――己の不覚と怠慢への苛立ちは未だ尽きねど、修行僧めいた自罰に浸っている暇は無い。

 かつて"呪腕"と呼ばれたこの暗殺者は、極めて優秀な男だった。かの暗殺教団の教主を襲名し、英霊の座に登録されたと言う時点で凡愚である筈はないのだが、それを差し引いても彼ほど秀でた暗殺者はそう居ない。
 三騎士と真っ向から張り合いでもすれば流石に遅れを取るが、暗殺者としての戦い方に終始していれば、彼らの心臓を奪い去る事など容易い。現にアサシンは三騎士の一角であるレミリア・スカーレットをその手で屠り、特異な状況だったとはいえバーサーカーのサーヴァント、アンガ・ファンダージさえも仕留めている。これ程までに暗殺者の本分を全うしている彼を無能呼ばわり出来る者は、まさか存在しないだろう。
 人格が破綻している訳でもない。それどころか病んだ童女に召喚された不運に愚痴の一つも零さず、切り捨てる算段を練るでもなく、彼女のサーヴァントとして黙々と仕え続けている。
 有能な人格者。サーヴァントとしては凡そ最高レベルの条件を満たしている彼だったが――或いは、だからこそ、だったのかもしれない。彼は余りにも優秀過ぎた。丈槍由紀という少女の抱える問題について理解を示し、そんな彼女を聖杯戦争の喧騒から護る事にも徹底していた。彼女が愛する"がっこう"……もとい、鎌倉市内の廃校に住まわせて、其処から出ないように厳命する。成程確かに、精神病者の扱い方としては至極模範的と言えるだろう。
 然しそれは、悪く言えば過保護だった。アサシンは彼女を護ることには全力を注いでいたが、彼女という人間の中身にはこれまで目を向けてこなかった。故に彼はあの瞬間、自らの手で歯車を狂わせてしまった。滞りなく回っていた歪な歯車に、砂を吹き掛けるが如く。

"幸い――追っ手は無いか"

 腕の中で意識を手放した少女の様子を時折確認しつつ、アサシンは風と化して山中を駆ける。
 この余裕のない状況で追走劇を演じねばならない、そんな最悪の展開だけはどうやら回避出来たらしい。その事に少なからず安堵しつつ、思案するのは"これから"のことだ。過去の失態は後の立ち回りで幾らでも挽回出来る。悔恨に囚われて未来までも失ってしまっては、それこそ無能の誹りを免れまい。
 現状何より厄介なのは、事実上の拠点だった廃校を追われてしまった事だ。彼処は由紀を隠しつつ、彼女の精神状態を平常に維持出来る大変都合の良い場所だったが、一度でも他者に露見してしまった以上はもう使えない。とはいえ子連れ狼宜しく由紀を抱えたまま戦うなどは論外だ。早急に何処か別な場所を探す必要がある――最悪孤児院辺りに保護させるよう仕向けるのも手か。マスターの潜んでいる可能性は相応に高いものの、敵の懐に自然な形で潜り込めると考えれば、多少冒険ではあるが悪くない選択か。
 ……等と考えているアサシンは、意識を失う前に由紀が何を思っていたのかなど、当然知る由もない。それどころかあの時自分が彼女の前で貫いたのが"誰"なのかすら、既に脳裏から消し去ってしまっている。仕事人(アサシン)たる彼にしてみれば無理もない話だが、それは従者(サーヴァント)としては最悪と言っていい醜態だった。

 彼と彼女は、等しくお互いを視ていない。
 由紀も、アサシンも。互いに相手を尊重しているのに、二つの心は向かい合うどころか背中合わせ。由紀は言わずもがな現実を見ておらず、アサシンはそんな彼女の真実を見ていない。

 病み、夢に酔っている憐れな娘。壊れているのは最早疑いようもないが、されど己は御身に勝利を持ち帰ろう。ハサン・サッバーハの名に於いて、輝ける黄金の杯を必ずや勝ち取ってみせよう。だからユキ殿はただ夢を見続けていればよい、何も知らぬまま、望むがままに酔っていればいい――この通り。彼は由紀を尊重はしているが、逆に言えばそれだけなのだ。

 言葉を交わしてその内情を知ろうとはしない。成長を促すでもなく、現実からの逃避は詮無きことと目を瞑り、壊れているの一言で由紀を定義し其処で自己完結してしまっている。
 故に壊れた少女は彼にお膳立てされ、幻想の学校生活を白痴のように謳歌し続けた。アサシンは虚空に話しかけ、ありもしない出来事を楽しそうに報告する彼女を憐れみながら、やっぱり最後はそれでも勝利し聖杯を持ち帰ると、尤もらしい方に落ち着けて終わってしまう。
 目を閉じ、耳を塞ぎ、関わらない。
 己の世界を己の形に閉じたまま、痴れた音色を奏で続けた彼女は宛らラプンツェル。彼女と彼の主従関係は良好に交わっているようで、これまで只の一度も真っ当に交差していなかった。ああ、ならばこうなるのはきっと必然だったのだろう。性命双修を怠った弱者は絶望の中に墜落し、夢を見せ続けた仮面の暗殺者はその事に気付いてすらいない。



 丈槍由紀は憐れだ。
 平穏な日常を彼女には全く非のない不条理で打ち砕かれ、大切な人を不本意に失い、心が壊れてしまった娘。何もかも奪われ続けた結果として、彼女は現実を許容出来なくなった。それは確かに逃避であることには違いないが、誰がその弱さを責められようか。そんなことは、きっと誰にも出来はしない。

 ハサン・サッバーハもまた憐れだ。
 聖杯の寄る辺に従い現界し、宛てがわれた主は幻想の日々に微睡み続ける壊れた少女。それでも彼女を見捨てる事なく献身的に護り続け、その上で戦果すら挙げてきた彼は紛うことなき立派なサーヴァントだ。然し優秀過ぎるが故に、彼は誤った。壊れたモノは壊れたままそっとしておけばいい、その至極当然の考えこそが彼の首を静かに絞めていく。




 ――嗚呼、なんて可哀想なのかしら。


 こんなのは駄目、すれ違いの悲劇なんて可哀想過ぎて見ていられない。
 そんなに辛い思いばかりしているのに、これからまた泣かなくちゃいけないなんて仕打ちが過ぎるわ。だからねえお願い幸せになって。あなた達は幸せになるべきなのだから、わたしはあなた達のお願いごとに応えてあげる。ううん、応えさせて? だって私はみんなに幸せになって欲しいんだもの。
 あなたが誰でわたしは何で、これまで何があって何がなかった、そんなの全てどうでもいいことじゃない。幸せであることに嘘も真も存在しない。あなたが願ったのなら、それがあなたにとっての本当の幸福なのだから、細かいことを考える必要なんて何処にもないのよ。
 夢見ることは悪いこと? 逃げることは情けない? そうね、あなたがそう思うならあなたの中ではそうなのでしょう。それが全てで、だからこそあなたが願えばそれはちゃんとした道理に早変わり。幸せになりたい、その思いに善悪なんてありはしないのだもの。
 さあ、幸せになりましょう? わたしを見て、わたしを願って、そしてあなたは望み通りの幸せの夢に微睡むの。

「何――」

 疾駆する足を止め、獣の鳴き声を聞いた木こりか何かのようにアサシンは周囲を見渡す。
 その様子には明らかな驚きが見て取れ、彼ほどのサーヴァントをしても予想外の事態が勃発したらしい事が容易く読み取れた。ただサーヴァントに襲撃された程度では、驚かない。今回の聖杯戦争が魔境である事は既に感じ取っているし、その時は厄介だと思いながらも粛々と対処する腹づもりでいた。
 だが今、アサシンの耳粱に触れた声には敵意と呼べる物が全く介在していなかったのだ。例えるならそれは、眠れないと駄々を捏ねる幼子に優しく物語を囁く母親のよう。にも関わらず、アサシンの本能は喧しい程に警鐘を打ち鳴らしていた。危険だ、即座に逃れよ。"お前の側に怪物が居る"。
 それに従い疾くこの場を離れんとしたアサシン――然しその前方に、いつの間にか甘い囁きの怪物は現れていた。

「……ッ」

 可憐な顔貌に優しい笑みを貼り付けて、くすくすと零す笑い声は妖精の囁きのよう。
 だと言うのに、背筋に走るこの悪寒は一体何だ? 眼前に立つのは見るからに非力な、歴代のどのハサン・サッバーハでも一撃の下に抹殺を成し遂げられるだろうか弱い少女のサーヴァント。だがアサシンは一切の誇張抜きに、そんな彼女に対しこの聖杯戦争に召喚されて以来最大級の戦慄を覚えていた。
 それは恐怖ともまた違う。断崖の真上から遥かな深淵を見下ろした時のようであり、毒々しい色合いの醜い毛虫を見つけた時のようでもある。本能的な忌避感と嫌悪感。その両方を全身のあらゆる部位から常に放っている目の前の少女を、アサシンは異形の存在にしか思えなかった。

「貴様は……」

 一瞬にして渇いた口を開き、絞り出すように発声する。

「……貴様は、何者だ?」

 短刀に手を掛け、次の瞬間にでもその霊核を破壊する準備を完了した上で、アサシンは少女へ問いを投げる。
 お前は何なのだ、と。この理解不能な何かを理解する為に、意思の疎通を図る。
 それに対し、少女も静かに口を開いた。精微な顔で微笑みながら、憐れな暗殺者の問いに答える。
 それが"答え"になっているかどうかなど、彼女にとっては些細な事だ。

『私は、みんなに幸せになって欲しいだけよ』

 善性に満ちた台詞である筈なのに、これほど心胆を寒からしめて来るのはどういう訳なのか。
 答えになっていない答えを聞くなり、アサシンはこれ以上の会話は無用と判断し短刀を抜き、投擲の構えへと移った。話すことは愚か、一秒とてこの存在を視界に含めていたくない。暗殺者にあるまじき直情的な嫌悪を原動力として、瞬時に敵対行動へ移るアサシン。
 それを見た少女のサーヴァントは悲しむでも怒るでもなく、やはり静かに笑ってみせた。短刀がアサシンの手を離れ、少女の眉間に吸い込まれていく。刃の鋒が彼女の脳天を抉る、その瞬間。美しい桜色の唇が静かに動いて、何事かを呟いた。春の花園で歌うように、冬の雪原で唱えるように。どこか童話じみた幻想的な所作で彼女が発声したその内容を、アサシンは正確に聞き取ることは出来なかった。されど、丸っきり聞こえなかった訳ではない。ある一単語だけは、確かに聞き取ることが出来ていた。


 『幸福』と。
 その次の瞬間――呪腕のハサン・サッバーハは、『幸福』に満たされた。


  ◇  ◇


「――ぬ」

 総身を包む暖かさが、どうやら自分はうたた寝をしてしまっていたらしい事を伝えてくる。
 久しく味わっていなかった心地よい倦怠感に包まれながら、凭れていた柱から体を持ち上げ、沈みかけの太陽に目をやった。
 一体どれほどの時間、自分は眠っていたのだろうか。最近疲れが溜まっていたせいか、眠りに落ちる前の状況が詳しく思い出せない。記憶が混濁していると言っては大袈裟だが、どうやら随分と熟睡していたようだ。何ならこれから更にもう一眠りする事も出来そうな程である。

「ふふ……そういう訳にも行くまいよ」

 軋む体を強引に動かして立ち上がり、もう一度彼方の夕陽に視線を向ける。
 意識が段々とはっきりして来て、自分のこれまでの記憶も朧気ながら浮かび上がって来る。
 これまでのこと。そしてこれからすべきことを、"嘗て呪腕と呼ばれる暗殺者だった"男は思い出していく。
 沢山の犠牲が有った。沢山の無念が有り、涙が有り、そして笑顔が有った。遠くの方から聞こえる誰かの不安などまるで感じさせないのどかな声が、自分達が勝利したのだという事実を如実に物語っている。長い、長い戦いだった。辛く苦しい旅路の末に、漸く勝ち取った勝利。それすら忘れていた自分の呆けっぷりに思わず辟易する。

 白亜の理想都市。その最奥に座す獅子の王と、それに仕える騎士達。
 聖抜と称して民を殺し、非道を尽くした彼らとの長き戦いが、つい数日前に漸く終わったのだ。
 勝利の証である右腕の空白を残された左腕で撫でれば、こうして追憶に浸っている暇は無いぞとはっとなる。
 まだ、戦いが終わっただけだ。これからは荒らされ、踏み躙られた世界を立て直す使命が残っている。
 暗殺者ハサン・サッバーハとしてではなく、この時代を生きる一人の力なき"人間"として。

 決して楽な道でないことなど承知の上だ。これからも、自分の前には様々な難題や壁が立ち塞がるだろう。
 出来ないからと投げ出す事は許されないし、そんな醜態を晒すつもりはない。それはきっと過酷な道であり、数多の苦悩と数多の疲弊が付き纏うのが誰の目から見ても明らかな難行だ。――それでも。称号を失い人に回帰したこの男にとって、この黄昏に包まれた世界は紛れもない最高の『幸福』だった。
 足を動かし黄昏を進んでいけば、見慣れた顔が温かく迎えてくれる。
 よく眠っていたなとからかう者もあれば、疲労を労ってくれる者もあった。
 そして、遠くの方から自分を呼ぶ幼い声がして。その方向に目を向ければ、ひとりの子供が自分に笑顔で手を振っている。そんな彼を困ったように見つめながら、優しい瞳で自分に微笑んでいるあの女は――

「……ああ」

 噛み締める。
 この『幸福(イマ)』を、二度と無くさない為に。

「――今、行くとも」

 そして、全てを得た男は願うのだ。
 顔のない暗殺者など、此処にはいない。
 居るのは一人の幸せな男。優しい世界に囲まれて、久しく忘れていた感情に口許を緩める誰か。

 この幸福よ、どうか永遠なれと。

 二度と無くしたくない景色を目に、いざ一歩を踏み出さんとして――



 ――――ごぅん、ごぅん、ごぅん、ごぅん。夜の訪れを告げる鐘の音色が、至高の世界に重く響いた。


「…………こ、れは」

 足が止まる。
 体が止まる。
 視線が止まる。
 呼吸が止まる。
 視界の先の子供と愛しい女も、止まっている。
 周りの声はいつからか聞こえなくなっていて、世界には風一つ無い。

 鐘の音。
 それを自分は知っている。
 ああ――どうして今まで忘れていたのだ?
 それこそは終わりの音色。己が乗り越えたと勝手に錯覚していた死の象徴。

 無論、この『幸福』の中に死などという不幸せなものが存在する訳は無い。あくまで景色の一つとして、世界を構成する雑多な歯車の一つとして鳴り響いただけの音響。"幸せを司る怪物"は人に幸福な夢を見せ、溺れさせるが、彼女自身があれこれ考えて夢を編んでいる訳ではない。彼女に囚われた者が望んでいる景色、光景。彼女はその人物にとっての『幸福』を具現させ、幸せな微睡みの完成を後押ししているだけに過ぎない。
 要するに鐘というパーツは、夢見る彼の脳内に存在していた景色の一つだった。
 彼のみではない。歴代のどのハサン・サッバーハが彼女に囚われたとしても、必ずや同じ事になったろう。
 ハサン・サッバーハ――暗殺教団を統べる当代の"山の翁"がその資格を失った時、その存在は現れる。晩鐘の音色を響かせて、彼らの任を解く為に。故にこそ、鐘の音色は彼らの酔いを覚ます。恐るべき"初代"の存在しない世界ですらも、かの冠位暗殺者の存在は教主達を戒め続けるのだ。

 そうだ、これは夢だ。呪腕のハサン・サッバーハという男が望む幸福を、一体の怪物が具現させた偽りの世界。

「――おのれ、がァ……!!」

 まんまと酔わされていた自分への怒りと屈辱、あまりの冒涜に意識を怒りが満たしていく。
 作られた景色を切り裂いた次の瞬間、彼は元通りの鎌倉市――山林の中へと巻き戻り、悪辣なる怪物は変わらぬ表情で笑いかけていた。どうしたの、幸せになりたいのでしょうと。囁く精微な顔貌を、最早アサシンは悍ましい怪物のそれとしか認識出来ない。眉間に確かに炸裂させた筈の投擲が全く効果を成していない事実は不可解だが、それについて考える時間すら惜しいと、アサシンは宝具の開帳を決心する。
 ――間違いない。このサーヴァントは、"最悪"だ。現実から逸脱した『幸福』を望む気持ちが少しでもあれば、容赦なく甘い夢の只中に落とし込んでくる見目麗しい食虫植物。他の主従がどんな末路を辿ろうが知ったことではないが、これまでに彼女の毒牙に掛かって物言わぬ白痴と化した者がどれだけ居るのか考えたくもない。そして何より、自分もあと少しでその一員となりかけていたという事実が忌まわしくて仕方がなかった。

「瞬きの内に殺してみせよう。貴様は我が逆鱗に触れた」

 ひらりと身を躱せば、少女のサーヴァントの姿が数メートルは後方へと移動する。
 されど、敏捷に優れたアサシンにとってその程度の距離など所詮誤差でしかない。文字通り瞬きの内に確保された距離を詰め、夢見る冒涜者を必殺のリーチへと収めた。
 ――『呪腕』の宝具はその肩書の通り、呪われし魔腕である。彼の右腕は精霊シャイタンの腕で有り、人間を呪殺する事に何より長ける。それはサーヴァントに対しても同じだ。中東に生きた山の老翁、暗殺教団全十八代が一。その魔腕が今、幸福という名の怪物の胸へと触れた。

 瞬間、彼の手元に現れたのは――あろうことか怪物の"心臓"だ。無論、今の一瞬の内に抉り出した訳ではない。それどころか、彼女の心臓は今もその平坦な胸の奥で鼓動を刻んでいる。
 今アサシンが握っているのは、エーテル塊によって作り出された少女の心臓の二重存在。もっと通じの良い言葉に直すなら、コピーと呼ぶべきそれに他ならない。だが偽物は偽物でも、シャイタンの右腕が生み出した二重存在は単なるガラクタに非ず。事実この時点で、『幸福』の少女の命運は完全に尽きていた。
 日本風に言うならば、これは即席の藁人形なのだ。宝具『妄想心音(ザバーニーヤ)』は、暗殺対象の心臓の鏡面存在を創造する奥義。鏡写しである故に、呪いの魔腕によって創造されたそれは暗殺対象の心臓と連動している。
 呪術の世界では、これを類感呪術と言う。類似したもの同士は互いに影響しあうという発想に則った呪術形態。一口に呪術と言っても種類は多岐に渡るが、特に此処日本で最もポピュラーな呪術と言えば、間違いなくこれだろう。

 本物と連動した偽物の心臓。
 それが今、アサシンの手の中にある。
 ではそれは、一体何を意味するのか? その答えは、問うまでもなく明らかとなった。


「苦悶を溢せ――『妄想心音』」

 紙風船を握り潰すように、少女の偽心臓が粉砕される。
 それと全く同時に、確かに其処に存在していた筈の少女の姿が薄れ、虚空へ溶け始めた。
 これぞ、呪腕のハサン・サッバーハが誇る呪殺奥義。作り出した偽物の心臓を粉砕する事で、連動して本物の心臓をも遠隔破壊する必殺宝具である。

 心臓を砕かれ、薄れ行く少女の体。
 然し、宝具を炸裂させたアサシンの口元に会心の笑みは浮いていない。寧ろその逆、苦々しいものが貼り付いている。その理由は単純明快、彼は偽の心臓を粉砕した瞬間に理解したのだ。"これでは此奴は殺せない"と。何故なら砕いた心臓には、凡そ手応えと言うものの一切が欠けていた。それこそ紙風船のように、中身が空洞であるとしか思えなかった。
 そして、その通り。幸福の少女はアサシンの宝具から、微風に吹かれた程のダメージも受けていない。
 何故ならそもそも彼女は此処に居て、同時に此処には居ない存在。幻に限りなく近い虚像。霧で出来た心臓を幾ら潰されようが、怪物の本体には何の悪影響もない。その事実は、アサシンでは彼女を殺せないと言う事を意味していた。少なくとも、この場では。アサシンの宝具が『妄想心音』のみであり、幻像の存在を殺められるような便利なスキルも所持していない以上、忌まわしいが、完全に打つ手は潰えたと言う他ない。

 だが。サーヴァントである以上、聖杯戦争の舞台からその存在を弾く手段は必ず有る筈だとアサシンは冷静に推察する。
 例えば、彼女をこの地に呼び出したマスターの抹殺による自動消滅。これが最も現実的な手段だが、同時に最も非現実的な手段でもあった。少なくとも眼前の怪物に、マスターだから夢に落とさないなんて分別が有るとはアサシンにはとても思えない。あくまで予想でしかないが、元凶となったマスターは召喚した瞬間に令呪を使う間もなく夢へ落とされ、幸福の内に衰弱死でもしたのではないかと彼は踏んでいた。
 その予想が当たっていれば、この怪物は驚異的な単独行動スキルで現界を維持していると言う事になる。
 どんな攻撃をしても滅ぼせない不滅のサーヴァント。そんなものが仮に存在したとして、マスター無しでいつまでも生き残っていられるとは思えない。無差別に夢を撒き散らしてきたのだろう彼女に魔力の消耗が全く見られない以上、魔力が尽きるまでの猶予付きで鎌倉に残留していると言う事も無い筈。となれば、残された答え/取るべき手段は一つしかない。

"此奴は触覚――何処かに、これを動かしている『根』があるのだな"

 根とは言うが、実質的には心臓と同じだ。それを破壊する事で、恐らくこの怪物も殺す事が出来る。
 言葉にするだけなら簡単だが、それが用意ではないだろうことも、アサシンは理解していた。鎌倉の広い街の中から、奴の本体が眠る場所を探り当てる。よしんば其処まで完遂出来たとして、果たして己のみの力で討伐を成せるかどうか。暗殺者のサーヴァントであり、おまけにマスターが病んでいる現状、同盟を組む事も出来れば避けたいのが本音だ。
 兎にも角にも、この場で此奴とこれ以上対峙している事に意味はない。アサシンは悪罵の声を叩き付けるでもなく、消滅寸前の少女の脇を通り過ぎて離脱を図る。――が。その時、消えかけの少女が微笑んだ。そして、決して無視できない言葉を口にした。幼児に向けるような優しい声色で、どんな魔物よりも悍ましい言葉(ノロイ)を。

『そっちの子は、幸せになってくれたみたいだけれど』

 ハッとなってアサシンは、左に抱くマスターの顔を見る。
 安らかで、満たされたような顔をしていた。それはとても微笑ましく、事情を知らぬ者が見たなら思わず頭でも撫でたくなるような幸せそうな寝顔。"余程良い夢を見ているのだろう、起こすのは酷だなあ"等と、戯言の一つも零してしまうような。『幸福』に満ちた顔で、丈槍由紀は怪物の術中に落ちていた。

「貴様――ッ!!」

 叫べど、もう其処に怪物の姿はない。なのにアサシンは、自分の鼓膜に少女の笑い声がまだこびり付いているような錯覚を覚える。それに形容し難い忌まわしさを覚えながら、それどころではないと眠りこける由紀の体を揺さぶりにかかった。

「ユキ殿――起きられよ、ユキ殿!!」

 返事は、ない。閉ざされた瞼が上がることもなければ、んんぅと眠りを阻害された事への苛立ちを見せる様子さえない。
 丈槍由紀はハサン・サッバーハの腕の中で、深い、深い眠りに落ちていた。彼に何か、由紀に強く現実を意識させる手段が有ったならば、大した事態ではなかったろう。所詮夢は夢。ちょっと普通より深いだけの眠りなのだから、意識の深くまで届く声があれば怪物の宝具は払拭できる。然し――ハサン・サッバーハという英霊にはその手段がない。丈槍由紀を現実まで引き戻せる、彼女を起こす為の声がない。
 由紀に、自ら幸福の世界をかなぐり捨てる気概があれば話は別だろうが、それは余りにも望みの薄い話だった。
 現実に打ち拉がれ、目の前の世界から目を背けるしかなかった娘。聖杯戦争の中でも一人夢を見続けていた彼女が、自分の意志で辛い現実を受け入れる等とてもではないが不可能だ。しかも、問題は過去に負った心の傷だけじゃない。
 緩やかでも、少しずつでも治癒は進んでいた傷。其処に駄目押しとばかりに釘を捩じ込んだのは、他ならぬハサン・サッバーハその人なのだ。そのことに気付きもせず、幸福に墜ちたマスターを引き戻さんと四苦八苦する姿は、事情を知る者が見たなら滑稽な道化にすら写るだろう。

 最早事態は急を要する。
 一刻も早く、あの怪物の『根』を探し出し、撃破して宝具を解除させねば――由紀を待っているのは緩やかな衰弱死だ。願いを求めるサーヴァントとして、それと同時に丈槍由紀という娘に仕える者として。その結末だけは、何としてでも回避せねばならないとアサシンは思う。故にこの時、彼の行動目標は決定された。
 『幸福』のサーヴァントの可及的速やかな抹殺。如何なる手段、如何なる策を用いてでも、それを成し遂げねば未来はない。度重なる失態に身を焦がしながら、それでも由紀の為にとアサシンは鎌倉の大地を駆ける。

 未だ、何も知らぬまま。致命的なまでに事の核心を見つめないまま、暗殺者は颶風となる――


【B-2/浄智寺付近の山林/一日目 午後】

【丈槍由紀@がっこうぐらし!】
[令呪] 三画
[状態] 昏睡
[装備] なし
[道具] なし
[所持金] なし
[思考・状況]
基本行動方針: わたしたちは、ここに――
0:…………。
1:■■るち■んにア■■■ーさ■■■。■いお■達にな■そう!
2:アイ■■ん■セイ■■さ■もい■■■ゃい! ■■はお■さ■■多■ね■
3:■■■■■■■■■■■■■■■■■
4:■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
[備考]
※サーヴァント同士の戦闘、及びそれに付随する戦闘音等を正しく理解していない可能性が高いです。
※『幸福という名の怪物』に囚われました。放置しておけば数日以内に衰弱死します。


【アサシン(ハサン・サッバーハ)@Fate/stay night】
[状態] 健康、魔力消費(中)、焦燥
[装備]
[道具] ダーク
[所持金] なし
[思考・状況]
基本行動方針:由紀を守りつつ優勝を狙う
0:『幸福』のサーヴァントの早急な討伐。並行して由紀を目覚めさせる手段の模索
1:由紀の安全を確保する
2:アサシン(アカメ)に対して羨望と嫉妬
3:セイバー(藤井蓮)とアーチャー(東郷美森)はいずれ殺す
※B-1で起こった麦野たちによる大規模破壊と戦闘の一部始終を目撃しました。
※セイバー(藤井蓮)、バーサーカー(アンガ・ファンダージ)、バーサーカー(式岸軋騎)の戦闘場面を目撃しました。アーチャー(東郷美森)は視認できませんでしたが、戦闘に参加していたことは察しています。
※キャスター(『幸福』)には本体と呼ぶべき存在が居るだろうと推察しました。


【???/?????/一日目 午後】

【キャスター(『幸福』)@地獄堂霊界通信】
[状態]健康
[装備] なし
[道具] なし
[所持金] なし
[思考・状況]
基本行動方針:幸福を、全ての人が救われる幸せな夢を。
1:みんな、みんな、幸せでありますように。
[備考]
幸福』は生命体の多い場所を好む習性があります。基本的に森や山の中をぶらぶらしてますが、そのうち気が変わって街に降りるかもしれません。この後どうするかは後続の書き手に任せます。
軽度の接触だと表層的な願望が色濃く反映され、深く接触するほど深層意識が色濃く反映される傾向にありますが、そこらへんのさじ加減は適当でいいと思います。
スキル:夢の存在により割と神出鬼没です。時には突拍子もない場所に出現するかもしれません。
エリア移動をしました。何処に移動したかは次の話に準拠します。


  ◇  ◇


「……輩。先輩、ゆき先輩っ」

 体を揺さぶられて、目を覚ます。
 寝起きで潤む瞳を擦ると視界が晴れてきて、其処には呆れたような顔で由紀を見ている後輩の顔があった。

「んぅ……あれ、みーくん……」

 直樹美紀。学園生活部の可愛い後輩。
 部長の悠里とはまた別なベクトルで真面目な彼女を見て――由紀は、その大きな瞳から一筋の涙を零した。
 瞳の潤みが水滴になって零れたとか、そういう訳ではない。

「あ、あれ? なんでだろ……わかんないけど、涙、止まらない……」
「ちょっ……ゆき先輩? 本当にどうしたんですか……具合でも悪いんです?」

 不安げに顔を覗き込んでくる彼女に心配をかけないために制服の袖で涙を拭いて、空元気で笑ってみせる。

「ちょっとね……変な夢を見たの。すごく怖くて、嫌な夢。みーくんがいなくなっちゃう夢」

 まるで現実でついさっきあったことのように、その光景は思い出せる。
 胸から銀の刃を生やして、茫然とした顔をしている美紀。
 そして、それを見ている自分。ひどい――ひどいユメだった。二度と見たくないと心からそう思う。

「……ふっ」
「あっ、笑うことないじゃんっ。本当に悲しかったんだからね!」
「いや、……なんだかゆき先輩らしいなあと思って」

 美紀は笑いながら、「大丈夫ですよ。所詮夢は夢なんですから」と由紀を励ます。
 その言葉に、ほんの一瞬だけ何か引っ掛かるものを感じたが、「そうだよね」とすぐに由紀も笑う。
 それから由紀は、おもむろに美紀の手を握った。
 あたたかい、柔らかい手触り。その感覚にようやっと、心の底から安堵する。

「……よかったあ」

 また浮かんできた涙を拭って。

「みーくん、ちゃんとここにいるんだね」

 美紀は一瞬きょとんとしたが、ぽかんとした表情はすぐ「仕方ない人ですね」とでも言いたげな苦笑に変わった。

「はい。私は、ちゃんとここにいますよ」


 斯くして少女は救われた。因果、理屈、善悪、そんなものは揃って全部どうでもいい。
 幸福には嘘も真も存在しない。誰かの願った福音は、その人物の中では紛うことなく真実の救いなのだから。
 桃色の霧で周囲を包まれた学び舎で、少女達は自分達の存在を確かめ合う。
 たとえ嘘でも、偽りでも。逃避した末の幻想だとしても――彼女たちは、そこにいる。



前の話 次の話
038:伽藍の姫はかく語る 投下順 040:微笑みの爆弾
033:白紙の中に 時系列順 034:世界救済者を巡る挿話・その1

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018:狂乱する戦場(前編) 丈倉由紀 050:落日の影
アサシン(ハサン・サッバーハ) 049:夜を往く
025:幸福の対価、死の対価 キャスター(『幸福』) 053:盲目の生贄は都市の中

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