事の発端は、十一時を回ってから大分経った頃に遡る。
パシリ――ダーマス――が悪魔に変身する技能を得た事を知った十兵衛は、この男をどう利用するかと言う事を模索していた。
使えるものは犬でも猫でも親父から残された土地と言う遺産だけで生活する武術だけが取り柄のもうすぐ四十近い童貞のニートでも使う、それが佐藤十兵衛である。
当然、デビルマンになった増田を十兵衛が利用しない手はないのだが、問題になるのはその利用の仕方である。
現状、増田が悪魔になったと言う事実を知っているのは、どんなに少なく見積もっても三人。十兵衛と彼のサーヴァントである天子、そしてそもそも増田を悪魔にさせた術者。
あの見るからに利発そうなライドウを出しぬける可能性を傘下に収める事が出来た、と言う事実が重要である。
真っ当な主従ならライドウに、知り合いが悪魔化した情報を知らせるべきなのだろうが、十兵衛はそれをしない。
同盟相手の知っている情報は『同盟相手なんだから共有しろ』と口にするくせに、『自分だけが知っている情報は独占する』。有り触れたやり方だが、彼はそれを実行した。

 とは言え、増田にも一応5%程の人情を抱いている十兵衛は、なるべくならこの男を死なせたくないとは思っていた。残り95%は利用してやるかの精神だ。
これだけ重要なサンプルを、たった一戦戦わせただけで失いました、では幾らなんでも運用が下手過ぎる。これでは増田に余りにも失礼だ。
それに可能な限り、戦闘は避けたいと言うのが十兵衛の本音だった。天子は強いサーヴァントではあるが、彼女がその強さを発揮しようとする限り、
魔力の消費と言う問題がどうしてもついて来る。天子に曰く、十兵衛は魔力に乏しいマスターであると言う事。
それはそうだろうと彼も思う、魔力を鍛える訓練など今までして来なかったのだから。この乏しい魔力を最大限有効に活用したい。早い段階からの戦闘は避けたい事柄だった。
そして同時に、増田、つまり、悪魔となれる人間の耐久力や再生力、そしてその性質を十兵衛は知りたい。
ライドウ達の話を聞いて確信した事だが、NPCを悪魔化させるその女キャスターとは、十兵衛も天子も相容れられそうになかった。ほぼ確実に、出会えば敵対するであろう。
余りにも女キャスターとそのマスターは、社会性に反している。社会の屑であるヤクザ達ですら、自身の生活の為にある程度は既存の社会と折り合いをつけると言うのに、
その折衷を付けると言う社交性をまるでその主従からは感じられない。つまりどう足掻いても、話が通じない。ならば、敵対の道しか見えないのは当たり前の事だった。

 十兵衛が考えた、資源――増田――の有効活用は即ち、メフィスト病院への入院であった。
増田には「取り敢えず身体が心配だ!! 先ずは病院に連れて行ってあげよう!!」、と常より1オクターブ高い声で増田に感動を与えてやったが、無論治療など嘘八百。
真意は、メフィスト病院の内情及び、其処にいるサーヴァントの情報をあぶり出す為だ。

 メフィスト病院、当然その名前は十兵衛も知っている。佐藤クルセイダーズを<新宿>中に散らばらせるまでもなく、
適当にネットサーフィンをしていたら引っかかった程である。当然、十兵衛も天子も、其処がサーヴァントの居城である事は百も承知である。
知っていて何故、今まで足を踏み入れるどころか、アウェーを続けていたのかと言うと、余りにも怪し過ぎるからだ。
口コミ、ネット上の情報、その他諸々。あらゆる情報収集手段を駆使して解った事は、『現代より遥かに進んだ技術でどんな病気も怪我も治してしまう場所』だと言う事。
十人二十人がそんな事を口にする程度なら、十兵衛も良く使う『サクラ』だと割り切れるが、そんな評判があまりにも多い。今まで見て来た情報の99%程がそれだった程だ。
余りにも情報が、メフィスト病院を礼賛するそれしかない。それ以外に目ぼしい情報が全くない。余りにも完成され過ぎた情報統制だ。
情報の少なさと、<新宿>の町中にあれだけ目立つ居城を建立する大胆不敵な作戦。余りにも不気味過ぎるので、今まで知ってて無視して来たが、増田を使えば、その秘められた領域を垣間見る事が出来るのでは、と十兵衛も思ったのだ。

 先ず行う事は、増田に治療を受けさせる事だ。
増田に施された悪魔化の処置は疑いようもなく魔術或いはサーヴァントの手によるものである為、当然メフィスト病院側もそれなりの処置を使う筈だ。
これを以て、メフィスト病院が有する技術の概略を見極める。あわよくば、「俺はダーマスの付添人だ」と上手く言いくるめてその治療の現場も目の当たりにしたい。
治療が駄目ならば駄目で、それで良い。メフィスト病院の技術をある程度見極められたら、元々の使用法――サーヴァント達との戦いの駒として利用してやるだけだ。
治ろうが治るまいが、十兵衛が得する可能性が高い作戦だ。唯一の不確定要素は、メフィスト病院のサーヴァントが此方の意図に気付き、襲い掛かって来るかどうかだが。
そうなればそうなったで良い、増田を盾にして逃走するつもりだし、これを口実に、正午に決める指名手配主従二組のどちらかを叩く、と言う方針をサボる事が出来る。
しかもただサボるのではなく、メフィスト病院の内情とその主の強さを教えてやれば、サボったと言うマイナスイメージをチャラにしつつ、令呪も貰いに行けるかも知れないのだ。メリットの方が大きいのである。

 そうして、現在に至る。
場所は信濃町のメフィスト病院。正統な歴史では、本来この病院にはK義塾大学の大学病院が建てられていた筈だが、それを乗っ取る形でこれが現れた。
十兵衛と天子、増田は、その白亜の威容を駐車場入り口の辺りから見上げていた。夏の熱い日差しを受けて照り輝くその白い大伽藍は、巨大な石英の山脈の様に見えた。
その姿を見て増田が、「おぉ、此処ならばもしかして……!!」と期待に満ちた声を上げているが、十兵衛の内心はやはり穏やかじゃない。
何せ今から、サーヴァントの居城に足を踏み入れねばならぬのだ。緊張もすると言うものだった。

【私を信じなさいな、十兵衛】

 と、念話を通じて、霊体化した天子が話しかけてくる。
どんなに用意周到に場と状況を整えても、戦いと言うものに絶対はあり得ない。どうしても運が絡むからだ。
しくじったら、全力を尽くして何とかするしかない。天子のなげやりで、しかしどこか気を遣うような声音で、何時もの調子を取り戻す。
夏の暑さで噴き出る汗に混じって流れ掛けた冷や汗を弾き飛ばし、十兵衛は、身体を蝕もうとしていた怯懦の念を、富田流の奥義であるところの『無極』で消し飛ばした。ゼロカンマ一秒の速度で、体中に殺意を漲らせた十兵衛。

「行くぞ」

 と、増田にそう口にする十兵衛の声音は、怖かった。
何時もと違うトーンの十兵衛の声に、一瞬たじろぐ増田だったが、慌てて、前を行く十兵衛の所について行く。

 メフィスト病院のロビーは、此処が本当にサーヴァントの拠点かと疑ってしまう程に、現代的過ぎていた。
サントリー、コカ・コーラ、DYDO等の自販機が置いてあるだけでなく、購買に売っている物も、世界的に有名な日本のメーカーのお菓子やカップヌードル。
夏の季節である為か、病院でも冷菓の類が売れているらしい。アイス用冷蔵庫の商品の減りが目に見えて理解出来る。ご丁寧に、ウォーターサーバーまで設置してある。

【……どう思う、セイバー】

【異様よ。本当にサーヴァントの拠点なの、此処……? 変な魔方陣とか人の頭とか飾ってた方がよっぽどらしくて、怖くなかったのに】

 どうやら素人目の十兵衛から見ても、サーヴァントである天子から見ても、この空間は異常であるらしい。
余りにも、普通の病院と変わりない光景だ。唯一違う所があるとすれば、日本の病院のロビーによく見られるような、
病気や怪我でもないのに病院を井戸端会議の場所にしている老人の様な、冷やかしの類が存在しないと言う事だ。
此処にいる全員が、何らかの理由でこの病院の力を借りたい患者か、その関係者と言う事になる。その数が、かなり多い。何十席もある待合席が全て、埋まっている程だった。

「すいません、初診なんですが」

 受付の方に向かって行き、十兵衛は受付担当の医療事務にそう告げた。

「かしこまりました。それでは、二階の応接間でお待ちください。じきに『院長先生が診察して下さりますから』」

 事務員のこの言葉を聞いた瞬間、十兵衛も、天子も。表情を凍り付かせた。二の句を、受付の女性に十兵衛は告げられなかった。

【……バレてるみたいだな】

【どうする? 逃げる?】

【……いざとなったらマジで守ってくれよ、セイバー】

【くどいとただでさえモテないのにもっとモテなくなるわよ十兵衛。胸張りなさい】

【解った】

 其処で、すぅ、と呼吸を一度行い、乱れかけた体のリズムを整える。そして、元の状態に復調した後で、十兵衛は、口を開いてこう言った。

「応接間までのルートを教えて下さいますか」



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 応接間、と言うよりは最早西欧の王宮の客間か待合室を思わせるような部屋だった。
見るも絢爛なバロック様式で統一された内装だった。顔も映らんばかりに磨き上げられた大理石の床。
染みも無ければ汚れもないワイン色の壁紙と、其処に掛けられた、キリスト教を題材にした宗教画。絵の中では天使(ミカエル)が、悪しき竜を征伐していた。
天井から垂れ下がる巨大なシャンデリアはそれ自体が水晶の小山の如く大きく、豪華以外の言葉を失う程の凄味を放っているが、そのシャンデリアそのものを支える、
天井自体も凄まじい。天井はもれなく全て巨大な一枚の黄金をドーム状に誂えたもので、その黄金を彫金し巨大な一つの天井画形成していた。
モチーフは、ルネサンス期が生んだ希代の天才ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂に描いて見せた様な、最後の晩餐に似ており、総勢数百人もの男が描かれていた。

 十兵衛や増田からすれば、世界史の資料集の中でしか見た事のない内装である。
観光を行う分には、こう言った豪華絢爛な場所は感嘆すると言う行為で済まされるのだが、大事な用があると言う理由で此処に通されると、全く落ち着かない。
余りにも居心地が悪すぎる。チェスターフィールドの上に腰を下ろし、不遜な態度で、この病院の院長の到着を待つ十兵衛。
誰も何も喋らない為、余りにも空気が重い。呼吸が苦しい。しかし、十兵衛自体も何かを話す気になれない。これから起るであろう何かを、夢想すればさもありなんだ。
因みに天子は、霊体化した状態で部屋の中を歩き回っていた。内装や調度品に興味津々らしい。今は、季節上使われていない暖炉と、その両サイドに設置された黄金の燭台に目を奪われている。燭台の表面には、鮮やかなエメラルドがはめ込まれていた。

「十兵衛くん、此処本当に病院なんだよな……?」

 不安そうに増田が訊ねるが、そう聞きたくなる気持ちも無理はない。明らかに本や旅番組のVTRに出て来るような、ここは世界遺産レベルの西欧の宮殿そのものだ。
少なくとも、一病院のフロアでは断じてない。治療をしに来たのに、こんな場所に案内されては、増田でなくても不安になる。

「院長の趣味だろ」

 そう信じたい十兵衛だった。増田の言葉にそう返した、瞬間だった。
閉じられた鋼色の自動ドアを透過するように、途方もない密度と質の鬼風が、今いる応接間に叩き付けられたのを十兵衛は感じた。
いや、十兵衛だけではない。増田も、扉の向こうに、人外じみた存在が待機している事を理解したのだろう、忙しなく動かしていた指の動きが止まっていた。
NPCですらそれだ。サーヴァントである天子など、敏感に扉の向こうにいる存在の事を感じ取っていた。魔力を流すパスを通じ、天子が嘗てない程緊張しているのが、十兵衛には解った。

【誰がいる】

【化物】

 天子の答えは率直だった。
アバウトすぎる、と常ならば突っ込む所であるが、その気も起きない。実際、その通りとしか言いようがない程、扉の向こう側の何かは、桁違いの存在であったからだ。

 閉じられた鉄扉が開いて行く。
ゴシック様式で統一された部屋の壮麗さが、増した。いや、逆だ、壮麗さが逆に、色あせた。
部屋の壮麗さが、部屋全体から、開かれた自動ドアの一点へと集約される。しかし、それでもなお足りない。
部屋の中へと足を踏み入れた、踝まで届く程の長さの白いケープの男に比べれば。この部屋の壮麗さなど、元よりなかったも同然だった。

 増田がその場から動けずに、固まった。空気で誂えた目に見えない拘束服で、自由を奪われているかのようだった。
十兵衛にしても同じであった。そして、天子ですら。本物の殺し合いを経た十兵衛や、天人と言う貴く高貴な身分である天子。
彼ら程の人物が、成すすべなく意識を奪われ、忘我の境地へと誘われてしまった。果たしてその姿を、誰が責められようか。
どんな白光も瞬く間に呑み込んでしまうかのような黒く長い髪を、風の精霊(シルフ)の任せるがままにしたこの男の姿を見て。
世界の屋根たるヒマラヤの万年雪ですら、黒ずんで汚れた汚泥としか見えぬ程の白いケープを羽織った、『美』その物とも言えるこの男――メフィストの姿を見て。
気を奪われない人間など、あり得ないのだ。誰もが皆、彼の姿を見て、余りに美しさに言葉を失うのだ。それが、当然の理であり、世界によって課せられた責務であるかのように。

「待たせてしまったかな」

 人の形をした白い恒星が、喋っているかのようだった。
発せられる言葉は、口から『出る』と言うよりは『奏でられる』と言う方が相応しい。美男子の姿で現れる神が爪弾くハープの如き声音で、メフィストは三名に語りかけて来た。

「……いや」

 十兵衛が返事をする。そのたった二文字の、発すれば一秒と掛からぬ短いその言葉を発するのに、何時間も掛かったのではと思う程の錯覚を、十兵衛は憶えた。

「患者は其方で、宜しいのですかな」

 と言って、メフィストはその目線を増田に向けた。
白い魔人の眼線は、今にもルビーやサファイアめいた輝ける色味を放ちそうだった。目線ですらも、美しい。
それに貫かれた増田は、呼吸すら止まっている。何も、言葉を発する事が出来ない状態に今彼はあった。

「そうです」

 であるので、十兵衛が代わりに答えた。声は、笑ってしまう程上ずっていた。

「症状の方を、お伺いしたい」

 そう言ってメフィストは、十兵衛らが座るチェスターフィールドの向かい側に腰を下ろす。
立てば芍薬座れば牡丹、とは言うが、この男の艶やかさを形容するのには、最早花では不足が過ぎると言うものだった。

「あー……こいつは見ての通り、緊張してるようだから、俺から説明しても良いかな」

 提案する十兵衛。増田は、表情も無ければポーズにも躍動感がない、出来損ないの彫像のように、座ったまま動けずにいた。

「良かろう」

 メフィストは許可を取る。医者とは思えぬ程居丈高な態度だったが、逆にこの男が下手に出ると言う姿が、十兵衛にはまるで想像が出来なかった。
十兵衛は増田に代わり、彼の病状をメフィストに伝えた。悪魔と呼ばれる謎の怪生物に突然変異(ミューテーション)を起こしてしまう事。
それに付随して途轍もない飢えに彼が苦しんでいる事。その様子を、格調高いオペラを静観するように、メフィストは目を瞑って聞いていた。
十兵衛の話が粗方終えると、静かに瞳を開け、メフィストは増田の方に目線を送る。

「私の方で、簡単な触診だけは済ませておこう。治療は、ICUで行うとしよう」

「ICU!? オイオイ、重病患者って言ってるようなもんじゃ……」

「無論、私の想定より軽い病気であるのなら、ICUには搬送しない。増田さん、それでは、上着の方を」

 いつまでも固まった状態では流石に埒が明かないと判断したか、十兵衛は増田の後頭部を叩いた。
其処で漸く彼は自我を取り戻したらしい。感情らしい感情が渦巻いていなかった瞳に、何時もの間抜けな光が宿り出した。
「増田、上着上げろ。触診だ」、と告げる十兵衛。慌てて増田が、来ていたシャツを胸元まで上げる。
メフィストは聴診器の類は使わない。光で出来ているような白さの左手を、増田の胸部に当てるだけ。ビクッ、と増田が反応する。
病巣は愚か、過去や魂すら見透かされてしまうのではないか、と言う程の説得力が、メフィストの触診にはあった。
後数秒触れていれば、前世や未来すらも知れるのではないか、と言うそのタイミングで彼は左手を離した。
するとメフィストは、右薬指に嵌められた指輪から、ホログラムの様な物を投影させる。ホログラムは一瞬の内に、薹の立った中年女性の顔を形作り、それに対してメフィストは声を投げ掛けた。

「彼を情報診察室に」

 そう告げると、ホログラムをメフィストは打ち切った。
四十秒と経過しない内に、応接間に一人の医者と一人の看護婦が入って来た。
メフィストが指示するまでもなく、二名は増田の方に近付き、「診察室の方までご足労出来ますか?」、と訊ねた。断れる増田ではない。
きょとん、とした顔で彼はチェスターフィールドのソファから立ち上がり、二人の医療スタッフに連れられる形で、応接間を後にするのだった。

 ――そして、応接間にはメフィストと十兵衛、そして、霊体化した天子が残された。
十兵衛は、部屋の空気が一気に零下を割った様な錯覚を覚えた。天子にしても、それは同じだろう。
増田、と言う患者のNPCがいた為に、メフィストはつとめてその鬼気を抑えていた。今は違う。この場にいるのは真実、聖杯戦争の関係者だけ。取り繕う意味など、全くないと言っても良かった。

「霊体化を解きたまえ」

 常ならば十兵衛は、此処で惚ける演技の一つや二つ、見せていた事だろう。
しかし、そんな気にはなれなかった。いや、出来なかったと言うべきか。メフィストの言葉の重みが、余りにも強くて、すっ呆けてやり過ごす事が不可能と判断したからだ。

 メフィストの言葉を受けて、十兵衛は念話で天子に実体化を命令。
素直に、セイバーのサーヴァント・比那名居天子が姿を現した。火のついていない暖炉の傍であった。
流石に天子は、早々に我を取戻し、元の不遜な態度を戻ったらしい。いつも通りの顔つきで、メフィストの事を眺めていた。

「何時から俺達の存在を知ってた」

「その質問は、愚問と言う他ない」

 メフィストは、十兵衛の問いを下らぬとばかりに切り捨てた。発する言葉には、ピシャリ、と言う効果音が付きそうな程、その声音は辛辣な物だった。

「自分の拠点にサーヴァントが侵入し、それに気付けぬ拠点の主など、最早いるに値しない」

「要するに、入った瞬間から気付いてたって事ね」

 天子が言う。チェスターフィールドに彼女は既に近付いていた。背もたれの後ろだった。

「ダーマスをどうするつもりだ?」

 背もたれに深く寄りかかりながら、十兵衛。

「ダーマス? 君が増田と言っていた少年の事かね」

「アンタから見たダーマス……ややこしいと思うから次からは増田で通そう。珍しい患者じゃないか?」

「率直に言うと、私ですら見た事もない病状だ。だからこそ、興味深い」

「それだよ」

「ふむ」

「単刀直入に言うと、俺はアンタの事を信用してない。方々でこの病院の事を調べたよ、大層腕も良くて献身的な医療をなさるらしいな」

「よく調べている」

「それ以上の情報がまるでないんだよ。アンタの病院について調べて見ても、出て来る物はメフィスト病院マンセーと来てる。その上、アンタ、サーヴァントなんだろ? これで信用が出来る訳がない」

「君が怪我を負えば、全てが解る」

 メフィストが何気なく、何の感情も込めずに紡いだその言葉は、吟遊詩人(トルバドゥール)が詩を吟じるが如き神韻が含まれていた。
しかし、その言葉に天子は即座に反応した。体内に魔力を循環させ、鋭い目線でメフィストを睨みつける。警戒している証だった。
目線を、メフィストは十兵衛の従えるセイバーに向けた。心の内奥に隠された恥部すらも剔抉されるのでは、と怯えずにはいられない程の眼光だった。
天子が有する絶対の、天上天下に例えられる程の圧倒的我の強さが、揺らぐのを彼女は感じていた。

「対魔力を有する三騎士相手に、挑んでみるか? 魔術、通用しないぜ?」

「私を相手に、対魔力が意味を成すスキルだと思うか? 私の力が何処まで通用するのか、私は試してみたいがな」

 氷で出来た手で、心臓を握られるような恐怖を天子も十兵衛も覚える。 
キャスタークラスである事は、既に十兵衛は解っている。可視化されたステータスがそう表記しているからだ。
キャスターにとって対魔力を有する三騎士のクラスは、正に天敵の中の天敵。キャスターの十八番である魔術が通用しないのだから当然だ。
その対魔力を、メフィストはまるで意に介していない様子なのだ。ブラフでは、ないのだろう。この男ならば、対魔力の差など容易く超えてしまう。それだけの説得力を、メフィストは、身体で、威圧で、そして美で。十兵衛達に解らせていた。

「この病院で争いは認めん」

 数秒程の沈黙を置いてから、メフィストが口にする。

「君達と争う程私も暇じゃない。それに、増田と言う患者は、何に利用する訳でもない。況してや解剖して殺すなど論外だ。当病院とその優秀なスタッフが責任をもって治療に当たる」

 メフィストが口にしたその言葉に、一切の嘘もない事を、十兵衛は感じ取った。
余りにも、言葉に内包されているパワーが違い過ぎる。この男は、言った事を違えぬと余人に知らせしめる力を、余りにも持ちすぎていた。

「アンタに聞きたい事が一つある、ドクター」

「何か」

「増田の病気の事だ。あれ、治せるのか?」

「結論を言えば無理だ」

 一切の逡巡もなく、メフィストは匙を放り投げた。

「何それ? 本当に医者なの貴方?」

「訂正しよう。所謂飢餓の状態は、抑制する事は容易い。但し、その飢餓を齎している根本の原因……悪魔の状態を取り除く、と言う事が不可能なのだ」

「実は、増田をアンタの所にやったのはそれでね。この病状について、詳しく知りたい訳だ。アンタの見解を聞きたい、ドクター」

「良いだろう」

 メフィストは断らない。彼にとっては、珍しい病状の患者の治療とは、生き甲斐の一つ。それを此方に送った十兵衛に対し、労いの一つはくれてやろうと、彼は思ったのだ。

「原子より小さい物体とは何かね」

「素粒子だろ」

 嘗ての物理学では、原子即ち『アトム』こそが、物体を構成する究極の物質であるとしていた事がある。究極とは即ち、物質を構成する最小単位と言う事だ。
しかし、十九世紀の末頃に、ジョセフ・ジョン・トムソンが原子より小さい『電子』を発見した事により、その常識は変革され、化学と科学は大きく進歩して行く。
トムソンが電子を発見したのは一八九十年。其処から人類は、様々な素粒子を発見する事になる。
陽子、中性子、中間子、ニュートリノ、クォーク、ヒッグス粒子。これらを発見した物理学者は何れもが、物理学の歴史に名を残す偉大な学者だ。
分子や原子、素粒子の世界とは究極に等しいミクロの世界であり、分子や原子のレベルの小ささになると既存の物理学とは全く違う動きを示す。この究極のミクロの世界を研究する学問こそが、所謂量子力学である。

「学校で習えるレベルでは正しくそうだろう。だが、それですらもまだ大きい。素粒子よりもっと小さい物質――いや、それは最早物質ですらない。我々は敢えてそれを、『情報』と呼ぶ」

「おいおい、胡散臭いな。新興宗教の戯言レベルだぞそれ」

「フフン。無知ね、十兵衛。仏教では今其処の美魔人が言ったような概念を、『極微』と言うのよ」

「ごくみ?」

「仏教に曰く、『在る』、つまり存在するものの最小を指す言葉よ。切れないし、壊せない。長くもなければ短くもなく、重くもなければ軽くもない。その形は四角でなければ三角でもなく、球ですらない。そもそも、形自体が存在しない。見えず、聞こえず、触れられず。一切のなにものでもないのに、一切のなにものでもある。それをこそ、極微。見える物の中で最も小さい『微塵』と呼ばれるものを、最も小さく分割した姿よ」

「博識なようだな、セイバー。その姿から、侮っていたよ」

「お褒めに与り光栄ね。やる事が勉強しかなかった時に適当に学んだ知識だけど、此処で役立つとは思わなかったわ」

 十兵衛はすっかり忘れていたが、天子は天人の中にあってもかなり上位階級の人物だった事を思い出した。
普段はお転婆の極み、唯我独尊を絵に描いた様なフリーダムな女だが、学識はかなり深いのだ。無論科学や物理、生物に数学などはてんで、と言う奴だが、こう言った古典の内容には彼女は詳しいのである。

「増田さんの病気を一言で表すなら、この情報レベルでの在り方の改竄だ。情報を意図的に変え、人間としての性質を残しつつ、悪魔と呼ばれる超常の存在に変身出来る力を与えている」

「あー、待ってくれ。要するに……レゴブロックを組み立て直すようなもん、って言うのか? 増田って言う人間を構成する小さいブロックを組み直して、ただのNPC増田から『悪魔に変身出来るNPC増田』に組み直したと」

「概ねその通りだ。が、その答えでは八十点程だな。恐らくは増田さんにその術を施した術者は、組み直す、と言う高等な技術は出来ないだろう。厳密には組み直しではなく、『突然変異させた』と言う方が正しいだろう」

「何で、そう言えるんだ?」

「情報を組み直す事など不可能だからだよ」

「門外漢で解らないが、そんなに凄い事なのか? いや、勿論アンタの話を聞くだけでも、とんでもない事だとは解るけどよ」

「奇跡、と言う言葉がある。魔術の世界に生きる者に於いてこの奇跡と言う言葉は、科学や魔術を含めた現代の技術で、絶対に成せない現象を我々はこう呼ぶ。情報の再構築。これは、死者の蘇生、時間の遡行、生命の創造に匹敵する程の不可能事だ」

「仮に、情報の再構築とやらが出来るとしたら、何が出来るんだ?」

「石ころを宝石や黄金に出来るなど、造作もない。水を土に変え、大洋に大陸を生み出させる事も出来れば、その逆、大陸を質量相応の海水に変える事も出来る。一人の人間を百万の蝶や十万の小魚にする事も出来れば、空気の情報を組み直して衛星を生み出す事も出来、金星を地球と同じ水のある惑星にも出来る。そして極め付けに、惑星の創造ですらも簡単にこなせるだろう」

「デタラメだな。そりゃ不可能だわ」

「そう言う事。冷静に考えて見なさいな、もしもそんな事が出来る存在を呼び寄せられるのなら、聖杯なんて無用の長物でしょ?」

「もっと言えば、そんな存在が聖杯で招ける筈がない。絶対に、だ」

 其処で、メフィストは一呼吸置いた。

「情報を制御、書き換える事自体は、不可能ではない。情報にまた違う情報を超高速で加筆し、物体の強度を底上げする、物体の加速度を爆発的に跳ね上がらせる。こんな能力はザラに見られる。だが、それらは全て、単なる物質で行うと言う共通点がある。人間を含めた鳥獣虫魚は、情報の強度と、加筆したり書き換える難度が桁違いに高い。また同様に、自然界の絶対原則。例えるならば、光より速く動けない、と言う物か。これも、どんなに卓越した情報制御の理論を持ち出した所で、加筆・書き換えは不可能だ」

「要するに、こう言う事か。物理学の基本中の基本となる原則や、人間含めた生物の書き換えは、実質的には不可能。んで増田はどう言う訳か、この情報を再構築されてるから、アンタには治療出来ない、と」

「ただでさえ人間の情報を書き換えるのは困難だと言うのに、その情報の改竄の度合いが余りにも高すぎる。あれを完治させるのは、我々でも手に余る」

「さっきドクターは、突然変異的に増田の情報を改変させたと言ってたが、それについて詳しく聞きたい」

「情報の再構築が、少なくともサーヴァントの身では不可能なのは言った通りだ。故にもしも、増田さんを悪魔に変身出来る人間にさせたいと言うのであれば、情報を再構築させるのではなく、『情報を突然変異』させるしかない」

「情報の突然変異って言うが、それどう言う意味よ」

「増田さんをあのようにしたサーヴァントは、情報に干渉する手段こそは持っているが、再構築にまで至る手段ではなかったのだろう。其処から推測出来る事は、恐らくそのサーヴァントは、情報を改竄するそのスキルないし宝具を、完全に制御出来ていないと言う事。もしも完全に制御出来ると言うのなら、もっと強い怪物に増田さんを変身させられるだろうし、そもそも自分達で増田さんを統率するだろう。つまり、NPCを悪魔化させるその手段は、術者を以ってしても『どんな悪魔に変身する事が出来るのかは施術後でなければ解らず』、施術後は『そのサーヴァントであっても制御が困難』。だからこそ、突然変異と言う言葉を用いたのだ」

「悪魔化した人間の性能って言うか、身体能力の上がり具合を知りたいんだが」

「基本的に、元となった人間の素の身体能力の、二~三倍程と言った所か。但し、悪魔になった場合は別だ。その時は、その悪魔の身体能力に準ずる。無論、人間とは比較にならんぞ」

 となると、やはり悪魔化した人間を相手に、武器を持たずに変身前の姿と戦うのは愚作と言う事か。
当たり前の事ながら、変身後に戦うのは論外である。勝てぬ喧嘩と必要のない努力を避けるのが、佐藤十兵衛と言う男だった。

「餓えについて聞きたいんだけど。今一コレがピンと来ないんだが」

「先程の触診で理解したが、情報の改竄の影響で、食欲中枢に異常が起きている。正常の食物では満腹感が極端に得られ難い身体になっている。増田さん、いや、悪魔化出来るNPCが空腹を解消するには、DNA……その中でも、ヒトゲノムを多量に含んだ肉でなければならない」

「要するに、人間喰わないと飢えが満たされないって事か」

「その通り。しかし、この病気の悪辣な所は、人ばかり食していると次のステップに移行してしまう事だろう」

「次のステップ?」

「ヒトゲノムを摂取し続けていると、今度はそのヒトゲノムと言う情報が、悪魔化した人物の、『悪魔に変身出来るよう突然変異を起こされた情報を強固にする』。すると、如何なると思う?」

「解らんね」

「当該人物から、その人物をその人物足らしめる性格や人間性が消滅し、『変身出来る悪魔の性格がその人間の性格になる』」

「……それ、変身出来る悪魔次第では、大変な事になるわよ」

「その通り。変身出来る悪魔が邪悪な者であればある程、被害は甚大になる事は想像に難くないだろう。ただ餓えを満たすだけではまるで意味がない。極めて悪辣な病気だ」

 聞くだに、悪辣な病気としか言いようがない。
人間としての良識が人より欠いている十兵衛とは言え、幾らなんでも、こんな病気をNPCに感染させるなど、人間の所業とは思えない。
これだけ危険な存在を、統率するでもなく、無秩序に野に放つ。本当の意図は現段階では不明だが、どちらにせよ解る事は、かなり破滅的な性格の持ち主、
と言う事だけは解る。この情報を得られただけでも、十兵衛としては、十分過ぎる程のリターンだ。後は――

「ドクター」

「何か」

「増田を返してくれねーか」

「NPCとはいえ、人を物扱いするのは頂けんな」

「駒だよ、物よりはマシだろ」

「どちらにしても、彼は今私の患者だ。私が納得の行く施術をするまでは返さん」

 予想出来ていた返事ではある。
あれだけ貴重なサンプル、メフィストでなくとも返したくはないだろうとは十兵衛も思っていた。
そうなれば、口八丁で何とか返せるかとも、メフィストに逢うまでは思っていたが、メフィストと一言二言会話し、それは望み薄にも程がある話だったと思い知らされた。
結果は案の定。メフィストは、サンプルではなく、絶対に治したい患者として、増田を十兵衛に返還する気がないようである。リターンを既に得られた十兵衛であるが、彼は、これ以上を欲していた。

「まだ望みがあると言うのかね」

 侮蔑の光を宿して、メフィストが言葉を放った。

「彼を通じて、悪魔化するNPCの情報を得る、と言う最低限のラインは満たせただろう。君に最早用はない、去りたまえ」

 メフィストは十兵衛の意図など御見通しであったらしい。
そして、患者を此処まで搬送すれば、十兵衛と天子など後は用済みであるらしい。此処で、はいそうですかと引き下がる訳には行かない。

「戦略上増田は俺達にとって重要な駒(ピース)なんだよ。潜在的には増田は俺達の側に傾いてる、味方としても機能する訳だ。それに、アンタの前で隠しても無駄だから言うが、俺には魔力がない。よって、使えるものは全て無駄なく使わなきゃ、聖杯戦争は生き残れない」

「道理だな」

「だがアンタは、患者として増田を認めた以上、自分が最善を尽くしたと思うまで奴を返還したくない」

「そうだ」

 ここまで会話して十兵衛は確信した。このメフィストと言うサーヴァントは、極限まで自分の都合に沿って行動する、究極の我儘である事を。
彼の行動方針とは即ち、患者の治療であり、病院の運営である。このサーヴァントは八割型、聖杯戦争の行方などと言う物に興味がないのだ。
ただ、自分を求める患者を治せればよい。このサーヴァントは――本物(マジモノ)だった。ならば、通常の話し合いや妥協・折衷案などまるで意味を成さない。
メフィストの意に沿い、メフィストが従う法則の下での契約でなければ、この男は絶対に首を縦に振らない。その事を、十兵衛は理解した。

「OK。飽きるまで増田を治してて良いから、奴の治療の現場に俺を立ち会わせて欲しい」

「ICUに部外者を入れる医者は最早医者ではない」

 予想通りの返事だ。断られる事は織り込み済み。
セールストークのテクニックの一つに、最初に相手方が高確率で断る可能性の高い提案を提示し、断られた後で、先に提案した内容よりも断られる可能性が低い『本命』の提示を行う、と言う物がある。相手の「それくらいだったら別にやってもいいか」、の精神を利用するのだ。十兵衛はこれを行った。

「なら、見舞客として俺を増田の近くの部屋に置いてくれよ。それ位は良いだろ」

「若いにかかわらず、意外と調略が上手いな」

「軍史官兵衛を見てたからな」

 メフィストからすれば、十兵衛の小細工など、全く問題ではないらしい。
この小賢しい青年が弄していた調略を見抜いていた事からも既に窺える。十兵衛も、もう如何にでもなれと思っているらしく、取り繕う事すらしなかった。

「見舞客や患者の関係者は、ロビーか治療室前のソファで待機するように。これから、増田さんの治療に当たる」

「奴は何処で治療されてるんだ?」

「今は同フロアの情報診察室と言う所で先ずは様子を見ている。終わり次第、三階に移される予定だ」

「了解。出るぜ、セイバー。霊体化しとけ」

「解ったわ」

 そういって十兵衛は移動の準備を始めた。正午を回らぬ、十一時半の事である。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 北上は率直に言って、驚く何てものではない程、自身に起った変化に驚愕していた。
理由は単純明快、アサシンのサーヴァント、浪蘭幻十の殺意の魔線によって切断され、欠損した自身の右腕である。
白い肌に包まれた、乙女の柔肉が、右肘より先から伸びていた。五本の指を動かしてみる。動く。鍵盤楽器ですら今なら華麗に弾いて見せそうな程、淀みなく指が動く。
肘より先も、動く。ナイフやフォークだって使えそうだった。そう、欠損する前の自分の腕と、まるで遜色がない程良く動くのである。

「不服かね」

 そう北上に訊ねる男は、白美の光の化身だった。
銀雪が黒ずんだ醜い白色にしか見えない程の、純白のケープを身に纏う、美しき魔人。
佇むだけで、世界の美をより一層彩らせる男。或いは世界に満ちる美を一瞬で彼当人に収斂、奪ってしまう男。魔人メフィストは、己が拵えた義腕の出来を問うた。

「ぜ、全然……」

「良かった、手暇をかけた甲斐があった」

 北上は左手で、右腕の肘より先の皮膚を抓ってみる。指に伝わる皮膚の張り、肉の柔かさは、乙女のそれ。北上の生身の部分とまるで変わらない。
――しかし、抓られていると言う感覚を、右腕は感じない。爪を立てて抓ってみても、やはり感覚がない。 痛覚、と言うより触感全体を取り払っているのだろう。義腕だから、であろうか。

「君の所持金では、感覚神経を通すような治療費を賄えそうになかったのでな。感覚処理はやらなかった」

 メフィストは、北上に施した施術の内容を滔々と説明する。

「メフィスト病院謹製の人工筋肉に、同じく謹製の人工神経を埋め込み、その神経を、君の右腕の切断面から露出する神経と繋ぎ合わせたと言うのが、君に施した治療だ」

「……えっと、十分過ぎる、んじゃ……?」

 医療知識など門外漢の北上であるが、如何聞いても、メフィストの術は凄い以外に表現出来ない。これ以上の治療など何があると言うのか。

「もっと値の張る治療には、患者のDNAを解析し、万能細胞で一から欠損した部位を創造する、と言う物がある。再生治療、と言う方が伝わりやすいか。尤も、それ自体も一万円以内の予算で済むのだが……君の腕を斬り落とした男の付ける傷は特殊でな。私も苦労するのだよ」

「要するに……治療費の殆どは、その傷の手間賃って事ですか……?」

「然り」

 それだけの治療であるのならば、常識で考えるまでもなく普通は保険外診療で、当然莫大な治療費を要求されると言うのに、
予算一万以内でそれを済ませてしまう、と言うメフィスト病院の技術と、懐が大きいでは最早説明が出来ない程のあり得ない医療体制もそうだが。
そのメフィストをして、此処まで時間を掛けねば義肢の製作に当たれない、と言う幻十の技量も、恐るべき物だった。

「……その、モデルマンは何処にいるんですか?」

 此処に来てから、北上は今いる義肢の制作工房に案内され、アレックスは別の治療室に移された。
メフィスト病院に入ってから北上は、アレックスの姿を目撃していない。メフィストが患者に対しては真摯な性格である事は北上も理解出来たが、サーヴァントと離れ離れになったこの状況で、何か害意を加えぬ可能性はゼロじゃない。それを北上は心配していた。

「心配せずとも、あのサーヴァントは治療を終えている。その後、此処の隣の部屋に案内された筈だ」

「嘘!? こんな近くにいるのに……」

 パスを通じてアレックスが何処にいるのか気付けなかっただけでなく、念話すらも遮断されている等とは……。
やはりこの病院は、外とは別の法則が働いている、この世ならざる空間であるらしかった。

「案内しよう、来たまえ」

 と言ってメフィストは、義肢の工房を後にする。
それを受けて北上も、急いで艤装を背負い、彼の後を追い、廊下に出る。その時には魔界医師は、本当に先程の部屋のすぐ隣の部屋に入室しようとしていた。
嘘じゃなかったんだ、と思いながら、北上は遅れてその部屋に入室する。果たしてそこには、あの頼りない勇者が存在した。
――その身体中に、蛮族を想起させるような、黒いラインを青緑色に光る青緑色の光線で縁取った入れ墨を、頭から足の指先に至るまで入れ込まれた、と言う姿でだが。

「も、モデルマン!!」

 当然北上は、驚愕も露な反応を取る。北上は気付いていないだろうが、メフィストもまた、驚きの光を、その黒曜石の如き瞳の中で湛えていた。

「……何を成した。マスター」

 そう言ってメフィストは、己の主である、金髪の紳士を問い質した。
メフィストのマスターであるルイ・サイファーは、部屋のコーナーに背を預け、メフィストから手渡された、スマートフォンに似た端末を弄っていた。

「力を欲する者に、力を与えただけさ。それ以上でもそれ以下でもない」

 雅な微笑みをメフィストに投げかけながら、ルイは言った。
ともすれば威圧、恫喝に取られかねないメフィストの言葉を受けても、この不敵な紳士はその態度を崩しすらしなかった。

 この男が何をアレックスにどのような業を行ったのか、メフィストは完全に理解していた。
ルイ・サイファーの左小指から生み出した、彼の大魔王の力を内包した悪魔の結晶体、マガタマ・シャヘル。それをアレックスに適応させたのだろう。
あれを適応させれば、悪魔の力を得る事は、メフィストも予想が出来ていた。その詳細と、能力の上がり幅についてまでは、メフィストも予想外だった。
今のアレックスのステータスは、此処に来る前に確認した平凡その物のそれから、幸運を除いて全てAランクと言う、英霊の座に登録されている古今の英霊達全体から見ても、
上位層のそれにまで修正されていた。単純な戦闘能力の向上の幅もそれだが、今のアレックスは魔人化する前に扱えた力を据え置きに、それとはまた別の、
シャヘルを適応させた事で獲得した『大魔王の力の一端』を振う事だって不可能ではない筈だ。まさに、劇的な強さの上昇である。――ただ、その力を奮い過ぎれば……。

「……ハハ、まぁそりゃ驚くわな。無理もない、俺も初めて見た時は驚いたよ」

 と言ってアレックスは、自分の両掌を確認しながらそう言った。掌は勿論の事、手の指先にまで入れ墨は刻まれている。

「だが、マスターだって解るだろ。俺は、強くなった」

 北上もそれは理解していた。何せアレックスのマスターである、此処に来る前の彼のステータスは頭に叩き込んでいる。
それと比較して、アレックスが凄まじく強化された事が、北上にも解るのだ。そう、間違いなく、アレックスは頼りになる存在になった。

 ……だが、何故だろう。その強さには全く親しみが持てない。アレックスが、恐ろしく遠い所に向かって歩み始めたのではないかと。
北上は、直感的に、そんな予感を感じてしまったのだ。……いや、気のせいだろう、と、思う事にした。
アレックスは自分の為に進んで、この力を獲得したのだ。その事の何処に、疑惑を向ける要素があるだろう。この世界で信じられる存在は今やアレックスだけ。
彼を信じてやらねば、どうする。命を懸けて浪蘭幻十から北上を救った、この勇者を。

「今度は勝つぜ。そして、聖杯にまでアンタを案内する」

 そう語るアレックスの瞳には、魔性の輝きが星明りの様に煌めいていた。
その様子を眺めるルイの瞳には、宝石箱の中の輝石が光を受けて輝く様な喜悦の光が瞬いていた。
アレックスの事を信じていた北上と、彼ら二人を眺めるメフィストの瞳には――次の患者の治療をどうするか、と思案する、冷厳かつ峻厳な医者のそれになっていた。北上とアレックスには最早、メフィストは興味関心を失っているのだった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

【流石に治療に時間がかかるな】

 と、メフィスト病院のロビー、その待合席に腰を下ろす男がいた。
長身である。百八十cmは優に超える長身で、おまけに体格も、ラグビー選手宛らに大きい。大兵漢だった。
そんな見事な身体つきな物だから、クラシカルな黒礼服が実に良く似合う。フォーマルな服装と言うものは、着ている者の体格を如実に反映する。
貧相な身体つきだとこう言った服装は余り良く似合わない。彼――ジョナサン・ジョースター程の体格の持ち主なら、実に、礼服はサマになるのだ。

【元々負っていた手傷は僕の物よりも深刻だったろう、時間も掛かるさ】

 と、ジョナサンは念話で、霊体化したジョニィ・ジョースターにそう告げる。
こうして、同盟相手である北上とアレックスを待って、一時間以上は経過している。待合の時間は、ジョニィとしても暇らしかった。

 ロベルタによって打ち込まれた銃弾の摘出は、ものの数分で終わった。
銃弾の摘出、鉛毒の消毒処理、そして、銃弾が撃ち込まれた事によって磨り潰された筋組織の再生。
それら全てをひっくるめても、二十分と掛からなかったと言うのだから、驚愕と言う他ないだろう。余りにも手慣れ過ぎである、まるで同じ事を何万回とやった様な手際だ。 
真っ当な病院ならば数時間を掛ける所を、メフィスト病院はそれだけ短い時間で、しかも完璧な処置をして見せたと言うのだから、素晴らしいと言うか、驚きと言うべきか。
だがそんなメフィスト病院と言えども、右腕を欠損した北上の治療と、脇腹を消し飛ばされたアレックスの治療には時間が掛かるらしい。既に一時間以上は経っていた。
ジョナサン達は、そんな同盟相手の治療が終わるのを待っていた。「腕の欠損何て一日単位で時間が掛かるかも知れないんだ、待つのは無駄だ。此処を去るべきだ」、
とジョニィは至極当然の提案をしはしたが、ジョナサンはよしとしなかった。同盟相手を見捨てると言う思考が、人情に反すると思ったからである。
とは言え、ジョニィが言う事も尤もなので、三時間経過して音沙汰がなかったら、受付の女性事務に言伝を頼み、移動を行う。そう、ジョナサンは決めていた。

 その方針に、ジョニィは文句を言わなかった。
マスターの考える事なら仕方ない、と思ったのではない。ジョニィには確信があったからだ。恐らくはジョナサンにしても、同じ確信を抱いているだろう。
あの男――ドクターメフィストであるなら、北上の負った手傷であろうとも、神業の様な手腕で治して見せるのだろう、と。
掛かる時間は、きっと普通の医者がかける時間よりも遥かに短いに相違ない。それを予期していたからこそ、この主従はこうして待機の時間を選んだのである。

 ――果たせるかな、北上は、ロビーへとやって来た。
階段を降りる彼女の右腕を見て、ジョナサンもジョニィも、心底驚いた。腕が伸びている。人体としてはそれが当たり前だが、それが二名にとっては驚きなのだ。
如何なる業を覚えれば、腕の欠損を戻せると言うのか。ジョナサンらが見た時には、北上の右腕の肘から先は無惨になくなっており、肘周りには大量の血が付着していた。
そんな物は過去だと言わんばかりに、彼女の右腕は復活を果たしており、しかも見るに、義肢ではないらしく、極めて自然に腕を動かせている。
恐るべしは、メフィストの治療の腕前、そして、メフィスト病院の底知れぬ技術の数々よ。

 北上はどうやらジョナサン達の存在に気付いたらしい。一瞬、驚いた様な表情を作った。
同盟のような物を組むとは向こうも知ってはいただろうが、まさか本当に組むつもりであったなどとは、思わなかったのだろう。
北上は受付の方に向かって行き、事務員と何かを会話、そして、懐から財布を取り出し、その中身を手渡し、釣銭を貰ってからジョナサンの所へと向かって行く。

「……凄いな、本当に再生するとは」

 嘆息するジョナサン。

「いや、これアレだよ、義腕」

「これが、義肢?」

 ジョナサンが驚くのも無理はない。誰がどの角度から見ても、今北上の右肘より先は、生身の肉体とまるで遜色がない。
「少しいいかな」、と断りを入れてから、軽くジョナサンは北上が義肢と言った部分に触れてみる。生身の感触だった。これが本当に人の手で創られた義肢とは思えない。一から身体を再生させた、と説明してくれた方がまだ信憑性があった。

「アハハ、素人が触れただけじゃ解んないって。実際、義肢嵌められてる私だって、本物の肉体だって錯覚するレベルだもん。外から触った程度じゃ絶対わかんないよ」

「それだけの治療だ、当然値段が掛かったんじゃないのかい?」

 ちなみにジョナサンの場合は、千五百円だった。 

「七千円だったよ、こっちは」

 驚きを通り越して最早呆れる他ない。腕の欠損など、ジョナサンがいた時代は当然の事、この時代でも大手術は免れぬ治療の筈。
それをあんな短時間で、かつこんなバカみたいな安値でやって退けるなど、おかしいとしか言いようがない。
メフィスト病院が現れて以降、周辺の病院や診療所、開業医から、この病院が他の医療関係者から仕事を奪い、医者の仕事の価値を下落させていると言う批判が多々見受けられるのだが、それも納得の値段設定だった。

「……何はともあれ、無事で良かったよ。早く、外に出た方が良いな。この病院は傷を完治された者は早く退院させるのが鉄則らしいからね」

 これは事実で、メフィスト病院は傷が治った患者をいつまでも病院に留め置く事を良しとしないのだ。
メフィスト病院は一時間単位で新しい患者が十人、多い時で二十人もやってくる場所である。傷や病気が完治し退院する患者も、一時間単位で十人以上な辺りが、
この病院がサーヴァントの手によるものであると言う事の証左だが。兎に角、この病院には絶えずNPCがやってくる。何時までも患者をこの病院に留め置くと、
如何なメフィスト病院と言えどもパンクしてしまう。だからこそ、治した患者は早く退院させるのだ。
実をいうとジョナサンも、治療を担当した月森から、なるべく治ったら早く退院するよう言われたが、ジョナサンの場合は、
連れである北上の傷が治るまでは可能な限り此処にいさせて貰えないだろうか、という提案で何とか粘る事が出来た。
もしも彼女をダシにしてなければ、この病院のロビーでいつまでもうだうだしていられなかっただろう。

 その彼女も、今や傷が完全に治った状態なのだ。
流石にこれ以上この病院にはいられないだろう。ジョナサンの言葉を受け、北上らはメフィスト病院から外へと出る。

【……マスター、あのモデルマンとか言うサーヴァントの主従、いつでも切る準備をしておくんだ】

 出口に向かう傍ら、ジョニィが念話で、そんな事をジョナサンに告げて来た。その内容を怪訝に思ったジョナサンが、病院を出てすぐの所で立ち止まる。

【信用が出来ないのかい、アーチャー?】

【それもある。だが、もっと別の所に大きな原因がある】

【それは?】

【あのサーヴァントの気配が、全く別の物になってる。前までのそれは、人より少し違うな程度の奴だったが、今は違う。何て言うか、根本的に別の生き物に変わった様な感がある】

 そう告げるジョニィの言葉は、恐ろしく真面目なものがあった。 
ジョナサンには、霊体化したアレックスの姿は見えない。ジョニィにしてもそれは同じである。
が、如何やら彼の場合は、その気配を同じサーヴァントのせいか、感じ取る事が出来るらしい。ジョニィが嘘をついているようには見えない。何かしらの変化を、アレックスはメフィスト病院に齎されたと言うのか?

【マスター。これから僕の思った疑念を、君の口から彼女に聞いてみて欲しいんだ。僕の疑惑、とは言うなよ、一応】

【解った】

 其処で、ジョニィが思った疑問点をジョナサンは聞いて行く。

「失礼、少し良いかな……えーとそう言えば、名前を聞いてなかったな」

 先を歩いていた北上が振り返った。

「北上、だけど……何かあるの?」

「そうか。僕の名前はジョナサン。ジョナサン・ジョースターだ。いや、君を見ていて疑問があってね」

「何?」

「君の装備してた、あの鉄の装備だけど……何処にやったんだい?」

 ジョニィに指摘される前から、ジョナサン自体も気付いていた。それを聞けなかったのは、聞く機会が見つけられなかったからだ。
今この機会に、ジョナサンはこれを訊ねる事とした。北上が装備していた、船の一部を切り取った様なあの装備を、北上は装着していないのだ。
メフィスト病院に置いて来たか、はたまた自分達の知らない所で没収、処理されたか。それは、ジョナサン達にも解らない。

「あぁ、アレの事? 流石にあれは目立つでしょ? モデルマンの魔術で透明にしただけだよ。ちょっと格が高いサーヴァントには、バレちゃう程度の代物らしいけどね」

 成程、ジョニィの疑惑は本当のようである。
そうジョナサンが思ったのは単純明快。そんな便利な魔術が使えるのであれば、『ジョナサン達と合流し、メフィスト病院に足を運ぶ前から使っていた』からである。
北上の右腕を治療する、と言う名目で、そもそもメフィスト病院にジョナサンらは足を運んだ。この移動時、彼らは大通りを歩いたり、公共の交通機関を使えなかった。
理由は二つ。北上の右腕と、ジョナサンらが言う所の鉄の箱――艤装――が目立ち過ぎるからだ。
これがあったから、ジョナサン達は極力身を隠せるルートを選ばざるを得なかったのだ。艤装を隠せる手段があったのなら、初めから使っていた筈。
それを今になって、思い出したかのように自分に掛ける、と言うのは考え難い。となれば思いつく原因は、メフィスト病院でアレックスは何か力を得たか、或いは北上自身が力を得たかの二つ。ジョニィの警戒も、むべなるかな、と言う奴だった。

「そうか、そう言う事なら安心した。これで大手を振って街を歩ける」

「……と言う訳にも行かないらしいぜ」

 と、念話を通さずして、北上のサーヴァント、アレックスが言う物だから、ジョナサン達は心底驚いた。
「前だ」、とアレックスが告げる。ジョナサンはその方向に目を凝らす。病院に向かって行く人々と、駐車場に入って行く車。
或いは、病院から出て行く人々と、駐車場から出て行く車。それに混じって、此方の方を眺めながら一歩も動かずにいる、黒いスーツと黒いサングラスの男の姿を、ジョンサンらは認めたのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

【私達に気付いてるわね、あの態度……】

 言われるまでもない。ジョナサンと、彼と会話していた緑色の制服を着た少女の挙措からも、それは窺える。
まさか気付かれるとは思わなかった。塞が怪しいと思うのならば、まだ話が分かるが、鈴仙の話を聞くに、如何やら彼女がサーヴァントである事も向こうは知っているらしい。
当然、相手が鈴仙の正体隠蔽スキルを見破れるサーヴァントである、と言う想定は何時だって塞は考えている。
それでもなお、驚きを禁じ得ない所がある。鈴仙の隠蔽スキルは、塞自体も全幅の信頼を置く程優れている。それをこうも簡単に見破るとは、並大抵の事ではない。

【……あの嬢ちゃんか? 右腕が欠損した少女って言うのは】

【誰がどう見ても、右腕があるけど】

 塞が金の力で<新宿>中に張らせた情報屋や新聞社の記者連中の目撃情報によると、ジョナサン・ジョースターは、
右腕が欠損した少女を連れてメフィスト病院に入って行ったと塞に報告していた。あの少女がそうなのだろうか? 
だが彼女、北上は、誰がどう見たって腕が欠損しているどころか五体満足の状態である。恐らくはメフィスト病院で治されたか。
だと言うのならば、メフィスト病院は前評判に違わぬ、とんでもない治療技術の持ち主であると言う事になる。敵に回すよりは、利用してやりたいと塞は直感的に考えた。

【どっちにしても、あの人間の娘は、聖杯戦争の関係者の可能性が限りなく高いわ。魔術の力で、何かを装備しているのを隠蔽しているのが解るわ】

 塞にはとてもそうには見えないが、流石は波長を操る能力を持つ鈴仙だ。
北上が、艤装と呼ばれる鉄の装備を身に纏っている事を、その能力で彼女は理解したらしい。北上が聖杯戦争の関係者であり、ジョナサンと北上達が此方に気付いている。これらを加味した上で、塞は指示を出す。

【アーチャー、手筈通り頼む】

【了解】

 鈴仙がそう告げてから、三秒程の空白の時間が出来た。
その間、塞とジョナサン達の睨み合いが始まった、が、向こうから攻撃に出れない事も塞はしっかりと計算している。
本音を言えば此方が聖杯戦争の関係者だと露見しない方がベストではあったが、露見しようがするまいが、この状況はどう転んでも塞にとって有利なのだ。
先ず、人につくメフィスト病院の駐車場でバレバレの張り込みを敢えて行っていた訳は、此処がNPCの往来も多い信濃町のど真ん中である事を利用した。
程無軌道な主従でない限り戦闘が出来ない。NPCを殺し過ぎれば討伐令の対象になり得る事が解っている現在、おいそれと人目のつく場所で戦闘など出来る筈がない。
縦しんば戦闘に持ち込もうと画策した所で、鈴仙は予め実体化させている状態の為、相手が霊体化していた時の場合、攻撃に移る速度は圧倒的に鈴仙の方が早い。
況して鈴仙の攻撃はNPCにも認識しにくい。相手が攻撃してくると思ったその瞬間には、鈴仙の放つ弾丸は相手マスターの眉間を撃ち抜いてる、と言う寸法だ。塞は、強かな男であった。

【準備が出来たわ】

【よし】

 其処で塞は念話を打ち切り、口を開く。

「敵対の意思はない」

 と、落ち着いた口調で塞が告げる。
ジョナサンらが露骨に驚いた様な態度を見せる。それはそうだろう、彼我の距離は十数m以上も離れており、しかも塞は叫んだでも大声を張り上げたでもなく、
ただボソっと呟いた様な小さい声で言葉を発したのだ。普通は届かない。そんなような声であったのに、一mと言う近い距離で会話した様に、
塞の言葉が良く聞こえて来たと言う事実に、ジョナサン達は驚いていたのだ。だが、タネを明かしてしまえば何て事はない。
鈴仙の能力を用い、声、つまり音と言う空気の振動と言う『波』を調整。声が広がる方向を全方位ではなく、ジョナサンらがいる前方方向、そして、遠くに行けば行く程音の振幅(音の大きさ)が小さくなると言う性質を鈴仙の能力で解消させた、と言うのが手品の真相だ。

「話がしたい、そっちに行って良いか?」

 塞がそう聞くと、数秒後に、ジョナサンが首を縦に振った。
この状況は完全に、塞の方が有利であると認識したのだろう。争いを此処で起こせば、塞としてもジョナサン達としても、後々までつまらぬ結果を残すだけだ。
話し合いの許可を得た塞達は、彼らの方へと歩いて行き、鈴仙の能力を用いずとも、会話が普通に出来る距離まで移動する。

「お初にお目に掛かるな、ミスター・ジョナサン」

「……驚いた、と言うのは、今更だろうな。サーヴァントなんて言う超常の存在が跋扈してるんだ、マスターの名前程度何て簡単に露見するって事か」

「悪いな、自己紹介する前にフルネームを調べるのは品がないとは解ってても、状況が状況何でな。許してくれ。俺の名は塞」

「サイ? 珍しいな、英国の男性の中では余り見られない名前だ」

 一瞬だけ、塞は心の中で反応を示した。驚愕のそれだった。
無論、表面上は億尾にもその様子を彼は見せない。瞳を窺わせぬ程黒いサングラスの奥で、動揺の光を微かに瞬かせただけに過ぎない。

「向こうの人間によく間違われるが、俺は華僑だぜ。ミスター」

「ハハ、それは下手な嘘、じゃないかな。同郷の人間は騙せないよ、ミスター・塞」

 成程、ジョナサンが俺の事をイギリス人だと思った理由は、根拠のない直感らしいと塞は結論付けた。
こう言う、同郷の人間にしか解らないインスピレーションと言うのは意外と馬鹿に出来ないのだ。それは良い。
問題はジョナサンが、予想以上に知的である、と言う事の方が重要だ。立ち居振る舞い、話し方、何よりも発散される才気。
イギリスにおけるアッパークラス(貴族階級)が身に纏う気品に似た物を纏っているのを、塞は即座に感じ取った。

「それで、要件と言うのは何なんだい? ミスター・塞」

「単刀直入に言うが、俺と手を組まないか?」

 言葉通りの真っ直ぐな塞の言葉に、どよめきの感情が北上の心中で波立った。

「……同盟、って事?」

「そう言う表現もあるな」

「それを組むメリットを教えて欲しい」

 当然の疑問である。それを受けて、塞は右手の人差し指を立てる。

「メリットの一つは、今更言うまでもないんじゃないか? 何が起こるか、誰が参加してるか解らない聖杯戦争。俺達の引き当てた『駒』よりも遥かに強い奴をサーヴァントにしてる主従だっているかも知れない。そう言う時に、数の暴力が役に立つって言うのが、一つ」

 二つ目、と、塞は中指を立てた。

「ある程度の局面までを有利に進められるって言うのもある。一人だけだったら聖杯戦争の中盤戦ですら生き残れる可能性は低いだろ? 途中まではスムーズに事を運べるってのもデカい」

 最後、塞は薬指を立てた。

「アンタら、その面で大通りを出歩けると思ってるのか?」

「お、脅してるの?」

「これが脅しに聞こえるって言うのなら、相当頭が弱いぜ、嬢ちゃん」

「顔が売れすぎてしまった、と言う事だね?」

「そう言う事だ」

 ジョナサン・ジョースターの氏素性は未だ明かされていないが、彼とそのサーヴァントの顔と姿は、<新宿>二丁目で勃発した大規模な戦闘で、
大々的に披露される可能性が高い。馬に騎乗した二人の英国人男性、その様子は塞の見立てではほぼ100%、<新宿>の公道に設置されたカメラで捕捉されている。
じきに、ジョナサンの素顔や本名が割れ、此処<新宿>の聖杯戦争の参加者である事が露見するのは、火を見るより明らかだ。
そして北上に至っては、既に氏素性が割れている。住んでいたマンションの管理人にマスメディアは聞き込みを終えており、顔写真も通っている高校も既に露見しているのだ。そんな彼女が無計画に街を出歩こうものならば、何が起るかは容易に想像が付く。

「俺の提案を蹴ると言う選択も当然おたくらには用意されているが、リスクを測ったらそんな選択は先ず選べない筈だぜ」

「完全に脅迫じゃんそれ……」

 無論、脅迫である。元より塞は、ジョナサンらを此方側に引き込むと言う事を目標に交渉をしているのだ。理由は単純明快。
多くの主従を此方側に引き入れさせる事で、後々使う紺珠の薬で、相手がどう言った戦い方をしてどう言った宝具を持っているのか、と言う事をカンニングする為である。
先程塞は鈴仙に、当分は使わないつもりであるとは言ったが、二度と使わないとは一言も言ってない。誰が何と言おうがあの宝具は此方側の切り札である。
鈴仙がその気でなくとも、塞はこの宝具を、味が消え失せるまでガムを噛み続けるが如く、使い倒す気でいるのだった。

「君の望む事は解った。話し合いをしたいが、病院の駐車場で話し合うのは目立つな。何処か落ち着いて話せる場所に移動しないかい?」

「了解した。案内しよう」

 こうして、一先ずは塞の望む方向に持って行かせる事が出来た。佐藤十兵衛が病院に到着する十分前の事であった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 音に聞こえた、月の頭脳の二つ名に偽りなし。八意永琳は、心中でそんな手応えを感じていた。
たった数時間で、永琳とその『助手』は、メフィスト病院での地位を確固たるものとしてしまったからである。

 全身に転移した癌を切開から縫合まで合わせて三十分で摘出して見せる外科医がこの病院には存在する。
肺炎や盲腸程度なら診察時の触診だけで癒せる内科医はこの病院では当たり前の存在である。
超人的なサイコメトリー能力で、相手のどんな悩みも絆して見せるカウンセラーがこの病院には勤務している。
全く顔に瑕疵なく人相を意のままに変えて見せたり、指紋をも容易く変えたり、皮膚の色をも完璧に変えられる整形外科医だってこの病院では珍しくない。
そんな、超人を通り越して最早魔人染みた治療技術を持つ医者達と、八意永琳は肩を並べる――いや、事によっては彼らを上回る立ち位置にこの短時間になってしまったのだ。

 外科的な行為にも永琳は及んだ事があるレベルで、永琳は医療の知識に堪能であるし、その技術も引けを取らない。 
しかし彼女の本質は『薬学』である。月にいた時代も、天より下りて地上で生活をしていた時代も、永琳は製薬でその名を鳴らしたものである。
メフィストも短い時間で、永琳が何を得意とするのか即座に見極めたらしい。彼女が配属された所は、薬科と呼ばれる診療領域であった。
薬科と言っても、メフィスト病院に勤務する以上、他の病院の医者以上に他領域についての知識が求められる。結論を言えば、診察が出来ねばお話にならないと言う事だ。
殆ど、分・秒単位で患者が出入りするメフィスト病院では、常に医者も看護師も動き続けていると言う実情があり、この現実から、
薬科の仕事も処方薬の製薬だけにとどまらず、医者を通さず直に患者の薬に特効を示す薬を処方しなければならないと言う掟がある。
当然、他の病院では先ずあり得ない営業体制である。しかし永琳は然程これには驚かず、薬科に配属されて二十分程度で、メフィスト病院の在り方に適応。
専属医ではなく『臨時専属医』、行ってしまえば非常勤の医者であるにも拘らず、メフィスト病院の薬科のベテラン医達ですら舌を巻く働きぶりを永琳は示して見せた。

 飲んだだけで肺炎や胃潰瘍を治す薬を処方しその場で服用させ、その場で治した人数、この病院に勤務してから三十人。
犬に噛まれた、骨折した等の外傷や内傷を即座に治療させる薬をその場で服用させ、その場で治した人数、この病院に勤務してから十二人。
夏風邪夏バテ食欲不振を治療する薬をその場で飲ませ、それらを克服させた人数、四十七人。つまりは八意永琳は、八面六臂の大活躍であったと言える。

 若造――実際には永琳の方が遥かに年上なのだが――が生意気だ、とか言うやっかみは、この病院では起きない。
皆知っているからだ。永琳が、メフィストが認めたスタッフであると言う事を。この病院における『院長』の地位と信頼は、比喩抜きで絶対のものである。
聞いたところによると永琳は、あのメフィストが優秀と認め、即日働かせる程の優秀な人物である、と言う共通見解を此処のスタッフ達は抱いているらしい。
メフィストが直々に面接し『優秀』だと認めたのであれば、この病院のスタッフ達は全員その事に異を唱えてはならない。いや、唱えられない。
メフィストの医者を見る目は絶対の物であり、間違いなど100%起らないからだ。彼が良しと認めた医者は、例え非常勤、例え医療免許不所持であろうとも、此処のスタッフ達は何を思おうともその医者を認めねばならないのである。

 メフィストが認めた医者である上に、頗る優秀。
これで文句など出る筈がない。――但し、永琳の助手については、話は別である。

「遅いわよ一ノ瀬!! 速く其処の薬瓶を取りなさい!!」

「え、えっと、これですよね?」

「その一つ左隣!!」

「は、はい!!」

 慣れた手つきで、しかも素早く正確に調剤する永琳の後ろで、薬品棚の周りを忙しなく動く少女がいた。
永琳が指定した薬剤の入った瓶を急いで手渡そうとするのだが、その速度が永琳には不満らしい。まるで荒っぽい仕事の現場の様に厳しい叱責を永琳は飛ばしていた。
薬品棚周辺を動き回る、学生服の上に白衣を羽織った少女の名前を、一ノ瀬志希。メフィスト病院に於いて、八意永琳の助手……と言う立場で通っている人間だった。

 無論一ノ瀬は永琳の助手ではなく、実際には永琳の主とも言うべき人物である。それなのに如何して今の様な力関係になっているのか。
メフィスト病院で非常勤の医者として働く事になっているのは永琳であり、そう言う都合上彼女は今霊体化が出来ない状態にある。
この病院にはNPCだってやってくる、それでいきなり霊体化を解いて出現する、と言う方法はリスクが高い。
だから常に実体化して動き回らねばならないのだ。だが他にサーヴァントが此処にいないとも限らないので、自身がサーヴァント以外の存在と誤認させる魔術を使っている。
自身の問題はこれでクリアだが、今度は志希が問題になる。単独行動がクラススキルとして設定されているアーチャーの中でも破格の単独行動スキルを持つ永琳は、
マスターである志希から離れても、問題なく病院の業務をこなせる。が、如何にメフィストが義理堅い人物であると言っても、此処は敵の腹の中。
志希を何処かで一人にするのは余りにも心許ない。だから、永琳は『助手』と言う関係で、常に志希を隣に侍らせる方針で行く事にした。
幸いにも志希は同年代の人間に比べて頗る頭も良く、独学で学んだのかは知らないが薬学の知識にも堪能である。助手としては使えるだろうとは思ったのだ。

 ……が、如何に志希が頭が良いと言っても、その優秀さを評価する人物が悪すぎる。
何せ彼女を優秀だと決める人物は、月の賢者とも称される天才・八意永琳であり、魔界医師と呼ばれ恐れられるドクター・メフィストである。
メフィストの普段の態度を見れば解る通り、彼の中での優秀のラインと言うのは常人が想定するよりも遥かに高い。永琳にしても、同じ事。
永琳としては、マスターと言う観点で評価するなら兎も角、自分の医術をサポートする助手としての観点で見るなら、一ノ瀬志希などちょっと薬学を齧った小娘に過ぎない。
普段ならば助手として解雇してるレベルの働きぶりであるが、其処は我慢していた。

【ねぇ、アーチャー】

【何かしら】

【……言い難いんだけどさ~……当たり強くない?】

 如何にも、自分に対して厳しいような気がすると、志希は思っていた。
確かに、実際にこう言った職場で働いた事はこれが初めてであるし、調剤材料だって、薬棚や巨大な冷蔵庫に入っている物すべてを含めて、全部の二割しか知らなかった。
これでは薬剤師の助手としては失格であろうが、そもそも此処はサーヴァントの運営する病院の薬科である。志希の知らない医薬品が入っているのは仕方がない事だろう。
特に、瓶詰された何かの生物の眼球を永琳から指定された時は、悲鳴を上げそうになった程だ。こんなものまで医薬品になる程である。
志希でなくとも混乱するのが当たり前だ。ちなみに永琳はこの職場に来るなり、「懐かしい素材が沢山あるわね」と、久々に職場に復帰したベテラン職員宛らに言ってのけ、事実知らない素材など初めからなく此処にある医薬品は全て既知の物だったらしい。最早天才を通り越して、異常とすら言える知識の奥深さである。

【人の命と健康を与る仕事よ? 厳しくて当たり前、曲りなりにも私の助手として、そしてあの偏屈な美男子さんと契約結んじゃったんだから、適度に真面目になさい】

 成程、尤もな所である。
流石にプロフェッショナル、職業意識も十分に高いらしく、例え腹に一物秘めたメフィストと永琳の関係でも、患者の治療に対しては彼女は真摯らしい。
そう言う事なら、仕方がない。やや厳しい所もあるし真実辛い仕事だが、こなさねばなるまい。永琳曰く事が上手く進めば、此方が有利になる薬を永琳の方で調剤させてくれる可能性が高いらしいのだ。自分が音を上げる訳には行くまい、耐えるか、志希はそう考えるのだった。

 と、永琳は念話で告げたが、実際の意図は別にもある。
確かに永琳の職業意識は高く、メフィスト同様医者としてのプライドも高いのだが、それと同じ位――人を『パシる』のが好きなのである。
今までサーヴァントとして従って来た少女を顎で扱き使う事にちょっと楽しさを覚えたなど、まさか言える筈もなく。
八意永琳。うどんげよりは扱き使う時の爽快感がないが、それでも少しは楽しいと、志希を助手にして思うのであった。ストレス解消の時間が、数十分あっても良いじゃないか。











   彼に言わせれば、人類の進歩などはたいしたものではなかった

   文明の増大は愚かさの増大にすぎず、やがて反動的に人類を破滅させるだろうと彼は言うのだ

   そうだとすれば、私たちはそうでないふりをして生きて行くしかない

   だが私にとって未来はあいかわらず暗黒であり空白である――つまり彼の話の記憶によって、断片的に照らしだされているだけの、広大無辺の道の世界である

   しかし、二つの奇妙な花が私を慰めてくれる

   この花は今は萎びて茶色に変色し、形もくずれてしまったが、それでも、人間から知性と力強さが退化してしまった未来世界においてさえ、

   感謝とこまやかななさけが、人の心の中に生き続けている証拠だからである

                                       ――H・G・ウェルズ、タイムマシン



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「――向いなさい、ジャバウォック。貴方なら、勝てるわ」

 それを受けて、霊体化した高槻涼が、超高速でこの場から遠ざかるのをロベルタは感じた。
此処は集中豪雨が降ったらしい。所々に水溜りが出来ているが、そうでない所は、この暑さだ。既に水が蒸発していた。

 命運を賭けた作戦の火蓋が、切って落とされた。
失敗する可能性など、ロベルタは微塵にも考えていなかった。成功せねばならなかったからだ。
魔力のプールが少ない彼女にとって、強力ではあるが魔力の消費もまた大きいジャバウォックの運用と制御は至難の業。
魔力とは即ち燃料であり弾薬であり鉄鋼である。聖杯戦争は文字通り戦争だった、魔力と言うリソースがなければ勝てる物も勝てないのである。
この魔力の問題を解決させる為に、大量の魔力が眠っていると目されるメフィスト病院に、高槻涼を嗾けたのだ。
この作戦が成功すれば、忽ち自分達は、勝利に向かって飛躍的に前進する。成功以外の結末など許されない。成功せねばならないのだ。

「Y dotame de fuerza para que pueda acoger y sobreponerme,A los retos que me impones,por tu divina gracia」

 流暢なスペイン語で、カトリックで用いられる祈りをロベルタはジャバウォックに送った。
御摂理によりて、我に与え給う数々の苦しみを、甘んじて耐え忍ぶ力を授けたまえ、と言う意味になる。

 祈りの言葉を送り終えた後、ロベルタはキビキビとした動作で、その廃墟を後にした。
廃墟の一室、その壁には、水風船でも爆発させたかのように、鮮やかな褪紅色がぶちまけられていた。
そう言う壁紙であったと言われても、一瞬信じてしまうだろう。鉄の芳香が微かに香るその液体は人の血液であったが、肝心のそれを流した筈の人間が何処にもいない。

 外に出るロベルタ。抜けるような蒼天と、その空の色と平和な東京の街には似つかわしくないスラムが彼女を出迎えた。
治安の悪さで鳴らした南元町の食屍鬼街には、人っ子一人も存在しない。彼らは皆、ジャバウォックの魔力になった。メフィスト病院を襲撃する前の腹ごしらえと言う事だった。

 時刻は午後1:20分。電撃戦はその名の通り、電光の如く素早く終わるのが理想の作戦である。
五分以内にケリを付けてほしいと、ロベルタは思いながら、人の気配が絶えた南元町から出て行くのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 珍しい患者が、唐突に姿を現したと。
メフィスト病院の前の植え込みを丁寧に整え、花壇に生えた雑草を引き抜いている中年の男性は先ず思った。
右腕が金属に包まれた青年だった。腕以外は、何処にでもいそうな普通の青年。その腕が、酷く奇妙だった。
腕の大きさは左腕よりも一回り太く大きく、その色は珪素に似た灰胴色。奇病である。
この<新宿>では、そう言った患者は滅多に来なかったが、そもメフィスト病院は、この病院以外の全ての診療所や病院でも匙を投げる奇病をこそ歓迎する場所である。久々に、院長の興味を引きそうな患者がやって来た、と彼は思った。

 青年は入口の自動ドアを通り、院内へと入って行く。
受付の病院事務だけでなく、ロビーで今も待機をしている患者、及びその関係者達の目線が、途端にその青年――高槻涼に集中する。
背格好自体は先程述べた通り、何処にも特筆するべき点はない。右腕である。其処だけ、別の生物の腕を外科的な実験と証して縫合されたと言われても、人は信じてしまうだろう。
久々に、目に見えて解りやすい奇病の持ち主が現れた――と、事務は一瞬だけだが思った。しかし、違った。彼女は伊達に長年、この病院で事務として働いていない。
高槻の目を見てしまったのだ。恵まれた体格のティーンエイジャー程度の肉体しか特徴のなさそうなその青年。
しかし、その瞳に燻る途方もない、無限大の暗黒めいた憎悪を見てしまった。その瞳は、見覚えがあった。メフィスト病院に害意を加えようとする者の目。絶対に敵に回してはいけない三魔人と解っていて、メフィスト病院を襲撃しようとする魔人の眼(まなこ)。

 躊躇う事無く病院事務は、受付の向こう側からでは見えない位置に設置されたスイッチを足で押した。
途端に、けたたましいサイレン音がロビーを中心に病院の至る所で鳴り始めた。唐突に唸りを上げるサイレンの音に、ロビー中の患者が驚き、それと同時に高槻が動いた。
金属質の右腕をフルオートの拳銃の銃口の様な形状に変え、それを以て高槻は事務員に何かを発砲した。ドンッ、と、ティンパニを力いっぱい叩いた様な音が響いた。
それと同時に、事務員の女の頭部が左目から三割程弾け飛ぶ。血肉と混じって白い頭蓋骨が飛び散り、ドッと彼女は倒れ伏した。高槻が放った圧縮空気に直撃したのである。

 これと同時に、受付の両サイドの廊下から、六人の精悍な男達がやって来た。
この病院の警備部に所属する警備員である。畢竟、常識に照らし合わせて、まともな警備員ではない。
制服の下には戦闘機の機銃掃射ですら防御する電磁防御機能と、装備者の身体能力を六倍に高める自動機動機能(オートコマンドファンクション)を内蔵した軽機動服を纏う、
警察や軍隊ですら裸足で逃げ出す装備の警備員達だ。しかも各々の手には、最大出力五千万Vの弾体を放つ麻痺銃(パラライザー)や、
焦点温度十万度以上の光線を照射可能とするレーザーガン、マイナス二百五十度の超低温の冷気を放つ冷気銃が握られており、完全に此方を殺す体制の警備員達だった。彼らは病院の警備を担う戦士達である。人の命を救う病院に所属する者でありながら、彼らは時には、命を奪う事すら厭わないのである。

 三名の警備員達が、極めて俊敏な動作で、ロビーの患者やその関係者の下へと向かって行き、彼らを急いで避難させようとする。彼らはまだ事態を呑み込めていなかった。
子供や、身動きが若者に比べて機敏ではない老人を、警備員は一人で三人も抱き抱え、外へと退避して行く。
それを受けて、残りの三人が動いた。警備員の一人が手に持っていた、突撃銃に相似した警杖の麻痺銃の照準を高槻に合わせ、発砲する。
発砲前に高槻は既に動き始めており、ロケットの如き速度で移動。二千五百万Vの電圧を纏った弾丸は、誰も座っていない椅子に直撃。椅子のクッション部分がボンッと破裂した。

 高槻が現れたのは、パラライザーを発砲した警備員のすぐ傍だった。
そこで姿を見せた彼は、ARMSとしての象徴である魔獣の右腕を突き出させ、彼の腹腔を抉り、貫いた。機銃掃射すら意味を成さない電磁防御が、通用しない。
事此処に至り事態を認識したらしく、NPC達の悲鳴がロビーを切り裂いた。「大丈夫、安心してください!!」と、警備員達が彼らを宥める、実によく訓練された男達だった。
突き立てた右腕を警備員から引き抜いたと同時に、高槻の姿が霞と消えた。消えたと同時に、彼に腹を抉られた警備員の傍にいた二名の内一人が、レーザーガンを放射。
十数万度のレーザーは高槻を灼き穿つ事はなく、射線上に存在した自動販売機に直撃。鉄の箱は中の缶ジュースごと、ゼロカンマ一秒以下の速度でガス蒸発してしまった。

 高槻が次に現れたのは、病院とは無関係なNPC達の周りで、其処で腕を猛速で振う。来訪者の隔離に当たっていた警備員の一人の頭が潰され、即死。
近場にいた老人の身体が臍の辺りから真っ二つになり、松葉杖を突いていた中年の男性の下半身が挽肉に。彼らほど酷くはないが、他多くの来訪者重軽傷を負ってしまった。
「野郎!!」、と一人が荒々しく叫んだ。その言葉が発せられたと同時に、高槻の胸部を白色の細い熱線が貫いた。
痛みに苦悶する高槻、何事かと思いそのレーザーが照射された方向を見る。
すると、先程圧縮空気で頭を破壊された女性の病院事務が、ペン先を此方に向けて睨みつけているではないか!! 彼女は、死んだ筈では。
死んではいない。メフィスト病院の従業員の殆ど多くが、何らかの遺伝子操作手術及びサイボーグ化手術、そして細胞活性法でその身体能力を強化されている。
特に殆ど全てと言っても良いスタッフに施されているのが細胞再生手術であり、十分以内の時間があれば破損した細胞が完全再生するのである。
骨や血管リンパ管、神経系、果ては大脳から内臓に至るまでがこの再生に当て嵌まり、これによって埒外の耐久力を彼らは得ており、ナイフや銃弾では殺害が極めて困難なのだ。
当然、生き残る。この手術を施された人間を殺したいのなら、それこそ、先程の警備員宜しく、頭を破壊するしかない。頭や心臓などの急所を破壊して漸く即死なのだ。
――つまり、殺し切れてない。怒りと苦しみに顔を歪めながら、先程高槻に腹腔を抉られた警備員が今正に立ち上がり、高槻の事を睨みつけていた。あれだけの手傷を負って、彼は生きているのだ。

 再び病院事務が、先程まで筆記に使っていたペン先を高槻に向け始める。急いでその場から地を蹴って、瞬間移動もかくやと言う程の速度で消え失せる。
それと同時に、ボールペンのペン先から、先程高槻を貫いた白い細熱線が放たれた。メフィスト病院の事務員に配られるペンシル・レーザーだ。
一時間の充電で、焦点温度五万度の熱線を十分間連続で放つ事が出来る緊急用の兵器だった。
ゼロカンマ秒の速度で右腕を銃口状のそれにし、不可視の圧縮空気を事務員と、NPCの保護作業に当たっていない方の警備員達に乱射する。
しかし、伊達に施された身体強化手術ではなく、地面を転がったりと言う風に、危うげこそあるものの全員は何とかそれを避ける。
避け様に、腹を抉られた警備員が、射線上にNPCがおらず、流れ弾の危険性がない事を察知した瞬間、麻痺銃を発砲。高槻を殺害しようとする。
それを反射的に右腕を振って砕く高槻であったが、それが拙かった。『高槻涼』としての理性が完全な状態であれば、
ARMSの性質を理解していた為『高圧電流の塊』とも言うべき物などそもそも触れようとすらしなかったろう。
ケイ素としての性質を持ったARMSは、つまるところは、金属生命体としての側面を持つ事を意味する。必然、『電気が流れやすい』。

「――!!」

 多少の高圧電流であれば、ARMSの動きは先ず阻害されない。しかし、メフィスト病院の悪魔染みた科学力が生み出した兵器ともなれば、話は別だ。 
自然現象の中では雷以外超える物はあり得ない超高圧電流の弾体に直撃した事で、ARMS――即ち、ナノマシンの機能が一部麻痺してしまったのだ。

「効いているぞ!!」

 警備員の一人が叫んだ。すると、この部屋にいた四人の警備員達が一斉に、メフィスト病院謹製の超兵器の銃口を此方に向け、
NPCを外に退避させ終え、入り口からロビーへと入って来た残りの一人の警備員も、銃口を高槻に向けていた。
入口からやって来た警備員は、先程まで庭の手入れをしていた作業衣の中年男性も連れていた。
彼らの入室と同時に、メフィスト病院の入口、そして窓ガラスにシャッターが降り、陽光を遮った。外部から新しい来訪者が来るのを防ぐ為である。無論ただのシャッターではない。
百二十mmの戦車砲をも跳ね返すばかりか、ジャンボジェットの衝突、果ては核ミサイルや中性子砲、荷電粒子砲ですら破壊出来ないシャッターである。
そればかりかメフィストが施した魔術的措置により、あらゆる物質を透過する悪霊などの霊体生物すらも通れない、魔術的な手段を使う不届き者をもカバーしている。
これを降ろす理由は一つ。メフィスト病院に害意を齎す存在に対するカウンター措置、超科学防衛線(SSDL)以上の警戒態勢を発動させる為。そしてもう一つ――生きて不届き者をメフィスト病院から返さない為。

「撃て!!」

 誰かがそう叫びを上げると、一斉に、ナノマシン機能が麻痺を起こした高槻目掛けて、手にした兵器を撃ち放った。
腹を穿たれた警備員は、麻痺銃の出力を最大の五千万Vにし、発砲。冷気銃を持った警備員は、マイナス二百五十度の冷気をレーザー状に束ねて発射。
そして、焦点温度数十万度のレーザーガンを持った警備員は、急所目掛けてそれを放った。ナノマシンが一部機能低下を起こしているとは言え、高槻の身体能力は圧倒的だ。
改造手術を施した警備員達ですら目で追う事が厳しい程の速度でその場から跳躍し飛び退くも、誰かが放ったレーザーガンの光芒が左脇腹を掠め、苦しげに彼は呻いた。

 タッ、と高槻は着地し、警備員達の方に地を蹴って移動する。如何にナノマシンが機能低下を起こしているとは言え、時速四百㎞以上での移動なら彼には容易い。
新幹線以上の速度で移動する高槻と、誰かが並行して移動していた。高槻が目を見開く。先程メフィスト病院の植え込みを整えていた庭師だった。
メフィスト病院で働く医療スタッフもただ者でなければ、病院の外で働く用務員もただ者ではない。彼もメフィストの手術を受けた男だ。
音速レベルでの高速移動を可能とする、マッハ・ヒューマンと呼ばれるサイボーグになる為の手術を施されているが、音の速度を超えるのは中々難しく、
普通の医師の施術では亜音速に留まる。――メフィストが手術をした場合は別だ。あの魔界医師が手術を担当した場合、真実その移動速は音を超える。
庭師の手には剪定に使っていた鋏ではなく、刃渡り九十cm程の刀が握られていた。メフィスト病院で鍛造された、超硬度の特殊鋼と特殊合金で刀身が構成された、HRC硬度百五十の刀である。優れた使い手が大きさ三mを超える鋼の小山をなます切りに出来る逸品である。

 天井の蛍光灯の光を受けて鋼色の光を魚鱗の如く跳ねさせる魔刀を、光の筋にしか見えぬ程の超速度で庭師が振った。
前時代的な武器と思い、右腕で防御しようと思ったのが、高槻の運のツキだった。ヌテリ、と、あり得ない程のスムーズさで珪素に食い込んで行き、
ケーキでもカットするが如き容易さで、右手首より先を斬り飛ばした。気付いた高槻の瞳が、零れ落ちんばかりに見開かれる。

 高槻の腕を斬った庭師が飛び退く。
警備員全員が、高槻に兵器の照準を合わせている事を理解したからだ。仲間が飛び退いたのを契機に、警備員が全員発砲する。
パラライザーが高槻の身体の生身に直撃、瞬時に着衣していた衣服を灰にし、肉体を炭化させる。凄まじい焦点温度のレーザーが、ゼリーに針でも刺す様に人体を貫く。
冷気銃から放たれた、冷気を凝圧した冷凍線が、高槻の左大腿に直撃、其処から、樹脂でも埋め込まれたように彼の脚部は動かなくなって行く。

 意識を投げ出すかどうかと言うその瀬戸際に、高槻は、己の身体の中のナノマシンが復調して行くのを感じた。
痛い、熱い、冷たい、痺れて動けない。四つの感覚が、荒海の様に高槻の中背の身体の中で暴れ狂っている。思考など、真っ当な人間では保てない。
発狂した方が、救いが用意されていると思える程の感覚の暴力の中にあって、ナノマシンが回復して行くのを感じたのは、奇跡にも等しい事柄であったろう。
そして――己の身体の奥底に眠る、『相棒』にして『友』の声を聞けたのも。彼は言っていた。『我と代われ!!』、と。友の言う事なら、無碍に出来ない。

 ――高槻涼は、ジャバウォックに身を委ねた。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 不届き者を倒したと、誰もが思った。
メフィスト病院のスタッフ達に配られる各種武力装備は、『区』外は元より、魔界都市を基準に考えても、凄まじい技術水準に達していた。
どれ程かと言えば、世界中の軍隊の全ての装備をひっくるめても、その更に上のグレードの物を標準装備している<新宿>警察ですら超える程、と言えば窺い知れよう。
四階建てのビルを倒壊させる程の威力のミサイルを標準装備としているヘリを当たり前のように有している魔界都市の警察ですら、話にならない装備なのだ。
魔界都市の技術で改造された区内の住民・ヤクザ、其処に蔓延る魔人・妖物達にも対応出来る装備で、高槻を迎え撃ったのだ。その直撃を受ければ、誰だって倒したと思う筈だ。

 異変に気付いたのは、超高硬度の刀を持った中年の庭師であった。
マッハ・ヒューマンとして人間を改造する際、その超絶の移動速度に耐えうるだけの思考速度と反射神経も合せて被験者に備えさせねばならない。
無論メフィストがそんな初歩的な事で間違える筈もなく。だからこそ、この庭師は気付けたのだ。高槻の身体に異変が起き始めていた事を。

 その変化の速度は、凄まじい程の高速度だった。
高槻の身体の内部から、筋肉と皮膚を裂いて何かが現れているかのように、庭師には見えた。現れたのは、高槻の右腕の様な、金属的な性質と外見を持つ何かだった。
高槻の身体の内部から彼の身体を食い破るように現れるその様子を見て、これは変身だ、と彼は考えた。このような様相を見せているのに、高槻は呻き苦しむ様子を見せない。
その上、変身する過程は驚く程スムーズで、まるで皮膚一枚剥いたその下に、予めそれが潜んでいたとしか思えない程なのだ。これが、本来の姿なのか? 庭師はそう考えた。

 変身を遂げる前に、庭師が動いた。
三mの助走で時速九百㎞の速度に達した彼は、その勢いを利用し高槻の額に刀の剣尖による刺突を放とうとするが、ガッキと、それが受け止められてしまった。
今度は、庭師の方が驚きに目を見開かせる番だった。鋼の塊を千切りにする超高硬度の刀を受け止めているのは、先程彼が斬り飛ばした高槻の右手であったからだ。
此処に来て漸く、警備員達の方も事態の威容さに気付いたらしい。急いで武器の引き金に指を当て始めた。

「賢しい武器を使う雑魚共が……仮初の命の分際で良くも我が主の身体を痛めつけてくれたな」

 発せられる声は、重くて巨大な金属を擦り合わせるような重圧な声だった。そして、少年の身体を引き裂いて現れたその存在は、鬼だった。
高槻涼の姿とは百八十度趣を異にする、日本の昔話に伝えられる『鬼』と言う怪物をより写実的かつ現実的なそれにした様な風貌の怪物だ。
身体の色は、変身前の高槻の右腕の様な灰銅色だが、体格も容姿も、変身前とは完全に別の生き物。
三mを超すのではないかと言う巨大な体格、人の身体など一笑に附す程の筋密度の上半身と下半身。触れただけで指が落ちてしまうのではないかと言う鋭利な爪。
そして、その顔つきを見るが良い!! 死神ですら、この怪物が脅せば裸足で逃げ出すと言われても信じる程の凶悪な顔付き。
生きた金属の生命体を思わせる姿――これこそが、高槻の中に眠るオリジナルARMS、ジャバウォックが十全の力を発揮した時の姿。
街を、国を、地球をも破壊し尽くす程の、ある少女の憎悪の化身。それこそが――魔獣、ジャバウォック。不思議の国の森を跋扈する魔獣の名を冠した怪物なのである。

 カキンッ、と、乾いた金属の情けない音が聞こえて来た。
警備員や、頭部の吹き飛んだ病院事務の顔が驚きに染まったが、真に驚いていたのは刀を振るう庭師であろう。
振っていた刀が、折れた音だった。驚くのも無理はない、あのメフィストが手掛けた刀を、内が腐った枝でも圧し折るかのような容易さで、ジャバウォックは負って見せたのだ。

「俺ごと撃つんだ!!」

 庭師が叫んだ。圧し折られた刀をジャバウォックが握っていたと言う位置関係上、この中年がいの一番に殺されるのは、当然の帰結であった。
この言葉に、「嫌だ!!」と叫ぶ甘ったれは警備員の中には存在しない。緊急事態時には、仲間の一人に痛みを負わせてでも任務を遂行すると言う教育が、
スタッフには徹底されている。病院に収容されている患者の身の安全を第一に考えると言う事もそうである。しかし、そう言った事をしてまで任務を遂行する本当の理由は――例えどんな傷を負っても、後でメフィストが完治させるから……いや。『あの美しい医者が自分の為に治してくれるから』、と言う期待と恍惚感があるからに他ならない。

 躊躇いなくレーザーと冷凍光線、電弾体が超高速で飛んで行く。――と同時に、庭師が、この世のものとは思えぬ絶叫を上げた。
レーザーと冷凍光線は、庭師の胴体を貫いて、ジャバウォックに直撃するが――通用していない!! 一切の痛痒も感じぬ、と言った様子で、ジャバウォックの鬼面が笑みを形作った。人を万人喰らった邪鬼ですら、こんな笑みは作れまい。

「笑わせる、破壊その物たる我に、破壊その物で対抗するとは!!」

 尚も庭師が叫び続ける。異変を、ロビーにいる全員が感じ取った。
肉の焦げる臭いがする。それを嗅覚が捉えたと同時に、中年の庭師の身体が燃える棒の様に烈しく炎上を始め、のたうち狂った。
此処で初めて、ジャバウォックの身体が異常なまでの熱源体になっているのを本能的に全員が感じ取った。この魔獣の体温は今や、五千度以上にも達しており、近付くだけで衣服は燃え肉は炭化し、密着しようものなら骨も残らぬ程の超熱源体と化しているのだ。その高温で、庭師の身体は燃えてしまったのだ。

「武装警備隊を呼べ!!」

 一人の警備員の怒号が飛んだ。武装警備隊、である。彼らからしたら、自分達の装備など『武装』の内に入らないのだと言う。
それを受けて事務員が、カウンターの奥に隠していたもう一つのボタンを蹴り抜いた。先程鳴り響いた緊急サイレンとはまた違う音階の警報が鳴り響く。

 ――『第一級警報(ファースト・エマージェンシー・ウォーニング)』。それが、事務員が発令させた命令である。
病院スタッフでは対処不可の存在に対して発令される警報で、これが発動されると其処から更に、三段階の防衛線が不届き者を待ち構えると言う手筈になっている。
メフィスト病院が誇る超科学の産物によって構成された超科学防衛線(SSDL)、これが第一段階だが、これが突破されると病院上層部のみが発動命令権を持つ、
超心理防衛網(SPDL)が第二段階として待ち受け、それすらも通用しないとなると、メフィストのみが発動命令権を持ち――そもそもメフィスト以外理解も出来ないし発動も出来ない心霊最終防衛圏(SLDZ)が作動する。今回事務員が発動したのは、超科学防衛線の方であった。

 第一級警報がけたたましく院内に鳴り響いたと同時に、ジャバウォックの姿が消えた。
その事を皆が認識した瞬間、二名の警備員の身体がそれぞれ四つのパーツに分割される。切断面から血を戯画的なまでに吹き散らさせ、一瞬の内に二人は息絶えた。
メフィスト病院が誇る軽機動服、その電磁防御機構はまるで紙のように切り裂かれていた。二名に起った惨劇を理解したその時、事務員が胸ポケットに差したペンを取り出し、
それをジャバウォックに向けた瞬間、そのペン先が白煙を上げながら亜音速で彼の方に飛来して行くではないか!!
これもメフィスト病院が開発した超科学の産物、ペンシルロケットだ。インクを溜めておく軸部分にインクの他に燃料を溜めておき、これを推進源とする小型兵器だ。
見た目こそ小さいがその威力は強力無比。着弾すると直径二十mの範囲に爆発が巻き起こり、範囲内の存在を塵一つ残さぬ恐るべき兵器だった。
それの直撃を、ジャバウォックは受けた。鼓膜が破れそうな程の轟音と、小児の身体程度なら木の葉の様に吹き飛ばせそうな程の衝撃波と爆風。
忽ち、ロビー中に存在する椅子や自販機、観葉植物は面白い様に砕け散って行く。殺したか、と事務員は思った――のもつかの間。
未だ止まぬ爆風から灰胴色の何かがビュンッ、と伸びた。ジャバウォックの腕だった。頭の三割近くが欠損した病院事務の顔面を、鋭い爪が生え揃った魔獣の掌がガッと掴み、
そのまま彼女の首から上をパン生地みたいに捩じ切った。如何に再生手術を施された者と言えど、頭を斬り飛ばされれば、無事では済まない。大抵の場合は死に至る。

 この野郎、と警備員が悪罵した。先程高槻に腹腔を抉られた警備員が怒りに任せ麻痺銃をジャバウォックに向ける。
しかしジャバウォックは、麻痺銃の弾体が此方に向かって行くのを認識した『後』で、爆心地から移動した。
誰が信じられようか、ジャバウォックは今、『弾より速く』移動していた。改造手術によって得た警備員の優れた反射神経ですら追い縋れぬ程の速度で、
残り三名の警備員から距離を取った魔獣は、その口から恐るべき業火を吐き出し、彼ら三人を炎に呑み込ませた。摂氏一万度に達する火炎は、断末魔すら彼らに上げさせる事を許さず、そのまま消し飛ばした。一握の灰すらも、残っていなかった。

 苦難はあったが、この場にいる人員を全員排除し終えたジャバウォックは、そのまま廊下を通り、魔力を溜めてある場所を探そうとするが――移動出来ない。
シャッターも鉄格子も降りてない。不可視の壁に遮られているかのように、その場からどれだけ手足を動かしても、ロビーから廊下の方面に出れないのだ。
それをジャバウォックは生前の経験から、何らかの念動力で生み出された力場である事を悟った。そして、その予測は正しかった。
ジャバウォックの移動を遮る物の正体は、重戦車の突撃をも苦も無く跳ね返す力場(フォース・フィールド)だった。、
メフィスト病院に収容されている患者の部屋は勿論の事病院にとっての要所を遮断するだけでなく、外敵を封じ込めると言う用途をも兼ねる。
透明な力場の向こうから、人型の機械が実に見事な足取りで此方に駆け寄って来るのをジャバウォックは認めた。そして、それが機械ではなく、機械の鎧を纏った人間であると即座に魔獣は看破した。

 先程ジャバウォックが鎧袖一触した軽機動服を簡易版とするなら、その機械の鎧は正規版の機動服と言うべき物だった。
正式名称は機動服(メック・ウェア)。内蔵されたソーラー核炉心から毎秒供給される千馬力のエネルギーを動力源とするパワードスーツだ。
百二十mmの対戦車滑腔砲の直撃を防ぎ切る十mmHGシリコン複合装甲が防御を担当し、内蔵されている武器についても、より強力な麻痺銃やレーザー・シャワー、
小型核とも形容される程の威力のスティックミサイルを内包など、攻防共に隙のない正真正銘の超兵器。それを身に纏った者達が、十人もジャバウォックの下へと向かって行くではないか!!

 死線を掻い潜った海兵隊は愚か、小型原子爆弾で脅しをかけても大胆不敵な笑みを浮かべる魔界都市の命知らず共ですら失禁する様な恐るべき光景を目の当たりにしても。
ジャバウォックは浮かべる表情は、狂喜のそれだった。「あの雑魚共は、あの程度の装備で、我に勝てると思っている」、そんな事を、この魔獣は思っているのだ。

 ジャバウォックはその爪を、不可視の力場に突き立てて、そのままグンッと腕を下げた。
誰が信じられようか。物理的な手段では破壊不可能である特殊力場を、まるで薄さ一mmもない薄氷を破壊するかのような要領で、この魔獣は裂いたのだ!!
だがこれに驚く様な武装警備員達ではない。理論上破壊不可能なものを破壊する怪物達が平然と姿を見せるのが魔界都市であった。この程度で驚くようでは、世話がない。

「撃て!!」

 警告なしの即発砲。生かしては返さないと言う凛冽たる意思を感じる命令だった。
そして放たれる、麻痺銃の弾体、シャワー状に放射されるレーザーガンの数々、冷凍ビーム。どれも全てが、先程の警備員が放ったそれよりも威力は上である。
それに直撃しても、ジャバウォックの威容には傷一つついてなかった。レーザーガンが、着弾した傍から体内に吸収される様に消えて行く。
冷凍光線はジャバウォックの纏う超熱の鎧に負けて無意味になり、有効かと思われた麻痺銃の弾体は着弾しているのに全く通用している素振りがない。
機動服に内蔵された次元レーダーでの解析の結果、今のジャバウォックは熱の他に極めて強い電磁波を身体に纏わせており、これが麻痺銃の高電圧をまともに機能させていないのだ。

「手の内は終わりか、ならば死ね!!」

 ジャバウォックの姿が霞と消えた。機動服に備わる速度検知システムが、ジャバウォックの移動速度を弾き出す。秒速一三六〇m。音の速度の、四倍だった。
此処で、機動服に備わる、人間の反射神経を凌駕する速度で移動する存在と対峙した時の機構が発動する。
機動服に貯蔵された、反射神経と身体能力を一括で向上させる特殊薬が動脈と静脈に注射される。機動服の警備員達が動いた。
ジャバウォックは真っ先に真正面の機動服にその爪を振り下ろした。音の速度を超過する程の速度で移動出来る怪物だ、当然攻撃の速度などもっと早い。
殆どギリギリに近いが、何とかその人物は、持っていた麻痺銃を防御代わりにする事で事なき事を得る。
麻痺銃がそのフォルムを保てたのはゼロカンマ一秒以下の短い時間の間だけで、それが過ぎたら哀れな程簡単に砕け散った。
質量兵器、熱的兵器が通用しない事を悟った警備員達は、攻撃のアプローチを変えた。纏っている超高熱が中々機能しにくい大質量をそのまま直撃させる攻撃か、
音波や波動を用いる兵器がこの場合有効であると彼らは決断を下す。麻痺銃が破壊されてから、この間、千分の一秒。

 両腕に備え付けられた空間震動装置のセーフティを解除、一斉にそれを、ジャバウォックの座標に彼らは発動させる。
Hiiiiiiii――――――――nnnnnnn…………。ジャバウォックの聴覚でも捉えられないような高い振動音が、さくかに、かすかに空間を振わせた――その刹那だった。
発動した震動は陽炎の様に魔獣の身体を押し包み、体内のナノマシン及び身体を構成する珪素分子を破壊しに掛かった。
空間はジャバウォックを中心に恐るべき速さで回転し、その渦の中に、魔獣の姿が蒼白い一等星の如く輝いていた。珪素分子が、電離化を始めていた。

 これには堪らずジャバウォックも吼える。機動服に備え付けられた超高速震動兵器は、威嚇用と殺傷用の二種類に分けられる。
低出力の状態では、細胞を麻痺させ神経を狂わせる程度にとどまるが、出力を其処から更に上げると生体組織を完全に破壊。
最大出力ともなれば砂や金属を瞬時に蒸発させ、空間と同一化し物理的な手段では干渉不可能な妖物すらも殺害出来る超兵器になる。
現在警備班らは、これを最大出力の状態でジャバウォックに照射していた。魔獣の身体は、砂岩が削られる様に粉々に砕け散って行く。
砲弾すらも跳ね返せそうだった堅牢さの珪素ベースの肉体はゼロカンマ一秒経るごとに破壊されて行き、一秒経つ頃には胸像の如く、腕と脚部のない状態のジャバウォックが床の上に転がった。

「破壊しろ!!」

 生け捕りにしメフィストの研究サンプルとして供すると言う事もこの病院ならではの処遇として存在するが、今回彼らは、ジャバウォックの抹殺と言う方針で動く事にした。
余りにも、目の前の金属生命体が危険過ぎると判断したからだ。この方針は、余りにも正し過ぎると言いようがない。ジャバウォックは、余りにも危険なサーヴァントであるからだ。

 そして彼らの不幸は――自分達が想定していたよりもずっと、ジャバウォックが危険な存在であった事を、知らなかった事であろう。

「学ばぬ奴らだ、その程度の攻撃で破壊の権化を砕けると思うな!!」

 胸部だけになったジャバウォックが、狂笑を浮かべそう叫ぶ。
すると、加速剤を注射され、一秒を百数倍にまで体感出来る程の反射神経を得た警備員達で漸く認識出来る程の速度で、ジャバウォックの四肢が、欠損した部位が。
見る見るうちに再生して行く。ナノマシンの再生速度は凄まじく、千分の一秒に達するかと言う程の速度でジャバウォックは元の姿に戻ってしまった。

 今も恐るべき震動兵器を照射させているにも関わらず、ジャバウォックの身体は崩壊するどころか、身体の表面を一mmたりとも剥離させる事が出来ていない。
「此方の震動波を中和する振動を身体に纏わせているぞ!!」、警備員の一人が叫ぶ。これでは此方側の震動兵器は通用しない。
これを超える程の兵器となると、メフィスト病院の常時閉鎖中の倉庫にしまわれた『神経破壊砲(ニューロン・デストロイヤー)』や『遺伝子攪乱装置(DNAイーター)』、
と言った禁断の兵器を稼働させる必要がある。現在この兵器はジャバウォックの襲撃を受け、内蔵された超小型原子炉(マイクロ・ビルトイン)にエネルギーを注入中であり、後数十秒で発動される筈だ。それまで警備員が、そして病院が持つかは解らないが。

 超心理防衛網の発動を視野に入れて欲しいと、通信機で病院上層部に警備員のリーダーが告げる。
その間何としても彼らはジャバウォックを食い止めねばならない。ジャバウォックが動いたと同時に、シューッ、と天井のスプリンクラーから水ではなく、
白色の気体がジェット噴射の要領で噴出され、廊下にそれが充満する。一デシリットル程の分量で十万人もの人間を昏睡させる程の神経ガスだ。
更にそれだけでなく、マッコウクジラを千分の一秒で昏倒させる神経麻痺線を照射する麻酔銃の銃身も、天井や壁から顔を出しており、それが一斉にジャバウォックへと掃射される。

 ジャバウォックが哄笑を上げながら、岩を削って作った様な太く巨大な腕を振った。
総重量一トン、最大で千トンの衝撃に耐えうる耐久性を持つ機動服を纏った人間が、紙屑みたいに吹っ飛んで行き、壁に思いっきり衝突。
廊下が激しく、衝突に揺れと言う形で答えた。機動服は拉げ、其処から血がじくじくと流れている。内部の人間が霊的手段で、外部装甲に傷を負わせず内部の人間にだけダメージを与える攻撃を受けたとしても、機動服内部に内蔵された小型医療センターがその傷をオートで治療するのであるが、あれでは衝突エネルギーと急激に掛かったGで、即死であろう。

 充満する神経ガスが全く通用しない、ナノマシンが万分の一秒単位で、神経毒に対する抗体を作り、無効化してしまうからだ。
麻酔線も同様で、科学的アプローチではまるで、ジャバウォックを害せない。いよいよを以て、霊的・魔術的手段による抹殺を視野に入れねばならぬ段になってしまった。
と思ったその時、ジャバウォックもその力の一端を初めて、この場で開帳した。
ジャバウォックの双腕に一秒を経ずして、ハリネズミの体毛のような突起物が幾つも生え並らび、それが超高速で、警備員の方面に射出される。
ピシュンッ、と言う音を立てて針が機動服に命中、根本まで機動服に突き刺さるが、そもそも針の長さ自体が大したことがない為、生身の部分には至らない。
威力のない攻撃だと、この場で楽観視する者はこの場に一人もいない。メフィスト病院のテクノロジーの粋の一つである機動服を破壊出来る怪物の攻撃。
それならば、何か裏がある筈だと、誰もがそう思っており――そしてその予測は何処までも正しかった。内蔵された検知システムが、突き刺さった針を中心に、莫大なエネルギーが爆発し出しそうなのを捉えた。エネルギー源は、他ならぬ刺さった針だった。

 ボォンッ、と言う音と同時に、機動服が大爆発を引き起こした。
ジャバウォックの放った針は、ある種の小型ミサイルだった。ペンシルロケットよりもずっと小さい代わり、威力の範囲はあれよりもずっと低い。
但し、貫通力が極めて高い。熱さ数cmの鉄板程度なら、容易に根元まで入没する。外側は堅牢でも、中から攻撃されれば脆い物質と言うのが世の中殆どだ。
あの針は、極めて高いその貫通力で物質の内部に入り込み、その状態で爆発、その物質を破壊すると言う極めて小規模な対物ミサイルだった。
無論人体に放てば、その効果の程は推して知るべし。如何に堅固な機動服に身を包んだ男達と言えど、これには一溜りもなかった。

 機動服に身を包んだ警備員十人が、廊下で倒れ伏している。
殆どが致命傷を負い、気息奄々の体だ。ジャバウォックの放った魔弾、それが多く刺さったもの、刺さり所が悪かった者の被害は、特にひどい。
顔を破壊され、内臓が外部に露出し、即死であろうと素人でも決断の下せそうな警備員は、事実死亡していた。
残る者は辛うじて生きていると言う状態だ。機動服に備わる医療センターが、まだ稼働している証拠だったが、死亡した警備員と最早何の差もない。どの道ジャバウォックに殺されるか、医療センターの治療が間に合わず死を待つだけに過ぎないのだから。

「つまらない足止めを……我を殺したければこの病院の全てを掻き集めるのだな」

「ならばそうさせて貰おう」

 ――白い稲妻が、身体を貫く様な感覚をジャバウォックは憶えた。白い稲妻が、臓腑と大脳を穿つような感覚を、瀕死の警備員は憶えた。 
皆が、目線の位置を、先程警備員がやって来た方面の廊下に向けた。今も噴出を続ける白色の神経ガス。
それは最早、冬の寒い早朝に起る濃霧めいた有様で、一m先すらも最早見渡せない程、廊下と言う廊下を埋め尽くしていた。

 その神経ガスの霧の中にあっても、その人影は、白く見えた。
白の中に白を混ぜても、目立たないと誰もが思うだろう。事実は違う。その人影は、何よりも白すぎた。
余りにも際立った純白の為、神経ガスの白が、土と混ざった白雪の様に汚れて見えるのである。本物の白は、あらゆる色の中にあっても目立つもの。それが例え、同じ白の色の中であろうとも。

 人の形をした白が、どんどん此方に近付いて行く。
その度に、神経ガスの濃さがどんどん薄くなって行く。いや、違う。ガスは中和されて薄くなって行くのでない。
紅海を渡ったモーセが海を割った伝説が如く、その人物が此方に近付けば近付く程、両脇に分かれて行き、廊下の壁の方に蟠って行くのだ。
まるで、それが礼節であるかのようだった。この人物が歩みを始めれば、たとえ目の前に地獄の業火が百万㎞に渡り燃え上がっていようとも、炎の方が礼儀を覚え、彼が歩みを始める方角から真っ二つに割れてしまうであろう。

「院……長」

 苦しげに呻く警備員の声音には、恍惚とした響きがあった。魔界都市の生ける伝説であるその男の姿を見て、彼らは法悦の感で満たされていた。
現れた男の姿を見たジャバウォックの、珪素の顔に、驚愕が刻まれた。身体の中の高槻と■■■が、その白い闇の威容に、全ての言葉と感情を喪失していた
宇宙が開闢してから、この男以上に美しい存在など、この世に現れた事がないであろうと確信させる麗姿の持ち主だった。
天の彫刻師が生命を掛けて彫り上げた様な、秀麗比類なき美貌、それを作り上げる為だけに神は幾千億もの人間を試作したと言っても説得力のある、優れた身体つき。
踝まで届く程の長さのケープは、絹が泥を吸った毛糸にしか見えぬ程白く、それこそが、ジャバウォックが純白の物質であると判断したものの正体だった。
宇宙の暗黒の様に幽玄な黒髪を長く伸ばし、美麗極まるその顔つきを持ったこの男。太陽や月をも後光として従える純白のカリスマを放つこの魔人は、彼の魔界都市の神話において語られた名前で呼ばれるのが、相応しいだろう。

 彼こそが、ドクターメフィスト。
神も悪魔も恐れる魔界医師。魔界都市の神髄を体現する三魔人の内の一人、<新宿>における生の具現であり、『死』の体現でもある男だった。

「生存者は四名か」

 一目見ただけで、メフィストは、この場にいる生存者の数を認識した。

「医境の極致に辿り着いた私とて、死者の蘇生は出来ぬか。腹ただしい事だ」

 そう言ってメフィストは懐から、長さ二十cmに正確に切断した黄金色の針金を四本取り出し、それを、生き残っている四人に放擲する。
破壊された機動服から露出する生身部分にそれは突き刺さる。すると彼らはそれまで負った重傷が嘘の様に癒えて行くではないか。
露出した内臓が引っ込んで行く、傷口が塞がって行く。ただの針金に、どれだけの力が、備わっていると言うのか。ナノマシンが機能して生身が回復するよりも、ずっと早い。

「後は私が処理する。お前達は医療班の所に行き、細かい傷を治して貰え」

「は、はいっ」

 そう言って警備員達は、逃げるようにその場を後にした。
メフィストの美しい形を留めていたい、と言うのは、この病院に勤務する医療・警備スタッフや用務員に至るまで抱く共通の願望である。
給与も存分に貰っている彼らが、金よりも欲しいと思う物こそが、メフィストの賛辞、そして彼の姿を目に焼き付かせるだけの時間。
今逃げた警備員達とて、そんな願望を抱いている。それなのに彼らは、その場から退避するように逃げ出した。何故か?

 ――メフィストの眉間に刻まれた、険しい皺の故だった。その深い皺は、鑿を当てて刻んだかのようである。
この病院に努めて長いあの警備員達ですら、メフィストのあの表情は見た事もなかった。こんな、露骨な怒りの表情など、浮かべる様な男だとは思いもしなかったのだ。
これから起こる壮絶な出来事を恐れ、彼らは逃げ出したのだ。それを情けない、と諸人は嘲り罵るかも知れない。
だが、この病院で働く全ての存在は、知っているのだ。上は副院長、下は単なる用務員に至るまで、この事柄だけは胸に刻み込んでいる。
病院の厳戒態勢である、超科学防衛線や超心理防衛網、そして心霊最終防衛圏。最後の防衛圏こそが最強の防衛体制だと思われているが、実は違う。心霊最終防衛圏の全容は誰にも解らないが、実はこの更に上の防衛体制が何であるかは、皆は知っているのだ。この防衛体制は秘密になっていないどころか、魔界都市に於いても公然たる事実。

 メフィストである。
この病院が有するどんな厳戒態勢、どんな防衛システムよりも――メフィストただ一人が出て来ると言う事。それこそが、最も恐ろしい事柄。
メフィスト単騎以上の厳戒態勢防衛システムは存在せず、そしてこの病院が有するどんな兵器どんな魔術礼装も、この魔界医師たった一人に比べれば、取るに足らない玩具なのである。言い換えれば、メフィスト病院にとってはメフィストたった一人こそが、真の最終兵器と言う事になるのだった。

「我が憎いか」

 ジャバウォックが言葉を発する。
メフィストの美は、憎悪の化身たるジャバウォックの意識をも奪っていた。其処から復調し、漸く発した言葉が、それである。

「多くは語らない。だから、一つだけ告げておこう」

 水を打ったような静寂が支配する廊下の中で、メフィストが言った。
神経が焼き切れそうな程の緊張感もまた、この空間の主であった。一瞬で喉の中の唾液が渇いてしまいそうな程の緊張感と重圧な静寂が支配する空間の中で、美魔の言葉だけが、夢魔の甘言の如くジャバウォックの聴覚を撫で摩る。

「殺す」

 魔界都市の住民が聞けば、自死を選んだ方がマシだと錯覚する程の、強い殺意の言葉を浴びせたその瞬間、両者は共に動き始めたのだった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 けたたましいサイレンの音が鳴り響いた時、佐藤十兵衛は柄にもなく、飛び上がるように驚いた。 
天子にしても、霊体化を解きこそはしなかったが、パスを通じてそれなりに驚いている事が解る。

 足立か葛飾か荒川区辺りのクソガキがノリで火災警報器を押したのかと十兵衛は思った
しかしそれにしてはサイレンの雰囲気が異様だし、もっと如実なのは、このサイレンを聞いた時の、病院スタッフ達の反応だった。

 それはまるで、戦時下の空襲警報を聞いた国民か憲兵の様な反応だった。
鳴り響くサイレンを聞いた瞬間、院内を歩く看護婦や看護士、白衣を着流す如何にもなエリート風の医者から、点滴を持って歩く患者と歩きながら談笑していた老医に至るまで。
電流でも流されたように硬直した、と思ったのもつかの間。まるで失敗の許されない手術に立ち会っているかのような表情へと変わり始め、全員が走り始めたのだ。
点滴を持つ患者と談笑していた老医は、「申し訳ございませんがこの部屋で待機するようお願いいたします」、と言い、有無を言わさず患者を近くの部屋へと閉じ込める様に追いやった。

 どうも様子がおかしい、と思ったその時、十兵衛から見て十数m左先にある、業務用のエレベーターと思しき所から、信じられない者が降りてきた。
服装自体は、契約を交わしてる警備会社の見回り社員が着ているような服装と大した違いはない。問題は、明らかに銃器を持っていると言う事だった。
遠目から見ても、エアガンのようなチャチな代物ではない事が良く解る。明らかにあれは、本物だけが持つ凄味と質量感を有していた。

【十兵衛、あれどう考えてもおかしいわよ】

 そんな事は十兵衛だって解る、と言うより今の光景の異常さが理解出来ないのは聖杯戦争の参加者以前の問題として、人としてどうかしている。
確実に何か、医療トラブルとは別の緊急事態があった。それを示す何よりの証左だった。

「其処の貴方、安全が確認されるまで手近な部屋で待機していて下さい!!」

 と、走り回る看護師の一人が十兵衛に対してそんな言葉を投げ掛けて来た。

「解りました!!」

【従うの?】

【お前を従えてるのにちょっとやそっとの騒動で尻尾巻くわけないだろ、無視して原因だけ確かめるぞ】

 十兵衛がこんな強気な行動に出るのは訳がある。事態が、十兵衛の予想としていた理想の展開のレールから外れ始めていたのが原因だ。
先ず、午前十二時に、これまで発布されていたセリュー・ユビキタス、遠坂凛の討伐令の他に、また新しい討伐令が発布された。
討伐令の対象となった存在は、ザ・ヒーローと言う名前――通り名であろうと推測している――の青年と、それが従えるバーサーカー、クリストファー・ヴァルゼライドだ。
討伐令の理由となった罪状が、先の二名とは一線を画する。大量殺人や<新宿>の破壊もそうだが、明確に彼らはルーラーに反旗を翻した。
その意趣返しだろう、開示された情報量が明らかに先の二名に比べて詳し過ぎる。此処から読み取れる事は二つ。
一つ、ルーラー達は参加者の跳ねっ返りを認める程度量の広い存在ではないと言う事。つまりは、余程の事がない限り、彼らの機嫌を損ねる事は悪手と言う事だ。
そしてもう一つ。ルーラー連中は最低でも、ヴァルゼライドと言うバーサーカーレベルなら対処出来る程度の強さ或いは能力を持っていると言う事だ。要するにルーラー相手には、今の所は慴伏の意を示しておけば先ず間違いはない。

 増田の経過を待っている間に舞い込んできた情報はこれだけじゃない。実はもう一つ、十兵衛の方からLINE経由で連絡があったのだ。差出人は、葛葉ライドウ。
あの恐るべき強さのセイバーを引き連れる、天子の見立てでは自分と戦っても渡り合える事が出来る程度には強いマスター。早い話、超人(かいぶつ)の書生である。
此方の情報の方が、十兵衛に与える影響が大きかった。結論を言えば、セリュー或いは遠坂凛のどちらかを襲撃すると言う計画はいったん先送りすると言う物だった。
ライドウがそう提案した理由はシンプルで、セリューと遠坂が引き連れているサーヴァントとは違う、謎のサーヴァントに襲撃されたからだと言う。
退けはした、と言う文面もあったが、恐らくこれについては嘘はあるまい。何故、襲撃された事と計画を先送りする事が関係するのかと言えば、単純明快。
戦っている間に、遠坂もセリューも共に拠点を移動したからだそうだ。この二名の追跡が完了し次第、再び追って連絡する、そうライドウは告げたのだ。
戦わなくてラッキー、と思うのが常だろうが、十兵衛はそう思わなかった。と言うよりこの選択が一番困る。
そもそも十兵衛がメフィスト病院に増田を搬送させた理由は、遠坂とセリューの主従と戦うと言う当初の約束をサボタージュする為だった。
サボった上に、しかも令呪まで貰おうとする。通常そんな虫のいい話はない。だから十兵衛は一つの腹案を考えていた。
つまり十兵衛は、令呪のお零れに与る代わりに、此方はメフィスト病院についての情報を提供する、と言うギブアンドテイクの関係を形だけでも整えようと画策していたのだ。
結局これは失敗だ。襲撃計画が先送りになった以上、ギブアンドテイクの関係は成り立たず、結論を言えば十兵衛だけがあの同盟の中で危険な橋を渡っている状態になる。
メフィスト病院は此方が想像していた以上に危険な場所であり、選択を誤れば此方がどうなるか解ったものではない。十兵衛は、相手に危険を担保させ自分は利益を掻っ攫うと言うハイエナ作戦が大好きである。自分だけリスクを背負う、と言うのは美学に反するのだ。

 意地でも戦闘は回避する。但し、パイだけは奪いまくりたい。
その為に十兵衛が出来る事は、有益な情報を集めると言う事だ。こう言った参加人数が決まっているある種のサバイバルにおいて、
情報は確かに値千金にもなり得る素質を秘めた資源ではあるのだが、これが価値を持つのは序盤から中盤までである。
参加人数の減った終盤戦において、最早情報と言う物は大した意味もなくなる。場が煮詰まり、大抵の参加者はもう互いの事を知っている事の方が殆どだからだ。
可能な限り有益な情報を序盤の裡に集め、それをとっとと売り払い、此方はパイを集め、終盤までにそれを温存し、無傷に近しい状態を保ちたい。
それこそが、十兵衛の理想とする聖杯戦争の勝ち残り方だ。であるならば、今回メフィスト病院に突如として起った何かは、此方としても有益な情報になり得る可能性があるかも知れないのだ。多少の危険を冒してでも、その正体を見極める必要があるのだ。

 看護師に対して従順の意を示したが、無論十兵衛としては無視する気で満々だ。
適当な部屋に向かうフリをして、騒ぎの渦中へと向かって行く。十兵衛は、病院に勤務するスタッフ達の動きから、騒動の原因が何処なのかを粗方察知していた。向う先は、一階のロビーであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「鈴琳先生は戦えますか!?」

 サイレンが鳴り響き、これは何だと推理する前に、メフィスト病院に勤務する薬剤師の一人から聞かれた事柄はそれだった。
鈴琳と言う名前は、この病院における永琳の偽名だ。永琳と、弟子だった玉兎の一人である鈴仙・優曇華院・イナバの名前を合体させた超適当なその場凌ぎの名前である。
そもそも、八意『永琳』と言う名前自体、永琳にしてみれば本当の名前ではない。彼女の本当の名は、八意XX。
地上の人間には、彼女の本当の名前は神代の言語に等しい為、発音が出来ないのだ。故に、便宜上八意永琳と言う地上の人間にも発音しやすい名前で地上で生活。そっちの方が結果として有名になってしまった。地上での偽名が真名になっているに過ぎない為、彼女にとっては『名に関わる呪いや魔術は一切通用しない』のであるが、それでも念には念をだ。保険として、この病院で実体化して働く際は、鈴琳と言う適当な偽名で通しているのだった。

「弓術には少し自信が、と言う程度ですが……」

 と、当たり障りのない玉虫色の返事を永琳としてはする他ない。そうですか、と薬剤師が残念そうな顔をする。

【アーチャー、もしかして……】

【安全だと思ってタカを括ってた罰が当たったのかしらね? マスター、戦闘になるかも知れないわ】

 パスを通じて驚きの感情が伝わってくる。
サイレンが鳴り響いた後に、血相を変えてこのような事を訊ねられれば、病院で医療トラブル以外の何か逼迫した出来事が起こったのだろう、と言う事は子供でも解る。
しかも、相当な荒事を伴うと言うおまけつきだ。そうでなければ勤続年数の長いスタッフがこんな事を訊ねる筈がなかった。

「私に出来る事があれば、お手伝いしますが」

「患者の身の安全を確保する事を第一にお願い致します」

 医療関係者の模範的かつ理想的な返事である。上辺だけでなく本心から言っているのが良く解る。
メフィストと言う男はプライドだけでなく、こう言った教育も徹底的に済ませるタイプらしい。

「解りました。そちらを最優先致しますが、事と次第によっては此方も援護をいたしますわ」

「了解しました!!」

 そう言って薬剤師は、受付の前で混乱状態の患者達を、手近な部屋へと案内する。薬剤師達の休憩室、詰め所にまで案内する辺り、事態は相当危ない所にあるらしい。ある程度は、腹を括らねばならないようだった。

【マスター、今から私の言う二つの事を厳守なさい】

【う、うん】

【一つ、絶対に私から離れない事】

 これは永琳としては絶対条件だった。
アーチャークラスの特権である単独行動は、魔力の消費を抑える効果の他に、その名が示す通りマスターが不在の状態やマスターから遠く離れた所でも、
ある程度の行動を保証出来るスキルだ。つまり、マスターよりも遥かに優れたサーヴァントに、ある程度の自律性を持たせて自由に行動させられる、
と言うのがこのクラスの利点でもある。――だが、現状のマスターではこのメリットはメリット足り得ない。それどころかデメリットにもなる。
マスターから離れて行動すると言う事はこの間マスターは、サーヴァントと言う一番信頼出来るボディガードが不在の状態である事と同義である。
マスターが凄く強いと言うのならいざ知らず、志希レベルでは嬲り殺しがオチである。少なく見積もっても、あの紙袋のランサーのマスターと同じレベルの強さでなければ話にならない。よって、距離を離して行動する等以ての外。永琳のこの提案は至極当然の物と言えた。

【二つ目。もしも戦闘に陥って、魔力の不足を感じたら、迷わず貴女に与えた薬を飲みなさい】

 と言って志希は、自分の白衣ではなく、制服の懐の辺りをまさぐった。
其処には、患者の処方薬を調剤する際に、余分に薬剤を取り出し、それを調合して作った薬が隠し持たされている。
効能は、魔力の回復及び、余剰魔力の充填のそれ。これ以上の物は、此処にある薬剤の関係上作れなかった。折を見て永琳は、メフィストと交渉、霊薬の材料を工面するよう後で舌戦を繰り広げるつもりであった。

【どっちも常識の範囲内の奴だね】

 と、志希が言う。その通り、今しがた永琳が言った事は、再度念押しするまでもない。
戦闘手段を持たぬまま聖杯戦争にやって来てしまったマスターが徹底するべき、基本の事柄なのだ。
基本だからこそ、改めて説明した。今回が、もしかしたら初めての荒事になるかも知れなかったから。

 そうと決まれば、此処を離れる必要があるだろう。
今回のトラブルでの永琳達の活躍次第では、霊薬をも作成出来る可能性が高まる。そうなれば聖杯戦争を有利に進められる可能性が極めて高い。
ある程度の頑張りを誇示出来る絶好のチャンスだ。志希らは急いで、調剤室から飛び出した。

「……アーチャー達か」

 と、自分達の事を言っている以外考えられない言葉を聞いて、永琳がその声の方角を振り返る。
其処には、あの紙袋のランサー、ファウストを霊体化させて従える、不律老人が其処にいた。懐に隠した刀は今や、隠す必要もないのか。誰が見ても露な程、外界に晒した状態でいる。

「これは不律先生。貴方ももしかすると」

「唐突に、戦えるか、と聞かれた。アールツト(医者)も戦うのかと聞いたが、この病院で戦えぬ医者など医者じゃないと言われたわ」 

 実に笑ってしまう程理不尽な理屈だが、如何やらそれは真実であるらしい。尤も、不律自体刀をおおっぴらに持って院内を歩いていたのだ。
戦闘なんて出来ないか弱い存在ですアピール――猫被っていたと言う――をしていた永琳以上に、戦闘がこなせるのだろうと見られるのは、当然の帰結だった。
周りを見ると、永琳達が道すがら見ていた医療スタッフや、先程まで同じ薬科で働いていた薬剤師まで、各々銃器や刀剣類を持ち、厳戒態勢に入っているではないか。

「何て言うかもう……ハリウッドの世界って言うか……」

 志希が驚きと呆れが半分混じったような感情からこう呟いた。
永琳としても、マスターがこんな風な声のトーンで呟くのも無理はないと思っている。実際永琳も相当呆れている。
光景が、余りにも戯画的じみている。病院のロビーに設置してあった自販機やウォーターサーバーなどを見た時も、魔術師の領地にあってはならない物を、
平然と設置するメフィストの精神性に半ば呆れていたが、緊急事態時に出動する部隊も、恐ろしく現実離れしていた。志希の言うように、今の様子はハリウッドの映画宛らだ。
緊急事態時に、勤務するスタッフが銃を持ち厳戒態勢に当たる。フィクションの中でしかあり得ない出来事が此処では平然と起っている。
しかも、直近の業務用のエレベーターが開いたと思ったら、パワードスーツと呼ばれる大仰な機械の鎧を纏った人物がぞろぞろと降りてきて、各場所へと走って行っている。
これも、警備に当たる人員であると言うのだろうか。流石の不律も、これには唖然としているし、霊体化しているファウストも、顔こそ見えないが驚いているのが伝わる。志希など言わずもがなだ。

 ――これだけ警戒に当たる必要がある、と言う事よね――

 銃器に、現代の科学水準では考えられない装備の数々を持って来ると言う事は、要するにそう言う事だ。
明らかに、事態を引き起こしている存在は、メフィスト病院のテクノロジーを武力活用しなければどうにもならない相手。とどのつまりは、サーヴァントである可能性が高い。
永琳はその凄まじい思考速度で考える。これだけの事態、拗れれば当然メフィストがやってくる蓋然性が高い。あの男は永琳個人の問題として、気に喰わない。
永琳は自分より格下や取るに足らない存在には素っ気ない素振りや無視と言う態度を行う事が多く、要するに眼中にないのである。
逆説的に言えば永琳が気に喰わない存在と言うのは、心の何処かでその実力を高く評価していると言う事も意味する。でなければ敵対心など抱く筈がない。
そんな気に喰わない存在の実力を、見定められると言う機会。活かしたい。可能な限り、メフィストを現場に引っ張りだし、どう言う戦い方をするのかと言う事を彼女は見極めたいのだ。それはかなり厳しい事だとは解っているが、それでも、である。

 兎に角、患者達の収容を急ごう、と口に仕掛けた、その瞬間だった。
永琳は、己の身体の毛が総毛立つのを感じた。雪を塗して冷たくした刀身で、身体を突き刺されたような恐怖。胃に小石を詰められたような、息苦しさ。
本物の神霊とコネクションを持っていた永琳ですら、これなのだ。況や、不律、況や志希など、言うに及ばず。鬼気の感じた方向に、目を凝らさせる。
パワードスーツ、もとい、メフィスト病院での呼び名を機動服と呼ぶ服に身を包んだ者達も、移動を止め、その場に佇んでいた。彼らもまた、不律達同様、蛇に睨まれた蛙の状態らしい。

「其処を退(の)け、下郎」

 聞くだけで、男を射精させ、腎虚にすら陥らせる程艶やかな声が聞こえた、次の瞬間だった。
重量一トン、千トンもの衝撃に耐えられる程の機動服に身を包んだ警備員が、人形の様に吹っ飛び、天井と激突した。
激突するよりも速く、機動服の男は身を包んだその機鎧ごと、四肢や胴体をバラバラにされており、天井にぶつかる頃には五体が形を留めた状態ではなく、トルソー(バラバラ死体)の状態であった。

 激突する音が遥かに遠い。音が、礼儀を弁えている。永琳はそんな事を思った。
或いは、目の前の女の不興を買うのが恐ろし過ぎて、物理法則が、物と物とがぶつかれば音を立てると言う当然の理屈を捻じ曲げているのだ、と言われても今なら納得が出来る。

 ――それ程までに、目の前の女が美しかったからだ。いや、美しいと言う言葉すら、最早彼女の前では使う事が失礼にあたる。
美しいと言う言葉は、彼女を表現出来る修辞技法(レトリック)がこの世に存在しない為、仮に使っているだけに過ぎない。
彼女の美を表現する方法は、宇宙が死を迎えるその時までもう存在しないだろう。彼女と言う存在を、永琳達はあるがままに感じる事しかもう出来ない。
冷えた林檎や熟れた桃、たわわに実り垂れ下がる葡萄を思わせるような果実にも似た香気を発散させたその美女の。
自由を謳歌するが如き、腰まで伸ばした黒い髪と、美神ですらも嫉妬を覚える程の白く輝くその美貌の女の正体を。
美しさにフリーズを起こしながらも、永琳は理解してしまった。あれは、神霊の対極(アンチ)にあたる存在だ。神の対極に当たる存在は、悪魔ではない。悪魔は神の被造物であり、神の権威を際立たせる必敗の輩である。神の対極に当たる存在を表現する言葉はない。表現する言葉がないから、神の対極の存在としか、言えぬのである。

 漸く起った事変を認識し、我を取り戻した機動服が、手にした兵装の銃口を、白い衣装の女性に向け始めた。
二十代にまだ到達していないか、その少し上だろうと言う若さの女が、空気でも払うかのように、その繊手を振った。
凄まじい音を立てて、銃口を向けていた機動服の警備員三名全員が粉々に砕け散った。遅い動き、と余人には見えたかも知れない。
実際には違う。余りにも速く振い過ぎたせいで、逆に遅く見えるだけなのだと永琳だけが気付いていた。実際あの美女は、スーパースローモーションカメラでも持ち出さない限り、その実際の速度が解らない程の速度で腕を振っていた。志希達が見た女の繊手は、残像だった。

 美女が近付いてくる。あれだけ警備員を惨たらしく殺したと言うのに、その純白の衣服には血一つ肉片一かけらも付着していない。血肉は今も宙を舞う。
貴人の服は汚してはならない、社交界における当然の礼儀であるが、あの女程極まった存在になると、何者も汚せなくなるようだった。
通路を歩いていた医療スタッフや、聖杯戦争の関係者である志希や不律が、凍結した様に動けないでいる中、真っ先に動いたのは永琳だった。
四次元と三次元の隙間から和弓を取り出し、自らの身長の半ば以上もあるその弓に矢を番え、発射する。
此処までのプロセスを、彼女は瞬き以下の速度で行い、これと同時にファウストが初めて霊体化を解除した。

「ほう」

 そう美女が嘆息する。
永琳の放った矢は軌道上で白色の極光に包まれ、矢と言うよりは、一本の光の線(レーザー)になって、女の胸部に突き刺さった。
余りの貫通力の故、女の肺腑をズタズタにするだけでは飽き足らず背中から鏃が貫通する。如何なる威力であったのかを、余人にそれを知らせしめよう。

 即死の筈である。永琳は一目見て、目の前の存在が吸血鬼であると言う事を見抜いた。
但し永琳が知る、幻想郷に君臨していたあの生意気な小娘の吸血鬼とは、その格が違う。あれもまた純正の吸血鬼であり、貴種と呼ばれるに相応しい存在ではあった。
自身の事をレミリアと名乗っていたあの吸血鬼の事を知っていてなお、断言出来る。目の前の女吸血鬼は、『別格』。この女は吸血鬼であって吸血鬼に非ず。
貴族と呼ばれる吸血鬼とも、死徒と呼ばれる後天的な吸血鬼とも違う。生まれた時から純粋かつ完璧な吸血鬼の事を、真祖と呼ぶ。
目の前の存在は間違いなくこれに当たる存在であるが、何処かが違う。まるで、一種一人しか存在しない究極の何かを目の当たりにしているような気配を、永琳は感じているのだ。

「大した弓術じゃな、女。貴様らが印度と呼ぶ国で昔戦った、アルジュナと言う小僧が私に使って見せた技によく似ている」

 背中まで鏃が貫通しているのにも関わらず、彼女は恬淡とした態度を崩しもしない所か、永琳の弓術を褒めさえした。
よく見ると、衣服に血液が付着していない。矢が貫通しているにも拘らず、だ。

「吸血鬼の苦手な陽光と、流れ水の属性を纏わせた一射だったのだけれど」

「浅はかな女よ。真の吸血鬼は陽光すらも超克する。私を死なせるには殺すでは足りん。滅ぼすでも尚足りん。何故なら私は、不滅の存在なればこそ」

「つまらなそうな人生を送ってそうね、貴女」

 第二射を番える永琳。吸血鬼のサーヴァントの言う通り、先程の一射には、吸血鬼が苦手とする属性を魔術で創造し、それを内包させて放った。
純正の吸血鬼でも、年の若い存在であるのなら先程の一射の直撃を受ければ、再生機構は無効化、無敵とも称される夜の吸血鬼であろうとも、無事では済まない筈なのだ。
これが通用しないとなると、それこそ、永琳の無数ある魔術の中でも、対軍規模レベルの宝具以上の威力の物を持ちださねば話にならないだろう。

「二人がかりで倒せそうですかな、アーチャー」

 ファウストが訊ねる。紙袋の奥の、発光体の眼球が弱弱しく輝いていた。

「六割かしら。勝率がね」

 此方の方が有利であるらしい。逆に言えば、永琳とファウストと言う優れたサーヴァントが二人がかりでも、四割の確率で負けると言う事でもある。

【マスターッ!!】

 永琳が念話で思いっきり叫んだ。
「ひゅいっ!?」、と言う声を上げて志希が飛び上がる。志希からして見たら、拡声器を耳に当てられ思いっきり叫ばれたような感覚だ、当然飛び上がる。
しかし、こうでもしないと志希が到底復帰しないと解っていたからこそ、永琳は今のような処置を取った。
不律は漸く地力で復帰しかけたようだが、志希は完全に目の前の吸血鬼に魅了されていた。吸血鬼は小技として、魅了に関わる魔術を覚えている事が多いのだが、
目の前の存在はその術を使ってすらいない。使わずして、志希は愚か不律をも魅了し、サーヴァントの身であるファウストと永琳ですら忘我の域に誘ったのだ。
これで魅了の術を使っていたらどうなっていたか、想像もしたくない。その志希を魅了された状態から復帰させる為の、精神感応の術も今の叫びに込めていた。当然復帰する。

【ご、ごめん!! 意識が全然……】

【私の後ろに隠れてなさい。それより、あの存在、貴女の目にはどう映ってる?】

【えーと……ライダーのサーヴァントで……】

 此処まで聞いただけだが、永琳は大いに驚いた。サーヴァントであるらしい。あれが、だ。あり得ない話だ。
聖杯戦争に使われる魔力程度では、正真正銘本物の神霊や、数千年の時を生きる幻想種は召喚出来ない。永琳は自らそう推理していた。
断言しても良いが目の前のライダーは、聖杯戦争には絶対に呼ばれない、いや、呼ばれてはならない存在である。そもそも、座に登録されているかどうかすら危うい。
当初永琳は、あのライダーは召喚と言うプロセスを経ないで、自力でこの世界にやって来たサーヴァント以外のイレギュラーではないかと本気で思っていたが、
どうやらそうではないらしい。サーヴァント、それも、桁違いのステータスを誇る、と言うおまけつきだ。今志希はライダーのステータスを口にしているが、どれをとっても、怪物のそれ。幸運以外は正しく、超一級品のサーヴァントだ。

【良く解ったわ】

 言って永琳は、番えた矢を発射した。
矢が周りの時間流を局所的に加速させ、初速の段階で物理法則を無視した超加速を得させると言う芸当など、永琳にしてみれば朝飯前だ。
マッハ四近い速度で迫る矢は、放たれると同時に燃えるような白い光に包まれ、そのままライダーの方へと向かって行く。
蚊柱が邪魔だと言わんばかりの態度で、その繊手を振うライダー。パァンッ、と言う音と同時に、スタングレネードでも炸裂させたような光の爆発が廊下を包む。
距離にして十mあるかと言う程の短距離で、このライダーはマッハ四の速度で飛来する光の矢に反応し、面倒だと言わんばかりに破壊して見せたのだ。
今の一撃に永琳は、先の一射に倍する陽光と流水の力を込めていたが、直撃する前に砕かれてしまえば、微塵の意味もなかった。

「時間の流れを局所的に加速させ、矢を超速で、しかも一里二里程度では勢いが落ちぬ程の一射を放った。こんな所だろう」

 ライダーは、永琳の一射の正体を簡単に暴いて見せた。

「古き時代に生きていた、弓を能くする者は皆お前と同じ技を当たり前のように使っておったわ。アルジュナも、星座に祀り上げられたオリオンと言う男も、太陽を落として見せたゲイも。余りにも良く使われた技、意外性も何もない。つまらぬ」

「もっと上等な物を見たいのかしら? それを見た時が、貴女の滅ぶ時と解っていても」

 ほほほ、と上品な笑いをライダーが上げた。貴婦人と言うより、国を百も滅ぼして来た大毒婦だけが上げられる、死毒の笑いだった。

「『貴様を滅ぼせる技がある』、『冥府魔道に堕ちる時が来た』、『神の裁きを受けて見ろ』。幾度となく聞いて来た言葉よ。私の前に立った強者や聖人、魔術師共は皆同じような言葉を私に吐き、技の全てが尽きた瞬間、こう口にする」

「次に貴女は、こう言うでしょう。『やめておけばよかった』、と」

 不快そうに、ライダーの顔が歪んだ。正しく、永琳の言った通りの事を次に続けるつもりだったらしい。

「私に勝負を挑む命知らずも、そう言うの。自分の実力に自信がある者が失意に沈むのは、見ていて面白いわ。貴女なんか、特に面白そうね」

「言いおるわ」

 一歩、此方に歩んで行くライダー。
漸く、我を取り戻した医療スタッフが手に持った銃を構え始める。その瞬間、フォンッ、と、風が空切る音が静かに木霊した。
何が起こったのか、と推理するのもつかの間。複数人の医療スタッフの胴体に、朱色の絹糸を巻きつけた様な赤い線が走り始め、其処から彼らの身体がズルリと滑って行き、
床に落ちた。「ひっ!?」、と、志希が声を呑んだ。永琳とファウストは、攻撃の正体を掴んでいた。袖である。
腕を振い、ライダーの着用している白い衣裳の袖がスタッフに当たった瞬間、それが肉体を斬り裂いたのである。
中国に数多ある拳法の中には、袖を長く作っておき、長めに採寸したその袖を以て相手を打擲させる奇拳が存在すると言うが、このライダーは、それを扱えるらしかった。但し、人間が使えば良くて不意打ち程度に終わるそれも、彼女が使えば人体を破壊しうる恐るべき魔拳に姿を変えるらしい。

「女。貴様は如何にも興味をそそるが、今は捨て置いてやる。見れば、貴様らがあの耳障りな警報の原因ではないようだしの」

「……そちらが原因ではないのですか?」

 驚いたのはこの場にいる全員だ。今も鳴り響いているサイレン音、その原因は目の前のこのライダーであると、誰もが思っていたのである。
永琳ですら、そうであると信じて疑ってなかった。暴虐邪知が服を着て歩いているとしか思えぬ目の前の吸血鬼が、メフィスト病院に起った緊急事態の原因でなければ、何が原因であると言うのか。

「この病院は私の仮寓として使ってやっているに過ぎぬ。それに、魔界医師は敵対するよりも利用してやる方が都合がよい。貴様は知らぬだろうがな」

 メフィスト病院を利用する。その点に関しては、目の前のライダーも同じであるらしい。永琳も、そもそもは有利に聖杯戦争を進める言う目的で病院にすり寄ったのだ。
――だが、目の前の、気位が見るからに高く、誰が見ても邪悪その物な性格をしたライダーを、果たしてメフィストが受け入れるだろうか?
永琳は先ず、この点を疑問に思い、その後、明らかにライダーの口ぶりは、遥かな以前からメフィストの事を知っていた事を示唆するものである事に気付いた。

 その事を問い質そうとした、その時だった。
すぐ下の階から、途方もない量の殺意と魔力が荒れ狂い始めたのを、永琳達は感じた。志希ですら、ただならぬものを感じたようで、怯えた様子で背中にしがみついて来た。
永琳程魔術に秀でたサーヴァントが、ワンフロア上階や下階での魔力や妖気を探知出来なかったメフィスト病院。それであるのに、今や彼女ですら感じられる程大量の魔力が此方まで流入してくる。どれ程の事が、一階で起っていると言うのか。

「ほほ、何処の誰ぞがメフィストと事を争っているのかは解らぬが、あれを敵に回すとは愚かな奴。奴を敵に回して生きられる者など、私かせつら位しかおらぬと言うに」

 そう言ってライダーは、胸に突き刺さっていた矢を乱暴に引き抜き、それを床に抛り捨てた。血溜まりの広がったリノリウムの床に鏃がぶつかり、ぬめった水音を立てた。
床は呆れ返る程血で横溢していると言うのに、雪の如くに白いライダーの衣服には、やはり血の一滴も付着していなかった。

「生きておればまた相見える事もあろう。その首、時が訪れるまで良く洗っておけ」

 そう言ってライダーは、もう永琳やファウスト達など一顧だにせず、近場の階段を降りて行き、去って行った。
嵐のような存在だった。外見は、比類ない程美しい、それこそメフィスト以上の美の持ち主であると言うのに、その性格だった。
一言二言言葉を交わすだけで解る、邪悪な性根。あれは、呼ばれる事もあり得ないし、呼べる手段があっても呼ばれてはならない、そんな存在だった。
あんな怪物が、如何してこんな場所にいるのか。永琳達にはそれが解らなかった。あらゆる生命に対する反存在、そんな者を、メフィストが許す筈などあるまいと言うのに。

「吸血鬼の知己は私にもいましたが……あれ程凶悪ではありませんでしたな」

 と、口にするファウスト。永琳も同様に、吸血鬼の知り合いがいるにはいたのだが、あそこまでは酷い性格はしていない。精神の幼さは、どっこい、と言った所だろうが。

「何れにせよ、今は彼らの治療を優先するべきだろう」

 不律がそう言って、先程ライダーが袖で切断した医療スタッフの所へと駆け寄った。
彼らにはまだ息があり、そして、不律の従えるサーヴァントは医術の心得があるサーヴァント。救った方が良いだろうと判断したのだ。
永琳達の方も、彼らに駆け寄った。負傷者を救うと言う意識の他に、メフィストと話を付けられるだろうと言う打算があったからである。
志希は遅れて、永琳の方に近付いて行く。突如として起った、魔境の光景。未だそれから、覚めやらぬ様子であるのは、明白なのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 神代の時代から生き続けているのではと思う程の大魔道師、ドクトル・ファウストに師事したメフィストは、ファウストの英才教育と、自身の天賦の才。
そして、あくなき探究心から遂に、空間の謎を解き明かす事に成功。これを、メフィスト病院の至る所に応用する事に成功した。

 例えば、地下に降りた筈なのに、いつの間にか屋上に移動していた、と言う現象を起こす事も。
倉庫に入ったと思ったら、ドアも窓もない、出入りする場所が何処にも存在しない、四方が壁の場所に飛ばされたと言う現象を起こす事も。
十m四方しかない部屋を、空間を拡張させて一㎞四方の極めて広大なフィールドに拡大させる事も。全ては、空間操作の応用だった。
メフィスト病院の内部が見た目以上に広く感じるのは、至る所に空間に関わる方程式を応用させているからに他ならない。全ては、医療スタッフが気持ちよく、そして効率的に働けるように。そして、患者が満足の行くサービスを享受出来るように。メフィストは、患者にとっては海よりなお深い慈悲を持った、聖なる者であった。

 ――そしてメフィストは、患者とスタッフの為の技術を、敵対者の抹殺に利用していた。

 両肩の辺りに、戦闘機で言う所の推力偏向の為の噴射ノズルに似た器官を形成させ、其処から圧縮空気をバーナーの如き勢いで噴射、
その勢いを借りてジャバウォックは、白いケープを身に纏う、美しい形をした悪魔目掛けて向かって行く。
今のジャバウォックは、噴射ノズル状の器官の助力もあり、直線での移動速度なら、音の九倍にも達する程の速度での移動を可能としている。
無論、常人など反応出来る筈もなく。例え反射神経に優れたサーヴァントであろうとも、この移動速度では何の反応も許させず、ジャバウォックの魔爪の餌食となっている事だろう。……普通のサーヴァントであったのならば、だが。

 此方に迫るジャバウォックを、明らかに見てから、メフィストは左方向にステップを刻んだ。
いつの間にかメフィストは、先程まで佇んでいた地点から六百m以上左の方向にいた。彼は明らかに、サイドステップを刻んだ。
だが余人からすれば、メフィストが一瞬でその地点に瞬間移動したと思ってしまうだろう。こんな美しい男が、戦闘の為のステップなど行う筈がない。そう思わせしめる程の魔力と雰囲気を彼は醸している。だから、余人にはこう映る、瞬間移動をしたに相違ないと。

 着地と同時に、ジャバウォックは右腕を振り下ろしていた。
空を切ったと魔獣が認識したのと、メフィストが懐から宝石を取り出したのもまた、同時だった。
転換と呼ばれる魔術により、宝石と言う魔力を込めやすい媒体にそれを注入した物――つまりは、宝石魔術である。
皮膚の下の筋肉が透けて見えそうな程のメフィストの白い指には、ダイヤモンドが三つ挟まれていた。
そのカラットと輝きを見れば、どんな鑑定士でも、都内の一等地にマンションが数棟建てられる程の値段を付けるであろう。
メフィストはこれを無尽蔵に元素変換の術で作成出来る。この宝石三つを、弾丸の如き速度でジャバウォック目掛けて発射。
投げはしない、一人で宝石が指から離れ、音の速度で向かって行く。この速度を生み出す推進力は、メフィスト以外理解も出来ない。

 ジャバウォックは、メフィストの方目掛けて移動をしようとしたが、その宝石三つを見て、急いで防御の体勢を取った。
憎悪の化身であるジャバウォックとは思えぬ、逃げの選択。しかし、その選択が今は何よりも正しかった。
三つのダイヤモンドは、軌道上で独りでに亀裂を生じさせ始め、其処から目が潰れんばかりの極光を溢れさせていたからだ。爆発を起こすつもりであった――但しその爆発と言う言葉の前には、『ヒロシマ型原爆の二十倍の威力を持った』、と言う修飾語句が付く。

 カッ、と、白色の光が視界の全てを覆い尽くした、その数百分の一秒後に、鼓膜が破れるどころか三半規管にすら異常を来たさんばかりの轟音が響き渡った。
ダイヤモンドはジャバウォックの真正面ほぼ十mで炸裂、其処を中心に半径五百mにも及ぶ大爆発を引き起こす。
核に匹敵する威力にも拘らず、範囲自体は狭い。確かに効果範囲を上げさせる事は出来る。
しかし、効果範囲が広がれば広がる程、メフィストも巻き添えを喰らう――核すら無効化する技もなくはないが、魔獣を相手にそれを出す余裕はあまりない。故に範囲を狭く設定した。それでも、病院の外で使えば、ルーラーから即時討伐令が下されるレベルの代物であるのだが。

 一般の病院より広めに面積が取られていると言う事を除けば、何処とも大して差のないロビーは、今やメフィストの手によって面積百平方㎞、高さ五十㎞にまで拡大されていた。
今やロビーは一枚の写真を加工ソフトで引き延ばしたように広大無辺の地となっており、メフィストらが戦っている地点から壁まで、凄まじく距離が遠い。
こうまでメフィストが空間を弄った訳は、三つ。患者やスタッフが無暗に此処までやって来れないよう。二つ目、自身が本気を出せるよう。
あの宝石魔術を見れば解る通り、メフィストの本気の攻撃は外や空間操作を行っていない場所では到底出せないのである。そして最後――ジャバウォックを絶対に外に逃がさず、此処で抹殺する為である。

 爆発の余韻である残光を突き破り、ジャバウォックが音を置き去りにするその速度でメフィストへと向かって行った。
核爆発と同等以上の威力の宝石魔術の爆発の直撃を受けているにも関わらず、ジャバウォックは未だ動けている。無傷ではない、外殻の至る所に、大小様々な生傷を負っている。
「ほう」、と嘆息するメフィスト。動けるらしい、あれに直撃して。ならば、もっと上等な威力の物をぶつけねばなるまい。

 重戦車の衝突すら容易く跳ね返す力場、それをも切り裂く爪を生え揃わせた腕をメフィスト目掛けて超高速で振った。
巨大な鉄塊を削って見せた様なその大腕は、爪の一撃を回避したとしても、腕の何処かに当たっただけで身体が潰れて死亡する。
その一撃が、何かによって止められた。ジャバウォックの腕に伝わる感覚は、張り巡らせた網だった。目線を、己の攻撃を防ぐ何かに向けた。
確かにそれはネットだった。ただのネットではない、針金を格子状に組み合わせて作ったネットである。それを以て、ジャバウォックの攻撃が防がれていた。
九千度を超える獄熱を身体に纏わせているにも拘らず、その針金は、蒸発は愚か溶けもせず、ジャバウォックの腕力を受けても破壊すらされない。彼の魔界都市の住民が見れば、当たり前の事だと誰もが口にする。何故ならば、今ジャバウォックが破壊しようとしている物が、メフィストの針金細工であればこそ。

 より力を込め、ジャバウォックが針金を切断しようと試みた。
メフィストを知る者を見れば、驚くに違いない。魔獣は、身体に纏わせた熱と生来の膂力を以て、メフィストの針金の網を引きちぎって見せたのだ。何と言う強さか。
だが、それを破壊した時には、近くにいたメフィストは既にジャバウォックから遠く離れた四百m先にまで飛び退き、その地点から、
先程同様核爆発を発生させるダイヤモンドを釣る瓶打ちの要領で乱射して来た。放たれた数は五個、全部炸裂させれば三騎士だって塵も残らない。
ジャバウォックも対策をする。ダイヤモンドが魔獣に到達するまで後二百m程と言う所で、彼は左掌にカメラの絞りに似た器官を形成させ、
其処から焦点温度六十万度超の荷電粒子砲を発射させる。熱線に呑まれたダイヤモンドは、外部から齎された急激な熱エネルギーで溶解と蒸発のプロセスを一瞬で経、
遂には核爆発を引き起こした。ジャバウォックに出来る事と言えば、その超スピードを利用して爆風の範囲から逃れるか、爆風の威力が下がる距離で宝石を破壊する事しか最早なかった。

 メフィストの宝石魔術を破壊した荷電粒子砲はそれだけに飽き足らず、メフィストの方へと向かって行く。
迫りくる熱の暴力目掛けて、メフィストは白いケープをはためかせる。瞬間、粒子砲はカレイドスコープ(万華鏡)の内部の如く、複雑怪奇な紋様を描いて千々と砕け散った。

 明らかに、メフィストの移動速度や反射神経は常軌を逸している、とジャバウォックは考えた。白兎とて、こうは行かない。
何かを仕掛けた、と考えるのも無理はない。それは事実だった。メフィストは二重に、ジャバウォックと渡り合う手段を己に施しているのだ。
一つ、自身に自己強化の魔術をかけ、敏捷のステータスをA相当にまで引き上げさせている。そしてもう一つ、メフィストは自分の身体の時間を制御していた。
有体に言えば、メフィストは自らの時間を加速させている状態である。空間と時間は不可分の概念であり、空間の謎を解き明かす際に、
時間の謎もメフィストは解き明かしていた。但し、時間に関わる術の究極系である、時の遡行や未来への移動にまでは至っていない為、時間を究明したとは口にしない。
だが、時間の加速・減速・一時的な停止程度なら、メフィストは再現出来る。己の身体の全ての血流や神経系の電気信号、脈拍に至るまで、メフィストは倍加させている。
こうする事で、極超音速で移動するジャバウォックに対応したり、音以上の移動速度とそれに耐えられる思考速度を得る事をこの魔界医師は可能としていた。
メフィストは現在、敏捷のステータスを強化させた上で、身体の反応速度から移動速度、そして思考速度を含め、七倍速にまで速めている。
高速で移動し、超速の攻撃を当たり前の様に行うジャバウォックへの対策として、これ以上相応しい物はない。

 絞りから荷電粒子砲を乱射させるジャバウォック、それを受け音の二倍の速度で走り、メフィストは其処から距離を取る。
粒子砲は、虚空を走る美しい白の残像を貫くだけに終わった。移動しながらメフィストは、ケープの裏から針金を取り出し、それを放った。
空中に投げ出されるや針金は、煙で出来た蛇の様に、一人でに空中で蠢き始め、勝手に形を作って行った。それはメフィストやジャバウォックよりもずっと巨大な存在だった。
全長は三十mもあり、高さは十m。撓る尻尾は大樹を百本纏めて薙ぎ倒せよう。竜種(ドラゴン)だった。メフィストは針金細工で、翼を携えた竜種を作ってみせたのだ。
掛かった時間は、千分の一秒以下。瞬きしたその瞬間を狙わずとも、相手からすれば時間を停止させたその間に針金細工を作ったのだと説明しても信じて貰える程の、
凄まじい速度と言っても良い。針金の竜が吼えた。気の弱い者が聞けば、心肺停止を引き起こしかねない程の咆哮が、稲妻めいて轟き渡る。
竜を包み込むように、ドーム状の空気の断層が生じる程の大咆哮。針金で作ったのは外枠だけ、故に内部が空洞なのは当たり前の事柄なのに、何処にこれだけの叫びを生む声帯、或いは機構が備わっていると言うのか。いや、備わっていたとして、これ程の叫びなど生めるのか。

 邪魔だと言わんばかりに、針金の竜目掛けて荷電粒子砲を放つジャバウォック。適当に狙った訳ではない、竜を貫けばその先に、針金細工に遮られたメフィストがいる。
針金で出来た竜の右脇腹を、ジャバウォックの放った熱線が貫いた。しかしメフィストは既に、粒子砲の軌道から離れていた。
竜が咆哮を上げると同時に、口を開いた。やはり内部は空洞らしく、ぽっかりとした黒洞だけが、空いた口の中に広がるだけだった。
――其処に、大量の魔力が収束して行く。最強かつ最良、そして最優の幻想種である竜種が放つ、マナの奔流。即ち、竜の息吹。メフィストの針金細工は、これをも再現する。
竜の口腔から放たれたのは、メフィストのシンボルカラーとも言うべき、白色のエネルギーの奔流だった。針金細工の竜は、熱と質量を伴った熱線を放ったのだ。
肩の噴射ノズルを利用し、超高速でブレスからジャバウォックは距離を取る。熱線は着弾した瞬間、ジャバウォックが先程までいた地点を中心とした半径三十m周囲全ての床をガス蒸発させてしまった。

 ジャバウォックの移動した先と、先程粒子砲を避けるべく移動を始めていたメフィストのルートが、ぶつかった。偶然ではない。
自己強化と時間加速の影響で、今や量子コンピューターレベルの思考速度を得、極めて高い精度での未来予知を可能としたメフィストが、
ジャバウォックの先の行動を予測、演算したのだ。九千数百度の超高熱を纏うジャバウォックに、一m半ば如何ほどの距離にまで肉薄しても、
ケープや全ての光を反射する様な白い肌が、燃えるどころか焦げ目一つつかないと言うあり得ない現象は、最早驚くに値しない。
何らかの魔術を身体に纏わせているのだろうが、そんなのを纏わせていなくとも、『この男がメフィストだから』、と言う説明だけで、燃えぬ理由も焦げ付きもしない理由も解決出来そうな凄味を持っている事が、魔界医師の恐るべき所だった。

 目を見開くジャバウォック、移動ルートを先読みされた事をではない。
驚いているのは、金属の暴威とも言うべき姿をしたジャバウォックに対し、白皙の美人たるメフィストが、『拳』による攻撃を仕掛けようとして来ると言うその事実である。
メフィストは、左腕を振り被っていた。殴る、と言うのか!? この世全ての魔術を極めたとすら、魔界都市の魔人達に噂されたメフィストが、
よりにもよって拳による攻撃を選ぶなど!! 魔術と、或いは超科学を駆使した遠距離攻撃こそが真髄と思っていたジャバウォックは水を浴びせられたように驚いたし、
例えこの場に魔界都市の古参がいたとしても、彼と同じ反応を見せたに違いない。それ程まで、メフィストが行おうとしている行動は、他者を震駭させるに値する物だった。

 左腕をメフィストは突き出した。握り拳ではなく、掌は開かれていた。俗に言う掌底で攻撃をしようとするらしい。
速い。時間を加速させているだけはある。音を優に超す程の速度で掌底が放たれたが、ジャバウォックならば避けれぬ速度ではない。
にも拘らず、この魔獣が反応出来ていないのは、未だにメフィストが拳による攻撃を敢行したと言う事実自体が信じられなかったからだ。しまった、と思っても遅い。例え後一ヶ月で宿主に死を齎す凶悪な病気に罹患した患者ですら、いつまでも触診されていたいから病気が治って欲しくないと思わせしめた程のメフィストの手が、ジャバウォックの灼熱した胸部に突き刺さった。

 ジャバウォックを一撃で打ち倒すには、その攻撃は余りにもか弱い。まだそこらのニューナンブの方が、マシなダメージを与えられる――そう思ったのは本当に一瞬だけ。
メフィストの拳が与えた衝撃の干渉力が、百分の一秒が経過するごとに倍加して行く。ジャバウォックからしたら、それこそ最初は蚊に刺された程度にしか感じぬ衝撃が、
一秒経過するよりも遥かに速い時間で、大砲に直撃したかの如き衝撃になって行き、一秒経過する頃には、小惑星の衝突を連想させるが如き衝撃が、ジャバウォックの身体を電波する。

「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!!!」

 雄叫びを上げジャバウォックは、メフィストの掌底を貰った左胸の部分に、凶悪な爪の生え揃った右手を当て、その部分を抉り取り、握り潰した。
その瞬間、体中を病魔の如く蝕んでいた超衝撃が収まった。あとゼロカンマ一秒経過していたら、身体が本当にバラバラになっていたかも知れない。
再び、メフィストの掌底が飛んで来る。それに反応し、地を蹴り飛び退くジャバウォック。それを予測していた魔界医師。
掌底の為に突き出した右手には、黄金色の針金が巻き付いており、それが自我を持ったかのように、ジャバウォックに倍する速度で追跡を始めたのである。
距離を離しているジャバウォックが、左腕を無造作に振るった瞬間、傍目から見れば信じられない現象が起こった。空間が、『引き裂かれた』のだ。
紙を引っ掻いて切り裂いたかのような爪痕が空間に刻まれ、それにメフィストの針金が直撃。バチィッ、と言う凄まじいスパークを立てて針金が切り刻まれ破壊される。
今魔獣が放った一撃は、硬度や物質的特性を無視する空間の切断、それに類似した一撃である。流石にこれには一溜りもなかったらしく、メフィストの針金ですら耐えられない。
この攻撃でメフィストの攻撃を迎撃したのは正しい。この白い美魔が放ったのは、雷と同等の威力の高圧電流を内包した雷鉄線。貰っていれば如何なジャバウォックでも、先程のメフィストの不思議な一撃も相まって、機能停止にまで追い込まれていてもおかしくなかったろう。

 しかし、ジャバウォックの敵となる存在は、メフィストだけではない。
そう、この魔人は、あの針金細工の巨竜を生み出していたではないか。巨竜は簡易的な知能をメフィストによって付加されていたらしく、飛び退いたジャバウォックを見るなり、
その方向目掛けて光の奔流を口腔から放出した。だがジャバウォックもまた、針金のドラゴンがただ突っ立っているだけではない事を理解していた。
高圧電流を纏わせた黄金色の針金を破壊したと同時に、この魔獣は翼状部位を背中から形成させていた。当然のように噴射ノズルが付いている事から、
先程のそれの改良系と言っても良い。其処から圧縮空気を噴出させ、急上昇。光の奔流から逃れたジャバウォックは、数千分の一秒と言う短い時間で、
両腕にハリネズミの体毛の様な短い針を生え並ばせた。この場にいる誰もが知る由もないが、ドーマウス(眠りネズミ)の名を冠したあるARMSが得意としていた、
超小型ミサイルにそれは良く似ていた。これを、超音速を遥かに超える速度で針金の竜と、メフィストの下へと発射。両者を同時に攻撃させる。
針金の竜に、針のミサイルが突き刺さる。メフィストは、ただ針を眺めて佇むだけ。世界に一人も理解出来ぬ哲学者の書物について、考えを巡らせているかのような遠い目だ。
針が直撃するまで後二m程と言う所で、ケープが独自の意思を持って生きているかのように勝手に動き出し、その表地の部分で針の全てを包み込んだ。
針のミサイルが爆発を引き起こす。爆発を受けた針金のドラゴンは、胴体の四割近く、頭部の半分を消し飛ばされた状態になる。
メフィストの方は、爆発が起きる気配すらない。精確に言えば爆発自体は起きているが、針ミサイルを覆うメフィストの纏うケープの不思議な力が、爆発の衝撃を全て殺しているのだった。

 最早動ける状態には傍目には見えないのに、なおもドラゴンはまた口腔にエネルギーを溜めさせ、戦闘の意思を見せる。
生身のドラゴンであれば、痛みを受ければ――鱗や筋肉による防御力は加味しない――悶絶をするであろうが、痛覚も何もない針金の竜は痛みなど感じない。
完全に破壊しない限りはどんなにダメージを与えてもお構いなしに攻撃をしてくるのである。
ならば、あの邪魔なオモチャを先ずは破壊するべきだと、ジャバウォックが考えるのは当然の事だった。しかし、魔獣の抹殺を誓うメフィストが、余計な行動を許す筈がない。
メフィストはその足元に、針金である物を作っていた。銃座である。メフィストは針金で、二本の銃口を携えた銃座を作ったのだが――何かがおかしい。
銃口と銃口に途方もない程の電力が収束して行っているだけでなく、二つの銃口の間にメスが収まっているではないか。その武器は、記憶にある。
その武器の着想は、粒子加速器の開発から得たと言われている。原理としては、電位差のある二本のレール状の伝導体間に電流を通す伝導体を弾体として挟み、
この弾体上の電流とレールの電流に発生する電磁誘導(ローレンツ力)によって弾体を加速し、発射する、と言う、仕組み自体は科学を齧った者からすれば単純な物である。
そんな単純な仕組みの武器であるにも拘らず、現在この世界のどの国も、この武器を安定して使えるようになったという話は聞いていない。
当初の想定通りの威力をその武器に発揮させるとなると、莫大な電力と、生じる摩擦熱をクリアせねばならない。基本的過ぎる故に、小手先の技では如何にもならない大問題。
これがある為に、未だにこの武器はSFの世界の武器なのである。だが――魔界都市の、メフィストの手に掛かれば、区外では可能性ありとされていながら理論・実践上不可能な武器の完全再現が可能となる。そして、今メフィストが作り上げた、空想科学の域にあるこの武器の名を、こう呼ぶのだ。『レール・ガン』と。

 武器の正体を理解してしまったジャバウォックが、直に針金の竜の方へと移動を始めた、が、もう遅い。
レールガンは理論上マッハ一〇〇〇の速度で弾体を射出させる事を可能とする。魔界都市で商いをしていたそこらの工務店で売られてるレールガンですら、
一発限りしか撃てぬとは言えマッハ二〇~三〇の速度を誇る。メフィストが針金で作ったそれは、装置自体が簡易的で、理論上最高の速度は出せぬとは言え、
マッハ二〇〇の速度を平然と叩き出す。ゴウッ、と言う音と同時に、メスが放たれた。速度はマッハ二一五。避けよう、と理解してから動いては遅すぎる速度だった。
音速の二〇倍以上の速度なると、それを叩き出す装置よりもその速度に耐えうる弾体の開発の方がむしろ苦労する、掛かるGとその速度故に、大抵の物は自壊するからだ。
メフィストのメスは、その更に十倍を超す程の速度で放たれたにも関わらず、それが当たり前であるかのように形を保っていた。
メスが、金属で構成された魔獣の左腕を、豆腐を針で刺す様な容易さで貫き、そのまま身体を通り抜け向こう側へと素っ飛んで行った。痛みは感じない。
ジャバウォックの肉体的特質もあるが、あの速度は脳が痛みの電気信号を身体に伝えるよりも速い。人間の急所に放てばその時点で、何が起こったかも認識出来ず即死だ。
しかしメフィストとしては胴体を狙っていたのだが、これを放つよりも早く、ジャバウォックが移動を初めていた為に、狙いがズレてしまった。――だが、それでも、メフィストには問題がないのだが。

 メキメキメキ、と言う音を、ジャバウォックが捉えた。それは、メスが通り過ぎて行った左腕の肘から聞こえて来た。
構わず移動しようと思ったが、移動方向とは反対方向に、正体不明かつ凄まじい引力があるらしく、全く進めない。どころか、その引力は彼の左肘が根源らしい。
左肘より先の部位に全く感覚がない事にも疑惑を覚え、その方角に顔を向け、目を剥いた。メスが貫いた部位を中心に、自分の身体が呑まれて言っている。
引力の正体は、メスが生んだ黒い孔らしい。孔の大きさは直径一cmにも満たず、そんな小さい極微の点に、無理やり物を押し込むように、左肘より先が、それより後ろが。
吸い込まれていっているのだ。その黒い孔は、ある種のマイクロ・ブラックホールであるらしかった。
ジャバウォックの身体が、無理やり圧縮されて行き、極微点に呑まれて行く。このまま行けば、一秒待たずに、彼はこの小さいブラックホールに圧縮、併呑され、消滅する。
空間の断裂を、己の左腕の付け根部分に走らせ、トカゲが己の尻尾を切って逃走するように、左腕を犠牲にしてマイクロ・ブラックホールから魔獣は退避した。

「次は通用しないだろうな」

 そうメフィストが静かに口にしたのと、針金のドラゴンの方に魔獣が肉薄したのは殆ど同時。
針金細工の竜に近付いた瞬間、ジャバウォックの右腕が霞んだ――それと同時に、針金細工が木端微塵に砕け飛んだ。
それが、メフィスト病院謹製の震動兵器によく似ている、と判断出来たのは、流石それを編み出した魔界医師と言う所だった。

 ジャバウォックがメフィストの方を振り向いた。その時には既に、先程メフィストの掌底を受けて自ら抉り取った左胸と、
今しがた自ら切断した左腕が既に完全に再生。元通りの状態にまで復活していた。驚くに値しない。メフィストはジャバウォックの肉体的特性を既に理解していた。
何時の間に、どのタイミングで、と言われれば、あの掌底が魔獣の灼熱した身体を打った時。あの時の一撃は、ジャバウォックを殺すと言う意図の他に、
あの魔獣の正体や性質を見極める『触診』の意図も兼ねていたのである。触診によってメフィストは、ジャバウォックが、魔界都市の技術でも再現不可能な程高度な、
炭素生命体と珪素生命体の長所のみをハイレベルで兼ね備えた金属生命体、或いはハイブリット生命体であると看破した。単純な身体能力ですら肉薄出来ないだろう。
身体能力ですら他を隔絶としているのに、目の前の生命体は、ブロッブやスライムと言った原始的な単細胞生物を上回る再生能力を持った金属細胞を持ち、
生半な攻撃ではダメージどころか、それを負わせたところで瞬間的に回復させてしまうと言う極めて厄介な特性も持つ。
言うまでもなく抉った左胸や切断した左腕の再生能力は此処に起因する。――だが、目の前のサーヴァントの神髄とも言える点は、其処にはない事をメフィストは見抜いている。
目の前のサーヴァントの身体能力や再生能力は、メフィスト以外のサーヴァントならば圧倒出来る程強力な力でこそあれ、その強さの本質ではないのだ。
このバーサーカーの本質とも言える個性は、金属細胞が有する、圧倒的な学習速度だ。細胞の学習――それはつまり、『進化』と言っても良い。
哺乳類等の大型の生命体であれば数千・数万年と言う時間と、世代の交代を何度も経てようやく習得する個性を、目の前のサーヴァントは物の数分で獲得してしまう。
驚異的であるとしか言いようがない。身体の小ささと種特有の繁殖のスピード故に、進化の速度が速いとされる昆虫以上の進化速度を、あれだけの大きさでありながらバーサーカーは保有しているのだ。恐るべき存在としか、最早言いようがない。

 しかしそれでも――。

「お前は裁かれねばならん」

 その強さは、メフィストの赫怒を委縮させる理由にはならない。
メフィストは己の患者と病院で働くスタッフを害される事と、この病院内で死を齎される事を何よりも嫌う。
例え彼が懸想するせつらであろうとも、この禁忌を犯そうものなら、百年、いや千年の恋を捨ててでも抹殺に掛かる程、メフィストはこの事柄については神経質だった。
嘗て、この病院で狼藉を働き、メフィストの手による裁きを免れた存在は、一人を除いて他にいない。それ以外の者は例外なく、如何なる超絶の技を修めた魔人達も、
メフィストが齎す報復から逃れられなかった。目の前のバーサーカーは、メフィストの逆鱗に触れた。魔界都市の法よりも上にある、メフィストの禁忌に触れた。
故に、殺されねばならない。裁かれねばならない。魔界医師の矜持の為に、傷付けられた彼の名誉の為に。

 ジャバウォックが、メフィスト目掛けて攻撃を仕掛けようと思った、その時である。
この広大無辺な空間に突如として、『船』が現れたのである。余りにも唐突に起こった出来事の為、二名の動きが止まる。
空間から突如として現れたそれは、船底が床と接しているにも拘らず、水の上を滑るように移動している。
……違う。船底が触れた所が、川の流れに変わっている。固体である床が、その船底と接した瞬間、手で掬って今その瞬間にも飲める清流に変わっているのだ!! 
船は、中国の古い歴史に登場する櫂船だった。宇宙の黒い闇を墨にして塗りたくったような黒い船体、異様に逆立った船首、帆の畳まれた二本の帆柱。
水面ギリギリに開いた十数個の穴、其処から穴の数だけ伸びる櫂。衆目の目線を引く、時の重みと風情を感じさせる、立派な姿。
しかし、この場に百万人の人間を集めても、注目を集めるのは船ではなかろう。その船の船首に腰を下ろし、物憂げな目線で虚空を見つめる、美女の姿であろう。
不変の美とは何かを、赤子にすら理解させるその美女がいるせいで、船の存在感は、極限まで下がっていた。

          渡水復渡水

          看花還看花

          春風江上路

          不覚到君家

 美女は、一人でその詩歌を口にしていた。中国は明の初期の詩人、高啓の詩である。船は彼女しか船員がいないらしい。琴の音も、琵琶の音も、管子の調べもない。
銀鈴の如く透徹とした美しい声音が歌を紡いでいるにも拘らず、その美しい声を更に引き立たせる楽器の旋律は、彼女には与えられなかった。
それが、彼女に与えられた罪であり罰である事を知る者は、メフィストと、この詩を歌う彼女の愛した男を於いて他にいない。

「まだ殺せておらぬのか、メフィスト。魔界の邑(むら)に君臨していた白き魔人よ」

 邪悪その物の如き笑みを浮かべながら、名のない吸血鬼が。
嘗て、『姫』と呼ばれていた、神代の代から生き続ける時間の怪物が、その場に姿を現したのだった。



時系列順


投下順


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40:Abaddon 葛葉ライドウ 046:It's your pain or my pain or somebody's pain(後編)
セイバー(ダンテ)
39:有魔外道 佐藤十兵衛 046:It's your pain or my pain or somebody's pain(後編)
セイバー(比那名居天子)
24:満たされるヒュギエイア 一ノ瀬志希 046:It's your pain or my pain or somebody's pain(後編)
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39:有魔外道 046:It's your pain or my pain or somebody's pain(後編)
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33:黙示録都市<新宿> ルイ・サイファー 046:It's your pain or my pain or somebody's pain(後編)
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