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復習の時間」(2021/03/31 (水) 20:13:54) の最新版変更点

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「……何で水が出ないのよ」  クイクイと、何度も水道のレバーを上げ下げしても、水一滴すら蛇口から滴りやしない。 この世界のTOTOの蛇口は技術力が馬鹿みたいに低いのかと思いながら、凛は苛々を隠せない。 「モデルハウスは上下水道が通っておりませんから水は出ませんよ、凛さん」 「先に言いなさいよ馬鹿贄!!」 「はぁ、申し訳ございません。それと私の名前は黒贄ですよ」  駄目だ、やはり話しているとストレスが溜まる。 黒贄と自分とでは、話が噛み合わないと解っているのに、何故話しかけてしまうのだろう。現状この狂人以外頼れる人物がいないからだ、と凛は思う事とした。  先程まで拠点としていた、香砂会の邸宅が、アサシンのサーヴァントであるレイン・ポゥと黒贄の戦闘の余波で破壊され、 拠点として活用するばかりか、騒ぎを聞き付けてNPCも集まりつつあった為に、凛達はその場所にいられなくなった。 結果遠坂凛は、人目のつかないルートを、態々遠回り覚悟で移動し、元の拠点だった邸宅を捨てて今の所まで北上して来た。  モデルハウスを選んだのは、家と言う体裁を保った建物を拠点にしたかった為だ。 今や世界規模の有名人――悪い意味で――である遠坂凛が、そこら辺の公園や空き地で待機する訳にも行かない。直に事が露見する。 だから、自分が潜伏している事が目立ちにくい、建物内部で隠れていたかったのだ。モデルハウスである以上、当然此処を担当する管理会社の従業員がいた。 黒贄が「何とかしましょうか?」、とか訊ねて来たが、この男の何とかするは殺人以外にあり得ないので、自分がやると凛は説得。 従業員全員に暗示を掛け、自分の事を忘却させてからその場を離れさせた。こんな情けない事に魔術を使うなんて、凛は夢にも思わなかった。父に合わせる顔がない。  遠坂凛が考える事は何時だって一つ。今後聖杯戦争をどう乗り切るか、であった。 自身の置かれた境遇が、この聖杯戦争に参加している全主従の中でも最低かつ最悪に近しいものである事は自覚している。 自覚していてもどうしようもない程、凛の窮状はマズいのである。指名手配を受けている上、彼女の顔も既に他主従に割れている為、 NPCに紛れてすっ呆けて生活する、と言う作戦も不可能。サーヴァントがあの調子であるから、同盟なんて論外であるし、そもそも組んでもらえるとも思えない。 そして、神秘の隠匿と言う、魔術師が何としてでも守らねばならぬ大原則に真っ向から喧嘩を売ってしまった、と言う事がネックだった。 冬木の聖杯戦争なら、監督役に申し入れて聖杯戦争を棄権する、と言う選択肢もないわけではなかった。しかし今の遠坂凛は指名手配を喰らったばかりか、 サーヴァントを用いた大虐殺の様相を世界中に公開された。如何に中立を貫く事が求められる監督役と言えど、これに関しては、天秤は片方に傾かざるを得ない。 即ち、遠坂凛を見捨てる――いや、契約者の鍵を通じて投影されたホログラムを確認するに、寧ろ一番抹殺に乗り気なのは向こうである。 棄権の旨を伝えようと、運営の本拠地に乗り込んだ瞬間、殺されてしまいかねない。要するに、遠坂凛の主従は、詰んでいた。  とは言え、勝ちの目がどんなに薄かろうが、遠坂凛は諦めない。 何せ掛かっているのは我が命である。社会的に死ぬだとか、死んだも同然と言う言葉があるが、凛の場合は比喩抜きで死にかねない。本気になるのが当たり前と言う物だ。  凛の引き当てた、黒い略礼服のバーサーカーは、ソファに腰を下ろし、「うぅむ、空腹を感じぬ肉体と言うのは便利でもある一方で何か違和感が……」と口にしている。 黒贄は確かに、とても良いサーヴァントとは言えない。彼を評価する場合、何にも先だってその性情や嗜好が前に来る。 人を殺さずにはいられないその性分、NPCであろうが、時としてマスターである凛にすら殺意を直撃させかねないその性質。これがあるだけで、 黒贄の評価は最低の更に下であると評価せざるを得なくなる。では、黒贄の良い所を評価しろ、と言われればどうなるか? 性質の悪い事に、実はこれも直に思い浮かぶ。単刀直入に言って、このサーヴァントの良い所は『強い』の一点が上げられる。 凛は、黒贄の強さを疑っていた。ステータス自体は凄い物である事は、マスターである彼女が良く解っている。しかし、それが実戦に活かせるか如何かとなると話は別。 実際凛から見た黒贄はかなりのんびりと言うか間が抜けていて、到底戦うに適したサーヴァントとは思えなかったのだ。 が、レイン・ポゥとの戦いで評価は変わった。他を圧倒する程のステータスは飾りではなく、スキルの不死も、真実本当の不死であった。 大脳がまるまる欠損されても、首の骨を圧し折られても、最早機能しない程内臓をズタズタに斬り裂かれても、黒贄は死なない。 そればかりでなく、戦闘が長引けば長引く程、黒贄の腕力と速さは天井知らずに上昇して行くと言う、持久戦に持ち込まれても、いや、持ち込まれた方が有利と言う性能。 つまり、性格を除けば黒贄は、先ず間違いなく、最強に近しいサーヴァントであると言う事だ。その性格が、ネックなのだが。  改めて、黒贄の方に目線を向ける凛。 いつもの略礼服、いつもの眠たげな瞳と薄い微笑み、いつもの屈強そうな肉体。召喚した当時の黒贄の姿とまるで変わりない。 それが、異常なのである。黒贄はレイン・ポゥとの戦いで、頭の眉より上を切断され、大脳は全て失い、内臓は挽肉より酷い状態にされ、首はほぼ直角に圧し折れ――。 しかも、下半身まで切断された状態だった筈なのだ。それなのに、黒贄は時間が経過したら本当に、元通りの状態になっていた。 頼りがいよりも寧ろ、一方的な恐怖を凛は抱いている程である。御伽噺や神話、伝説、そして、人の住まう世界に確かに存在した実在の英雄や猛将達。 人の想念と言う形のない、しかしそれでいて確かなるエネルギーによって精霊の域にまで押し上げられた存在。それこそがサーヴァント、即ち英霊である。 そんな彼らの中には、どんな攻撃を受けても死なない不屈の存在と言う者も、少なくないだろう。だが黒贄の場合は、常軌を逸し過ぎている。 第一、霊核を砕かれても消滅しない等、どうかしている。サーヴァントにとって霊核とは、心臓以上に破壊されれば戦闘続行が不可能の箇所。その筈なのに、黒贄は平然としているばかりか、当たり前のように霊核を破壊された状態からその霊核ごと完全復活していると来ている。  黒贄は確かに最悪のサーヴァントであるが、唯一の救いは強いサーヴァントであると言う事だ。 凛を取り巻く現状は頗る悪いとしか言いようがないが、聖杯戦争の唯一絶対の勝利条件は、『最後まで生き残る事』である。 聖杯戦争を勝ち残るには、マスター自体の資質と呼び出されたサーヴァントの強さが物を言うのは言うまでもない。 凛のマスターとしての資質は言うまでもないし、黒贄の戦闘能力も高い。これをどれだけ活かし切れるか、この主従が生き残る術は、もうそれしかないに等しいのだった。 「……黒贄」 「何でしょう」  何が面白いのか解らぬ微笑みを浮かべながら、黒贄が返事をして来た。 「貴方、聖杯に掛ける願いって、あるの?」  遠坂凛は、聖杯が万能の願望器である事を、此処<新宿>に来る前から知っていた、恐らくは唯一の参加者であった。 しかし、聖杯の性質を知ってなお、彼女は聖杯に託する願いはなかった。亡き父が志半ばで、求める事が叶わなかった聖杯は、凛にとっては『勝利のシンボル』であった。 聖杯は欲しい。但し、願いを叶えるが為に欲するのではない、聖杯戦争を制した証として、欲しかったのだ。 だが、此処<新宿>での聖杯に限っては違う。元の世界に戻りたいと言う凛の願い、それを叶える手段は凛の頭では聖杯以外思い描けない。 だから彼女は、宗旨を曲げて、聖杯に願いを託そうとしているのだ。そんな事を考えている内に、凛は気付いたのだ。自分は、黒贄が聖杯に何を願っているのか知らないと。 聞くタイミングがなかったのだ。召喚当初は周知の通り黒贄が無軌道極まりない殺人を引き起こし、逃げるのに手一杯。それ以降も凛は心労からグロッキー。 著名な英雄や猛将であれば、ある程度の推察は出来るが、黒贄に関してはそれが全く想像不可能。だから此処で敢えて凛は、黒贄が何を願うのか聞いてみる事としたのだ。……願いの次第によっては、本当に令呪を使って殺さねばならないのだから。 「何でも願いを叶える杯、との事ですが、本当に叶うのでしょうか?」 「願い次第じゃないかしら」  事の正否は兎も角、サーヴァントを召喚するだけの魔術礼装は、それ自体が埒外の魔力を内包している。 英霊と呼ばれる、使い魔の中でも最上位の格を有する精霊達を複数体世界に呼び寄せられる礼装である。その魔力を活かせば理屈の上では、叶えられない願いなど、ないのではなかろうか。凛はそう考えている。 「ううむ、そうですなぁ。敢えて私が願う事があるとすれば……」 「あると、すれば?」 「この世界が続く事ですなぁ」  予想外の返事に、凛が驚いた。 凛の想像を超える程その願いが邪悪であったとか、聖人君子染みた素晴らしいものであったとか、そう言う訳じゃない。 人を殺さずにはいられない、狂人の中の狂人である黒贄が抱くには、余りにも陳腐で在り来たりな物だったから、驚きを隠せなかったのだ。 「え……それって、世界平和、って奴?」 「か、どうかは解りませんが、地球環境保護活動は何回かした事はありますよ。植樹もやった事がありましたねぇ、若木の苗が予想以上に凶器に適してましたから、テンションが上がって一緒に植樹をしてたボランティアの人を殺してしまった事もありますけど」  後半の話は、聞かない事にした。 「だって黒贄、貴方は殺人鬼なんじゃ……」 「凛さん、殺人鬼が殺人鬼でなくなる時とは、どんな時だと思いますか?」 「死んだ時……とか?」 「それもありますが、それ以外では?」 「……」  沈黙は、解らない事の意思表示であった。 「世界から人がいなくなった時ですよ。人を殺すから、殺人鬼。だったら、世界に人が一人もいなければ、殺す人間がいないのですから殺人鬼はただの鬼になっちゃいます」 「そんなの、つまらない言葉遊びよ」 「いえいえ、殺人鬼にとってはそれは重要な事柄ですよ。如何に正気ではない殺人鬼であろうとも、人一人いない世界に放り込まれれば、一秒と耐えられません。死を選ぶのではないでしょうか。だって自分のアイデンティティを満たせないのですから」 「それを満たす為に、黒贄。貴方は人の世界の存続を願ってるの?」 「殺人鬼を標榜していながら、世界の滅亡とか、人類の絶滅を願うのは紛い物です。私は人が好きだから殺すのです。そんな好きな人間が滅ぶような選択は……あまり許容は、出来ないですなぁ」  初めて、黒贄の本当の狂気に触れた気がした。凛の想像していた以上に、この男は人類の理解の及ばぬ存在だったらしい。 人が嫌いだから世界を滅ぼすとか、そんなのであれば、許容こそ出来ないがまだ納得が行く。理に適っているからだ。 だが黒贄の場合は、人が好きで、世界の存続も願っている。しかし、殺すのだ。だって彼にとって殺人とはとても楽しい事柄だから。 そんな大好きで楽しい殺人が出来なくなるから、彼は世界の滅亡は認めない。人類の平和と人の世の存続を思う事は、とてつもなく有り触れた手垢のついた願いでありながら、その世界を求める理由は、何処までも捻じくれて狂っている。黒贄はやはり、狂人(バーサーカー)のクラスに当て嵌められるに相応しい存在であったのだ。 「やっぱり貴方は狂っているわ、黒贄」 「ううむ、自覚はしてませんなぁ」  やはり、自分と黒贄では会話は噛み合わないと思い知らされた凛。 どちらにしても、黒贄は聖杯に望む願いはかなり薄いと言う事だけは解った。ならば後は、聖杯を勝ち取るだけ。  ――そんな事を考えていた、その時であった。モデルハウスと言う建物の中にいても聞こえる程の遠鳴りが、ガラスと壁越しに響いて来たのと、 地震でもあったかのように家全体がぐらぐらと揺れ始めたのは。 「な、何……?」  凛が不安そうに周りを見渡した。 揺れは錯覚でも何でもなかった。シャンデリア型のシーリングライトが、振り子のように左右に振れている。 「ううむ、地震ではないようですね」  黒贄が呑気そうに言うが、それに関しては同意だった。 凛の聞いた轟音は凄まじく重い物――そう、例えば巨大な建物が崩れ、その瓦礫が落下し衝突して行くようなそれに似ていた。 音源が何によって齎されたのかまでは解らない。解らないが、一つだけ確かな事は、何処かの主従が自分達の知らない所で、戦っている、と言う事だ。 「向いましょうか?」 「……」  と、黒贄が伺いを立てて来た。十秒程考え込む凛であったが、首を横に振るった。 強いサーヴァントを引き当てられたのならば、自分の足で相手の方へと出向くのは、決して間違った選択ではないのだが、このサーヴァントでそれは避けたい所だった。 要らぬ被害を増やしてしまうだけだからだ。待ちを狙って、勝つ。それが、凛の定める自身の勝ち筋であった。 「正しい判断ね」  ――突如としてリビングに響き渡る、艶やかな女性の声。 当然、凛のものでも黒贄の物でもあり得ない。バッと、声のする方向、廊下へと繋がる入口の方に目線を向ける凛。  其処には、世間から見れば美女の水準を容易く満たす遠坂凛から見ても、美しいとしか見えぬ女性がいた。 椿油でも塗っているのだろうか。艶も見事な黒髪をポンパドールに纏めた、妖艶な女だ。 格調高い黒のスーツを身に纏ったその風は、見る者に特権階級の出と言う印象を与える程決まっていた。 しかし、浮かべているその妖しげな笑みは、その見事なまでのプロポーションと妖艶で美しい顔つきのせいか、清純や清楚と言ったイメージは想起させない。淫猥さ、と言う物の方を、寧ろ凛は感じた程であった。 「誰!?」  バッと、左手の人差し指を女性の方に突き付ける凛。 彼女の左腕は、淡く緑色に光っていた。これこそが、遠坂家が五代にわたって受け継いで来た研究成果、いわば遠坂家の叡智と研鑽の結晶。魔術刻印であった。 傍目から見れば一人でに淡く光る入れ墨の様なそれを見て、スーツの女性は、不敵な笑みを浮かべるだけ。 「ガンドね。北欧神話の魔術に造詣が深いのかしら?」 「詳しいわね。なら、解るんじゃないかしら? 逃げ場はないわよ、貴女」 「度胸は一級だけど、実力が伴っていないのがダメね。貴女程度じゃ私を殺せないわ」  どうもこの女性は、凛が魔術師に類する少女である事を看破しているようである。 していてなお、まるで恐れを抱いてない。それが演技でもブラフでもなく、真実の装いである事を、凛は本能的に理解していた。 凛は目の前の存在が、サーヴァントである事を見抜いている。だから、恐れない。ステータスは確認出来ない。隠蔽に纏わるスキルを持っているのかもしれない。 視認は出来ないが、保有する魔力量が規格外のそれである事からも、目の前の存在が、人以外の存在である事を雄弁と物語っていた。 「私は、貴女と事を争いに来た訳じゃないのよ? さる御方が、畏れ多くも貴女と話をしてみたいと言うから、その仲介人として此処を訪れただけ」  スタスタと此方に向かって歩いてくる。よく見ていたら彼女は、室内であると言うのにハイヒールを履いていた。フローリングがヒール部分とぶつかって、細やかな傷を刻んでいる。 「ふぅむ、お知り合いですかな? 凛さん」 「違う!!」  相変わらず、黒贄はマイペース極まりなかった。 凛とスーツの女を交互に眺める黒贄。その瞳には何処か、不服気な表情があった。その感情は主に、スーツの女に向けられている。 「此処で事を争う自由も、当然貴女にはあるけど、リスク計算が出来ない程教養のない娘じゃないでしょう?」  言われて凛が、痛い所を突かれたような顔で女性を睨んだ。 正論である。少なくとも凛の魔術の腕前では、スーツの女性は如何あっても殺せない。必然的に、黒贄を運用しなければ殺せなくなる。 だが、黒贄を用いると言う事は、どう言う結果を齎すのか。それを考えれば、到底迂闊に黒贄に『殺せ』などと命令を下せないのであった。 「心配しなくても、争うつもりは本当にないわ」 「じゃあ何で、私達の所に態々姿を見せたのかしら? 私の今の立場が解らない訳じゃないでしょう?」 「用があるのは、私よりも、私の主に相当する御方よ」 「貴女の、マスター?」 「ミス・遠坂に甚く興味を抱いている、やんごとなき御方よ。――御入り下さい」  入って来た扉の方に身体を向け、恭しくそう言うと、開け放たれたドアの奥の暗がりから、一人の男がリビングへと現れた。 「お初にお目に掛かるね、お嬢さん」  入って来た男の姿を見た時、凛は、例えようもない程の不気味な感覚を、覚えたのであった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  灰色をしたシングルのスーツジャケットとスラックスを身に付けた青年だった。ビジネスマンと言うよりは旅行者や旅人と言うイメージを、見る者に与える。 その証拠に、頭に被るハンチング帽と、右手に持つ黒い革のボストン・バッグは、これから仕事に行く物と言うよりは、行楽に向かうかのようなアクティヴなイメージを想起させる。  この上、若々しい青春美に溢れた、西欧風の整った顔立ちである。 同性であっても、十人が十人ハンサムと答える程の美男子で、こんな男がオフィスで一緒に働いていたら、同僚は嫉妬の念すら起きないであろう。 それ程まで、美のレベルが隔絶していた。立ち居振る舞いや発散される雰囲気もインテリジェンスに富み、非の打ち所のない紳士にしか到底見えない。 遺伝子のレベルで完璧としか言いようがない程のこの男を見て凛は、言いようのない程の恐怖を覚えた。  凛にとって目の前の男は、この世に並ぶ者のいない、世界の全ての物事と事柄を知悉し尽くした至天の賢者に見えた。 そして、この世に並ぶ者のいない、世界の全ての悪徳を犯し全ての罪を一身に背負った、この宇宙が存続出来る全ての時間を費やしたとて許されぬ至悪にも見えた。 無限大にも等しいプラスと、無限大にも等しいマイナスがぶつかり合い、辛うじて人間に見えるか? と言った、人間以外の『何か』。それが、目の前の男について、凛が抱いた印象だった。この男は――何者だ。 「驚いているかな?」  そう言って男は、黒いワークブーツを履いたまま、何の恐れも抱かず黒贄の方へと近付いて行く。 男は黒贄が腰を下ろすソファの、対面のソファに腰を下ろし、同時もせずに黒贄と、凛の方に目線を送った。 「君も察しているかと思うが……。今此処にいる私は、ある協力者の力を借りて送られた、一個の核に魔力を形を伴わせて纏わせた弱い分霊に過ぎなくてね。本体は此処から離れた所にある。真の姿を此処に見せられぬ非礼を、先ずは詫びさせて貰おう」 「サーヴァントの原理と、同じ……」  今になって凛も気付いたが、目の前にいる男は、明らかにスーツの女性よりも弱い。 それなのに女性が男に送る態度は、畏敬と畏怖に溢れたそれで、最大限の敬意を払う事を徹底しているのが、事情を知らぬ凛にすら理解が出来る程だった。そんなか弱い存在なのに、脅威の程は、圧倒的に男の方が上であると、凛に思わせる程の何かを男は発している。 「御明察。流石は、シュバインオーグ老に師事した偉大なる太祖を持つ、遠坂家の六代目当主だね」  淀みなく言葉を紡ぐスーツの男に凛は瞠若してしまう。秘密にしていた事柄を全て、言い当てられてしまったような感覚であった。 「何で、私の事と、シュバインオーグの事を……?」 「彼の『時の翁』とは顔を会わせる機会があってね。まぁ、他愛もない事を話す仲さ」  窓から入ってくる夏の日差しよりも明るい笑みを浮かべて、スーツの男がそう言った。 陽の当たり具合の影響で、陰になっている顔の部分に、途方もなく悪辣で邪悪なものが蠢いているように、凛には見えた。 「少しは緊張もほぐれたかな? それとも、ハハ。より素性が解らなくなって、余計に気味を悪くしたかね?」 「……後者の方よ」 「正直なお嬢さんだ」  男は笑みを強めた。 「其処にいては、話もし難いだろう。もっと近くに来ないかな?」 「此処で話すわ」  キッチンの水洗い場の前で、凛が言った。 「警戒心の強い娘だ。良いだろう。では君は其処で構わない。バーサーカーくん、君は如何する?」 「黒贄、アンタは其処よ」 「はぁ」  近くに来られて、万一戦闘になったら凛まで巻き添えを喰いかねない。それ故の判断だった。 「君達の事を私は知っているのだ。此方の事も話さねばフェアじゃないだろう。私の名はルイ・サイファー。尤も今は、先程言った通り分霊に近い存在だがね」 「私の名は百合子(ゆりこ)。ルイ・サイファー様の従者のような者、と言う認識で差し支えないわ」 「貴方達は、サーヴァントなの?」 「違うね。僕はマスターで、其処の百合子は、私の使い魔に近しい」  凛が絶句したのは言うまでもない。 使い魔を使役する魔術師など、魔術師の常識に照らし合わせれば、珍しい事でも何でもない。 根元を目指し、途方もない時間を研究室たる工房で過ごす事の多い魔術師、しかし、必要上外界に赴かねばならぬ機会は少なくない。 そう言った時の為に用いられるのが使い魔だ。彼らはその魔術師が外で用を達成する代理人として創られた存在である。 当然それを達成させるには知性と、強い柔軟性(フレキシビリティ)と言う物が求められる。無論、工房内での雑務庶務までもが彼らの仕事の範疇だ。 つまり使い魔とは、その魔術師にとって紋章(エンブレム)であり、外界で活動する為のその魔術師のもう一つの仮面(ペルソナ)であるのだ。  当初凛は、ルイの事をキャスターのサーヴァントであり、百合子と名乗る女性は、そのルイが生み出した、サーヴァントに近い高度な使い魔だと認識していた。 しかし実態は、ルイは正真正銘のマスター、つまり人間であり、百合子はその人間に従う使い魔だと言う。 サーヴァントとはその名が仄めかす通り、実態は精霊に近しい最高位の使い魔と言うべき存在であるのだが、この百合子と言う存在は、 サーヴァントに肉薄する程の強さと自律性を持っている。そんな存在を使い魔として創造、使役する魔術師など、この現代では考えられないのである。 「先ずは、何処から話そうか。先程君達も聞いた、音の件から行こうかな」  そう言えば、黒贄にその音源の所に向かうかと聞かれ、否と答えた時、百合子はそれを正しい判断だと称賛した。彼女が何故そんな事を言ったのか、凛はまるで解らない。 「有体に言えばあれは、とあるバーサーカーがルーラーのサーヴァントに対して宣戦布告代わりに宝具を放った音だよ」 「……え? それじゃ、私がもしもその方向に行っていたら……?」 「無論、ルーラーと鉢合わせ。当然向こうは君の事を快く思ってないから、殺されてたよ」  途端に、冷たい氷の蛇が背筋をいやらしく這い回るような感覚を凛は憶える。 今となってはifの話だが、もしも、あの時その音源の方に野次馬根性を出していたら、自分は真実殺されていたかも知れないのだ。これほどまで恐ろしい話などあろうか。 「……と言うか、ちょっと待って。ルーラーって要するに主催者及び監督役なんでしょう? 何でその監督役に、参加者が喧嘩を売ってるの?」 「……さぁ?」  凛にとっても理解出来ないが、ルイもまた理解が出来ないらしい。バーサーカーのやる事だから、と、凛は思う事にするのであった。 「それで、ミスター・ルイ。先ず、と言うからには、当然まだ話す内容があるのでしょう?」 「無論。まぁ、それが本題でね」 「それは一体、何なの?」  凛の方ではなく、黒贄の方に目線を向けて、ルイは口を開く。 「君は既に予測出来ているだろうが、この聖杯戦争は君の様な魔術師以外の存在も参戦している。君の常識では少々、考え難い事だろうがね」  そんな予感は、先程の戦いでしていた。 香砂会の邸宅で戦った、虹を操る暗殺者のマスターは、全く魔術師に見えなかったし、現に魔力など一かけらとて感じなかった。 身体を機械に換装させた人間。つまりは、一般の人間である。そんな存在が、到底聖杯戦争に参戦出来る筈がない。 筈なのだが……、現にあのマスター、英純恋子は参戦していた。だからもしかして、他にもあんな存在がいるのでは、と凛は予測はしていたのだ。 「君にとっては、それは確かにあり得ない常識だろう。しかし、他の多くの参加マスター達はそうは思っていない。何故だか解るかね?」 「……その『常識がない』から。常識はつまり、前提があるから成り立ってる。私と違って他の多くの主従は、『此処に来る前から聖杯戦争について学べる機会がなかった』」  容易に想像出来る事柄である。 そもそも魔術の知識に明るい凛ですら、この聖杯戦争に巻き込まれたのは予測不能で不可避の事柄であった。 果たして誰が、契約者の鍵などと言う物に触れたら、異世界の<新宿>に飛ばされる事を予測出来たと言うのか。 凛ですらこれなのである。他の者達など、魔術等の才能のあるなしを問わず、訳も分からず此処に連れて来られた事は簡単に思い描ける。 その中には一般人同然の者もいた事だろう。当然、聖杯戦争の事など事前に学べなかったどころか、そんな単語など聞いた事すらない人物も、この<新宿>にはいるのだろう。 「その通り。この<新宿>に集った聖杯戦争の参加マスター。その多くの者は、君の知る聖杯戦争のセオリーから大きく外れている。何故ならば、知らないからだ。学べなかった事柄を、人は常識に設定出来ない」 「凛さんはそんなに珍しい方なのですかな?」 「少なくとも私が観測している限りでは、此処<新宿>で唯一、この街にやって来る前から聖杯戦争について知っていた参加者だよ。バーサーカー」 「そんな私に、貴方は何の用なの?」 「君は本来ならば、有利になって然るべき存在なのだよ。聖杯戦争の事も事前に知っている、魔力もある。なのに君の現状は、如何だ? 頼る味方もバーサーカー以外にいなければ、神も悪魔からも今の君は見放された状態。君の窮状は、目に余る」  そんな事、言われなくても解っている。と言うような瞳で凛がルイを睨みつける。 彼女に背を向けていても、そんな敵意は感じられたのだろう。ルイは続けて言葉を紡ぐ。 「力ある者が時と場の運で途端に不公平になる。とても心苦しいし、見ていて胸が痛む。弱い人間の味方としては、ね」  其処でルイは、凛の方に目線を向けた。凛の怒りの感情が、途端に吹っ飛ぶ。彼の目は、酷く澄んでいた。 「私の方から手を差し出す事は出来ないが、君には知る権利を与えよう。此処<新宿>の聖杯戦争のある程度をね」 「<新宿>の聖杯戦争に、ついて……?」 「聡明で優れたキャスタークラスならばある程度辿りつける可能性のある真実だが、現状私がこれから話そうとしている事柄を知っているマスターは、私以外にいない。それが、これから一人増える。君だよ、遠坂凛」 「そんな事を話して……貴方達には何か益でもあるの?」  その言葉を受けて、ルイは笑みを零し、百合子はクスりと笑って見せた。 「面白いじゃないか」 「……面白い?」 「厳密に言えば、今話す事柄。知っている主従は、参加者の中では現状私だけだ。参加者以外の存在では、知っている者は『ルーラー』と『運営者』。つまり真実、私を含めた三人だけしかこれから話す事は知らない」 「そんな事を私が知って、貴方達は面白いの?」 「ゲームが引っくり返りかねないからね、面白くないわけがない。……さて、此処から君達は二つの選択が取れる。私の話を与太だ作り話だと嘲弄し、此処から我々を追い返す事。そして、私の話に耳を傾ける事、だ。どちらを選ぶ?」 「……話して」  凛は六秒程考えてから言った。 無論、嘘である可能性は高い。だが、この男は自分の来歴ばかりか、大師シュバインオーグの事すらも知っていた。 話を聞いてみる価値はある。それに、話された事柄を全て頭から信じる程、凛は馬鹿ではない。何が虚で何が実なのか、それを見極めねばと堅く引き締まる。 「良いだろう」  相好を崩し、ルイは口を開いた。 「改めて述べるまでもないが、<新宿>での聖杯戦争は、本来君が冬木市で行う筈だった聖杯戦争とは全くその形を異にするものだ。何故だか解るかい?」 「私が思ったのは、『ルーラー』と言うクラスの存在。そして、今貴方が言った事で思った事。『同じクラスのサーヴァントが複数いる』と言う事」 「悪くない着眼点だ。冬木の聖杯戦争について学んでいた君なら、それがおかしい事が解るだろう」 「先ず、ルーラーと言うクラスのサーヴァントから聞かせて。聖杯戦争は七騎のサーヴァントが、七つのクラスのどれかから選ばれて、召喚者に応じて呼び出されて戦う物の筈。ルーラー何てクラス、聞いた事がない」 「だろうね。君の思う通り、ルーラーと言うクラスは本来的には存在しないクラスだ。だがごく稀に、例えば召喚者自体の資質や、触媒によって、通常の七クラスとは違うクラスの存在が呼び出される事がある。それを、エクストラクラスと呼ぶ」 「『特別』なクラスって事?」 「或いは、『余分』なクラスかも知れないがね。続けよう。ルーラーなるクラスはその名の通り、裁定者のクラスだ。但し、聖杯戦争においては他のエクストラクラス以上に呼び出される可能性が低い。その理由は、その聖杯戦争が非常に特殊な形式で、運営した場合及び完遂の結果が未知な時。そして理由のもう一つは、その聖杯戦争によって、世界に歪みが出る可能性がある場合。こんな時に、ルーラーは聖杯の求めに応じて出現する」 「その論で行くと、<新宿>での聖杯戦争も、貴方の言った条件に当て嵌まるからルーラーが求められたって事? まぁ、クラスの重複が起こる位異端なんだし、当然よね」 「この聖杯戦争の真の姿に比べれば、クラスの重複など瑣末な問題に過ぎないがね」 「私の知る聖杯戦争よりも、もっと大きい謎が隠されている、と?」 「そうだね」  其処まで言われて、続きが気にならない訳がない。 先程ルイが話したクラスにしても、嘘にしては信憑性があり過ぎるし、真に迫っている。もっと聞いてみる価値があると、凛は判断。「続けて」、と話を更に促していた。 「聖杯戦争の大前提とは、何だと思う?」 「聞くまでもないわ、聖杯よ」  何故皆が。それこそ、御三家とすら呼ばれた存在ですらが、聖杯を求め、争おうとしたのか。 それは、聖杯と言う規格外の礼装があるからに他ならない。神の子の血肉を受け止めた黄金或いはエメラルドの杯、或いは最後の晩餐で用いられた杯。 食物を無から無限に生み出させると言うダグザの大釜を原形(ルーツ)とするその聖杯には、どんな願いでも叶えると言う力が秘められている。 だからこそ、サーヴァントやマスターは、これを求めて争うのである。凛ですら例外ではない。 彼女の場合はかける願いこそはなかったが、遠坂家と、実父である遠坂時臣の悲願を成し遂げると言う意味で、聖杯を求めていたのだ。そう、聖杯戦争の参加者にとっての大前提にして、この催しの根幹を成す要素。それこそが、聖杯なのだ。 「その通り。聖杯とは文字通り聖杯戦争の根幹に当たるアイテムだ。これを求めて血を流し、殺し、争う。地上の人間の全ての罪を贖った男がワインを飲むのに使い、彼の血を受け止めた聖なる杯が、野卑なる闘争の連鎖によって顕現する。中々面白いジョークだがね」  フッと、魅力的な笑みを零しながらルイは言った。陽光を受けるその白い歯は、石英の様に光り輝いていた。 「――『この聖杯戦争では聖杯は顕現しない』」 「……えっ?」  ルイが、野に花が咲いているとでも言うようなあっけらかんとした風に口にした言葉の内容は、凛の思考を奪い去るには十分過ぎるものだった。 余りの言葉に、口は半開きになる、その瞳は痴呆の老人めいた節穴にでもなったかの如く、何らの感情も映せずにいた。 「今一度言おう。この聖杯戦争では、君の想起する聖杯は現れない」 「聞こえてるッ!! 待ちなさいよ!! それじゃあ私達は何の為に――」  スッと、凛の方に右腕を伸ばすルイ。話はまだ終わっていない、と言う合図だった。 千年の時を生きる貴族めいた優雅な動作を以て凛の口火を制止するルイの立ち居振る舞いは、人間では到底及びもつかない程典雅で、光の破片がその周りに舞い散りそうな程であった。 「聖杯は現れない。だが、『願いは叶う』。いや、願いを叶える力と言う一点に関して言えば、遍く並行世界で開催されたあらゆる聖杯戦争の中で、最も優れていると言った方が良い」 「聖杯は出ないけど、願いは叶う。その論理の帰結が今一良く解らないのだけれど?」 「説明しよう」  ルイは深くソファに腰を下ろすような座り方に体勢を変えて、説明を続けた。 「アカシックレコードと言う物を知っているかな?」 「……根源」  それは、およそ全ての魔術師が最終的な到達地点、究極目標としている、超と言う言葉が幾つあっても足りない程の、概念的かつ形而上学的な世界である。 曰く、ゼロ。曰く、真理。曰く、全ての原因。曰く、森羅万象の流出地点。曰く、全ての始まりにして全ての終点。 全ての原因であり全ての未来であるが故に、全ての答えを導き出せる、究極の知恵。それこそが、根源の渦なのである。 魔術師とは即ち、根源への到達を渇望する旅人であり、その為の手段として魔術を研鑽する者達の事を言う。 凛ですら、根源の存在を意識している程、魔術師にとって根源と言う場所は大きな意味を持っている。 この世界に足を踏み入れる為に、魔術師は代を重ねてまで研究を子に継がせ、より強い魔力を持つ子孫を作り、子孫もそれを繰り返す。 このような、血と叡智のリレーを続けてまで、到達する意味が根源にはあるのだ。まさかこの世界で、根源であるアカシックレコードの事を知らされるとは、思いもしなかった。 「そもそも、冬木の聖杯戦争自体が、聖杯ではなく、聖杯の魔力を用いて根源へと向かう為の、それ自体が一種の儀式である事を、君は知っているかい?」 「……初耳だわ」  それは、本当に初めて知った事柄だった。――と言うより 「出来るの? そんな事が」 「聞かされていないのかい? 御三家と呼ばれる魔術の大家の誰かが聖杯戦争に最後まで勝ち残ったら、令呪と言う強制命令権を用いてサーヴァントを自害させるつもりだったんだよ。それまでに脱落したサーヴァントは、サーヴァントの魂を溜めておく器に回収される。当然最後に令呪で自害させられたサーヴァントも其処に溜められる。この、サーヴァントの魂を溜めておく器こそが聖杯なのさ。そして、聖杯に溜められた七騎分のサーヴァントの魂を座へと解放させ、その時に世界に空いた孔から、根源に向かうのだよ」 「聞かされてなかったわ……じゃなくて。そんな方法で可能なの? 第一、抑止力がある筈よ?」  そう、根源に向かう事が何故難しいのか、と言う理由の半分にこれがある。 根源そのものに足を踏み入れると言う事自体が、そもそも凄まじく難しい。多くの魔術師は、この難易度の前に膝を屈するか、無情な時の力に敗れてしまう。 ところが、いざ根源に到達出来そうな研究行おうとしたり、到達出来そうな人物の前には、世界はある力を発揮させる。 それこそが、抑止力。所謂世界のセーフティである。決まった形を持たぬ無形のそれは、人類の破滅回避の総意である、つまり人類の意識の海たるアラヤ。 そして、地球そのものが有する、霊長の生命の存続の為に働く意識であるガイアである。 根源に人が到達し、触れると言う事は、この抑止力からの妨害に遭う可能性が高いのである。根源とは、人の力と人智の遥か外にある力。 理屈の上では星は愚か、宇宙ですら無へと回帰させる事の可能性だってゼロじゃない力へ人間が到達する事を、破滅回避の為の安全弁である抑止力が許容する筈がなく。 妨害にあって、研究が頓挫するレベルならばまだ命があるだけ良い方だろう。最悪の場合は、有無を言わさず世界から消されかねない。 魔術師の根源への到達とは、その難易度も然る事ながら、この抑止力が最終的に待ち受けているからこそ達成が不可能に近いのだ。だからこそ魔術師の親はその子供に対し、『オマエがこれから学ぶことは、全てが無駄なのだ』と説くのだ  聖杯戦争の真の目的が、根源への到達。 成程、確かに生粋の魔術師が行う催しであるのならば、理に適っている。後は、それが本当に出来るのか? そして、抑止力はクリア出来るのか、と言う事だが。 それを説明するべく、ルイは言葉を紡いだ。 「御三家の誰かが余程無能じゃない限りは、達成される蓋然性が極めて高い儀式だよ」 「なら安心じゃないかしら。四度にわたる積み重ねがあったんだものの、完成度は折り紙つきでしょ?」 「かもしれないね」  凛の言葉を受けて微笑むルイの表情は、何処か皮肉気なそれだった。  「話を<新宿>の聖杯戦争に戻そう。此処の聖杯戦争の目的は、その『アカシックレコードへの到達』こそが本当の目的なんだ。全員が全員これを目指す」 「……まさか」 「そう。<新宿>の聖杯戦争でどうやって願いを叶えるのか、もう解っただろう? 『アカシックレコードへと到達し、其処で記録を操作』するのさ」  余りにも雄大――いや、雄大を通り越して荒唐無稽にも程がある計画プランに凛は絶句する。 魔術の理論的には、間違っていないのかもしれない。だが、願いを叶える為に行わねばならない事柄が、余りにも無茶苦茶過ぎて、言葉を失ってしまったのだ。 「無理だ、と思う君の気持ち。良く解る。だが、成功する可能性だって高い」  其処で、一呼吸間を置いてから、ルイは続けた。 「アカシックレコードに到達する上で、難事となる課題は三つだ。一つ目は、そもそも其処への辿り着き方。二つ目に、抑止力。そして三つ目が、アカシックレコードの操作の仕方だ」  ルイの言った事を本気で行おうとするのであれば、その三つの課題のクリアは必要不可欠となるだろう。 実際凛には、この三つの難題をどうやって乗り越えるのか。全く想像すら出来ない。 「この三つの課題をクリアするのに、全てにサーヴァントが関わってくる。厳密に言えば、サーヴァントの魔力と言うべき物なのだがね」 「魔力を?」  此処で、聖杯戦争を成り立たせる為のもう一つの要素、サーヴァントが、此処で関係して来るとは。 「理屈としては冬木の聖杯戦争で用いられるメソッドと大して変わりはない。先ず前提として、此処<新宿>にはルーラーを含めなければ『二八体』のサーヴァントが存在する」  その数字の真否はさておいて、もしもそれが本当であると言うのならば、恐ろしいまでの大所帯で聖杯戦争を行うものである。 この狭い<新宿>に、二十八組の聖杯戦争の主従がいて、その全員が激しく戦えば、こんな狭い街、数秒と持たないのではなかろうか。 「先ず、この内の九騎のサーヴァントを用いて、アカシックレコードの存在する世界。即ち、アーカーシャ層への孔を空ける」  其処までは、確かにルイの口から告げられた冬木のそれと変わらない。 「この時点で根源へと到達する訳だが、次に待ち受けているのは抑止力だ。何せ根源そのものに人が到達したのだ。向こうも形振り構っていられない。代行者や守護者を派遣するなどと言うまどろっこしい真似はしないだろう、そのまま有無を言わさず排斥させかねない」  一拍間を置いて、ルイが続ける。 「そして、続く九騎のサーヴァントを用いて、今度は『抑止力からの排斥を防ぐ防御の機構』を作る。想定されている形状は、膜だね。これを生み出す」 「……信頼性は?」 「抑止力のやり方次第だが、少なくとも初撃は防げる。間違いなくね」  どうにも信用出来ない。しかし、凛の猜疑の念など知らぬ存ぜぬと言う風に、ルイは言葉を紡いで行く。 「そして、最後の九騎で、そもそものアカシックレコードの操作する為の『資格』を創造する」 「資格?」  前二つに比べて、サーヴァントの最後の使い道が、今一要領を得ない為、疑問気な声を凛は上げてしまった。 「アカシックレコードの操作は人間には不可能なんだよ。それこそ特殊な装置か、そもそも最初から根源に繋がっているかとか言う才能が必要になる。無手でアーカーシャ層、君達で言う根源に行っても、無駄骨に終わる。操作の為に必要になる資格と言うのが、我々が『アストロラーベ』と呼んでいる『座』だ。これを疑似的に創造し、アカシックレコード自体を騙すのさ。本物に限りなく近いアストロラーベがあって、一時的に人間はアカシックレコードの編纂が許される存在になる事が出来る。無論、権限を偽って操作する物だから、永続的な操作は不可能だ。短い時間の間に、アカシックレコードを編纂するんだね」  「纏めると、こう言う事になる」 「九騎のサーヴァントの魔力で世界に孔を空け、九騎のサーヴァントの魔力で抑止力の妨害を防ぎ切る膜を生み、九騎のサーヴァントの魔力でアカシックレコードを操作する為の座を偽造する。計二七騎。ピッタリ割り切れるだろう?」 「二八騎いる、と言ってなかったかしら? ミスター。その計算じゃ一騎余るわよ」 「その残りの一騎こそが、聖杯戦争の勝利者だよ。遠坂凛」  光り輝く笑みを、ルイは凛へと投げ掛けた。 「なれると良いですねぇ、その生き残りに」  と、惚けた調子で黒贄が凛に向かって言ってきた。 黒贄の言葉が頭の中に入って来ない程、凛は緊張していた。ゴク、と生唾を飲む音を、ルイ、百合子、黒贄は聞いたかどうか。 自分が生き残る為には、この狭い<新宿>で、二八騎ものサーヴァント達の襲撃を凌ぎ切り、殺し尽さねばならないのだ。 しかも、今の自分の現状よ。最早遠坂凛に味方する主従、同盟を組んでくれる者など、一人もいない。NPCですら、最早敵なのである。余りの難易度に、気が遠くなり、そのまま卒倒しそうになる凛であった。 「……ミスター。貴方は聖杯と言うものは、サーヴァントの魔力ないし魂を溜めておく為の容器、と言ったわね」 「ああ」 「此処<新宿>にも、それがあるのね?」 「勿論あるよ。但し、場所と正体に関しては答えられないな。知らないんだ」  内面を悟らせぬ声音で、ルイは返事した。歳の若い凛には、それが本心なのか見抜けなかった。 「孔を空け、抑止力を凌ぎ切り、座と資格を偽造する。理屈は理解したわ。そして、極めて大仰な儀式である事も。それを理解して、もう一つ聞きたいの」 「伺おう」 「私は魔術師よ。抑止力がどう言ったものかも、人よりは理解してるつもり。サーヴァントの魔力を以て創られた膜、偽りの座。長い時間それが持ち堪えられると思わないし、事実ミスターも永続的には持ち堪えられないと言ったわ。……どれ程の時間、耐えられるの?」  根源に至り、剰えその力を利用して私的な願いを叶えようとする者だって、いるだろう。 その願いの中には、人類或いは霊長の存続を主目的としたガイア・アラヤ双方の抑止力からみて許容出来ない願いだってあるだろう。 そうでなくても、アカシックレコードの到達自体が、抑止力の排斥事例である。其処に到達するとなると、当然魔術師が経験した事もないレベルの排斥を受けるかも知れない。 抑止力の全力の排除排斥を、膨大な魔力とは言え、サーヴァントの魔力で防ぎ切れるとは思えない。防いだとしても、リミット付きであろう事は容易に想像出来る。その時間が、凛は知りたかった。 「四分だね。だが、四分全てをアカシックレコードの操作に使いきると、今度はその操作者がアーカーシャ層から逃げ切れる時間がなくなる。つまりは聖杯戦争自体が、勝利者のいなかった徒労の争いに終わる。だから、アカシックレコードの操作時間は、実質的には二~三分。残りの一~二分は、アーカーシャ層から逃げ切る時間に使う必要性がある」 「……つまり、この聖杯戦争は――」 「『たった三分間だけ全知全能になれる時間を掛けて争う戦争』。言いたい事は、そうじゃないのかい? 間違っていないよ。それが<新宿>の聖杯戦争の、真の姿だ」  自分の想像を超えた、<新宿>の聖杯戦争の真の姿。今の感情をどう表現すれば良いのか。 凛はそれすらも解らない。想像をはるかに超えたスケールの大きい計画は、最早荒唐無稽だと馬鹿にする事すら出来ない。 良く出来た作り話だと、ルイの事を笑い飛ばしたかったが、とても、嘘には聞こえない。全てを静かに理解した上で、凛はそっと口を開き、言葉を発した。 「何が聖杯戦争よ……。詐欺じゃない、聖杯は何処よ?」 「本当の聖杯が降誕しないと言う意味では、冬木の聖杯戦争だって詐欺も同然だろう。名称にさしたる意味はない」  かぶりを振るうルイ。 「宝石魔術を得意とする君には、釈迦に説法と言う物かも知れないが、ルビーとサファイアと言う宝石は、元を正せば同じ石だ。コランダムと言う石が、赤いか青いかの違いでしかない。聖杯もそれと同じさ。結局皆誰一人として、神の子の血を受け止めた聖杯を求めていない事が解る。願いだけに用があると言うのならば、ただ聖杯に祈れば良い。聖杯戦争を勝ち残ったと言う証が欲しいのならば、その証を願えば良い。聖杯戦争に挑む大本の理由である、願いを叶えると言う機能だけは本物なのだ。聖杯の有無など、何ら問題ではないだろう」  其処まで語り終えるとルイは、フローリングに置いていたボストンバッグを右手で握ってから、すっくと立ち上がり百合子の方に目配せした。それを受けて、彼女は軽く首肯する。 「おや、帰られるのですか?」  本当にいつもの声の調子で黒贄が訊ねた。 今まで凛とルイが語っていた話、その九割九分九厘理解出来ていないと言う事が、声からも態度からも解る辺りが、もういっそ清々しい程である。 「我々にも時間と言う物があってね。私はこれから元の鞘に戻らねばならない。そちらの百合子は、ある男の所に事務報告をしに行かねばならない。結構忙しいんだ、我々も」 「今言った話、何処まで真実なのかしら、ミスター」 「仮に私が今の話に嘘を交えていたとして、それを正直に話す程鈍い男だと思うかい?」 「ならば、質問を変えるわ。恐らくこれから味方も作れない、まともに話にも取り合って貰えない私達に、何でそんな核心に迫る話を教えたのかしら?」  途端に、ルイは黙った。 但しその表情は、痛い所を突かれて黙然としているのではなく、不敵な笑みを浮かべるだけと言うものだったが。笑みのベクトルが、黒贄とまるで違う。ルイの方は、途方もない暗黒を腹に隠し持っている事が窺える、そんな笑みだった。 「嘘かどうかは、生き残れればわかるわ。嘘を教えて、私達が不様に右往左往する様を肴にして、愉悦に浸るって言うのならば、絶対に許せないわ」 「勇ましい言葉だ。先程のバーサーカーくんの言葉を借りるなら、生き残れるといいね。遠坂凛」 「黒贄。嘘だったら、其処の二名を全力で殺しなさい」 「……うーむ、興が乗りませんなぁ」 「は? 何でよ」  威圧感すら感じられる程の凛の言葉を受けて、黒贄は、ルイと百合子の双方に、交互に目線を送る。 そして、やはり、と言った様子で首を縦に振り、その後口を開いた。 「殺人鬼は、人を殺すから良いのですよ。……人以外の、況して『悪魔』は少し……いや、だけどなぁ」 「……は? 悪魔?」  言われて凛はキョトンとした表情を浮かべるが、対照的に、百合子とルイの方は、驚きの表情を浮かべていた。 百合子よりも、ルイの方が圧倒的に、元の微笑みの表情に戻る方が早く、直に言葉を紡いだ。 「成程……。存外、頭の鈍いサーヴァントではないと言う事か」  改めて、凛の方に身体を向けるルイ。 「君の引き当てたサーヴァントでも、十分勝ち残る事は可能だよ。悲観する事はない」  「百合子」、とルイが口にする。無言で、彼女が頷いた。 「縁があれば、また会えるだろう。次に出会った時は、私が集めた情報を、再び君達に教えてあげよう。その時が来る事を、祈っているよ」  其処でルイは言葉を切る。 凛と黒贄が、全く同じタイミングでまばたきをしたその瞬間だった。彼らの姿は消えていた。 「瞬間移動……!?」と凛が驚くのも無理はない。長距離の空間移動は、それこそ現代においては魔法級の御業だからだ。 現代科学においても、未だ成功例を聞いた事がない高級技術。それをあの二名は難なくやってのけた。名残も気配も一切残さず、彼らは消滅している。 全ては白昼夢の中で起った、奇妙な出来事だったのではないかと。思うしかないそんな一幕だった。 「黒贄、今の男達の事、記憶してる?」 「おやおや、健忘症ですか? 少々値段が張りますが、魚はDHAが豊富で頭に良いと聞きましたよ」  ルイより先にこの男の方を殺したくなるが、凛はグッと堪える。怒るのは疲れるしカロリーも消費する。 ロクに飯も食べられてない現状でカッカするのは余り宜しくない。 「心配せずとも、私は殺人鬼ですからね。それはもうやたらめったら、必要以上に殺しちゃいますよ。凛さんの敵も、ちゃんと殺しちゃうんで怒らないで下さいね」  少なくとも、この最低最悪のバーサーカーは、自分の事をある程度は守ってくれるらしい。 正直今の発言を聞いても、凛としてはまるで安心が出来ないのであるが、少しだけ、本当にほんの少しだけだが、安堵した。 最後まで生き残る、と言う目標が出来た。この先何が起こるのか、凛としては想像も出来ない。だが、何としてでも生き残る。それだけは胸に誓った。心に刻んだ。 「出るわよ、黒贄。此処がルーラーに近い拠点だっていうのなら、余り長居はしてられないわ。……何処か隠れられそうな所を探すわよ」 「はいはい」  言って黒贄は霊体化を行った。それを確認してから、凛は、入口の方へと歩んで行く。 あの得体の知れない男達は、何処かで自分のこれからを嗤っているのだろうか。そう思うと、余計に死んでられないと思う。 靴を履きドアを開け放つ。<新宿>の夏の火は、殺人鬼探偵のマスターにも、等しくそのギラついた光を投げ掛けて来るのであった。 ---- 【早稲田、神楽坂方面(矢来町のあるモデルハウス)/1日目 午前11:50】 【遠坂凛@Fate/stay night】 [状態]精神的疲労(極大)、肉体的ダメージ(小)、魔力消費(中)、疲労(小)、額に傷、絶望(中) [令呪]残り二画 [契約者の鍵]有 [装備]いつもの服装(血濡れ) [道具]魔力の籠った宝石複数(現在3つ) [所持金]遠坂邸に置いてきたのでほとんどない [思考・状況] 基本行動方針:生き延びる 1.バーサーカー(黒贄)になんとか動いてもらう 2.バーサーカー(黒贄)しか頼ることができない 3.聖杯戦争には勝ちたいけど… 4.今は此処から逃走 [備考] ・遠坂凛とセリュー・ユビキタスの討伐クエストを認識しました ・豪邸には床が埋め尽くされるほどの数の死体があります ・魔力の籠った宝石の多くは豪邸のどこかにしまってあります。 ・精神が崩壊しかけています(現在聖杯戦争に生き残ると言う気力のみで食いつないでる状態) ・英純恋子&アサシン(レイン・ポゥ)の主従を認識しました。 ・バーサーカー(クリストファー・ヴァルゼライド)が<新宿>衛生病院で宝具を放った時の轟音を聞きました ・今回の聖杯戦争が聖杯ではなく、アカシックレコードに纏わる操作権を求めて争うそれであると理解しました 【バーサーカー(黒贄礼太郎)@殺人鬼探偵】 [状態]健康 [装備]『狂気な凶器の箱』 [道具]『狂気な凶器の箱』で出た凶器 [所持金]貧困律でマスターに影響を与える可能性あり [思考・状況] 基本行動方針:殺人する 1.殺人する 2.聖杯を調査する 3.凛さんを護衛する 4.護衛は苦手なんですが… [備考] ・不定期に周辺のNPCを殺害してその死体を持って帰ってきてました ・アサシン(レイン・ポゥ)をそそる相手と認識しました ・百合子(リリス)とルイ・サイファーが人間以外の種族である事を理解しました ・現在の死亡回数は『1』です **時系列順 Back:[[Abaddon]] Next:[[一人女子会]] **投下順 Back:[[さくらのうた]] Next:[[推奨される悪意]] |CENTER:←Back|CENTER:Character name|CENTER:Next→| |39:[[有魔外道]]|CENTER:遠坂凛|| |~|CENTER:バーサーカー(黒贄礼太郎)|~| ||CENTER:百合子(リリス)|| ----
「……何で水が出ないのよ」  クイクイと、何度も水道のレバーを上げ下げしても、水一滴すら蛇口から滴りやしない。 この世界のTOTOの蛇口は技術力が馬鹿みたいに低いのかと思いながら、凛は苛々を隠せない。 「モデルハウスは上下水道が通っておりませんから水は出ませんよ、凛さん」 「先に言いなさいよ馬鹿贄!!」 「はぁ、申し訳ございません。それと私の名前は黒贄ですよ」  駄目だ、やはり話しているとストレスが溜まる。 黒贄と自分とでは、話が噛み合わないと解っているのに、何故話しかけてしまうのだろう。現状この狂人以外頼れる人物がいないからだ、と凛は思う事とした。  先程まで拠点としていた、香砂会の邸宅が、アサシンのサーヴァントであるレイン・ポゥと黒贄の戦闘の余波で破壊され、 拠点として活用するばかりか、騒ぎを聞き付けてNPCも集まりつつあった為に、凛達はその場所にいられなくなった。 結果遠坂凛は、人目のつかないルートを、態々遠回り覚悟で移動し、元の拠点だった邸宅を捨てて今の所まで北上して来た。  モデルハウスを選んだのは、家と言う体裁を保った建物を拠点にしたかった為だ。 今や世界規模の有名人――悪い意味で――である遠坂凛が、そこら辺の公園や空き地で待機する訳にも行かない。直に事が露見する。 だから、自分が潜伏している事が目立ちにくい、建物内部で隠れていたかったのだ。モデルハウスである以上、当然此処を担当する管理会社の従業員がいた。 黒贄が「何とかしましょうか?」、とか訊ねて来たが、この男の何とかするは殺人以外にあり得ないので、自分がやると凛は説得。 従業員全員に暗示を掛け、自分の事を忘却させてからその場を離れさせた。こんな情けない事に魔術を使うなんて、凛は夢にも思わなかった。父に合わせる顔がない。  遠坂凛が考える事は何時だって一つ。今後聖杯戦争をどう乗り切るか、であった。 自身の置かれた境遇が、この聖杯戦争に参加している全主従の中でも最低かつ最悪に近しいものである事は自覚している。 自覚していてもどうしようもない程、凛の窮状はマズいのである。指名手配を受けている上、彼女の顔も既に他主従に割れている為、 NPCに紛れてすっ呆けて生活する、と言う作戦も不可能。サーヴァントがあの調子であるから、同盟なんて論外であるし、そもそも組んでもらえるとも思えない。 そして、神秘の隠匿と言う、魔術師が何としてでも守らねばならぬ大原則に真っ向から喧嘩を売ってしまった、と言う事がネックだった。 冬木の聖杯戦争なら、監督役に申し入れて聖杯戦争を棄権する、と言う選択肢もないわけではなかった。しかし今の遠坂凛は指名手配を喰らったばかりか、 サーヴァントを用いた大虐殺の様相を世界中に公開された。如何に中立を貫く事が求められる監督役と言えど、これに関しては、天秤は片方に傾かざるを得ない。 即ち、遠坂凛を見捨てる――いや、契約者の鍵を通じて投影されたホログラムを確認するに、寧ろ一番抹殺に乗り気なのは向こうである。 棄権の旨を伝えようと、運営の本拠地に乗り込んだ瞬間、殺されてしまいかねない。要するに、遠坂凛の主従は、詰んでいた。  とは言え、勝ちの目がどんなに薄かろうが、遠坂凛は諦めない。 何せ掛かっているのは我が命である。社会的に死ぬだとか、死んだも同然と言う言葉があるが、凛の場合は比喩抜きで死にかねない。本気になるのが当たり前と言う物だ。  凛の引き当てた、黒い略礼服のバーサーカーは、ソファに腰を下ろし、「うぅむ、空腹を感じぬ肉体と言うのは便利でもある一方で何か違和感が……」と口にしている。 黒贄は確かに、とても良いサーヴァントとは言えない。彼を評価する場合、何にも先だってその性情や嗜好が前に来る。 人を殺さずにはいられないその性分、NPCであろうが、時としてマスターである凛にすら殺意を直撃させかねないその性質。これがあるだけで、 黒贄の評価は最低の更に下であると評価せざるを得なくなる。では、黒贄の良い所を評価しろ、と言われればどうなるか? 性質の悪い事に、実はこれも直に思い浮かぶ。単刀直入に言って、このサーヴァントの良い所は『強い』の一点が上げられる。 凛は、黒贄の強さを疑っていた。ステータス自体は凄い物である事は、マスターである彼女が良く解っている。しかし、それが実戦に活かせるか如何かとなると話は別。 実際凛から見た黒贄はかなりのんびりと言うか間が抜けていて、到底戦うに適したサーヴァントとは思えなかったのだ。 が、レイン・ポゥとの戦いで評価は変わった。他を圧倒する程のステータスは飾りではなく、スキルの不死も、真実本当の不死であった。 大脳がまるまる欠損されても、首の骨を圧し折られても、最早機能しない程内臓をズタズタに斬り裂かれても、黒贄は死なない。 そればかりでなく、戦闘が長引けば長引く程、黒贄の腕力と速さは天井知らずに上昇して行くと言う、持久戦に持ち込まれても、いや、持ち込まれた方が有利と言う性能。 つまり、性格を除けば黒贄は、先ず間違いなく、最強に近しいサーヴァントであると言う事だ。その性格が、ネックなのだが。  改めて、黒贄の方に目線を向ける凛。 いつもの略礼服、いつもの眠たげな瞳と薄い微笑み、いつもの屈強そうな肉体。召喚した当時の黒贄の姿とまるで変わりない。 それが、異常なのである。黒贄はレイン・ポゥとの戦いで、頭の眉より上を切断され、大脳は全て失い、内臓は挽肉より酷い状態にされ、首はほぼ直角に圧し折れ――。 しかも、下半身まで切断された状態だった筈なのだ。それなのに、黒贄は時間が経過したら本当に、元通りの状態になっていた。 頼りがいよりも寧ろ、一方的な恐怖を凛は抱いている程である。御伽噺や神話、伝説、そして、人の住まう世界に確かに存在した実在の英雄や猛将達。 人の想念と言う形のない、しかしそれでいて確かなるエネルギーによって精霊の域にまで押し上げられた存在。それこそがサーヴァント、即ち英霊である。 そんな彼らの中には、どんな攻撃を受けても死なない不屈の存在と言う者も、少なくないだろう。だが黒贄の場合は、常軌を逸し過ぎている。 第一、霊核を砕かれても消滅しない等、どうかしている。サーヴァントにとって霊核とは、心臓以上に破壊されれば戦闘続行が不可能の箇所。その筈なのに、黒贄は平然としているばかりか、当たり前のように霊核を破壊された状態からその霊核ごと完全復活していると来ている。  黒贄は確かに最悪のサーヴァントであるが、唯一の救いは強いサーヴァントであると言う事だ。 凛を取り巻く現状は頗る悪いとしか言いようがないが、聖杯戦争の唯一絶対の勝利条件は、『最後まで生き残る事』である。 聖杯戦争を勝ち残るには、マスター自体の資質と呼び出されたサーヴァントの強さが物を言うのは言うまでもない。 凛のマスターとしての資質は言うまでもないし、黒贄の戦闘能力も高い。これをどれだけ活かし切れるか、この主従が生き残る術は、もうそれしかないに等しいのだった。 「……黒贄」 「何でしょう」  何が面白いのか解らぬ微笑みを浮かべながら、黒贄が返事をして来た。 「貴方、聖杯に掛ける願いって、あるの?」  遠坂凛は、聖杯が万能の願望器である事を、此処<新宿>に来る前から知っていた、恐らくは唯一の参加者であった。 しかし、聖杯の性質を知ってなお、彼女は聖杯に託する願いはなかった。亡き父が志半ばで、求める事が叶わなかった聖杯は、凛にとっては『勝利のシンボル』であった。 聖杯は欲しい。但し、願いを叶えるが為に欲するのではない、聖杯戦争を制した証として、欲しかったのだ。 だが、此処<新宿>での聖杯に限っては違う。元の世界に戻りたいと言う凛の願い、それを叶える手段は凛の頭では聖杯以外思い描けない。 だから彼女は、宗旨を曲げて、聖杯に願いを託そうとしているのだ。そんな事を考えている内に、凛は気付いたのだ。自分は、黒贄が聖杯に何を願っているのか知らないと。 聞くタイミングがなかったのだ。召喚当初は周知の通り黒贄が無軌道極まりない殺人を引き起こし、逃げるのに手一杯。それ以降も凛は心労からグロッキー。 著名な英雄や猛将であれば、ある程度の推察は出来るが、黒贄に関してはそれが全く想像不可能。だから此処で敢えて凛は、黒贄が何を願うのか聞いてみる事としたのだ。……願いの次第によっては、本当に令呪を使って殺さねばならないのだから。 「何でも願いを叶える杯、との事ですが、本当に叶うのでしょうか?」 「願い次第じゃないかしら」  事の正否は兎も角、サーヴァントを召喚するだけの魔術礼装は、それ自体が埒外の魔力を内包している。 英霊と呼ばれる、使い魔の中でも最上位の格を有する精霊達を複数体世界に呼び寄せられる礼装である。その魔力を活かせば理屈の上では、叶えられない願いなど、ないのではなかろうか。凛はそう考えている。 「ううむ、そうですなぁ。敢えて私が願う事があるとすれば……」 「あると、すれば?」 「この世界が続く事ですなぁ」  予想外の返事に、凛が驚いた。 凛の想像を超える程その願いが邪悪であったとか、聖人君子染みた素晴らしいものであったとか、そう言う訳じゃない。 人を殺さずにはいられない、狂人の中の狂人である黒贄が抱くには、余りにも陳腐で在り来たりな物だったから、驚きを隠せなかったのだ。 「え……それって、世界平和、って奴?」 「か、どうかは解りませんが、地球環境保護活動は何回かした事はありますよ。植樹もやった事がありましたねぇ、若木の苗が予想以上に凶器に適してましたから、テンションが上がって一緒に植樹をしてたボランティアの人を殺してしまった事もありますけど」  後半の話は、聞かない事にした。 「だって黒贄、貴方は殺人鬼なんじゃ……」 「凛さん、殺人鬼が殺人鬼でなくなる時とは、どんな時だと思いますか?」 「死んだ時……とか?」 「それもありますが、それ以外では?」 「……」  沈黙は、解らない事の意思表示であった。 「世界から人がいなくなった時ですよ。人を殺すから、殺人鬼。だったら、世界に人が一人もいなければ、殺す人間がいないのですから殺人鬼はただの鬼になっちゃいます」 「そんなの、つまらない言葉遊びよ」 「いえいえ、殺人鬼にとってはそれは重要な事柄ですよ。如何に正気ではない殺人鬼であろうとも、人一人いない世界に放り込まれれば、一秒と耐えられません。死を選ぶのではないでしょうか。だって自分のアイデンティティを満たせないのですから」 「それを満たす為に、黒贄。貴方は人の世界の存続を願ってるの?」 「殺人鬼を標榜していながら、世界の滅亡とか、人類の絶滅を願うのは紛い物です。私は人が好きだから殺すのです。そんな好きな人間が滅ぶような選択は……あまり許容は、出来ないですなぁ」  初めて、黒贄の本当の狂気に触れた気がした。凛の想像していた以上に、この男は人類の理解の及ばぬ存在だったらしい。 人が嫌いだから世界を滅ぼすとか、そんなのであれば、許容こそ出来ないがまだ納得が行く。理に適っているからだ。 だが黒贄の場合は、人が好きで、世界の存続も願っている。しかし、殺すのだ。だって彼にとって殺人とはとても楽しい事柄だから。 そんな大好きで楽しい殺人が出来なくなるから、彼は世界の滅亡は認めない。人類の平和と人の世の存続を思う事は、とてつもなく有り触れた手垢のついた願いでありながら、その世界を求める理由は、何処までも捻じくれて狂っている。黒贄はやはり、狂人(バーサーカー)のクラスに当て嵌められるに相応しい存在であったのだ。 「やっぱり貴方は狂っているわ、黒贄」 「ううむ、自覚はしてませんなぁ」  やはり、自分と黒贄では会話は噛み合わないと思い知らされた凛。 どちらにしても、黒贄は聖杯に望む願いはかなり薄いと言う事だけは解った。ならば後は、聖杯を勝ち取るだけ。  ――そんな事を考えていた、その時であった。モデルハウスと言う建物の中にいても聞こえる程の遠鳴りが、ガラスと壁越しに響いて来たのと、 地震でもあったかのように家全体がぐらぐらと揺れ始めたのは。 「な、何……?」  凛が不安そうに周りを見渡した。 揺れは錯覚でも何でもなかった。シャンデリア型のシーリングライトが、振り子のように左右に振れている。 「ううむ、地震ではないようですね」  黒贄が呑気そうに言うが、それに関しては同意だった。 凛の聞いた轟音は凄まじく重い物――そう、例えば巨大な建物が崩れ、その瓦礫が落下し衝突して行くようなそれに似ていた。 音源が何によって齎されたのかまでは解らない。解らないが、一つだけ確かな事は、何処かの主従が自分達の知らない所で、戦っている、と言う事だ。 「向いましょうか?」 「……」  と、黒贄が伺いを立てて来た。十秒程考え込む凛であったが、首を横に振るった。 強いサーヴァントを引き当てられたのならば、自分の足で相手の方へと出向くのは、決して間違った選択ではないのだが、このサーヴァントでそれは避けたい所だった。 要らぬ被害を増やしてしまうだけだからだ。待ちを狙って、勝つ。それが、凛の定める自身の勝ち筋であった。 「正しい判断ね」  ――突如としてリビングに響き渡る、艶やかな女性の声。 当然、凛のものでも黒贄の物でもあり得ない。バッと、声のする方向、廊下へと繋がる入口の方に目線を向ける凛。  其処には、世間から見れば美女の水準を容易く満たす遠坂凛から見ても、美しいとしか見えぬ女性がいた。 椿油でも塗っているのだろうか。艶も見事な黒髪をポンパドールに纏めた、妖艶な女だ。 格調高い黒のスーツを身に纏ったその風は、見る者に特権階級の出と言う印象を与える程決まっていた。 しかし、浮かべているその妖しげな笑みは、その見事なまでのプロポーションと妖艶で美しい顔つきのせいか、清純や清楚と言ったイメージは想起させない。淫猥さ、と言う物の方を、寧ろ凛は感じた程であった。 「誰!?」  バッと、左手の人差し指を女性の方に突き付ける凛。 彼女の左腕は、淡く緑色に光っていた。これこそが、遠坂家が五代にわたって受け継いで来た研究成果、いわば遠坂家の叡智と研鑽の結晶。魔術刻印であった。 傍目から見れば一人でに淡く光る入れ墨の様なそれを見て、スーツの女性は、不敵な笑みを浮かべるだけ。 「ガンドね。北欧神話の魔術に造詣が深いのかしら?」 「詳しいわね。なら、解るんじゃないかしら? 逃げ場はないわよ、貴女」 「度胸は一級だけど、実力が伴っていないのがダメね。貴女程度じゃ私を殺せないわ」  どうもこの女性は、凛が魔術師に類する少女である事を看破しているようである。 していてなお、まるで恐れを抱いてない。それが演技でもブラフでもなく、真実の装いである事を、凛は本能的に理解していた。 凛は目の前の存在が、サーヴァントである事を見抜いている。だから、恐れない。ステータスは確認出来ない。隠蔽に纏わるスキルを持っているのかもしれない。 視認は出来ないが、保有する魔力量が規格外のそれである事からも、目の前の存在が、人以外の存在である事を雄弁と物語っていた。 「私は、貴女と事を争いに来た訳じゃないのよ? さる御方が、畏れ多くも貴女と話をしてみたいと言うから、その仲介人として此処を訪れただけ」  スタスタと此方に向かって歩いてくる。よく見ていたら彼女は、室内であると言うのにハイヒールを履いていた。フローリングがヒール部分とぶつかって、細やかな傷を刻んでいる。 「ふぅむ、お知り合いですかな? 凛さん」 「違う!!」  相変わらず、黒贄はマイペース極まりなかった。 凛とスーツの女を交互に眺める黒贄。その瞳には何処か、不服気な表情があった。その感情は主に、スーツの女に向けられている。 「此処で事を争う自由も、当然貴女にはあるけど、リスク計算が出来ない程教養のない娘じゃないでしょう?」  言われて凛が、痛い所を突かれたような顔で女性を睨んだ。 正論である。少なくとも凛の魔術の腕前では、スーツの女性は如何あっても殺せない。必然的に、黒贄を運用しなければ殺せなくなる。 だが、黒贄を用いると言う事は、どう言う結果を齎すのか。それを考えれば、到底迂闊に黒贄に『殺せ』などと命令を下せないのであった。 「心配しなくても、争うつもりは本当にないわ」 「じゃあ何で、私達の所に態々姿を見せたのかしら? 私の今の立場が解らない訳じゃないでしょう?」 「用があるのは、私よりも、私の主に相当する御方よ」 「貴女の、マスター?」 「ミス・遠坂に甚く興味を抱いている、やんごとなき御方よ。――御入り下さい」  入って来た扉の方に身体を向け、恭しくそう言うと、開け放たれたドアの奥の暗がりから、一人の男がリビングへと現れた。 「お初にお目に掛かるね、お嬢さん」  入って来た男の姿を見た時、凛は、例えようもない程の不気味な感覚を、覚えたのであった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  灰色をしたシングルのスーツジャケットとスラックスを身に付けた青年だった。ビジネスマンと言うよりは旅行者や旅人と言うイメージを、見る者に与える。 その証拠に、頭に被るハンチング帽と、右手に持つ黒い革のボストン・バッグは、これから仕事に行く物と言うよりは、行楽に向かうかのようなアクティヴなイメージを想起させる。  この上、若々しい青春美に溢れた、西欧風の整った顔立ちである。 同性であっても、十人が十人ハンサムと答える程の美男子で、こんな男がオフィスで一緒に働いていたら、同僚は嫉妬の念すら起きないであろう。 それ程まで、美のレベルが隔絶していた。立ち居振る舞いや発散される雰囲気もインテリジェンスに富み、非の打ち所のない紳士にしか到底見えない。 遺伝子のレベルで完璧としか言いようがない程のこの男を見て凛は、言いようのない程の恐怖を覚えた。  凛にとって目の前の男は、この世に並ぶ者のいない、世界の全ての物事と事柄を知悉し尽くした至天の賢者に見えた。 そして、この世に並ぶ者のいない、世界の全ての悪徳を犯し全ての罪を一身に背負った、この宇宙が存続出来る全ての時間を費やしたとて許されぬ至悪にも見えた。 無限大にも等しいプラスと、無限大にも等しいマイナスがぶつかり合い、辛うじて人間に見えるか? と言った、人間以外の『何か』。それが、目の前の男について、凛が抱いた印象だった。この男は――何者だ。 「驚いているかな?」  そう言って男は、黒いワークブーツを履いたまま、何の恐れも抱かず黒贄の方へと近付いて行く。 男は黒贄が腰を下ろすソファの、対面のソファに腰を下ろし、同時もせずに黒贄と、凛の方に目線を送った。 「君も察しているかと思うが……。今此処にいる私は、ある協力者の力を借りて送られた、一個の核に魔力を形を伴わせて纏わせた弱い分霊に過ぎなくてね。本体は此処から離れた所にある。真の姿を此処に見せられぬ非礼を、先ずは詫びさせて貰おう」 「サーヴァントの原理と、同じ……」  今になって凛も気付いたが、目の前にいる男は、明らかにスーツの女性よりも弱い。 それなのに女性が男に送る態度は、畏敬と畏怖に溢れたそれで、最大限の敬意を払う事を徹底しているのが、事情を知らぬ凛にすら理解が出来る程だった。そんなか弱い存在なのに、脅威の程は、圧倒的に男の方が上であると、凛に思わせる程の何かを男は発している。 「御明察。流石は、シュバインオーグ老に師事した偉大なる太祖を持つ、遠坂家の六代目当主だね」  淀みなく言葉を紡ぐスーツの男に凛は瞠若してしまう。秘密にしていた事柄を全て、言い当てられてしまったような感覚であった。 「何で、私の事と、シュバインオーグの事を……?」 「彼の『時の翁』とは顔を会わせる機会があってね。まぁ、他愛もない事を話す仲さ」  窓から入ってくる夏の日差しよりも明るい笑みを浮かべて、スーツの男がそう言った。 陽の当たり具合の影響で、陰になっている顔の部分に、途方もなく悪辣で邪悪なものが蠢いているように、凛には見えた。 「少しは緊張もほぐれたかな? それとも、ハハ。より素性が解らなくなって、余計に気味を悪くしたかね?」 「……後者の方よ」 「正直なお嬢さんだ」  男は笑みを強めた。 「其処にいては、話もし難いだろう。もっと近くに来ないかな?」 「此処で話すわ」  キッチンの水洗い場の前で、凛が言った。 「警戒心の強い娘だ。良いだろう。では君は其処で構わない。バーサーカーくん、君は如何する?」 「黒贄、アンタは其処よ」 「はぁ」  近くに来られて、万一戦闘になったら凛まで巻き添えを喰いかねない。それ故の判断だった。 「君達の事を私は知っているのだ。此方の事も話さねばフェアじゃないだろう。私の名はルイ・サイファー。尤も今は、先程言った通り分霊に近い存在だがね」 「私の名は百合子(ゆりこ)。ルイ・サイファー様の従者のような者、と言う認識で差し支えないわ」 「貴方達は、サーヴァントなの?」 「違うね。僕はマスターで、其処の百合子は、私の使い魔に近しい」  凛が絶句したのは言うまでもない。 使い魔を使役する魔術師など、魔術師の常識に照らし合わせれば、珍しい事でも何でもない。 根元を目指し、途方もない時間を研究室たる工房で過ごす事の多い魔術師、しかし、必要上外界に赴かねばならぬ機会は少なくない。 そう言った時の為に用いられるのが使い魔だ。彼らはその魔術師が外で用を達成する代理人として創られた存在である。 当然それを達成させるには知性と、強い柔軟性(フレキシビリティ)と言う物が求められる。無論、工房内での雑務庶務までもが彼らの仕事の範疇だ。 つまり使い魔とは、その魔術師にとって紋章(エンブレム)であり、外界で活動する為のその魔術師のもう一つの仮面(ペルソナ)であるのだ。  当初凛は、ルイの事をキャスターのサーヴァントであり、百合子と名乗る女性は、そのルイが生み出した、サーヴァントに近い高度な使い魔だと認識していた。 しかし実態は、ルイは正真正銘のマスター、つまり人間であり、百合子はその人間に従う使い魔だと言う。 サーヴァントとはその名が仄めかす通り、実態は精霊に近しい最高位の使い魔と言うべき存在であるのだが、この百合子と言う存在は、 サーヴァントに肉薄する程の強さと自律性を持っている。そんな存在を使い魔として創造、使役する魔術師など、この現代では考えられないのである。 「先ずは、何処から話そうか。先程君達も聞いた、音の件から行こうかな」  そう言えば、黒贄にその音源の所に向かうかと聞かれ、否と答えた時、百合子はそれを正しい判断だと称賛した。彼女が何故そんな事を言ったのか、凛はまるで解らない。 「有体に言えばあれは、とあるバーサーカーがルーラーのサーヴァントに対して宣戦布告代わりに宝具を放った音だよ」 「……え? それじゃ、私がもしもその方向に行っていたら……?」 「無論、ルーラーと鉢合わせ。当然向こうは君の事を快く思ってないから、殺されてたよ」  途端に、冷たい氷の蛇が背筋をいやらしく這い回るような感覚を凛は憶える。 今となってはifの話だが、もしも、あの時その音源の方に野次馬根性を出していたら、自分は真実殺されていたかも知れないのだ。これほどまで恐ろしい話などあろうか。 「……と言うか、ちょっと待って。ルーラーって要するに主催者及び監督役なんでしょう? 何でその監督役に、参加者が喧嘩を売ってるの?」 「……さぁ?」  凛にとっても理解出来ないが、ルイもまた理解が出来ないらしい。バーサーカーのやる事だから、と、凛は思う事にするのであった。 「それで、ミスター・ルイ。先ず、と言うからには、当然まだ話す内容があるのでしょう?」 「無論。まぁ、それが本題でね」 「それは一体、何なの?」  凛の方ではなく、黒贄の方に目線を向けて、ルイは口を開く。 「君は既に予測出来ているだろうが、この聖杯戦争は君の様な魔術師以外の存在も参戦している。君の常識では少々、考え難い事だろうがね」  そんな予感は、先程の戦いでしていた。 香砂会の邸宅で戦った、虹を操る暗殺者のマスターは、全く魔術師に見えなかったし、現に魔力など一かけらとて感じなかった。 身体を機械に換装させた人間。つまりは、一般の人間である。そんな存在が、到底聖杯戦争に参戦出来る筈がない。 筈なのだが……、現にあのマスター、英純恋子は参戦していた。だからもしかして、他にもあんな存在がいるのでは、と凛は予測はしていたのだ。 「君にとっては、それは確かにあり得ない常識だろう。しかし、他の多くの参加マスター達はそうは思っていない。何故だか解るかね?」 「……その『常識がない』から。常識はつまり、前提があるから成り立ってる。私と違って他の多くの主従は、『此処に来る前から聖杯戦争について学べる機会がなかった』」  容易に想像出来る事柄である。 そもそも魔術の知識に明るい凛ですら、この聖杯戦争に巻き込まれたのは予測不能で不可避の事柄であった。 果たして誰が、契約者の鍵などと言う物に触れたら、異世界の<新宿>に飛ばされる事を予測出来たと言うのか。 凛ですらこれなのである。他の者達など、魔術等の才能のあるなしを問わず、訳も分からず此処に連れて来られた事は簡単に思い描ける。 その中には一般人同然の者もいた事だろう。当然、聖杯戦争の事など事前に学べなかったどころか、そんな単語など聞いた事すらない人物も、この<新宿>にはいるのだろう。 「その通り。この<新宿>に集った聖杯戦争の参加マスター。その多くの者は、君の知る聖杯戦争のセオリーから大きく外れている。何故ならば、知らないからだ。学べなかった事柄を、人は常識に設定出来ない」 「凛さんはそんなに珍しい方なのですかな?」 「少なくとも私が観測している限りでは、此処<新宿>で唯一、この街にやって来る前から聖杯戦争について知っていた参加者だよ。バーサーカー」 「そんな私に、貴方は何の用なの?」 「君は本来ならば、有利になって然るべき存在なのだよ。聖杯戦争の事も事前に知っている、魔力もある。なのに君の現状は、如何だ? 頼る味方もバーサーカー以外にいなければ、神も悪魔からも今の君は見放された状態。君の窮状は、目に余る」  そんな事、言われなくても解っている。と言うような瞳で凛がルイを睨みつける。 彼女に背を向けていても、そんな敵意は感じられたのだろう。ルイは続けて言葉を紡ぐ。 「力ある者が時と場の運で途端に不公平になる。とても心苦しいし、見ていて胸が痛む。弱い人間の味方としては、ね」  其処でルイは、凛の方に目線を向けた。凛の怒りの感情が、途端に吹っ飛ぶ。彼の目は、酷く澄んでいた。 「私の方から手を差し出す事は出来ないが、君には知る権利を与えよう。此処<新宿>の聖杯戦争のある程度をね」 「<新宿>の聖杯戦争に、ついて……?」 「聡明で優れたキャスタークラスならばある程度辿りつける可能性のある真実だが、現状私がこれから話そうとしている事柄を知っているマスターは、私以外にいない。それが、これから一人増える。君だよ、遠坂凛」 「そんな事を話して……貴方達には何か益でもあるの?」  その言葉を受けて、ルイは笑みを零し、百合子はクスりと笑って見せた。 「面白いじゃないか」 「……面白い?」 「厳密に言えば、今話す事柄。知っている主従は、参加者の中では現状私だけだ。参加者以外の存在では、知っている者は『ルーラー』と『運営者』。つまり真実、私を含めた三人だけしかこれから話す事は知らない」 「そんな事を私が知って、貴方達は面白いの?」 「ゲームが引っくり返りかねないからね、面白くないわけがない。……さて、此処から君達は二つの選択が取れる。私の話を与太だ作り話だと嘲弄し、此処から我々を追い返す事。そして、私の話に耳を傾ける事、だ。どちらを選ぶ?」 「……話して」  凛は六秒程考えてから言った。 無論、嘘である可能性は高い。だが、この男は自分の来歴ばかりか、大師シュバインオーグの事すらも知っていた。 話を聞いてみる価値はある。それに、話された事柄を全て頭から信じる程、凛は馬鹿ではない。何が虚で何が実なのか、それを見極めねばと堅く引き締まる。 「良いだろう」  相好を崩し、ルイは口を開いた。 「改めて述べるまでもないが、<新宿>での聖杯戦争は、本来君が冬木市で行う筈だった聖杯戦争とは全くその形を異にするものだ。何故だか解るかい?」 「私が思ったのは、『ルーラー』と言うクラスの存在。そして、今貴方が言った事で思った事。『同じクラスのサーヴァントが複数いる』と言う事」 「悪くない着眼点だ。冬木の聖杯戦争について学んでいた君なら、それがおかしい事が解るだろう」 「先ず、ルーラーと言うクラスのサーヴァントから聞かせて。聖杯戦争は七騎のサーヴァントが、七つのクラスのどれかから選ばれて、召喚者に応じて呼び出されて戦う物の筈。ルーラー何てクラス、聞いた事がない」 「だろうね。君の思う通り、ルーラーと言うクラスは本来的には存在しないクラスだ。だがごく稀に、例えば召喚者自体の資質や、触媒によって、通常の七クラスとは違うクラスの存在が呼び出される事がある。それを、エクストラクラスと呼ぶ」 「『特別』なクラスって事?」 「或いは、『余分』なクラスかも知れないがね。続けよう。ルーラーなるクラスはその名の通り、裁定者のクラスだ。但し、聖杯戦争においては他のエクストラクラス以上に呼び出される可能性が低い。その理由は、その聖杯戦争が非常に特殊な形式で、運営した場合及び完遂の結果が未知な時。そして理由のもう一つは、その聖杯戦争によって、世界に歪みが出る可能性がある場合。こんな時に、ルーラーは聖杯の求めに応じて出現する」 「その論で行くと、<新宿>での聖杯戦争も、貴方の言った条件に当て嵌まるからルーラーが求められたって事? まぁ、クラスの重複が起こる位異端なんだし、当然よね」 「この聖杯戦争の真の姿に比べれば、クラスの重複など瑣末な問題に過ぎないがね」 「私の知る聖杯戦争よりも、もっと大きい謎が隠されている、と?」 「そうだね」  其処まで言われて、続きが気にならない訳がない。 先程ルイが話したクラスにしても、嘘にしては信憑性があり過ぎるし、真に迫っている。もっと聞いてみる価値があると、凛は判断。「続けて」、と話を更に促していた。 「聖杯戦争の大前提とは、何だと思う?」 「聞くまでもないわ、聖杯よ」  何故皆が。それこそ、御三家とすら呼ばれた存在ですらが、聖杯を求め、争おうとしたのか。 それは、聖杯と言う規格外の礼装があるからに他ならない。神の子の血肉を受け止めた黄金或いはエメラルドの杯、或いは最後の晩餐で用いられた杯。 食物を無から無限に生み出させると言うダグザの大釜を原形(ルーツ)とするその聖杯には、どんな願いでも叶えると言う力が秘められている。 だからこそ、サーヴァントやマスターは、これを求めて争うのである。凛ですら例外ではない。 彼女の場合はかける願いこそはなかったが、遠坂家と、実父である遠坂時臣の悲願を成し遂げると言う意味で、聖杯を求めていたのだ。そう、聖杯戦争の参加者にとっての大前提にして、この催しの根幹を成す要素。それこそが、聖杯なのだ。 「その通り。聖杯とは文字通り聖杯戦争の根幹に当たるアイテムだ。これを求めて血を流し、殺し、争う。地上の人間の全ての罪を贖った男がワインを飲むのに使い、彼の血を受け止めた聖なる杯が、野卑なる闘争の連鎖によって顕現する。中々面白いジョークだがね」  フッと、魅力的な笑みを零しながらルイは言った。陽光を受けるその白い歯は、石英の様に光り輝いていた。 「――『この聖杯戦争では聖杯は顕現しない』」 「……えっ?」  ルイが、野に花が咲いているとでも言うようなあっけらかんとした風に口にした言葉の内容は、凛の思考を奪い去るには十分過ぎるものだった。 余りの言葉に、口は半開きになる、その瞳は痴呆の老人めいた節穴にでもなったかの如く、何らの感情も映せずにいた。 「今一度言おう。この聖杯戦争では、君の想起する聖杯は現れない」 「聞こえてるッ!! 待ちなさいよ!! それじゃあ私達は何の為に――」  スッと、凛の方に右腕を伸ばすルイ。話はまだ終わっていない、と言う合図だった。 千年の時を生きる貴族めいた優雅な動作を以て凛の口火を制止するルイの立ち居振る舞いは、人間では到底及びもつかない程典雅で、光の破片がその周りに舞い散りそうな程であった。 「聖杯は現れない。だが、『願いは叶う』。いや、願いを叶える力と言う一点に関して言えば、遍く並行世界で開催されたあらゆる聖杯戦争の中で、最も優れていると言った方が良い」 「聖杯は出ないけど、願いは叶う。その論理の帰結が今一良く解らないのだけれど?」 「説明しよう」  ルイは深くソファに腰を下ろすような座り方に体勢を変えて、説明を続けた。 「アカシックレコードと言う物を知っているかな?」 「……根源」  それは、およそ全ての魔術師が最終的な到達地点、究極目標としている、超と言う言葉が幾つあっても足りない程の、概念的かつ形而上学的な世界である。 曰く、ゼロ。曰く、真理。曰く、全ての原因。曰く、森羅万象の流出地点。曰く、全ての始まりにして全ての終点。 全ての原因であり全ての未来であるが故に、全ての答えを導き出せる、究極の知恵。それこそが、根源の渦なのである。 魔術師とは即ち、根源への到達を渇望する旅人であり、その為の手段として魔術を研鑽する者達の事を言う。 凛ですら、根源の存在を意識している程、魔術師にとって根源と言う場所は大きな意味を持っている。 この世界に足を踏み入れる為に、魔術師は代を重ねてまで研究を子に継がせ、より強い魔力を持つ子孫を作り、子孫もそれを繰り返す。 このような、血と叡智のリレーを続けてまで、到達する意味が根源にはあるのだ。まさかこの世界で、根源であるアカシックレコードの事を知らされるとは、思いもしなかった。 「そもそも、冬木の聖杯戦争自体が、聖杯ではなく、聖杯の魔力を用いて根源へと向かう為の、それ自体が一種の儀式である事を、君は知っているかい?」 「……初耳だわ」  それは、本当に初めて知った事柄だった。――と言うより 「出来るの? そんな事が」 「聞かされていないのかい? 御三家と呼ばれる魔術の大家の誰かが聖杯戦争に最後まで勝ち残ったら、令呪と言う強制命令権を用いてサーヴァントを自害させるつもりだったんだよ。それまでに脱落したサーヴァントは、サーヴァントの魂を溜めておく器に回収される。当然最後に令呪で自害させられたサーヴァントも其処に溜められる。この、サーヴァントの魂を溜めておく器こそが聖杯なのさ。そして、聖杯に溜められた七騎分のサーヴァントの魂を座へと解放させ、その時に世界に空いた孔から、根源に向かうのだよ」 「聞かされてなかったわ……じゃなくて。そんな方法で可能なの? 第一、抑止力がある筈よ?」  そう、根源に向かう事が何故難しいのか、と言う理由の半分にこれがある。 根源そのものに足を踏み入れると言う事自体が、そもそも凄まじく難しい。多くの魔術師は、この難易度の前に膝を屈するか、無情な時の力に敗れてしまう。 ところが、いざ根源に到達出来そうな研究行おうとしたり、到達出来そうな人物の前には、世界はある力を発揮させる。 それこそが、抑止力。所謂世界のセーフティである。決まった形を持たぬ無形のそれは、人類の破滅回避の総意である、つまり人類の意識の海たるアラヤ。 そして、地球そのものが有する、霊長の生命の存続の為に働く意識であるガイアである。 根源に人が到達し、触れると言う事は、この抑止力からの妨害に遭う可能性が高いのである。根源とは、人の力と人智の遥か外にある力。 理屈の上では星は愚か、宇宙ですら無へと回帰させる事の可能性だってゼロじゃない力へ人間が到達する事を、破滅回避の為の安全弁である抑止力が許容する筈がなく。 妨害にあって、研究が頓挫するレベルならばまだ命があるだけ良い方だろう。最悪の場合は、有無を言わさず世界から消されかねない。 魔術師の根源への到達とは、その難易度も然る事ながら、この抑止力が最終的に待ち受けているからこそ達成が不可能に近いのだ。だからこそ魔術師の親はその子供に対し、『オマエがこれから学ぶことは、全てが無駄なのだ』と説くのだ  聖杯戦争の真の目的が、根源への到達。 成程、確かに生粋の魔術師が行う催しであるのならば、理に適っている。後は、それが本当に出来るのか? そして、抑止力はクリア出来るのか、と言う事だが。 それを説明するべく、ルイは言葉を紡いだ。 「御三家の誰かが余程無能じゃない限りは、達成される蓋然性が極めて高い儀式だよ」 「なら安心じゃないかしら。四度にわたる積み重ねがあったんだものの、完成度は折り紙つきでしょ?」 「かもしれないね」  凛の言葉を受けて微笑むルイの表情は、何処か皮肉気なそれだった。  「話を<新宿>の聖杯戦争に戻そう。此処の聖杯戦争の目的は、その『アカシックレコードへの到達』こそが本当の目的なんだ。全員が全員これを目指す」 「……まさか」 「そう。<新宿>の聖杯戦争でどうやって願いを叶えるのか、もう解っただろう? 『アカシックレコードへと到達し、其処で記録を操作』するのさ」  余りにも雄大――いや、雄大を通り越して荒唐無稽にも程がある計画プランに凛は絶句する。 魔術の理論的には、間違っていないのかもしれない。だが、願いを叶える為に行わねばならない事柄が、余りにも無茶苦茶過ぎて、言葉を失ってしまったのだ。 「無理だ、と思う君の気持ち。良く解る。だが、成功する可能性だって高い」  其処で、一呼吸間を置いてから、ルイは続けた。 「アカシックレコードに到達する上で、難事となる課題は三つだ。一つ目は、そもそも其処への辿り着き方。二つ目に、抑止力。そして三つ目が、アカシックレコードの操作の仕方だ」  ルイの言った事を本気で行おうとするのであれば、その三つの課題のクリアは必要不可欠となるだろう。 実際凛には、この三つの難題をどうやって乗り越えるのか。全く想像すら出来ない。 「この三つの課題をクリアするのに、全てにサーヴァントが関わってくる。厳密に言えば、サーヴァントの魔力と言うべき物なのだがね」 「魔力を?」  此処で、聖杯戦争を成り立たせる為のもう一つの要素、サーヴァントが、此処で関係して来るとは。 「理屈としては冬木の聖杯戦争で用いられるメソッドと大して変わりはない。先ず前提として、此処<新宿>にはルーラーを含めなければ『二八体』のサーヴァントが存在する」  その数字の真否はさておいて、もしもそれが本当であると言うのならば、恐ろしいまでの大所帯で聖杯戦争を行うものである。 この狭い<新宿>に、二十八組の聖杯戦争の主従がいて、その全員が激しく戦えば、こんな狭い街、数秒と持たないのではなかろうか。 「先ず、この内の九騎のサーヴァントを用いて、アカシックレコードの存在する世界。即ち、アーカーシャ層への孔を空ける」  其処までは、確かにルイの口から告げられた冬木のそれと変わらない。 「この時点で根源へと到達する訳だが、次に待ち受けているのは抑止力だ。何せ根源そのものに人が到達したのだ。向こうも形振り構っていられない。代行者や守護者を派遣するなどと言うまどろっこしい真似はしないだろう、そのまま有無を言わさず排斥させかねない」  一拍間を置いて、ルイが続ける。 「そして、続く九騎のサーヴァントを用いて、今度は『抑止力からの排斥を防ぐ防御の機構』を作る。想定されている形状は、膜だね。これを生み出す」 「……信頼性は?」 「抑止力のやり方次第だが、少なくとも初撃は防げる。間違いなくね」  どうにも信用出来ない。しかし、凛の猜疑の念など知らぬ存ぜぬと言う風に、ルイは言葉を紡いで行く。 「そして、最後の九騎で、そもそものアカシックレコードの操作する為の『資格』を創造する」 「資格?」  前二つに比べて、サーヴァントの最後の使い道が、今一要領を得ない為、疑問気な声を凛は上げてしまった。 「アカシックレコードの操作は人間には不可能なんだよ。それこそ特殊な装置か、そもそも最初から根源に繋がっているかとか言う才能が必要になる。無手でアーカーシャ層、君達で言う根源に行っても、無駄骨に終わる。操作の為に必要になる資格と言うのが、我々が『アストロラーベ』と呼んでいる『座』だ。これを疑似的に創造し、アカシックレコード自体を騙すのさ。本物に限りなく近いアストロラーベがあって、一時的に人間はアカシックレコードの編纂が許される存在になる事が出来る。無論、権限を偽って操作する物だから、永続的な操作は不可能だ。短い時間の間に、アカシックレコードを編纂するんだね」  「纏めると、こう言う事になる」 「九騎のサーヴァントの魔力で世界に孔を空け、九騎のサーヴァントの魔力で抑止力の妨害を防ぎ切る膜を生み、九騎のサーヴァントの魔力でアカシックレコードを操作する為の座を偽造する。計二七騎。ピッタリ割り切れるだろう?」 「二八騎いる、と言ってなかったかしら? ミスター。その計算じゃ一騎余るわよ」 「その残りの一騎こそが、聖杯戦争の勝利者だよ。遠坂凛」  光り輝く笑みを、ルイは凛へと投げ掛けた。 「なれると良いですねぇ、その生き残りに」  と、惚けた調子で黒贄が凛に向かって言ってきた。 黒贄の言葉が頭の中に入って来ない程、凛は緊張していた。ゴク、と生唾を飲む音を、ルイ、百合子、黒贄は聞いたかどうか。 自分が生き残る為には、この狭い<新宿>で、二八騎ものサーヴァント達の襲撃を凌ぎ切り、殺し尽さねばならないのだ。 しかも、今の自分の現状よ。最早遠坂凛に味方する主従、同盟を組んでくれる者など、一人もいない。NPCですら、最早敵なのである。余りの難易度に、気が遠くなり、そのまま卒倒しそうになる凛であった。 「……ミスター。貴方は聖杯と言うものは、サーヴァントの魔力ないし魂を溜めておく為の容器、と言ったわね」 「ああ」 「此処<新宿>にも、それがあるのね?」 「勿論あるよ。但し、場所と正体に関しては答えられないな。知らないんだ」  内面を悟らせぬ声音で、ルイは返事した。歳の若い凛には、それが本心なのか見抜けなかった。 「孔を空け、抑止力を凌ぎ切り、座と資格を偽造する。理屈は理解したわ。そして、極めて大仰な儀式である事も。それを理解して、もう一つ聞きたいの」 「伺おう」 「私は魔術師よ。抑止力がどう言ったものかも、人よりは理解してるつもり。サーヴァントの魔力を以て創られた膜、偽りの座。長い時間それが持ち堪えられると思わないし、事実ミスターも永続的には持ち堪えられないと言ったわ。……どれ程の時間、耐えられるの?」  根源に至り、剰えその力を利用して私的な願いを叶えようとする者だって、いるだろう。 その願いの中には、人類或いは霊長の存続を主目的としたガイア・アラヤ双方の抑止力からみて許容出来ない願いだってあるだろう。 そうでなくても、アカシックレコードの到達自体が、抑止力の排斥事例である。其処に到達するとなると、当然魔術師が経験した事もないレベルの排斥を受けるかも知れない。 抑止力の全力の排除排斥を、膨大な魔力とは言え、サーヴァントの魔力で防ぎ切れるとは思えない。防いだとしても、リミット付きであろう事は容易に想像出来る。その時間が、凛は知りたかった。 「四分だね。だが、四分全てをアカシックレコードの操作に使いきると、今度はその操作者がアーカーシャ層から逃げ切れる時間がなくなる。つまりは聖杯戦争自体が、勝利者のいなかった徒労の争いに終わる。だから、アカシックレコードの操作時間は、実質的には二~三分。残りの一~二分は、アーカーシャ層から逃げ切る時間に使う必要性がある」 「……つまり、この聖杯戦争は――」 「『たった三分間だけ全知全能になれる時間を掛けて争う戦争』。言いたい事は、そうじゃないのかい? 間違っていないよ。それが<新宿>の聖杯戦争の、真の姿だ」  自分の想像を超えた、<新宿>の聖杯戦争の真の姿。今の感情をどう表現すれば良いのか。 凛はそれすらも解らない。想像をはるかに超えたスケールの大きい計画は、最早荒唐無稽だと馬鹿にする事すら出来ない。 良く出来た作り話だと、ルイの事を笑い飛ばしたかったが、とても、嘘には聞こえない。全てを静かに理解した上で、凛はそっと口を開き、言葉を発した。 「何が聖杯戦争よ……。詐欺じゃない、聖杯は何処よ?」 「本当の聖杯が降誕しないと言う意味では、冬木の聖杯戦争だって詐欺も同然だろう。名称にさしたる意味はない」  かぶりを振るうルイ。 「宝石魔術を得意とする君には、釈迦に説法と言う物かも知れないが、ルビーとサファイアと言う宝石は、元を正せば同じ石だ。コランダムと言う石が、赤いか青いかの違いでしかない。聖杯もそれと同じさ。結局皆誰一人として、神の子の血を受け止めた聖杯を求めていない事が解る。願いだけに用があると言うのならば、ただ聖杯に祈れば良い。聖杯戦争を勝ち残ったと言う証が欲しいのならば、その証を願えば良い。聖杯戦争に挑む大本の理由である、願いを叶えると言う機能だけは本物なのだ。聖杯の有無など、何ら問題ではないだろう」  其処まで語り終えるとルイは、フローリングに置いていたボストンバッグを右手で握ってから、すっくと立ち上がり百合子の方に目配せした。それを受けて、彼女は軽く首肯する。 「おや、帰られるのですか?」  本当にいつもの声の調子で黒贄が訊ねた。 今まで凛とルイが語っていた話、その九割九分九厘理解出来ていないと言う事が、声からも態度からも解る辺りが、もういっそ清々しい程である。 「我々にも時間と言う物があってね。私はこれから元の鞘に戻らねばならない。そちらの百合子は、ある男の所に事務報告をしに行かねばならない。結構忙しいんだ、我々も」 「今言った話、何処まで真実なのかしら、ミスター」 「仮に私が今の話に嘘を交えていたとして、それを正直に話す程鈍い男だと思うかい?」 「ならば、質問を変えるわ。恐らくこれから味方も作れない、まともに話にも取り合って貰えない私達に、何でそんな核心に迫る話を教えたのかしら?」  途端に、ルイは黙った。 但しその表情は、痛い所を突かれて黙然としているのではなく、不敵な笑みを浮かべるだけと言うものだったが。笑みのベクトルが、黒贄とまるで違う。ルイの方は、途方もない暗黒を腹に隠し持っている事が窺える、そんな笑みだった。 「嘘かどうかは、生き残れればわかるわ。嘘を教えて、私達が不様に右往左往する様を肴にして、愉悦に浸るって言うのならば、絶対に許せないわ」 「勇ましい言葉だ。先程のバーサーカーくんの言葉を借りるなら、生き残れるといいね。遠坂凛」 「黒贄。嘘だったら、其処の二名を全力で殺しなさい」 「……うーむ、興が乗りませんなぁ」 「は? 何でよ」  威圧感すら感じられる程の凛の言葉を受けて、黒贄は、ルイと百合子の双方に、交互に目線を送る。 そして、やはり、と言った様子で首を縦に振り、その後口を開いた。 「殺人鬼は、人を殺すから良いのですよ。……人以外の、況して『悪魔』は少し……いや、だけどなぁ」 「……は? 悪魔?」  言われて凛はキョトンとした表情を浮かべるが、対照的に、百合子とルイの方は、驚きの表情を浮かべていた。 百合子よりも、ルイの方が圧倒的に、元の微笑みの表情に戻る方が早く、直に言葉を紡いだ。 「成程……。存外、頭の鈍いサーヴァントではないと言う事か」  改めて、凛の方に身体を向けるルイ。 「君の引き当てたサーヴァントでも、十分勝ち残る事は可能だよ。悲観する事はない」  「百合子」、とルイが口にする。無言で、彼女が頷いた。 「縁があれば、また会えるだろう。次に出会った時は、私が集めた情報を、再び君達に教えてあげよう。その時が来る事を、祈っているよ」  其処でルイは言葉を切る。 凛と黒贄が、全く同じタイミングでまばたきをしたその瞬間だった。彼らの姿は消えていた。 「瞬間移動……!?」と凛が驚くのも無理はない。長距離の空間移動は、それこそ現代においては魔法級の御業だからだ。 現代科学においても、未だ成功例を聞いた事がない高級技術。それをあの二名は難なくやってのけた。名残も気配も一切残さず、彼らは消滅している。 全ては白昼夢の中で起った、奇妙な出来事だったのではないかと。思うしかないそんな一幕だった。 「黒贄、今の男達の事、記憶してる?」 「おやおや、健忘症ですか? 少々値段が張りますが、魚はDHAが豊富で頭に良いと聞きましたよ」  ルイより先にこの男の方を殺したくなるが、凛はグッと堪える。怒るのは疲れるしカロリーも消費する。 ロクに飯も食べられてない現状でカッカするのは余り宜しくない。 「心配せずとも、私は殺人鬼ですからね。それはもうやたらめったら、必要以上に殺しちゃいますよ。凛さんの敵も、ちゃんと殺しちゃうんで怒らないで下さいね」  少なくとも、この最低最悪のバーサーカーは、自分の事をある程度は守ってくれるらしい。 正直今の発言を聞いても、凛としてはまるで安心が出来ないのであるが、少しだけ、本当にほんの少しだけだが、安堵した。 最後まで生き残る、と言う目標が出来た。この先何が起こるのか、凛としては想像も出来ない。だが、何としてでも生き残る。それだけは胸に誓った。心に刻んだ。 「出るわよ、黒贄。此処がルーラーに近い拠点だっていうのなら、余り長居はしてられないわ。……何処か隠れられそうな所を探すわよ」 「はいはい」  言って黒贄は霊体化を行った。それを確認してから、凛は、入口の方へと歩んで行く。 あの得体の知れない男達は、何処かで自分のこれからを嗤っているのだろうか。そう思うと、余計に死んでられないと思う。 靴を履きドアを開け放つ。<新宿>の夏の火は、殺人鬼探偵のマスターにも、等しくそのギラついた光を投げ掛けて来るのであった。 ---- 【早稲田、神楽坂方面(矢来町のあるモデルハウス)/1日目 午前11:50】 【遠坂凛@Fate/stay night】 [状態]精神的疲労(極大)、肉体的ダメージ(小)、魔力消費(中)、疲労(小)、額に傷、絶望(中) [令呪]残り二画 [契約者の鍵]有 [装備]いつもの服装(血濡れ) [道具]魔力の籠った宝石複数(現在3つ) [所持金]遠坂邸に置いてきたのでほとんどない [思考・状況] 基本行動方針:生き延びる 1.バーサーカー(黒贄)になんとか動いてもらう 2.バーサーカー(黒贄)しか頼ることができない 3.聖杯戦争には勝ちたいけど… 4.今は此処から逃走 [備考] ・遠坂凛とセリュー・ユビキタスの討伐クエストを認識しました ・豪邸には床が埋め尽くされるほどの数の死体があります ・魔力の籠った宝石の多くは豪邸のどこかにしまってあります。 ・精神が崩壊しかけています(現在聖杯戦争に生き残ると言う気力のみで食いつないでる状態) ・英純恋子&アサシン(レイン・ポゥ)の主従を認識しました。 ・バーサーカー(クリストファー・ヴァルゼライド)が<新宿>衛生病院で宝具を放った時の轟音を聞きました ・今回の聖杯戦争が聖杯ではなく、アカシックレコードに纏わる操作権を求めて争うそれであると理解しました 【バーサーカー(黒贄礼太郎)@殺人鬼探偵】 [状態]健康 [装備]『狂気な凶器の箱』 [道具]『狂気な凶器の箱』で出た凶器 [所持金]貧困律でマスターに影響を与える可能性あり [思考・状況] 基本行動方針:殺人する 1.殺人する 2.聖杯を調査する 3.凛さんを護衛する 4.護衛は苦手なんですが… [備考] ・不定期に周辺のNPCを殺害してその死体を持って帰ってきてました ・アサシン(レイン・ポゥ)をそそる相手と認識しました ・百合子(リリス)とルイ・サイファーが人間以外の種族である事を理解しました ・現在の死亡回数は『1』です **時系列順 Back:[[Abaddon]] Next:[[一人女子会]] **投下順 Back:[[さくらのうた]] Next:[[推奨される悪意]] |CENTER:←Back|CENTER:Character name|CENTER:Next→| |39:[[有魔外道]]|CENTER:遠坂凛|48:[[Cinderella Cage]]| |~|CENTER:バーサーカー(黒贄礼太郎)|~| ||CENTER:百合子(リリス)|| ----

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