───夜が始まる少しばかり前のこと。

 "それ"の復活を最初に知ったのは人でもネズミでもゴキブリでもなく、闇色の翼を持つカラスたちであった。
 太陽が西の海原に沈む夕暮れ、ゴミ溜めの片隅で最初の一羽が「カー」と鳴く。隣の一羽も同意して、鳴き声はたちまち群れの意思となって飛び上がり、真っ赤な空に一握の黒雲がぽかりと浮かぶ。
 夕陽が雲から下を照らして、あべこべの影が宇宙に向かって伸びている。鳥は食べ過ぎて重たくなった体をどうにかこうにか気流に乗せて眼下の街を見下ろした。街にはぽつぽつと灯り始めた明かりと、硝煙のような臭いを孕んだ火事場の煙が立ち上っていた。
 カー。良くない気配だ、鳥は東の夜に向かってそのようなことを叫ぶ。
 『カー』と、皆が同意した。
 この街は元々あまり魅力的な場所ではなかった。からかいがいのある人間はたくさんいたが、嘆かわしいことに彼らは生ごみを全くと言っていいほど出さないのだ。生ごみを出さない人間にいかほどの価値があるのか、そういう手合いに限って面白味も少ないものなのだと考えていた。
 ところが、ここ数日はそうでもなかった。人間共は何かにかかずらっているのか、ゴミの出し方がどうにも杜撰なことになっていた。今やこの街の片隅には魅力的なゴミ捨て場があり、手つかずのゴミ溜めが文字通り腐るほどあった。今まではそう旨みのない場所だったが、最近は中々の穴場となっていたのだ。
 できれば明日も明後日も、共にあらんことを願うばかりではあったのだが。
 どうにも今日は、何か様子が変だった。
 思えばここ何日か、そう、例えば人間共がゴミを放置するようになってからだ。この街はどこかおかしかった。
 それは、何か得体のしれないものが潜んでいるかのような。
 そんな言い知れない不安のようなものが、彼らを包んでいる。
 おかしいが、しかし魅力的には変わりがなく。カラスたちは夜に染まりつつある空を翔けていたのだが。

 『ガー!!』

 警戒信号。羽根とくちばしをたちまちに乱れさせて、木霊のように叫びあう。長は地上で獣に襲われた時の声をあげてぐんと背筋を伸ばし、先頭を切って眼下を示した。脅威は山間の半ばにあった。
 それは厳かな空気を湛えた、大きな神社の敷地であった。桜の木が満開となり、静かに風に揺れている。一見すると何もいない、しかしそこには確かに"何か"があった。
 よく見てみれば、それはカラスたちの大好きなゴミ溜めによく似ていた。広い敷地にありとあらゆる廃棄物が積み上げられて何か建物の真似をしているかのようにも見えた。巨大で、正常なものなど何もなく、それは廃棄物ではなかったが、しかしそうであったならば良かったほどに、異常な巨体を持ち合わせて。
 その巨大な何かが、こちらをじっと見つめていた。

 ───くす、くすくす。

 まるで悪夢を切り取って体に張り付けたかのような異形はそれ自体が生きているかの如く、その身を蠢動させていた。およそ現実離れした光景、どんな野生生物を引き合いに出してもこんなものなど存在すまい。
 鳥はギャーギャーと警戒しながら神社の上を旋回する。日没までの間にできるだけ情報を集めようと、異形の奥底に視線を注ぐ。
 化け物は古い骸のようにぽっかりと中央が吹き抜けており、心臓を晒すようにその奥底を見ることができた。
 鳥はそこに、宝石を見つけた。
 宝石は少女の形をしており、異形の只中にあって唯一の正常なるものであった。その身には服も武器も持ち合わせず、夢すらも手放して、ただ命だけを抱えて前を見ていた。
 ふと、目が合ったように見えた、その瞬間。少女はすぅと大きく息を吸いこんで。

『ーーーーーーーーーー!!!』

 ───それは、歌声のような絶叫だった。
 それは若い狼が月夜の晩にどうしようもなく叫ぶ遠吠えのようでもあり、初めて飛んだ鳥が叫ぶ震えた声のようでもあった。
 気付いた時には、鳥は自らが力を失って墜落していることに気付いた。
 何故なのか、皆目見当がつかない。思考は真っ白に染まって意識が遠く、しかしどうしようもなく"気持ちがいい"ことだけは分かった。

 そうして茜空に黒雲の一団は次々と落ちていって。
 後にはただ、元の静けさが広がるばかりなのであった。





   ▼  ▼  ▼





 見据えた鶴岡八幡宮の境内は、異様な静けさに包まれていた。

「なんだか、寂しいところですね」

 呟くアイの目の前には、遠くまで敷き詰められた灰色の石畳が、月明かりに照らされてぼんやりと浮かんでいた。
 向こうに見える参道は鬱蒼とした木々に挟まれ、明かり一つない夜の闇を一層黒いものとしていた。
 空には、月。
 雲の向こうに月があるのは分かっていたが、こんなに大きな満月とは思わなかった。
 なんだか禍々しい月だ、とアイは思う。
 人工の光が存在しない境内で唯一の光源に、感じるのは頼もしさではなく漠然とした不安だった。

「そうだな。人の気配がないってのもあるが、ここには"音"がない」
「あ、なるほど。言われてみれば確かに」

 今までは自分たちの足音と何より会話の声があったから気にならなかったが、言われ周りに意識を向けてみればその違和感の正体が掴めた。
 音が、ないのだ。
 神社は異様なほどの静けさに満ちていた。こうして周囲に耳を澄まし、気配を探ればすぐに分かる。自分たち以外、この一帯で音を出すものが存在していない。桜の葉すら、かさりとも音を立てない。
 夜の静けさ、とはまた違う。
 夜というのは無音ではない。空気の音、動物の音、虫の音……人の立てる音以外にも、夜は別の様々な喧騒に満ちている。自然溢れる場所でなら尚更だ。
 にも関わらず───ここには一切の音がないのだった。きぃーん、と耳が痛くなるほどに本当の無音が満ちている。夜気が張りつめ、まるで月明かりが音を吸収しているようだった。

 アイが寂しいと形容したのも頷ける。気配や明かりの有無以上に、人の感性は音というツールに依存している。音があるとはそこに動く何かが存在することであり、無音の空間では人は他の存在を容易に認知することができない。

「正直、まずいな。聖遺物を追ってた時に何度かこれと似たようなのを体験した覚えがある。
 確か……無音円錐域だったか。これがある時は、決まって"本物"が顔を出してやがった。向こう行ったら油断はできないぞ」
「そういうものですかね?」

 大げさでは、と一瞬思ったが、言われてみれば周囲にこれほど存在する木の葉が少しも音を立てていないのは少々不気味だった。

「でも、だとするとすばるさんを置いてきたのは正解だったみたいですね。そんな危なさそうな場所に、彼女を連れてなんてこれません」
「珍しく同意見だよ。できることなら俺一人で来たかったんだけどな」
「意地悪言わないでくださいよ、セイバーさん」

 皮肉や衒いでなく本気で言ってるアイ。彼女の言う通り、すばるはこの場には連れてきていない。サーヴァントを失い自衛手段が無くなったのもそうだが、鉄火場に赴ける精神状態ではなかったというのも大きい。
 一応、彼女が気を失っている間に起こった出来事や諸々の説明はしておいた。マキナとの決着やアサシンの襲来。アーチャーの消滅と、そして恐らくはマキナのマスターであっただろう、みなとという少年のこと。蓮は淡々と「下手人は恐らくアサシン」とだけ伝えて終わったが、アイのほうは何とか慰めようと四苦八苦慌ただしく、見てるこちらが恥ずかしくなるような空回りっぷりを見せていた。
 そして二人は、すばるに宛がう野良サーヴァントの捜索と、ランサーへの協力の見返りとして彼女にもそれに協力させようと、当面の目標を定めた。
 ともあれ。

「けどなんて言うか、結構意外ではあったな」
「何がですか?」
「お前がすばる連れてこなかったことがさ。割と意外だったって話だよ」
「いや、そんなの当たり前じゃないですか。あんな落ち込んでる人を追い立てるみたいな真似、流石にしませんよ」

 心底不思議そうにアイが首を傾げる。次いでうわっという表情になって。

「もしかしてセイバーさん、私のこと鬼畜か何かだと思ってたんですか!? 酷いですよ、今までのセイバーさんとのあれこれは何だったというんですか!」
「お前こそ何言ってんだ。別に俺だってお前がそこらへんの根本的な感性ずれてる奴だとは思っちゃいねえよ。でもなんていうか、そうじゃなくてだな」

 そこで蓮は一呼吸置いて。

「お前、挫折とか放棄とか、そういうのを絶対認めてないって思ってたからさ」

 そんなことを言った。

「……」
「失敗したり間違ったり、何かあって悲しんだり。そのくらいまでならお前は共感できるんだろうけど、でも"そこ"止まりだって思ってた。
 間違ったなら何度だって立ち上がればいいとか、落ち込んでる奴の前で平然と言っちまいそうというか」
「……まあ、確かにそうですね」

 アイは静かに頷いた。正直蓮の言葉は失礼千万じゃないかとほんのちょっぴり思ったが、大体正解だったので何も言えなかった。

「私ずっと思ってたんですよ。なんでみんな頑張らないんだろうって。やりたいことや成し遂げたいことがあって、そのために必要な努力とか解決しなきゃいけない問題があるのに、何でみんな怠けてるんだろうって」

 それはこの聖杯戦争においてのみの話ではなく、アイが下界に降りてきた当初からずっと思っていたことだった。
 やるべきことを正しくやり遂げる。そのために努力する。そんなことは当たり前の常識で、大人も子供もみんな分かっているはずなのに。

「なんでみんな、世界を救おうとしてないんだろうって」

 なんでその程度のことを誰もしていないんだろう、と。アイはずっと思っていた。
 やり方が分からない? 確かにその通りだ。現に自分だって分かっちゃいない。けどそんなもの、目指さない理由にはなり得ない。
 目指そうとしている人がいても、何故か簡単に足を止めてしまう。非情な現実に挫折した、もうこれ以上努力できない、大切なものを失って前に進む気力がない───いくら倒れようとまた立ち上がって進めばいいだけの話なのに?

 人生を懸けた目的を失敗した。終生大事にしたいと思える人を亡くした。
 ああ確かにそれは悲しいが───その程度のことが、足を止める理由になるとでも?

 アイはずっと、そんなことを考えてきた。
 けれど。

「そこらへん、ずっとセイバーさんに違う違うって言われ続けたわけで。そこまで言われると、私としても「あれ?」って一度は思うわけですよ」
「思ったわけか」
「まあ最初はセイバーさんが変人なだけって考えてたわけですけど」
「おいこら」
「けど本当は、周りの人たちじゃなくて私のほうが変だったんですよね」

 ゆきは何某かの喪失に耐えきれず、都合のいい幻ばかりを見て現実から逃避した。
 すばるは想い人の死に膝を折り、何をするでもなくたださめざめと泣くばかりだった。
 この街の人たちは、街と自分の危機に陥ったと分かっているはずなのに、何ら具体的なアクションを起こそうともしない。
 それは彼らが殊の外愚かだったからでも弱かったからでもなく、それこそが大多数の、普通の人間だったというだけの話なのだろう。

「人間って、私が思ってたほど、強くもなんともないんですね」
「……そうだな。世の中頑張れない奴はいくらでもいる。というかほとんどがそれだ。本当はお前の言うように、みんな正しくあれたら良いんだろうけどな」

 けどそんなことはあり得ない。人から悪性を駆逐できないのと同じように、人から弱さを無くすことは不可能だ。
 正しいことはみんな痛くて、間違いや怠惰のほうがずっと楽で気持ちがいい。世界を救うだなんだと主語のでかい話を持ち出すまでもなく、今日やるべきことを明日にまわしたり細かな作業をついつい不精したりといったことは恐らく万人が経験していることだ。

「話はズレちゃいましたけど、つまりそういうことですよ。
 すばるさんは頑張りました。頑張って頑張って、それでもどうしようもなくて。なら、私から言えることなんてありません。すばるさんの頑張りを否定して、"頑張れ"なんて安易なことなんか言えません」

 頑張れという言葉は、励ましであると同時に「お前はまだ全力を出していない」という大上段からの言葉でもある。正論という強者の理屈は、それがどれだけ正しいことであったとしても他者に受け入れられることは稀だし、悪戯に心を傷つけるだけなのだ。

「そっか」
「一応言っておきますと、別に私はすばるさんを信じてないわけじゃありませんよ。
 すばるさんならきっと、もう一度立ち上がってくれるはずです。ただそれは今じゃないというだけのことです」
「そうだな。分かってるよ」

 淡々としたアイの口調と、どこか安心したような蓮の口調。
 気が付けば二人は、赤い鳥居の前まで辿りついていた。

「セイバーさん、ここが?」
「ああ。異様な魔力と気配が充満してやがる。神社の鳥居は現世と神域を隔てる境界なんて言われてるが、まさにそれだな。一歩向こうに踏み出せば、そこはもう異界も同然だろうな」
「なるほど」
「今からでも遅くないから帰らないか?」
「駄目です。件の気配が何にしろ、こんなところにランサーさんを放ってはおけません」
「俺だけ突入するってのは」
「勿論後から私も勝手に突撃しますが何か?」
「おし、一緒に行くか。そのほうが万倍マシだ」

 諦めたような腹を括ったような、どちらともつかない声音で蓮が言う。その脇では興奮で鼻息を荒くしたアイが、ふふんと言わんばかりに胸を張っていた。

「……よし」
「じゃあ、行くぞ」
「ええ」

 そうして二人は、同時に足を踏み込んで───

 ………。

 ……。

 …。

 ────────────────────────。





   ▼  ▼  ▼





「キーア」

 彼が沈黙を保てたのは、ここまでだった。
 等間隔に照らされる街灯の光だけが飛び込んでくる車中。セイバー、アーサー・ペンドラゴンは絞り出すように、声を出した。

「闘いへと挑むには、勇気が必要だ」

 腕を組み、ただ真っ直ぐに少女の瞳へと向き合って、彼は言葉を紡ぐ。
 この言は騎士道に基づくものではない。
 まして彼女にそれを説くつもりもない。
 それは恐らく、遠き現代に生きる少女の身に理解し得るものではないだろうから。

「恐らく、君は既にそれを得ているのだろうね」

 強制的な言葉にもなり得ない。
 何故なら、彼のマスターは誰あろう、この少女に他ならないのだから。

「君の勇気ある態度に、僕は敬意を表する。君のようなマスターを持てたことは幸運だったと、その言葉に嘘はない。
 しかし勇気と蛮勇は別物だ。事態の推移を把握してもらいたいと考えてはいたけど、それと実際に戦場に赴くのとではまるで話が違う」

 瞼を閉じ耳を塞ぎ蹲る、少女はそれをしなかった。
 聖杯戦争のマスターとして、屹然と立ち向かう勇気と覚悟を彼女は示した。
 そう、それは少女の強さだ。セイバーはただ、その意思のみを示してくれたならばそれで良かったというのに。

「キーア、ここから先は戦場だ。一つ間違えばどんな人間であろうとも命を落とす、ここはそんな碌でもない場所なんだ。だから」

 眼前の無垢へ語りかける。
 まさしく、年若い幼子へと言い含めるように。
 せめて、この少女が、血濡れた修羅の洗礼を受けることのないように。
 けれど───

「ありがとう、セイバー。でもね、あたしはもう決めたの」

 毅然とした顔は、揺るがない。
 諌める彼の言葉を至極当然であると受け止めて、それでも尚揺るがぬ意思は巌のようだった。
 輝く瞳が、真っ直ぐに彼を見つめ返している。

「決めた?」
「そう。梨花が何でこの街に来たのか、梨花はなんで死ななきゃいけなかったのか。サーヴァントや聖杯戦争が本当はどういうもので、私達は一体何のために戦わなきゃいけなかったのか」

 セイバーはただ、無言でその言葉を聞く。
 彼女はきっと、額面通りの疑問に答えを求めているわけではあるまい。もっと抽象的な、ひいては本質的な部分に対する疑問であった。
 あるいは、納得と言い換えてもいい。
 理由さえ知れぬこの不条理そのものへの、これは彼女なりの宣戦布告であった。

「ごめんね。きっとあたしは足手纏いにしかならないんだと思う。それでも、あたしは───」

 言いながら、彼女は胸元に手をかける。
 黒色のドレスの胸元。
 そこに光るブローチをさすり、彼女は言う。

「あたしは、もう立ち止まりたくなんてないの」

 その右手は、前へと伸ばされて。

 ………。

 ……。

 …。

 ────────────────────────。


 停車した黒塗りの高級車から降りた先は、人気のない大通りであった。巨大な赤い鳥居を正面に臨むその通りは、中央を豪奢に植樹された街路樹に囲まれた歩道が貫く、風情ある場所だった。平時ならば昼夜を問わず人通りが絶えないであろうと容易に推察できる。しかし今は、不自然なまでに誰もいない。
 煌々と灯る無機質な街灯の光だけが、夜の闇を一層寂しいものにしていた。

「エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ、黒円卓の魔操砲兵。辰宮嬢の制御すら利かぬ暴走機関車。
 のみならず、一帯を牛耳る天夜叉のライダーに、外洋に浮かぶ戦艦の主……問題は山積みだな」

 その中にただ一人、この騎士だけはその存在感を異なものとしていた。
 蒼銀の輝く鎧は一片の曇りもなく、湛える覇気は押し込められた黄金の如く。
 煌びやかでありながら一切の無駄がない、精錬された一振りの鋼にも似た剛健な気配を、彼は有していた。

 彼は先の未来に思いを馳せるように、深々とした息を吐く。
 彼の言う通り、問題は山積みだった。
 例えば、それは今これより挑む八幡宮の何者かであるとか。
 例えば、それは今この時には味方であるはずの少女であるとか。

(彼女の話では己がマスターを屍食鬼に変異させられたということらしいが、さて)

 ランサー、徒手空拳の少女の英霊から、彼は既に事の次第を聞き終えている。
 一度は隠し立てしたその事実を、確たる理由と謝罪を添えて、聞き届けている。

 確かにつじつまは合う。マスターが屍食鬼になってしまったなら、普通はそれを隠したいと考えるはずだ。
 協力どころかヘタを打てばこちらのマスターまで二次感染してしまう危険性がある上に、そもそもマスターが屍食鬼ではそのサーヴァントには未来がない。マスター替えを善しとするなら話は別だが、ランサーはあくまで自分を召喚したそのマスターに忠義を尽くしたいと考えたため、このような隠し事をしたのだろう。
 気持ちは理解できる。話にも理屈は通る。
 が、何か納得がいかない。
 性質の悪い詐術にでも引っ掛かったような違和感が、胸の奥に纏わりつく。
 理屈ではない。これはあくまで直感だ。しかし彼は自身の直感をこそ信じる。この話はまだ終わったわけではないのだと。

「ともあれ」

 思考を打ち切るように、彼は振り返り。

「君も今回行動を共にすると、その理解でいいのだな」
「はい、よろしくお願いします!」

 振り向いた先にあったのは、桃色の装飾が施された外装を纏った少女の姿。
 サーヴァント、ランサー。かつてセイバーに助けを求めてきた者であり、今はセイバーの協力者である彼女。
 セイバーはその顔を少しばかり訝しげにし、尋ねた。

「最後にもう一度聞くが、君はそれでいいのか。これは私達にとってはやらねばならない事だが、君には本来関係のない話だ。
 真実を話してもらった以上、君への協力に否はない。しかしこのような事態にかかずらっていられる余裕など、君にはないはずだ」
「関係あるとかないとか、それこそ私には関係ないよ。そんなこと言ったら、あなたは助けなくていい私の求めに応えてくれたんだから、私が協力するのなんて当たり前。
 それにここを放置すれば、きっとまた大勢の人が巻き込まれる。そんなの、絶対認められない!」

 それとここで待ち合わせしてる人たちもいるし、とランサー。件のセイバー主従か、協力できれば頼もしいと素直にそう思う。
 放置はできないというランサーの言葉に、彼は内心頷きを返した。鶴岡八幡宮、かの地に何が潜んでいるのかは未だ不明ではあるが、これを放置していい道理などないと、実際目にしたことでその思いは確信に至った。
 見据える先、八幡宮の中心点から滲み出る魔力は、今やその密度を異常な域にまで達していた。
 端的に言って禍々しい。街は今夜の闇に沈んでいるが、それよりも尚昏く黒いものが、大質量を伴って流れ出している光景を彼らは幻視した。
 肌に突き刺さる得体のしれない感触は、量と性質を異常なものとする魔力によるもの。周辺住民の気配が微塵も感じられないのも恐らくはこのせいだろう。
 このような光景、当世では決してあり得ない。神代にも近しい深淵の神秘が、彼の地に顕現しているのだと、サーヴァントたる彼らは容易に察することができた。

「ランサーさんの言う通りです。これなる異状を放置すること罷り成りません。聖杯戦争におけるサーヴァント同士の決着などよりも優先される、今こそまさにその時であると言えるでしょう」

 声は、後ろから静かに歩いてくる百合香のものだった。傍らにはキーアを連れている。
 百合香の言葉は、ランサーに壇狩摩に纏わる諸々の事情を言い含めていないがための修飾があったが、しかしそれ自体もまた事実であった。これはまさしく災禍そのもの、放置すればどのような事態を招くか想像すらつかない。
 これほどの事態に何故監督役は、ルーラーは動かないのか。そもそも顕現すらしていないのか。理由は不明だが、彼らの助力がないのだとすればあとは現地にいる自分たちがどうにかする他ない。
 そして何より、狩摩の遺言だ。
 この地には聖杯戦争そのものの根幹に関わる何かがある。足を踏み入れない理由など、彼らには存在しなかった。

「……行こう。キーアちゃんはセイバーが、百合香さんは私が守るから」
「頼りにしていますよランサーさん。では」
「ああ」
「行きましょう、セイバー。みんな」

 四人は足並みを揃える。眼前に立つ鳥居を見据え。

 一歩、踏み越える。

 ………。

 ……。

 …。

 ────────────────────────。





   ▼  ▼  ▼





「見つけた」

 嘲笑う声が反響する。
 それは此処にはおらず、けれども遥か彼方を視認して。
 "目"を通してそこを見る。視線の先に、探していたモノはあった。

「ちょいと見ねェ間に随分とイキがってくれたようじゃねェか。なあランサー、そのお仲間はお涙頂戴に訴えたか? それとも似合わねェ口八丁でも使いやがったか。
 まァいい」

 言葉と共に立ち上がり、軽く腕を上げる動作に合せて周囲を囲う人の気配が動く。

「出立だ。準備しとけ」
「若、何処へ」
「八幡宮だ。それと」

 サングラスの奥の目がぎらつく。
 それは嚇怒か、愉悦か、それとも嘲笑か。
 少なくとも。

「あの屍食鬼を牢から出しな」

 歪む口元は吊り上げられて、そこに一切の善性が含まれていないという、それだけは明白であった。





   ▼  ▼  ▼





 この街に来てから、色んなものを目にしてきた。
 この街に来てから、色んなものを失った。
 それに対して、果たして自分は何をし、何を思えば良かったのだろう。
 自分のしてきたことは、正しかったのだろうか。

 そんな益体もつかない思考を、本当は意味などないと分かっているのに止められない自分を、すばるは自覚していた。

「アーチャーさん……」

 自分の声に応えてくれた弓兵のサーヴァントは、気を失っている間に消滅してしまった、らしい。
 自分の目で確かめていないから、らしい、としか言えない。けれど輝きを失った令呪と繋がりを感じないパスから、彼女の存在が消えてしまったということは、拭うことのできない実感として感じることができた。

 アーチャーは優しい人だった。英雄としての彼女は強くて頼もしく、凛々しさを思わせる人だった。けれど東郷美森という一人の少女としての彼女は、暖かで優しく、まるでお姉ちゃんのような存在だった。ふわりと包んでくれるような、そんな人だった。
 最後の最期まで、こんな情けないわたしを気遣ってくれる人だった。
 願いがあったろうに、それを押し殺してまでわたしを助けてくれた。
 暖かくて、感謝の念ばかりが湧いてきて、思い出す度泣きたくなった。

「みなと、くん……」

 追い求めていた少年は死んでしまった。それを、すばるは明確に認識している。
 彼の死を目撃したわけではない。ただの伝聞で、しかもその情報は正確性に欠けるものだった。けれど、それでも彼は死んでしまったのだと、どうしようもなく分かってしまう。

 彼についてすばるが知っていることは、あまりに少ない。
 ただ言えることは、わたしは彼のことが好きだったということ。もう二度と失いたくなかったということ。
 だから、こんな街に迷い込んでしまって、そのはずだったのに。

「アイちゃん、セイバーさん……」

 二人のことを思い出す。
 彼らがいなかったら、きっとすばるはとっくの昔に死んでいただろう。
 アイ、勇敢な子。わたしもあの子のようにあれたらと、思ったことは一度や二度ではない。
 セイバー。綺麗な男の人。まだほとんど話せてないけど、ぶっきらぼうな口調でもこちらを気遣ってくれていたことはありありと分かった。

「わたし、は……」

 わたしは何をすればいいのだろう。
 分からない。けれど、確かなことが一つ。

 このままじっとしていたら、とてもじゃないが正気ではいられない。
 次々と湧いてくる後悔や慙愧の念が強すぎて、今は何でもいいからそれを振り切りたかった。
 忘れることはしたくない。それはみなとくんを忘れてしまうのと同じだから。けど、けど。それでもこれは辛すぎる。
 現実逃避であると分かっている。それでも何かをしなければ耐えられない。

 だからすばるは、今ここにいた。
 鶴岡八幡宮。アイとセイバーが向かうと言った場所。物陰に隠れて通りの向こうの鳥居を見る。

 ついてくるなという二人の言葉は、痛いほどよく分かった。
 サーヴァントを連れ立たない自分にできることなど何もない。力の伴わない意思はただの無力でしかなくて、できることなど何一つとして思い浮かばないけれど。

「わたしは、生きるから」

 生きて帰る。そのためにこの聖杯戦争から抜け出す。
 じっとしていても半日ほどの時間と共に消えるしかないなら、か細い希望であってもそれに縋ろう。
 故にすばるは前へと向き直る。
 アイたちへと向けて、一歩を踏み出す。

 ………。

 ……。

 …。

 ────────────────────────。





   ▼  ▼  ▼





 "それ"に人間らしい意思は一欠片も存在しなかった。
 人の姿をしているが、それは最早死体でしかなく。
 人の言葉を発しているが、そこに最早意味はない。
 肉塊が歩いているだけだ。生前の反復行動としての肉体運動と、腐敗したシナプスの誤作動が引き起こす音でしかない声だけがそこにはあった。

 判別付き難い呻き声を上げながら、それは夜の参道を彷徨う。
 民間人が皆無だったのは不幸中の幸いだったと言えるだろう。それは人の気配を感じ取るや、すぐさま襲い掛かりその爪と牙を以て捕食する性質を持っているからだ。だがそれは真に幸いであるとは言えない、何故ならそれと同じ代物は既に街全域へと拡散している。

 ふらふら。
 ゆらゆら。

 揺れるように歩く。意思などないはずなのに、ただ一点へと向かうかのように。目的地、向かう場所がこれにはあったのか?
 八幡の中心、本宮へと向かう。目的地であるというよりも、厳密に言えば引き寄せられているのだ。それには最早意思はなかったが、本能に根差した欲求の残滓はあった。故に、そうしている。

「■■■───……」

 階段を昇る。一歩、一歩と足を踏みしめて。
 本殿の入り口はぽっかりと黒い穴を開けて、それがまるで巨大な生き物の口腔であるかのように、有機的な脈動すら滲ませて"それ"を迎え入れた。
 それが消えていく。月明かりのある外の闇から、真に光のない内の暗闇へと姿を消していく。
 そして───。

「─────────」

 そして、そこで何を見たのか。
 何に触れたのか。

 何の予兆もないままに、静寂だけが支配していた本殿から、突如として空間的な振動が巻き起こって。
 地鳴り。
 振動。
 空間途絶、始まって。



 ───世界が、裏返る。

 ………。

 ……。

 …。

 ────────────────────────。





   ▼  ▼  ▼





「なんと……」

 思わず忘我の声が出てしまったことは、きっと誰にも責められないだろう。
 それだけの衝撃が、事態の行く末を見守っていたハサンにはあった。当然だ、鶴岡八幡宮とその周辺の全てが、突如として"白い濃霧で構築された半球形の結界"に覆われたのだから。

 白色の巨大球体。
 極大規模の天球結界。

 それは、月明かりに尚白く映えて。何者をも内から逃がさないとでも言うかのように。
 目測およそ350m、それだけの範囲が一瞬にして、異なる世界へと塗り潰された。

「キャスターの陣地……いや、これはもしや固有結界の類か? 内在する魔力の底がまるで見えんな。
 いずれにせよ大禁呪には違いあるまい、これほどの化生がサーヴァントとして現界しておったとは」

 内心の驚愕を言葉にしながら、ハサンは次なる行動の準備を整えていた。くたばり損ないの屍鬼を八幡宮に放ってから未だ半刻と経ってはおらず、まさかここまで事態の推移が急速であるとは思ってもみなかったが。しかしそうであるなら話は早い。
 ハサンの目は、先ほど数騎のサーヴァントが八幡宮へ侵入する様を目撃していた。セイバーが二騎とランサーが一騎、内一騎は午前に拠点としていた廃校傍で見た顔であり、キャスターを相手取るには十分すぎる戦力である。
 つまるところ、狙うべきは漁夫の利。
 ハサンが事態に絡んでいることは物言わぬ屍鬼の少女しか知らぬ以上、これを置いて他になし。

 透徹した気配を更に希薄なものとしながら、ただ主のために奔走するハサンはあらゆる事態を観察し続けるためより相応しいポイントへと移動を開始するのだった。



NEXT:亡霊は夢に囁く

|