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見習氏
付き合いが悪い、と友人に揶揄される私にも、二つの趣味がある。 一つは、紅茶。良質の茶葉に湯を注いだ瞬間、私の殺風景な部屋は花園の如き香りに包まれる。 窓際の座椅子に腰掛け空を見上げながら暫しの一服。その瞬間の私の表情はさぞ弛緩しているだろう。 もう一つは、入浴。シャワー程度で済ませている者も居るようだが、入浴を軽視するなど愚の骨頂である。 その為浴場は広い。バスタブは悠々と四肢を広げられる大きさであるし、汚れがちになる洗い場も 毎日私が綺麗に磨き上げている。 …さて、何故私が趣味の話をしたのか、というと。 「…ノエ、どうだった?我が屋敷で唯一自慢出来る浴場は」 生乾きの髪にタオルを被せ、火照った体を夜気で涼ませるノエに、声を掛けた。 「……♪」 ノエは御機嫌なようだった。久方ぶりに体を洗えた事が嬉しかったのだろう、私を見上げて柔らかに笑む。 「そうか、気に入ってもらえて何よりだ。…アレを嫌われると、我が屋敷には自慢出来るものがない」 仄かに石鹸が香るその体を抱き締めたくなる衝動を堪える。 紅茶で体を温めた後、私はノエを風呂に入れた。ノエは眠そうにしていたが、汚れたまま眠られたのでは 堪らない。目を擦りながら首をこっくりと上下させる彼の手を引き、脱衣所まで連れて行ったとき、私は 大変な事に気が付き、腕を組んだ。 我が家には、ノエが着られる服がなかったのだ。 私の服は当然大き過ぎる。かと言って他の使用人が居る訳でもなく、唯一の他者である馬車の御者も 恰幅の良い中年である。…これは存外、私の頭を悩ませた。 まさか裸で過させる訳にはいかない。裸で――刹那、邪な妄想が頭を過ぎったが、すぐにそれを打ち払い、 ノエを浴室に押し込めてから、私は屋敷中を駆けずり回った。 ――結論から先に言うと、適当なものは何も無かった。 私は仕方なくお気に入りのガウンを鋏み、私が着れば太腿が露出してしまいそうな程に短くなったそれを、 ノエに宛がった。 …何とか、窮地を脱したようだ。ノエはそれが私の手によって裾上げされたものとは露知らず、時折目を閉じたり 足をぷらぷらと振りながら気持ちよさそうにしている。
「…ノエ。湯冷めするぞ。そろそろ床に入ってはどうだ」 私のその言葉に示し合わせたかのように、ノエは欠伸をした。気恥ずかしそうに、口元を押さえる。 「済まないが、客人用の床の間は久しく使っていないのだ。……埃が被っているだろう。 今夜は私の部屋で眠ってくれ……何、心配するな。私はこの椅子で眠ろう」 安楽椅子を指差し、言う。ノエは両手を振って遠慮するような素振りを見せた。 「疲れているだろう。疲れた者がベッドで眠るのは当然の事だ。私は疲れていないのでな」 行くぞ、と背を向けると、ノエは直ぐに歩み寄って来た。…遠慮することなど、ないのだ。 客間から自室までの僅かな距離を、ノエと歩く。 暗い廊下に怯えているようで、時折歩を早め、身を竦ませ、しかし視界から私が消えぬように しっかりと付いてきているようだ。 「さあ、ノエ。ここが私の部屋だ。…ゆっくり休むといい」 私はそれだけを言い残し、踵を返す。だが、客間に戻ろうと進めた第一歩は、シャツを引っ張られる 感覚で押し止められた。 振り向くと、ノエが不安そうな顔で私を見上げていた。その表情にくらりとくず折れそうになる。 「……ノエ、どうした。一人の夜は、不安か」 きゅっと唇を噛み、私のその言葉を肯定する。その仕草に再びくらりとくず折れそうになる。 ……自分の中の何か――どろどろとした溶岩のようなものが、噴出しそうにせりあがる。 「……ノエ、我侭を言うものではない。ベッドは一つしかなく、生憎それは二人で眠るには狭いのだ」 本心とは裏腹の建前が口を突く。落ち着け、落ち着くのだ、私よ―― だがノエは、私の辛抱をいとも容易く打ち砕いた。 私のシャツを掴んだまま、ノエは寝室の扉を開けた。 それは、まるで主人と客人の関係が逆転したような光景だった。
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