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ノエ【5】」(2006/01/14 (土) 04:12:22) の最新版変更点

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<h2>ノエ(4)</h2> なんと一言も言わずに行なってしまったのか。ああ、真実の愛とはそういうものなのだ。<br> 真実は言葉で飾るより以上に実行を持っているのだ。<br>                                          ―-ウィリアム・シェイクスピア<br> <br> *<br> 梟の鳴き声と駿馬が蹄を鳴らす音が聞こえた。<br> 馬車の不快な揺れが止まっている事でようやく自宅への到着を知った私は、血の滲む唇を袖で拭いた後、ノエに声を掛けた。<br> 「さあ、降りよう。今日からノエが暮らす家を紹介するよ」<br> 私の毛皮を抱き締めるように纏うノエは、どうやら眠かったらしい。私の声に驚いた様子で、眼を擦りながら、勢いよく立ち上がった。<br> 「…………!」<br> 咄嗟に手を伸ばすも、遅い。決して高くない馬車の天井に思い切り頭を打ち付けたノエは、両手で頭頂部を押さえて屈み込んでしまった。<br> 大丈夫か、声を掛けると、瞳の端に涙を浮かべながら笑顔で私を見上げ、おどける様に舌を出した。<br> その一連の動作、余りの可愛らしさに、今度は此方が屈み込みそうになる。ノエはそんな私を、不思議そうに見ていた。<br> 「行こう。腹も空いているだろう、何か作らせよう」<br> 照れ隠しに少し胸を張り、馬車の短いタラップを飛び降りた。今度は私が、ノエを見上げる。<br> ノエは恐る恐るといった足取りで、鉄製のタラップを一段ずつ降りる。その足がゆっくりと地面に触れた時、私の中である欲望が鎌首を擡げた。<br> <br> 「…ノエ。足は、平気か?」<br> 屋敷までの僅かな道を歩きながら、そう問い掛ける。裸足のノエにとってこの砂利道は歩きづらかろう。<br> だがノエは首を縦に振る。大丈夫、平気だ、と。…夜道、月明かりを頼りに、大きな石に蹴躓かない様に慎重に歩を刻んでいた。<br> その様が歩くことを覚えたばかりの乳児の様で、何とも愛らしい。<br> 「……!!」<br> 苦悶の呻きを上げ、ノエがしゃがみ込んだ。…空に天井はない、だとすれば――見下ろすとノエは、左足の親指を掌で包み込むようにして<br> しゃがんでいた。その直ぐ前には、掌程の大きさの石。…注意に注意を重ねても、不可避の石は確実にそこにあり、人は気付かずに転んでしまう。<br> 「触らないほうがいい。どれ、見せてご覧」<br> ノエの足に触れ、その柔らかさに驚き、今はそんな事を考えている場合ではない、と気持ちを切り替えた。<br> 外見上は特に問題は無い。爪が割れたとか、何かが刺さったといった類の怪我ではないようだ。<br> 二本の指でその親指を抓み、上下に動かしてみる。<br> 「……ッ!!」<br> 途端、ノエの顔に苦悶が浮かぶ。どうやら捻挫の様だ。或いは打撲傷か。どちらにせよ、大事でなくて良かった。<br> ――問題は、歩く事が困難な怪我を負ったノエを、どのようにして我が家まで連れて行くかだが……<br> <br> 私は何とか立ち上がろうとするノエの頭にぽん、と手を置き、彼の直ぐ傍まで歩み寄った。<br> 揃えていた両の膝の下に手を廻し、もう片方の手をノエの背中に添える。<br> 「動くと、落ちるぞ」<br> そのまま持ち上げた。先日初めて知ったのだが、これは「お姫様抱っこ」という名前らしい。<br> 断っておくが、私はこの行為を男の浪漫などと思ったことはないし、あくまで仕方なく、ノエの傷病の為を思って、<br> これが最善手であると思ったからこそこの「お姫様抱っこ」という形式を取ったのであり、兎に角、疚しい気持ちは一切ない。本当だ。
<h2>ノエ(5)</h2> 「…何、そう心配そうな顔をするな。これでも私は運動が得意なのだ。ノエ一人くらい、軽いものだ」<br> ノエは緊張と驚きに身を硬くしていたが、私がそうおどけて見せると、体を弛緩させた。<br> 多少の強がりも混じったが、それ以上にノエは本当に軽かった。…劣悪な環境において、食事は最も渇望され、同時に軽視されるのだ。<br> <br> ノエを抱えて、馬車から玄関までの僅かな道を歩く。<br> 豪奢な名門貴族の邸宅ならば松の木で組まれた篝火や男女問わずの使用人が列を成して出迎えるのだろうが、<br> 私の家は生憎貧乏だ。…それでも平民から見れば資産家に見えるらしい、時折近隣の農民が施しを求めてやってくる。<br> 連綿と受け継がれるのはもう姓氏とこの屋敷だけになってしまった。…若い頃は、散財癖のある父を憎んだものだ。<br> やがて石の階段、その先にはたった一人の居住者を待つ扉。…今日から、居住者は二人になるのだが。<br> <br> 扉の取っ手に手をやる。基本的に我が家は、敷地入り口の扉以外に鍵を掛けてはいない。<br> …中々、上手くいかない。両方の二の腕でノエを支えたまま手首から先だけで開けようとしているのだから、無理もない。<br> 「…ノエ。すまんが、しっかり掴まっておいてくれ。左手を使う」<br> 私のその言葉の意味をすぐに汲み取ったノエは、今まで背中を預けていた左手から体を離し――<br> あろうことか、私の首に手を廻し、抱きついてきた。<br> 「ふむ、そう来たか。確かにそうやって掴まれば、私は左手を自由に使えるし、ノエは地面に足を下ろさずに済むな。<br>  だがな、ノエ。それは少々拙い。何が拙いかは説明できんのだが、兎に角拙いのだ」<br> 口は、まるで平素の私のように言葉を紡ぎだす。<br> だがその実心臓は早鐘を打ち、顔はみるみる紅潮し、体は硬直、自由になったはずの左手も固まって動けなくなってしまった。<br> <br> 「……?」<br> 動かない私を不思議に思ったのだろう、ノエがこちらに顔を向ける。…かなり近い。<br> これほど近くでノエの顔を見たのは勿論初めてだ。…私の中で、情欲の炎が燃え上がる。<br> …このままではきっと、私は駄目になってしまう…<br> 意識して強く取っ手を握り、一気に扉を開け放った。<br> <br> 暗い屋敷。<br> 出迎えもなければ、事前に暖められてもいない。私が出掛けた時のままの状態である。<br> 「…そう、私は一人ぼっちだったのだよ、ノエ」<br> だから今日、使用人を買いに出掛けた。…そして今、私はノエと居る。<br> 「流石に冷える。何か温かいものと傷薬を用意するから、ノエはここに座っているといい」<br> 応接間の安楽椅子に、ノエを下ろす。首から右手から私の体からノエが離れるのが、少し惜しい気がした。<br> 暖炉に火を燈し、厨房へ向かう。湯が沸くのを待ちながら、今日一日の事を思い出していた。<br> <br> …とてもではないが、数分で整理が出来るものではないな、と苦笑し、ティーセットを持って応接間に戻る。<br> 暖炉の前の安楽椅子が規則正しく揺れるのを見て、私はある一つの予想を立てた。<br> <br> 「…ノエ。出来れば眠る前に、私の毛皮を脱いで欲しいのだが」<br> 足音を殺し近づいた先、突如として声を掛ける。<br> 大きく揺れる安楽椅子。やはりノエは眠ってしまっていたようだった。慌てて飛び起きるその姿に、笑いを殺しきれない。<br> 俯いて肩を揺らす私を見て、冗談だと気付いたのだろう…ノエは頬を膨らませて、そっぽを向いてしまった。<br> この子は随分と、人に懐くのが早いのだな。ノエの分の紅茶を注ぎながら、ちくりと痛む感慨を抱く。<br> 「飲むといい。私は没落貴族の当主だが、口に入れるものには拘っているつもりだ」<br> 差し出したティーカップを、何の疑いも抱くことなく受け取る。…これで媚薬でも入っていたらどうするんだ、全く。<br> その無警戒さに呆れるが、しかし同時に微笑ましくもある。<br> 口を窄めて紅茶に息を吹き掛けるノエ。…どうやら猫舌らしい。あるいは抑留生活のせいでしばらく温かいものを口にしていなかったのか。<br> 見れば、先ほどから何度も息を吹きかけ、恐る恐る口をつけ熱さに仰け反り、その度にまた息を吹きかける行為を繰り返していた。<br> 私はしばらくその繰り返しを眺め、強張った体を暖炉の温かさで解す。<br> 我が人生に於いて、これ程幸福感に満ちた疲労を味わったことはない……。

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