いて、音に聞こえた大英雄二人の戦いが今まさに、再現されていた。 誰もが心の底では待ち望んでいた光景が、今まさに繰り広げられていた。但しそれは、サーヴァントと言う超常存在を用いた存在ではなく、普遍的無意識からサルベージされたペルソナと呼ばれる存在であると言う点が、大きく異なるのだった。この点からも、此度の聖杯戦争の異常性の一端が垣間見えようと言うものだった。  ――それでは、彼の大英雄が空中で熾烈な戦いを繰り広げているその下で戦う、彼らを呼び寄せた主達の戦いぶりは、どうなのか?   エリザベスの頸椎目掛けて上段の回し蹴りを放つマーガレット。これを屈んでエリザベスは回避する。 辞典から引き抜いたペルソナカードを数枚飛び出させ、マーガレットの下へと飛来させ、凄まじい速度でその場で旋回させる。 瞬間、マーガレットの姿が、カードが空中を飛び回っている渦中から一瞬で消失する。彼女の姿が消え失せてから、ゼロカンマ一秒以下の時間が経過した後だった。 地面にありとあらゆる方向からの、深く大きな斬撃痕が刻み込まれたのは。それと同時に、エリザベスの背後に、マーガレットが空間転移して現れる。 あられもなく右足を振り上げ、踵が上に垂直に来る程にマーガレットは持ち上げる。位置エネルギーと、力を管理する者が誇る膂力を相乗させて、 マーガレットは勢いよく踵を振り落とした。エリザベスはこれに対応し、パタン、とペルソナ辞典を閉じ、その装丁部分でマーガレットの踵落としを防御。 大気が波を打つ。辞典と靴の踵部分が衝突したとは思えない程の大音が鳴り響くと同時に、姉妹を中心として直径三十m超のクレーターが地面に刻まれる。 大量の砂が一気にクレーターの底に流れて滑り落ちて行く様は、天然の巨大なアリジゴクのようであった。  エリザベスが辞典に力を籠め、マーガレットを跳ね除けさせる。 エリザベスの膂力も異常な事と、マーガレット自身が不安定な体勢であった為に、何の抵抗もなく彼女は空中へと吹き飛ばされる。 が、直にマーガレットは空中で後方宙返りを披露し、姿勢の制御を行い、その場で転移。これと同時だった、マーガレットが召喚したペルソナである、 ジークフリードが霞か何かの如く姿を消したのは。それを受けてエリザベスも、自らが呼び出したクー・フーリンを消失させる。 その瞬間頭上から、エリザベス数十人分にも匹敵しようかと言う程の大きさの大氷塊が、隕石めいた速度で彼女の下へと飛来して来たのは。 焦りから来る発汗もないし、呼気の乱れもまるでない。そう来たか、とでも呟きそうな程、彼女は落ち着いている。 辞典からカードをドローする。彼女の背後に、普遍的無意識のスープに溶けていた神格が顕現する。墨の様に黒い体表に、炎を模した様な紅蓮の入れ墨を刻んだ大男だった。 その手に燃え盛る大剣を持ったこの魔王は、北欧の神話体系が成立する以前よりも存在したとされる古の大巨人。神々の黄昏を生き残ったムスペルヘイムの王。スルトそのものであった。  氷塊目掛けて炎の大剣、世にレーヴァテインとも呼ばれる、剣とも杖とも呼ばれる神造兵装を振り下ろす。 百tにも届こうかと言う大氷塊は、炎剣の一撃を受けたその瞬間、大量の水蒸気へと変貌。一帯を白い靄で覆わせてしまう。 邪魔だ、と言わんばかりにスルトはレーヴァテインを掲げると、その水蒸気も蒸発してしまい、視界が一気に明瞭なそれに変貌――したわけではなかった。 レーヴァテインが内包する余りの熱量で、陽炎が発生。水中から水面を見上げているかのように、視界がグニャグニャになっていた。  エリザベスも空間転移は使う事は出来る。 出来ていて敢えて、彼女は徒歩でアリジゴクからの脱出を試みた。流れ落ちる流砂など意にも介さず、彼女は砂地の上を歩いて行く。 十秒程で、彼女は其処を抜け出た。視界の先には、マーガレットが腕を組み此方を睨んでいるのが解る。 彼女の背後には、川流れの如く更々の金髪を長く伸ばした、黒色のつなぎを身に付けた男が佇んでいる。蝙蝠を模した様な翼が、ただ者では無さを見る者に実感させる。 魔王ロキだと理解するのに、エリザベスには刹那程の時間も不要であった。  マーガレットの方が先に、ペルソナの力を解放させた。 ロキがその右手を動かすと、一瞬で場の空気は零下二十度を割り始める。気温が下がるだけならば、まだ良い。 これだけに飽き足らず魔王は、砂地を一瞬で凍結させ、更に、分厚い氷の膜を地面と言う地面に張らせて行き、行動を阻害させる。 更に、その氷の上から天然の樹氷とも言うべき、鋭く尖った氷の柱を幾十幾百本も展開させ、動きを完全に殺させる。 此処までにかかった時間は、ゼロカンマ五秒も無い。其処からマーガレットは空中から大量の氷塊を降り注がせようとするが、エリザベスもエリザベスだった。 スルトがレーヴァテインを掲げるや、太陽の破片が落ちて来たと錯覚する程の炎の塊が凍結した地面の上に落下、そして着弾。 一瞬で、ロキが生み出した全ての氷の細工を蒸発させるどころか、更に下がった場の気温を一気に真昼時の砂漠のそれにまで上昇させる。  ――嗚呼、流石は。流石は、我が妹。 人道を外れ、修羅道を歩み終え、畜生道と餓鬼道を今正に歩み、そして行く行くは、地獄道を歩く羽目になろうとする愛しい妹。 許せないと思う。此処で討たねば、被害は甚大なものになるだろう。エリザベスも、此処で討たれる方が、幸福なのだと思っているかも知れない。 それと解っていても、エリザベスは退かない。嘗て愛した男の為に、彼女は如何なる誹りや非難、罪を、浴びようが背負おうが由としたのだ。 其処に至るまでの覚悟は、どれ程の物だったろうか。如何なる道を歩き続ければ、その様な悲壮な決意が出来るのだろうか。 エリザベスは、最後に戦った時よりも、ずっと強くなっている。世界の果てに封印された少年を救う為に、様々な修羅場を見て来て、味わったのだろう。  愛する妹が、値の付けられぬ絆を得、それを守り、取り戻したいと覚悟を決める。 それは姉として、とても、とても、喜ばしい物だった。それがどうして、このような間違った形になったのだろうか。何処で、エリザベスは道を間違えたのか。 千の言葉を尽くしても、万の行為を示しても。最早彼女の心が変えられないと言うのなら――。 「殺すしかないのね、エリザベス」  展開したロキを消失させ、再びペルソナカードを手に取った。 エリザベスを見るマーガレットの瞳には、慮りの心など欠片もなく。目の前の『敵』を撃滅させんとする、強い意思に満ち溢れていた。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  千七百二十五条のチタン妖糸が、入れ墨を刻んだ青年の悪魔に殺到する。 右腕と左腕を神業の様な軌道で動かし、その全てを断ち切る悪魔、人修羅。 しかしそれらは全てフェイント。本命は、頭上から落下させ、足元から跳ね上げさせた、それぞれ一本づつの妖糸だった。 直撃すれば、上からの糸は右肩甲骨から右足の指先までを、下からの糸は左足の土踏まずから左肩甲骨までを切断する筈。であった。 だが、その程度の猿知恵など見えていると言わんばかりに、人修羅の姿が掻き消える。 彼は一瞬で、高度十五m程の高さ地点に、妖糸を張り巡らせ、その上に佇立する浪蘭幻十の頭上に移動。転移ではない。瞬間移動と見紛う程の速度による『移動』だった。  刻まれた黒い入れ墨から、千万Vを超える程の『放電』現象が発生。 入れ墨が一瞬光った事に警戒し、自身に糸の鎧を纏わせる。傍目から見れば平時の幻十としか思えないだろうが、その実、目に見えないナノmの糸が、 頭から足先までカバーしていると言う事実を、多くの者は悟るまい。 スパークがチタン妖糸に直撃する。蒼白い火花が人修羅と幻十の間で弾けるが、幻十は全く平然としている。放電が、自身に届かないからだ。 チタンと言う明らかな金属を使った糸にも関わらず、それを操る幻十には、一切の電流が届かない。彼の操る糸は、自身の意思次第で、ゴムより強力な絶縁体にする事も可能であるのだ。  今まで足場にしていたチタン妖糸を一瞬で回収するや、幻十の姿が消失する。 一秒と掛からず彼は砂地の上に降り立ち、人修羅の方を見上げた。身体に糸を巻き付けさせ、砂地の下に隠れた岩地をその意図で貫き、 その妖糸を勢いよく収縮させる事で、音速でその場から退避したのである。  百条程度の糸を、人修羅の周辺に展開させ、これを殺到させる。 拳足を、幻十にすら視認不可能な程の速度で動かし、その全てを破壊する悪魔のルーラー。  幻十の疑惑は確信に変わった。 人修羅と言うルーラーが何故、自分の妖糸を断ち斬れるのか。無論、相手の技量自体が半端な物ではないと言う事は、既に幻十も認めている。 それを加味しても、余りにも人修羅は、チタン妖糸を簡単に破壊する。幻十程の技量の持ち主が操る糸を、何の苦も無く破壊する。 この裏に、何かトリックがあるのではないかと幻十は推理。破壊出来た攻撃と、出来なかった攻撃の差異を発見し、その答えの一つに行き着いた。 素手の攻撃だ。人修羅は現状に至るまで、強力なブレスや放電と言う、悪魔としての体質をフルに生かした技を使っていた。 確かにこれらも、尋常のサーヴァントでは抵抗すら許さず殺し切れる程の必殺の威力を内包していたが、実際に、幻十はこれを防げていた。 こう言った攻撃は防げたのにも関わらず、生身の一撃だけが、一切の抵抗を許さず妖糸を破壊する。 肉体自身に何らかの加護が纏わされているのか、或いはスキルか、宝具か。生身の攻撃とは違う、一部の、エネルギーを具現化させて放つ攻撃も、 妖糸を破壊していた事があったが、『生身』が重要なファクターである事は間違いないと幻十は判断。この可能性を、彼は先ず想定に入れた。  幻十の推理は正しかった。 人修羅の生身による攻撃には、明けの明星と称呼される大魔王から賜った究極の矛である『貫通』の加護が成されている。 より言えば、『物理的な干渉力を秘めた攻撃の全て』にその加護が成されていると言って良い。 この場合の物理的干渉力と言う言葉は非常に曖昧で、人修羅の生身から繰り出される格闘攻撃は元より、彼が生み出したエネルギーや『気』の波ですらも該当する。 物理攻撃は貫通の効果を与れるが、逆に言えば、魔術的な攻撃は一切その庇護下に入らない。放電や炎の吐息は、その対象外なのである。 幻十の妖糸が破壊されるのは当たり前で、この貫通の効果と威力は凄まじく、殆どの宝具やスキルの防御効果を無視して、 本来与えられる筈だった威力をそのまま相手にぶつけられると言う点からも、その凄まじさが知れよう。 技術程度では止まらない、人修羅の暴威の象徴。それに晒されれば、如何に幻十の妖糸スキルと言えども、無力と言う他ないのである。  飛燕に百倍する速度で、人修羅が着地した幻十の真正面へと移動する。 移動途中で幻十は糸を操ろうとするが、それが人修羅に向かって行くよりも速く、砂を巻き上げ、人修羅は幻十の前まで移動していた。  上半身が消滅したとしか思えない程の速度で、腰より上を動かし、右腕を振り被る。 幻十の顎目掛けて、フックを放ったのだ。極々一般的な成人男性の拳と、人修羅の拳の大きさに、さしたる差はない。 その筈なのに、幻十は、人修羅のこの一撃で、超猛速で飛来する、巨大な石臼のビジョンを見た。直撃すれば、死は免れない。 人修羅の右拳には殺すと言う意思以上に、『死』と言う物で満ち溢れていた。 音の十三倍の速度で放たれたその一撃を、幻十は、魔界都市に生きる魔人としての反射神経を以て、辛うじて後ろにステップを刻む事で回避する。 衝撃波が、インバネスコートごと幻十を切り刻む。胸部に深い斬撃が刻まれ、血がドッと噴き出る。拙いと思い、幻十は糸を操り、切創をチタン妖糸で縫う。 優れた医者の縫合めいて、チタン妖糸は見事に幻十の傷を塞いだ。痛みも、少しだけ和らぐ。  人修羅が追撃を仕掛けんと、地面を蹴った――瞬間。 それまで地面に張り巡らせていた妖糸が、彼が地面を一定以上の力で踏み抜いた、と言う事をスイッチに、一斉に跳ね上がった。 約八百九十七条のチタン妖糸が一斉に向かって行く。こう言う使い方も出来るのか、と言った様な表情で、人修羅が腕を動かした。 それだけにとどまらない。幻十はポケットに入れていた左手の指を動かした。 チタン妖糸は何も斬るだけが使い方じゃない。糸と糸どうしを紙縒り合せ、不可視の針を作る事だって可能なのだ。 幻十は神憑り的な指捌きで、チタン妖糸を紙縒り合せた針を何十本も生みだし、それを人修羅目掛けて射出させた。 砂を巻き上げて、人修羅がその場から消え失せる。針がスカを食う。左方向に幻十が顔を向ける。幻十から見て左脇二十m地点まで、人修羅が遠ざかっていた。 右手指を猛禽の様に曲げ、指を曲げた側の手首を左手で握っている様子がハッキリと解る。そして、その手に超高速でエネルギーが収束して行くのも。  地面を不様に幻十が転がった、と同時に、人修羅の右手首から、エネルギーを練り固めた、野球ボール大の弾丸が凄まじい速度で飛来する。 砂を巻き上げてそれは、幻十が先程までいた空間を貫いた。もしも幻十が横転していなければ、あの弾丸は彼の身体を粉微塵にしていただろう。 発射されたのを見てからでは、到底間に合わなかった。至近距離で放たれた拳銃ですら余裕で掴める程の幻十ですら、これなのである。 人修羅の放った、あらゆる悪魔を粉々にする『破邪の光弾』は、エリザベスが展開した閉鎖空間の地の果てまで素っ飛んで行く。 衝突する対象がなかった為に、幻十としても何とも言えないが、恐らくあれが直撃していたら、高層ビル程度なら簡単に破壊していただろう。  視界の端では、相当ヒートアップしているエリザベスとマーガレットの戦闘模様が確認出来る。 摂氏数万度にも達する炎が荒れ狂い、絶対零度と見紛う程の冷たさの吹雪が舞い、稲妻が地面を焼いて落下して、風速数百mの大風が吹き荒ぶ。 かと思えば、凄まじい轟音が砂を舞い飛ばせながら連続的に響きまくったり、強烈な呪力や破魔の力が交錯したりと、エネルギーが目まぐるしく変遷して行く。 初めて見た時から、人間に似た何かとしか思えない程強い存在だとは、妖糸で幻十も解っていた。だが、あれ程までに強いとは思わなかった。 と言うよりあれは殆ど、下手なサーヴァントを超越した強さではないか。エリザベスを追い込むその手際に、遠慮や手加減などと言う物はない。 明らかに、妹であろうと殺して見せる、と言う気概で満ち溢れていた。それ自体は、良い。だが此方がそうも行かない。 率直に言うと、エリザベスなる主催者と共にいるこのルーラーの強さは、桁違いも甚だしい強さだ。悔しい話だが、『今』の幻十では到底敵う相手ではあり得なかった。  ――そう、『今』は。浪蘭棺の中で技術を高めれば、恐らくは詰められる。少なくとも現状では、到底勝利を拾える相手ではありえない。 癪に障る話だが、敵のマスターを殺そうにも、人修羅は完全にそちらの方にも油断がない。とどのつまりは、全方位で隙がないのである。  ――“私”のせつらならば、倒せるか……?――  確実に、この街にいるであろう、あの<魔界都市>の体現たる黒コートの美魔人は、この敵を相手に、どの様な手段を講じるのだろうか。 敵わない相手がいるのならば、決まっている。幻十もせつらも、『逃げる』のだ。そして、次に見える時にこそ、殺して見せる。それが、<魔界都市>の流儀である。 一見すれば、此処はエリザベスが展開した、逃げ場のない閉鎖空間。逃げる方策など、ないとしか思えないだろう。 しかし、幻十は知っている。人の手で作られた閉鎖的な空間も、超自然的現象が生み出した閉鎖空間にも、少なからぬ間隙があると言う事を。 どのような空間にも、綻びよりなお小さい、蟻の開けた穴よりも小さいポツポツとした穴がある物である。 空気を取り込む為の物であったり、外界から魔力を供給させる為の穴であったりと、兎に角、そう言った物があり、現にこの空間にも、それはある。 何も幻十は人修羅とエリザベスの周りだけに糸を張り巡らせていた訳ではなく、遥かな頭上にも糸を展開させていた。 その結果、エリザベスの展開した閉鎖空間には、その様な穴がある事が解った。この穴は、人間の目には、先ず目視は不可能であり、 尋常の方法ではいかなる干渉手段を用いようとも、突破口にすらなり得ない穴なのである。  エリザベスのミスは、その穴を一ナノmよりも小さい穴にしなかった事であろう。 幻十の操る妖糸は、その穴を潜り抜け、既に閉鎖空間の外、つまり、<新宿>衛生病院のロビーにまで伸びていた。 それを確認するや、幻十は両手指を一斉に動かした。  ――その瞬間、空と地平線に断裂が生まれ、その断裂から閉鎖空間が崩れ落ちた。 「何――!!」  人修羅がその黄金色の瞳を驚愕に見開かせた。そして、閉鎖空間を生み出した主であるエリザベスや、彼女と死闘を繰り広げていたマーガレットすら。 嘗て灰色の空だった破片が、雲母の如く舞い散って行き、嘗て渺茫たる地平線だった破片が、ポロポロと剥離して行く。 鶏卵の殻を破って、雛が初めて外界を見た時の光景とは、果たして、このような物なのであろうか。 舞い散り、剥離して行く破片の先には、陰鬱とした<新宿>衛生病院のロビーの光景が広がっている。そう、殻だった。 エリザベスが展開した閉鎖空間は、一種の殻の様な物であったのだ。 【マスター、このルーラーは想定よりも遥かに強い、この場は逃走した方が良いかも知れない】  苦渋の決断と言うべき声音で幻十が念話を行う。 これは演技でもなく彼の本心で、敵を相手に背を見せると言う事は、気位の高いこの男だ。絶対に、許せる事柄ではなかった。 しかし、戦略的にそうする必要があったのならば、仕方がない。こうするしかなかった。 【私も、そう思っていたわ。予想よりも、貴方の戦いぶりが情けなくて、困っていた所よ】  と、マーガレットも悪態を吐くが、今はそれに対して返答をする時間すらも惜しい。 何故か人修羅もエリザベスも、マーガレット達の動向を窺っていると言う行為に止まっている。 罠か? と幻十らも思ったが、何て事はない。人修羅達は動きにくいだけなのである。 その圧倒的な強さの故に、本気を出せば<新宿>程度簡単に滅亡させられる人修羅だ。閉鎖空間を展開していない状態では、余り本領を発揮したくないのだ。 そんな彼の心境を慮って、エリザベスは、閉鎖空間を展開した等と、まさかマーガレット達も夢にも思うまい。 【好機だ。退くぞ】 【そうね】  そう言って幻十が糸を張り巡らせようとした――瞬間だった。人修羅と幻十が共に、カッと目を見開かせた。  インバネスの美魔人は、自身とマーガレットにチタン妖糸を巻き付かせ、更に別所に糸を巻きつかせ、 これを以て振り子の要領で、音速超の速度で自分達が直立していた地点から、遠ざかった。 入れ墨を刻んだ混沌の悪魔は、エリザベスを横抱きに抱えながら、跳躍。その場から距離を離した。  両者共に、距離を離したその刹那だった。病院のロビーを、『黄金色に激発する光の帯』が貫いたのは。 病院の壁にぶち当たった瞬間、それは、爆風と衝撃波を伴い大爆発を引き起こし、外の光景が見える程の大穴を其処に空けた 十枚以上の壁を打ち抜いた事もそうだが、光の帯の軌道上に存在した民家が、跡形もなく消滅し、<亀裂>の様子すらも窺える程であったと言う所からも、その被害の程と、光の帯の威力が知れよう。  四人は、病院の入口にその顔を向ける。 黄金を溶かして作り上げた様な光り輝く刀を、振り抜いた姿勢から元々の自然体の状態に戻さんとしていた男の姿を、彼らは認めた。 黄金色の髪、風にたなびく黒い軍服。腰に差した何本もの刀。そして、巌の如き強烈な意思を宿した、傷の刻まれた相貌。 四人はこの存在が、明らかな人間である事を理解したが、なのに、何だ? 人でありながら、人を超越した様なその佇まいは。 四人の内人修羅は、『超人』、と言う言葉が頭を過った。人の身でありながら、人間を超越した強さを誇る怪物。 嘗て、明けの明星も思い出話をするように語っていた。自身の遣わせたアスラ王と、神の遣わせたミカエルを斬り殺した、吉祥寺の青年の話を。 「其処までだ、サーヴァント共」  佇まいだけではない。その声音もまた、鋼だった。 「俺とマスターの覇道の為。此処でその命、散らせて貰おう」  光り輝くガンマレイを纏わせた、アダマンタイトの刀を構えながら。 鋼の英雄にして最悪の破壊者、人類を愛する救世主にして勝利しか求められないバーサーカー、クリストファー・ヴァルゼライドは、己の勝利が、物は上から下に落ちるのだと言う程に当たり前の事なのだと言う核心を以てそう言ったのだった。 **時系列順 Back:[[一人女子会]] Next:[[混沌狂乱]] **投下順 Back:[[征服-ハンティング-]] Next:[[混沌狂乱]] |CENTER:←Back|CENTER:Character name|CENTER:Next→| |12:[[SPIRAL NEMESIS]]|CENTER:マーガレット|28:[[混沌狂乱]]| |~|CENTER:アサシン(浪蘭幻十)|~| |39:[[有魔外道]]|CENTER:ザ・ヒーロー|28:[[混沌狂乱]]| |~|CENTER:バーサーカー(クリストファー・ヴァルゼライド)|~| |39:[[有魔外道]]|CENTER:エリザベス|28:[[混沌狂乱]]| |~|CENTER:ルーラー(人修羅)|~| ----

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