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 男が、夜の街を歩いている。
 漆黒のコートにグローブ、ブーツにズボン。全身黒尽くめの服装は、今にも夜の闇に溶けてしまいそうな危うさを見せる。
 氷のように冷たい黒瞳。少し伸ばした闇色の髪を、首の後ろで括っている。長身痩躯の肉体には一縷の隙も無く、長い手足真っ直ぐ伸びた背筋が、本来の背丈より彼を大きく見せる。
 肩にはボストンバッグを少し小さくしたような鞄を、立ててかけている。

 その男に名は無く、この街ではナナシと呼ばれていた。

 ナナシは路地裏を歩く。夜よりも尚深い闇が跋扈し、喧騒と銃声が止むことなく響く。
「アシュクレイト」
 この世界は一日が三十で区切られ、内二十六の夜と四の昼とを繰り返す世界だ。暗い闇は常冬の気温を持ち、作物は実らず、日々人々は飢えている。
 一握りの上流階級の人々は、培養プラントと呼ばれる食品生成工場で作られた、決して多くない食料の大半を使い、豪勢な食事に舌鼓を打っている。
 国の正当な仕事に就く一般階級の人々は、配給される十分な量の食材と物資で、ごく平凡な生活を送っている。
 そして数多の下級階級の人々は、工場からあらゆるものを盗み、裏で高額取引するものや、少ない物資を奪い合っての喧嘩や強盗が絶えない。あまつさえ、死体の肉を食べて飢えを凌ぐ始末である。
 ナナシは、この街で「何でも屋」をしていた。
 金さえ払えばなんでもする。それが彼のスタイルだった。

 ナナシは迷路のような路地裏を歩く。少し行くと幅の広い道に出た。
 軽い弧を描きながら延々と続く道路。その道は大きな円を描いており、円の内側が高級住宅街――通称貴族街――であり、反対側がスラム街である。
 その間には高々と聳え立つ分厚い壁。まるで天国と地獄の境界を隔てるようにある壁こそ、ヘブンスウォールと呼ばれる壁であり、内部へと続く、南北に一つずつある扉が、ヘブンスゲートと呼ばれる天国への門であった。
 ナナシが今いるのは居る場所からは南門のほうが近く、まだ少し距離があった。
 ナナシは歩く。目的地は門。そして、その奥にある貴族街の一角。食品プラントだった。

 南門の左右に、重装備の警備兵が二人立っている。
 手には十ゲージ弾連装型のショットガンを持ち、腰には刃渡り十五センチ程度のアーミーナイフと、九ミリ 弾を撃ち出す拳銃を持っている。また、頭を頑丈なヘルメットで包み、制服代わりの対人防護服を着込み、その上から防弾ベストをつけている。
 対するナナシは無手。手に鋼鉄製のガントレットをつけてはいるものの、これと言った武装は伺えない。
「待て。これ以上は中級階級以上しか立ち入りは認められ…」
 警備兵が最後まで言い切る前に、神速の踏み込みと共に顎にアッパーを入れる。もう一人の警備兵が咄嗟の事に驚き、一瞬の間を置いて銃を構えようとする。しかし、ナナシに対するなら、その一瞬こそ命取りだった。
 滑り込むような足運びで警備兵の懐へともぐりこむ。慌ててショットガンを構えようとする警備兵の手から、左手で銃を奪い、その場で兵の肩にかかった紐を滑らし、銃身を回すようにして銃口を警備兵の顎に突き付ける。と同時に右手はグリップを握り親指を引き金にかける。その間、たったの一秒弱。
「ここで死ぬか、衛兵。最悪、浮浪者共の胃袋の足しにはなるだろう」
 冷淡な声。脅しでもなんでもなく、ただ淡白に告げられた一言に、警備兵の背中をいやな汗が流れる。
「まて……望みは何だ」
「なに、簡単だ。通用口のロックを解除するための、網膜と指紋のスキャン。キーカードの読み込みに伴う、パスコードの入力だけ。五分もあれば事足りる」
「………」
 短い沈黙。門からの侵入を許したとなれば、下級階級への降格は目に見えている。それは、人生が終わることに等しい。兵が迷うのも無理は無いだろう。
 ナナシは衛兵の沈黙に応えるように、引き金に少し力を加える。
 引き金から響く、小さな金属音が、カウントダウンのように静寂を破る。
「ま、待てっ!分かった。今すぐ開けるから殺さないでくれ」
 二度目の音が鳴る寸前、衛兵は引きつった声音で言う。ナナシは引き金にかかった指を離すと、素早く肩紐と銃の連結部を外し、銃を手中に収める。警備兵は突き付けられた銃口とナナシをチラチラと横目で見ながら、扉のロックを外す。
 音声ガイドの機械的な声を聞きながら認証をすませ、間違うことなくパスコードを入力する。
『コード確認。ロックを解除します』
 ロックの外れる金属音に続き、気圧式の扉が短い排気音と共に横にスライドした。
「あ、開いたぞ。もういいだろ?かいほ…」
 衛兵の振り向きざまに一撃。銃身でこめかみを強打する。
 脳への強烈なダメージが、衛兵の意識を一瞬にして奪った。
「ありがとう。助かったよ」
 ナナシはショットガンをその場に投げ捨てると、ゆっくりとした足取りで貴族街へと入っていった。

 立ち並ぶ高層ビル群。煌びやかに輝くネオンの光。摩天楼と呼ぶにふさわしいであろう街並みが目の前に広がる。
「何度入っても、下衆な街だな」
 ナナシは一人つぶやく。上流階級からの依頼で正式に入ったことが何度もあるが、入るたびに吐き気すら感じる。
 日ごろ外で暮らしている彼にとっての、あまりに酷い内外の差。
 立ち並ぶビルの間を縫うように進み、奥まったところにある小さなプラントへと向かう。
 そのプラントは、ヘブンスウォールと隣接した場所に建っており、数あるプラントの中でも特に奥まった場所にあった。まさに、今回の依頼に適した場所と言えるだろう。
 
 プラントの出入り口に向かったナナシ。そこは案の定、ヘブンスゲート同様の厳重なロックがかかっており、特定の人物以外の出入りは許されていない。先ほどのような手を使おうにも、こんな奥まったところではろくに通行人もいなかった。
 ナナシは無言のまま裏に回る。
 そこには鍵のかかっていない裏口が……あるはずもなく、分厚い壁が続くだけだった。
 街から届いていた薄明かりも、プラント自体で遮られている。そこにあるのは強固な壁と、夜より尚深く暗い闇だけ。
 ナナシは壁、壁に張り付く影に触れる。
 そして、壁の中に溶けた。

 ナナシは壁を通り抜けた。いや、正確には影の中を通ったと言うべきか。
(流石に、体全体を通すと疲れるな……)
 プラント内部には、積み上げられた大量のコンテナと、全自動で動き続ける機械類があるだけで、警備員や見張りの類は全く無い。
 もとより強固な壁と万全のセキュリティを施した扉に護られた施設だけに、内部の警備は手薄で、いくつかのセンサーと警備カメラが備え付けられているだけだった。
 ナナシは事前に受け取っていた警備状況の詳細――センサーやカメラの位置等――から、警備に引っかからない場所を見極めていた。
 ナナシは襟元からシャトル型の懐中時計を取り出し、次男を確認する。多くの民家が寝静まり、街にもじきに静寂が訪れると言う時間だった。
(約束の時間よりは少し早いか……)
 隠れて過ごすには少々長い。とはいえ、予定より早く実行に移せば、予定外の事態に依頼主が混乱することは目に見えている。
(所詮は安い依頼だ。少し早くとも問題ないだろう…いざという時は俺が“飲め”ば済む事だしな)
 目視で確認できるところに積まれた、大量のコンテナを見やる。中に入っているのは、明日の朝一番に配送されていく、貴族街の住人の食料だ。
 依頼主はスラムの人間だ。日々飢えに苦しむスラムの住人がよく行う、食料強盗に過ぎない。
 ナナシにとって、食料など幾らでも手に入るものであり、こんな安っぽい依頼を受ける必要は無い。それでも引き受けたのは、たまたま今夜は依頼が一軒もなく、暇を持て余していたからだった。
(まぁいい。さっさと終わらせよう)
 ナナシはゆっくりと、真っ暗な闇に染まる壁に手を伸ばす。頑なに全てを拒む冷たい壁。その壁から二車線の舗装路一本を挟んでヘブンスウォールがあり、そこは円形を模っている貴族街の、ちょうど西側にあたる場所だった。

――闇よ 我が意に従え

 静かなナナシの声が、闇夜に木霊する。
 ナナシの触れる闇が蠢き、躍動する。
 じわりじわりと感染するように、蠢く闇はその面積を拡げる。
 蠢く闇は壁全体に拡がるのに、大した時間は要さなかった。
「下準備は終わった。まだ少し早いが、実行に移させてもらおうか」
 
――闇よ 万里万物を穿て

 一瞬の間をおいて、轟音。
 蠢いていた闇は、ナナシの一言と共に完全に動きを止め、一瞬後にはプラントの壁とウォールに、民家ですら通せるような、巨大な穴を空けていた。
「行けっ、警備が来る前に全部運び出すんだっ!」
 外から若い男の声が聞こえたかと思うと、十数人の青年が瓦礫を蹴り飛ばしながら駆け込んできた。依頼主の仲間だろう。
 同時に、けたたましい警報が鳴り響く。
 依頼主も駆け込んできた一団の最後尾にいた。まだ二十歳前半の若い青年だ。凛々しい顔つきは硬く引き絞られ、緊迫した状況を知らしめる。
「予定より少し早かったな」
 依頼主の青年が、動き回る仲間を見ながら言った。
「遅いよりはマシだろう? 仕事自体は完璧にこなしている。」
「確かに。安い料金で雇ってる身としては、この結果に文句はない」
「理解、感謝する」
「……それにしても、流石は『スグリ』だな。見事な手際だ」
 青年はほほを緩める。しかし、すぐに気を引き締め、怒声と共に仲間に指示を出すが、青年の仲間は扱いなれないコンテナ輸送機にもたついている。どうやらあまり順調ではないようだ。

【スグリ】。
 その名で呼ばれるのは、彼にとって不愉快だった。
 神に選ばれた者として、年に数十人生まれる異端者。その身に宿る力は人智を越え、それ故に隔絶される。多くのスグリは幼年期の内に捨てられるか、虐待により死んでしまう。
 何とか幼年期を生き延びた一握りのスグリは、生きるために力に磨きをかけ、ナナシのように裏家業で食い繋いでいる。
 熟達したスグリの力は壮絶であり、いかなる現代兵器を用いても鎮圧は難しいと言われている。
 ナナシは生き延びたスグリであり、『影』を『取繰る』ので影スグリと呼ばれる。他にも火や水、稀に天候すら取繰る者がいると言う。

「ふぅ……」
 ナナシは軽くため息をつく。
 かなり遠くからではあるが、彼の耳にはあまり聞きたくない音が届いていた。
(軍の正規採用ヘリか…武装は七十二ミリガトリングガンってところだな)
 このままでは作戦失敗どころか、全員射殺されてしまう。自分一人逃げるのは容易いが、依頼未達成というのは、ナナシのポリシーである『依頼完遂』を破ってしまう。それだけは寛容できない。
「クライアント、軍のヘリが来る。早く撤退しろ」
「!? しかし、まだ荷物が……」
 作業状況は最悪だった。搬送はやっと二つ目に取り掛かった所だが、積み上げられたコンテナはまだ十以上残っている。
「問題ない、後は俺が運ぶ。生きて帰りたいなら今すぐ退け」
「……わかった。信用しよう。明後日、この時間に、打ち合わせをした場所で待つ」
 それだけ言って、青年は仲間の操縦する搬送トラックに乗り込み、ナナシの空けた穴から走り去った。

「さて、それじゃ……」
 手をコンテナのほうに差し向け、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。

 ――闇よ 悉く飲み干せ

 透明感ある声が響くと、堆く積み上げられていたコンテナが地面へと飲み込まれていく。多少の時間は食ったものの、闇は大量のコンテナを全て飲み込んだ。
 コンテナがあった場所の闇は、未だに水面のように波打っている。
「明後日の取引まで沈めておけばいいか…」
 そう呟いてからナナシは踵を返し、自らが空けた穴を通って外に出た…

 はずだった。

 刹那、目に映る景色が一変し、ナナシはレンガで造られた美麗な部屋に立っていた。
「……」
 驚愕は無い。彼の感性からは、弱みになるような要素は削り取られていたから。ただ、差し込む陽光は常夜の世界に慣れ親しんだ彼の目には辛く、堪らず細める。
 慣れ始めた目が、部屋の内装をはっきりと捉える。
 どれも高価そうな調度品が並ぶ一室。小さな執務机と簡素な寝台。明り取りの小窓と唯一の出入り口である木製の扉。据え置かれた小さな本棚には、ナナシの世界で使われている文字で書かれた幾つかの書籍。窓から見える景色は見たことも無い大きな石造りの舞台。どうやら闘技場の類らしい。
 ナナシは簡単に部屋を調べるが、残念ながら何も無い。
 仕方なしに、外へと続く扉を開く。
 
――まずは一人、最後の戦場へと足を踏み入れた。