時に、人界を喰らう炎魔が姿を消した頃。
 時に、二柱の巨神が諸共に姿を消した頃。

 寄せては返す波の音だけが、白き月光照らす静寂の中に木霊していた。鋼鉄の黒き断崖に打ち付ける、大洋の一部が砕ける音を聞く。
 相模湾沖、戦艦伊吹が甲板の上。
 荘厳にして巨大なる漆黒の異形戦艦擁せし奇怪なる表微の只中にあって、二つの人影が屹立していた。

 幻想そのものである二人。
 神秘が形を成したる二人。
 神話によって生み出された伝説を糧として成立し得る壮麗なる生物、その再現だ。

 一人は男。
 夜の静寂こそが似合う男であり、今や、夜そのものに身を浸す者であった。
 優に自らの半身さえも超える漆黒の長剣を携え、黒衣を纏うその姿はまさしく夜魔そのもの。しかし見るがいい、夜に這い出たる魔性が如き姿とは裏腹に、総身より否応なく感じられる覇気の清廉なる様を。

 一人は男。
 恒星が如き意思の滾りを瞳に宿す男であり、愉悦とも諧謔ともつかぬ笑みを口許に湛える者であった。
 彼は慈愛と善性のみを心の裡に秘めて、しかしだとすれば、彼の身から放たれたる悍ましきは一体何であるというのか。およそ人は彼を目の前にして正気を保てまい。人類種の理想を体現する意志の燃焼は熱となって、他者の心を等しく燃やし尽くすからだ。

 名を、ローズレッド・ストラウス。赤薔薇王、夜闇の魔人、万能の叡智持つ貴種。
 名を、甘粕正彦。原初の盧生、審判者、光輝の魔王、神をも嘲笑う楽園の統治者。

 いずれも劣らぬ輝きを持つ両者であった。英霊という超越者の基準に照らし合わせても尚、規格外としか形容のしようがない二人だ。あまりに度外れた存在の質量によって、二人の立つ空間が捩じれ狂っていく様は、きっと幻視などではあるまい。
 古くも尊き神々の威光を冒涜し、陵辱せしめたるが如くして相模湾沖十数キロメートルに聳え立つ、鋼鉄の威容。その永い生涯において数多の神秘を目にしてきたストラウスにとっても、それは異形の光景であった。一見して正統なる教会にも見えるそれは、伴天連の意匠を基礎として有象無象の雑多な信仰が入り混じった異形の宗教設備。涜神そのものである代わり、その主である甘粕の揺るぎないまでの輝きが仄かに垣間見える。それは神々など人の作りし道具であると豪語してやまない彼の誇りと自負こそが形となったものであるのか。
 視界の中央に甘粕とその背後に聳える異形尖塔を捉え、ストラウスは小さく息を吐く。
 これだ。これこそが最後の敵だ。
 焔魔でもなく、鋼鉄でもなく、白狼でもなく。ましてや英雄王や第四たる人類悪ですらなく。
 これこそがストラウスの行き着く最後の敵手であった。いいやあるいは、これすらもが通過点に過ぎぬと彼は言うだろうが。

「ようこそ我が城へ。聖杯戦争の勝利者足り得る強者よ。お前の到来を待ちわびていた」

 口火を切ったのは甘粕の側だった。
 彼の口調に敵意はない。むしろ場違いとも言うべき友愛の情に満ち溢れていた。
 だが、友好の意を示す彼の前にあって、気を緩め安堵する者が果たしてこの世に存在し得るであろうか。
 現に今、ストラウスの精神は最大級の畏怖を感じていた。黄金の三騎士とさえも渡り合い、『幸福』の災禍すら意に介さない赤薔薇が、まさか畏怖などと!
 だがそれも致し方なきこと。何故ならば───
 ストラウスが星を砕く者であるならば、甘粕は星を背負う者。
 生きとし生ける人類種の代表者、隔絶なりし盧生の器なれば。

「海洋には焦熱の華が咲き、空には滅びの使徒が降り、地には巨いなる二柱の神が相争う涜神の都市にて。
 よくぞ生き延びた。その健闘を讃えさせてくれ。俺はお前の強さを心から尊敬している」

「よく言う。お前が積極的に事態へ介入していたならば、この都市は更なる混沌の様相を呈しただろうに。
 支配者気取りで高みより見下ろすはお前の趣味ではあるまい。それとも、これが得意の裁定とやらか?」

「手厳しいな。年長者から青さを指摘されるのはいつも耳が痛いものだ。
 だが一つ訂正させてもらおうか。確かに俺は支配者を気取るつもりはないが、同時に裁定者も趣味ではないのだ」

 嘯き笑みを深める甘粕とは対照的に、ストラウスは訝しげな気配を濃くする。

「この身に得たる盧生としての属性は『裁き』ではあるがね。しかし俺は己一人が大上段より人々を睥睨することを好みはせん。
 我も人、彼も人。故に対等、基本であろう。
 人の世とは、そこに生きる全ての個人が作り上げるもの。上から強制された意思などに一体どれほどの価値があるという」

「ならばお前は、一人の人間としてこの舞台に関わったと?」

「その通り。審判者でも魔王でも、ましてや盧生やサーヴァントでもない。世を生きる一人の男として、俺はこの聖杯戦争に臨んだ。
 力の有無を俺は問わん。善悪正邪の違いさえ俺は咎めん。必要なのは心であり、己が願いにかける精神の多寡であればこそ。
 絶望の底より示される人の愛を、俺は対等の立場で寿ぎたかった」

 つまるところ、甘粕はこの都市の誰しもに価値と機会を見出していたのだ。
 奮起せよ、勇気を示せ、受け入れがたい現実があるならいざ立ち上がり戦うのだ、と。彼は鎌倉の全てに向けて必死に叫び続けていた。
 無論、マスターやサーヴァントは最初から戦う覚悟を持って赴いた者ら故に、相応の期待は抱いていたが。勇気を示したのが名もなき一般市民であろうとも、その意思が本物であるならば彼は本心より喝采して迎え入れただろう。

「そう、願っていたのだがな」

 しかし現実はどうか。
 幾度も繰り返される破壊と絶望にあって、この都市に生きる人々はどうなったのか。
 戦艦に立つのが甘粕とストラウスの二人だけであるというこの状況こそが、総てを物語っていた。

「彼らのことは残念だった。ああ、心の底から悔しく思う。万人の持つ素晴らしさは決してその程度ではないのだと、彼らに代わり俺こそが叫んでやりたかった。
 彼らは勇気無きがために死に絶えた。だがその代わりに───」

「代わりに、我々のような者が生き残った」

「その通りだ!」

 憂いに翳っていた甘粕の面が、突如として喜悦に歪んで上げられた。

「神話もかくやという地獄の日々を、どうあれ生き抜いた者たちがいる。俺は言ったな、お前の強さを尊敬していると。その言葉に嘘はない。俺はお前を、お前たちを、心より愛しているのだと満天下に謳い上げよう!
 現に今こうして俺と向かい合っているお前という男の、何と勇敢で雄々しいことか。そしてお前と同様に、戦場を駆け抜けた英傑たちの何と輝かしく美しいことか!」

 明らかな興奮状態に移行して、声も高らかに叫ぶ甘粕の顔はこれまで以上の喜悦に歪んでいた。それはまさしく狂喜乱舞という他なく、明快に豪胆に熱く雄々しく滾りながら叫ばれる彼の"願い"そのものでもあった。

「このような素晴らしい人間性を、命の燃やす輝きを、失わせるなど断じてあってなるものか。劣化などさせはしない。
 だが人はひとたび安寧に身を浸せばどうなる? 生来抱えた惰性のために、その美徳を自ら手放してしまう。この鎌倉の住人たちのようにな。
 彼らとて本来はお前たちに勝るとも劣らない素晴らしき人間だったろうに。何が彼らを堕落させた? 何が彼らを衆愚にまで貶めた───決まっている。
 ならば結構、必要とされているのは試練である。立ち向かい、乗り越え、克服すべき高い壁に違いない!
 希求されるのは即ち、それらを掲げ、人々に授ける魔王のごとき存在であるのだと!」

 甘粕は喝破する。最早誰もいなくなってしまった、月の見下ろす鎌倉の空に向けて。

「俺は今この時より魔王として君臨しよう!
 この都市に集う全ての者を鏖殺し、聖杯の寄る辺の果てに遍く人が救われる楽園をこそ築き上げよう!
 無論阻止したくば立ち塞がるがいい。俺を否と弾劾し滅ぼさんとするならば、存分にその刃を向けるがいい。振り絞られる勇気と戦意、なんと素晴らしく輝いていることか!
 俺に抗い、立ち向かおうとする雄々しい者たち。その命が放つ輝きを未来永劫、愛していたい! 慈しんで、尊びたいのだ。守り抜きたいと切に願う!
 人間賛歌を謳わせてくれ、喉が枯れ果てるほどに!」

 甘粕は今や両腕を大きく広げ、哄笑とも絶叫ともつかないほどの大喝采を上げている。それは今この瞬間より、ストラウスを含めた全てのマスターとサーヴァントを虐殺するという宣言に他ならない。
 それに対し、ストラウスは無言。眉の一つも動かさぬまま、ただ凄然と言葉を紡ぐ。

「実のところ、お前とは話し合いで決着がつくならそれでいいと考えていた」

 冷たく呟かれたその声から、感情の色を推し量ることはできなかった。

「私の役目は外界からの介入の動機付け。すなわちこの都市唯一の稀人なるお前への忠言なれば、言葉だけで解決する可能性もあるいは、と。
 お前以外の脅威も依然として存在する以上、既に死に体とはいえ私という戦力が存命するに越したことはないと、頭の隅で考えてはいたのだがな。
 しかしこうして話してみて実感したよ。お前は根本的に他者の話を聞き入れない。文字列として解し意味を咀嚼できても、真の意味で受け入れることはないのだ。そもそも口では大層なことを言っているが、お前は別に人類の行く末を真に憂いているわけではあるまい。
 人の勇気が好きなのだろう? それ以外のあらゆる感情的行動が嫌いでならないのだろう? 結局のところ、お前は自分の好きなものだけをずっと眺めていたいなどという、稚児めいた我儘を喚き散らしているに過ぎない。
 なるほど確かに、盧生とは人類悪の別側面であるという事実にも頷ける」

 試練を以て人の勇気を喚起させる甘粕の世界は、仮に愛と勇気と希望を以て試練を乗り越えたとしてまた新たな試練を課すだけの代物である。
 乗り越えた先に得られるものは何もなく、人類は悪戯に輝きを摩耗させられ、いずれは耐えきれず一人また一人と死んでいく。
 休みなく動かし続ければどんな人間だって倒れてしまうと、そんなことは誰だって簡単に分かる自明の理であるはずなのに、甘粕にそんな理屈は通用しない。
 勇気を見せた、ならばもっとだ。次の勇気を更なる勇気を、もっともっとお前の素晴らしきを見せて俺を満足させてくれと───そうした果てに人類は一人残らず甘粕の手で皆殺しにされ、後には何も残らない。
 それこそが楽園(ぱらいそ)。生きる者の誰もいない、文字通りの失楽園。
 端的に言って、それは煌びやかな地獄だろう。誰もが胸に迫る輝きを発露して、その果てに誰もが無為に死んでいく。ドラマチックでヒロイックで、遠くから見ている分には面白可笑しいだけの代物。
 つまるところ、甘粕は人類を娯楽消費の道具としか見ていない。自分を気持ちよくさせるためだけに存在する70億の大衆娯楽、それが彼の人類に対する認識だ。

「お前は私を尊敬に値すると言ったな。だが実際のところ、お前は私のことなど"見込みがある側"のその他大勢にしか捉えていまい。
 故に私が何を言おうと、お前の芯には届かない。どんな理屈も訴えも、お前に対して何の意味を為しはしない」

「そうか───ならばどうする?」

「決まっている」

 黒剣が俄かに蠢動を開始する。滾る魔力が形となり、総身を覆う鎧となる。
 ストラウスの影より立ち昇る黒の全て、剣呑なる気配を以て敵を滅ぼす暴威と為す。

「力づくでお前を打ち倒し、地に這いつくばったその耳に情報を叩き込むとする。
 言って聞かぬ子供には仕置きが必要だと、それは万国に共通の概念だろうよ」

「ふ、はは、ふはははははははははははははは!!
 いいだろう、来るがいい! 先にも言ったが信念と主張の是非を俺は問わん。掲げるに足る意思の強ささえあれば、俺はお前を善し哉と認めよう!」

 天井知らずに膨れ上がるは両者の闘気か。今や可視化されるまでに濃度を増した魔力は海面すら微塵に砕き、荒れる潮を背景に周囲一帯へと降り注ぐ。
 ストラウスは剣を取り、甘粕は印を結ぶ。両者の相対距離は僅か5m、されど万夫不当の英傑ですら踏破は困難となる絶死の間合いに他ならない。

 そして二人は、共に至上の戦意を湛えて。

「ライダーのサーヴァント、真名甘粕正彦が参る!」

「アーチャーのサーヴァント、真名ローズレッド・ストラウス。
 今この時を以て、お前と相対する」

 次の瞬間、周辺海域そのものを吹き飛ばす極大の光と衝撃が、戦端の火蓋を切って落としたのだった。





   ▼  ▼  ▼





 世界が光に満たされた。
 視界を覆う白光は大海原の悉くを埋め尽くして、次いで伝播する破砕音の大残響が夜気に沈む大気を揺るがす。

 「散」の咒法。

 それは射程拡大を促す邯鄲法の中にあって、無差別の大規模拡散を得手とする咒法である。そして今甘粕が放った散の一撃には、更に解法の「崩」と「透」が重ねられており、これに触れたら最期、爆発の衝撃自体が体内へ100%浸透し内側より原子核レベルで分解作用が生じるのだ。
 紛れもない防御無視の一撃。例え不死不滅を謳う英霊であろうとも、肉体を構成する魔力ごと原子分解されては霊核の再構築は叶うまい。
 しかし。

「──────」

 白光満つる爆散の只中より、自身も巻き込まれたはずであろうに当然のように無傷のまま姿を現した甘粕は、忘我にも近い表情で彼方を見上げた。
 その貌には憧憬とも賛美とも取れる感情が滲み出て、ならばこれは勝利者による敗者への弔いであるのか。光の中に消えていった赤薔薇を礼賛する心の動きなのか。

 いいや違う。彼はこの程度で死になどしない。

 赤い彩が躍る。血の真紅が。
 あたかも漆黒の夜空を呪うかのように。
 見上げた先の中天、白銀の大月の中心に縁どられる影が一つ。
 清廉なる大翼。
 鋭凶なる刀刃。
 目にするだけでも心臓が騒ぐほどの、力満つ気配。
 具象化した武。天より降りた神、あるいは地より這い出た鬼なるものか。
 影なる黒の中、開かれた真紅の双眸が違い無く甘粕を射貫く。

 其は、何か。何者か。
 それは在るべくもなく、見誤るべくもなく。
 然して今、其処に在るもの。

 其は───
 真なる祖に連なる───

「笑っているのか、甘粕正彦」

 低く、低く。それは血の視線と同じく零下にも等しい声。
 彼の言い示す通り、今の甘粕は戦闘前と何も変わることなく喜悦の狂笑を湛え続けていた。

「なに、気を悪くしないでくれよ。何しろこの聖杯戦争が始まって以来、俺の前に初めて勇者が現れたのだからな。少々興奮を抑えきれん」

「お前の気質云々に最早言うべきことはない。それがお前の本性だ、などと吹聴する気もない。
 お前が抱くは歪みきってはいれど確かな愛、それも人類ごと世界を滅ぼす七つの災害そのものなれば」

「それはそれは、お褒めに預かり恐懼感激の極みなり」

 しかし、と甘粕は続ける。

「一つ訂正させてもらおうか。俺は何も殺しが好きなわけではない。血に愉悦する獣性は持っておらんし、無辜の民が穏やかに安らげる日々を心から願っている」

 甘粕は心より、そうした輝ける未来が訪れることを祈っている。
 彼は血も戦争も善しとしない。幼子が犬のように打ち殺され、前途ある若人が戦いの消耗品となって潰されていく世の中など断じて認めはしない。
 確かな事実として、甘粕正彦は人類を愛している。そして、だからこそ───

「例えば、このような未来は何があろうと肯定するわけにはいくまい。
 それはお前も同じ気概であったはずだ。なあ、民のため罪を背負い、幾億の憎悪と共に世界を放浪した者よ」

 声と同時、甘粕の背後の空間に変調が発生する。
 大気、魔力、あるいは空間そのものか。それらが突如として入り乱れ、変容を起こし、全く異なる姿へと強制的に変質させられていった。
 物質が組み上がる。構成元素が組成される。
 何もないはずの虚空より、冷たい鋼鉄の種子が現れる。
 そう、これは───

「リトルボォォォォイ!!」

 哄笑響く大喝破と共に、巨大なる弾頭がストラウス目掛けて射出された。押し迫る鋼鉄がまるで壁のように眼前へと飛来し、風切る音は大気ごとストラウスの頭髪を揺らす。
 次瞬、爆轟する熱と光が誰しもの視界を真っ白に染め上げ、凄まじいまでの黒雲が海上一帯に波及した。

 リトルボーイ。通称広島型原爆。
 全長3.12m、最大直径0.75m、総重量約5t。搭載されたウラン量は140ポンドにも及び、計測された核出力はTNT換算で5.5×10^13ジュールにも迫る大型の原子爆弾。
 爆心点の温度は数百万度に達し、致命的熱傷は中心点より1.2㎞地点にまで到達する。
 すなわち、これを放たれたというその時点で逃れる術はどこにもない。
 秒速にして280mに達する爆風より速く熱傷範囲外に逃れたとて、ガンマ線と中性子による放射線の重被爆には耐えきれまい。まず間違いなく即死、そうでなくとも重篤汚染による二次被害によりどう足掻こうと死に至る。
 事実として、この科学と魔道の融合とも言うべき滅びの火の直撃を受けて、生き残れるサーヴァントは今聖杯戦争においても片手の指で数えられる程度しかいなかった。

「随分と舐められたものだな」

 そしてもう一つの事実として、ストラウスは"生き残れる側"のサーヴァントである。
 自爆同然の形で火を放ち、背後の礼拝堂部分さえも余波で吹き飛ばして、熱線の只中に立つ甘粕は驚愕と感嘆に目を見開いた。
 拡散する光と熱量が、周囲を乱れ飛ぶ陽子と電子と中性子の奔流が、大渦のように流れを作ってストラウスの両掌に収束していく。それは空間的に穴を作り熱量を逃がしているのではなく、都市崩壊級の威力の全てを完全に制御した上で己の手許に凝縮させているのだ。
 それが証に、見るがいい。今やストラウスの掌中にて輝ける赤色の火球は、一切の乱れなく完全な球体状に極限圧縮されている!

「その一撃は既にムスペルヘイムの檻に敗れた。そして私は、かの焦熱世界を一刀の下に斬り伏せている」

 故に不足。この程度では我が首を取るどころか、薄皮一枚焼き払うこともできまい。

「受け取れ。自分の仕出かした暴挙は自らの身を以て贖うがいい」

 言葉と同時、掲げられた腕より放たれるは赤色に織り成す極大熱量の光帯であった。
 膨大な光熱が一直線に駆け抜けていく。万象焼き尽くす光槍はしかし周囲の一切に影響を与えることもなく、それはつまり鏖殺の炎が完全な形で集束されていることを意味していた。
 広域破壊の核熱による一点集中、更にストラウス自身の力も上乗せされているために、単純な威力で言えば甘粕が放った時の十倍にも匹敵する代物と化している。
 故に当然、甘粕は受け切れない。自らの渾身に耐える鎧を作り上げることはできても、それに十倍する威力に耐えることは道理として不可能であり───

「ああ、やはりお前は素晴らしい」

 "その程度のことはきっとやり遂げてくれるだろう"と、最初から確信していた甘粕は何ら臆することなく腕を振るった。

「ならば、これならどうだ!」

 雷霆をも凌駕する速度の熱線にさえ先んじる速度で組み上げられる組成式。極低温下における超伝導体及び電磁石、臨界プラズマ条件、リチウム、トリチウム、デューテリウム。核融合反応を閉じ込める原子炉が構築され、内界に非常識なまでの熱核エネルギーが凝縮されていく。
 ストラウスが魅せた所業を前に、負けてなるものかと甘粕が吼え猛る。

 渾身の一撃が十倍になって叩き返された?
 ならばよかろう、六千倍だ。

「ツァーリ・ボンバァァァァ!!」

 それはまさしく悪夢の具現。先の一撃と同じく巨大な鋼鉄の弾頭が組み上がる。
 それはリトルボーイにも似て、しかし基準となる威力の桁が根本的に違い過ぎる。

 ツァーリ・ボンバ。皇帝の名を冠する人類史上最大の水素爆弾。
 単一兵器としての威力は間違いなく既知科学最強であり、その出力はTNT換算で優に100メガトンを超える。更に実在のそれとは異なり制限前の初期設計の代物を顕象されたこの創形の出力はリトルボーイの6600倍にも及び、第二次世界大戦中に使用された総爆薬量の10倍にも匹敵する威力のほどは、唯一の大気圏内核実験において爆心地から2000㎞離れた地点からも爆発が確認され、その衝撃は地球を三周したほどだという。

 ───言語を絶する大音響が迸り、周辺海域全体を黙示録さながらの光が染め上げた。
 ストラウスの放った熱線など煙のように掻き消される。連鎖的に発生する小規模の爆発群は蒸発した海水による水蒸気爆発か、大地震もかくやという激震は果たして爆発による余波だけによるものなのか。それさえ衝撃波の嵐に撹拌される知覚領域では確認することも許されない。

 甘粕、二度目の自爆である。過去の実験においてさえ高度4000mにて起爆したこの兵器を、鼻先1mにも満たない地点で起動させればどうなるか。結果など火を見るよりも明らかであり、しかし甘粕はそんな常識などまるで意に介さない。
 信じている。信じている。己が相対するに相応しいと認めた勇者は、この程度の花火など造作もなく無力化するに違いないのだと。
 信じるが故に躊躇うことなく、そして彼の思う通りに事態は進行する。

「───!」

 爆発の余剰として周囲一帯に拡散するキノコ雲。灰燼さながらに黒く染め上げるそれらを切り裂いて、一閃の斬光が甘粕へと飛来した。
 黒煙を突き抜ける一弾の影、それは身を沈めて駆ける一人の男の姿であった。右脚を蹴って首を落とし、左足を踏んで背を屈む。地を這う長虫のように砂を舐める心地で、自らの頭を甘粕の足元へと投げ込むが如く。
 月光と己を敵影が遮る。影の中で体躯を跳ね起こし、刃を送る。
 切り上げ───

「フッ!」

 その先を制して。
 待ち構えていた、正中を抜ける一閃。
 腰元より抜き放たれた旧日本軍の軍刀は正確に滑り込む影の頭頂を狙撃した。
 甘粕は創形に優れたる至上の射手であり物質創造者であるが、しかしそれは近接における手練手管の未熟を意味するものではない。戟法の剛と迅、膂力と速度をも人外の域に押し上げたる一撃は文字通り雲耀の太刀が如き一閃となりて敵手を薙ぎ払う。

 ───予測通り。
 切り上げと見せかけた剣を手許に引き込み、かち上げる。
 軍刀の打ち下ろしと激突し、反発し、最終的に受け流す。方向を逸らされた刃が流れ、肩を掠めて行き過ぐ。
 然して影の眼前には、甘粕の脇腹が無防備に晒されて在り。
 手首を返しての一斬。据え物も同然の隙所を狙い澄ました剣閃にて割り切る。
 鳴り響く、金属音。

「くっ、ふは、はははははは───!」

 真横の一閃を返す刃で受け止めて、甘粕は歓喜の哄笑を上げる。
 影なる者、ストラウス。黒剣振り翳すその姿には手傷の一つも見当たらない。
 ローズレッド・ストラウス、甘粕正彦、共に健在。無辺無尽なる光の直撃を受けてなお微塵の翳りもなく。
 人類が作り出し給う史上最強の火力でさえ、彼らには届かないというのか。

「核兵器の創形。神秘としてのランクこそ低いものの、生じる魔力総量と効果範囲は対国宝具と大差あるまい。単純威力ならば対城宝具にも比肩し得るか」

 それは例えば大海を割る聖者の奇跡ならざりし、大地を割る弓兵の聖なる献身にも酷似した性質。
 近現代に作り出された純科学の産物なれば神秘としての格こそ最底辺に近いものの、広域破壊に特化されているため純粋な火力ならば高ランク宝具の真名解放をすら上回る。
 だが彼の流星一条との違いを挙げるならば。
 これは壊れた幻想に類する自壊の必要さえなく、そもそも宝具の一撃ですらないということか。

「見事なものだ。異能による火力向上の咒さえ使うことなく、物質形成のみでここまでの破壊をもたらすとは」
「それを言うなら、二重の意味で俺の攻撃を防ぎきったお前こそ流石だよ」

 笑う甘粕の言葉通り、ストラウスが先の一撃を無力化した事実には絡繰りがある。
 鍔迫り合う黒衣の男の総身からは、その気配と同じくして漆黒なる魔力の瘴気が奔流の域となって放出されている。
 物質を跡形もなく消滅させる魔力の波動。分子間結合崩壊能力。無機物有機物を問わず触れたもの悉くを崩壊させる魔業である。
 それはかつて甘粕が見せた解法の「崩」に似て、しかし根源的な部分で性質を異とするものだ。解法の「崩」とは純粋な破壊エネルギーを叩きつけることで無理やりに物質を崩壊させる、いわばプラスの力であるが、ストラウスの纏う波動はただただ物質の持つエネルギーを吸奪・消失させるマイナスの力なのだ。
 物理魔力の区別なく、有形無形すらをも問うことなく破壊せしめるそれは、あまりの分解速度に消滅したと錯覚させるほど。
 巨大質量も熱量も、爆風や放射線による汚染さえ、この世という画布から消しゴムで削り取られでもしたかのように、形を失い霧散する。
 漆黒の瘴気に接触すれば、ただ幻のように溶けて消える。
 甘粕がストラウスの持つ黒剣と曲がりなりにも剣戟を行えているのは、彼が同質かつ同等の力を行使しているため相殺に成功しているからである。そうでなくばこの状態のストラウスには如何なる攻撃も如何なる防御も無意味であり、剣が振るわれたその時点で決着はついていただろう。

 そして彼の遥か後方、戦艦伊吹の坐する海洋より直線距離で20㎞地点にある由比ヶ浜の海岸線には、ある異常が見受けられた。
 ツァーリ・ボンバによる黒煙が、その地点より先に進んでいない。まるで見えない壁に遮られているかのように、その手前までしか充満することができず一種異様な光景を形作っているのだ。
 そしてその印象は正しい。実際その場所には、ストラウスが作り上げた「見えない壁」が存在する。
 相転移式次元断層二十四層、上空三万mにまで多重展開された不可視の空間障壁はツァーリ・ボンバのもたらす破壊の全てを柳のように受け止めて、衝撃そのものを相転移させることで内部にある鎌倉市に一切の運動力を伝えることなく完璧に遮断してみせたのだ。
 衝撃さえ防いでしまえば、水素爆弾という性質上放射能汚染の少ないツァーリ・ボンバは完全に無力化したと言っていい。背後に守るべきものがあるストラウスにとって、皇帝の一撃はむしろリトルボーイよりも対処が容易な代物とさえ言うことができた。

「守るべきを守るため立ち上がり、背負うべきを背負うため俺の前に立ち塞がるか。いいぞ、勇者とはそうでなくてはならん。
 愛のため友のため誓いのため、雄々しくも立ち向かう意思こそが事を為す。人の持つ未来への躍動を前にすれば、如何なる道理も意味を為さぬのだから」

 語る甘粕の周囲では、軋み炎上する息吹の甲板が崩壊を始め、バラバラと中空にばらけて行っては不穏な音を立てている。
 既に全壊同然、沈没し始めている伊吹の上にあってなお、甘粕の泰然さは崩れない。そも彼の邯鄲法行使者としての属性は射手。咒法の射と創法の形に異常特化しているからこそ、本来騎乗物の扱いなど余技のまた余技でしかないのだ。
 ライダーとして召喚されたということ自体が、彼にとってはこれ以上ない足枷となって機能する。
 そして。

「故に、これは"サーヴァントとしての"俺の全力だ。
 防がせなどせんよ、先とは出力の桁が違う」

 そして、仮にアーチャーとして現界していればどうなるか。
 その答えがここにある。防ぎなどさせないと宣言する甘粕の言う通り、彼は「透」による解析によりストラウスの力の粗方を理解している。分子結合崩壊の波動も位相空間による障壁も、その性質を看破した上でなお貫けると確信しているのだ。

 させじと放たれるストラウスの左掌。拳ではなく掌底による螺旋の一撃だ。曲線になぞられた軌跡がどこか歪曲して見えたのは、それが空間さえ捻じ曲げる規模の振動を纏っているがためである。
 その速度は音速の十倍程度とストラウスが放つにはあまりにも鈍足に過ぎたが、しかし渾身の力を込める甘粕の隙を突いて放たれたるがために回避も防御も間に合わない。
 喝采する甘粕の胸に突き刺さる掌底は、彼を打倒するにはあまりにもか弱い一撃だった。まるで手弱女の張り手の如く、しかしそう思えたのは接触直後より1ナノ秒あるかないかであり、異常はすぐさま現れる。
 ストラウスの与えた衝撃の干渉力が、時間経過と共に累乗倍となって甘粕の体内に炸裂した。最初は蚊に刺された程度の痛痒しか与えなかったそれが、次の瞬間には大剣で突き刺されるに等しい痛みに、更に次の瞬間には巨人に圧し潰されるに等しい衝撃となって全身を伝播した。
 最終的には小惑星衝突に匹敵する超絶規模の衝撃が体内にて膨張・撹拌し、弾かれるように吹き飛ばされた甘粕の身体は中空にて柘榴のように弾け飛んだ。それはまさしく血肉の華が咲き誇るが如く、内臓や骨格に筋線維、脳髄や心臓に至るまでを悉く圧壊させる内部破壊に晒されて生存し得る人類は存在しない。
 そのはずであるというのに、ああそれは見間違いなどではなく。

 甘粕は、笑った。

「神鳴る裁きよ、降れい雷ィ───」

 瞬間、訪れたのは鳴動する大気の悲鳴であった。
 空間が震える。世界が揺れる。まるで地球そのものを包み込む銃口が地上に突きつけられているが如く、あまりにも剣呑に過ぎる気配が夜空の向こうに描かれ始めた。
 改変されていく既存物理法則、圧し潰される大気の層。見る者が見たならば、遥か天空の彼方において何万通りもの物理方程式が組み上げられていくに等しい光景を目にすることができただろう。
 惑星の自転と公転、月と太陽の周回軌道にGPSナビゲーションと重力加速エネルギー。それはまさしく、この星が持つ力そのもの。

 ああ、太陽の代わりに、月の代わりに、空へと浮かぶ黒円がある。
 かつて都市を覆った焦熱の天蓋よりもなお広大に、見渡す限りの空の果てまでをも埋め尽くす。
 宇宙の理さえも捻じ伏せて、光り輝く終末の破壊が空より来たる。
 その名を───

「ロッズ・フロム・ゴォォォォォッド!!」

 そして今、残響すら置き去りにして放たれた破壊の鉄槌が、術者の坐す戦艦さえも真っ二つにへし折って地上に穿たれたのだった。



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