低い笑いはしかし直ぐに消え、唸り声にも似た溜息に変わる。
「本部に戻るか……アグナスの話―――クレドも知ってるはずだ」
まだバランスが危うい感じでゆっくりと立ち上がり、
激闘の余韻が色濃いかすかに割れた声でネロは押し出すように一人ごちた。
フォルトゥナ城の裏手にかかる機械仕掛けの巨大な橋、滝をせき止めることで姿を現すそれを渡り、滝の中の洞窟を抜けたときには夜が明けていた。
「森か……」
落ちる木漏れ日を浴び、響き渡る鳥の声を聞きながら歩みを進めたネロは、
崖の上から眼下の光景を見下ろす。そこに広がる緑は山一つ越えてきたというだけでは説明できない
異様さを持っていた。
「なんだこりゃ?」
それを代弁するかのような溜息交じりの呆れ声を耳にして、ネロは腰に手をやりつつ
慌てて後ろを振り向いた。けれど照星の先には風に揺れる草木があるばかり、
その更に背後で芝居がかった仕草で肩を竦める人影がある。
「“門”の影響か……」
相変わらず気配をつかませない、赤いコートの男は向けられた銃口にもやはりそ知らぬ顔で
一面の大森林を眺めやって鼻を鳴らした。
男の言葉通り、鬱蒼と茂る木々は中緯度地域のものではない。
ヤシやソテツのような、熱帯特有の植物だ。
「悪いな、後で遊んでやるよ」
くるりとネロを振り返り、片手を広げてそう言うと、男はトンと地を蹴った。
その背を受け止めるものは吹き上げる谷風以外何もないというのに、
心地よさげにさえしながら空に大の字になり、赤いコートをはためかせて小石のように落ちていく。
「何が目的だ……」
それでも崖っぷちに駆け寄って銃を向けたがやがて諦め、武器を腰に収めて低く呟いたネロもまた、
「迷いの森」へと足を踏み入れた。
「なぜ教えなかった!」
教皇への状況報告を終えて円卓の一隅に腰を下ろしたクレドを、
ずかずかと入室してきたアグナスが鼻息荒く問い詰める。
教皇の前である事をたしなめられても、その勢いは止まらない。何せ……
「あの小僧は、あ、あ―――悪魔だぞ!」
それを馬鹿な、とあっさり切って捨てるクレド。
「知らぬフリか?貴様の部下だ!」
さりげなく逸らした視線の先に回り込まれ、クレドの眉間のシワがいつにも増して深くなる。
「閻魔刀を復活させた!貴様の!貴様の責任だぞ!こ、こ、この……!」「クレド」
片眼鏡の鎖を跳ね上げて尚も言い募ろうとしたアグナスを静かな声がさえぎった。
「何なりと」即座に背筋を伸ばして向き直ったクレドと対照的に、アグナスがおたおたと彼と教皇を結ぶ線上から身を引く。
「その小僧を捕らえよ」
人差し指を軽く立て、向けられた下知に「お望みならば」忠実な騎士は従うかと見えたが、
忠実とは言いがたいが部下であり、そして家族とも言える青年の身柄を差しだす事に
或いは逡巡があったのかも知れない。
「しかしダンテが……」「ダンテは、私が」
珍しく言い訳めいた事を口にした彼の言葉尻を肉感的な声がせき止める。
「頼まれてくれるか?」
「喜んで」
わざとのように豊かな胸を見せ付ける前屈みの姿勢で座っていた椅子から立ち上がったグロリアは
数歩進んだ所でこちらを振り返ると、「ご息災で何よりですわ」優雅な一礼をよこし、歩み去っていった。
「よろしいので?」クレドが尋ねると穏やかに教皇は応える。
「あの女が魔剣をもたらし―――神の完成に貢献したのは事実」
しかしそれでもクレドは懸念が晴れない様子だ。
その通り、円柱の影では彼曰くの「得体の知れぬ女」がいまだ彼らの様子を窺っていたが、
やがて立ち聞きをしていたにしては大胆な足取りでその場を立ち去った。
「問題があっても対処できる。素性の予想もついておるからな」
それを知ってか知らずか、薄い笑いを浮かべてそう談じた教皇は、円卓の上に置かれたクレドの手に自らの手を被せ、軽く叩いた。
「では……クレドよ。ネロと閻魔刀はお前に任せる」
「仰せのままに……」
ひと時の間、物思わしげに俯いたが直ぐにクレドは顔を上げると命令を実行するべく
大股に部屋を出て行った。
クレドが立ち去るが早いか、その背を睨みつけていたアグナスがゆっくりと教皇の耳元に顔を近づける。
「ネロはクレドの妹と親しいようです。うわ言で何度も名前を……」
ひそやかな囁きを受け、教皇は無言で片眉を跳ね上げた。
森の中、谷の上にかけられた橋を渡るネロに、巨大な蛇とも龍とも付かぬ生き物が襲い掛かる。
宙を泳ぐ大蛇は鉄板の橋を軽々と破壊しながら逃げるネロの背中に迫ったが、
すんでの所で橋を渡り終えた彼が渓谷へと続く細道に飛び込むと、天高く舞い上がって何処へともなく姿を消した。
密林の再奥部は苔むした奇妙な石柱に囲まれた広場になっており、入り口の丁度対面には割れ目から緑の光が覗く巨大な石版が聳え立っている。
放つ光の色こそ違えど、その機能は恐らく依然見たものと同じだろう。
石版を睨みつけながら広場の中ほどまで足を進めたネロの背後で、唐突に土煙と、木々のさんざめきが沸き起こり、密生した木立を割ってあの巨大な蛇が襲い掛かってくる。
咄嗟に身を避けたネロが椰子の木にも似た蛇の鱗を掴むと、大蛇は天に向けて跳ね上がった後急降下して、身をくねらせつつ猛烈な速さで樹間を縫って泳ぎだした。
振り落とそうとしてか時折茂みの中にまともに突っ込むのに耐えながら蛇の体を殴りつけるが,
一向に効果がない。通り過ぎる木の幹に顔を殴られ、あわや落下するかという刹那、
猫さながらに身を捻って蛇鱗を掴みなおし、危機を免れたネロは息をつく間もなく蛇の背に沿って
駆け出した。最初こそ少しふらついたものの、直ぐに体勢を立て直し、ハイスピードで迫ってくる枝々を次々飛び越え、文字通り蛇行しながら宙を行く蛇体をぐんぐん駆け上っていく。
急カーブを切ろうとした蛇が身を捩じらせて、丁度頭の前に来たその背に飛び移ると、ネロは大ジャンプして鎌首をもたげた横顔を殴りつけようとしたが、宙を飛来した「何か」が彼にぶつかり、叩き落とした。
「わらわの子を受け入れよ!」
女の声が叫んで、落下していく彼に向かい、更に数発が蛇の鱗の間からマシンガンの弾のように飛び出し、追いすがる。
落ちながら、それでもネロがブルーローズを掲げ、殺到する「わらわの子」
……巨大なホオズキのような朱色の木の実……を撃ち割ると、地面を削って着地した彼の頭上で絶叫が響き、蛇の頭がばっくりと四つに割れた。
グロテスクな花にも見える赤い切り口の中央から雌しべのようにその身を生やしているのは、
長い触角を持った爬虫類めいた容貌の女だ。
「わらわの子を!貴様!」
叫ぶや、一直線に突っ込んできた女大蛇をかわし、ネロはツタに覆われた石の門柱の上に飛び乗った。
「ハタ迷惑な子造りだな」
勢い余って地面に大穴を開ける衝撃もなんのその、怒り心頭の様子で長い尾を打ち振る女怪……エキドナを更に激高させる言葉を投げる。
「侮辱する気か、小僧め!八つ裂きにしてくれる!」
当然の如く更に怒り狂ったエキドナはわめきたててネロをひと呑みにするべく飛び掛かり、彼は彼女を迎い撃つべく、木の葉を散らして門柱から飛び降りた。
緑光を放つ石版を背に、ネロは無言で腕を組み、荒れ果てた遺跡に立つ土埃を眺めている。
彼に敗れた女怪がその中から飛び出して脱兎の勢いで脇をすり抜け、石版の中に逃げ込もうとしたが、
「逃げる気かよ!」やおら閃いた悪魔の腕が蛇身の尾をがっちりと捕まえてそれを阻んだ。
「人間如きに……なんたる恥辱!」
金切り声で歯噛みして、エキドナはぎゅりぎゅりと身をよじり、たまらずネロは手を放してしまう。
燐光の飛沫を放って女悪魔は石版の中に消え、「逃げるなら出てくるなよ」ぼやいたネロは
地面に落ちた彼女の置き土産……彼女の「子」である赤い木の実を拾い上げる。
「おまけにポイ捨てか?」
石版に向かって突きつけた魔の腕がまたしても勝手にそれを取り込んで、ネロは低く溜息をついて身を翻した。
ジャングルを抜けると同時に魔力の影響も抜けたのか、騎士団の本拠地である海上に突き立った白亜の塔に続く道を行くネロに向かって吹き降ろす風には、黒ずんだ枯葉が踊っている。
白い柱が見下ろす長い階段を上りきり、円状の広場に差し掛かったところでふと足を止める。
奥の入り口からこちらに向かってクレドが大股に歩を進めていた。
いつもどおりの苦い顔。なのにネロはなぜだか我知らず拳を握り締めている。
「……怒ってるのか?」
右手を隠すように体勢を変えて、冗談めかして笑いかけてみる。
相手は無言のまま、返事もしない。目の前までやってきたところで小さく息を吐き、笑みを引っ込めたネロは強い口調で問いかける。
「教えてくれよ。教団の目的は?ダンテの正体は?」
返ってきたのは「お前が知る必要はない!」それにも増して激しい声と―――叩きつけられた抜き身の剣だった。
視線は完全に逸れていたが、鞘鳴りの音が彼に危機を知らせた。
だが相手は騎士団長を名乗るほどの男である。
兜割りに振り下ろされた一撃目は反射で避けられても、飛びのいた無防備な姿勢では即座に刃を寝かせた横薙ぎの二激目は躱せない。そして、次の瞬間。
血しぶきの代わりに火花が走り、肉が裂ける音の代わりに甲高く硬い音が響く。
剣を弾き返されてよろめき、「悪魔に憑かれたか……」憎憎しげに唸るクレドを睨み返しながら、
それでもネロは彼の前から異形の右腕をコートの背に隠した。
「あんたを傷付けたくない。キリエが悲しむ」
その名を口にするときだけ僅かに目を伏せるネロの、張り詰めた囁きに
「“傷付ける”?甘く見られたものだな」
息だけで笑ったクレドは向けていた剣を下ろす。
目を閉じて腕を開き、雄叫びと共に大きく一つ身じろぎをするとその体から金色の光が湧き出して
「あんたも……」ネロは愕然と呟いた。
赤く光る目、猛禽のような鈎爪をそなえた足。頭上に不完全な輪を描く一対の角。
宙に浮かんだクレドは片翼の羽根を広げ、盾と化したもう片翼をかざして誇らしげに叫ぶ。
「神に選ばれし者のみが―――人を超え、生まれ変わるのだ。天使としてな!」
「違う……それは、悪魔だ」
見上げるネロが一歩二歩と踏み出して、低い声を震わせた。
「騎士長として―――貴様を捕らえる。教皇の御為に!」
家族同然に暮らした者の声も最早届かないのか、一方的にそう断じて剣を突きつけてくる「悪魔」……アンジェロクレドを見つめるネロの顔が一瞬だけ悲しげに曇った。
最後の力を振り絞り、盾の片翼をかざして突っ込んできたクレドをネロは悪魔の腕で受け止める。
裂帛の気合と共に渾身の力をこめて振り払うと、吹き飛ばされたクレドが石畳の上に転がった。
悪魔の右腕がまた眩い光を放っている。
それを確かめようと腕をもたげかけたネロの耳朶を「まだだ!」荒い息の下から叫ぶ声が打って、彼ははっとしてそちらに目をやった。
肩を波打たせて這いつくばっていたクレドが立ち上がろうとしていた。
が、白い羽と鱗に覆われていたその体は人間の物に戻っている。
先刻の右腕の輝きは、クレドが宿した「帰天」の力を吸い取ったものだったらしい。
「まだ終わっていない!」
叫ぶやクレドは剣を振り上げ、駆け出すと、ネロに向かって振り下ろした。
しかし、しょせんは人間の力、しかも先刻までの戦いで疲れきった体である。
あっさりと受け止められてクレドは再び吹き飛ばされ、地面に大の字になった。
陰鬱な表情で右手を眺め、小さく首を振ってネロはゆっくりとクレドの元に歩み寄る。
「強い……」力尽きたクレドには上がった息を弾ませながら肘だけで後ずさることしか出来ない。
あぎとのように開かれた異形の腕、それをなすすべも無く睨むだけのクレドとネロの距離がしだいに縮まり、そして……唐突に、悲鳴が響いた。
弾かれたようにネロは背後を振り返る。
どうあってもここにいるはずのない人間。誰よりも、何よりもこの場にいて欲しくない人間がそこにいた。
「キリエ……」
キリエの視線が落ちる。驚きと悲しみに満ちた目が悪魔の右手を見つめている。
慌ててネロはそれを背中に隠した。
キリエの視線がネロの背後に移る。咎めるような視線を追って振り向くと、彼女の兄が立ち上がることさえできず満身創痍で呻いている。
「これは……違うんだ……」
息を詰まらせながらする言い訳は、何一つ効をなさないようだった。
「なぜ、こんな事を……」
胸の前に組んだ両手を握り締め、キリエは何度も首を振りながらネロから後ずさっていく。
まるで……まるで、彼が悪魔にでも変わったみたいに。
握り締めた彼女の両手は、彼があげたばかりのペンダントを包んでいるのに。
思い余って駈け寄ろうとしたとき、誰かが擦り寄るようにしてキリエの脇に寄り添った。
「私が言ったとおりだろう?」
アグナスは鼻で笑うと、射殺しそうな目で睨むネロを悪魔が変じた剣で指し、
「ネロは悪魔だ」キリエの耳元に顔を寄せて囁いた。
「クソ―――」
逆鱗に触れる真似をしたのは誰なのか。
悟った彼は声を荒げて掴みかかろうとしたが、アグナスは彼に剣を突きつけたままキリエの背中に隠れ、
「ネロ……」泣き出しそうなキリエの声が文字通り彼に対する盾になる。
「安心しろ。殺しはしない」
相変わらずその耳元で囁きつつキリエの肩に小指を立てた手を置いて「……今はな」アグナスはネロに向けていた剣を手元にひきつけた。
突然向けられた刃に息を呑むキリエを見て、ネロは奥歯を噛み締める。
ありありと殺気立った様子にアグナスが今更ながらの疑問を投げた。
「それにしても―――そんなにこの女が大事か?」
「彼女は関係ない!放せ!」「アグナス!」
「この女が大事」なのはネロだけではない。
やっとの事で立ち上がったクレドが足を引きずりながらやって来て
「何のつもりだ!これは私が賜った任務、下がれ」
当然の抗議を投げたが、アグナスは今までの溜飲を晴らすつもりか錦の御旗とばかりその言葉尻に
「これは教皇の御命令なのだ。貴様の妹を利用せよ、とね」
とおっかぶせた。
クレドが唖然として目を見開き、ネロは怒りに体を震わせる。
「何!?」
駆け寄ろうとしたクレドの腕をとっさにネロが掴んで止めたが、遅かった。
眩い光と衝撃波が放たれ、弾き飛ばされたクレドは床を滑り、
何とか耐えたネロが覆った腕を顔の前からのけた時、そこにアグナスはいなかった。
羽音に振り仰ぐと既に悪魔に身を変じたアンジェロアグナスが気を失ったキリエの襟首を掴んで中天に浮かんでいる。
「女を助けたいなら追って来い。急がねば命の保障はせんよ」
そう言い捨てて高笑いすると、アグナスは毒々しい燐粉を振りまいて飛び去った。
「教皇が―――キリエを……?」
ぼんやりと呟く声を背後に聞いてネロはコートの裾を翻して振り返った。
「奴はどこへ……本部か!?」
愕然と座り込んでいるクレドを引っ掴んで引きずり起し、噛みつかんばかりにして問いかける。
「たぶんな」
よろよろと起き上がり、クレドはふらつきながら後ずさる。
「ネロ。勝負は預ける。真相を確かめねば」
弱弱しい光が明滅して、クレドもまた悪魔に変わり、白い羽根を散らして飛んでいく。
その行先を見上げるネロの右の拳は、いつしか硬く握り締められていた。