冴花と千羽矢。

「こらーっ、馬鹿兄貴!」

練習に打ち込んでいたグラウドで、普段とは違う甲高い怒号がこだました。
身に覚えのない罵声に驚いた部員が次々と声の主へ顔を向ける。

「あ、いけない」

そんな中、ただ一人。身に覚えのあった奴が脱兎のごとく駆け出す。
傍で練習を手伝っていた小波は、優輝のとった思いの寄らない行動に一瞬思考を止めてしまう。
はっと意識を取りもどすと優輝の後を追おうとした。
が、今度は強烈な違和感が邪魔をして一歩踏み出した足も次が続かない。
頭の隅に引っかかる何かが小波の行進を妨げる。そこへ畳みかけるように、おーい、と再び甲高い声。
頭の中の突っかかりがとれ、すっきりした思考が帰ってくる。
次々にフラッシュバックしてくる記憶と、目の前に立つ赤ジャージの女の子。

「チハちゃん?」

素っ頓狂な声が出てしまった。
雰囲気はかなり変わっているがその声、その仕草。
一度気づいてしまえば、消そうと思っても消せない特徴が次々と目についた。

「あっ、小波君」

奇妙な声につられて振り向いたのだろう。小波と目線が交わった時、ぽろっと少女が言った。
対する小波は少女の顔を見て確信を得る。驚嘆の声を上げ、自らがチハと呼んだ少女の近くへ懐かしそうに駆け寄っていく。

「そうか、高校生になったのか」

今日日、親戚のおじさんでもしないような問いかけだが、少女は嬉しそうに答えた。

「へへー、見間違えた?」

胸元まで伸びる栗色の髪を耳へかけるその仕草は、若干15歳とは思えないほどの優艶さを魅せつけてくれる。
ぱっちりとした目元を初め、鼻、口、耳と、すべてのバランスが整っていて、見れば見るほど端正な顔の作りに吸い込まれていく。
幼いころから少女と面識のある小波でさえ気をぬけば見入ってしまう。
まさしく美人と呼ぶにふさわしい。そんな少女だった。

「じゃなくってえ……。うちの馬鹿兄貴を出して」

先ほどまでのおどけた声色が一転、怒りの色がにじみ出る。
小波は、一瞬、優輝を庇おうかとも思ったが、少女の性格は(つい先ほどまで忘れていたとはいえ)昔から良く知っている。

「それならグラウンドに……」

ここは、保身に走るのも仕方ないといえよう。

「あれ、どこに行ったんだ」

振り返った先に優輝の姿はない。首を振り、辺りを見回すがどこにもいない。
小波が見たのは駆け出した直後の優輝。
どこへ行くのかとは思ったが、よもや、逃げ出したのだとは思わなかった。
想像のつかない展開に、疑問符を浮かべたまま小波は首を傾げた。
そこへ折よく、大きなため息が落ちてくる。

「おニイの馬鹿、自分から開拓分校に行きたいって希望出したらしいの」
「なんだって?」

予期せぬ告白へ反射的に言葉がでてしまう。聞き間違いかと思ったくらいだ。

「全く、今日から兄弟で登校できると思っていたのに。
こーんな田舎レベルの低い学校にわざわざやってきてどうするのよ」

やはり、聞き間違いではない。
ずいぶんと失礼なことをサラッと言われているが、今の小波にそんなことはどうでもよかった。
優輝が自らの意志で開拓分校にきた。その事実が何度も何度も頭の中でぐるぐる回る。
だが、野球部としては一方的に文句を言われたままにしておけない。

「田舎でレベルが低くて悪かったわね」

きつい言葉にきつい態度で返すのは開拓分校野球部のマネージャー、木村冴花。
あまりの驚きで開いた口がふさがらないキャプテン。
変わってメンツを守りに行くのはマネージャーの仕事だ。と言わんばかりの気合である。

「あーら。何か間違えたこと言った?
周りの人間のレベルが低いと本人のレベルも下がっていくものなの。あんたもよーく、わかっているでしょ」
「…………それって、どういう意味?」

少女から流れ出るたっぷりと含みある言葉に冴花の、ただでさえキツイ、眉毛が更につりあがる。

「ふん!野球部に女が一人しかいないからって、あんたいい気に……」
「千羽矢っ!」

矢継ぎ早に紡がれる少女の言葉へ小波がブレーキをかける。
いくら混乱していようとこればかりは聞き逃すことができない。
先ほどまでの疑問を忘れ、小波は相当に怒っていた。

「! ええっと、おニイはいないようだしまた来ます」

少女は、小波の顔をちらりと伺うと慌てて態度を取り繕い、足早にグラウンドを離れていってしまう。

「気弱なお兄さんと違ってずいぶんと攻撃的ね」

怒りが収まらず眉間に皺を寄せている小波とは対照的に、冴花はどこかうれしそうですらあった。

「今日は特別だよ。あんなこというなんて、びっくりした」

今まで見たことのない態度に、最後まで疑問の晴れない小波であった。