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序 章 近世薬師信仰史研究の視角

一 薬師信仰と研究史

日本宗教史上、薬師如来に対する信仰は歴史的にはやい。その様相を示すいくつかの事例を挙げれば、大和法隆寺の金堂薬師像は、遅くとも七世紀半ばまでの造像であることが確認されているのをはじめ 、天武天皇九年(六八〇年)には皇后不予のため薬師仏造立の発願をうけ薬師寺が建立 、また皇族の病気平癒を目的とした薬師像の造像とともに、薬師悔過法 が実施されるようになったことなどがその代表的事例である 。その後、孝謙朝には、鎮護国家思想に基づき国分寺・国分尼寺が建立されるが、五来重氏は「大部分の国分寺は薬師如来像を本尊とし、多くの国分尼寺は観世音菩薩像を本尊とした」と推定し、前者について「薬師悔過本尊とする目的があった」と指摘している 。また、平安時代には、教王護国寺(東寺)金堂や比叡山根本中堂などの本尊として薬師如来が祀られた。仁明朝には、疫病流行という社会状況に対応して、薬師悔過法や般若経の転読などが行われたという 。
しかし密教の流入を機に、これまでの薬師信仰は変容をみせる。西尾正仁氏はその理由として、①密教の世界観を示す金剛界・胎蔵界の両界曼荼羅には薬師の座すべき位置がないこと、そして②平安中期以降、病の病因として、政争に敗れた人々の死霊など、物怪の存在が意識されるようになり、不動調伏法をはじめとする加持祈祷が重要視されるようになったことを指摘している 。この頃、天台宗中興の祖である良源(九一二~九八五)により七仏薬師法が完成され、それ以降、主に安産祈願の修法として、また台密の五箇大法の一つとして展開した。また、京中の諸寺院で盛んになる修正会の修法として薬師悔過法が執り行なわれるようになったという 。このように古代薬師信仰は、変容しつつも貴族社会に影響しつづけた信仰の一つであった。この頃の民衆における薬師信仰の様相については、史料が不足しているため不明な点が多い。
中世になると、行基の造像伝承をもつ薬師仏が流布するようになる。このことが、薬師信仰の民衆化する要因ととらえられている 。第二章で検討する『峰相記』 には、ほとんど薬師霊場がみられない中で「船越山・楽々山・棚原山・弥高山・光明山・藤尾山等ハ行基菩薩建立、皆薬師本尊ノ寺門也」と明記されている。行基と薬師の関係を語る初見は、鎌倉前期頃の仏教説話集である『古今著聞集』 である。これを要約すると、行基が摂津国有馬に向う途中に同国武庫の山中で倒れていた病者を救った。その病者は生身の薬師如来であり、「温泉行者」と名乗りその姿を消した。そこで行基はその姿を像に刻み、昆陽寺(現兵庫県伊丹市)を建立したというものである。この説話は、第二部で取り上げる近世薬師説話『瑞応塵露集』 においても説かれている。
そもそも薬師信仰史研究は、他の諸信仰史研究に比して盛んではない。個別寺院史を描く際にその場に祀られる薬師仏が、主として美術史的に分析されることはあっても、薬師信仰そのものを分析対象にしたものはほとんどみられない。しかしそうした中でも、奈良仏教における仏教文化のあり方について、仏教史研究の立場から薬師信仰を問題にする根本誠二氏の研究 、また近年、古代・中世の薬師信仰の変容を文献的に考察し、主に行基伝承を共有する集団の動向と薬師信仰に着目した西尾正仁氏の研究 がみられる。両氏をはじめとする成果から古代・中世の薬師信仰の展開を概観すると、古代において薬師如来は、一方では病気平癒の現世利益の仏という側面と、他方、鎮護国家の仏という側面との二面が古代社会において重要視されたと評価されている。西尾氏は薬師信仰を単なる除病安楽の信仰だけではないという立場に立脚し、古代国家鎮護の信仰的性格を詳細に分析し、国家レベルの信仰から民衆信仰としての薬師信仰への変貌の様相を描いている。しかし、天皇の病気治しや異国調伏などの国家仏教的薬師信仰を基軸とする展開、また行基伝承との関わりにおいて薬師信仰の民衆化の過程に着目しながらも、密教世界における薬師仏の居所のあり方や諸方面に影響を与えた浄土教・阿弥陀信仰の展開を機として薬師信仰の役割が変容したという状況論に注目するあまりに、ついには薬師信仰が病気治しの現世利益信仰という側面だけが強調され、受け入れられていくという論理展開を示すことになっている印象が棄てがたい。やはり日本人の精神生活史として、今一度、病気治しの現世利益信仰としての薬師信仰評価をめぐる本質的問題は、再考の余地があるといわざるを得ない。
さて、薬師信仰と民衆との関わりについては、中世以降にはっきりしはじめるものの、民衆の薬師信仰は、古代から今日まで連綿と続いている民衆信仰の一つであると思われる。
地域住民による薬師堂の管理・維持の様子は、はやく平安初期頃の『日本霊異記』 にみえている。
(前略)子に手を控か使めて、其堂に迄り、薬師佛の像に向ひて、眼を願ひて曰く、我が命一つを惜しむに非ず、我が子の命を惜しむなり、一旦に二人の命を亡さむ、願わくは我に眼を賜へ、と、檀越見矜ミテ、戸を開きて裏に入れ、像の面に向ひて、称礼せしむ(後略)
とある。もとよりこの話は、盲目の女性が京の蓼原堂の薬師に祈願して目が開いたという病気平癒譚であるが、ここで注目すべきは、その女性のために檀越が薬師堂の扉を開けているということである。これは、平安初期頃において地域住民による薬師堂の管理・維持の様子があったらしいことを示している。また『康富記』 には
  仍自園城寺押寄于因幡堂、可打毀僧坊等之由風聞之間、此間侍所〈一色兵部并/小舎人雑色等〉、勢并近辺之町人等大勢、昼夜警護因幡堂云々
とみえ、京の平等寺因幡薬師の危機に対して大勢の町衆が因幡堂を守っている。さらに享保年間に成立した播磨国明石郡 の地誌『金波斜陽』 の「山田村」の項にも
薬師堂 境内東西五間南北七間 村支配
とみえており、近世においても、地域に住む村人たちによって薬師堂が管理・維持されていたことをあらわしている。
『金波斜陽』によると、明石地域内六十六ヶ所の村々には、薬師堂が確認され、薬師仏が祀られていたことがわかる。このことから近世明石郡において、地域住民の薬師仏に対する祈願と信仰が、脈々と流れていたことをうかがい知られるのである。つまり同地域にみえる薬師堂での祭祀は、近世民衆の日常生活における精神的拠り所の一つとして確立していた状況を示しているといえよう。そうするとその祭祀の内容が問題となるが、近世民衆の薬師仏への祈願内容を点検するかぎり、その特徴は、「治病」のほか、「産育」・「延命」を目的とした現世利益的なものがその中心であったということに気づくのである。
このような薬師信仰の信仰実態と本質を理解するのは、容易な作業ではない。それは全国的に莫大な数の薬師祭祀の痕跡が見出されることと、その薬師祭祀の内容が必ずしも『薬師瑠璃光如来本願功徳経』をはじめとする仏典に根拠がない宗教的行為(かわらけ投・耳石奉納など)を伴うことが多いからである。このような薬師信仰にかかる複雑な民俗現象を検証するうえにおいて、有益な分析方法は、五来重氏の提唱した宗教民俗学的方法であろう。五来重氏は、「庶民仏教というものは表層文化として受容された仏教の基層に、この国土に土着の、そしてこの民族に固有の宗教体系をもっていた」 と指摘したうえで、民衆の薬師信仰というのは、①山中他界観による祖霊信仰・山岳宗教と関係する薬師信仰(山の薬師)、そして②黄泉の国から寄り来る神の信仰という海洋宗教に帰することのできる薬師信仰(海の薬師)の存在を明らかにした 。これは、霊山霊場の多くや海岸部に薬師仏が祀られる宗教的要因として重要な指摘であり、五来重編『薬師信仰』には、「山の薬師と海の薬師」論をメルクマールとする薬師信仰研究として「地域」を多分に意識した論考が収められている。薬師信仰とは何かという問いに答えるには、こうした方法と、地域的分析によらなければ理解することが出来ないのである。
本論文では、以上のような方法論的問題を承知した上で、さらに発展的な議論を試みたいと思う。「近世薬師信仰史」を問題にする理由は、従来、研究史的に近世薬師信仰史が問題化されていないということだけではない。日本人の宗教観念と精神生活を考える上で、薬師信仰と病気治しの現世利益信仰とが歴史的にどの様に関わり、「病」と宗教の問題自体がいかに今日に連続しているのかという問題の歴史的契機を「近世」に遡り考察を試みる意図から成り立っている。
今日、人々の病気治しの問題は、その方策の多くが厚生労働省と医療機関、医師、医療関連企業、そして製薬会社などに委ねられている。ここに介在する現代的問題は、一部の産・学・官の癒着による重大な薬害問題の発生や過重労働にともなう医療ミスをはじめ、医学の進歩と相反する現象である。そもそも国家が人々の「病」の問題に介入するのはいつからなのか、また、今日の「新々宗教」に連続する問題の一つとして、薬事法が成立していない時期の「薬」と医療は、宗教とどのような関わりがあったのかなどについて、注意深く検討すべきではないだろうか。
先行研究によると、近世民衆の薬師信仰が衰微し現状に至った要因の一つとして、医薬文化の隆盛(医学の技術的進歩や民衆間での薬の流通・受容などをさす)という社会状況があげられている 。つまり、近世以降、治病という領域で、薬師如来と同様の機能を有している医薬文化・技術の発展にともない、薬師信仰は衰退したということであろう。このような指摘を受けて、医学史・薬学史などの立場による研究成果をみてみると、近世における売薬業者の数、製薬の値段、売薬の効目、製薬技術、薬種問屋の組織などの分析から、医薬文化の隆盛状況が実証され、確かに近世初期から中期頃が民衆レベルでの医薬文化の萌芽・成熟期として位置付けられている 。確かに、今日における医療の場面からでは、医薬文化の隆盛という社会状況が優越し、薬師信仰にみられる治病祈願が淘汰されてしまったかのようにみえる。しかし、薬師信仰の本質と歴史的展開を分析するうえでは、薬師仏の功徳(果)と医薬がもたらす効能(果)は共通するが、両者が密接に結びついていた時代を踏まえた宗教的構造論を抜きにして、その関係を根拠とするのは注意が必要であろう。
近世民衆の日常生活における精神的拠り所であった薬師堂の多くは、近年、地域開発にともない移転祭祀されることもなく、その姿を消し、わずかに残ったものも地域住民に顧みられることがほとんどないという状況である。このことが医療技術の発達と関わっていることは否めない。しかし、近世における売薬や加持祈祷などの事例をみるうえでは、少なくとも前近代において、人々の「病」の問題の多くは宗教的に解決されていたと考えられる。
以上の問題関心から、本論文は、次に掲げる諸問題の分析に即して「近世薬師信仰史」を明らかにしたいと思う。

一 本論の構成と問題意識

本論文では、大きく二部に分割して、地域的薬師信仰、薬師信仰の勧化本に関わる考察を中心に、近世的薬師信仰の展開について、それぞれの問題点を分析し、日本近世における薬師信仰の諸相と本質を明らかにする。もとより歴史的考察では、近世的薬師信仰の議論を踏まえた上で地域的問題へと展開するべきである。しかし本論文は、主に民衆信仰としての薬師信仰を問題にして、その内容は千篇一律ながら地域的に特徴的な信仰形態を読み直し、従来、ほとんど議論されていない近世的薬師信仰の問題へと展開することにより、薬師信仰の本質を先鋭化するという方法をとっている。
第一部の「薬師信仰の地域的展開」では、まず第一章で、高野一栄『薬師霊場記』(貞享三年)、湛澄『薬師如来利益抄』(元禄八年)を主たる分析対象として、両書の史料的性格を踏まえ、近世都市の薬師霊場の問題として、主に都市京都の七仏薬師・十二薬師霊場について、その所在を確認した上で、それらの霊場における「巡礼」に注目し、近世都市の薬師信仰を分析する。
第二章では、播磨地域の薬師信仰を取り上げる。ここでは地域的問題として法道仙人伝承と薬師信仰の関わりに特色を見出し、近世畿内地域の薬師信仰の一例として、近世民衆の薬師信仰のあり方を考察したい。
第三章では、奥羽地域の薬師信仰を問題にする。その理由は、「薬師神社」なる名称の神社が東北地方に集中的に存在することからである。「薬師神社」が近世文書に現れることは例外を除いてほとんどない。その意味でこの名称そのものの議論は、近代以降における問題である。しかし名称にみえる問題は、「ヤクシ」という仏教的名称を冠した神社が成立しえた信仰の背景を問題化し、地域的問題として取り上げなければならない。従来、「薬師神社」が積極的に取り上げられたことがない研究状況を受け、まずその事例確認を踏まえたうえで、その諸問題は修験道との関わりに注意しながら考察を加え、主に庄内地域における「薬師神社」への改称問題を中心に分析を試みる。
第二部「近世的薬師信仰と勧化本研究」では、ひろく現象面や思想的側面にも注意を払い、薬師信仰の近世的性格を明らかにする。五来重編著『薬師信仰』は、民衆宗教の本質を探ることを意図して薬師信仰を取り上げ、宗教民俗学的立場からその分析を行った研究が豊富に集められた論集である。そしてそれは、今日でも重要性を失うものではなく、本論でも五来氏の掲げたテーゼに則って諸問題を分析している。しかし、五来氏の薬師信仰分析は、その信仰における宗教的本質(基層信仰)を明らかにしたものではあるが、近世における薬師信仰の特徴やその背後関係についてはあまり明らかにされていないので、「近世的」なる躍動感が伝わってこないといわざるをえない。そこで本論文における近世的社会現象としては、出版文化の隆盛に注目する。中世までは大量生産が可能な版本は寺院版に限られていたが、近世には書肆が成立し、商業出版が開始された 。そんな中で仏教書物は生産・再生産され、勧化本の類の書物も盛んに編まれた。薬師仏の霊験を説く勧化本も例外なく成立したが、観音や地蔵などの他の諸仏に比べ数量的に微少であるが、近世的薬師信仰を考察するうえで、かかる勧化本は通俗性が備わっている点で一級史料として評価でき、ここから多角的な論点を導くことができる。本論文で重視する薬師信仰の勧化本は、『薬師如来瑞応伝』・『瑞応塵露集』である。
そこでまず第二部第一章では、享保期に成立する『薬師如来瑞応伝』・『瑞応塵露集』の書誌的分析をおこないたい。両書は、和泉国大鳥郡真言律宗神鳳寺末安楽寺住持の超海通性によって編まれた薬師信仰の勧化本である。このことを踏まえたうえで、その論法にみる主張と特徴を、そして民衆信仰における「滅罪」の論理が反映されている文言を摘出し、近世民衆の薬師信仰の実態と本質論に言及したい。
一方、第二部第二章では、『薬師如来瑞応伝』・『瑞応塵露集』が製作された背景を問題にする。なぜ享保期にこれらの薬師信仰を主題にした書物が成立するのかという問いの前提として、筆者である超海通性という人物とその周辺に関する問題が提起される。今日、超海は全く不明な人物であり、神鳳寺や近世律宗についてもよく知られていないことが多く、近世仏教史研究では大きく遅れている分野である。それゆえに両書から近世薬師信仰の様相を解明してゆくうえで、まず成立の背景や意図を詳しく分析する必要があった。そこで本章では、以上の目的から、近世真言律宗史の一側面として、特に神鳳寺の展開に注目し、超海通性の編纂環境を明らかにしたいと思う。
補論Ⅰは、近世薬師信仰を解明する手がかりとなる論考ではないが、第二部第一章、第二章でとりあげた超海通性の『薬師如来瑞応伝』・『瑞応塵露集』に記された内容に対して、批判が加えられている事実、すなわち両書における記述内容の信憑性に関わる問題を分析する一方、近世「略縁起」の意味を問うものである。超海は『薬師如来瑞応伝』・『瑞応塵露集』の中で三河国鳳来寺の薬師仏の霊験について記述しているが、その中で鳳来寺開山を「理趣仙人」と記している。この「理趣仙人」という記述に対して、鳳来寺松高院住持「善慧尋得」は、『掃塵夜話』という附録を合綴した『三河国鳳来寺略縁起』を発行した。その中で超海通性を名指しで批判し、「理趣仙人」の表記が「利修仙人」であることを主張する。この問題は、近世鳳来寺一山組織が天台系僧坊と真言系僧坊との共存状況であったことや、近世社会における縁起言説の管理の問題をはじめとする諸問題を含んでいる。その意味で、第二部で明らかにしようとする本来の目的から離れるが、超海の著作がいかに近世社会へ影響を及ぼしていたのか、という問題を傍証する論考という点で、本論文では第二部に補論として組み込んだ。
さらに、補論Ⅱとして「近世京都の民衆信仰―清水寺慈心院と随求菩薩信仰―」を加えた。この論考も近世薬師信仰の問題と直接関わらないが、超海通性の著作の一つに『随求菩薩感応伝』があり、『薬師如来瑞応伝』・『瑞応塵露集』に通底する問題意識を読み込むことを目的に補論として組み込んだ。ここでは、近世中期に復興される洛東清水寺慈心院に関係する議論、そしてそもそも勧化本や霊験記の類に記される人名や地名は実在し、霊験そのものの発生はともかく、信仰に関わった人物が実在したことの例証とする分析を加えた。超海著作の性格や成立背景を明らかにするうえで、関連する素材の一つであり、本論文に関係する議論である。
最後に第二部第三章では、近世の医薬文化と薬師信仰の関係について注目し、世俗的医薬処置と諸病平癒の現世利益信仰としての薬師信仰との関わりについて具体的に分析したい。そして近世的問題として家康が東照大権現として神格化され、その本地仏として薬師如来が設定されたことの持つ意味について、民衆信仰として土着した薬師信仰を政治的イデオロギーに転換したことはもとより、政治支配権力が民衆の「病」の問題に介入する時に、薬師信仰を内部に取り込まねばならなかった思想的構造から、当該期の薬師信仰の本質を明らかにしようとするものである。
本論文は以上の各章の問題関心から構成されている。全体を通覧すれば、薬師信仰史に通底する本質と役割を歴史的に明らかにするために、宗教民俗学的に滅罪信仰の一つとして薬師信仰の位置付けを試みる目的と、近世薬師信仰の機能と文化史的展開を、民衆信仰が多様化する時代性の中でとらえようとするのが本論の特徴である。しかし個々の議論はさらなる精密な検討を要するものが多く、その意味で本論文は、展望論としての初歩段階的論考の集合体にとどまっている。それでも現世利益信仰としてのみ評価される傾向が強い薬師信仰のもたらした諸現象が、実は日本仏教史、ひいては日本宗教史の展開過程と精神生活文化史をより鮮明にあぶり出すことにおいて有効な論点であることを示唆できるのではないかと思われる。
なお本論文では、引用する史料を含めて人権に関わる用語を多数使用し、また「難病」=「業病(過去世の業の報いによる病)」という認識を強調している箇所がある。人権問題の正しい理解の上に立ちながらも、論を進める上では史料にみえる用語をそのまま使用し、精神生活史研究の課題の一つとして論じていることを断っておきたい。また文中に部分引用する『薬師如来利益鈔』、『薬師如来瑞応伝』、『瑞応塵露集』などは、原本にはルビが施されているが、本論では省略した部分もある。影印を資料編に綴ったので適宜参照されたい。

序 章―註

  伊東史朗『薬師如来像』(文化庁、東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館監修『日本の美術 七』、至文堂、一九八六年七月、二五頁)によれば、大和法隆寺金堂薬師像光背の銘文の真偽性そのものは疑問視されているものの、その像容から止利仏師の一派の手によったものであると推定されることから、遅くても七世紀半ばまでの造像であることが確認されているという。
  『日本書紀』天武天皇九年(六八〇)十一月癸未条(増補新訂国史大系『日本書紀後篇』所収)に「皇后體不豫。則為皇后誓願之。初興薬師寺。」とみえている。
  五来氏は、「山の薬師・海の薬師」(民衆宗教史叢書第十二巻 五来重編『薬師信仰』所収、一九八六年、雄山閣)(三十六頁)で、「悔過は、天下国家の人民や信者に代って苦行し、それらの人々の罪や穢れを滅ぼすのが目的」であると指摘している。すなわち「滅罪の代受苦が悔過」であるという。修験「悔過」行には、「観音悔過」や「十一面悔過」、また「吉祥天悔過」などがあり、「薬師悔過」もその一つであるという。
  薬師悔過法の初見は『続日本紀』天平十七年(七四五)癸酉条(増補新訂国史大系『続日本紀前篇』所収)の記載で、「又令ム京師畿内ノ諸寺及ヒ諸ノ名山ノ浄処ヲシテ行ハ薬師悔過之法ヲ。」とみえている。
  五来重「薬師信仰総論‐薬師如来と庶民信仰‐」(民衆宗教史叢書第十二巻 五来重編『薬師信仰』所収、一九八六年、雄山閣)
  西尾正仁『薬師信仰‐護国の仏から温泉の仏へ‐』(御影史学研究会、民俗学叢書十三、二〇〇〇年、岩田書院)。
  前掲、西尾論文〈註6〉。
  久下隆史『村落祭祀と芸能』(一九八九年、名著出版)
  前掲、伊東〈註1〉、西尾、論文〈註6〉など。
 本論で検討する『峰相記』(成立は、室町初期頃)は、『兵庫県史』本を底本とする。
 橘成季編『古今著聞集』巻二第三話。
 『瑞應塵露集』(巻三の四)(成立は享保十五(一七三〇)年、著者は宝林山安楽寺の真言僧超海通性、大谷大学図書館蔵)については、本論第二部で詳しく検討する。
 根本誠二「行基と薬師信仰」(根本誠二・宮城洋一郎編『奈良仏教の地方的展開』所収、二〇〇二年二月、岩田書院)。
 前掲、西尾論文〈註6〉。
 『日本霊異記』「二つ目盲ひたる女人、薬師佛の木像に帰敬して、現に眼を明くこと得る縁 第十一」(下巻十一話、日本古典文学大系本、岩波書店)
 (前略)使子控手 迄于其堂 向薬師佛像 願眼而曰 非惜我命一 惜我子命 一旦已(「亡」カ)二人之命也 願我賜眼 檀越見矜 開戸入裏 向像之面 以令称禮(後略)  
 『康富記』応永二十五(一四一八)年七月二十六日条(『増補史料大成康富記一』所収)。
 現在の神戸市垂水区(一部)・西区・明石市をさす。ここ数年来、同地域は明石海峡大橋建設に伴う新道建設や宅地造成(ニュータウン計画)などの開発が盛んである。
 本論で用いる『金波斜陽』は、京都大学文学部図書館蔵本を底本とする。著者、成立年ともに『金波斜陽』には明記されていない。しかし内容を検討すると、享保年間の記録が多いことからこの頃の成立と推定される。また著者については、享保年間に成立した大井毎高編『明石記』に、この『金波斜陽』と美濃郡の地誌『玉彩光分』が再録されており、明石城下の住人、長野恒臣の著であることがわかる。(日本歴史地名大系『兵庫県の地名Ⅱ』「史料解題」、一一四四頁、平凡社)
 前掲、五来論文「薬師信仰総論‐薬師信仰と庶民信仰‐」〈註5〉
 前掲、五来論文「山の薬師・海の薬師」〈註3〉
 豊島修「都市の薬師信仰‐大阪を中心として‐」、大森惠子「因幡薬師と山陰地方の薬師信仰」(民衆宗教史叢書第十二巻 五来重編『薬師信仰』所収、一九八六年、雄山閣)では、薬師信仰の衰退に医療が関わったことを指摘している。豊島氏は、信仰衰退の時期を「近代以後」(三八〇頁)とみており近世的問題とはしていないので、近世医薬との関わりは不明であるが、大森氏は特にその時期を定めず、「医学や薬学・医療技術の発達に伴い、今日では薬師如来に病気平癒を祈願するより、医療機関で治療を受けたほうが賢明と、人々は思うようになった。その結果、因幡薬師(平等寺)や座光寺に寄せられた信仰や祈願内容は、諸病平癒から安産や種々な「福」を求める傾向に、変化していったと考えられる」としている。この解釈では、本論第二部第三章で触れるように、近世にすでに医療が民間に展開する状況、また近世においてすでに安産や富裕を祈願する事例がみられることを鑑みれば、医薬文化発展と薬師信仰の衰退が近世に端を発しているということになる。
 吉岡信『近世日本薬業史研究』(一九八九年、薬事日報社)
 長友千代治『江戸時代の書物と読書』(二〇〇一年、東京堂出版)

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