好敵手。

「ハーックション!……うう、冷えるなぁ。これで風邪をひいたらギャグだよな」

自分を奮い立たせようとした言葉も空しく流れて、消えていってしまう。
千羽矢といた時には顔を出したばかりだった月が、頭の真上にきていた。吐く息は白く染まり、霧散する。
混黒高校、開拓分校の野球グラウンド。そこのマウンドに小波は立っていた。

「……見間違い、だったらよかったんだけどな」

首をすくめ、ポケットに手を入れる。
小波は少しうつむくと小さく息を吐き、気を締め直した。
新月。月明かりがほとんどないグラウンドは本来なら漆黒に染まる。
だが、今、小波の足元には一筋の光が伸びてきてた。
小波が足を踏み出すたび、静かな夜に砂の擦れる乾いた音が広がっていく。
足元にあったはずの光は部室へ近づくにつれて体を登り、ついには顔まで至る。

「なんで今日だったんだ」

眩しさに目を細めると自然に言葉が零れてしまう。
止まった足音の代わりに、耳元へ届く音。
ポケットから出した右手は肩の高さまでくると、一度、止まる。
酷く震えるその音に怯えるかのように手は動こうとせず。
この右手で扉を叩いてしまえばもう、引き返すことはできない。
裏を返せば、右手を下ろしてしまえば知らなかったことにできるのだ。
ぞわぞわと体を駆け上るものがあり、俄かに心音が大きくなると、汗に掌が湿る。

『……あたしってさ、本当はすっごく臆病なのかも。だから、最後のひと押しをしてくれたこの病気には感謝してるよ。

耳だけが独立した有機体になってしまったのか。耳に残った言葉がこだまする。

『あたしは小波君が好きー!!だーい、好きー!!』

あの時、千羽矢へ返した言葉を嘘にするわけにはいかない。
小波は千羽矢の言葉に背を押されたつもりで二度ノックする。返事を待たずに、

「入るぞ」

と扉を開けた。

「……冴花」

いざ目に飛び込んでしまうと、小波にはどうすることもできなかった。
後ろ手に扉を閉めると、入り口で立ち尽くしたまま何をしていいか解らず茫然としてしまう。

「『冴花は強いふりをしている子じゃなくて、本当に強いんだ。俺に弱みなんか見せるな』そう言われたとき、
絶対、泣かないって約束したんだけどなあ……」

扉が閉まると同時にあふれ始める思い。
本家混黒高校と比べれば一回りも二回りも小さい部室。冴花の声は隅々まで響く。
だが、きっと、物理的な広さなんて関係ないのだろう。
ごめんね。そう繰り返す言葉は触れたら粉々に砕け散ってしまいそうで。
途切れ途切れの告白は重くずっしりとのしかかり、ゆっくりと小波の体へ。まとわりつくように広がっていく。
小波の足はカセをかけられたようにびくともしなかった。

「ごめんね、本当は小波君が来る前には帰ろうと思ってたんだけど」

ボールの入った段ボールの前で丸くなった背中は小刻みに震え、針を持つ手は床に置かれている。
きっと、"普段のように"道具の手入れをしてくれていたのだ。
そんなとき、外から響いてくる声を聞いてしまった。

「……冴花」

小波は繰り返す。

「私って醜い女ね。もうちょっと賢いのかと思ってた」

小波が何もしなくても、冴花の独白は続く。続いてしまう。

「私には"病気"がなんのことかわからないけど、あの子のことだから、
きっと、それを理由に小波君を誘導するようなことはしない。あの子は、私とは違ってずっとまっすぐだから。それを盾にはしない。それに――」
「――冴花っ!!」

思わず声が大きくなる。
一度あふれてしまった水はもとにはかえらず、周囲を巻き込み、爪跡を残す。

「……冴花、頼む。もう、やめてくれ。……頼む……。」

小波は、ただただ、願い続けることしかできなかった。

「……あのまま、帰ってくれればよかったのに」
「それは、それだけはできなかった。千羽矢に言った言葉が嘘になってしまうし、何より、冴花を傷付けたくない」
「……ずいぶんと、都合の言い話ね」
「わかってる。」

あえて言葉にしなくては決着のつかないことがある。
小波にできることは言葉を紡ぐことだけだった。

「千羽矢のこと想う気持ちに偽りはない」

――冴花が返す言葉はない。
どんな反応をされようと続けなければならない。小波はそう思った。

「――でも、それが、冴花のことを好きじゃないことには……」

小波の言葉へ食いかかるように冴花の言葉が差し込まれ。

「それが!それが、……」

そして、しぼんでいく。

「――それが、わかってなければ、こんなに苦しい思いはしないわ」

最後の方は消えて声にならなかった。
それでも小波に、小波には、通じるものがある。
この先へ進むために、さけては通れない道。
選択を、するしかない分岐点に小波は立っていた。