プロローグ


5月7日 AM5:30 希望崎大橋――

朝靄に包まれた大橋の彼方からまず現れたのは、1台のVI号戦車ティーガーE型であった。
重厚な装甲板に覆われた戦車の内部を窺い知る術は無い。
そのすぐ後に続くのは白塗りのバンだ。
ごく一般的な搬送用バンで、年季の入った車体側面には「いつもニコニコあなたのまちのパン屋さん」と赤いペンキで描かれた丸っこい字体が踊っている。
更に後ろを、先頭と同型の戦車が付かず離れず一定の距離を保ちながら走っている。

2台の戦車がバンの前後を固めている形である。傍から見れば、それはあたかも中央のバンを警護しているかのようでもあった。
……否、「あたかも」では無い。VI号戦車ティーガーE型は実際、この一見何の変哲も無いバンを護送する為に生徒会から遣わされたのだ。
予算管理に煩い事で知られる生徒会が、何ゆえたかがいち搬送車に護衛を寄越したのか?
結論から言ってしまえば、それはある1つのパンが原因であった。
通称「伝説の焼きそばパン」――食せばどんな願いをも叶えるとされる、万能の願望食品。今日はその焼きそばパンの納品予定日なのである。
魑魅魍魎有象無象の魔人が集う希望崎学園生徒の事だ、搬送車を丸ごと襲い焼きそばパンを簒奪せんとする不届き者が出たとしてもなんらおかしくはない、いやむしろ襲撃があ

って然るべきである……と、生徒会がこのような結論に至るのは必然であった。

果たして、生徒会の懸念は見事に的中した。
3台の車が橋の中央に差し掛かった頃合である。

「長州ーーーーッ!!」「尊皇ーーーー!!」「攘夷ィィーーーーッ!!」

早朝の静謐な空気を切り裂き、改造マフラーの爆音と耳障りな奇声を響かせながらVI号戦車ティーガーE型に踊りかからんとするのは維新志士の集団であった。
斧、鉈、スパイク付き棍棒、二連装の短銃身ショットガンなどを手に、涎を撒き散らしながらそれらを一斉に振りかざす。
轟音と共にショットガンが火を噴き、先頭を行く戦車のキャタピラが破断した。すかさず投擲された手斧が前面の装甲を叩き割る。
コントロールを失った戦車が蛇行し、橋の防護柵に激突した。遮るものの無くなった道路上を違法改造バイクらが我が物顔で驀進する。
狙うは当然、焼きそばパンを運ぶ搬送車である!

「倒幕ーーーーッ!!」「キャッホホーー!!」「いただきィーーッ!!」

維新志士達は喜色を湛えて口々に叫び、やはりタイヤに狙いを付けて機動力を削がんとする。徒党を組んでの襲撃は彼等の十八番だ。
バンはなす術も無くタイヤを破壊され、フロントガラスを砕かれ、エンジンルームを叩き壊された。
矢継ぎ早に襲い来る衝撃に耐えかね、搬送車がバランスを失って横転すると、道路に無数のパン、おにぎり、カップヌードル等がばら撒かれた。
間髪を入れずそれらに群がる維新志士。食料にたかるのは最早習性である。
後方のVI号戦車ティーガーE型を早々に片付けた先発の維新志士も、無残に散らばったパンを見るや即座にUターンして漁りにかかる。

「焼きそばパンだ!焼きそばパンを探せィ!」「どけ!これは俺ンだ!」「なんだこの野郎!」「薩長万歳!」

早速小競り合いが起きて2、3人の志士が同士討ちを始めたが、大半の維新志士達はそれを無視してせかせかと食料品の山を突き崩している。
狙いはあくまで伝説の焼きそばパン、それさえ手に入ればここにある全てを買い占めてなお余りある富が転がり込むのである。
物事を深く考えず本能のまま生きる彼等にも、その程度の打算は理解できた。
血眼になってパンを掘り返す維新志士達だが、それ故に横転したままのバンからのそりと這い出してきた男の存在には気付けなかった。

大柄な男である。着古したマントと長ランの隙間からは、逞しい胸板と腹部に巻いたサラシが覗いている。ズボンの裾は土管のように太く、足元は高下駄。典型的なバンカラス

タイルであった。一際異様なのは、その背に身の丈を超えようかという幅広の長刀を差している事だ。
男は割れた額の血を拭い、首の骨をごきりと鳴らすと、パンを漁る維新志士達に悠然と近付いていった。
維新志士の1人が高下駄の鳴る音に反応し、振り向いた。その目に飛び込んで来たのは、身を低く沈め今まさに長刀を抜き払わんとする男の姿。

「鬼無瀬時限流」
「なんだテ――」

維新志士の叫びは男の呟きによって遮られた。より正確には、言葉を発する事が出来なくなった。

「『悪鞭蛇』」














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同日 AM8:10 希望崎学園校庭――

「……ンだこりゃあ……」

その日、一之瀬進は4月30日から数えて一週間ぶりに見る希望崎学園校舎を背に、野次馬の隙間からその惨状を目の当たりにしていた。
校庭の真ん中に晒されているのは人間の生首である。それも1人や2人では無い、ざっと数十人分はあろうかという血塗れの首が、月見団子よろしく積み上げられていた。いかに

戦闘破壊学園などと呼ばれる世紀末学舎であろうとも、このような無体が堂々と人目に触れる事は珍しい。
しかも傍らに立てられた札に目をやれば、この暴挙を敢行したのは他でもない、学園の治安維持機構たる生徒会と記されているではないか。
曰く――この者達は購買に卸す予定だった食料品及び『伝説の焼きそばパン』を独占する為に搬送車を襲撃し、警護に当たっていた生徒会役員の正当防衛によって処刑された。
本日は前述の『伝説の焼きそばパン』が納品された影響を鑑みて第一級緊急校則を発令、既存の校則を破った者は生徒会権限によって即座に処分される。各々肝に銘じられたし

――ーといったような内容が威圧的な毛筆で書されている。登校して来た際にあった破壊跡はこれだったか、と一之瀬は密かに得心した。
文言を読んだ彼の顔面は蒼白であったが、その原因は死臭甚だしい生首でも、過剰に厳しい校則設定でも無かった。

「伝説の焼きそばパン、だと」

一之瀬は周囲の雑音も耳に入らぬまま拳を握り締め、ただその文言だけを凝視していた。
彼はその存在を知っている。きっかけは3年前、自身の運命を大きく変えたあの事件。
後に『大災厄』と呼ばれるそれは、一之瀬の命以外の何もかもを奪い尽くした。
今も悪夢に見る、赤々と灼けた夕暮れ。無数に立ち上る煙と倒壊した建造物。父や母や妹のものと思われる血。肉片。
瓦礫と化した我が家から這い出して目にしたのは、夥しい数の山と積まれた死体と、その頂上で腰を下ろし、何かを貪る学生服の男。
血のような夕焼けを背にしたその姿は黒々と影に塗り潰されていたが、手にした食べ物がどうやら細長い楕円形の……例えば焼きそばパンのような……ものである事と、この惨

状を引き起こしたのが「それ」と「そいつ」である事は、何故か直感的に解った。
「そいつ」は「それ」を食べ終えるとやおら立ち上がり、這いつくばったままの己を一瞥したように思う。
「そいつ」は僅かに首を傾げ、それから屍山を飛び降りて、それきり姿を消した。

公的記録によれば死者・行方不明者数は数万人に上るが、その原因は一切不明。不発弾の暴発、独裁国家の核攻撃、はたまた魔人能力の発現……様々な憶測が飛び交うも、結局

はっきりした事は何も解らなかった。

程なくして、一之瀬は希望崎学園に進学した。元から決まっていた高校を蹴ったのは、彼自身が魔人となっていた事と、魔人の集うこの学園ならば不可能を可能にする事ができ

るかもしれないと考えたからだ。例えば誰も知りえない大災厄の原因を突き止めるような。
事件を調べていく内に、1つの噂を耳にした。あらゆる願いを叶える『伝説の焼きそばパン』の噂を。
その瞬間、彼の脳内であの日の惨事と焼きそばパンとが等号で結ばれた。
かの惨劇を繰り返すような事だけはあってはならない……その思いの一心で、一之瀬は情報収集に躍起となった。
焼きそばパンの出自、性質、入手経路、販売元、製造者の目的――殆どは徒労に終わったが、収穫もあった。伝説の焼きそばパンが売り出される時期である。
過去のデータを調べ上げ、霧のように朧な焼きそばパンの情報を片端から掻き集めた結果、おおよその販売期間を割り出す事に成功したのだ。予想によれば、焼きそばパンが購

買部に並ぶのは今から約半年後だった。

その結果が、これだ。
一之瀬は知らず唇を噛み締めた。生徒会のこの宣告は明らかな牽制である。欲に目が眩んでルールを逸脱すれば容赦はしない、という勧告だ。
更に事実としてこれだけの数の生徒を手打ちにしている事を鑑みるに、今日伝説の焼きそばパンが販売される事は確実であろう。

大災厄以来、重要な場面において己が予想の外れる率が異常に高い事は自覚していたが、それにしても限度というものがある。
よりにもよって――丸2年を費やして考えた焼きそばパン販売日が外れた上、ここまで前倒しになるとは。まるで何かに呪われているような気分だ。
一之瀬は自身の魔人能力を知らない。己が魔人である事は大災厄を境に急激に高上した身体能力と、現実は厳しく、世界はままならないという奇妙な確信の存在が示唆していた

が、それによってもたらされる能力がなんなのかと問われると、これがとんと解らなかった。自分の内にある絶対の確信によって能力を行使する魔人においては珍しい事である


「おう、一之瀬。久しぶりだな」

半ば呆然自失の一之瀬に声をかけたのは、同じクラスの笹目である。

「お前、メールも返さないもんだから結構心配したぞ。風邪はもういいのか?」
「ん、ああ……ちょっと携帯壊しちまってな。連休一日目には熱も下がってたんだけど、GW中は修理屋がどこも一杯でさ。平日の昨日学校サボって直しに行ってたんだ」
「ふーん、なんかまだ顔色悪そうに見えるけどな。まあ、朝っぱらからあんなもん見たら気分も悪くなるか」

笹目は晒し台の方を横目で見やった。この発言からも分かる通り、笹目は学園に置いて希少な良識人である。
周りの生徒はと言えばしかめ面で生首を睨んだり、写真を撮りまくったり、指を差してゲラゲラ笑ったり、滴る血を見つめながら股間を弄ったりしているのだ。

「ああ、うん、それより笹目よ、あの立て札に書いてある伝説の焼きそばパンって――」
「なんだ、知らなかったのか?ああそうか、お前今月学校に来るのは今日が初めてか。1日に「5月7日昼休み、伝説の焼きそばパン入荷予定!」って購買部に張り紙が出されてさ

。それからこっち、学園はこの話題で持ち切りだよ。俺もメールしたんだけどな……おい、どうした」

頭を抱えてその場にしゃがみこんだ級友に心配そうな視線を送る笹目。一之瀬はそんな友人に構う余裕も無く、己の運の悪さを呪う他無かった。
何故今日なのか。1日に熱が出ていなければ。家で携帯をトイレに落としていなければ。今週がGWで無ければ。昨日学校をサボってまで修理に行かなければ。
もっと、もっと早く焼きそばパンの件を知る機会はいくらでもあった筈だ。最早何者かの悪意すら感じる程の不運である。
昼休みまでもう4時間を切っている。せめて1日でも猶予があれば相当に違ったのに!

「やっぱ気分悪いのか?保健室行くか?」
「……いや、いい。悪いのは気分じゃなくて俺の運だ」
「運が悪い……?そんな事無いだろ、お前今日来てんだから」

そのあっけらかんとした口調に、一之瀬は思わず顔を上げた。

「お前、例の焼きそばパン狙ってるんだろ?今日も休んでたら取り返しのつかない事になってたぞ。どうせ昼休み入らねーと買いに行けないんだから、昨日知ろうが今知ろうが

一緒だろ」

実に淡々とした言葉だった。笹目は伝説の焼きそばパンの効果を都市伝説と同じぐらいに思っている。あえてそのように教えたのは一之瀬だ。深入りすれば碌な事にならないと

分かっていたし、ライバルは1人でも少ないほうが良いという打算的な理由もあった。
いわば無知故の気楽な発言であったが、これが一之瀬の暗澹たる絶望を打ち払う一助となった事は間違いない。
外れた予想に拘っていても仕方ない。どの道やるしか無いのだ。

「……笹目、お前たまに良い事言うよな」
「たまには余計だバカ。ほれ、授業始まる前に購買寄ってくぞ。昨日からいつものおばちゃんじゃなくてえらい美人のねーちゃんが来てんのよ」
「マジか、そりゃ見とくべきだな」
「だろ?今良い事言ったんだからなんか奢れよ」
「ああ、昼休みに喰いかけの焼きそばパンくれてやる」
「いらねーし!」

2人は雑踏を抜け、肩をどやし合いながら購買へ向かった。これから迎える事になるであろう修羅場を思うと胃が締め付けられるような心地だったが、それでも一之瀬は悪くない

気分だった。現実は厳しく、世界はままならない。だったらどうした、世界も現実も、自分の手で変えてやる――と、嘯きたくなるような。

覚悟が決まった。










昼休みまで 残り3時間30分――
最終更新:2015年05月24日 15:11