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ノエ(3)

愛は欠けたるものの求むる心ではなく、溢るるものの包む感情である。
人は愛さらるることを求めずして愛すべきである。  
                                   倉田百三「愛と認識の出発」より引用


競り落とされた奴隷達は普通、体の汚れや頭髪の乱れを清められてから、商人達が手繰る馬車によって
購入者の邸宅に運ばれる。追加料金を取らないのは彼らなりのサービスなのだろう。
私はそれを拒んだ。それは独占欲に因るものなのか。
我が身の浅ましさを苦笑し、私は少年を馬車の中へ招き入れた。
少年は商人から与えられた布切れを体に纏い、諦観とも放心ともつかぬ無表情で、私の指示に従う。
御者に出発を促す。駿馬が一度だけ嘶き、馬車は街道を進み始めた。

「君は、何という名前だ?」
街道を抜け、馬車が農道に差し掛かった頃、私は少年に声を掛けた。
彼は伏せていた顔を上げて、真っ直ぐに私の目を見た。…胸に小さな、しかし心地良い痛みが奔るのを感じる。
やはり彼は美しい。少年特有のあどけなさの中に何処か高貴さを漂わせたその顔をまじまじと観察してしまう。
この時既に私は、彼を視線で蹂躙でもしているかのような昂ぶりを抱いていた。
「君の、名前を、知りたいんだ」
声が上ずる。喉は不思議な緊張でうまく言葉を吐き出せない。…これでは彼を怯えさせてしまうではないか。
私は戒めの意味で、己の太腿を軽く抓った。…思ったより強すぎた。痛い。
沁みる様な痛みをそっと撫でている時、初めて彼の顔に明確な感情が宿った。私はこの時の高揚感を生涯忘れ得ぬだろう。

無言のまま、首を傾げたのだ。眉根を寄せ、唇に微笑を浮かべ…困ったように、笑ったのだ。

小さいとはいえ私とて貴族の嫡子。週末ともなれば着飾った名家の息女が集まる社交場に赴く事もあるし、
そこで意気投合した令嬢の方々と夜通し愛を語り合ったこともある身だ。
だが私は――少年のその笑顔を見た瞬間――まるで初心な子供の様に――初めて恋を知った子供のように、
顔を赤らめ、身を硬くし、時間が何倍にも長く感じられるような感覚に囚われた。
そんな私の様を訝しんだのか、少年はその口元から笑みを消し、自分が何か不手際をしてしまったのではないか…といったような
困惑した瞳を向ける。――それはそれで、大変効力のある…私の心の内に作用するものだった。
(何を…落ち着くのだ、私よ。相手は子供、それに男、その上奴隷だぞ。何を動揺する必要がある)
そんな青臭い思考を悟られないように、咳払いの後、私はもう一度彼に言った。
「名前。君の名前だ。人と人の交流は、互いの名前を知ることから始まると思うのだが」
言葉が通じないのかも知れないと思い、身振り手振りを加えて問いかける。(名前、のジェスチャーは苦労した)
…だが、彼は例の困ったような笑顔を浮かべたまま、一向にその唇を開こうとしない。
何か、名前を知られたくない理由が?そう考えた時、彼の手がそっと、私の手に触れた。
冷たさに驚く。が、次の瞬間には、私はまた顔を赤くし、私の手で何かを試みようとする少年の細い指の感触に身を預けていた。
掌が擽ったい。それ以上に、とても男のものとは思えぬ彼の柔らかな指の感触が、どうにも私を扇情的にさせる。
知らずのうちに目を閉じ、うっとりとその感触に浸っていた時――私は、彼が何をしようとしているのかに、気付いた。

「…君は…そうか、声が…」

彼は、また、困ったように笑った。
それが肯定の意味であると理解するまでに少々の時間を必要としたのは、言うまでもないことである。

私は己を罵った。莫迦め、間抜けめ、現を抜かし本質を見抜けぬとは何事か。
体から、高揚感が消える。代わりに畦道を行く馬車の不快な揺れと、夜気の冷たさに身を震わせる。
少年は先ほどから何度も何度も、私の掌を指でなぞり続けている。ようやく、それの意味するところに気付き、
私は掌に視線を移した。

「……ノエ。そうか、君の名前は、ノエというのだな」
少年――ノエは、指を止め、私を見上げた後、本当に嬉しそうな顔で、笑った。
ノエ。少年の名前。金銭で売買された少年が唯一剥奪を免れた財産が、その名前であった。

「……ノエ、着なさい。寒いだろう…気付かなくて、すまないな」
私は羽織っていた毛皮をノエに手渡す。その感触に驚き、本当に寒かったのであろう、抱きしめるように毛皮の温もりを享受するノエを見て、私はどうにもやりきれない気持ちになった。

すまない?ヒトをモノの様に金で買った己が、寒さに気付かなくてすまない、だと?

笑顔の裏で、唇を噛んだ。少し切れたようだが、構うものか……
久しぶりに流した血の、鉄錆の臭いの残るその味で、私はノエの両腕に掛けられていた鉄の枷の事を思い出していた。