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概要

  • 実装状況:10隻中1隻実装(2015年7月3日現在)

特種船とは、日本陸軍が上陸戦で使用する大発の運用を考慮した強襲揚陸艦の元祖とも言える船である。
神州丸から始まり、途中戦時標準船設計となった船も含めて9隻が完成した。

その特徴は、上陸用舟艇の運用能力、そして船尾の扉を使用した急速発進能力である。
上陸戦に使用する小発と大発、97式チハ車を搭載可能な特大発、そして上陸を援護する装甲艇各種を積載可能、船内は全通甲板を整備して大発・特大発を搭載、船尾の扉を開いてスロープから続々と大発を発進するその姿は、現代の強襲揚陸艦にも負けないスタイルである。

偉大な発明

島国である日本は上陸戦を行う必要性が多く、そして第1次世界大戦でのガリポリ上陸戦を見た日本陸軍は上陸用の舟艇を作る事を決定。こうしてエンジン付きの船である小発、そして本命の着上陸に最適化された大発が完成した。
大発の特徴は、船首にある歩み板で、上陸後に前方へ倒し歩兵や騎兵、車両が上陸するためのスロープとする設計で、日中戦争時にこれを目撃したアメリカは設計に取り入れるなど当時としては先進的な船であった。
その成果が発揮されたのは第1次上海事変で、上海を攻撃する中国軍の背後に河口を遡上して強襲、見事に撃退して上海租界の包囲を解放し停戦に持ち込むなど見事な戦果を上げたのだが、その運用方法に問題点が見つかったのも事実であった。
と言うのも、日本から上海まで上陸用舟艇を積載して運べる船が無く、仕方がないのでケ号作戦よろしく引っ張って行く羽目になり、上海沖で舟艇に歩兵が搭乗する際にも船の舷側から縄梯子を垂らしてそこを降りて行き、揺れる船と言ったり来たりする大発の間をタイミングを見てインディージョーンズよろしく飛び移ると言う、なんとも危険な方法を取るしかなかった事が問題視された。
前者の問題点は後に太平洋戦争で徴用する輸送船に対して重量物の搭載が可能な優秀船の建造と言う形で民間船にも反映されたのだが、両者の問題を解決する方法として、上陸用舟艇を自前で積載運搬可能であり、安全に舟艇へ搭乗して発進可能で、さらに上陸戦時に地上戦の掩護をしてもらう航空機の発進能力を付加した舟艇母船の建造がスタートする。
後の神州丸である。

神州丸の光と影

上陸用舟艇の運搬積載、そして発進能力を持ちつつ航空機の発進能力を付与した船を作ろうという事になり、とりあえず大型貨物船の設計をベースにあれこれ機能を付けて出来たのがMT船である。
が、やっぱり陸軍であるからして船の設計と言うものの勝手は分からない。水の事なら水の専門家、と言う訳で完成した図面を海軍に持ち込んで精査してもらった所、速攻でダメだしと図面を引き直されて完成したのが神州丸である。
原設計のMT船はその何とも言えない「うーん…」感から一転、中央部分に航空機関連設備を集約し、格納庫からカタパルトへと通じる導線を整備、船首と船尾に大発搬入用のヘビーデリック/クレーンを設け、上甲板も各種舟艇を積載可能、船内の大発甲板も1層に集約し全通甲板として運用能力を向上、とその後の陸軍舟艇母船のひな形を作ったともいえる。
だが、その独特の凸型の船影は本船しか存在せず、機密保持に細心の注意を払いロイド船級への登録はおろか船名台帳への登録すらしないほど徹底した秘匿をしたものの、日中戦争へ出動した所たちまちの内に写真に撮られまくれ努力が無に帰した。現在残っている神州丸の写真の内大半がこの時に撮影された写真である。
秘密兵器がその独特の船影で瞬く間に注目を引いた事を反省した日本陸軍は、以後の陸軍舟艇母船を意図的に商船型にする方向を固める。

神州丸はその後も陸軍舟艇母船として太平洋戦争開戦時には上陸戦に従事、最上からの魚雷を受けて沈没するなど被害を受けるが、この事件は実際に被害を受けて漂流した今村陸軍中将自身が水に流して事なきを得、神州丸も無事浮揚してシンガポールの海軍工廠にて”最優先”で復旧工事が行われてお土産のバナナと共に本土へ帰還。その後は輸送作戦に従事していたがフィリピン決戦での輸送作戦中に魚雷攻撃を受け戦没した。

あきつ丸にぎつ丸

上陸用舟艇母船である事を秘匿する為に、意図的に商船と似たような外観を取っていたが、船尾には舟艇発進用の門扉を持っているなど、舟艇母船としての機能は神州丸から引き継いでいる。
ただし、航空機の発達により早々に神州丸の格納庫が役立たず化した事を受けて、飛行甲板を設置可能とした設計になっている。
これを設置すると明らかにあやしいので、いざと言う時に改造して使えるように考えていたのだが、あきつ丸建造時には時期的に隠す必要が無くなったので初めから飛行甲板を付けた状態で竣工している。
にぎつ丸は飛行甲板が設置されなかったので、商船スタイルとなっている。

なお、以後の舟艇母船は神州丸と違い、籍は民間船籍である。
と言うのも、国家予算で神州丸を建造したのは良いものの、維持費の関係で以後の舟艇母船を陸軍で養う事が出来ず、貨物船として民間船会社に補助金を出して建造保有をしてもらい、維持させる事にしたからである。

摩耶山丸玉津丸吉備津丸

一般商船型の陸軍舟艇母船として誕生したのがこの3隻である。
時に、摩耶山丸の図面は2種類確認されており、アジ歴では船尾の舟艇発進機構がまるまる倉庫として描かれた図面が、戦前船舶102号では陸軍舟艇母船の図面が掲載されている。
以後の陸軍舟艇母船は摩耶山丸と似たスタイルで建造されるが、太平洋戦争下での増備を図る為、戦時標準船の設計へと転換された。

日向丸摂津丸熊野丸

戦時標準船M型として設計変更されたのがこの3隻である。
特に、あきつ丸以来の航空能力を持った陸軍舟艇母船となったのが熊野丸である。
その設計には海軍も協力しており、小型空母としての標準型である飛行甲板下の船橋など、洗練されている。
しかし、完成時期が遅く、かろうじて日向丸がフィリピン戦に間に合ったものの、摂津丸と熊野丸は以後働き場所も無く、終戦まで無用の長物と化した。
日向丸は終戦前に触雷沈没し戦後も復旧される事なく解体。
摂津丸は戦後に捕鯨船団の冷蔵船として活躍。その最後は誤ってキングストン弁を解放して浸水沈没と言うヒヤリハッと災害であった。
熊野丸は終戦後に復員船に改装され復員輸送に従事、終了後に解体された。

高津丸

高津丸は前記の1万総トン級から約半分となった5000総トン級の中型舟艇母船として建造された船である。
実は船内の上陸用舟艇の運搬機構が違っている。アジ歴で詳細な図面が閲覧できるので興味がある人はどうぞ。
5000総トン級だが単純な縮小型でもなく、特に北方での使用を考慮に入れた、流氷対策の舷側25mm装甲を持っている。
高津丸はただ1隻の5000総トン級中型舟艇母船として奮戦、その最後はフィリピン決戦第4次多号輸送作戦にてオルモック湾からの帰還時にB-25からの空襲を受け、香椎丸と共に被弾爆沈。総員戦死の壮絶な最後を遂げた。