───セピア色に彩られた回廊。
 ───ひと筋の光だけがスポットライトのように差す、暖かくも冷たい空間。

 音が響く。
 音が響く。
 機関の揺り籠から泣き叫ばれるは、生まれることなく消えていった可能性たちの慟哭か。
 世界の果てに隠された静穏なる幕間の世界だ。
 物言わず、動くこともなく。
 この世界が《美しきもの》たちの産声上げる場所であると、分かる人間はそう多くない。

 ───月の中枢に眠る蕃神が何であるのかを知る者と。
 ───恐らくその数は概ね同じであるはずだ。

 例えば───
 滅亡さえ厭わぬ既に諦めた少女であるとか、
 世界塔の最奥で蠢く虚空の赫眼であるとか。
 今もなお諦めることなく黄金螺旋階段を昇り続ける、《魔弾》の魔名を得た者であるとか。

 世界の果ての奥深く。
 既に幻想と放逐された残骸であり、大階差機関の一部でもある《異形都市》の一角。
 色彩を失った道。砕かれた石畳と、そこに芽生えた新緑だけが光に照らされて。

 ───墓標を思う者もいる。
 ───希望を思う者もいる。

 決してそこに足を踏み入れることはできない。
 人であるならば。

 何者が潜むのかすら認識することはできない。
 人であるならば。

 そこには現実の存在など何ひとつとしてない。
 ただ誰かの想いと願いがあるだけだ。

 故に───
 今ここに足を踏み入れた【書生風の軍服を着た青年】もまた。
 尋常なる者ではない。彼は悠然と歩を進め、ここではないどこか奥底を目指す。

 そして彼方の光から投射されるように、空間へと浮かび上がる影法師。
 実体にあらぬ心の在りよう。誰かの想いによって形作られた影の彫像たち。

 ───時に、それは観測者たちによって。
 ───《心の声》と呼ばれることもある。

 【黒衣の男】【星を宿す少女】【喪失者】【かつて黒猫であった者】【騎士】【普遍なる少女】【奪われた者】【鋼鉄の腕】【道化の仮面】

 それだけの数が並び立ち。
 そして青年は、うちの一つに手を伸ばして───





   ▼  ▼  ▼





 【鋼鉄の腕】



「───《奪われた者》とは」

「人のかたちを持ちながら、人ではない者たち」

「人ではなく、人であったかもしれない者たち」

「この都市の夢を保つ根源によって、彼らの"かたち"は保たれる」

「都市には四人の《奪われた者》が在る。いや、在ったというべきか」

「ひとりは少女。針と糸と服に支配され、母への愛を叫びながらも願いに狂った女」

「ひとりは勇者。今やその資格すら失って、友への悔恨と己が絶望に酔いしれて目を背け続ける」

「ひとりは吸血鬼。《運命》の傀儡となるも、今もなお諦めぬ唯一の者」

「そして、もうひとりは……」










「いっくぞー!」

 どこまでも明るい掛け声と共に、片翼だけで優に五メートルはあろうかという翼をいっぱいに広げ、幻馬に跨る少女は踊るように空へと身を翻した。
 猛禽めいた頭部を持つ翼持つ馬───ヒポグリフは、翼の一羽ばたきで大気を捕まえ、黒い風となって星屑の一団へと突っ込んでいく。その手に構えるは黄金の槍、先を争うようにして群がる星屑たちに穂先が触れた瞬間大気が爆ぜ、拡散する衝撃が強風となってすばるの顔を撫でた。

「まだまだぁ!」

 返す刃で腰のサーベルを抜き放ち、投擲。それは何故かすばるの方向へと迫り、思わず目を瞑った次の瞬間には背後から迫る星屑の一体が旋回する刃によって両断されていた。

「ほら、こっちに来て!」
「あ、わ、はい!」

 有無を言わさぬ強い語気に反射的に従って、すばるはヒポグリフを追いかけるように加速。空を切り裂く二筋の光が、打ち崩された星屑の包囲網を潜り抜けて夜空に流線を描く。

「あ、あの! どこまで行くんですか!?」
「ずっとずっと向こうさ! あいつらが追いつけないくらい遠くへ!」

 ごう、と耳元で叫ぶ風すら置き去りにし、上へ上へと加速した両者は遂に雲すら突っ切って上空へと出る。
 前方には月が浮かぶ漆黒の天蓋。
 後方には真っ白な雲海。
 既に異形たちの掻き鳴らす牙の音は聞こえない。

「もう、大丈夫……?」
「だね。今が好機、とっとと逃げよう───って、言いたいとこではあるんだけどね」

 奇妙な浮遊感と共に放物線を描き、緩やかに減速するすばるとアストルフォ。空を翔ける主役は二人だったが、けれどこの場にいるのは彼らだけではなく。

「率直に聞きます。あなたは"アレ"に、心当たりはある?」

 ヒポグリフに乗る三人のうち、最後尾に座る女性、アティ・クストスはやや強張った顔を隠そうともしないまま、すばるへと問いかけた。
 けどそんなこと聞かれても分かるはずがない。ふるふると首を横に振るすばるに、ライダーは「だよねぇ」と呟く。

「仕方ないか。発生源さえ分かればボクだけでも何とか……って思ったんだけど。けどキミたちだけでも助けられて良かったよ。それでキミはこれから───」
「って、その前に!」

 突如声を荒げる少女。ライダーとアティの間に挟まった、すばるより少し年上くらいの少女───ヤヤは、すばるたちを指差して。

「アンタ……えっと、名前は」
「すばるです」
「そう、すばる! って、別に怖がらせたいわけじゃなくてね。
 えっと、そのモザイクとかは脇に置いといて……そう、アンタのサーヴァント!」

 びくっ、と身を震わせるすばるに若干慌てつつ、ヤヤはしどろもどろに。

「そいつ、戦えないの? モザイクかかってるからか分かんないけど、色々とノイズだらけで読めないっていうか」
「あの、それは……」

 問われ、その時になって初めて、すばるは自分たちの状況や従えるサーヴァントが客観的には奇異であるのだということを思い出した。
 ドライブシャフトにはある種の暗示迷彩が付属している。それは街中を飛び交いエンジンの欠片を収集するすばるたちが市井の人間に姿を見られないようにするため、プレアデス星人が作り上げた超科学によるステルスだ。素養のない一般人にはそもそも一切姿を認識されず、素養のある者にはモザイクがかかったように不鮮明な姿で見える。
 眼前の少女たちに曰くすばるは後者、つまり声や姿は認識できるが極めて不鮮明な状態に見えるらしい。すばるには詳しい原理は分からないが、サーヴァントやマスターたちには完全なステルス機能は発揮されないようである。
 そしてこれが最も重要、かつ奇異なものなのだが……

「この人……ロストマンさんは多分、戦えません」

 すばるがその背を抱きかかえるようにしている少女、ロストマンの存在だ。
 彼女は厳密にはすばるのサーヴァントではない。アイとセイバーの両名に助けを求めた、自分のマスターを救うために行動していたランサーの成れの果てだ。鶴岡八幡宮における『幸福』のサーヴァントを巡る騒乱の中で、何の巡り合わせか元のマスターを失った彼女を、同じくサーヴァントを失ったすばるが再契約し今に至る。
 そう、彼女は元々ランサーだったのだ。それが今はロストマンという聞き覚えのない特殊クラスに変じてしまっている。しかもその霊基は不安定で、マスター特権であるステータス視認も碌に通じず、ノイズがかかったように乱れた文字列しか読み取ることができないのだ。

 つまるところ、この場に存在する五人のうち、戦えるのはライダー一人きりということになる。
 彼女一人に押し付けるには少々荷が重い状況だ。事態の解決を目指し行動するには不足が過ぎる。

「じゃあ大人しくアーチャーを待ったほうがいい。ボクだけでもキミたちを守ることはできるけど、それだけだしね」
「……あれ、なんかアンタにしてはお利口じゃない?」
「そりゃボクだけならともかく、キミたち全員の安全がかかってるなら少しは考えるよ。その上での結論」

 肩をすくめて一言。雑談めいたノリを崩さないが、ライダーの意識は変わらず周囲の警戒に徹している。
 未だ星屑の侵攻は収まっていないが、しかしライダーたち五人の周囲に彼らの影はない。一時的なものとはいえ、彼女らには安息の時が与えられた。

 一息つく、つまりは気を緩めるということ。
 だから、その異変に気付けたのは一人だけだった。


「───伏せろ、みんな!」


 泡を食ったライダーの叫びと共に、全員を衝撃が貫いた。





   ▼  ▼  ▼





 【かつて黒猫であった者】



「あたしは、結局のところ逃げていただけなのだと思う」

「頭を押さえて、頭を振って、疼く痛みに耐えて」

「あたしは逃げる。不安から、痛みから」

「頭蓋の中に木霊する、陰鬱なドラムとフルートの旋律からも」

「……もしかすると、あたしは恐れているのかもしれない」

「この胸を苛む記憶。失ったはずの過去から追いかけてくる何かを」

「恐れて、だから逃げ出していた」

「目を背けていた」

「だから、これはきっとその報い」

「ああ───」

「目の前の一面が、赫色に染まって……」










 しまった、と思った時には、とっくに手遅れだった。
 身体がバランスを失い、頭と足がひっくり返って、闇の中を真っ逆さまに落ちていく。

「くっ、そ……!」

 苦悶の声は唸る風の音に掻き消される。大気の壁が背中を打ち据え、ほんの数秒前まで自分のいたヒポグリフの体躯は黄金の粒子となって、とっくの昔に視界の彼方。両腕を前に伸ばした中途半端な姿勢のまま、重力に引かれて容赦なく速度を増していく。
 無理やり視界を確保して周囲を確認、共に落下する二人のマスターの位置を確かめる。だがすばるたちの姿が見えない。無事なのか、それとも自分たちより先に墜とされたのか。分からないがしかし、それより先に現状を解決しなくてはならない。
 鎌倉市上空、高度は少なく見積もってもおよそ500m。墜落して無事に済む高さではないし、群がる星屑たちに先んじられるわけにもいかない。マスターたちの確保が最優先だった。

「この───!」

 右手に魔力を収束し、瞬時に馬上槍を形成。下方から捕食せんと迫る星屑へ向けて一挙動に突き立てる。
 肩が砕けそうなほどの、衝撃。
 黄金の装飾が施された穂先は星屑の表皮に深々と食い込み、秒速20メートルを超えようかとしていた落下速度が全て槍を持つ右腕に集中する。運動エネルギーが右手を破壊するより先に槍を引き抜き、体勢と方向を転換して跳ね飛んだ。

「よし、来……たっ!」

 速度が軽減されたアストルフォの体目掛け、ヤヤとアティが一直線に突っ込んでくる。それを柔らかく受け止め再度の自由落下を開始。三人はもんどり打つように絡み合い、回転しながら地上へと落ちていく。既に気絶しているアティとは違い、ヤヤは未だはっきり意識を保っているようで、アストルフォの登場に目を丸くしていた。

「ら、ららら、ライダー!? これ何がどうなって……!?」
「落ち着いてマスター! 大丈夫、別に死ぬわけじゃない」
「死ぬでしょ! こんな高さから落ちたら死ぬわよ! しかもアンタの馬、あんなになってたし!」

 悲鳴を通り越して絶叫となったヤヤの声が耳元で唸る。アストルフォは苦笑するばかりだが、彼女の言うことは確かにその通りだ。
 あの一瞬、正体不明の攻撃からアストルフォたちを庇って、ヒポグリフは胸を穿たれたのだ。死んではいないが相当の深手だ。戦闘はおろか、もしかすると今聖杯戦争の期間はもうまともに飛び立つこともできないかもしれない。
 つまるところ、もうアストルフォたちに落下を食い止める手段は残されてないわけで。

「だから大丈夫! まあボクにはもうどうしようもないけど、マスターには奥の手があるじゃん!」
「サムズアップすんな無駄にいい笑顔で言うなぁ! アンタでも駄目なら私たちじゃもう……」
「だからほら、令呪がさ」

 ほらここ、とアストルフォに指差されて、ようやく理解する。
 あった。奥の手。
 マスターたるヤヤにしかできない、起死回生の手段が。

「わ、分かった! これ使えばいいのね!?」

 テンパりながらも手を掲げ、覚悟を決めたように叫ぶ。

「【令呪を以て命じる! ライダー、私たちを助けて!】」

 瞬間、三人を眩い光が包み、これまでに倍する速度で地上へと突っ込んでいった。










「いっだー!」
「あぐっ……!」

 地上に降りた光から弾きだされるように、三人はてんでバラバラの方向に吹き飛ばされた。
 ゴロゴロと転がって地面を這うヤヤ。衝撃が体を貫き、悲鳴さえ上げられないほどの痛みが全身を駆け巡った。

「ライダー……みんなは」
「……アティは無事だ。でもすばるたちは分からない。どこかに逃げてるといいけど」

 いち早く立ち上がり、ヤヤの元にしゃがみ込むアストルフォが言う。痛みを我慢して視線を横にやれば、そこには確かに倒れるアティの姿。

「早速で悪いんだけど、早く逃げたほうがいい。ほら、立てるかい?」
「逃げるって……そういえば、さっきは何が……」
「分からない。けど確かなのは、ボクたちは"攻撃された"ってことだ。周囲に何の気配もなく、あんな上空にいたボクたちを一方的に。だから多分、これは……」

 理性が蒸発しているとは思えないほどに、アストルフォの語り口は饒舌かつ的確だ。それは今日の昼間、市街地で見せた表情にも似ていた。
 つまりそれだけの大事。あの時のような命の危険がすぐそこまで迫っているということ。
 自然とヤヤの表情が強張り、震える手足で何とか立ち上がろうとする。

 その瞬間。

「───危ない!」

 "何か"を察したかのようなアストルフォに、思い切り突き飛ばされ。
 再度地面に叩きつけられたヤヤは、痛みに火花が散る視界の中でそれを見た。

「らい、だー……?」

 こちらに向かって突き出すように手を出すアストルフォが、その胸から大量の赤いものを散らしていた。
 その光景が現実のものだとはとても思えなくて。
 ヤヤはポカンとした顔のまま、走馬灯のようにゆっくり流れる情景を呆然と見つめていた。

NEXT:雲の彼方の空遠く(中編)

|