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  平和と引き換えに、毒気と混沌、悪徳に哀しみ、そして、自由を失った街。男が<新宿>に抱いたイメージはそれであった。

 身体全体から光が差しているのでは、と思わずにはいられない程の、美の化身だった。
黒いロングコートに、黒いシャツ、黒いスラックス。上から下まで、それこそ靴に至るまで黒一色。
着る人物が間違えば気障か、或いは不審者と言う評価は免れない黒尽くめと言うファッションを、男は、千年付き合った自らの半身の如くに着こなしている。
黒と言う色は、この男に纏われる為に神が生み出したのでは、余人はそう思うだろう。神が鑿を持ち、自らその顔を彫り上げたとしか思えない美男子――秋せつらの為に。

「変われば変わるものだな、この街も」

 感慨深そうな声で、せつらが零した。
何処だって良い。ただぼうっと立ち上がり、その場にたそがれるだけで、ラファエロやボッティチェリの絵画のデザインや構図を超える程の美を演出出来る男よ。
その言葉にはその感情の他に、幾許かの寂しさと言う感情も掬い取る事が出来た。

 <魔界都市“新宿”>と言う場所を身体全体で表現しているとすら言われた秋せつらには、よく解るのだ。
この街は<新宿>であって<新宿>でない。この街にはせつらの知る<新宿>が、魔界都市と言われていたその所以が全て失われているのだ。

 この<新宿>には――当たり前のように設置されていた、麻薬の自動販売機が一つもない。
この<新宿>には――野良猫や野良犬のような感覚で街の裏路地や広場、一般道路にすら跳梁していた妖物が何処にも見られない。
この<新宿>には――たったの数千円で、身体をサイボーグ化させる手術を請け負うヤミでモグリの外科医が一人も存在しない。
この<新宿>には――戸山町を住処にしていた吸血鬼達はもとより、高田馬場を根城にしていた魔法使い達が影も形も見当たらない。
この<新宿>には――バズーカ砲や、米軍や自衛隊の御下がりの武装ヘリや戦車は愚か、拳銃ですら流通していない。

 この<新宿>には――――――――――平和と、けち臭い悪徳の匂いが微かに存在するだけであった。

 それで、良いのかも知れない。これで、良かったのかもしれない。
せつらの懐かしむ<新宿>とは、耐え切れない位に命の軽い街だった。命の値段など羽毛より軽い街だった。
人も、妖物も、ミュータントも、何もかも。命を奪われる者も奪う者も、全てに命の価値がなく、それ故に平等であった街。それが、<魔界都市”新宿”>。
そんな街が正常で、当たり前だったとは思わない。この<新宿>が並行世界の一つであると言うのなら――この未来が当たり前の未来だったのかも知れない。
<魔震(デビルクエイク)>の無残な爪痕から見事立ち上がり、此処まで復興して見せたこの世界の<新宿>の方が、寧ろ立派なものであろう。

 しかし……この街もまた、<新宿>たる所以をしっかりと世界に刻み込んだ街である事は、せつらにも否めない。
その証拠が、せつらの目の前に広がっている、巨人がその手で大地を抉り取ったような深い亀裂であった。

 この亀裂は、せつらのいた<新宿>ではそのまま<亀裂>と呼ばれていた。
198X年9月13日金曜日午前3時、東京都新宿区『だけ』を襲撃した直下型大地震、通称<魔震(デビルクエイク)>。
その大地震によって刻まれた爪痕こそが、<亀裂>であった。それは、新宿区と区外地を隔てる境界線。
幅二十m、深さ五十数㎞にも達する大空洞。文字通り地の底にまで続いていても不思議ではないこの亀裂は、嘗ての<新宿>住民達にすら不吉の代名詞として扱われていた。
不吉で不気味な扱いの際たる原因が、亀裂の形だ。なんと、外縁区との境界線を寸分の狂いもなく正確になぞって亀裂は走っているのだ。
これこそが、<魔震>と呼ばれる所以。新宿区だけを狙い、隣接区には一切の微震すら感知させなかった魔の現象。それが確かに起こった証が、せつらの目の前に広がっているのだ。

 この亀裂がある以上、この街は決して普通の街ではない。
見た所倒壊した建物やその瓦礫の撤去も、地面に刻まれた大小の亀裂――<亀裂>以外の――修復も全て終わり、<魔震>前よりも新宿区は栄えていた。
魔界都市とは似ても似つかぬ平和な街。しかし、せつらには解る。例え平和で、温い街になっても尚、此処は<新宿>たる力を秘めた都市である事に。

 でなければ、秋せつらが――<魔界都市“新宿”>の具現たる男が、サーヴァントとして呼ばれる筈がないのだ。
いやそもそも、この街が平穏な都市であるのならば、聖杯戦争なる奇妙な催しが、行われる筈がないのだ。

「結局、僕が足を運ぶ新宿は、<新宿>にしかならないと言う事か……」

 区外の常識を超えた犯罪者がいなくても。武器が流通していなくても。魔術や呪術が伝わっていなくても。吸血鬼やグール、妖怪などがいなくても。
<新宿>はその独特の魔力を、有している、と言う事なのだろう。であればその魔力に、光源に引かれる蛾の如く、秋せつらが呼び寄せられるのも、必然の事か。

「僕を特別扱いする事もないだろうに」

 <亀裂>の先に広がる中野区の街並みを見ながら、せつらは恨めし気に愚痴を零す。
大人しく英霊の座に眠らせてくれればよいものを、態々せつらを指名して呼び寄せるとは、余程この都市は秋せつらと言う『黒』を望んでいるようである。
傍迷惑な話だ。せつらは聖杯にかける望みなど、何もないと言うのに。受肉して、この平和な街でせんべいでも焼いて過ごすか? 
実際せつらは、その程度の願いしか抱いていない。

 ――では、せつらのマスター(依頼主)は、どうなのか? マスターは、聖杯を焦がれる程に欲している。
下卑た物欲とも違う、もっと切実で、痛切な思いから聖杯を欲している事は、せつらにも解る。決して悪い人物ではない。
それは確かだが、聖杯と言う得体の知れないものに対して、些かひた向き過ぎる。
何か裏があると説明しても、「それでも良い。自分はそれでも聖杯が欲しい」の一点張り。
結局せつらは折れた。せんべいを焼く為に<新宿>に呼び出されたのならばともかく、よりにもよって副業の人探し(マン・サーチャー)の為に呼び出されたと来た。
愚痴の一つや二つ、零したくもなるだろう。

 <新宿>を舞台にして現れる、奇跡の杯。聖者の中の聖者の血を受け止めた、黄金の杯。
この街の住民の血と命を犠牲に顕現する聖杯に、果たして奇跡などありや? ああ、知っているのか、せつらの主よ。
この街が嘗て、『希望を抱いてこの街に来る者はいない、この街を出る者は皆哀しみを抱くだけだ』と言われた程の、地獄の都である事を。

「それでもあのマスターは――」

 求めるのだろう。いや、求めたのだ。せつらはマスターに対してその事を語ったのだ。それでもなお、マスターは聖杯を欲した。
となればせつらは、<新宿>で最も優れた人探し屋として、その辣腕を振るわねばならない。
道に落した財布から、はぐれてしまった子犬や子猫、ヤクザに監禁された人物や、吸血鬼に攫われた女性だって、依頼されれば探し当てて、依頼人に返還せねばならないのが秋せつらである。

 今回の目標はあの聖杯と来た。アーサー王伝説などの騎士物語や、キリスト教の宗教史に頻繁に名が出てくる程のメジャーなアイテム。
しかし、神秘の根差した世界では、皮肉にもメジャーなアイテムこそ、その発見及び到達が困難なのは常識も常識。聖杯などその代表格。
そんな物を、英霊の座から呼び出され、人探しのブランクが空いたせつらに探させるとは……怒りを通り越して、最早呆れの念しか湧いてこない。マスターに、ではなく、<新宿>に、だ。

「改めて見ると、本当にロクな街じゃないな。此処は」

 今更になって、<新宿>と言う街を実感するせつら。区外の人間であれば数分と掛からず理解出来る真理を、漸くせつらは理解出来た気がした。
この世界の<新宿>の把握は、これで終わり。西新宿の五丁目――奇しくも生前せつらがせんべい屋を営んでいた場所と同じ所――に待たせたマスターの下へと、戻らねばならない。

 <亀裂>に背を向け、せつらは元来た道を辿って戻り始めた。
老若男女問わない、ありとあらゆる人物が、せつらに対して熱っぽい目線を投げ掛けていた。せつら程の美貌の持ち主となれば、性別の垣根を容易く超越し、人を魅了させてしまう。

 これもまた、<亀裂>と同じで、元居た魔界都市ではよく見られた光景なのであった。



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 その建造物がいつから<新宿>に存在したのか、知っている者は存在しなかった。
気付いたら、其処に建てられていた。いや、その言い方は正確とは言えなかった。本来建てられていた建物が、別の建物に変異していた、と言うべきなのだろう。

 其処は嘗て、K大学の大学病院であり、医学部の学棟だった……筈なのだ。
区内の、特にその病院が存在している信濃町の住民ならば、誰もが知っている程の有名な建物。それが、ある日を境に、全く別の建物に変貌していた。
建物自体は、以前と変わらない。その白亜の大伽藍、来るもの拒まずと言った佇まいで、病める者の為にその病院は今も門戸を開いている。
違うのは、名前だ。K義塾大学病院から、『メフィスト病院』なる名前に変わっていたのは、果たしていつの頃の事だろうか。
メフィスト。ゲーテのファウストと言う作品に出てくる、老博士を誘惑して来た悪魔の名前を冠するこの病院。
誰もが異分子だと気付いていた。誰かが異議を唱えるだろうと、皆が思っていた。

 ――しかし、現実問題としてその病院は、信濃町に存在していた。行政的な手続きを経ずに、確かに、だ。
だが、区民も、行政も、この病院の存在を認め、<新宿>の新たなる施設の一員と、このメフィスト病院を認めていた。
区内に姿を見せてから、一ヶ月と経っていないにも関わらず、だ。

 何故か。

 一つは、この病院の医療技術が、ありとあらゆる病気や怪我を治すから。
死亡していないのであれば、どんな怪我でも。それこそ心臓を外部に抉りだされようとも、大脳が粉々に損傷していようとも。
元の状態に、一切の後遺症も残す事なくその病院は怪我人を完治させる事が出来るのだ。
死亡していないのであれば、如何なる病気も。それこそ水虫から全ての風邪、エボラ出血熱から新種の結核、そして、癌に至るまでも。
あらゆる病原菌を根絶させる事が出来るのだ。

 不治の心臓病にかかった一人娘をタダに等しい医療費でその病気を完治させた時、少女の両親が涙を流して喜んだ。
癌にかかった最愛の妻を、手術を含めてたった一日で全ての主要を取り除き、二度と再発の恐れがないと夫に述べた時、彼は神の存在を確かに信じた。
歌舞伎町でイザコザに巻き込まれ、ドスで内臓をズタズタにされたヤクザが、その内臓を完璧に治したばかりか、生来患っていた弱視すらもおまけで治された時、彼はヤクザの道から足を洗い、真っ当に生きると主治医に誓った。

 其処は、区外の病院で匙を投げられた患者が、救いを求めて最後に頼る蜘蛛の糸だった。
だがその糸は、芥川龍之介のあの作品の中に出てくるような、細く頼りのない糸ではなかった。
ワイヤーを何百、何千、何万条も束ねて作った、信頼の出来る、切れる事のない糸。それは最早、糸ではなく、綱だった。

 そして、この病院があらゆる人間にその存在と、医療行為を行う事を認可されているのは、もう一つあった。
この病院を運営する、神の御業のような医療の腕前を持った、男が原因だ。

 その男は――

 神が惚れ――

 世界から色を奪い――

 月すらが嫉妬する程に――

 ――――――――――――――――美しかった



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                                  我が白髪の三千丈 


                                   心の丈は一万尺 


                                  因果宿業の六道も 


                                 百の輪廻もまたにかけ 


                                 愛し愛しと花踏みしだき 


                                  おつる覚悟の畜生道


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 花の精が歌を歌っているかのような美しい声が、陰鬱なコンクリートの部屋には不釣り合いだった。
薄暗い部屋で、色のヤケた古い本を読んでいる女性は、そんな歌を思わず口にしていた。

 悲壮な愛の詩だと彼女は思った。そしてその詩と自分を、重ね合せていた。

 蛇に騙されてしまった事は、百も承知だった。初めから解っていた。
しかしそれでも彼女は、嘗て焦がれた愛する男を求めるのだ。我が身を犠牲に世界を救った少年の事を。
決して触れてはならない感情の嵐を繋ぎ止める人柱になった少年を、解放させてやりたいのだ。

 その為に、人を犠牲にしてしまう事は、最早避けられない事だった。決して、決して。
何十人もの人間の命と引き換えに、絶対の奇跡を引き起こす。そんな事は、姉も弟も、許さない事は、痛い程理解している。

 だがそれでも――利用されると解っていても、彼女はその奇跡を求めた。
それこそ……畜生道にでも。いや、地獄道に落ちる覚悟で、彼女は聖杯戦争を引き起こした。
たった一人の少年の復活と引きかえに、多くの人間を争わせ、その命を聖杯に捧げる儀式を。

「……我が白髪の三千丈、心の丈は一万尺」

 再び、コンクリートの狭い部屋に、澄んだ歌の音が響き渡る。
その様子を、無感情に眺める紅色の瞳の少年に、彼女は、果たして気付いたかどうか。




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