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「安い情報と高い情報、どちらをお求めですか?」
 櫃儀蒼姫はうんざりした様子で、しかし事務的にそう問いかけた。
 人形のような女だ。
 人が理想的だと想像する部品で全てを構成したかのような、繊細で緻密な容姿。
 誰もが望み誰もが憧れるような、作り物めいた雰囲気が彼女にはあった。
 陶器のように滑らかな肌、薔薇色の頬、宝石のような瞳。
 艶やかな黒髪は肩に流れ、整った眉は美しい弧を描く。
 笑えばそれは大輪の花のようで、嘆きですら人を魅了する。
 人外の者にのみ許される、魔性の美しさ。
 ただ在るだけで、魅入られてしまいそうな類の美を女は持っていた。
 いや、女と呼ぶにはまだ早過ぎる。
 手足はすらりとしているが未だ伸びきっておらず、他の体の各部位もこれから本格的な変調を迎えるのだろう。
 服装に至ってはビスクドールに着せるような、ひらひらとしたレースやらフリルやらがふんだんに使われた物で、上から下まで余す所無く黒で統一されていた。

 銀淵国固有の種族『紅貴』。

 この世界に存在する数多の幻獣種族の中で、変り種の際までといわれる存在。
 櫃儀蒼姫は紅貴の退魔師の一族、そのエリートだった。
『箱事』と言われる封印術や『継織』と呼ばれる浄化制御術まで、櫃儀の一族に伝わる秘儀、奥義を窮めた当代切っての使い手の一人であるはずなのだ。
 それが何故こんなことをしなくてはならないのか?

「今、あんま懐に余裕が無いからな……取り敢えず、安くて役に立ちそうな情報をくれ」
 三十台半ば頃の草臥れた灰色のスーツ姿の男が、人生を諦めたかのような気だるげな声で言った。
 伸び始めの無精髭と悲しいくらいの撫で肩が哀愁を誘う。
「……それならこれをどうぞ」
 背後の棚、上から三番目の引き出しを開けて、蒼姫は小さな紙片を取り出した。
 中身はよく知らない。
 飽くまでも予めなされた指示通りに行動するだけ。
 この男に対してなされていた指示は、値段に関わらず役に立つ情報を所望した場合だけこの紙片を渡し、他の場合は隣の引き出しから赤い紙片を渡すというもの。
 その時に決して中身を見てはならず、内容を問うこともしてはならない。

 はっきり言って退屈な仕事だ。
 誰にだって出来るとは言わないが、わざわざ櫃儀蒼姫を使ってやるようなものではないだろう。
 情報の継ぎ役という仕事が、では無い。
 情報を受け取りに来る人物の中からターゲットを見つけ出し、誰にも気取られること無く抹消すること。
 殺人。
 これは退魔師に与えられる仕事ではない。
 勿論、彼女自身に与えられた仕事ではなく、別の人物に与えられた仕事の肩代わりだ。
 彼女自身の仕事を遂行するために必要な人物から出された、目的達成のための交換条件である。
 面倒臭い、という理由だけで押し付けられた、気の進まない仕事なのだから、退屈と感じても仕様が無い。
 退屈、で済ませてしまえるところが恐ろしいところだが。

男は紙片を受け取ると中身を確認し、それから深いため息をついた。
 どんな内容が書かれていたにしろ、ろくでもないことが記されていたのだろう。
 僅かばかりの同情とそれ以上の呆れが心の内のみに浮かぶ。
 あの大嘘吐きを情報屋として信用していることに対して。それとも、草臥れた男の存在そのものに対してなのか。
「……相変わらず、くれる情報に優しさが無いな。役に立てる方法が無いわけではないのが、何とも嫌な感じだ」
「オレンジです」
「ん。有難う」
 男は懐から袋を出して蒼姫に手渡す。
 オレンジというのは金額で、一定範囲内の増減を含む。大体幾らなのかはよく分からないが、一般人が懐からほいほい出せるような金額ではないらしい。
 ずっしりとした重みを受け取った手の平に感じて、蒼姫はなんとなく顔をしかめる。
 相場がどうなのかは知らないが、ぼったくりのような気がしてならなかったからだ。
 良心の呵責がどうという話ではない。
 儲けているのが自分ではないのがムカつくと言うだけである。
「面倒臭いけどやるしかないか……」
 再び深い溜息。
 蒼姫はそれにつられて自分も溜息を吐きそうになり、何とかそれをこらえる。
 男の貧乏くさい雰囲気と、世界の終わりが来たかのような陰気な表情が如何仕様も無く吐息を誘うのだ。
 先程とは違う原因で眉間に皺を寄せ、蒼姫は苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、俺はこれで……金の都合がついたら、その内改めて来るわ……」
男はふらふらとした足取りで暗くて狭いこの部屋から出て行き、扉のしまる音と共に見えなくなった。

 暫く間を置いて。
 
 部屋の扉が音を立てて開かれる。
 継ぎ役にいい加減飽きてきた蒼姫は若干据わった眼で扉を眺めており、その向こう側から現れるものに向けられていた。
 年相応の気の短さで遠慮なくぶつけられる苛立ちの視線。
 たとえそれが人形の如き少女から向けられたものだったとしても、大概のものが竦み上がるような凄みがあった。
 それを怯むことなく正面から受けてその男は嗤う。
「客に向ける視線じゃねえな」
「……煩い」
「ひははははは、怖い奴だ」
 揶揄を含んだ厭味な笑い。
 蒼姫はこの男が苦手だった。
 同じ師から学び、同系統の技術を習得しているというだけの理由で度々遣いをやらされるのだが、専門分野が全く違う上に能力上も性格上も相性が最悪なのであまり関わりたくないタイプの相手なのである。

 名を朱鐘織弾という。
 濃紺の袷に薄紫の帯。
 柔らかい夜色の髪を後頭部にバレッタで留めて、前髪は横に流している。
 一見すれば女のよう。
 しかも結構な美人。
 すっとした眉の下には藍色の双眸があり、赤い唇は笑みの形に歪められていた。
 見る者を苛立たせる高慢な笑みだ。
 左手には竹骨の黒扇子。
 開くと桜の花の散る様が描かれている。
 戯言好きのいかれた奴だ。
 騙される人間を嗤うためだけにこんな格好をしているのだから。

 朱鐘織弾は紅貴の殺戮師の家系『朱鐘』に生まれた出来損ないだった。
 万象の破壊を司る殺戮師でありながら、存在を根絶することに興味を持たない変り種。
 戦闘、戦術、戦略、空間把握、時間把握、力量把握。肉体の支配と現象の支配。
 おおよそ破壊に関係する物ならどんなものにも適正があり、目的のためならば味方殺しすら躊躇わないため、紅鬼神とすら呼ばれる彼らの中ではそのことは異常だった。
『朱鐘』は生れた時から把握し、破壊したいという強力な欲求を持って生まれる。
 それは、彼らの一族が継承してきた役目に因るもので、存在を破壊したいという性質はそれに対応するためのものだった。
 つまり、一族の中ではそれが無いということは劣等なのである。
 あらゆる生き物を殺し、あらゆる物質を破壊する。
 そのための技術を習得するのに破壊欲求は強い程、習得意欲に大きな影響を及ぼす。
 実際、その影響は現れたようで、紅貴の他の一族の者には決して劣ることは無いが、『朱鐘』の中では下位の破壊技能者として扱われているらしかった。
 そして、その評価は正しい。
 朱鐘織弾は壊すということにかけて、圧倒的に他の朱鐘に劣るのだ。

 ただし、修復不可能な状態することを破壊と定義するのならば。

 蒼姫が織弾を苦手とするのはその部分に由来する。
 退魔術というのは基本的に防御治癒型の技能なのだが、殺戮師の破壊術は防御出来ない程の破壊力で修復不可能な損傷を引き起こすもの。
 復元の魔法でもない限り修復は不可能という恐るべき力である。
 つまり、退魔術の天敵とでも言うべき能力なのだ。
 それは他の能力に対しても同じなのだから、苦手というよりは諦めという方が正しくなる。
 そう、通常ならば。
 しかし、織弾の破壊術は再生可能なのだ。
 たとえば人間に対して通常の破壊術行使者が破壊術を行えば、心臓を抉り取ったり、脳を破壊したりと魔術でも再生出来ないダメージを確実に与える。
 そして、織弾の場合、心臓に衝撃を与えて一時的に殺したり、手足を折るなど目的の邪魔にならない程度の破壊しか行わない。
 しかも別段仏心があるのではなく、時間的効率の重視と面倒臭がりで悪戯好きという、この者の持つ悪癖だというのだから始末に終えない。
 考えてみれば此方の方が残酷でもある。
 相手を傷つけることに対する罪悪感が無いのは他の朱鐘と同じなので、必殺で無いというのは時に長い苦しみを相手に与えることになるからだ。
 退魔師と殺戮師とでは職業上対面することはまず無いが、皆無とは言い難いことが憎らしい。
 少なくとも、生殺しで相手を放置するような半端者は敵に回したくないと蒼姫は思っていた。
 
 黒扇子を開いて扇ぎながら、織弾は徐に口を開く。
「客はさっきので全員だ。ご苦労さん」
「? どう言うこと?」
「対象者は来ない。殺っちまったからな」
「!」
 蒼姫は机を叩いて勢いよく立ち上がる。
 その様子を眺め、さも嬉しそうに織弾は瞳を細めた。
「貴方まさか……」
「いや、来ない客をひたすら澄まして待ってるのは大変だっただろ?」
 蒼姫は奥歯をかみ締める。
 そう、こういう奴なのだ。
 何故今まで考えもしなかったのか。
 湧き上がる怒りと羞恥の念に顔を真っ赤にして、それでも癇癪を起こしかけるのを押し留めようと努力してみる。
 しかし、それは無駄だった。
 爆発的に巻き起こる感情の渦が熱した石のように冷えることを許してくれない。
「始めからこっちが目的だったのッ!?」
 織弾は鷹揚に頷く。
 憎らしい程にはっきりと容赦なく。
 口元を黒扇子で隠して押し殺した笑いを浮かべて。
「暗殺なんて任せるわけねぇよ。ちょっと考えれば分かる。そもそも、俺はこっちが本職なんだから。これでも一応は『朱鐘』姓を名乗ってる。名乗っている以上、俺は『朱鐘』なんだよ」
 そして、再び嗤う。
 今度は可笑しくて堪らないという風に腹を抱えて笑った。
 蒼姫は笑い転げる織弾を前に怒りを堪える。
 怒鳴ってやりたいことは色々あったが、どう言ったらいいのか混乱した頭では上手く考えられない。
 蒼姫は耐えた。
 耐えた。
 耐えた。
 耐えた。
「煩い、黙れ、いい加減笑うのを止めなさい!」
 織弾は黒扇子越しにちらりと蒼姫を見やり、
 また嗤った。
「…………!」
「まあ、そう怒るなよ。殺人何ざしないで済ました方がいいらしいし、結果的にすることは同じなんだから問題ねぇだろ?」
「……そうだけど」
 何か釈然としないものを感じる。
 確かに不可能とは言わないが進んでやりたい類の仕事ではないし、内心ではほっとしている部分もあったのだが。
「――糸を使ったの?」
 蒼姫は思わず聞いていた。
 すると織弾は急に笑みを潜め、透かすような視線を向けてくる。
「針だ。呼吸中枢をぶすっとな。個人相手に使うことはまずねぇよ。まあ、哨戒兵器としては使うかもしらんが」
 藍色の瞳からは何も読み取れない。
 嘘を吐いているのかもしれないし、本当のことを言っているのかもしれない。
 それでも微かな片鱗だけでも見つけられないかと、僅かな希望を持って蒼姫は見つめる。
「……師から学んだ技を殺人術として使われるのは嫌か? 拘束、傀儡、哨戒。基本はそうだとしても、装弦術ってのは殺人も視野に入れた糸繰りの技だ。それに、戦略殺戮兵器たる『朱鐘』が習得するということは、ただそれだけで破壊のために使われることが決まっている。テーブルマナーすら人殺しの手段にする殺人鬼に『得物』を持たせて殺すな、と言う方が無理な話」
 織弾は黒扇子を音を立てて閉じた。
「……分かってる。だけど、嫌なものは嫌なの」
 嫌悪感を隠しもせずに蒼姫は言った。
「それは仕様が無いな。お気の毒としか言いようが無い」
「嫌な奴」
「性分なもんでね。死ななきゃ直らない」
「死んでも直らない、でしょ。貴方の場合」
「違いない」
 まじめに対応する気はさらさら無いようだ。
 この二人の会話は常にこんな感じで、始終織弾は揶揄い通し。
 蒼姫も苛立ちを通り越して諦めが目立つ。
「……そろそろ、本題に入っていい?」
「ん? ああ、どうぞ。言い給え。聞いてやる」
 織弾は促す。
「これ、外して欲しいの」
 蒼姫は右手を差し出す。
 人形のような滑らかでやや白過ぎる手の平、その中指に銀色の指輪が嵌っていた。
 織弾は蒼姫の手をとって指輪を眺める。
「面白いな。封殺具の一種か?」
「……多分変換具の一種。これ嵌められてから術式構築が解除されて、特定の構成に書き換えられるようになったから」
「どんな構成だ?」
「…………」
 蒼姫は押し黙る。
 すると織弾は何かに気付いたかのように、いつもどおりのいやみな笑みを貼り付けた。
 銀色の指輪は簡素な作りで、輪の表面に複雑で意味の分からない文様がびっしり刻み込まれている。
 織弾の瞳は吸い寄せられるように指輪の表面の模様を見つめ、そこから何かを読み取ると、満足げに頷いた。
「成る程。ここに来るように言ったのは鎮埋だろう? 嵌めたのも奴か? 櫃儀がこういう面白いもんを残しとく筈が無いからな」
 蒼姫は嫌な顔をする。
 確かにこの指輪を蒼姫が寝ている時に嵌めたのは姉の櫃儀鎮埋であり、仕向けたのも彼女だったからだ。
 或いはそうなるようにこの指輪を用意したのは織弾なのか? 可能性としてはありうる上に、聞いたとしても否定しないだろう。
「呪の指輪だな。魔術構成を『阻害』の魔術に変換する。馬鹿な奴だな。呪を他者に転写すれば大したこと無いのに」
 あっさりとそう言う。
 恐らく、元来はそういう用途の指輪なのだろう。
 魔術の構築が苦手な者の為の呪殺の道具。
 長い時間をかけて蓄積し、肉体の動きを徐々に阻害して行き、最終的には存在そのものを成立しにくくするもの。
 蒼姫は呪を自らに向けて発していた。
 自分の不手際で起こった災いを他者に擦ると言うのは気に食わなかったからだ。
 しかし、これならば鎮埋か織弾に転写しておけばよかった。
 蒼姫は少しばかり後悔して、それから出そうになる溜息を何とか飲み込んだ。
「いいでしょ、そんなの。私の勝手なんだから。さっさと解きなさい。条件は果たしたでしょ?」
 いい加減うんざりしていたので、蒼姫は投げやりに言う。
 すると織弾はにやりと笑い、
「対象の殺害が条件だった。それは俺がやっちまったから、ご破算だなこの話は」
「なッ!?」
「冗談だ。解いてやるよ」
 蒼姫は一瞬本気でどうしてやろうか考えた。
 稀に冗談ではなく本気でやることがあるからだ。
 眉間に入った力は抜けず、口元は強張ったままで蒼姫は硬直する。
「それにしても、お前騙され易いな。悪徳商法とかに捕まってないか? なんか心配になって来た」
 珍しく普通に心配するような感じで聞くのが更に憎らしい。
 遭ってるよ、今現在。
 蒼姫はそう言いたいのを何とか堪えて、ゆるゆると着席する。それからなんとも言い難い激しい頭痛に襲われて頭を抱えた。
「ひはははは。取り敢えず借りるよ、それ。個人的に調べてみたいし」
 取れないからここに来たというのに、何を言っているのやら。
 蒼姫は抗議しようと顔を上げ、怒りの眼で織弾を見る。
 そして、唖然とした。
「あれ? どうして? いつの間に……」
 織弾の左手の親指と人差し指。
 その間に挟まれて銀色の指輪が光っている。
 蒼姫は慌てて自分の右手を確認し、指輪が消えていることに気付いた。
 澄んだ音色が耳に鳴り響く。
 床に硬質のものが打つかって立てるよく聞いた音。
 つられて床に視線を移すと金色の硬貨が床を転がっている。
「じゃ、確かに。もう帰っていいぞ。十分お前の間抜け面も堪能したし。腹一杯だ」
 織弾は指輪を掲げてそれを眺めていた。
 もう完全に蒼姫には興味が無いとでも言わんばかりに。
 蒼姫は憮然とする。
 苛立たしい気持ちと、何を言っても無駄だという経験が頭の中で鬩ぎ合い、前者が採用された。
「ちょっと、説明してよ! 何がどうなったのよ?」
 織弾は一瞬だけ片眼を蒼姫に向け、それから何事も無かったかのように再び指輪を見つめることに集中した。
 しかも、さも愉しげに。
 いい加減脳の許容範囲を超えそうだった。
 片手を振り上げて、瞳に狂気を宿し、蒼姫は大口を開ける。
「教えるわけ無いだろ? 個人の能力なんだから。お前だって他人に知られるとやばい能力くらいあるだろ? これはそういうやつだ」
 また気勢を殺がれて蒼姫は押し黙る。
 確かに、能力というものは、特に織弾のように戦闘を生業とするものにとって、知られることは死活問題につながりやすい。
 蒼姫にも他人に秘匿している技術の一つや二つはあるし、一族間の技術の中には他人に知られたら確実に抹殺しなければならないような黒い技術も存在する。
 蒼姫は呻いて、そして、涙目になってそれでも堪えた。
 向うの方が正しいのだと言い聞かせて。
 すると織弾は、
「握手を交わした相手と持ち物を交換する。右手の物は右手の物と。左手の物は左手の物と。ある宣言を鍵に術式を起動。俺が唯一使える魔術で殺し技だ」
「!?」
「ちゃんと覚えとけよ? そうじゃないと大義名分がなくなる」
 何でもないように言う。
 蒼姫は冷や汗が体中から噴出すのを感じた。
 織弾の眼は指輪に注がれており、こちらに何の注意も払っていないことは気配で分かる。
 しかし、言葉には凄みがあった。
 なんでもない様子で言うからこそ、こもる類の静かな。
 織弾は指輪の角度を変える動きを止めて、左の手の平に指輪を乗せてじっくりと眺める。
 その視線がいつこちらに向くのか。
 蒼姫は息を呑んで、全身の神経を鋭敏にしていく。
 蒼姫は瞬きした。
 自力ではどうにもならない生理的な作用。
 いない。
 どこにも。
「殺されると思ったか?」
 蒼姫はびくりと体を震わせる。
 正面にはいない。
 素早く振り向いた右側面に織弾の姿があり、その手は蒼姫の頭に添えられている。
 その表情は、表現しがたいものだった。
 普段見せないような透明で嫌味の無い、爽やかと言えるような……。
 蒼姫は半眼になる。
 緊張は解けて、滑らかな動きで織弾の顔面に拳をめり込ませた。
 全くよける素振りも見せずに、織弾は大袈裟に痛がって見せ、またいつも通りの嫌味な笑みを浮かべる。
「痛ぇな。顔がへこんだらどうする?」
「その方が男前よむしろ」
「ほう、そういうのが好みか?」
「違う!」
 左手で黒扇子を開き、織弾は扇ぎだす。
 蒼姫は深い深い溜息を盛大に吐いて、織弾の傍らを通り過ぎた。
「もう、来ないから」
「そりゃ寂しいな。新しい玩具を探さなきゃ無くなる」
 むっとしたが堪えて、蒼姫は出来うる限りの嫌味を考える。
それから息を吸って振り向き……
「あれ?」
 いない。
「ちょっと、また……」
 気配すらない。
蒼姫は腹立ち紛れに机を蹴った。
けたたましい音があたりに響き、しかし、やはり何も現れない。
また揶揄ってるんだ。
蒼姫はそう判断して、少しの間だけ部屋の中を視線だけで探る。
 何も見つからない。
 腹が立った。
 しかし、これ以上茶番に付き合っている時間はないし、精神衛生上もよくない。
「絶対に金輪際二度と来ないから!」
 最後に部屋に響いたのは負け惜しみのようなその言葉だけだった。

 織弾はというと。
 レンガ造りの華美な部屋の真ん中にぽつりと佇んでいた。
 頭を掻く。
 それはあり得ない現象だ。
 少なくとも、あの国の中では空間転移など不可能なはずだった。
 聖域でも禁域でもない、魔力希薄地帯ではそれ以下の高等魔術でも発動は不可能だというのに。
 余程魔力効率のいい精密な構成を組めるのでなければ、物体ですら転送出来ないはずなのだ。
 織弾の能力『最後の裏切り』。
 特殊回路による超精密自動構成だからこそ発動する物体転移魔術。
 自動構成のそれですら物体転移が限界なのだ。
「ここはどこだ?」
 それだけ言うのが限界だった。
 少なくとも織弾の記憶の中のグリムブラウドにはこの場所は存在し得ない。
 世界法則そのものが違っている。
 肉体に返ってくる感触がそれを伝えていた。
 魔力濃度は比べ物にならないほど濃く、その代わり、肉体の支配感覚がぎこちなくなっている。
 思う通りの動きから、少しだけ遅れて身体がついてくる感じ。
 取り敢えず、織弾は部屋の中を見回した。
 執務机と簡素な寝台。
明り取り用の小窓から出るのは難しそうだ。
 壁に触れて硬度や厚さを測る。
 破壊は不可能ではない。
 不可能ではないというだけで、時間も労力もかなり要るだろうが。
 入り口にあたる木製の木戸は、軽くて頑丈。
 これもグリムブラウドには存在しないもののようだ。
 備え付けの本棚にはいくつかの書籍が詰められており、何故か内容は読める文字だった。
 明らかに異質な材質の物の中に、解読可能な文章があるというのは気に食わない。
 織弾は感覚を変化させて本を凝視する。
 文字は読める。
 しかし、グリムブラウドに現存する文字に該当するものは無い。
 まるで意味そのものが脳に転写されているかのようで気持ちが悪かった。
 織弾は本の内容を頭に叩き込むと笑みを浮かべた。
 どうやらここは本当に違う場所らしい。
 扉の向こうにあるのが何なのか。
 本の内容から察するに、碌でもないことなのは確か。
 しかし、織弾は愉しそうに嗤う。
「さあ、状況を始めよう――」
 音も無く扉が開く。

 地獄への門は今この時を以って開錠された。