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 ありふれた願いがあった。

 大それたことなんて何もない。私はただ、生きたかっただけ。

 青い海が大好きで、もう一度あの鎮守府に戻りたかった。
 もう一度友達に会いたかった。
 何でもない日々を過ごしたかった。

 聖杯なんていらない。
 万能の願望器なんていらない。
 私は、ただ。
 生きて帰れるなら、それで良かったのに





   ▼  ▼  ▼





贋作者(フェイカー)はお手柄だったというわけだな」

 悠然と男が言った。静かに、けれど強い意思を秘めて。
 黄金なりし男は全てを睥睨し告げるように言う。それは王としての在り方か、あるいはこの舞台そのものに対する姿勢の表れであるのか。
 白銀の月を背に仁王立ち、しかして影法師に堕すことなく煌々たる耀きを放つ。
 この場にいるは幾人もの人間、英雄たち。しかし彼の王に向かい合うは、同じく王であるところのただ一人のみ。

 ───蒼銀の月光なりし赤薔薇の君。
 ───若き夜の王だけが、黄金王たる大英雄と相対して。

「奴の無謀が黒騎士の牙城を崩した。一には及ばず無限にすら至れぬ半端者が、地の利と天の利と時の利を得て勝利を知る。効果的だな、奪うにはまず与えねばならん。
 実に心地よかっただろうよ。強者を食らう弱者の逆襲は総じて陰惨な愉悦を伴う。己では決して届かぬ高みにある者を引き摺り下ろす快感は麻薬のように美味で、抗い難い。それはあの贋作者も同じだったろうさ。全て貴様の掌の上だと気付くこともなくな」

「私と三騎士がまともにぶつかればこの街そのものが持たない。それはお前や、第一盧生であっても同じことだ。
 その点彼らは非常に有用だったよ。余計な力を持たぬから一点を突くことしかできず、故に周辺被害をもたらさない弱者の刃。贋作でも時には本物に手が届き得るということだ」

「ハッ、下らんな。それに何を言うかと思えば、この期に及んで朧の繁栄に浸る都市の心配とは、随分と慈悲深いものだ。庇護するだけが王政ではあるまいに」

「後の賢王とは違い暴風としか在れぬお前に言われる筋合いではないな」

 二人の言い合いを、遠巻きにして眺める四人がいた。
 そのうちの二人であるアティとヤヤは、全く状況が掴めていないのか、呆けたような表情で固まっている。自分のサーヴァントであるストラウスと、その向かいに立つギルガメッシュとをおろおろと交互に見るアティ。その顔は困惑に満ちていたが、しかしそれでも常人の反応としてはまだマシな部類なのだろう。もう一人のマスターであるヤヤは、その視線を釘づけにされていた。彼女は忘我そのものの表情でギルガメッシュを凝視し、全く体を動かせないでいた。見開かれた瞳に映るのは畏怖か、それとも崇敬か。端的に言って完全に気を呑まれている。目の前のそれが圧倒的すぎて、一時的に思考が真っ白になっているのだ。
 ならばストラウス側にいるもう一人、ライダー・アストルフォはどうしているのかと言うと……じっとギルガメッシュのほうを見つめている。理性が蒸発し空気というものを全く読めない彼にしては珍しく、殊勝かつ冷静に事態を見守っていた。彼なりに何か思うことでもあるのだろうか、ヤヤとアティの二人を庇うようにして、彼女らとギルガメッシュとを結ぶ直線上に自らの体を置いてきその身を不動のものとしていた。
 残る最後の一人、英雄王ギルガメッシュの横にいるのは、彼のマスターたるイリヤスフィールだ。己が侍従たるサーヴァントを連れ立ちこの場を訪れた以上、何かしらの目的ないし思惑があるのだろうと誰もが思っていたが……しかし、その顔はアティやヤヤと同じくして困惑に満ちたものだった。何ということだろうか、彼女は自分のサーヴァントたる英雄王が何をしているのか、何を言っているのかまるで分かってないように見えた。それは少しでも情報を得ようと彼らを注視していたアストルフォには、すぐに分かった。ならば、だとすれば、ストラウスと英雄王は一体何を話しているというのか。

「知っているか赤薔薇。この街の人間はその全てが微睡みの底に沈んでいるが、それは街そのものも同じなのだと。世界が目を瞑っておるのだ。見捨てられたと言ってもいい。
 黒円卓なぞただ強大なだけの路傍の石に過ぎん。夢に囚われているのは誰もが同じよ。滅びるだの死ぬだのと、事はそれ以前の話なのだ」

「しかし楔は残存している。ただ一つの真実たる盧生も、囲いを打ち壊すべき者もまたここにいる。それにな、贋作嫌いのお前は心底不愉快ではあるだろうが」

 そこで一度、言葉を切って。苦笑するかのような響きと共に。

「それでも世界は続いているのだ。瀕死寸前であろうと盲目に彷徨おうと、例え全てが偽物であったとしても。目覚め、抗い、己が意思を持ったその時点で我らは唯一の独立性を確保したのだ。
 それを作られたなどと、お前は言うまい。己の生き方を他者に委ねることなきお前ならば」

 ストラウスは笑った。心の底から、何かを信じるかのように。
 ギルガメッシュも嗤った。真意は分からず、ただ何かを睥睨するように。

「どちらにせよ、やるべきことは変わるまい。私としては、その確約さえ貰えるならばそれでいい」
「不遜だな。だが良い、許す。先にも言ったが、貴様はこの衆愚の坩堝には珍しく己が分を弁えている故な」

 その言葉に含まれる感情は一体何であったのか。
 肯定か、喝采か、あるいは侮蔑か。彼は燃えたぎる意思宿る瞳を伏せ、あるいは何かに思いを馳せるかのように。

「結論を言おうか。貴様の言い分、思惑、結構ではないか。好きにやるがいい我が許す!
 貴様が貴様の思うまま動くように、我もまた我の思うままに流離おう。元来、我らはそのようにしか生きることのできぬ身であるのだからな」
「同感だ。口では何を言おうと、結局我々は己のエゴを貫くことしか頭にない、どこまでも自己中心的な存在なのだろう。故に」
「ああ、故に」

 ストラウスは口許を引き結ぶ。ギルガメッシュは凄絶に哄笑する。

「故に、我は我の思うがまま」
「故に、私は私の為したいがまま」

 その右手は、遥か遠く一点へと向けられて。

「今こそ───その薄皮剥される時だ、鴻鈞道人」

 重なる声と共に、彼らの右手は、前へ。

 ………。

 ……。

 …。

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   ▼  ▼  ▼





「ははッ! こいつはまた随分と派手なことしやがるじゃねェか!」

 鶴岡八幡宮東門にやってきたドフラミンゴは送迎車から足を下ろすと、大げさに手を振り上げて哄笑した。
 それは物静かな夜の街では嫌に目立つ行為ではあったが、大通りに面する正門とは違い小町大路の細い脇道にある東門には活気というものがなく、それを咎める者は誰もいなかった。

 彼の目の前には、屹立する白い壁が見渡す限りに張り巡らされていた。
 それは俯瞰して見れば巨大な球体の上半分であったろうが、すぐ近くまでくれば最早ただの壁だ。そしてその白さとは壁材の色ではなく、先を見通すこともできないほどに濃密な霧の白さである。
 言うなれば、それは巨大なガラス玉の内部に煙を充満させたような光景であった。霧は不動ではなく一定の速度で常に流動しており、それがかえって視界の悪さを助長している。
 ぞろぞろと、連れも連れたり10人ほどの黒服が、目の前の異常事態に顔面を引き攣らせていた。

「わ、若様、これは一体……」
「大方キャスターあたりの陣地か宝具、それも龍穴を利用した特注品ってとこか。
 フッフッフ、なんだよランサー、似合わねえお仲間作ったかと思いきや結局てめえは良いように利用されたってことじゃねェか!」

 キャスターのクラスは単純な戦闘能力では下位に属するサーヴァントだが、代わりに自軍に有利となる陣地や魔術礼装の作成を行えるクラススキルを持つ。時間と共に陣地はより強固となり、礼装はより質が良く数も多くなる。直接戦闘に向かない代わり籠城戦・消耗戦・長期戦に適しているのがキャスターであり、セイバーら三騎士に極めて不利な彼らにとって唯一の勝ち筋となるのがその作成技術だ。
 キャスターの陣地に無策で飛び込むことは相手の体内に取り込まれるに等しい。本来キャスターに有利であるはずの三騎士クラスであろうと、単騎では心もとないどころか為す術なく殺されてしまう可能性が高いだろう。それを鑑みれば、あのランサーがどのような状況にあるのか容易に察することができる。
 すなわち隷属、体のいい操り人形兼捨て駒としてこの中に突貫させられたに違いない。ドフラミンゴに対抗する戦力を集めようとして、逆に自分が相手の戦力に組み込まれるなど本末転倒甚だしい。全くもってお笑い草だ。

「まァ奴についてはどうにでもなるとしてだ。
 おいお前、ちょっとこっち来い」
「え、あ、はい! 何でしょうか若様!」
「いやなに」

 ドフラミンゴは傍らで未だ呆然としている黒服の一人を呼び寄せる。我に返り駆けよるその男に、ドフラミンゴは笑顔で応え。

「ちょっくら実験台になってこい」
「え───あ、あああああああ!?」

 駆けよる背中を思い切り蹴り上げた。
 唖然とした顔が白霧の向こうへ消えていく。どよめく周囲を、軽く手を上げ黙らせる。

「さァて、こいつァどんな絡繰りが仕掛けられているのやら、ってな」

 ドフラミンゴは掲げた手を引っ張るように、思い切り引く。その動きに連動して重い物体が引きずられる音が鳴り、霧の向こうから倒れ伏す男が引きずられてくるのだった。
 あっさりと結界の中から引きずり出された黒服を、他の黒服たちが囲む。検分するように見下ろすドフラミンゴの表情には怪訝なものがあった。

「あァ? なんだこりゃ」
「若様、我々にはもう何がなんだか……」
「うるせェよ、少し黙ってろ」

 引きずり出された男は、眠っていた。
 死んでいるわけではない。ただ眠っているだけだ。その寝息は穏やかで、その寝顔は至福に満ちているような笑みで彩られている。
 極道者とは思えない無垢な寝顔だ。厳つい顔つきの男には全く似合わない腑抜けヅラでムカつく部分があったがひとまずよしとする。
 問題なのは、何故このような状態になったのかという点、そしてこの空間がどのような構造になっているかについてであり。

「"弾糸"」

 掲げた指先から弾丸を射出する。上向きに放たれたそれは白霧の中へ吸い込まれるように消え、しかし天球の向こうを突き破ってくることはない。
 弾糸の射程は優に1㎞を越える。それが、奥行300m程度しかないこの空間を横断して向こう側から飛び出してこないということは、つまり。

「空間の拡張、中は見た目以上にデケェことになってるわけだ」

 薄っすらと笑みを浮かべる。

「外界と隔絶してるってわけじゃねェ。こいつを見る限り致死毒の類も魔力ダメージもほぼ皆無、効力は昏倒による無力化あたりか?
 覇王色にも似てるがまるっきり同じってわけじゃねェらしいな。原理としちゃ精神系か魔力系か。前者なら俺の覇気、後者なら対魔力で対抗できるかってとこだが確証がねェのがな。さてどうしたもんか……」

 優れた長は恐れを知る。
 勇気や度胸の有無とは全くの別次元で、集団を束ねる長には恐怖心への理解が求められる。
 未知の敵や難事への打開策を探り、何時如何なる時も冷静さと慎重さを失わない。その姿勢こそが集団を存続させる最善手であり、また基本中の基本だ。
 正体不明の敵に現象、何かしらの条件を満たさない限りは即座に無力化される広域結界。そこに無策で突っ込むほど、ドフラミンゴは愚かではない。

 と、その時。

「ン? なンだあれは」

 遠くから、小さな影が飛んでくるのを見咎めた。それはドフラミンゴたちではなく霧のほうへ、真っ直ぐ突っ込むように夜空を翔ける。サーヴァントの気配を感じない以上、それは恐らくどこぞのマスターなのだろう。
 また新手か、とドフラミンゴは、弾糸の照準をその影に合せようとして───

「……いや」

 直前で取りやめ、手を下げた。影はドフラミンゴたちには気付くことなく、ボフッ、と音を立てて霧の中に突っ込み消えていった。
 一部始終を見届けると、ドフラミンゴは何か思いついたような顔つきで薄く嗤う。

「そうか、そうだよなァ。使えるもんはなんでも使え、当然の話じゃねェか!
 これが最後の仕事になるんだ。精々気張ってくれや、勇者ランサーさんよ!」

 その眼光は真っ直ぐと、結界の中へと向けられて。

 ………。

 ……。

 …。

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   ▼  ▼  ▼





 空を斬る鋭い音と、それに伴って真一文字に切り裂かれる白亜の大気の向こうに、藤井蓮の姿はあった。

「しつけえ」

 たった今、展開される退廃の夢を一瞥することもなく両断した男の言葉は、そんな短くそっけないものであった。

「二度目は喰らわない……ってだけの話じゃないな、これは。"最初"より明らかに効力が弱まってやがる、どういうことだ?」

 この現象には覚えがある。今朝方遭遇した正体不明のサーヴァントだ。あの時も今回も自分はこうして危機を脱することができたが、しかしどういうわけか体感的な効き目は今回のほうが遥かに弱い。
 この地に巣食っていたのは奴であったのか。事前に感知していた魔力の多寡から言って、強化されることはあっても弱体化することは考えづらかったが、しかし無理やり解釈を当てはめるならば、恐らく奴は力の大半を空間の展開に割り振ったのだろう。自身の性質と力の総量をそのままに、効果範囲だけを飛躍的に増したのだ。その結果として、一人当たりの食らう濃度が薄くなった。
 情報が乏しい故の仮説ではあるが、一応筋は通っているはずだ。足元に煌めくダイヤモンドのような透明の結晶を、しゃがんで手に取りながら、蓮は思考する。

「欠片……残滓? 魔力は感じるが脈動はない、もう死んでるのか」

 掴みあげようとしたその結晶は、しかし触れると同時に脆く砕け、指の間を流れ落ちていった。キラキラと輝く砂粒は、地面に落ちるよりも早く空中に溶けるようにして消えてなくなった。
 指に残る粒子を振り払い、蓮は周囲を見渡す。ここは、恐らく参道だろうか。灰色の石畳に等間隔に並んだ石灯籠が、海のように浸された霧の中でぼんやりと赤い灯りを放っている。
 幻想的ではあったが、異質な光景でもあった。およそ元の神社仏閣ではあるまい、明らかに空間が変質している。
 そしてこれが最も重要なのだが、この付近に人の気配はない。つまるところ、アイとはぐれてしまっていた。

「そんな長く意識を失ってたつもりはないんだけどな」

 不可思議なことが多すぎる、と蓮。しかし困惑気味の口調とは対照的に、その内心はある種の戦意が鎌首をもたげ始めていた。
 この事態の中心にいるのは、ほぼ間違いなく今朝方のサーヴァントだ。状況的にも心情的にも、蓮は彼奴を殺せるうちに殺しておきたかった。
 何故ならアレは人間に対して絶対的に有害な存在であるから。至福齎す夢幻を拒絶できる者など、蓮のように幸せを幸せと思えないひねくれ者か、理性を持たない狂人か、あるいは狂気的に精神を理論武装した強者くらいのものだろう。大半の人間はまず間違いなく覚めない眠りに落ち、そのまま死ぬまで幸福に浸り続けるはずだ。
 決して人界には在ってはならぬ存在である。そんな歩く核爆弾のような奴を放置しておける道理などないし、それ以上に気に入らない。アレは蓮の信条と真っ向から相反する上に積極的にこちらを害しにかかってくる。その意味も、己以外の知性もあるのだと理解しないままに。
 故に戦う機会があるのなら、蓮は今度こそ容赦なく攻撃を加えるつもりであった。
 が、その前に。

「アイの奴を見つけてやらねえと」

 そう言って歩き出した蓮の耳に、ガサリと何かが動く音が届いた。目を向けてみれば、そこには小さな人の影。

「さて」

 アイであるか、鬼か蛇か。あるいはもっと他の何かか。
 決して油断はしないまま、蓮はその人影へと歩み寄るのだった。

 ………。

 ……。

 …。

 ────────────────────────。





 霧を抜けた先にあったのは、輝かんばかりの太陽だった。

「え?」

 素っ頓狂な声を上げて、すばるは周りを見る。いつの間にか自分は学校の机の前に座っていて、今までドライブシャフトに乗っていたはずなのにそれも見当たらない。そもそもこの光景は一体なんであるのか。

「すばる」

 後ろからかけられる声。聞き覚えのありすぎるその声は、親しみを込めた口調で。

「何してるんだい? 次は移動教室だから早めに───」

 だから、すばるは思いっきり叫んだ。

「───ふざけないで!」



 目を開けた瞬間、目の前には真っ黒な地面があった。

「うわ、わわわわわわわわわわー!?」

 突然の事態に慌てて舵取り、進行方向を無理やり上へと変更する。急減速するドライブシャフトが、地面ぎりぎりのところでストップすると、冷や汗を流しながら深々と息を吐く。

「あ、危なかった……」

 本当に危なかった。意識を失っていたのは恐らく数秒程度なのだろうが、高速飛行している最中では致命的すぎる。墜落しなかっただけマシ、と考えるしかないだろう。

「それで……」

 恐る恐る地面に降りたすばるは、不安そうというか頼りなさ気というか、途方に暮れたように呟いた。

「ここ、どこ?」

 まずそこからして分からなかった。

 周りは全部真っ白。多分、霧かなにか。そこはいい。八幡宮が白い結界に覆われた時点で、中はそういうふうになってるんじゃないかなーみたいな予感はあったからだ。
 にしても、これはちょっと何かがおかしい。鶴岡八幡宮は相当大きな神社だと言うのは聞いていたけど、それにしたって肌に感じられる奥行の縮尺が違い過ぎる。一つの建物の敷地内にいるというよりは、カケラ探しでよく行った広大な宇宙の中にいるような感覚。なんというか、もう一つの別の世界に入り込んでしまったかのような気分だ。

「結界、なのかな。変な夢も見せられたし……よくわかんないけど」

 すばるの拙い知識では、とてもじゃないが現状を推察することはできない。すばるは魔術師ではないし、そういった世界の裏側についての知識など微塵もない。ドライブシャフトを手に入れたのだって偶然みたいなものだし、本当にどこにでもいるただの中学生でしかないから。
 すばるには何もなかった。力はない、知識もない。何か特別な技能も、こんな時に役に立つ道具も持たない。心だって決して強くはない。平凡な、何者にもなれないその他大勢の一般人。それがすばるだ。
 こんな弱虫が飛び込んだところで、何かが変わるとは自分でも思っていなかった。

「……行かなきゃ」

 けど、そんなことはとっくの昔に承知している。
 自分の無力を嘆くだけなら、そもそもこんなところになんか来ていない。
 アイとセイバーを手助けする、契約してくれるサーヴァントを探す、協力できる誰かを見つける。
 それらは残されたマスターとして達成すべき義務であるし、すばるが生き残るために必要な絶対条件だ。
 道行は困難極まるが、だからと言って立ち止まってはいられない。行くべき道がそれしかないのなら、どれだけ不可能に見えても突き進むしかないのだから。

「アーチャーさんがいたら、怒られちゃうかな……?」

 アーチャー。優しかった彼女。いつもすばるの隣にいてくれた少女。
 彼女がいたら、きっと怒られてしまうに違いない。あの人はそういう性格だ。いつも誰かを気遣って、自分のことは後回し。憧れるくらい大人びてるのに、かと思えばどこか抜けてて微笑ましい気分にもなった。
 そんな優しいあの人なら、きっとこんな場所にいちゃダメよと諭してくれたんだろうなぁ、と。
 そう思うと、涙と共に流しきってしまったはずの悲しさが、また溢れてくるようだった。

 すばるは白く染まった空を見上げ、歩みを進める。
 無音と霧だけが支配する世界にあって、ただ見上げる。そうすることしかできない。今だけは顔を上げておきたかった。
 俯けば───
 きっと、涙が落ちてしまうから。





 ………。

 ……。

 …。

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「はえ?」

 気が付くと、世界は真っ白になっていた。

「は? ……は?」

 訳が分からないので、とりあえずそこらへんを闇雲にまさぐってみた。特に何もない。
 平衡感覚は正常、触覚も正常、自分が地面に立っていることは分かる。ついでにここは結構広くて、どこかに閉じ込められたわけでもないらしい。
 だが白い。とにかく白い。腕を真っ直ぐ伸ばしてみればもう指先が見えなくなるくらい視界が悪く、さっきまで夜だったはずなのにこの白さのせいかあまり暗いとは感じられない。精々夕方近くの薄暗闇くらい? いったいどういうことだこれは。

「えと、セイバーさん? どこにいるんですかー?」

 おずおずと呼びかけてみる。声は反響することもなく、霧の向こうに消えていった。なんだこれ。

「何がどうなってるんでしょうか……」

 こうしてても仕方ないので、とりあえず歩いてみる。先が見えないのでおっかなびっくり、伸ばした手をぷらぷら前に翳して、ゆっくりと。

「セイバーさーん、聞こえてるなら返事してくださーい、もしもーし?」

 声が虚しく辺りに響く。応えてくれる誰かはまだいない。
 とぼとぼ、という擬音が似合う足取りは、その後暫く続いた。

 試しに大きくジャンプしてみる。普通に着地して特に何も起きない。
 10mくらいダッシュしてみた。躓きそうになって慌ててたたらを踏み、何とか転ばずに済んだ。
 思い切って全力で叫んでみた。「わーーーーーーー!!!」という絶叫は霧を吹き飛ばさんばかりに轟いて、耳がキンキンしたがやっぱり誰も来ることはなかった。

「さ、流石に心が折れそうになりますね……」

 肩を落としながら道なき道をいく。というか自分は何をやっているんだ。本当ならこんなところで道草を食っている場合じゃないのに。
 そう、"自分は誰かを救わなくてはいけない"のに。
 その方法も見つけなければいけないのに。
 と。
 そんなことを考えた時。


「あ、アイちゃん!」


 霧の向こうから声がした。

「やっと見つけた!」

 アイの顔が驚愕に染まった。その向こうには、

「すばるさん?」

 ここにはいないはずの彼女が、満面の笑みで立っていた。





「ここで何をしてるんですか、すばるさん」

 アイの声は、言葉は、ほんのちょっぴり棘が含まれていた。
 当然である。ここは敵地で危険なのだから、自衛手段を持たないすばるが一人で来ていい場所ではないのだ。あんなことがあった以上、すばるにはもっと自分の体を大事にしてほしい。
 ぷりぷり怒ってるアイを見て、すばるはなんだか楽しそうな表情をしていた。

「付いてくるなら付いてくるって言ってください。そうと言ってくれたら私もセイバーさんも色々やれることはあったんです。飛んできた、なんて。危なっかしいにも程があります」
「ご、ごめんね」

 話を聞くに、彼女はアイたちと別れた後、思い直してドライブシャフトを使って文字通り"飛んで"きたらしい。ここぞというところで行動力を発揮するすばるらしいな、とは思ったが、それ以上に危なっかしいとアイは感じた。

「とにかく、一緒に行きましょう。近くにセイバーさんがいるかもですし、じっとしていたら危ないですから」

 言って、手を伸ばす。

「ね?」
「……」

 アイとしては極当たり前の、普通の提案だった。ここが死地であることは未だ変わりなくて、下手をしたら殺意満々のサーヴァントに遭遇する可能性だってある。だからこれは受け入れられることが前提の、アイとしては"おはよう"や"こんにちは"と同じく肯定の返事が返ってくる言葉だった。
 けれど。

「ううん、もうその必要はないの」

 すばるは小さく首を振って、アイの手を掴むことはなかった。

「……え?」

 挨拶を冗談で返されてしまったような心持で、拒絶された手を見下ろした。
 妙な違和感を憶えた。

「どうしたの?」
「どうしたって……すばるさんこそどうしたんですか?」

 意味が分からないといった風情で、アイはすばるの手を半ば無理やりに握った。繋がった手は暖かくて、何の嘘も見当たらなかった。

「私の説明を聞かなかったんですか? ここは危なくて、他のサーヴァントがいるかもしれない場所なんですよ?
 私達二人だけじゃ、万が一があったら……」
「だからね」

 すばるは笑いかける。その様子は今まで見たことがないくらい上機嫌で、こちらの手を両手で握り返すと、祈るように破顔してくる。アイの困惑は増すばかりだ。

「別のサーヴァントに会っても、もう怖くなんてないの。というか、もう戦う必要だってなくなったし」
「は?」

 アイの混乱が頂点まで極まった。何がなんだか分からなくて、誰かに説明してもらいたい気分だった。
 その時。

「お、ここにいたのか。探したぞお前ら」

 霧の向こうからひょっこりと、蓮が顔を出した。

「! セイバーさん!?」

 アイは反射的に叫んでいた。

「なんだよ、そんな怖い顔して」

 おどける蓮の顔は穏やかだった。先程までの闘いに赴く前のような険しい顔ではない、アイと街を散策していた頃のように朗らかだった。
 それに彼は、すばるが今ここにいることを、まるで不思議に思ってない様子だった。

「なんだって、それはこっちの台詞ですよ。ここは危ないって言ってたのはセイバーさんじゃないですか。それにすばるさんまで、もう何がなんだか」
「ああ、そのことか」

 蓮は何でもない風に。

「簡単に言うとな、全部解決した」
「はぁ?」
「ここの問題と、あと聖杯についてもな。聖杯は無事に起動して、参加者全員の願いを叶えても大丈夫なようになったんだ」
「はぁ!?」

 空いた口が塞がらなかった。

「つまり、もう俺達が戦う必要はなくなったってわけだ」
「ど、どうしてそんな……」

 一体何が起きれば、そんなことがあり得るというのか。

「監督役の人がね、わたしたちの訴えを聞いてくれたの」
「監督役って、あの神父さんですか?」
「うん。そしたらルーラーさんが、神さまが、全部叶えてくれたの」

 監督役の神父は本戦の開始と同時に消滅したはずだ。
 それにルーラーとは、なんだ? 聞き覚えはないはずなのに、何故か頭の中にこびり付いて離れない。

「詳しいことは後で教えてあげるね」

 言って、すばるは手を差し伸べた。

「だから、今はわたしたちと一緒にいこ?」
「……」
「ね?」

 だから、アイはその手を取れなかった。

「どうしたの?」

 訝しげに、すばるが聞く。

「アイは、こうなりたかったんじゃないの?」

 それは、その通りだ。

「もう戦う必要はない。
 もう誰かが死ぬ必要はない。
 聖杯という、世界を救う手段が手に入る。
 アイはそうなりたかったはずでしょ?」

 この手を取れば、"そう"なれるよ、と。彼女は嗤った。
 だから、アイは。

「ああ、なるほど」

 もうその手を取ることはなかった。

「それがあなたの言う、"みんな"の救い方ですか」

 そして、アイは目を覚ました。





 気が付くと、アイは地面に倒れていた。

『どうして?』

 目の前には茫洋と立ち尽くす少年の姿があった。
 黒地の燕尾服に亜麻色の綺麗な髪、桜色の頬にラピスラズリの瞳を持った、綺麗な少年だった。
 彼の差し伸べた右手が、孤独なままに垂れ下がっていた。

「……よいしょっと」

 アイは一息で立ち上がって辺りを見渡した。
 真っ白な霧の中。
 辺りには誰もいなかった。

「今のは幻覚ですか?」

 返事はなかった。それは別に構わない。期待してたわけじゃないし予想もつく。
 多分、今のは幻覚じゃなくて、ある意味では本物だったのだ。
 ある一点を除いて。

『どうしてこの手を取らなかったんですか?』

 "彼"は心底不思議そうに、アイに尋ねた。

『この手を取れば、君は幸せになれたのに。君は救われたのに』

 彼の顔には敵意も害意も浮かんでおらず、ただ底なしの幸せだけが湛えられていた。
 その時にはもう、アイはここで何が起こっているのかを理解した。自分の身に起きた出来事と周囲の異変、そして蓮から聞いた「キャスター」の情報とを照らし合わせて、彼が一体何であるのかを悟った。

「これが、あなたなりの世界の救い方なんですか?」
『うん、そうだよ』

 宝物を自慢するように、彼は笑った。

『世界はとっても広いんだ。広くて、大勢で、でもそれは一つの大きなものじゃない。"誰か"っていう一つ一つが合わさって、無限に大きくなっていくんだ』

 それはアイの出した答えと限りなく似通っていた。世界は一つではなくて、一人一人が積み重なってひしめき合って生まれる集合体。世界が石ころでできているように、"みんな"は"ひとり"でできている。
 だから。

『だから僕は、"みんな"の願いを全部叶えるんだよ』

 狂気そのものが、笑った。

『全員、誰一人の差別もなく。一人残らず、男も女も老人も乳飲み子も、誰一人余すことなく救ってあげたらいい』

 それは不可能を表す逸話によく似ていた。
 みんなを救う、などという絵空事を、しかし眼前の存在は可能にしてしまう。この世にいる全ての人を訪ね歩いて、一人一人を救うことすら可能なのだ。
 それが、『幸福』の力。

『僕ならみんなを幸せにしてあげられる。死んだ人も生き返る、悲しいことは全部なくなる、つらさも痛みもなくなって、幸せだけがある世界にしてあげられる。
 一つの悲しみもない世界、一つの不幸もない世界、そんな世界をみんなにあげたいんだ。そうすれば、世界は救われるから』

 その結果どうなるか。
 アイは簡単に予想することができた。

「そして、世界を滅ぼすんですか?」

 今なら分かる。あの時この少年の手を取っていたら、自分は確実に死んでいた。
 きっとすばるは立ち直って、みなとという少年も生き返って、蓮は本懐を遂げるだろう。
 そうして元の世界に帰った自分は聖杯の力で世界を救って、全部解決めでたしめでたし。
 一日が終わって、次の一日が来て、一年経って何年も経って歳を取って、笑って喜んで嬉しがって、悲しみも不幸もない世界を生きていくのだ。
 ただし現実ではない夢の中で。
 段々と衰弱して死に向かう体を放って、意識だけは夢の中で生きていく。

「そんなの、私は嫌です」
『どうして?』

 少年は叫んだ。それは全く大きくも荒げてもいない穏やかな口調だったが、それは紛れもない叫びであるのだと、アイには分かった。

『君は幸せになりたくないの?』
「ええ。世界を救う私は、決して救われてはいけませんから」

 それは自信を持って言えた。
 けど、問題はそこではないのだ。

「まあ私は希少種というか、みんなの中では少数派なんでしょうけど……でも私と違って幸せになりたいって人も、あなたは救うことはきっとできません」
『……どうして?』
「そもそも方法論として間違ってるんですよ、それ」

 人の願いを無制限に叶える。相反する誰かと誰かの願いすら、両立した上で両方叶える。
 それは確かに人の思い描く夢の形で、あるいは至上の幸福なのかもしれないけど。

「夢に沈んだ人が現実で衰弱する、なんてのを差っ引いても、やっぱりそれは間違ってるんです。
 ねえ、名前も知らないあなた。願いの全てを叶えた人間がどうなるか、あなたは知っていますか?」

 アイがまだずっと子供だった頃、ふと考えてみたことがある。あらゆる願いが叶うなら自分はどうなるか。

 願いが叶う。夢が叶う。即物的な物欲も遠大な理想も成し遂げられ、平穏な世界の中できっと自分は百歳まで生きていく。
 そして段々と箍が外れていくのだ。自分が死んでみんなが死んで、そしてこっそりと願ってしまう。どうか彼らを生き返らせてください、と。
 そこから先は転げ落ちるばかりだ。一つの願いはやがて二つ三つと膨らんで、最後には無限の願いとなって叶えられ。
 いつまでも、いつまでも、いつまでも、いつまでも。
 そうしていつか全ての願いを叶えてしまい、あとはもうすることもなくなって、石ころみたいになってしまう。
 それは、覚めない眠りに沈み続けるのと一体何が違うだろうか。

 夢に生きようと現実に生きようと、願いの全てが叶えられるとはそういうことで。
 つまるところ、この少年には。

「残念ですが、あなたは誰も救えません」

 一つの真理を、アイは口にした。
 だから、当然。

『……分からない』

 子供は、泣いた。

『分からない、そんなの』

 声は、口調は、表情は変わらない。けれどそれは、湛えられる感情は、嘆きだった。

「分かってください」

 アイは言う。容赦することなく、それが真実だと突きつける。

「今のあなたでは誰も救えません。そのことをどうか、分かってください」
『嫌だ、嫌だよ。僕は世界を救うんだ、それが、こんな……』

 少年の瞳に、みるみる涙が溜まっていった。瞼を越えて流れだし、純粋な雫は悲しみだけを含んで濁りなく、顎を伝って地面に落ちた。

『あ、ああ、あああああああ……』
「……ごめんなさい」

 アイは少年を抱きしめた。世界を救おうとする貴重な同志を、アイは自らの手で引き裂いてしまった。けどどうしても、彼にはここで止まってもらわなくてはいけなかった。

『なら、僕は、何をすれば……』
「変えてください」
『変える?』
「ええ。あなたの夢は、それ自体は尊いものです。諦める必要なんてありません。ただ方法が間違っていただけなんです。
 だからもっと別のやり方を考えましょう。大丈夫、あなたならきっとできます」

 世界を救おうなどという不可能を志した少年なら。
 きっと乗り越えられると、アイは純粋すぎる思いでそう答えた。

『……そんなこと、できるの?』
「できます」
『なんで、そんなこと言えるの?』
「言えますよ。だってあなたは私と同じなんですから」

 同じく世界を救おうと志した者同士。
 私にできることは彼にもできるし、その逆も然りだ。
 できなければ、嘘だ。
 世界を救おうとする彼にできないならば、それは自分にもできないということであり。
 そんなことはあり得なかった。

 そう、あり得ない。
 アイにできないことは、彼にもできない。
 だから。



『分かったよ。僕は、きっと夢を叶えてみせる』



 その言葉を聞いた瞬間、アイは目覚めた。





『どうして?』

 気が付くと、地面に倒れていた。

「……え?」

 目の前には少年が一人で立っていた。

『どうして拒むの? 人はみんな幸せになれるのに。どうして君はそれを拒んでしまうの?』

 少年は変わらない。その笑みも、声も、何もかもが変わることのない不動を保っていた。
 さっきまでは、そこに何かしらの感情を見ることができた。変わらない表情でも、悲しみや苦悩があるのだと信じることができた。

 今は違った。

 彼の内にあるのは、徹頭徹尾"幸せ"だけだった。そこには悲しみも、怒りも、苦悩も、憎しみも、何もかもがなかった。疑問すら、本当は存在しないのだ。目の前にいる少年を、アイはどこか異質な異次元の物体にしか見ることができなかった。

「あなた、今……」

 がばりと跳ね起きて辺りを見た。記憶が強烈に蘇る。
 これは、まさか……

「夢の中で、夢を見せられてた……?」
『怖がってるの?』

 バッと振り返る。そこには変わらぬ少年の笑顔。
 ぞぉ、と背筋に怖気が走った。

「あなたは!」

 初めて、アイは怒りに任せて叫んだ。

「私に、何をしたんですか!」

 拭うことのできない恐怖が、心にこびり付いて。

『怖がらないで』

 それでも、少年は何も変わることがなかった。

『何も恐れなくていいんだ。悲しみも苦しみもあり得ないんだから、死さえ人には一つの通過点でしかない。君は救われていいんだから』

 話が通じない。こちらの話を聞く気がない。
 どこまでも一方通行で、相互理解など絶対的に不可能な、外宇宙からの飛翔体。
 彼は何度も───何度も何度も何度も何度も、一回や二回ではすまないくらい膨大な数を、失敗し続けていたのだ。
 何重映しもの無数の夢の中で。

『救われてほしい。君は、幸せになって』

 アイを救うために。
 世界を救うために。
 冷や汗が止まらなかった。

『幸せになって』

 声が聞こえる。

『幸せになって』

 それは愛くるしい、慈愛に満ちた優しい声。

『幸せになって』

 でも、何故だろう。

『幸せになって』

 それはアイには最早、宇宙の底から轟く得体のしれない金切音にしか聞こえない。

『幸せになって』

 だって、それは人間のことなんて全く理解してない。

『幸せになって』

 人間も彼を理解することができない。

『幸せになって』

 だからアイは。

『幸せになって』

 その人型が、その幸福が。

『幸せになって』

 どうしようもなく、恐ろしかった。


『幸せになって』


 声が止まる。
 へたり込んだアイの顔の目の前に、少年の顔が突きだされていた。
 動くものは何もなかった。
 静寂が辺りを包み込んだ。
 少年の笑顔は、能面のように固く、冷たかった。

「わた、しは……」

 アイは、身を震わせた。

「私は、あなたを拒絶します」
『駄目だよ』

 少年は、アイと突き合わせた顔をにっこりと歪めて。

『君は僕に救われるんだ』












「いらねえからさっさと死ねよ」












 斬、と。
 目の前の顔が真っ二つになった。縦に切り裂かれた体は溶けるようにして、声も姿も何もかも、後には何も残らなかった。
 ぱたり、と。
 へたりこんでいたアイは、脱力するように背中から地面に倒れ込んだ。

 見下ろす視線が、アイの目とかち合った。

「……セイバー、さん?」
「ああ」
「ほんとのほんとにセイバーさんですか?」
「だから、そう言ってるだろ」

 瞬間、アイは全身の緊張を解除して「はぁああ~~~~~~~~~~」と深く息を吐いた。両の手と足を投げ出して、大の字を描いて寝転がる。引いていた血の気が戻ってきて、じわじわと体が温まるようだった。

「良かったぁ……今度こそ本物だぁ……」
「まあ、何があったかは大体想像つくけどさ」
「あ、ちょっと待ってください。なんだか泣きたくなってきました」
「なんで」
「あとちょっと怒りも」
「なんで!?」

 言葉とは裏腹に、溢れてきたのは笑い声だった。緊張がほぐれた反動か全身が怠く、今暫くは体を動かそうという気分にはなれなかった。

「セイバーさん」
「うん?」
「セイバーさんに聞いてたサーヴァントと出会いました」
「ああ」

 アイの隣に座りこんでセイバーが頷く。アイの遭遇した少年は、なんとこれが初遭遇ではないらしい。本戦が始まってすぐ、朝の雑木林で既に出会っていたのだ。
 ちなみにその時は為す術なく眠り込んだとか。我ながらなんとも情けない。

「それでですね。夢を見たんですけど、何とか自力で起きることができたんです」
「マジでか」
「すごいですか?」
「すごいし、偉いよ」
「えへへー」

 アイは笑った。それは心からの笑みだった。しかしそこに、多少の無理があるようにも、蓮には見えた。

「夢を見たんです」
「ああ」
「今朝は凄く良い夢でした。さっきのは都合の良い夢で、最後に見せられたのは鏡写しの夢でした」
「うん」
「本物みたいでした」
「だろうな」
「本当じゃなくて、良かったんですけど」

 アイの丸い瞳が、ふと伏せられた。
 幼い少女には似つかわない、憂いの色がそこにはあった。

「私はあの人の見せる夢を否定しました。世界を救うっていう夢を、みんなを助けるっていう夢を。私は否定しました」
「当たり前だろ。アレの見せる夢は人を殺すしか能がない」
「そうじゃ、ないんです」

 アイは瞼を閉じる。目に映る世界から自分を閉ざす。そうでもしないと、涙がこぼれてきそうだったから。

「私の夢は"みんな"を救うことです。だから私は、ずっと"みんな"を助けようと考えていました。一人一人に寄り添って、一人一人のささやかな夢を叶えて、そうしていけばいつか世界は救われるんだと、そう考えていたんです」
「……」
「でもですね、私はその夢を、よりによって私が、否定しちゃったんですよ。
 人を死なせてしまうとか、そういう上辺の部分じゃない。もっと根本的なところを、間違ってると言っちゃったんです」

 人の願いに際限はない。
 叶った傍から次から次へと新しい願いが生えて、やがて無限の願いとなって持ち主すら食い破る。
 そして仮に、その願いの全てを叶える手段があったとしたら。
 全ての願いを叶えた人間は生きることさえ放棄して、救われることなく永遠の眠りへと落ちてしまう。

「"みんな"を救おうと穢れなく志して、仮にそれを実現できるだけの力が本当にあったとして、それでもあんな風に誰も救えないなんて。
 ねえセイバーさん。そんなの、あんまりじゃないですか」

 アイは本当に、心の底から悲しそうに。遣り切れず行き場のない疑問と感情を、セイバーに吐き出した。

「なんで人は、こんなにも救われないんでしょうか」
「そんなの当たり前だろ」

 至極何でもない風に、蓮は返した。

「俺達は現実に生きている。良いこともあれば悪いこともあるし、満たされない夢を抱えて飢えもするさ。けど、それが人間だろう?」

 人は誰だってそうだ。理想はいつも遠くにあって、手を伸ばしても現実に掴むことなんかできない。美しい刹那を永遠に、遍く世界を救うなどと馬鹿げた願望を捨てきれないし、叶えられないから渇きを癒すこともできない。
 不安で、不満で、いつも揺れて。
 けど、そんな姿こそが他ならぬ人間であるから。

「人間なんてみんな我儘なんだよ。幸せばっかじゃ飽きが来て、不幸なだけじゃ飢えるばかり。けどいくら願ったって幻想(かみさま)になんかなれないから……なっちゃいけないから、こうして生きていくしかない。
 それを救われないと、お前は言うのか」

 人は誰しも幸せになりたいと願う。けれど、幸せになりたいからと言って悲しみや不幸に消えてほしいと願うことは全くの別物なのだ。
 感情に貴賤はない。悲しみや怒りや憎しみだって立派な感情で、それを喜びや嬉しさと比べて下劣と切って捨てることは誰にもできない。
 楽しさも、嬉しさも、悲しさも、つらさも。幸福も不幸も。
 どちらも人間には必要なもので、一方だけを選択しては歪みが生じるのみ。
 だから結局のところ、人間は陰や弱さを背負って生きていくしかない。希望と光と幸せだけをくれる神さまがいれば他に何もいらないなどと、そうはいかないのが人間の難儀なところなのだ。

「……人間は、欲張りな生き物です」

 やがて、嘆息するように呟いた。

「綺麗なだけでも汚いだけでも満足できない、幸せなだけじゃ幸せになれないなんて。欲張りであやふやで、よく分からない生き物です」
「だな。そろそろ愛想も尽きたか?」
「まさか」

 アイは力強く身を起こすと、すっくと立ち上がり身だしなみを整えた。バサバサと埃を払い、前を見据えて宣言する。

「行きましょうセイバーさん。この事態の中心に向かえば、きっとそこにランサーさんの姿もあるはずです」
「ここに来てるなら、の話だけどな。けど、どっちみち脱出するにはそうするしかないか」
「そういうことです……って、セイバーさん何してるんです?」

 ふと見遣れば、屈んで何かを摘み上げてる蓮の姿。
 顔の高さに上げたそれを険しい目で弄ってる蓮を、逆に興味深そうな顔をしてアイが見上げる。

「何って、まあこれなんだけどさ」
「わ、きれいな砂ですね」
「砂っていうか、種かな」
「種?」
「例えだよ。実際どこまで正確か分かったもんじゃないけど」

 蓮の指先からサラサラと零れ落ちる砂状の何か。僅かな光に煌めいて宝石のように輝くそれを手のひらで受け、アイは不思議そうに問い返す。

「あのキャスターの残滓だ。これはもう死んでるけど、お前が遭遇した"奴"は確かにこれで構成されてた。いわばアレらは本体ではない分身であって、端末に近い存在なんだろう」
「分身……じゃあセイバーさんは、あんなのが無数にいるって言うんですか?」
「流石にそこは魔力の関係上無尽蔵にとはいかないだろうと思うけど、どこまでアテになるやら」

 ぎり、と音がするほどに強く拳が握りしめられ、掌で僅かに形を保っていた欠片がとうとう完全に砕け散る。
 アイはそんな蓮を、不安そうな、あるいは怯えるような目で見上げて。

「奴の落としていく種子は人の欲を吸って開花する。欲望に惹かれるのは、本体も端末も同じってことだ。
 ああクソッ、これだけパーツが揃えば嫌でも分かりやがる。なんてモンを喚び出してやがるんだ、これを召喚した魔術師は!」
「……セイバーさん?」
「最初は訳分からなかったけど、ようやく見えてきた。真っ当なサーヴァントじゃあり得ないとは思っていたが、いくらなんでも外れすぎだ。
 かつて南米の古代文明を数日で壊滅させ、当代の魔狩人が総力を挙げて狩りだしても尚幾度もの奔走を成し遂げた異次元からの来訪者。遂に正体が明るみに出なかったがために英霊の座にすらその真名が登録されてない、正真正銘外宇宙から飛来した怪物!
 英霊なんてもんじゃない、神霊ですらあり得ない。本当になんてものを喚び出しやがる。仮にアレが聖杯を獲ったら、文字通り"人類が滅亡する"ぞ!」

 人類の滅亡。
 世界の滅亡。
 そのワードを耳にして、血の気が戻りつつあったはずのアイの顔は、今度こそ蒼白なものと化した。





   ▼  ▼  ▼





 約束の場所。
 それは、いつか至るはずだった黄金の草原か。
 血みどろの戦いを繰り広げた屍の丘か。
 あるいは聖剣の返上を決めた微睡みの森か。

 いいや。いずれも。違う。

 王ではなく、一人の騎士として在ろうと決めた時、
 約束の場所は定められた。
 すなわち。

 ───愛によって遺された庭。
 優しい月明かりが降り注ぐ、ガーデン。

 ………。

 ……。

 …。

 ────────────────────────。





「ランサーは何処へ行った?」

 微睡みから目を覚まし、辺りを見回したアーサーの最初の言葉は、そんなものだった。

「駆けていきました。わたくしの制止も利かず、言葉を交わす暇さえありませんでした」
「……私が意識を失っていた時間は?」
「30秒ほどでしょうか。むしろその程度で目を開けられるとは、わたくしとしましては驚嘆するばかりです」
「世辞はいい。有事の際に居合わせられなかったことは事実だ」

 言うが早いかアーサーは意識を魔力反応に集中させ、周囲一帯の気配を探った。しかし返ってくるのは、何も感じられない無音の静寂のみ。

「……気配感知がほとんど働いていない。加えてこの視界の悪さ、一旦見失ってしまえば追跡はほぼ不可能と考えたほうがいいか」
「まさしく電光石火の早業というべき行動でした。しかしあれはセイバー殿のように夢から醒めたというよりは、夢遊病者のような様子でしたね。何にせよ厄介なことになっていなければいいのですが」
「同感だ。人を眠りに誘う結界か」

 アーサーはそう言うと、手元に抱き寄せた少女を見下ろす。
 少女は───キーアは、アーサーの腕に抱かれて安らかな寝息を立てていた。幸せな夢でも見ているのか、その寝顔は穏やかそのもので。しかしそれに微笑ましさを感じさせる要素は、残念ながら皆無であった。

「ここまで大規模な陣地作成を行えるとすれば、相手はキャスターの他にいまい。そうと仮定すれば、まず間違いなく己の力を十全に発揮できる陣地内に潜伏しているはず。
 問題は、探し当てるには現状虱潰しにやるしかないということだが」
「そうですね。この霧は人を夢に沈める他に、多量の魔力を含んでいるためか気配感知を阻害してしまうようです。
 わたくしの"力"も、その大半が働かなくなっていますし……」

 そこで百合香は、アーサーの怪訝な視線に気付いたのか、「ああ」と説明する。

「わたくしの反魂香は既にご存じでしょうが、アレはこの結界内に充満する力とほぼ同質のものです。そのためか、常に滲み出す香は強制昏倒から身を守る役割を果たしているようなのです。
 尤も、効果の抑制だけで大半の力を使用してしまっているのが現状。これでは邯鄲法の行使も碌に行えないでしょうね」

 覚めない眠りに落ちるよりはずっとマシですが、と百合香。彼女の言う通り、確かに今の百合香からはむせ返るような花の香りは全く漂ってこなかった。自発的にON/OFFができない能力である以上、確かに彼女の力は現状そのほとんどが封殺されてしまっているらしい。

「君がいち早く意識を取り戻したのは、つまりそういうことか」
「ええ。そうでもなければ、わたくしでは霧のもたらす幻惑に耐えられなかったでしょうね。こうして見てとれる性質上、これは高潔な人間以外には酷く相性が悪い」

 呟く百合香の右目は青く輝き、瞼を閉じて伏せると同時に僅かな魔力が霧散し中空に残滓を散らせた。
 解法の透。解析・看破に特化した邯鄲法の一つであり、高ランクのものとなれば街一つに存在する人間の全行動を計算処理可能な代物だ。
 百合香の適性は咒法、解法、創法に異常特化されている。例え力の大半を封じられても、目の前の存在を解析する程度のことは可能なようだ。

「しかし……本当に困ったことになりました。キーアさんは眠りに落ち、ランサーさんは出奔。わたくしの力は抑えられ、事実上まともに動けるのはセイバー殿のみ。
 無論、これをわたくしが動かぬ言い訳にするつもりはございませんが……しかし、それでも困った事態に変わりはありません」

 事実である。単純に戦力は半減し、後に残されたのはセイバーを除けば完全な足手纏いが二人。仮にこの状態で好戦的なサーヴァントに出会ってしまえば、それだけで壊滅の危険性がある。
 この状態で探索を続けるのは自殺行為ですらある。単独での戦闘に特化したセイバーではマスターの守護には不向きであるからだ。

「そこで提案なのですが、一旦ここで二手に別れるというのはどうでしょう?」

 だから、百合香の言い出したその提案は合理的でもあり、ある種渡りに舟でもあった。

「それは私も一考はしてみた。しかし、君はそれで大丈夫なのか?」
「確かに戦う力は残されていませんが、自分の身一つを隠す術くらいは残っています。不幸中の幸いと言うべきか、この中ではサーヴァントの魔力感知能力も低減されているようですし、接敵を回避する程度のことは可能でしょう」

 流石にキーアさんまでカバーすることはできませんが、と付け加える。

「どのみちこのままでは共倒れです。虱潰しに探すしか方策がない以上、一箇所に固まっても益が少ないのも事実。ならば多少の危険は押していかねばなりません。
 それに……」
「それに?」
「いえ、ただの思い過ごしでしょう。特に言う必要は……」
「曖昧な言い方は感心しないな」

 ぴしゃりと言いきられる。苦笑したように百合香は答えて。

「そうですね。この期に及んで隠し立てするようなこともないですか。
 とはいえただの勘でしかないのですが、事の元凶は一つではないように思えてならないのですよ」
「一つではない?」
「セイバー殿は耳にしたことがありませんか? この街で囁かれる都市伝説の一つ、夢を叶えてくれる妖精のお話です」

 百合香の語る都市伝説を、アーサーもまた聞いたことがあった。あれは確か、孤児院に住まう少年たちの会話だっただろうか。
 学校帰りの子供たちが何気ない話をしている中で、奇妙なものがいくつかあった。それらは実しやかに囁かれる都市伝説の類であったが、その中に幸福の精というものが混じっていたことを思い出す。

 曰く、それはこの世のものとは思えないほど綺麗な姿で現れる。
 曰く、それは出会った者に望むものを与えてくれる。
 曰く、それは望む夢が身の丈に合わぬものであったなら怒りだして永遠に眠らせてしまう。

 内容はそんなものだったか。都市伝説としてはありふれたもので、その時はアーサーもさして気にしてはいなかったのだが。

「噂には尾ひれか齟齬が付随しているのでしょうが、恐らく幸福の妖精は実在します」

 きっぱりと、百合香は断言した。

「この聖杯戦争が始まってから、少なくともわたくしが調査を開始して以降、鎌倉市では原因不明の昏睡状態に陥る人間の数が飛躍的に増加しているのですよ。
 それも同時多発的に、離れた場所に在る者らが同じ時刻に、というケースも多くありました」
「そしてこの状況……確かに符合する点は多いな。元凶が一つではないという直感は被害規模の不可解さから来るものか」
「ええ。下手人が複数でなければ成立しないケースが多すぎるのです。となれば、相手は文字通り自らを分かてるか、あるいは……」

 そこで百合香は、何か思案するように目を伏せ、数瞬の後に言った。

「わたくしの力は幸福の妖精に対してカウンターに成り得る可能性があります。現状碌に働いていませんが、死力を尽くせば短時間の抑え込みは可能となるでしょう。
 あくまで推論、それも不確定極まりないものでしたから、面と向かって言うのは憚られたのですが……」
「いや、構わない。推論でも耳にしておけば、万が一の場合にも早急に対応できる」

 例えば幸福の妖精の話。これなどはその筆頭と言えるだろう。
 彼の都市伝説は、つまるところ精神面での絡め手を使ってくる手合いだ。ならば正体や絡繰りについての情報を揃え事前の心構えをしておくだけでも大分話は違ってくる。
 キーアは眠りに落ちてしまったが、それは幸福の妖精についての論拠が提示されたのが八幡宮内に侵入して以降であったからだ。これがもしも事前情報ありきだったなら、話は違っていた可能性だってある。

「状況は一刻を争う。君を矢面に立たせるのは心苦しいが、それしか手段がないならば致し方ない。頼めるか?」
「言われるまでもなく。わたくしは辰宮としての責務を果たしましょう」

 そう言って百合香はアーサーの手を取り、微かに魔力を流した。両者の手に魔力的な流れが通じたことを、アーサーは感じ取った。

「わたくしとセイバー殿の間に経路を繋げておきました。これならばこの霧の中でも念話が可能となるでしょう。
 それでは、また後ほど」
「ああ。武運を祈る」

 その言葉を最後に、百合香の姿は霧の中に溶けるようにして薄まり、消えていった。解法の透による認識阻害が働いたのだろう、弱体化しても尚見事な隠行であると言わざるを得なかった。

「さて」

 呟きを一言、アーサーは改めて自らのすべきことを反芻する。
 一刻も早くこの事態の元凶を討ち果たす。
 壇狩摩の遺言や聖杯戦争の打破、それもある。しかしそれ以上に、キーアを無事に起こすにはそれしか方法がない。

 アーサーの左腕に抱かれ眠る少女。彼女をこのままにしておくわけにはいかなかった。
 事を静観する余裕はなく、しかし冷静さは失わず、アーサーは結界の奥底に潜むであろう何者かを目指し駆け出そうとした。

 その時だった。

「あれは……」

 アーサーの視線の先、霧に煙る白亜の向こうに、まだ子供と言える小さな影が浮いていた。





   ▼  ▼  ▼





「大仰なこと言っちまったが、かと言って死に物狂いで急ぐ必要があるかというと、別にそんなわけじゃない」

 会敵と合流から暫し。アイと蓮の二人は足元の地面に目を凝らしながら、ゆっくりとした歩幅で並び歩いていた。
 とてとてと歩くアイが、おもむろに何かを拾い上げる。キラキラと光る砂のようなそれは、発芽することなく死滅した『幸福』の種子だった。
 風に吹かれて崩れ去っていく種子を見つめ、なんとも言えない表情で見送るアイ。それを余所に「こっちだな」と蓮は行く先に当たりをつけている。それは、ここに来るまでに何度も繰り返されてきた行いだった。
 まるでヘンゼルとグレーテルの童話のように、地面に点々と落ちている『幸福』の種子を辿る。それが、二人の取った追跡方法だった。

「陣地を展開した以上、術者は自由に動くことができない。結界内に閉じ込められたのは俺達だけじゃなく奴だって同じことだ。
 しかもこの霧は一度目覚めてしまえばあとは精神的に耐性が付く。時間経過での魔力切れはむしろ望むところだし、奴は猶予時間で何かしら対策なり備えなりをしてくる手合いじゃない。
 外から勘付かれて対軍規模の宝具で諸共木っ端微塵なんて可能性もあるからのんびりはできないけど、必要以上に焦ることはない」
「つまり、気持ちに余裕を持てということですね」
「そういうこと」

 言って、アイは更にもう一つ、種子が落ちているのを目敏く見つけた。視界の悪さを考慮すれば相当な視力と直感と言うべき……なのだろうか。事この分野に関しては、アイはなんとサーヴァントである蓮の一枚上手を行っていた。

「ところでセイバーさん」
「うん?」
「その、『幸福』……でしたっけ。その人はどういう英霊なんですか?」
「とりあえず人じゃないことは確かだな。というか英霊なのかどうかも分からん。知識としては、さっき俺が言ったことが全部だよ。それ以上はほとんど記録に残っていない」

 曰く、この次元ではない何処かから飛来した怪物。
 曰く、南米の古代文明、彼の有名な空中都市を滅亡させた元凶。
 曰く、英霊の座にすらその真名は登録されていない正体不明の高エネルギー生命体。

 ……なるほど、よく分からない。

「一応『幸福』を封印した術師がいて、そいつ曰く地球に来るより以前に二つの文明と種族を滅亡させたとかなんとか。
 まあ化け物だよ。それ以上でもそれ以下でもない」
「化け物、ですか」

 不思議な響きだった。幸福なんて俗称が付けられているのに、何故それが人類を滅ぼす怪物であるのか。
 昨日までのアイならきっと不可解に思っただろう。けれど、実際彼と対峙した今のアイなら、分かる。

「そうですね。あれは……あの在り方は、人には眩しすぎます」

 眩しくて、強すぎて、純粋すぎる。
 悪意も敵意も何もなく、ただ幸せを与えたいとだけ願う妖精。その在り方も何もかもが善性のそれなのに、どうしようもなく人とは相いれない。
 それは、なんて。

「なんていうか、悲しい人ですね。人ではないけれど」
「悲しい、ね。随分とお優しいことで」
「自分が嫌いだからってふて腐らないでくださいよセイバーさん」

 閑話休題。

 そんなことを話しているうちに、二人の目の前に小さな建物が現れていた。八幡宮の本宮ではない、恐らく職員用の宿舎か何かだろう。木造とトタンでできた小さな建物。
 『幸福』の種子は、その玄関の前で途切れていた。

「……ここ、なんですかね」
「さあな。特に魔力とかは感じないけど、何が出るか分からないから警戒はしとけよ」
「分かってますよ」

 はぁー、と深呼吸を一つ。アイはドアの前に立ちトントンと控えめなノックをした。

 「はーい」という軽い返事が、なんか普通に返ってきた。

「……」
「……返事、ありましたね」
「ああ」
「なんていうか、普通の人みたいでしたね」
「そうだな」
「『幸福』っていう可能性は」
「お前、この声は男と女どっちに聞こえた?」
「女の人みたいでした」
「じゃあ大丈夫だ。アレは女には男の姿に見えるし、声もそうなるからな」
「ははぁ、なるほど」

 なんて緩い会話に興じている場合ではない。
 これはおかしい。明らかにおかしい。こんなところに普通の人間がいるわけがないし、だったらあの返事は一体何であるというのか。
 推察するには情報が足りなさすぎるし、そもそもこれだけ目の前に来ているのだから手遅れだ。つまるところ、あとは虎穴に入るしかないわけで。

「アイ」
「はい」
「警戒、怠るなよ」

 珍しく緊張したような面持ちで「はい」と答えるアイ。それから十数秒ほど沈黙が続く。これほど重く長く感じる沈黙は初めてかもしれなかった。
 そして。



「こんばんは。まあ、珍しい。こんなところにお客さんなんて」



 戸を開いて出てきたその"人"は、にこやかにそんなことを言って。



「まだ、生きてる人がいたのね」



 どこからどう見ても普通にしか見えないという極大の異常を、その嫋やかな笑みに張り付けているのだった。



NEXT:葬列は再び来る

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