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48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月)20:09:23ID:SOa1FYot0
それじゃあ今から歪みの国のアリス投下します
できたら本当は一章ずついきたいところだけど
一章が他の章の倍以上の長さあるから、一章は三回にわけて投下します
本来は分岐選択式なので、細かい話は変わってくるけれど話の大筋は変わらないので
そこの所はよろしくお願いします



49 :歪みの国のアリス:2006/09/04(月)20:10:26ID:SOa1FYot0
第一章「終わらない放課後」


主人公の葛木亜莉子(カツラギアリコ)は、親友の雪乃と高校の自習室でテスト勉強をしていた。
が、いつに間にか亜莉子は眠ってしまっていたらしく、ようやく目が覚めた時には外からはオレンジ色の夕日が自習室の中を照らす時間になってしまっていた。
現実と夢の境界線がはっきりとしないまま、亜莉子が顔を上げると彼女の目の前には大きな口が浮かんでいた。鋭い歯が剥き出しになっているそれは、ニンマリと月の形を描いている。
赤ずきんに出てくる狼の口を思い出させるような大きな口だ。
それが灰色のフードの中から、ただひとつぽっかりと不気味に覗いて見える。
奇妙な格好をした、不審者にしか見えないような人物が亜莉子の目の前の机の上に座り込んでいた。
驚いた亜莉子は思わず反射的に体を引いて、そしてある事実に気付いた。
自習室には誰も居ない。本来居るはずの人間も、親友の雪乃も。
ただ、目の前に居る大きな口だけが見える不気味な人物と二人きりだ。
いったい、雪乃は何処へ行ったんだろう。亜莉子がそんな事を考えていると、
不意に目の前のそれが、ユキノはいないよ、とそう呟いた。声は低く、どうやら男なのだろうとうかがえる。
とにかく不審な人物であることに間違いはないので、亜莉子は先生にこの事を知らせないといけないと思い、
恐る恐る立ち上がり自習室の扉から外へ出ようとした。
が、好奇心に似た恐怖からか、扉を開ける瞬間に後ろを振り返ってしまう。
そこには、さっきまで机に上に座っていたはずの男がいつの間にかぴったりと体を近くまで寄せて
立っていた。
亜莉子は驚いて、思わず腰を抜かしてしまう。

50 :歪みの国のアリス:2006/09/04(月)20:12:18ID:SOa1FYot0
あなたは誰ですか、私に何か御用ですかと怯えながら尋ねる亜莉子を見下ろしながら、
男は自分はチェシャ猫だと名乗った。そして続けて、
「さあアリス、シロウサギを追いかけよう」
何の脈絡もなしにそう言った。先程から見えるのは大きな口だけで、表情は読みとれない。
突然ウサギを追いかけよう、などと言われても亜莉子の頭は混乱するばかりだ。
そもそも、自分の名前はアリスではなく亜莉子。
そして、亜莉子はこのチェシャ猫という怪しい男は人違いをしているんじゃないだろうかという考えに辿り着いた。それなら話が通らないのも理解できる。
そこで亜莉子は、自分がアリスではないとチェシャ猫に説明した。
しかしチェシャ猫は、ぼくらはアリスを間違わない、君はアリスだと言うばかりだ。
そこで亜莉子も必死になって、自分は日本人だし英語は出来ないしとにかくアリスではない、と叫ぶ。
それを聞くとチェシャ猫は黙り込んでしまった。
ようやく納得してくれたかと亜莉子がほっとするのも束の間、チェシャ猫は変わらずにんまり笑ってこう言った。
「さあアリス、シロウサギを追いかけよう」
駄目だ、全く人の話を聞いていないと肩を落とす亜莉子に向けて、すうっとチェシャ猫の手が伸びてきた。
恐怖を感じた亜莉子は、とっさに扉を開けて自習室の外へ飛び出す。
が、飛び出すと同時に足が止まった。
廊下に、果てが無いのだ。学校の廊下は長く長く、先が見えない位に遠くへと延びている。
おまけに階段までなくなっている。あるのは白い壁だけだ。
異様な光景に唖然として立ち尽くしていると、どうかしたかいアリス、とチェシャ猫の声が聞こえた。
亜莉子はなんでもないです、と叫ぶとその声から逃げるように果ての無い廊下を勢いよく駆けだした。
自習室の扉がだいぶ小さく見えるようになるまで走って、亜莉子はそこでようやく足を止めた。
チェシャ猫は追いかけてくる訳でもなく、ただその場に立っている。
それを確認してから、戻る訳にもいかない亜莉子はまた果ての無い廊下を歩きだした。
途中で大声を上げてみても誰からも返事は返ってこない。
窓からは街が見下ろせるが、街にも人の姿は見当たらない。車も自転車も通らなかった。
左には教室が並んでいるが、クラス番号が書いてあるはずのプレートには何も書かれていない。
わらにも縋る思いで、ひとつひとつ教室を確かめていく。
そして、いくつ目かの教室のドアを開けた時、亜莉子はふと足を止めた。
教室の真ん中で、ぽつりと佇む後ろ姿。人を見つけ、亜莉子は嬉しくなって駆け寄ろうとした。
しかし、次の瞬間再びその歩みは止まり、亜莉子は目を見開いた。

51 :歪みの国のアリス:2006/09/04(月)20:13:35ID:SOa1FYot0

白いワイシャツとスラックス姿は、ぱっと見はまるでサラリーマンのようにも見える。
しかし、その頭からは二本の白い耳が伸びていた。
ウサギの着ぐるみだろうか、と亜莉子は一瞬思ったが、それにしてはよく出来すぎている。
おそるおそる正面に回って、そして亜莉子ははっと息を飲んだ。
ふかふかの白い毛に覆われた白い毛に覆われた顔や手、前に突き出た赤い鼻。
これは決して着ぐるみなんかではないと、一目で理解できる。
しかしそれ以上に亜莉子を驚かせたのが、その右手だった。
ウサギの右手は、べっとりと、赤い血で染まっていた。
同様に、赤く濡れた胸には人形が抱かれている。人間の赤ちゃんほどの大きさの人形だ。
しかしそれには手も、足も、頭もない。そんな胴体だけの人形を、ウサギは大事そうに抱いていた。
そして、あやすような歌声が聞こえてきた。

ウデ ウデ ウデ♪ ウデはどこだろ♪
ウデがなくっちゃ♪ 僕にふれてもらえない♪

亜莉子は、ウサギの腕から滴り落ちる血の雫から目が離せないでいた。
新鮮な血だ。ウサギのものでなければ、まるでつい今しがた、誰かを殺してきたような。
そんな事を考えていると、不意に歌声が止んで、代わりに呟く声が聞こえた。

「足 り な い な あ」

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月)20:17:53ID:SOa1FYot0
とりあえず今日はここまでです
一章の三分の一くらい結構打ったのに、思ったより短かった・・・
一章終わったら、次からは章ごとに投下しますね

98 :歪みの国のアリス:2006/09/05(火)21:02:08ID:cena55qY0
第一章「終わらない放課後」その二


ウサギの視線はずっと人形に向いている。亜莉子には気付いていないように見える。
いや、そもそも亜莉子の存在に気付いてすらいないのかもしれない。
だめだめ、足りない。
急がなきゃ、そう言ってウサギはふらりと歩き出した。
透けたウサギは机や椅子をすり抜けていく。
そして扉をすり抜ける瞬間、亜莉子の耳に微かにウサギの声が届いた。
アリス、とそう呼ぶ声を。
ウサギが消えた後、亜莉子は呆然と立ち尽くしていた。
さっきからずっと、おかしな事ばかり起きて何がどうなっているのか、頭が追いつかない。
ふと、ウサギがさっきまで立っていた場所を見るとそこには鮮やかな血だまりが出来ていた。
そこからぽつりぽつりと、血の跡が扉の方へと続いている。そして、長い長い廊下へと。
亜莉子は鮮やかなその色に誘われるように、血の跡を追って歩いていった。

どこまでもどこまでも、もうどれ位歩いたのかわからなくなる位、亜莉子は廊下を歩いた。
既に恐怖心よりも、疲れの方が上回っている。
それでも歩き続けることしか出来ない亜莉子は歩き続け、そしてようやく視界に廊下の端が映った。
ずっと変わり映えのなかった景色に現れた変化に亜莉子は喜び、重かった足取りも軽くなる。
しかしある程度近付いてみてから、ひどく亜莉子は落胆した。
近付けば近付くほど、長い廊下の端はただの壁に見える。行き止まり、だ。
ここまで来て、と亜莉子は肩を落とす。
しかし近付いて壁をよく見ると、壁には小さな扉がひとつ付いていた。
高さは20センチくらいだろうか。小さいのに、細部までよく作られている。
指でドアをつまんでひねると、ドアはカチャリと開いた。
亜莉子がドアの向こうを見ようと覗き込むと、向こうにはこちらと同じような廊下が広がっている。
しかし、ひとつだけこちらには無い物があった。階段だ。
亜莉子はこのドアの向こうに行けば階段から外に出られるかもしれない、と嬉しくなって、そしてすぐに泣きたくなった。
こんな小さなドアでは、とても向こうに行く事なんか出来やしない。
ドアを壊せても、周りの壁を壊す事は不可能だろう。
亜莉子はいよいよ、映画のようにカーテンでロープを作って四階の窓から外に出る、という最終手段を考えついた。
自分の運動神経にやや不安があったが、最早これしか脱出方法はないらしい。
そうして亜莉子は、一番近くの教室にカーテンを取りに入った。

99 :歪みの国のアリス:2006/09/05(火)21:03:27ID:cena55qY0
教室に入った瞬間亜莉子の目に付いたのは、ピンクのペーパーフラワーや、色とりどりの折り紙で作られた鎖だった。
この教室だけ雰囲気が明らかに違う。まるで小学校のお別れ会やお誕生会のようだ。
黒板にはチョークで、色々な絵が描かれている。
その中でも目を惹くのは、その中央に光る、赤く濡れた字。
            
お か え り
僕 ら の ア リ ス

まるでたった今書かれたかのように、それは赤く光る。
アリス、と亜莉子は小さく呟いた。
なんだか今日はよく聞く名前だ。でも、自分とは関係ない。
視線をそらすと、黒板手前の教壇の上に、少し大きめのバスケットが置いてあるのに亜莉子は気付いた。
近寄って見ると、バスケットの上には
【 私を食べて 】
と書かれた紙が置いてある。
バスケットと言えば、サンドイッチやクッキーなんかが入っているものだ。
何気なく、亜莉子はそのバスケットの蓋に手を掛けた。
中に入っていたのは、サンドイッチでも、クッキーでもなかった。
甘い甘いレモネードでもなかった。
亜莉子はバスケットを置いて、その場から逃げるように走り出した。
バスケットの中に入っていたのは、肘から切断された人間の腕だった。


100 :歪みの国のアリス:2006/09/05(火)21:04:07ID:cena55qY0
息が切れるまで走って、亜莉子はへたり込むように廊下に崩れ落ちた。
子供のような大きさの腕だった。
思い出すだけで吐き気が込み上げてきて、亜莉子は口を押さえる。
そうして床にうずくまっていると、廊下は走らないんだよ、と突然声が誰もいない廊下に響いた。
亜莉子は驚いて声が聞こえた方に振り返る。
そして見上げると、廊下の掃除用具の上に人がうずくまっているのに気付いた。
灰色のフード。大きく、にんまりと吊り上がった口。
自習室で会った、チェシャ猫だ。
その光景があまりにも怪しいものだから、怖がるより先に逆に亜莉子の力はすっかり抜けてしまった。
そんな所で何をしているんですか、と訊ねるとチェシャ猫は掃除用具入れの上からするりと飛び降りてきた。
逃げようかとも思ったが、結局逃げてもこの状況ではどうすることも出来ない。
亜莉子はチェシャ猫に、どうして廊下が伸びているのか、どうして誰も居ないのか。どうしてこんな事になっているのかを訊ねた。
しかし、チェシャ猫はにんまりと笑うだけで何も答えない。段々と苛立ちばかりが募っていく。
帰りたい。なのにやっと見つけたドアは小さくて通れない。どうしろっていうの!
自棄になった亜莉子が叫ぶと、そこでようやくチェシャ猫は反応を見せた。
小さいドアを通りたいんだね、と呟いた後、おいで、と言ってチェシャ猫は亜莉子に背中を向けて歩き出した。
ついていって良いものかと亜莉子は悩んだが、ひとりこの場所に置いていかれるのも怖くて結局後をついていくことにした。
しかし、無言で歩いているとどうしても目の前の男の異様な雰囲気に不安を覚えてしまう。
そこで亜莉子は少しでも気を紛らわせるために、色々な考え事をしながら歩いた。
そうしている内に、チェシャ猫が突然立ち止まる。あの、腕のあった教室の前だった。
中へ入ろうとするチェシャ猫の腕を、亜莉子は必死で引っ張って止めようとする。そこには人間の腕があるんです、と声を上げた。
それでもチェシャ猫は大丈夫だよアリス、と亜莉子の制止を聞かず教室の中へと入っていってしまった。
亜莉子はその後は追わず、教室に黙って背を向けた。
先程の光景を思い出しただけで吐き気がするのだ。もう一度あの光景を見ろ、と言われても無理な話だ。
教室から離れようと思い、亜莉子が足を踏み出そうとすると突然腕を掴まれた。チェシャ猫だ。
そして亜莉子の目の前に、この教室にあったものだろう、血に濡れた人間の腕を突き出してきた。
目と鼻の先にあるそれに亜莉子は吐き気を覚え、その場にうずくまった。涙がにじみ、胃液が逆流しそうになる。
吐く、そう思った瞬間にぽん、と亜莉子の背中にチェシャ猫の手が置かれた。
その手が熱を帯びたような気がして、それと同時にふっと吐き気は消え失せた。
不思議だと思いながらも亜莉子は床に顔を付けたまま、それを隠せとわめいた。吐き気は消えても腕は消えない。

「お食べ」

唐突にチェシャ猫の口から零れた言葉に、亜莉子は思わずはい?と顔を上げてしまった。
そして突きつけられる、切断面から赤い汁のしたたる青白い腕。
チェシャ猫は再びお食べ、と笑いながら腕を突きつけた。
くらり、と今度はめまいが亜莉子を襲う。

101 :歪みの国のアリス:2006/09/05(火)21:04:50ID:cena55qY0
この場から逃げなければいけない、そう思っても足が震えて力が入らない亜莉子は、さあ、と腕を突きつけてくるチェシャ猫に向かって恐怖を叫ぶことと、必死で目を瞑り相手を叩いて抵抗することしか出来なかった。
何考えてるの、人間の腕を食べるなんて!そう亜莉子が叫んだ時、チェシャ猫は言った。
ニンゲンじゃないよ、パンの腕だよ、と。
その言葉に亜莉子は思わずチェシャ猫を叩いていた手を止め、おそるおそる目を開けた。
ふっくりとした腕の関節にはしわがあり、手相もある。指先には爪もしっかりとある。相変わらずしっかりと赤い雫も滴っている。
どこからどう見ても、やはりそれは人間の腕だった。
が、亜莉子はその腕におかしな所を見つけて首を傾げる。腕の断面には、骨が無かった。中は小さな気泡がぎっしり詰まっている。
ただひたすらに赤い液体には黒いつぶつぶが混じっている。血ではなくて、それはジャムだった。
そこでようやくそれが本当にパンだということを亜莉子は理解した。
それでも、こんな気味の悪い物はとてもじゃないが食べられない。
亜莉子がパンを食べるのを嫌がるとチェシャ猫は腕のパンをちぎり、むりやり亜莉子の口に詰め込み、そして片手で鼻と口を塞いだ。
呼吸が出来なくなり苦しくなった亜莉子は、ついに腕のパンを飲み込んでしまう。
亜莉子がパンを飲み込んでしまったのを確認した後、チェシャ猫は腕を放した。
すると突然亜莉子の視界はぐるぐると回りはじめ、いつの間にか視界がまっくらになっていた。意識はきちんとある。
上から布のようなもので押さえつけられている感覚がして、そしてそれ以上に体に亜莉子は違和感を感じた。
亜莉子は何故か、服を着ていなかった。
思わず叫び、チェシャ猫の声が頭上から聞こえるとそのまま目を瞑るように叫び、亜莉子はどうしてこういう状況になったのかチェシャ猫に説明を求めた。
チェシャ猫が言うには、先程ストロベリーパンを食べたせいで体が縮んだということ。
あれを食べると、どういう仕組みかは解らないがとにかく体が縮むらしい。きちんとした説明は得られなかった。
服は消えたのではなく、亜莉子の体が縮んだせいでサイズが合わなくなってしまったのだ。
仕方なく亜莉子は、すっかり大きくなった自分の服のセーラー服の中からスカーフを物色し、体に巻き付けた。
どうして私がこんな目に遭わないといけないんだろう、そう考えながら亜莉子はすっかり巨大になったチェシャ猫の背中を眺めた。
元はと言えば、この異変が始まったのもチェシャ猫に会ってからだった。そう考えて、再び不安が亜莉子を襲う。
この人と一緒にいると、きっとこれからもよくない事ばかり起こるんじゃないか。後ろを向いている今の内に、逃げた方がいいのではないか。
小さかった扉も、今の亜莉子には普通の大きさの扉に見える。亜莉子にだけは通れるサイズだ。
逃げ出すには今しかない。向こう側に行けば、階段もある。このおかしな学校の外に出られるかもしれない。
今の体には大きなバスタオル程もある大きさのスカーフの裾をたくし上げて、亜莉子は扉に手をかけた。

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火)21:12:05ID:cena55qY0
歪みの国、今日はここまでです。次でやっと一章が終わります
アリスが小さくなるまでの過程は話上あまり省けないので、長くなってしまいました
これ以降はあまり関係ない部分は簡単に書いていこうと思います



113 :歪みの国のアリス:2006/09/06(水)21:53:47ID:15eM2B/T0
第一章「終わらない放課後・三」


亜莉子は扉の向こう側へ抜けると、そのまま扉を背にしてずるずると座り込んだ。
チェシャ猫が怖くてこうして逃げてきたものの、こんな小さな体では階段を移動するのも一苦労だろう。
これからどうしよう、そうぼんやりと思いながら亜莉子が目を瞑った時だった。
どうしましたあ、お嬢さん? 何泣いてるんですかあ?
そんな間の延びた声が聞こえてきて、亜莉子が再び顔を上げるとそこにクマのような動物がいた。
せっかく不気味なチェシャ猫から逃げてきたのに、このままじゃこのクマに食べられてしまうんじゃないか。
亜莉子はぶるぶると震えながら、あなたは誰ですか、クマなんですかと訊ねた。
すると目の前の動物は、ぶるぶると激しく首を横に振りながら僕はハリネズミですと答えた。
細く突き出た鼻先、黒くつぶらな瞳、ごましおの固そうな体。エプロンを一枚、腹にかけている。
なるほど、言われてみればそれはハリネズミだった。取りあえず亜莉子はほっと胸を撫で下ろす。
しかしなぜ学校にハリネズミが居るのか、なぜハリネズミが日本語を話せるのか。
亜莉子は不思議に思ってハリネズミに訊ねてみたが、やはり聞かれたハリネズミ本人が悩み始めてしまったので、結局質問は打ち切った。
そして今度は逆に、亜莉子がハリネズミから質問を受ける。
なぜかハリネズミは亜莉子に至近距離まで顔を近付けてくるため、少しずつ後ずさりながら話をした。
あのー、お嬢さんひょっとして。アリスじゃないですかあ?
突然ハリネズミの口から出た、耳がうんざりする程に聞いた名前を亜莉子は全力で否定した。
するとハリネズミが、アリスじゃないんですか・・・と見ている方が可哀想になるくらいに落ち込んでしまったので、亜莉子はなんだか申し訳ない気分になってしまった。
自分はアリスではないが、チェシャ猫という人にはアリスに間違えられた。
亜莉子がそう言った瞬間にハリネズミは突然勢いよく顔を上げ、僕らのアリス、お帰りなさい!と嬉しそうに声を上げ亜莉子に抱きついた。
自分はアリスではない、と必死で説明しても最早ハリネズミは人の話を聞いていなかった。
僕は若いからアリスに会ったことはなかったんです、会えるなんて感激ですとひとり熱く語り始める。
そして、うちにはアリスの服があるからぜひうちの店に来てほしいと力強く亜莉子の手を引っ張った。
私はお金を持っていないから、と亜莉子が困り顔をすると、お金なんて要らないからと亜莉子はそのまま半ば強制的にハリネズミに連れ去られてしまった。

114 :歪みの国のアリス:2006/09/06(水)21:54:42ID:15eM2B/T0
亜莉子がハリネズミに連れられてやってきたのは、一階のとある教室だった。
ここって被服室じゃない?と亜莉子が訊ねると、いいえここは仕立て屋ですよおとハリネズミが扉を指さした。
四階にあったのと同じ小さな扉のすぐ脇に、

『したてや・服お作りしマス』

という看板が立っていた。そしてハリネズミに促されて、亜莉子は中へ足を運ぶ。
被服室の中は大小さまざまな洋服がばらばらに吊され、作業机には床からハシゴが掛けられていた。
ハリネズミに続いてハシゴを登りきった途端、威勢のいい声が飛んできて亜莉子は首をすくめる。
机に広げられた生地に型紙がついていて、その布の前で男が仁王立ちになっていた。
男は顔も体も大量の絆創膏に埋め尽くされていた。その手には何本も、巨大なまち針を握っている。
チェシャ猫、ハリネズミに続いて今度は絆創膏男か、と亜莉子は軽く頭を押さえる。
絆創膏男はハリネズミの親方らしく、ハリネズミがなかなか戻って来なかったことにぶつぶつと文句を言いながら、ハリネズミから針を引き抜くと型紙を布に縫い止めていった。
それからようやく亜莉子の姿に気が付くと、嬢ちゃん誰だと亜莉子の方に顔を向けた。
そうです親方!とハリネズミが飛び跳ねるとハリネズミの針がぶっすりと親方の手に刺さる。
親方の体中が絆創膏だらけなのは、こういう訳らしい。
ハリネズミを怒鳴りながらも、ハリネズミが亜莉子を指しこちらアリスなんですよお、と意気揚々と言うと親方は突然ふらりとよろめき、そして叫んだ。
お帰りッ、俺たちのアリスーーー!!
そう叫びながら、絆創膏まみれの親方は両手を広げ亜莉子に向かって突進してきた。
亜莉子は驚き、思わず、ひょいと横に避けてしまった。
そして親方は、勢い余って机から床へと華麗にダイブした。

115 :歪みの国のアリス:2006/09/06(水)21:55:19ID:15eM2B/T0

必死で謝る亜莉子を親方は気前よく笑って許してくれた。
それから、アリスの服を取ってくるから待っててくれよと、ハリネズミを連れて準備室へと姿を消した。
あまりにも歓迎されてしまったため、今更アリスではないとは言いづらかった。
それからしばらくして二人は大きな白い箱を運び出してきた。
今の亜莉子から見て、敷き布団ふたつくらいの箱だ。
蓋を開けると中にはシックな赤色の服と、白い布と黒い靴が入っていた。
どうやら子供服サイズのようだがどれも今の亜莉子には大きすぎる。
絶対大きいってば、という亜莉子の主張はきれいに聞き流されそれらは試着室へと運ばれた。
試着室へ押し込まれ、亜莉子は困り顔で大きな服を見つめた。
こうして見ると三、四歳くらいの子ならちょうどよさそうな大きさのかわいいワンピースだ。
袖だけで体がすっぽり入りそうなそれに冗談で袖を通す。
するとぶかぶかだった袖がひゅっと縮まり、亜莉子の腕にフィットした。
驚きながらも亜莉子は服を着てみると、次々に服は縮み最終的にはサイズはぴったりになった。
箱の中からは下着も出てきて、苦笑いしつつも亜莉子は用意された服を身に着けた。
鏡を見ると、緋色のエプロンドレス姿が映った。服というよりは衣装に近い。
試着室の外に出ると、親方もハリネズミもうっとりしながら、とてもよく似合うと亜莉子を誉めてくれた。
それであの、お代の方は、と亜莉子はおずおずと聞いた。
ハリネズミは代金なんか要らないと言っていたが、生地も仕立てもしっかりしていて普通に買えばそれなりの値段がしそうな洋服だった。
お代なんかいいんですよう!なぜか口ごもる親方を押しのけてハリネズミが前に出てくる。
お代はいいんですけどォ、その代わり・・・そう言って小さな手をすり合わせる。
その代わり、一本もらえたらなって思って。ハリネズミは言った。
亜莉子は今、何も持っていない。そう言うとハリネズミはやだなあ持ってるじゃないですかとはしゃいだ。
持ってるものならいいけど、何を一本欲しいの?
亜莉子が訊ねると、ハリネズミはにこやかに笑う。

「腕、一本ください」

二本もあるんだから一本くらい、いいでしょう?
呆然とする亜莉子の右腕を掴んで、ハリネズミは言った。


116 :歪みの国のアリス:2006/09/06(水)21:56:52ID:15eM2B/T0

アリスの肉は甘くてとろける、この世にひとつの極上の肉。
親方とハリネズミの目はらんらんと輝き、それが冗談ではないことを示していた。
この場から逃げだそうとした亜莉子の体を親方が床に引き倒す。
大丈夫ですよおアリス、すぐ済みますから。
その言葉と同時に亜莉子の頭上でシャキン、と軽やかな音がした。
ハリネズミが、巨大な断裁バサミを構えている。その刃を、亜莉子の肩口に当てた。
亜莉子は思わず気を失いそうになるが、ここで気を失ってしまったら、次に目覚めた時は腕が無いだろう。
亜莉子は目をつむって、思いきり、めちゃくちゃに暴れた。
すると、ぐえっ!ぎゃあっ!と悲痛な声が響く。
うめき声は亜莉子の膝蹴りが腹に入った親方のものだ。すると、もうひとつの悲鳴は?
亜莉子がおそるおそる目を開けると、ハリネズミがハサミを構えたまま固まっていた。
その頭には、親方が持っていたまち針がぷっすりと刺さっている。亜莉子の膝蹴りが入った時にうっかり刺さってしまったらしい。
みるみる内にハリネズミの瞳が潤んでいく。親方が慌ててなだめようとするが、ハリネズミはぶるぶると震えだし、ついに体中のトゲがしゃきんと逆立った。嫌な予感が亜莉子の脳裏をよぎった。
親方は脱兎のごとく逃げだし、ハリネズミはぶるぶる震えたまま。亜莉子は未だショックで立ち上がれない。
そして亜莉子の予想通り、盛大な鳴き声と同時に全身の針が放たれた。
亜莉子はとっさに目をつむり、腕で顔をかばう。が、なぜか体も腕もちくりとも痛まなかった。
おそるおそる亜莉子が目を開けると、そこには全身串刺しで血まみれになった親方の姿があった。
もしかして、私をかばってくれたのかな。
亜莉子は一瞬そう思ったが、しかしそうではないことがすぐに判った。親方の足はぷらぷらと宙に浮いている。
親方の頭は指につまみあげられていて、その後ろには巨大なチェシャ猫のにんまり顔があった。
盾として利用した親方をぽいと投げ捨てると、親方は全身から血を流しながらわなわなと震えた。
そして、いつの間にか我に返っていた、逃げだそうとするハリネズミを怒鳴りながら追いかけていった。
亜莉子はチェシャ猫とふたり、机の上に残される。

「さあアリス、シロウサギを追いかけよう」

やだ、追いかけないと亜莉子がそっぽを向くとチェシャ猫はぐるぐる喉を鳴らした。
皆、アリスが好きだからね。ひとりでいると――食われるよ。
それは嫌だった。食材として、好かれたくなんかはない。
一緒に行く、と亜莉子は素早く前言を撤回する。
いい子だねアリス、とチェシャ猫は満足そうに頷いた。
アリスじゃないんだけどな・・・と亜莉子は呟くが、やはりその呟きはきれいにスルーされた。
チェシャ猫は確かに気味は悪いが、亜莉子を助けてくれたのだ、誰かに食べられる危険がある場所をひとりでうろつくよりはずっとよかった。
亜莉子がふと上を見上げると、チェシャ猫の大きな口が視界に映る。
今にもぱっくりと開いて、亜莉子を飲み込んでしまいそうだ。
私はおいしくないよ、だから食べないでと亜莉子が言うと、僕はアリスを食べないよとチェシャ猫は相変わらずのにんまり顔を見せた。やはり、灰色のフードに隠れて目は見えない。

「おいしそうだけどね」

チェシャ猫は亜莉子を掌の上に拾い上げる。やっぱり油断ならない、と亜莉子は思った。




第二章、狂騒のホテル・ブランリエーブルへ続く

124 :歪みの国のアリス 第二章-1:2007/03/02(金) 15:43:59 ID:EpALPD200
第二章「狂騒のホテル・ブランリエーブル」


親方とハリネズミからシロウサギを見かけたという場所を聞き出し学校を出た亜莉子は
チェシャ猫の肩に乗せられて駅前のホテルへと向かっていた。学校の状況から予想できた事だったが、
やはり街中も無人だった。店には商品が並び、車は信号を待っているが、人だけがいない。
普段の風景から人間の存在だけが抜け落ちたように。
考えてみれば口裂け男と小人娘という異色のコンビなんだし、人がいない方がむしろ都合がいいかもしれない、
と亜莉子が事態を前向きにとらえ始めたところで、二人は目的地のホテル・ブランリエーブルに着いた。
ホテルのロビーももちろん無人だった。どうしたものかと考え始めた矢先、
奥のほうから激しい物音がした。間違いなく何かが割れた音。
亜莉子は音のしたほうを見やった後思わずチェシャ猫の顔を見上げたが、そこにあるのは相変わらずの笑い顔だ。

音のしたほうに進むと「イナバ」というレストランがあった。
中に入った亜莉子は、いくつかのテーブルを寄せ集めてできた巨大なテーブルの傍らにいる謎の巨大物体に遭遇する。
何故謎かと言うと大きすぎて視界に入りきらないからだ。
チェシャ猫がレストランの端っこまで下がってようやく認識できたそれは、頭が天井に届きそうなくらい巨大な女性だった。
彼女はテーブルに並べられたご馳走を猛然と口に運んでいる。
誰なのと問うとチェシャ猫が公爵夫人だよと答えてくれた。どうやら知り合いらしい。
公爵夫人にしてはエレガントさの欠片も無いが、身に付けている物は確かに高価そうではある。
と観察している間にも食事は進み、夫人は食事を皿ごと全て食べてしまった。尋常でない咀嚼音が辺りに響く。
口を切らないのかと思う亜莉子だが、チェシャ猫いわく公爵夫人だから大丈夫との事。
夫人は食事の消えたテーブルをしばし見つめていたが、すぐに次の料理を催促するように卓上のベルを打ち鳴らし始めた。
奥の厨房から飛び出てきた給仕を見て亜莉子は目を丸くした。
格好こそ立派なレストランのサービスマンだったが、中身はカエルだったからだ。
何匹ものカエルがせわしなく動き、テーブルの上はまた料理で埋め尽くされた。夫人は早速新しい料理に飛びついていく。
夫人の異様さに目を奪われていたが、夫人とテーブルを挟んだ向かい側にも人がいた。突っ伏してピクリとも動かない。
さて、どうしたものか。少し考えて、取り敢えずカエルにシロウサギの事を聞いてみようと二人は厨房へ向かった。


125 :歪みの国のアリス 第二章-2:2007/03/02(金) 15:46:13 ID:EpALPD200
厨房の中は異様な有様だった。そこらかしこにカエル達が累々と倒れ横たわっている。
唯一元気なのは、一番奥にいるエプロンと三角巾をつけた女だけだ。左手で鍋をかき回し、
右手でまな板の上の魚を叩き切りながらけたたましく笑い続けている。話を聞くどころか是非近づきたくない雰囲気だ。
亜莉子がどうするかと考えていると、チェシャ猫の足元に一匹のカエルがずりずりと這い寄って来た。
チェシャ猫が亜莉子を調理台の上に移すと、カエルはか細い声で助けを求め、チェシャ猫のローブの端をつかみ
それを頼りに顔を上げた。焦点の合わない目がチェシャ猫の笑い顔を捉えると、
カエルは驚いた声を出して首を回し亜莉子の方を見た。途端にカエルは跳び上がり、大声でアリスの名を叫んだ。
その声でそこら中で倒れていたカエルが全員蘇生した。彼等は歓喜の声を上げながら調理台の上に飛び乗ってきた。
お帰り!僕らのアリス!そう叫びながらカエル達は亜莉子のほうへダイブする。チェシャ猫が横から亜莉子をつまみあげなかったら
確実にカエルの山に埋もれていただろう。恨めしげなカエルの声をスルーし惨状の原因を尋ねると、カエル達は口々に喚き始めた。
それによると、以前この店で公爵と公爵夫人の結婚祝賀パーティーがあり、そこでこの店の料理を気に入った夫人が
いつまでも満腹にならずに食べ続けている結果この有様らしい。
何故満腹にならないのかと言う亜莉子の疑問は彼女が公爵夫人だからという謎の理由で片付けられた。
料理を出さなければいいんじゃない?と言った亜莉子にカエルはニッコリ笑いながら返した。

「アリス?地獄、御覧になりたいですか」

思わず謝ってしまった亜莉子にカエル達は訴えた。このままでは僕らも公爵様も死んでしまう、どうにかして夫人を止めて欲しい、と。
公爵とはテーブルの向かいに突っ伏していた人の事のようだ。
カエルの懇願に狼狽した亜莉子は、自分はシロウサギを探しているだけだと咄嗟に言ってしまうが、それを聞くとカエルたちは顔を見合わせた。
せっかく戻ったんだ、シロウサギなんか探してはダメだ、アリスはずっと・・・と口々に言い始めたカエル達だったが、
チェシャ猫の顔を見た途端みんな顔を引きつらせて黙ってしまった。チェシャ猫がどうかした?と尋ねる亜莉子に、
シロウサギなら公爵が見たと言っていた、夫人を止めれば公爵も喜んで協力するだろうと一匹のカエルが強引に話をそらす。
その時耳をつんざくベルの音が鳴り響いた。カエル達は一瞬凍りついたが、料理を運ぶべくふらつきながらも走り出した。
中には料理を運べずひっくり返ってしまうカエルもいる。まさに地獄絵図。
放っておける状況でもないし、シロウサギの事もあるからやるしかないかな?と亜莉子が言うとチェシャ猫は変わらぬ調子で言った。
「僕らのアリス、君が望むなら」


126 :歪みの国のアリス 第二章-3:2007/03/02(金) 15:48:59 ID:EpALPD200
食堂に戻った二人は相変わらず机に突っ伏している伯爵を叩き起こすと事情を説明した。
公爵は夫人を止めるのと引き換えにシロウサギの情報を教えると約束した。
しかしどうやって止めたものか。いくつか案は浮かんだ。
まずいものを出すとか、力ずくで止めるとか、脅しをかけるとか、料理を止めるとか。
しかし、皿ごと食べる夫人にまずいものはどれだけ効果があるか疑問である、
力ずくで止めるのは夫人の美貌に傷が付くと公爵が猛反対する、脅しは効かない(公爵が実行済み)、
以前料理が止ったときカエルが食われた事があった、との理由で全てが却下された。
何か無理かも、と亜莉子が呟くと公爵は必死の形相で亜莉子の手を握り締めて見捨てないでくれ、
と泣きついてきたが、次の瞬間首をひねって昔より小さくないかと尋ねてきた。
昔?亜莉子にはそんな記憶は無い。人違いだと言う亜莉子をよそに、
公爵はうちのハニーもこれくらい小さければと独り言を言った。
その言葉にピンときた亜莉子は夫人を自分のように小さくしてしまってはどうかと提案する。
嫌われたり怒られたりしないかと公爵は消極的であったが、
甘いだけのオトコは駄目よ、と自分でもよく分からない理屈で押し切り、
例のストロベリージャムパンを何処で入手するかという話になった。
チェシャ猫に聞くとパンはパン屋にあるとあまりにも当然な答えが返ってきた。
ではパン屋は何処にあるのかというと、公爵いわくホテル地下のショッピングモールにあるらしい。
そんな近くにあるなら自分で行けばいいのに、と呟く亜莉子に、
自分は胃が弱くあんなところに行ったら死んでしまう。アリスは丈夫そうだから大丈夫だろうと公爵は不穏な事を言い放つ。
何となく釈然としない亜莉子だったが、取り敢えずパン屋に向かう事にした。

127 :歪みの国のアリス 第二章-4:2007/03/02(金) 15:51:36 ID:EpALPD200
地下ショッピングモールもやはり無人だった。
乙女像が据えられた噴水の脇をとおり店の並ぶ通りに行くと、二件のパン屋があった。
一件は鶴岡パン店という下町的たたずまいのパン屋であり、
もう一件はベーカリー・カメダという洋風の小洒落た感じの店だった。
取り敢えず手前にある鶴岡パン店を見ることにしたが、ガラス戸には鍵がかかりカーテンがかかっていて中の様が伺えない。
チェシャ猫におろしてもらって戸をペチペチと叩くと中で明らかに人がざわめく気配がした。が、返事は無い。
諦めてもう一軒の方に向かおうかと思った時、あんぱんといえば、と押し殺した声がした。
突然の質問に面食らっていると、声は苛立たしげにこしあんかつぶあんかと聞いてきた。
何となくこしあんと答えるとガラス戸がガラリと開き、お命頂戴!との掛け声と共に白刃が降って来た。
何が起きたのか理解できずに硬直していると次の瞬間銃声のような音がすると共に胴が締め付けられ景色が激しく回った。
どうやら誰かが亜莉子を抱えてスライディングしたらしい。
亜莉子を抱えた茶色い男は頭を低くすると素早くベーカリー・カメダの中へ駆け込んだ。

ベーカリー・カメダの中に入ると、男はテーブルの上に駆け上がり亜莉子を掲げてこしあん支持者だと大声で叫んだ。
歓声が巻き起こる。
こしあん支持者なる称号を付けられて狼狽しつつ亜莉子は店内を見回した。店内は茶色い男達でひしめいていた。
みんな坊主頭で肌がテカり、がっしりした体躯をしている。そして一様にベーカリーカメダと書かれた腰布を巻いていた。
何なのこれ?亜莉子が騒ぐと彼らはあんパンだと聴き慣れた声がした。いつの間にか店内に入っていたチェシャ猫だ。
何であんパンが動いて喋るのかと抗議する亜莉子に、パンは動くし喋るものだよ、と変わらぬ調子で答えるチェシャ猫。
こんな時は言い争っても意味が無いと学習した亜莉子は脱力感に襲われながら反論を諦めた。
声をかけてきたあんパンに話を聞いてみると、
彼らは真実のあんパンを決めるべくこしあん陣営とつぶあん陣営に別れ争っているそうだ。
第二次あんパン戦争。チェシャ猫がボソリと付け加える。
あまりの下らなさにめまいを覚えつつどっちでもいいじゃない、と呟いた亜莉子は
次の瞬間無数の銃口に囲まれていた。どうやらこしあんパン達の機嫌を激しく損ねたらしい。
あわててどっちも好きだとフォローする亜莉子だったが、それは火に油を注ぐ結果となった。
スパイだ!殺せ!と騒ぐこしあんぱん達に命の危険を覚えた亜莉子はチェシャ猫に助けを求めた。
いつも通りとぼけた答えを返すチェシャ猫だったが、
そのやり取りの中に出て来たアリスという言葉にこしあんパン達は騒ぐのをやめ、
口々に叫び始めた。「お帰り!僕らのアリス!」やがてリーダーが歩み出てきて言った。

「アリス様、貴女は私達の救世主。さぁ、こしあんパンこそ正義であると仰って下さい」

あんパンの正義という言葉に思考が止まりかけたその時、ベーカリーカメダの戸が蹴破られた。
戸口を破りなだれ込んできたのはつぶあんパン達だった。こちらは鶴岡パン店と書かれた腰布を身に着けている。
事態に付いて行けずに頭を抱える亜莉子をよそに、
つぶあんパン達はアリスを独占する事は許さぬなどと妙に和風な口調で叫び刀を構えた。
つぶあんパン達の言葉にこしあんパン達も色めき立ち、一触即発の空気が漂う。
あんパンの争いに巻き込まれてなんて情けない死に方を回避したい一心で亜莉子は停戦を呼びかけたが、
アリスの言葉は天の言葉とというチェシャ猫の一言により裁定を下すハメになる。


128 :歪みの国のアリス 第二章-5:2007/03/02(金) 15:53:43 ID:EpALPD200
お言葉を賜るという名目で噴水の乙女像の手に載せられた亜莉子。
必死で自分はアリスではないと主張すると、あんパン達の間に不穏な空気が漂い始めた。
あんパン達は亜莉子がアリスを騙ったと怒り始め、偽者は殺せとの合唱が起こり始める。
仲良く出来るじゃないと変なところで感心する亜莉子だったが、事態はそれ所ではなくなって来た。
一人のつぶあんパンが刀を手に飛び掛ってきた。勢いよく刀が振り下ろされる。幸い刃は亜莉子には当たらなかったが、
亜莉子が乗せられた乙女像の手を切り落としていた。
水に落ち必死で水面に顔を出した亜莉子にこしあんパンが銃口を突きつける。
撃たれると思った瞬間、泉の水が勢いよく銃を構えたこしあんパンの顔に放たれた。
同時に亜莉子は下から足を引っ張られ、再び水中に没した。下の方を見やると、底が見えない程深い。
亜莉子の足を引いたのはチェシャ猫だった。顔を出すと頭がなくなるよ、言うチェシャ猫に溺れると反論しようとした所で
亜莉子は普通に呼吸ができることに気付く。
お帰りなさい、わたくし達のアリス。耳元で涼やかな声がした。誰なのと問い返すとチェシャ猫が水だと教えてくれた。
同時にアリスを取り巻くように軽く水が渦巻き、大勢の女性がさざめき合うような声がした。
パンが喋るなら水も喋るだろうと亜莉子が事態を受け入れた所で、水たちはあんパン達を野蛮と批難し、
アリスを殺そうとしたから「お仕置き」をしたのだと言ってくすくすと笑いあった。

「本当にアリスになんてご無礼を」「お怪我はありませんか?」
「会えて光栄ですわ、わたくし達のアリス」「あんパン達は単細胞で困ってますのよ」

水たちは口々に言った。
その時頭上から網が降って来た。あんパン達が亜莉子を捕えるために投げ入れたらしい。
「まぁ、懲りないこと・・・」上品なため息と共に水音が上がり、あんパン達の悲痛な悲鳴が聞こえてきた。
「お仕置き」があったようだ。パンだけあって水気は大敵らしい。
水たちに礼を述べると、彼女(?)らは自分達の道を使って
ストロベリージャムパンのある鶴岡パン店まで送ってくれるという。亜莉子は好意に甘える事にし、
亜莉子を逃した事で再び言い争っているあんパン達の声に平和への道のりの厳しさを感じつつ水の流れに身を任せた。


129 :歪みの国のアリス 第二章-6:2007/03/02(金) 15:56:39 ID:EpALPD200
水面から顔を出すと、そこは鶴岡パン店のシンクだった。
シンクにも底が無いが、どうやって泉とつながっていたかなど無粋なことは考えないことにする。
チェシャ猫がひらりとシンクの縁に飛び乗り、亜莉子を引き上げてくれた。店内は無人のようだ。
チェシャ猫も亜莉子も水でぐっしょりと濡れている。タオルを探そうという亜莉子に、
チェシャ猫は振り払えばいいといって身をぶるぶるっと震わせた。
水滴を盛大に振りまいたチェシャ猫はどういうわけか完全に乾いていた。
さぁアリスも、と促すチェシャ猫だったが亜莉子は当然出来ない。
タオルを探してと重ねて言うと、毛づくろいなら手伝うといってチェシャ猫は亜莉子をつまみあげた。
猫の毛づくろいを想像して必死に拒絶する亜莉子。チェシャ猫ならやりかねない。
チェシャ猫は気を悪くした風も無く、そう?とにんまり笑った。その時、額に張り付いた前髪辺りで水の声がした。
「心配要りませんわ、わたくしたち自分で」スカートのすそや耳の辺りから不満の声が上がったが、
アリスに風邪を引かせるわけにはいかないとの言葉に降参したらしい。
ふっと服が軽くなり、濡れた感触が消えた。同時に亜莉子の目の前に大きな水玉が浮かんだ。

「ごきげんよう、アリス」「寂しいわ」「お元気でいらしてね」

口々に言う水玉に亜莉子は礼を言い、感謝の気持ちを込めてそっと突ついた。水玉は軽く身を震わせるとシンクの中に飛び込んでいった。


パン店の中を調べると、厨房の奥にストロベリージャムパン焼き立てと書かれたプレートの架かった扉があった。
扉を開けると奥から沢山の声が襲ってきた。みな一様に僕を食べてと叫んでいる。扉の中は牢屋になっており、
中には真っ白い同じ顔の少年達が何人も入っていた。どうやらこの子達がストロベリージャムパンらしい。
何故閉じ込めてあるのかとチェシャ猫に聞くと、死人が出るからと物騒な答えが返ってきた。
何でもストロベリージャムパンはパン族の中でも食べられることに強い執着があり、
昔ドードー鳥を集団で襲って満腹死させて以来、捕まえておく決まりになったらしい。
食べられるのはイヤじゃないのかという疑問に、パンは食べられるものだよ、と答えるチェシャ猫。
そしてのどをぐるぐる鳴らして付け足すように言った。「早く食べないとカビだらけになるよ」
どうやら喋るパンでもカビるらしい。妙なところで常識的と思いつつ、連れて行く一人を選ぼうとした亜莉子だが、
いかんせんどの子も同じに見えて選びにくい。
その時部屋の隅にある大きな箱が目に留まった。大きなクーラーボックスのような箱で、黒マジックでハイキと書いてあった。
チェシャ猫をつついて箱を開ける。すると中から飛び出てきた何かに亜莉子はガッチリと捕まえられてしまった。
青や緑、黒の斑点がある茶色いひび割れのある手。のど元にフォークが突きつけられる。
漂う悪臭に怯えたのか、ストロベリージャムパン達は牢の隅っこで震えている。
チェシャ猫はといえば、相変わらずのにんまり顔でこちらを見ている。慌てている様子は皆無だ。
仕方がないので亜莉子は自力で状況を改善すべく、犯人に要求を尋ねた。
「俺を食え。うまそうに、だ」犯人の要求は実にシンプルなものだったが亜莉子の理解の範疇外だった。
あなたは誰かと尋ねる亜莉子にチェシャ猫がストロベリージャムパンだと答える。牢の中のものと色が違うのは廃棄パンだからとの事。
廃棄パンは食わなければ殺すとまで言ってきたため、落ち着かせるべく亜莉子は彼(?)の話を聞く事になった。

130 :歪みの国のアリス 第二章-7:2007/03/02(金) 15:58:18 ID:EpALPD200
廃棄パンの語るところによると、彼は以前は誰もがうらやむ極上のストロベリージャムパンだったらしいが、
不慮の事故で床に落ちたため売り物にならなくなり廃棄処分になったらしい。
しかし彼はどうしても諦める事が出来ず、自分を食べたいという人がいつか現れると信じて
廃棄回収車に乗るのを拒み続けた結果、カビが生え干からび悪臭を放つ体になっていたとの事。

「わかってたよ、もう誰も迎えに来ないことくらい・・・」

廃棄くんの話を聞くうちに亜莉子の胸中に飛来するものがあった。

理不尽な運命に変えられた未来。来るはずの無いいつかを夢見る事。
分かっていたのに振り切れない希望。いつの日かあなたは私を・・・

気が付くと亜莉子は涙を流していた。
泣くことは無いんだよとチェシャ猫にたしなめられる様に言われても涙は止まらなかった。
胸に走るのは誰の痛みか。
チェシャ猫とのやり取りでアリスという言葉を聞いた廃棄くんは暫く黙っていたが、
やがていつまでも泣き止まない亜莉子の額を手にしたフォークの柄で小突くと、
アリスが俺達のために泣いたりしたら意味が無いといって亜莉子をたしなめた。
ようやく泣き止んだ亜莉子に廃棄くんは諦めるきっかけをくれたことの礼を言い、回収車に乗ると言い出した。

諦めなければならないの?いつか、私も?
・・・振り切れない想いが叶う事は決して無いの?

亜莉子は廃棄くんの決断を拒絶し、更に夫人の下へ廃棄くんを連れて行くと宣言した。
あっけに取られる廃棄くん、いつも通りのセリフを繰り返すチェシャ猫。
「僕らのアリス、君が望むなら」

三人は裏口を使い鶴岡パン店を出た。表ではいまだにあんパン達の戦いが続いていたが、
その理由は小豆の産地や飲み物の種類にまで拡大、細分化しており、戦場の脇を三人が通っても誰も注意を払わなかった。
何となく亜莉子は廃棄くんにこしあんつぶあんどちらが好きかと尋ねたが、好きだったら共食いだと言われて呆れられた。
気を取り直すようにチェシャ猫にも同じ事を聞いてみると、猫はパンを食べないとにべもなく言われてしまった。
パンは好きじゃないのかと尋ねると、アリスが入っていたら食べるという答えが返ってきた・・・。

131 :歪みの国のアリス 第二章-8:2007/03/02(金) 16:02:23 ID:EpALPD200
レストランは相変わらずの状況だった。倒れているカエルが増えている分状況は悪化しているとも言えたが。
廃棄くんに公爵夫人を紹介すると、廃棄くんは嬉しそうに屈伸運動を始めた。
複雑な表情で見ている亜莉子にチェシャ猫が一本の指を差し出し食べるよう勧めてきた。
あんパンの指だった。下で拾っておいたらしい。
食べれば元の大きさに戻れると言われ意を決して亜莉子は指を齧った。
ストロベリージャムパンがそうであったようにあんパンもまたおいしかった。
食べ終わると同時に視界が揺れ始めた。床がぐんぐん遠ざかる。チェシャ猫に背中を支えてもらった時には、既に元のサイズに戻っていた。
元の大きさになると廃棄くんは子供程度の大きさでしかなかった。アリスって割と大きかったんだな、とまぶしそうに見上げる廃棄くんを
アリスは膝を付いて抱きしめた。廃棄くんは亜莉子に礼を言うと、テーブルの上に飛び乗った。そのままテーブルの上を走り、
公爵夫人の口に飛び込む。夫人はぐ、と一瞬だけ呻いたがそのまま口の中のものを飲み込んだ。
亜莉子が見守る中、夫人は風船の空気が抜けるように縮んでいった。
手乗り文鳥サイズまで縮んだ夫人は何が起きたのか分からない様子でマッシュポテトの入ったボウルの中に座り込んでいた。
公爵がいそいそと近寄ってきて礼を言う。
さて、それではシロウサギのことを聞こうと思った時、夫人が悲鳴を上げた。
驚愕の悲鳴かと思ったが、夫人は嬉しそうにマッシュポテトの山に頭を突っ込んでいる。小さくなっても食欲は変わらないようだ。
食事を終わらせるのが約束だと詰め寄る公爵の剣幕に亜莉子が困っていると、夫人に再び変化が起こった。
今度はお腹を抱えてボウルの中で転げまわっている。

「食中毒」

ボソリとチェシャ猫が呟いた。
公爵が拾い上げると、夫人はトイレに行きたいと言い始めた。
結果的に食事が止まった事で気を良くしたのか、公爵はシロウサギの行方を教えてくれた。
夫人の巨体の陰に隠れて見えなかった扉を指し示すと、公爵は夫人を連れてトイレに駆けていった。
・・・原因は間違いなく廃棄くんだろう。

厨房を覗き込むと、カエルも料理女も全員眠りこけていた。お疲れ様、と呟く亜莉子にチェシャ猫が久方ぶりのセリフを投げかけた。

「さあアリス、シロウサギを追いかけよう」



公爵に教えられた扉の向こうはコンクリートが打ちっぱなしの通路だった。ポツリポツリと裸電球があるだけで薄暗く、幅は人一人分程しかない。
亜莉子が扉をくぐると背後で音を立てて扉が閉まった。慌ててノブをつかもうとしたが、扉は跡形もなく消えうせており、
コンクリートの壁があるだけだった。ひとしきりチェシャ猫を呼んだり壁を探ってみた亜莉子だったが、
どうにもならなかったので覚悟を決めて通路を進み始めた。

どれだけ進んだ頃か、亜莉子は自分以外の足音が聞こえることに気付いた。立ち止まると足音は前方から近づいてくる。
裸電球の薄明かりの中に浮かび上がったのは、目も鼻も、顔中を包帯でグルグル巻にした女だった。口だけが辛うじて見えている。
思わず後退った亜莉子は何かにつまずいて尻餅をつく。さっきまで何も無かったその場所には、機械仕掛けで動くぬいぐるみの子犬があった。
ぬいぐるみは黒く焼け焦げ、中の機械がのぞいている。

「おまえの・・・せい・・・」

包帯女がくぐもった声で呟き近づいてくる。女は右のわき腹をぐっしょりと血で濡らし、右手に包丁を持っていた。

「アリ・・・おまえのせ・・・」

亜莉子は恐怖で動けず、ワケも分からずに謝る。女が包丁を振り上げると亜莉子は思わず目を閉じた。しかし痛みはやってこなかった。
目を開けると女もぬいぐるみも消えうせていた。亜莉子は弾かれたように駆け出す。
頭の中でごめんなさいという言葉だけが延々と繰り返される。何を誰に謝っているのか亜莉子自身も分からない。
通路の突き当たりに扉が見えた。亜莉子は躊躇せず外に飛び出した。


第三章、見慣れた街の 見慣れぬヒトたちへ続く

151 :歪みの国のアリス 第三章-1:2007/03/04(日) 01:36:49 ID:v57T7KK00
第三章 「見慣れた街の 見慣れぬヒトたち」



扉の先は薄暗いホテルの裏通りだった。
辺りを見回すと左手に街の明かりが見える。誘われるように亜莉子はそちらへと足を向ける。
街灯がともる街角は人で溢れていた。帰宅途中の学生やサラリーマンを夢を見ているような感覚で
眺めていた亜莉子だったが、誰かの視線を感じ辺りを見回した。
横断歩道の向こうから自分を見ている男がいる。30代くらいだろうか、
見知らぬその男は目が合うとこちらに来るようなそぶりを見せ、声をかけてきた。

「逃げて」

亜莉子の頭の中で誰かの声がした。車道の信号が黄色に変わる。
亜莉子はきびすを返すと走り出した。男の制止する声が聞こえてくる。
人ごみをすり抜け点滅する信号を渡り亜莉子は走った。
手近なビルの陰に走りこむと息を潜める。男が追いついてくる気配は無い。
ほっと胸をなでおろした瞬間、誰かに背中を叩かれ亜莉子は飛び上がった。振り返るとそこにいたのは親友の雪乃だった。
自分のエプロンドレスをからかう雪乃を見て亜莉子に現実感が戻る。
誰かに追われていると言うと雪乃は亜莉子を物陰に押し込み辺りを見回すが、特に怪しい人影は無い。
大丈夫そう、と言って振り返った雪乃が険しい顔になった。
いつの間に付いたものか、亜莉子の顔には叩かれたような跡があった。
言われて初めて痛みを覚える亜莉子だったが、叩かれた事はおろかどこかにぶつけた記憶も無い。
困惑する亜莉子を雪乃はファーストフードに誘った。(*エンディング分岐あり)
一人になりたくなかった亜莉子は快諾し、二人は連れ立って駅前のファーストフード店へ向かった。

ホットココアを飲み一息つくと、普通である事の素晴らしさが身にしみてくる。
と同時にそれまであった事が白昼夢のようにも思えてくる。あれは本当に現実だったのだろうか?
そういえば、と言って雪乃が話を振って来た。
もうすぐ来る亜莉子の誕生日にはとびっきりのプレゼントを用意して祝ってくれるという。
いいのに、と思わず口にして雪乃に憮然とされる亜莉子だったが、
自分の4歳の誕生日の直後に父が死んで以来誕生日を祝う習慣が無かったと説明すると納得してもらえたようだった。
それから亜莉子の母の再婚の事やその相手の事を話した後で、雪乃はトイレに行くといって席を立った。
手持ち無沙汰になった亜莉子は何気なく窓の外を眺める。窓の外の人の流れの中に一際目を引く白いものがあった。
シロウサギだ。追いかけるか否か逡巡する亜莉子だったが、先ほど聴いた声がまた頭に響いた。

「行こう」
「追いかけて 辿りつかなくちゃ」

同時に亜莉子の右わき腹に痛みが走る。
折悪しく雪乃が戻ってきたが、亜莉子は一言謝ると呆然とする雪乃を残し店を飛び出していった。

シロウサギを追って亜莉子は人気の無い高架線の裏路地へとやってきた。
シロウサギは教室で見たときと同じくほんのり透き通っていた。その手に持ってる人形が透けて見えたが、
それを見て亜莉子はぎょっとした。両腕が付いている・・・!
不意にシロウサギが歌い始めた。

アシ アシ アシ♪アシはどこだろ♪
アシがなくっちゃ♪僕と一緒に歩けない♪

歌いながらシロウサギはそばのビルに入っていった。火事でもあったのか、そのビルは煤で汚れていた。
少し迷ってから亜莉子もビルに足を踏み入れた。


152 :歪みの国のアリス 第三章-2:2007/03/04(日) 01:42:37 ID:v57T7KK00
ビル内も煤のようなもので薄汚れていた。
動かないエレベーターに諦めをつけ階段を上がる。二階のドアは開かなかったので通過し三階に上がる。
三階の扉の向こうは廊下になっていた。すりガラス付きのドアが左右にあり、
蛍光灯の明かりに照らされていた。シロウサギの姿はない。
右手前の部屋にはほのかな明かりが付いている。ノックすると思いがけず返事が返ってきた。
ドアを開けて現れたのは若い男だった。体が細く、手足が妙に長い。顔は笑っているように見えた。
男はアリスを招きいれた。部屋はコンクリートの打ちっぱなしで、
中にはダイニングテーブル一つと向かい合うように置かれたいすニ脚、
火の灯されたキャンドルしかなく、電気は付いていなかった。

「どうぞ」

男はレストランでボーイがするようにいすを引き亜莉子を招いた。
その言葉に拒否を許さない響きを感じ亜莉子は大人しく腰をかける。
男は一旦奥へ引っ込むと、シチュー皿とバスケットを持ってきた。
誰なのかとの問いに答えずそれらを亜莉子の前に並べると、男は亜莉子の向かいに腰掛けた。
正面で向き合う事になって初めて亜莉子は男の唇の端が持ち上げられているだけで、
笑顔を浮かべているわけではないことに気付く。
シロウサギを探しているという亜莉子にかまわず男はシチューとパンを勧めてくる。
仕方なく亜莉子はシチューに手を出した。
具が肉だけにもかかわらず、シチューはとても美味しかった。
白兎の肉と話す声をよそにシチューを食べる亜莉子だったが、急激な眠気に襲われ意識を失ってしまう。



亜莉子は夢の中で幼い頃の亜莉子を見る。幼い亜莉子は頬を赤く腫らし泣いていた。
そんな亜莉子の頭を誰かが撫でている。やがてその人は亜莉子を抱え上げた。
泣かなくていいんだよ、謝らなくていいんだよ。
泣きながら謝り続ける亜莉子をその人はそう言ってあやす。

わるいことは ぜんぶ けしてあげよう

153 :歪みの国のアリス 第三章-3:2007/03/04(日) 01:43:43 ID:v57T7KK00
その声が聞こえたところで亜莉子は目を覚ました。
キャンドルは消え、シチューもバスケットも男もみな消えていた。
立ち上がろうとしたところで誰かが階段を上がってくる音がした。
とっさに亜莉子はドアに飛びつき鍵をかけた。
足音は部屋の前で止まった。同時にノブが捻られる。
息を殺していると、やがて諦めたのか足音は隣へと移っていった。
割れた窓から伺うと、そこにいたのはホテルの前で亜莉子を追いかけてきた見知らぬ男だった。
やがて男は廊下を引き返し階段を降りていった。
胸をなでおろした亜莉子の鼻をきな臭いにおいがつく。
部屋を出ると廊下は火の海になっていた。燃える筈のないコンクリートが火を吹いている。
出口を探して辺りを見回す亜莉子の目に炎の中で動くものが映った。
ホテルの通路で出会った包帯女がそこにいた。炎をまといこちらに歩み寄ろうとしている。
亜莉子は身を翻して走り出した。背後から女と炎が追ってくる気配を感じる。
非常階段に飛び込むと亜莉子は階下へ走り降りた。一階はすでに炎で埋め尽くされていた。
亜莉子はそのまま地下まで駆け下りた。
地下は何もない倉庫だった。行き場をなくして立ち尽くす亜莉子を追いかけてきた炎が襲う。
一瞬で火に巻かれ悲鳴を上げる亜莉子の頭の中で声がした。

そうだ 滑稽に踊れ その身に 償えない罪を 背負って

不意に視界が暗くなった。全身を包んでいた熱が消え失せる。
目を開けるとそこは元の倉庫だった。辺りを見回すと見慣れたニンマリ顔が飛び込んできた。
火事の事を尋ねる亜莉子だったが、チェシャ猫は亜莉子の手を取って火は良くないね、と言うだけだ。
亜莉子が深いため息を吐くと、チェシャ猫の手が熱を帯びた。同時に動悸が収まる。
何かした?と尋ねかけた亜莉子だったが、チェシャ猫が顔をもう片方の手で覆い呻いたのに驚いて質問は吹き飛んだ。
ややあってチェシャ猫は手を外しいつものニンマリ顔を見せた。心配する亜莉子に大丈夫だと言い張るチェシャ猫。
不安を残すも亜莉子は納得し、ビルを出ようと提案する。チェシャ猫はうなずいてのんびりと言った。

「そうだね。急がないとお茶会に遅れるよ」


第四章、真夜中のお茶会へ続く

171 :歪みの国のアリス 第四章-1:2007/03/05(月) 13:08:41 ID:NEp1RudF0
第四章 「真夜中のお茶会」

チェシャ猫に連れられて着いたのは、ただの公園だった。道中のチェシャ猫との噛み合わない会話によると、
「帽子屋」と「ネムリネズミ」がここでお茶会を催しているらしい。
砂場もブランコもある普通の公園とお茶会と言う言葉が持つイメージが噛み合わない亜莉子は
チェシャ猫を質問攻めにするが、砂場とブランコがあってもお茶は飲めると言う答えに深く考えるのをやめる事にする。

公園の一角にあるログテーブルに二つの人影があった。
遠目に見てもお茶と言うにはおかしい動きをする二人組みを見て、亜莉子は深呼吸し心の準備を整えた。

テーブルは色々おかしかった。ティーポットや陶磁器、クッキーなどの菓子は本格的なお茶会を彷彿とさせたが、
そのティーセットを上回る大量の時計がテーブルを埋めていた。
テーブルに乗り切らないのか、足元にも時計が転がっている。
さらにティーセットもひっくり返ったり割れたりフォークがあらぬ場所に刺さったりと酷く荒れている。

これらの光景に目を奪われていると、コップに紅茶を注いでいた人物が遅いと亜莉子に怒鳴り散らした。
声の感じはかなり若いが、大きなシルクハットを首まですっぽりと被っているので詳しくは分からない。
帽子だけでなく身に着けている物全てサイズが余っている。
その声に、テーブルに突っ伏して目を閉じていた赤ん坊ほどもあるネズミがうっすら目を開けた。
帽子を被っている方が帽子屋でネズミがネムリネズミだろうとあたりをつけたところで帽子屋が再び叫んだ。
今何時だと思ってるんだと言う帽子屋に、転がってる時計を見て三時だと答える亜莉子。
すると帽子屋は三時になってからどれだけ経ったと思っているんだ、とよく分からない事を言い始めた。
ネムリネズミはネムリネズミで眠そうにおかえりと呟き、亜莉子に紅茶を勧めようとして途中で力尽き眠りに落ちたりしている。
シロウサギの事を尋ねると、ここへ来たとの事。いつの事か勢い込んで尋ねる亜莉子に二人は同時に答えた。

「ついさっき」
「随分昔・・・」

何でも三時になる前にあらわれたらしい。
三時になってから随分経つのだからかなり前の事だよね、
と頭を整理しながら何処へ行ったか尋ねるとネムリネズミがある方向を指差した。
そちらにはバラ園があった。入り口のアーチには白いバラがびっしりと絡みついている。
礼を言い亜莉子が入り口に駆け寄ると、チェシャ猫がこれまで聞いた事のない緊張した声で亜莉子を呼び止めた。
振り返ろうとした亜莉子の右腕にバラの蔦が絡み付いてきた。
棘が食い込む痛みに悲鳴をあげ、後ろにさがろうととする亜莉子だったが蔦はますます食い込み、首にまで伸びてきた。
たまらずに助けを求めると、チェシャ猫が寄ってきて自分の腕を爪で切りつけた。
チェシャ猫の血に反応したのか、蔦は力を弱めチェシャ猫のほうに伸び始める。
チェシャ猫は自分に絡みつく蔦には構わず亜莉子に絡みついた蔦を引き剥がした。
解放された亜莉子はチェシャ猫を助けるためにテーブルの上の物を手当たり次第に投げつけるが、蔦は緩む気配を見せない。
帽子屋が叫びながら亜莉子を制止しようと駆け寄って来る。頭に血の上った亜莉子は帽子屋を担ぎ上げるとバラに投げつけた。
帽子屋が飛んでいく。投げられる間際に掴んだものかその手にはポットがあった。湯気と帽子屋の悲鳴が上がる。
お湯を浴びたバラは拘束を緩め、チェシャ猫はスルリとそこから抜け出した。
白バラが血を吸う事は常識だと言ってなじる帽子屋。
常識と言う言葉が崩壊しかける亜莉子だったが、反論する気にもなれずチェシャ猫に謝る。

「アリス、僕らのために泣くのはよくないよ」

チェシャ猫はいつものニンマリ顔で言い、動悸の収まらない亜莉子の手をつかんだ。
どうしたの、と尋ねようとして亜莉子は息を呑んだ。チェシャ猫の手が熱を帯び、動悸が急激に収まっていく。
と同時にチェシャ猫の顔が歪んで見えたのだ。慌てて目をこすると、そこにあったのはいつもの笑い顔だった。

172 :歪みの国のアリス 第四章-2:2007/03/05(月) 13:17:06 ID:NEp1RudF0
テーブルからナプキンを一枚拝借すると、亜莉子はそれを水で濡らした。
チェシャ猫の傷を拭こうとしたのだが、チェシャ猫は傷を自分でなめている。
猫の血は美味しいからアリスもなめればいいという申し出を一蹴すると、ネムリネズミが包帯を差し出してきた。
帽子屋に指示しナプキンを裂いて作らせたらしい。二人に礼を言い、
チェシャ猫に包帯を巻いてもらいながらどうやって門をくぐるか考える。
帽子屋いわく、バラが眠らないと門をくぐる事は出来ないようだ。
四時になればバラは眠るという。亜莉子はテーブルの時計を見たが、針は公園に来た時から微塵も動いていない。
時計の針が進んだら四時になるという言葉で針を進めようと時計の一つを取り上げた亜莉子だったが、
どういうわけかネジは固く動かない。時計を動かせるのは時間くんだけ、呆れた声で帽子屋が言った。
じゃあ時間くんに針を動かしてもらおうと言う亜莉子だったが、
時間くんは体がないから首もなく、首が無いものが嫌いな女王陛下に捕まってしまったらしい。
意味の通じない会話にも慣れてきた亜莉子は、
それなら首のある自分が女王のところに行って時間くんを解放するよう頼んでみると言った。
女王の元へは土管を通って海を渡れば行けるらしい。見回すと、砂場の向こうに赤青二つの土管の遊具が並んでいた。
ネムリネズミが寝ぼけながら赤の土管に入るよう言う。
言いながら寝ぼけたネムリネズミはフォークを帽子屋の手に突き立てる。
亜莉子は礼を言うと、帽子屋の悲鳴に送られて土管に歩き出した。


土管は長さ3メートル、直径60cm程の普通の遊具だった。覗き込むと、当然向こう側が見える。
このまま進んでも公園に出るだけな気もしたが、取り敢えず入ってみる事にした。(*エンディング分岐あり)
ずりずりと四つん這いで進んでいく。すぐに反対側に出るはずだったが、予想に反して一向に着かない。
それどころか、出口に見えていた風景がどんどん小さくなり、やがて黒い円になった。不安がる亜莉子だったが、
後ろのチェシャ猫の心配ないよ、まっすぐお行きという言葉を信じて進み続けた。

しばらく進み、亜莉子が再び不安に囚われ始めた頃にトンネルは終わった。出口の先に広がっていたのは広大な砂浜と、
赤い水を湛えた海だった。赤いもやがかかっていて水平線は見えない。
そのもやの中、手が届く距離に、こちらに背を向けてシロウサギが立っていた。
亜莉子は近づいていき手を伸ばす。ウサギの手を掴んだ瞬間、視界が真っ白になった。

ウサギは残ったのね 泣かないで
もう嫌なの あの火事が 君は悪くない
お腹が痛い もうすぐ箱が割れる 愛しているのに
この歪みは――僕が望んだもの――

チェシャ猫に手を引かれて亜莉子は我に返った。シロウサギの姿は消えていた。
血の海は人を惑わす。気をつけないと引きずり込まれるよ。チェシャ猫はそういって笑った。
先ほど頭に浮かんだものが何だったのか。亜莉子は幻であると自分に言い聞かせて不安を押し込めた。

173 :歪みの国のアリス 第四章-3:2007/03/05(月) 13:18:37 ID:NEp1RudF0
言われたとおり海を渡ろうと思った亜莉子だったが、辺りに船などと気の利いたものは無い。
どうやって渡るのか悩んでいるとチェシャ猫は歩けばいいといって亜莉子の手を引き海へ歩を進めた。
抗議しようとした亜莉子の声は泡になって消えた。
波打ち際にもかかわらずいきなり全身が沈んだのである。血の海は底無しだった。チェシャ猫が亜莉子を引き上げる。
チェシャ猫は水面に立っていた。普通海は歩けるものだよ、と言いながらチェシャ猫は亜莉子を担ぎ上げた。
どうやらそのまま海を渡るつもりのようだ。
重くて疲れたらどうするのと慌てる亜莉子だったが、チェシャ猫は重いと言う概念を持ち合わせていない様子だ。
食い下がる亜莉子だったが、アリスは持ち運べるものだと決まっているらしくチェシャ猫は平然と亜莉子を片手で上げ下げした。
他に手段も無く、本人が平気だと言ってるならいいかと考え、亜莉子は大人しくチェシャ猫に運ばれる事にした。

しばらく歩くと、もやの中に影が見えた。チェシャ猫はそれに近づいていく。近づいてみるとそれは一本の木だった。
赤い海に根を下ろす木。枝には葉がなく、先っぽに白い花が一輪咲いていた。
亜莉子はその花に覚えがあった。かすかに芳香が漂う。
その時、耳障りな鳴き声が聞こえてきた。
亜莉子が振り返ると、そこにはおもちゃの子犬がいた。ホテルの通路で見たぬいぐるみ。
こちらに近づいてくるそれは、突然炎を吹き上げた。
炎と黒い煙を上げながらも、子犬は近づいてくる。逃げるよう頼む亜莉子だったが、チェシャ猫は動かなかった。
子犬は徐々に海に沈んでいき、やがて完全に海中に没した。
今のは、何?のど元まで出た疑問を亜莉子は飲み込む。
聞いてはいけない、と頭のどこかで警報が鳴っている。
あの子犬、どこかで見覚えが・・・。
その時花の芳香が強くなった気がした。振り向くと、花びらが一枚海に落ちて赤く染まっていた。


第五章、首切りの城へつづく

273 :歪みの国のアリス 第五章-1:2007/03/14(水) 01:19:23 ID:w/saxaGW0
第五章 首切りの城


歩けど歩けど変化の無い景色にこの赤い海は果てが無いのではないかと亜莉子が不安を感じ始めた頃、
もやの中に大きな建物の影があらわれた。すぐに岸辺も見えてくる。
砂浜の先にある小高い丘の上、背後に森を背負ったその建物が女王の城のようだ。
チェシャ猫に降ろしてもらうと、二人は城へと続く小道を登っていった。

城は荘厳であったが、荒れていた。手入れが行き届いていない様子だ。
亜莉子はハートのクイーンのレリーフが施された大扉の前に立つと、ノッカーを掴んで打ち鳴らした。
が、二度三度と打ち鳴らしても応答は無い。試しに引いてみると、あっさりと大扉は開いた。
開いた隙間から中を覗き込む。中は薄暗く、隙間から入る光だけでは様子は分からない。
亜莉子が体を滑り込ませると、アリスはやわいから首に気をつけるんだよとチェシャ猫が声をかける。
その不穏な内容に振り返った亜莉子の前で大扉が音を立てて閉じた。
慌てて亜莉子はチェシャ猫を呼び扉を開けようとしたが、どうした事か扉はビクともしなかった。

散々扉と格闘した後で、亜莉子は気を取り直して建物の様子を探ることにした。
現在いる場所はどうやら大広間のようだ。が、いかんせん暗くてよく見えない。
歩き出そうとした亜莉子は足元に転がる柔らかい何かにつまずいた。
足元にあるのが何なのか確かめるために灯りを求めて扉近くの壁を探ると、手がレバーに触れた。
取り敢えずそれを引きおろす。すると音を立てて壁にあるいくつかの燭台に火が灯った。
ロウソクの炎で照らし出された室内には、おびただしい数の死体が転がっていた。
死体は人を始めネズミや鳥などバラエティーに富んでいたが、みな共通して首が無かった。
大量の首無し死体というあまりに非現実的な光景に最初はあっけにとられていた亜莉子だったが、すぐにパニックに襲われる。
必死で扉を叩きチェシャ猫を呼ぶが、扉はやはり動かない。
扉を開ける事を諦めると、亜莉子は周囲を見回した。近くにドアが一つ。
首無し死体の傍にいるという恐怖から逃れるため、亜莉子はその扉を開け中に飛び込んだ。

飛び込んだ部屋は食堂のようだった。死体が無い事で安心し余裕が出て来た亜莉子は、部屋を観察する。
テーブル、椅子、食器、調度品、みな立派なものだったが、全てに埃がかかっている。
天井を見上げると蜘蛛の巣もあった。長い間掃除がされていないようだ。
ここも無人と思った矢先、亜莉子の耳に変な、あまり上手ではない歌が飛び込んできた。奥の扉の向こうから聞こえてくるようだ。

扉の先は厨房だった。香ばしいを通り越した匂いが漂う室内で、
給食着にマスクという給食当番のような格好をした丸い人が仰向けに倒れていた。
右手にお玉を持って歌に合わせて振っている。

ごしごしごし♪ひふ~がむけて~♪血がにじむ♪
ごしごしごし♪あか~くなった~♪血の色にんじん♪
つぎは泥ウサギ・・・

声をかけると、給食着の丸い人は歌を中断して亜莉子を見た。
途端に丸い人はメアリ・アン!メアリ・アン!と叫び、自分を起こしてくれるよう頼み腕を突き出した。
亜莉子が引っ張り起こすと丸い人は大きくため息をついたが、鍋が焦げてるのを見て亜莉子が遅刻したせいだと言い始めた。
寝転んで歌なんか歌ってるからじゃないのと言い返すと、丸い人はトマトを踏んづけて転んでしまったんだ、
ただ寝っ転がってるのも退屈じゃないかと不可解な反論を投げ返してきた。
起きればいいのにと思う亜莉子だったが、彼はウミガメモドキであり一旦仰向けになると一人では起きられない体質らしい。


274 :歪みの国のアリス 第五章-2:2007/03/14(水) 01:24:11 ID:w/saxaGW0
そんなことより、とウミガメモドキは話を切り替える。どうやらウミガメモドキは亜莉子の事を、
253日の遅刻を経てやってきたメアリ・アンなる女性であると勘違いしているらしかった。
遅刻は不問にするというウミガメモドキにとてつもない寛大さを感じつつ、
メアリ・アンではないと言いかけたとした亜莉子の手が調理台の上に置いてあった紙に触れた。
何気なく中を見る。どうやらレシピのようだ。
アリスの唐揚。アリスのソテー。アリスのカルパッチョ。

「え?君、メアリ・アンじゃないのか?」
「いいえ、私メアリ・アンです!」

亜莉子は即答した。
何だ、とウミガメモドキは安心したようだ。ホールの掃除に一階と二階の掃除、水汲み飯炊き、女王陛下への午後の紅茶、
草刈に食器磨きに迷子の伝書鳩探しと矢継ぎ早に仕事を指示してきた。
一人ではそんなにいっぺんには出来ないと言うと、この城には君と私しか働き手がいないから仕方が無い、と言われる。
女王陛下がみんなの首を刎ねてしまったかららしい。ホールの死体の群れが亜莉子の脳裏によぎる。
理由を尋ねると、女王陛下は首が好きだからというどこかで聞いたような答えが返ってきた。
そういうわけだから頑張って二人で働こうと言うウミガメモドキに早速辞意を申し出る亜莉子。
アリスだとばれたら食われる。ばれなくても首が飛ぶ。どっちにしてもここは危ない。
回れ右をした亜莉子にウミガメモドキがしがみついた。
働き手の需要を熱く語り、望まれて就職するのが理想の職場だと叫ぶウミガメモドキと
就職する方にも選ぶ権利はあると返す亜莉子。
平行線を辿る主張を交わしつつ、亜莉子は大広間まで戻った。ウミガメモドキは依然として腰にしがみついてぶら下がっている。
離す離さないで二人が口論していると、突然かわいらしい声が響いた。
ウミガメモドキがあたふたと平伏する。いつの間にか女王が来ていたらしい。

女王はゆるくウェーブした金髪と白い肌、淡い薔薇色のドレスを身にまとった女の子だった。
女王と言う言葉から想像してたよりずっと若い。亜莉子よりいくつか年下であろうか、
お姫様と言う言葉が似つかわしい可憐な少女だった。
女王に見とれている亜莉子をウミガメモドキが慌てて引き倒した。
ウミガメモドキが亜莉子の無礼をわびると、女王は微笑み亜莉子に名前を尋ねてきた。
軽い罪悪感を覚えつつもメアリ・アンを名乗る亜莉子。
女王は亜莉子の手を取って立ち上がらせると、いきなり抱きしめた。
慌てふためく亜莉子に女王は、嘘はいけないわアリスとささやきかけた。
何故名前を、と聞く亜莉子を、女王は自分がアリスを忘れるはずが無いと可愛らしく睨む。
嘘をついた事を素直に謝る亜莉子だったが、これからは首になってここにずっといてくれると言い出した女王に絶句する。
その時亜莉子の視界の端に光るものが映った。目を向けると、それは刃渡りが60センチもあろうかという巨大な鎌だった。
刃に赤黒い汚れがついている。
何処から取り出したのか、女王は左手で亜莉子を抱いたまま右手でその鎌を振り上げていた。
亜莉子は女王を突き飛ばす。それで何をするつもりなの、と震える声で尋ねると、女王は艶やかな微笑を浮かべ、
こうするのと言って鎌を横に振り払った。
慌ててしゃがんだ亜莉子の頭上を鎌がうなりを上げて通り過ぎた。
顔に傷かつくから動かないでと言う女王。一方の亜莉子は足が震えてうまく立ち上がれない。
そこにウミガメモドキが割って入ってきた。亜莉子の事をメアリ・アンだとまだ思っているらしく、労働力確保のため助命を願い出るが、
機嫌を損ねた女王は今度はウミガメモドキの首めがけて鎌を振るった。
が、鎌が首を捕えるより早く、ウミガメモドキは頭と手足を胴体に引っ込めた。
首を刈り損ねた女王は苛立たしげにウミガメモドキを鎌の柄で弾き飛ばすと、亜莉子のほうへ向き直り微笑んだ。

275 :歪みの国のアリス 第五章-3:2007/03/14(水) 01:27:12 ID:w/saxaGW0
「アリス、ここにいれば安心よ。誰もあなたを傷つけたりしない。」
「無理しなくていいの、あなたは頑張ったわ・・・。」
「でももう限界よ、だから捨ててしまいましょうね。」

優しい声で言う女王の言葉を亜莉子は理解できなかった。
が、理解できないにもかかわらず激しく動揺していた。先ほどまでとは違う種類の震えが襲ってくる。
動揺を振り払うようにシロウサギの事を口にすると、女王は追いかけてはいけないと激しい反応を見せた。
ここにいれば守ってあげられるという言葉、その哀願するような響きに亜莉子は流されそうになる。
何とか説得しようと時間くんの事を尋ねるが、人の話を聞かない状態に入った女王は再び鎌を振り上げた。(*エンディング分岐あり)
転がるようにして刃をかわすと、亜莉子は二階へと続く階段を駆け上った。階段の先にある扉を勢い良く開ける。
扉の先は廊下だった。天井の高い豪奢な造り、その両脇には数々の首が並べられていた。
一瞬立ちすくむ亜莉子だったが、背後に迫る女王の声に押されるように再び駆け出した。

咄嗟に飛び込んだ部屋は寝室だった。すかさずベッドの下にもぐりこむ。するとほとんど間を置かず女王が入ってきた。
息を潜めていると、女王は涙声でアリスの名を呼びながら部屋を出て行った。
女王が泣いていた事に軽い後ろめたさを覚えつつベッドの下から這い出てきた亜莉子の耳に物音が聞こえた。
女王の足音ではない。部屋中を探し回り、その音が絨毯の下から聞こえてくることに気付いた亜莉子は絨毯をめくって見た。
床のほぼ中央に四角い鉄の板がはまっていた。取っ手のような部分を引っ張り鉄板を動かす。
人一人分ほどの隙間が空くと、亜莉子はそこを覗き込む。鉄板の先は螺旋階段になっており、
奥からは先ほどから聞こえていた正体不明の音がはっきりと響いていた。
少し迷った後、亜莉子は螺旋階段に足をかけた。

螺旋階段を下っていった先には、あらゆる種類の時計で埋め尽くされた牢屋があった。
謎の音の正体は、それぞれの時計が鳴らすアラームの合唱だった。
あまりのうるささに思わず亜莉子が叫んだ途端、時計はピタリと鳴り止む。
静寂の支配する牢屋は先程とはうって変わって不気味な雰囲気だった。
沈黙に耐え切れず上に戻ろうと亜莉子が階段に足をかけた瞬間、ベルの音が鳴り響いた。
跳ね上がった心臓を宥めつつ振り返ると、鉄格子の中で目覚まし時計が鳴っている。(*エンディング分岐あり)
亜莉子は壁にかかっていた鍵を取ると、牢屋の南京錠を外し中に入って時計を止めた。再び静寂が戻る。
上に戻ろうと牢屋を出た亜莉子の背後で、ずるり、と何かが這いずるような音がした。亜莉子の足が止まる。
足の踏み場も無いほど時計が敷き詰められた部屋を、確かに何かが這いずっている気配がする。
その音と気配ははゆっくり亜莉子に近づいてきた。隠れる場所の無い小さな部屋、ではこれは一体何?
恐怖で動けない亜莉子の足元までそれはやってきた。冷たい感触が足から背中へと這いずりあがっていく。やがて肩がずしりと重くなる。
しばらく硬直していた亜莉子だったが、やがて首に絡みついた何かをそのままにぎこちなく階段を上り始めた。

地上へ戻っても感触と重みはそのままだった。女王がうろついている事も忘れたかのように亜莉子は歩き出す。
この不気味なものから解放してくれるのならこの際女王でも構わなかったのだが、幸か不幸か女王はいなかった。
そのまま大広間まで戻る。先程まで何をやっても開かなかった外への大扉が、今は隙間を開けている。亜莉子はそのまま外へと出た。

276 :歪みの国のアリス 第五章-4:2007/03/14(水) 01:31:21 ID:w/saxaGW0
城の前には分かれたままのニンマリ顔があった。思わず涙が出る。亜莉子は駆け寄りたい衝動に駆られたが、
刺激を与えると肩のものが何かするのではないかという恐怖にとらわれ、走れなかった。べそをかきながらチェシャ猫に近づいていく。
お帰り、僕らのアリスとチェシャ猫は変わらぬ調子で言い、泣きじゃくる亜莉子を不思議そうに眺める。
亜莉子が肩に何かいることを訴えると、チェシャ猫は亜莉子の肩回りを見やり、いるね、とあっさり肯定した。
亜莉子はとうとう悲鳴を上げた。緊張感の無いチェシャ猫に何とかしてとわめく。

「キライ?」
「嫌いだよ!好きなわけないでしょう!?お願いだから早く何とかしてーー!!」

するとチェシャ猫は亜莉子の肩に手を伸ばし、乗っていた何かをひょいと抱き上げた。それを抱えなおしながらチェシャ猫は亜莉子をたしなめた。

「駄目だよアリス、時間くんを泣かせるのは良くないよ。時間くんは悲観主義者なんだ。」

まごつく亜莉子。おそるおそるチェシャ猫の腕の中を指差す。チェシャ猫はコックリうなずいた。
思わず「変なの」呼ばわりしてしまう亜莉子をよそに、チェシャ猫と時間くんは何かを話しているようだ。
やがてチェシャ猫が顔を上げた。時間くんが殺して欲しいと言っているらしい。
アリスは時間くんが見えないから急所は狙えないと思うよなどと話すチェシャ猫をよそに事態が飲み込めない亜莉子。
時間くんはアリスに嫌われて生きていく気力を無くしたので、最期の望みとしてアリスの手にかかって逝きたいらしい。
あまりといえばあまりのその思考回路に頭が真っ白になりつつも亜莉子は拒絶する。
すると時間くんは自殺にすると言い始めた。またしても硬直する亜莉子。

それから小一時間説得した結果、誤解は解けて時間くんは生きる気力を取り戻したようだ。
落ち着いたところで亜莉子は公園の時間のことを切り出した。相手が見えないのでチェシャ猫を介して話す。
チェシャ猫は何回かうなずいた後、腕の中のものを地面に下ろすしぐさをした。足元をずるりと冷気がなでる。
見えないから分からないが、どうやら時間くんは亜莉子の頼みを聞き入れて公園へ向かったらしい。
亜莉子は一息つくとチェシャ猫に時間くんの姿形を尋ねた。聞かれたチェシャ猫は珍しく悩んだようで、しばらく考えた後チョウに似ていると形容した。
肩に乗った感覚とチョウというイメージがかみ合わない亜莉子が首をかしげていると、チェシャ猫が付け足した。

「ニンゲンの腸」

聞いた事を激しく後悔しつつ、見えなかった幸運に感謝する亜莉子。
いざ公園へ、と亜莉子が振り返るのとチェシャ猫が亜莉子を突き飛ばしたのはほぼ同時だった。
地面に倒れた亜莉子のの目に映ったのは、中を高々と舞うチェシャ猫の首だった。
首が地面に落ちるのと同時に胴体もその場に崩れ落ちる。チェシャ猫の胴体の向こうで女王が微笑んでいた。
現実感を失いつつもチェシャ猫の首に駆け寄る亜莉子だったが、何を出来るわけでもなく途方に暮れて座り込む。
いつもどおりのニンマリ顔、少しも乱れないフード。気付けば亜莉子は涙を流していた。
女王が声をかけてきたことで頭が動き始めた亜莉子は女王を非難する。
大嫌いと叫ぶと女王はひどく狼狽したようだ。泣き出しそうな顔になりうなだれ、ポツリと呟いた。

「だから猫は嫌いなのよ。私のほうがずっとアリスを想ってるわ・・・」
「猫なんて導く者のくせに。番人の次に遠くにいるのよ。」
「それなのにアリスを泣かせるなんて」

亜莉子がその言葉の意味を捉えかねていると、女王は鎌を放り投げ亜莉子の肩を掴んだ。言い聞かせるように、猫のために泣いてはダメと言う。
その言葉に賛同する声が足元から上がった。見れば、首になったチェシャ猫が喋っている。

「君は僕らのために泣いてはいけない。それでは意味がなくなってしまう。」

割と真剣に亜莉子をいさめる生首。混乱する亜莉子。猫は普通首と胴体が離れても死なないと言う生首。
何だか良く分からないがどうやら大丈夫と言う事が分かると、亜莉子の体から力が抜けた。首を拾い上げきつく抱きしめる。
猫は窒息すると死ぬとの言葉に腕を緩めると、女王の腕が伸びてきて亜莉子から首をもぎ取った。

277 :歪みの国のアリス 第五章-5:2007/03/14(水) 01:38:32 ID:w/saxaGW0
ぞんざいにフードを掴み猫と目を合わせると、二人は可愛くないだの首狂いだのと互いに言い始めた。
全くずれない猫のフードに半ば感心しつつ亜莉子が二人の言い争いを見ていると、女王はチェシャ猫を放り投げてこちらに向き直った。
今度こそちゃんとはねてあげる、と鎌を拾いつつこちらに歩み寄る女王。その背後に影が一つ。
チェシャ猫の胴体が起き上がっていた。チェシャ猫(胴体)は女王から鎌を素早く奪う。女王が文句を言うが、チェシャ猫(胴体)は反応しない。
カラダには耳がないからね、と他人事のように呟くチェシャ猫(首)。
女王が鎌を奪い返そうと手を伸ばすと、チェシャ猫(胴体)は物凄い速さで走り出し、あっという間に城の裏手の森へと消えていった。

「お待ちなさいっ!もうっ!だから猫は嫌いなのよ!!」

女王は悪態をつくとドレスをひるがえしてチェシャ猫(胴体)を追い森に消えていった。
急に辺りが静かになる。亜莉子はチェシャ猫の首を拾い泥を払った。森を見ながら体の事はいいのと尋ねると、
体は頭の言う事を聞くのにウンザリしてたんだから自由にしておやりとのんきな返事が返ってきた。

亜莉子は腕に巻いてあった包帯を外すと、チェシャ猫の首の切断面を隠すように巻きつけた。
巻き具合を確認するように顔の高さに首を持ち上げる。風にそよぐフードを見て亜莉子の好奇心がうずいた。
風には揺れるが絶対ずれないフード、隠されたチェシャ猫の顔ってどうなんだろう。
フードの先をつまんだ亜莉子にチェシャ猫が言った。

「見たら二度と戻れないよ。それでも見るのかい・・・?」(*エンディング分岐あり)

チェシャ猫が今のままのチェシャ猫で不満は無い。そう考えて亜莉子は手を離した。
エプロンの両端を結び、そこにチェシャ猫を入れる。
両手も空いたところで今度こそ公園に戻ろうと海へと歩きかけた亜莉子は次の瞬間足を止めた。。
来るときはチェシャ猫の肩車で海を渡った。今チェシャ猫は首だけ。
途方に暮れていると、チェシャ猫が来る道は一つでも帰る道は一つじゃないよと謎掛けのような事を言いその辺を探すよう言った。
見回すと、城の脇から裏の森へ抜ける小道が目に入った。

森を分け入った先には古ぼけた井戸があった。底が見えないほど深い。試しに石を投げ入れてみたが音は返ってこなかった。
唐突にチェシャ猫が飛び込むよう言う。飛び込んだら死ぬと言う亜莉子だったが、落ちるだけで死なないと言うチェシャ猫。
納得いかない亜莉子だったが、井戸は望む場所へ連れて行くという言葉に半信半疑ながらも縁に腰掛ける。
暗い穴を見てやっぱりやめようと言いかけたところでチェシャ猫が前へと動いた。引きずられるようにして亜莉子は頭から落ちていった。

すごい速度で落下していく亜莉子だったが、不思議と気を失うほどではなかった。
チェシャ猫に深さを尋ねる余裕すらある。深さは井戸の気分次第らしい。
深さを知るのを諦めて大人しく落ちていると、周囲が明るくなってきた。それまで見えなかった井戸の壁が見えるようになる。
壁は一面同じ肖像画で埋め尽くされていた。ホテルの通路で、そして廃ビルで出会った包帯女の肖像画。くろこげのおもちゃの子犬を抱いている。
凍りついた亜莉子が目を離せないでいると、全ての肖像が動き始めた。同じ動きで、ゆっくりと自分の顔を覆う包帯を外していく。
見たくないという叫びが頭をかすめ、亜莉子は目をきつく閉じた。
底だよ、とチェシャ猫が不意に言った。目を開けると、底には白く光る人影があった。人影がゆっくりと首を上げる。
シロウサギ?そう思った瞬間、亜莉子はシロウサギを巻き込んで底に激突した。

278 :歪みの国のアリス 第五章-6:2007/03/14(水) 01:39:23 ID:w/saxaGW0
どすんという音と共に臀部に鈍い痛みが走る。同時に食器の割れる音もした。
お尻をさすりつつ顔を上げると、そこはあの公園だった。
どういうわけか、亜莉子とチェシャ猫はお茶会のテーブルの上に降って来たようだ。
帽子屋とネムリネズミの姿はなかった。テーブルの上の時計を見ると、四時を回っている。
不意に背後から歌が聞こえた。弾かれたように亜莉子は振り返る。

クビ クビ クビ♪クビはどこだろ♪
クビがなくっちゃ♪笑ってもらえない♪

バラ園の入り口の前にシロウサギがいた。その手に持つ人形は、今は手足が揃い首だけが無い状態になっている。
歌いながらシロウサギはバラ園へと入っていった。公園に静けさが戻る。
恐怖とも焦りともつかない感情に襲われ立ち尽くす亜莉子に、行かないのかいとチェシャ猫が静かに声をかけた。
その声に促されるように亜莉子は入り口まで進んだが、そこで立ち止まる。
行きたくないと言う感情と、シロウサギを追わなければという焦りが亜莉子の足を止めていた。
チェシャ猫に言われたせいだけではない。でもなんでこんなに焦っているの?
チェシャ猫が再び声をかけてくる。同時に亜莉子の頭にも声が響く。

もう――それしか、ないから。

行こう、そう呟くと亜莉子はバラ園の中へ駆け出していった。


第六章、赤と黒の迷宮へ続く

381 :歪みの国のアリス 第六章-1:2007/03/25(日) 14:20:12 ID:IHTqDRFv0
第六章 「赤と黒の迷宮」


バラ園は、数年前に市が緑化計画の一環として公園の一部を改装して造園したものだ。
当然広さもたかが知れているはずだった。
が、そのバラ園の中で亜莉子は道に迷っていた。ありえない広さに加え、バラ園が迷路になっていたからだ。
チェシャ猫いわく、バラ園は無限迷宮になってるとの事。それでも迷宮だから出口は必ずあるらしい。
無限という言葉に絶望的な気分を味わう亜莉子。
落ち着いて迷うといいというチェシャ猫の言葉に軽く殺意を覚えながら亜莉子は歩き続けた。

迷い始めてから体感で3時間後、相変わらず迷い続ける亜莉子。
思考能力が減衰し、とりとめもない独り言が口をついて出てくる。
チェシャ猫の哲学的な相槌にキレかけた時、すぐ先の角でこちらから遠ざかる足音が聞こえた。
瞬時に亜莉子の脳は覚醒する。慌てて追いかけ角を曲がると、足音はさらに先の角を曲がっていく。
追いかけっこが始まった。足音はすぐに角を曲がってしまうため、その姿は一向に捉えられない。
シロウサギかなとチェシャ猫に聞いても、チェシャ猫はのんきにさあ?と答えるだけだ。
いい加減疲れてきた亜莉子が角を曲がると、足音は消えていた。
代わりに正面にある茂みがガサガサと揺れている。亜莉子は迷いなくそこに体をねじ込んだ。

茂みから這い出した亜莉子は辺りを見回すが、周囲には誰もいない。
代わりに目に飛び込んできたのは、ひどく見慣れた風景。
そこは亜莉子の家の裏庭だった。
公園と自宅は隣接しているわけではない。にもかかわらず亜莉子は自宅と隣家を隔てる生垣から這い出てきたようだ。
どうなってるのかチェシャ猫に尋ねようとして目を落とすと、チェシャ猫の入っていた場所は空っぽだった。
落とした!?亜莉子は慌てて辺りを見回すが生首は無い。
迷路の途中で落としたのかと思い戻ろうとして生垣に頭を突っ込んだ亜莉子だったが、その先にあったのは隣家の庭だった。
公園は自宅から歩いて行ける距離にある。亜莉子はチェシャ猫を探すべく公園に行こうと表に回り込んだ。

家の前を通り過ぎようとしたその時、ドアノブの回る音が響いた。
見ればわずかに開いた玄関のドアの隙間から、シロウサギの後姿が見えた。
次の瞬間扉は閉じる。チェシャ猫を探しに行かなければ、と亜莉子は自分に言い聞かせたが、
その意思とは裏腹に足は玄関へと向いていた。
嫌!家には帰りたくない!
抗う意思をよそに、体はドアを開け家に入っていった。

家には灯りがついておらず暗かった。
玄関から上がると、台所と居間を隔てるガラス戸がガタリと揺れた。戸が今にも開こうとしている。
開けてはいけない!亜莉子は駆け寄って戸を両手で押さえた。戸がガタガタと不平を漏らすように揺れる。
その時亜莉子は自分に突き刺さる視線を感じ顔を上げた。ガラス戸の向こうに、包帯女がいた。
声が引きつって悲鳴が出ない亜莉子の目の前で、女は包帯を解き始めた。
目を閉じる亜莉子だったが、聞き覚えのある声に思わず目を開けてしまう。

「おかえり、亜莉子」

目の前の顔に亜莉子は思わず手を離してしまう。戸が勢い良く開かれる。亜莉子の言葉は真っ白になる視界に飲み込まれていった。


足元に母の婚約者、武村が背中を赤く染めて倒れていた。
亜莉子は血に染まったカッターナイフを握りながらぼんやりとそれを見下ろしている。
背後から悲鳴が聞こえた。振り返ると、真っ青になった母がいた。武村に駆け寄り亜莉子を見上げ、何故こんな事をと叫ぶ。
亜莉子が近づくと母は後ずさった。

「そんな目で見ないで!」

叫びながら亜莉子はカッターナイフを振り上げた。

382 :歪みの国のアリス 第六章-2:2007/03/25(日) 14:21:42 ID:IHTqDRFv0
映像が、音が目の前から消える。気付けば亜莉子は居間の入り口に座り込んでいた。
居間には血が飛び散り、惨劇直後の様相を呈している。
目を落とすと、亜莉子の手は血にまみれたカッターナイフを握り締めていた。
母と武村を殺した、自分が。亜莉子はゆっくりと理解すると、霞がかかった頭で考えた。
人を殺したら・・・警察、そうだ、自首・・・罰を・・・
立ち上がると亜莉子は歩き始めた。

交番は家から五分ほどのところにあった。中には制服姿の巡査が一人。
戸を開けると、薄い笑いを浮かべながら巡査は亜莉子に挨拶をした。
人を殺したの、という亜莉子の言葉にもその表情は動かない。
そんな表情の巡査に見覚えのある気がする亜莉子だったが、今はどうでもよかった。
血まみれの両手を突き出し逮捕して下さいと頼む。
しかし巡査は言を左右にし、亜莉子を逮捕しようとしない。
業を煮やした亜莉子が巡査の襟元を掴んで揺さぶると、巡査の制帽が落ちた。
制帽の下から現れたのは、廃ビルで出会った若い男の顔。亜莉子が聞くと彼はトカゲのビルと名乗った。
襟元から離そうとした手をビルが掴む。同時に頭から麻袋のようなものかぶせられ視界がふさがれる。
亜莉子が戸惑っていると、今度は両手が後ろ手に縛られた。耳元でビルが喋る。

「行きましょうアリス、裁判が始まります。」

ビルは亜莉子を担ぐと何処かへと運んでいった。

亜莉子が運ばれたのは大きなホールだった。すり鉢状に並んだ席は、銀の仮面をつけた聴衆で埋まっている。
亜莉子はホールの中央に立たされていた。
目の前に石造りの高い机、そしてその向こうに人の背丈程もある大理石の台座があり、石造りの椅子が据えつけられていた。
椅子の上には、聴衆と同じ銀の仮面をつけた女王。後ろにはやはり銀の仮面をつけた給食着姿の男もいる。
亜莉子と女王の間には一辺2メートル程の、ガラスで出来たような箱が置かれていた。
光の反射で中は見えない。表面に細かいヒビが沢山入っている。
仮面を付けたビルが手を縛っていたロープを外す。
ここは何処か尋ねると、真実の法廷であるとの答えが返ってきた。
カンカンと音が響く。見れば女王が鎌の柄で足元を叩いていた。
静粛に、と叫ぶと場内が静まり返った。もう一度女王が足元を叩くと、トランプに手足の生えたような兵隊が巻物を持ってやって来た。
被告人アリスには重大な容疑がかかっている、よってこれより裁判を執り行う。兵士はそう巻物を読み上げた。
自らの罪は母と武村を殺した事だと信じている亜莉子だが、ビルは亜莉子の罪状を偽証罪と指摘する。
愕然とする亜莉子。嘘は吐いていないと言うと、ビルが尋問を始める。何故殺したのか、しかし亜莉子は答えられない。
アリスはオカアサンが憎いから殺した、というビルの言葉を否定する亜莉子。
するとビルは証拠を見せると言って左手で亜莉子の手を掴み右手を振り上げた。
叩かれる!目をつぶった亜莉子は半ば反射的にごめんなさいと叫んでいた。
しかし実際に叩かれる事はなかった。こわごわ目を開けると、ビルは軽く手を上げて立っている。
何を謝るのです?とビルが聞くが亜莉子は動揺して満足に答えることも出来ない。
ビルは女王の方に向き直ると言った。

「ご覧のようにアリスはアリスは叩かれるのが怖いのです。それは――」

言い返そうとする亜莉子だったが、言葉が紡げない。
叩かれるのは、怖い。
その想いに頭が占拠されていた。

「オカアサンがたくさん叩いたからです。だから被告人はたくさん痛かった。」

打たれてもいない頬が痛む。
ビルが突き放すように言う。憎んで当然かと、と。

383 :歪みの国のアリス 第六章-3:2007/03/25(日) 14:23:47 ID:IHTqDRFv0
女王が立ち上がり憤然と叫んだ。
わたくし達のアリスになんて事を!殺しても仕方ないわ!悪いのはオカアサンですもの!!
亜莉子の弁解は聴衆の歓声にかき消された。
母さんは悪くない、私が、と言い募る亜莉子をビルの冷たい声が止める。

「私が、何です?」

ビルはいつの間にか腕に黒焦げの子犬のおもちゃを抱えていた。亜莉子の脳裏に真っ赤な景色が蘇る。

「わたしが・・・おとうさんを・・・ころしたから・・・」

法廷内が静まり返った。ビルがどうやって殺したのかと聞いてくる。ビシリとガラスの箱に大きなヒビが入った。
涙と共に記憶が溢れてくる。

その子犬は4歳の誕生日に父である寿生から贈られたものである事、
置いて来たそれを火事の中に取りに戻った事、
怖くて動けなくなった所に父が来た事、
自分を励ます父の上に天井から何か降ってきた事、
父が自分を突き飛ばした事・・・。

葬儀が終わった後で、母はぬいぐるみを亜莉子から取り上げ、庭で燃やした。その時が最初に叩かれた記憶。
だからお母さんは悪くない・・・痛いのは与えられた罰・・・。
ガラスの箱に更に亀裂が入る。
耐え切れなくなってオカアサンを殺したのか?とのビルの問いに、箱を見つめながら亜莉子は上の空で肯定の返事を返す。
壊れないで、もう何も思い出させないでと祈りながら。

「異議あり」

法廷に聴きなれた声が響く。中空からチェシャ猫の首が落ちてきてガラスの箱の上に乗った。
被告人はまだ嘘を吐いている、とチェシャ猫が言う。
強く否定する亜莉子だったが、君が殺していなければまずい理由があるんだねとチェシャ猫に言われ凍りついた。
ガラスの箱に大きな亀裂が入る。もういつ壊れてもおかしくない。
チェシャ猫が静かに言った。

「アリス、おなかは大丈夫?」

チェシャ猫の言葉にまごつく亜莉子。次の瞬間亜莉子の足を気持ち悪い感触が這った。
腹部に開いた傷口から血が太ももを伝わって流れ出し、足元に血だまりを作っていた。
お腹を抱えてうずくまる亜莉子に構わずチェシャ猫が宣言する。

「さあ、真実の箱を開こう」

ガラスの箱が粉々に砕け、中からあふれ出た光で法廷は真っ白になった。

384 :歪みの国のアリス 第六章-4:2007/03/25(日) 14:25:54 ID:IHTqDRFv0
二階の自室にいた亜莉子は階下で物音と叫び声を聞いた。
階段を降り居間に駆け込むと、そこには背中を朱に染めて倒れ伏す母の婚約者武村、
そして血まみれの包丁を握って立ち尽くす母の姿。
居間に入ると母はうつろな目で亜莉子を見た。亜莉子は武村に駆け寄る。
まだ体が温かいことを確認し救急車をと叫びかけた瞬間、肩に衝撃と痛みが走った。
手で押さえた傷口から血があふれ出す。
振り返ると母が包丁を突き出してきた。辛うじてそれをかわすも、テーブルに躓いた亜莉子は尻餅をつく。

「もう・・・だめなの。亜莉子・・・ねえどうして?」
「どうしてこうなってしまうの?どうして私は・・・」

うわごとのようにどうしてと繰り返す母を、亜莉子は呆然と見上げた。
赤く濡れたスカート、黒いカーディガン。血の気のうせた青い顔は――包帯の下の顔と同じ――
ゆっくりと母は包丁を構えて亜莉子に近づいてきた。
転んだ拍子に散らばったものか、亜莉子の傍にカッターナイフが転がっていた。亜莉子は思わずそれをつかむ。
制止を呼びかけるも母は止まらない。目前に立った母の目は、深い絶望をたたえていた。
殺されるくらいなら・・・亜莉子の脳裏をある考えがよぎる。

「もういいの・・・もう何もかもおしまいにしたいの・・・」

母が包丁を振り上げる。それが振り下ろされるより早く、カッターの刃を亜莉子は自分の腹部に埋め込んでいた。

殺されるくらいなら――私は自分で――

押し込みながら亜莉子は願う。はやくしんで。ころわれるまえに。よけいなものをみてしまうまえに。
母の叫びが聞こえる。差し伸べられた白い腕を見た気がした・・・。

亜莉子は自宅の居間にいた。大量の血痕が畳の上に模様を描いている。
テーブルの上にはチェシャ猫がいた。

「君は自ら命を絶とうとした。母親に殺される自分を見たくなかったんだね。」

哀れむようなチェシャ猫の声。
私は自殺した、母に殺されてなんかいない。そんな惨めな子供なんかじゃない・・・!
絞り出すように言うと亜莉子の意識は闇に落ちた。

385 :歪みの国のアリス 第六章-5:2007/03/25(日) 14:26:29 ID:IHTqDRFv0
気付くと、亜莉子は黒い石造りの通路の上に立っていた。
壁も天井も無いその通路は赤と黒が入り混じった空間にグネグネとねじれ伸びている。
夢か現か判然としないまま歩き出した亜莉子の足元でピチャリと湿った音がする。
見れば腹部の傷から流れ出した血が血だまりを作っていた。
痛みを感じない亜莉子はそのまま歩き出した。
何処からともなく声が聞こえてくる。今まで出会った不思議の国の住人達の声だ。

「お母さんに叩かれた小さなアリスが逃げ込むために作った不思議の世界」
「不思議の世界は君の歪みを吸い上げる」「君が歪まないように」
「けれどオカアサンは不思議の国を嫌った」

中空に幻が浮き出る。叱りながら手を上げる母、泣きながら謝り続ける小さな亜莉子。

「小さなアリスは俺達を心から締め出した」

母の幻が消え、泣きじゃくる小さな亜莉子だけが残る。その前にシロウサギがあらわれた。
白いワイシャツにグレーのスラックス、父と良く似た格好。シロウサギはかがみこんで亜莉子の頭をなでる。
けれど小さな亜莉子は横を向いてしまった。

しろいウサギなんていないの おかあさんがなくからいたらだめなの

幻が消える。亜莉子は歩き続ける。また声が聞こえた。

「不思議の国は閉じられ、私達は忘れられた」
「けれどシロウサギだけは人に紛れてアリスの傍に」
「シロウサギはアリスの歪みを吸い上げ続けた。あの夜、自分が歪んでしまうまで」
「歪んだシロウサギは何を願う?」

道が途切れた。亜莉子はふちにまで進み奈落を覗き込む。
背後、ごく近い距離から女王の声がした。

「それでも思うのは あなたのこと」

振り返ったが、そこに女王はいない。代わりに全身を血で染めたシロウサギが立っていた。
腕に人形を抱えている。黒い髪、緋色のエプロンドレス、亜莉子そっくりな人形。

ウデ ウデ ウデ♪ウデはどこだろ♪ウデがなくっちゃ♪僕にふれてもらえない♪
アシ アシ アシ♪アシはどこだろ♪アシがなくっちゃ♪僕と一緒に歩けない♪
クビ クビ クビ♪クビはどこだろ♪クビがなくっちゃ♪僕を見つめてもらえない♪
イノチ イノチ♪イノチはどこだろ♪イノチがなくっちゃ・・・

そこまで歌ってシロウサギは顔を上げた。優しい声で言う。

「大丈夫だよ 迎えに来たんだ さぁ・・・」
言葉と共に差し出された手亜莉子が取ろうとした瞬間、獣の威嚇するような声が頭上から降って来た。
ウサギの姿はかき消え、その呟きだけが残る。

「アトハ命ダケ」


第七章、まどろみの現し世へつづく

386 :歪みの国のアリス 第七章-1:2007/03/25(日) 14:31:34 ID:IHTqDRFv0
第七章 「まどろみの現し世」


最初に目に飛び込んできたのは見知らぬ天井だった。
薬品の匂い、スピーカーの呼び出しの声で病院の個室にいる事がわかった。
朦朧としながら寝返りをうとうとした亜莉子は腹部に激痛を覚える。その痛みが亜莉子を覚醒させた。
いつの間にか亜莉子は入院着に着替えていた。
寝返りを諦め天井を見上げながら母の事を想う。
本当は嫌いじゃないはず、いつの日か、きっと好きになってくれる。そう信じていた。
けれど殺したいほど憎まれていた。
そんなこと知りたくなかったから死のうとしたのに、今自分はここに生きている・・・。
自嘲しながら亜莉子は体を起こした。激痛が走る腹部を押さえ病室を出る。

何も考えずに歩いて着いた先は屋上だった。取り込み忘れたタオルが数枚はためいているだけで、周囲に人影はない。
フェンスに手をかけぼんやりと夕暮れの街並みを眺めていると、背後から聴き慣れた声がした。
振り返るとチェシャ猫の首がぽつんと落ちている。
街並みに目を戻しながら、亜莉子はシロウサギの残した呟きの事を無感情な声で尋ねた。
「シロウサギはアリスをここから連れ出したいんだ。肉の器に包まれた、その命を引きずり出して。」

素敵、チェシャ猫の言葉に亜莉子は笑いながら答えた。
チェシャ猫が何か言おうとしたが、黙らせるように亜莉子は言葉を重ねる。
自分のせいで父が死に、自分のせいで母を苦しませ、それでも母の愛を求めていた事。
自分が生き残った事で何かが歪み惨劇が起きた事。
言い終わると、脱力感が全身を襲ってきた。(*エンディング分岐あり)
シロウサギが殺してくれるならそれでいい。そう呟くとしばしの沈黙の後、チェシャ猫はいつものセリフを口にした。

「・・・僕らのアリス、君がそれを望むなら。」

その言葉を聞いた瞬間、亜莉子の内にあった複雑な感情が爆発した。。
あなたはそればかり、私の生き死になんかどうでもいいんでしょう、あなたさえいなければ何も知らずにいられたのに・・・。
言葉が制御できなかった。
自分が「彼ら」を作ったなら、自分の生き死にに無関心でいられるわけがない。チェシャ猫はいつも傍で助けてくれた。
頭の中で分かっていても言葉は止められなかった。
やがて亜莉子は言葉を詰まらせ、床に視線を落とす。

「猫は『導く者』と決められている」

不意にチェシャ猫が呟いた。亜莉子は思わず顔を上げる。チェシャ猫は続けた。
アリスの意思は僕らの意思、僕は導く者だからアリスの意思は超えられない。全てはアリスの真に望むままに。
そしてあの夜、僕は命じられた。隠し続けた真実へアリスを導くように。
誰に命じられたのか疑問に思う亜莉子だったが、それは亜莉子本人らしい。
驚いて否定する亜莉子だったが、チェシャ猫は亜莉子の願いを感じ取って動いたのだという。
チェシャ猫は続けた。壊れそうになった亜莉子が賭けで全てを受け入れるのを決めたこと。
壊れてしまう可能性が高かったため女王やカエルは反対した事。

「自分がどんなに傷つくか分かっていても、それでも・・・アリスは生きたいと願ったんだよ」

「僕らのアリス、君が僕らを作り出した。現実がどんなに君をを傷つけても君は生きようともがいて僕らを作り出した」
「僕らはそのために在るのだと思う・・・」

言葉が出なかった。ただ涙が溢れてくる。チェシャ猫の首を抱きしめると、亜莉子は大声を上げて泣き始めた。

387 :歪みの国のアリス 第七章-2:2007/03/25(日) 14:33:13 ID:IHTqDRFv0
泣き止んだ後の亜莉子の心境はスッキリともポッカリともつかないものだった。
鼻をすすりながら自分がどんな顔になっているかチェシャ猫に尋ねると、
いつもと大して変わらないと微妙に失礼な返事が返ってくる。
憮然としながらも、このやり取りは独り言なのではないかと思う亜莉子。
だがチェシャ猫によれば、彼らを創ったのは亜莉子だが彼らは亜莉子ではない。
亜莉子は絶対的な存在だが絶対の支配者ではないとの事。
理解しかねて首を傾げていると、チェシャ猫がニンマリ笑って言った。

「みんなアリスが好きってことさ」

ごまかされている気もするが取り敢えず納得する亜莉子。
シロウサギも?と聞くと、ずっと傍にいたのだから当然らしい。
しかし亜莉子はシロウサギの事を憶えていない。幼い頃の記憶は戻ってもそこにシロウサギの影はない。
チェシャ猫が言う。亜莉子の「シロウサギの記憶」はシロウサギが歪みと共に吸い上げてしまっている。
今までに出会ったシロウサギはその欠片であって、本物は別にいる、と。
不思議の国の住人達の言葉が蘇る。

――けれどシロウサギだけは人に紛れてアリスの傍に――

その時腹部がズキリと痛んだ。傷口を見ると、ガーゼに血がにじんでいる。
誰が自分を運んだのかと思ったその時、不意に武村の事を思い出した。
思わず立ち上がる亜莉子だったが、激痛に襲われその場にうずくまる。
一旦病室に戻ろうと考え、亜莉子は取り忘れられていたタオルを一枚手に取った。それでチェシャ猫の首を包む。
傍目にはメロンか何かに見えるだろうと希望的観測を持ちつつ、亜莉子は屋上を後にした。

病室のある階まで戻ってきた所で、亜莉子は足を止めた。病室が分からない。
辺りを見回しながら歩いていると、目の前の病室の戸が開いて見覚えのある中年の男性が出て来た。
目が合う。男が声をかけてくると同時に亜莉子は何処で見たのか思い出した。
ホテル前で、廃ビルで亜莉子を追いかけてきたあの男。
亜莉子は痛む傷口を抑えて身を翻した。が、怪我人でありあまり早くも走れない。階段の所で手を掴まれる。

――シロウサギは人に紛れてアリスの傍に――
――あとは命だけ――

亜莉子が悲鳴を上げると、看護師が慌てて駆け寄ってきた。
廊下にへたり込んだ亜莉子が男を指差すと、看護師は不思議そうな顔で言った

「叔父さんがどうかしたの?」

389 :歪みの国のアリス 第七章-3:2007/03/25(日) 14:36:43 ID:IHTqDRFv0
ベッドに押し込まれたの横で、男は申し訳なさそうに頭をかきながら自己紹介した。
和田康平、母の弟という自称叔父を亜莉子は観察する。亜莉子はその男を知らない。
そもそも母に兄弟がいたなどと聞いた事もない。
そう思って尋ねると、事情があって疎遠だったと康平は言葉を濁した。
疑うには十分な条件が揃っていた和田にシロウサギかとストレートに尋ねてしまう亜莉子だったが、
返ってきたのは素っ頓狂な声だけだった。
しばしの沈黙の後、康平が言葉をかけてきた。
以前、少しの間だが一緒に暮らしていたこともあるらしい。
父が死んでしばらくの間、亜莉子と母は実家にいたと言われたが、
火事前後の記憶が断片的にしか残っていない亜莉子は思い出せなかった。

話題を切り替えるように、亜莉子は何故ホテル前や廃ビルで自分を追いかけたりしたのと質問する。
病院から脱走した姪を見つけたら、普通は追いかけるだろう、と康平は憮然として答える。
脱走。これも亜莉子に憶えのない話だった。悩む亜莉子を康平は眉をひそめて見ていたが何も言わなかった。
ところで、と康平が気分を切り替えるように言う。亜莉子がずっと抱えていたタオルの包みが気になるらしい。
亜莉子が思わず大声を出すと、康平はビックリしたように伸ばしかけた手を挙げた。気まずい沈黙が流れる。

その時、ドアをノックして医者が入ってきた。亜莉子の診察を終えると、康平のほうを見る。警察、と言う言葉が聞こえた。
康平が亜莉子の顔を覗き込んでくる。警察が話を聞きたがっているが、話せそうか?康平が尋ねる。
警察と言う言葉に、母と武村の事が思い出された。看護師に呼ばれ出て行く医師を尻目に、武村は無事だと答える康平。
同じ病院に入院しているらしい。回覧板を持ってきた隣人が通報してくれたようだ。
お母さんは?と聞く亜莉子に康平は一瞬言いよどんだ後、姿はなかったと答えた。
歯切れの悪い答えに亜莉子は閃くものがあった。
問い詰めるように尋ねると、康平は亜莉子をしばらく見つめた後ため息をついて答えた。
現場には母の姿はなく、代わりに母のものと思われる大量の血液が残されていたらしい。
強いめまいがして、亜莉子は思わず康平の腕を掴む。
見つかったら、生きてたらお母さんは逮捕されるの?と聞くが康平は首をひねった。
状況から見て母が刺したのは間違いなさそうだが、武村は理由を含め全て黙秘しているらしい。
面会を口にする亜莉子だったが、両方怪我人なんだから後にするよう言われ引き下がる。

警察の聴取は結局翌日という事になった。
面会終了時刻に近くなり、康平はショルダーバックを抱えて立ち上がる。明日また来る、と言うと康平はドアへ向った。
康平を信用していいものか、亜莉子が悩んでいるとドアを開けた康平が振り返った。

「おやすみ、アリス」

そういい残して出て行く康平。亜莉子は驚きで言葉が出ない。

シロウサギだけは人に紛れてアリスの傍に

本当に彼は叔父なのか、疑問を抱えながら亜莉子は眠りについた。

390 :歪みの国のアリス 第七章-4:2007/03/25(日) 14:39:17 ID:IHTqDRFv0
翌日、目を覚ますと布団の中に入れておいたチェシャ猫がいなかった。
自分で棚に入ったのかと思いベッド脇の棚を開けてみる。
果たしてそこにはタオルの包みがあった。安心した亜莉子は包みを引っ張り出す。
声をかけながらタオルをはがすと、中から出てきたのは立派なマスクメロンだった。
三味線じゃなくてメロン!?と軽く錯乱する亜莉子。
きっと誰かがお見舞いで置いていったのだろうと無理矢理結論付け、メロンを棚の上に置く。
するとトランプのカードが一枚、床に落ちた。
拾い上げるとそれはハートのクイーンのカードだった。
不思議に思って見つめていると、カードの表面に赤い文字が浮かび上がってくる。

気付き損ねている もう一つの真実は 目の前に

思い当たる節がなく首を傾げている亜莉子を残し、文字は儚く消えていった。

昼食後、眠気に襲われた亜莉子は夢を見ていた。
甘く芳ばしい、何処かでかいだ懐かしい香り。白木蓮に似ている。薄暗くなり始めた道の角、
早春に花をつけた白木蓮の香りが好きでよく連れて行った貰った。あの人は――あの人?

目を覚ますと雪乃が花瓶に花を活けていた。名前の知らない白く小さい花。
亜莉子が声をかけると、雪乃は振り返った。
怪我の具合や翌日に迫った亜莉子の誕生日の事など他愛もない話に亜莉子は安心感を覚える。
その時ドアをノックする音が聞こえた。続いて武村だと名乗る声が聞こえる。
予想だにしていない来訪者に慌てる亜莉子。拍車をかけるように雪乃は帰るそぶりを見せる。
雪乃を引きとめようとしていると、病室のドアが開いた。
亜莉子の意識がそちらに向いた隙に、雪乃は武村の脇をすり抜け出て行ったしまう。

怪我の調子を尋ねてくる武村。その武村自身が動きに精彩を欠いており、亜莉子は申し訳なさを覚える。
頭を下げた亜莉子に、君は悪くないといたわりの言葉をかける武村。
あの夜の事をおそるおそる尋ねるが、武村は微笑むだけで何も答えようとしなかった。

武村と話していると、再びドアをノックする音が聞こえる。入ってきたのは康平だった。
康平は武村を見かけると一瞬眉をひそめたように見えた。社交辞令を交わすと、康平は警察が来ていることを亜莉子に告げる。
武村が出て行くと、何しに来ていたんだと康平は亜莉子に聞いた。
単なる見舞いだとそのままを答える亜莉子だったが、康平の武村に対する態度に引っかかるものを感じる。
その時ドアをノックする音が聞こえた。

事情聴取に来たのは男女二人組みの刑事だった。主に女の刑事が質問をする。
一通りの事を話す過程で、新しく分かった事もあった。
亜莉子はあの夜意識不明のままこの病院に運び込まれたが、そのまま原因不明の昏睡状態に陥ったらしい。
そしてそのまま病院から失踪したようだ。
亜莉子の記憶はあの夜からそのままチェシャ猫に会うところにつながっている。
自分で脱走したのかチェシャ猫が連れて行ったのかは分からないが、
いずれにせよ説明のしようがないので記憶がないということで亜莉子は押し通した。

一通り話が終わると、男の刑事が付け足すように質問した。
現場にウサギの毛が落ちていた、お宅でウサギは飼っているか、と。
否定する亜莉子だったが、意識を失う瞬間白い手が差し伸べられた事を思い出す。
刑事が出て行った後で頭痛を覚えながら亜莉子は眠りについた。

391 :歪みの国のアリス 第七章-5:2007/03/25(日) 14:41:22 ID:IHTqDRFv0
誕生日の空は灰色だった。雪乃が持って来た花の香りが漂う病室内で、亜莉子は昼食の後物思いにふけっていた。
母の事、ウサギの毛、叔父の事、チェシャ猫・・・。
その時ドアがノックされる。
現れた武村は大きな花束を抱えていた。誕生日おめでとう、そう言うと亜莉子に花束を手渡す。
戸惑いながらも喜んで受け取る亜莉子。
退院したら改めてお祝いしようと言う武村。一瞬暗い考えに亜莉子は陥ったが、それを振り払いうなずいた。
花を活けようにも花瓶が足りないな、と呟く亜莉子に武村は棚を指差す。
そこには雪乃がくれた花が、と言いかけた亜莉子は次の瞬間言葉を失った。
花瓶は空っぽだった。
雪乃が持って来てくれた花がと主張する亜莉子だったが、武村は亜莉子が何を言っているのか分からない様子だ。
昨日病室にいた子だと亜莉子は言ったが、武村の言葉に絶句する。

「あの時、君は一人だったじゃないか」

部屋にはまだ花の香りが漂っている。むせかえるほどの香り。亜莉子にだけ分かる香りが。
呼吸が苦しくなり、棚の前で亜莉子はひざまずいた。武村が慌ててナースコールを押すが反応がない。
悪態をつくと、看護師を呼ぼうと武村は部屋を出て行った。
顔を上げると、ベッド脇の鏡が眼に入った。鏡の中の花瓶には、白い花が咲き乱れている。
武村には見えなかった雪乃、鏡の中でしか咲かない花。

唐突に、破裂するような音が響いた。血のような赤い文字が、ヒビの入った鏡に浮かんでくる。

   キ   タ

弾かれたように亜莉子は窓に駆け寄った。窓の下の歩道を、見覚えのある少女がリボンの付いた大きな袋を抱えて歩いている。
彼女の姿がアーケードの屋根に隠れるのを見て、亜莉子は病室を飛び出した。


最終章、狂宴のはてにへ続く

392 :歪みの国のアリス 最終章-1:2007/03/25(日) 14:44:36 ID:IHTqDRFv0
最終章 狂宴のはてに


病室を飛び出した亜莉子はすぐに異変に気付いた。静か過ぎる。
隣の相部屋になっている病室を覗くと、普段と変わらぬ風景の中、やはり人だけが忽然と消えていた。
その静寂の中、靴音が廊下の端から聞こえてきた。こちらに近づいてくる。(*エンディング分岐あり)
亜莉子は足音とは反対側にある、下へと続く階段を降り始めた。

腹部の傷の痛みは、一階にたどり着く頃には行動を阻害するほどに酷くなっていた。
正面玄関に辿り着いたはいいが、自動ドアは亜莉子が近くまで寄っても反応しない。
こじ開けようとすると痛みが腹部に走った。
その場にうずくまり痛みに耐えながら考える。
エレベータホールの向こう側に夜間出入り口があったことを思い出すと、
痛みでうまく動かない体を引きずるようにして亜莉子はノロノロと歩き始めた。

エレベーターの前まで来ると、機械音が聞こえた。
エレベーターが動いている。亜莉子の病室のあった四階から三階へ、ランプの表示がおりてくる。
このままでは夜間出入り口に着く前に追いつかれてしまう。
亜莉子は咄嗟に目の前にある地下への階段を転げるように駆け下りた。背後でエレベーターの開く音がした。

地下に着くと、慢性的に激痛の走る腹部を押さえ亜莉子は隠れられる場所を探した。
通路の両脇にある扉はことごとく鍵がかかっており、亜莉子の侵入を妨げる。
痛みで意識が遠くなりかけた時、もたれかかるようにしてノブをひねったドアが開いた。
亜莉子はそのまま室内に転がり込むと、腹を押さえてうずくまった。
それから、痛みで朦朧としながらも顔を上げ室内を見回す。
部屋の中央に据えられた銀色の台や他の設備から、その部屋はどうやら解剖室である事がわかった。

その時、後ろから声がかかる。振り返ると、雪乃がいつもと変わらぬ笑顔で袋を抱えて立っていた。
誕生日プレゼント持ってきたのよ、気に入ってもらえるかな、と雪乃は亜莉子の戦慄など意に介さないように言う。
言いながら、雪乃は袋に右手を入れ中身を取り出す。笑顔で差し出された手の先には――亜莉子の母の首が乗っていた。
亜莉子の思考が止まる。誕生日おめでとう、雪乃が笑顔を崩さずに言った。
呆けるように見つめる亜莉子の前で、雪乃は徐々に変わっていった。
色白の顔がますます白くなる。目が赤く変色する。服に返り血が浮かび上がる。
ついには声が低くなり、顔がぐにゃりと歪み白いウサギの顔と雪乃の顔が混じりあう。

「アアアアアリアアリス」
「アリスボクラノアリアリス」

母の首が床に投げ出される。空いた右手にはどす黒いものがこびりついた包丁が握られていた。

「タンジョウビトビッキリキズツケルセカイナラ」
「ゼンブケシテヨクナイモノアリスクダサイコエヲ」

座ったままあとずさった亜莉子の背が解剖台に当たった。その音でシロウサギの顔が目の赤い雪乃の顔で安定する。

「・・・急がナきゃ、アリスを連レテ、行カなくちゃ」
「オいでアリス、僕ノアリス」

そう呟くと、シロウサギは壊れた人形のような足取りで近づいてくる。
差し出された手を振り払おうとした時、シロウサギの言葉が続いた。

393 :歪みの国のアリス 最終章-2:2007/03/25(日) 14:46:43 ID:IHTqDRFv0
「きミを傷ツるダけの世界なラ、捨ててしまっテ」

亜莉子の脳裏に様々な想いがよぎった。
愛されたいという想い、床に転がる母は二度と自分を愛してくれないという事実、叶わぬ願い、母に否定された自分・・・。

「オ、いデ」

シロウサギが手を差し出している。(*エンディング分岐あり)
でも――現実は時に不公平だけど、人はその現実の中で生きていかなければいけない。

「行かない・・・私、ここで生きていくって決めたの・・・」

痛みに喘ぎながらも亜莉子はキッパリと言った。
しかしシロウサギは亜莉子の言葉など届いていないかのように足を踏み出してくる。

「イッショニイコウ」

シロウサギの顔が再び歪んだ。同時に包丁が振り上げられる。
覚悟と共に目をつぶった亜莉子に、何かが覆いかぶさってくる。目を開けると、そこにいたのはチェシャ猫の体だった。
包丁が振り下ろされる。それでもチェシャ猫の体は動かない。亜莉子の叫びも空しく、包丁は何度も振り下ろされた。
やがてチェシャ猫の体から力が抜け、亜莉子の傍に崩れ落ちる。
チェシャ猫の体に刺さった包丁を引き抜こうとしているシロウサギの顔は、最早ただの歪みになっていた。
シロウサギの歪みは自分が負わせた物という事実で、自身に絶望する亜莉子。
包丁を諦めたシロウサギが手を首に回してきても、それを振り払う気力は湧いてこなかった。
シロウサギの手に力がこもり、視界が赤く染まっていく。

「亜莉子」

その時、亜莉子を呼ぶ声が聞こえた気がした。ひどく悲しそうな、泣きそうな声。
その声に動かされたかのように、亜莉子の手はチェシャ猫の体から包丁を引き抜いていた。
そのまま包丁をシロウサギの胸に突き刺す。
泣きながらごめんなさいと呟く亜莉子。その時、シロウサギの手が亜莉子の頭をなでた。
顔を上げると、そこにあったのは昔自分をあやしてくれたシロウサギの顔。

「泣かないで、アリスは何も悪くないんだよ」

シロウサギがいつもそういって自分を慰めてくれた事を亜莉子は思い出す。
あなたが守ってくれたから私はここにいる。だから一緒には行けない。

「私、大丈夫だからね」

そう言うと、亜莉子は包丁を更に深く突き刺す。
この感触、この痛み、この匂い、二度と忘れないようにと心に刻みながら。
シロウサギの体から力が抜け、チェシャ猫の体の上に崩れ落ちる。
二人の体はガラス細工のように砕け散り、跡形も残らなかった。
気付くと、病院の喧騒が戻っていた。
ベッドに戻ろう、そう思って立ち上がろうとした亜莉子はバランスを崩して倒れ意識を失った。







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