安価『はじめてだが、ほ』
開け放した窓からは、まだ少し小さな鈴虫の声。
「……なあ」
「ん? どうした」
涼しい顔をしたまま聞き返してくるのがまた小憎らしい。
「……なんかリアクションはないのか。何か言うとか、驚くとか、嫌がるとか」
「いや、まあ別に今のところは」
こっちはこんなに死にそうな程動揺しているのに、これじゃあまるで逆だろう。
「……状況、理解してるか?」
「んー、まあ、お前が犯罪に走りそうになってる事が判るくらいには」
「…………ぶしつけでございますが、もしやこういった経験がおありで?」
「はじめてだが」
――ほ、と安堵の息が漏れたのを露骨に見られて、赤くなった顔を見られて、クスリと笑われてまた赤くなる。ああエンドレス。
ソファに組み伏せられたまま、くすぐったそうに笑う顔に一筋汗が伝う。
なんだやっぱり焦ってるのかと一瞬勘違いしかけて、すぐに自分の汗が落ちたのかと気が付いた。
裏を返せば、そんな距離と位置関係。
「……いや待て、おれ……私が言うのもアレだが、なんでお前がそんなコーナー追い詰められてサンドバッグみたいな顔してるんだ」
「…………俺が知るかよ」
「…………むぅ」
……自覚してまた、逃げ出したくなってきた。
夏が始まる前は何一つ憂いのなかった俺の青春は、夏の初っ端からもう無茶苦茶だった。地震ヤバイとか雷雨ヤバイとかそういうレベルじゃない。マジヤバイ。
久々にツレとゲーセンに繰り出そうとしたら、何故か白ワンピの美少女に声をかけられた。人違いだとか(rybyポルナレフ。
しかもタチの悪い事に、そのバカこと七瀬が正体を明かさずにそのまま一日付き合ってくれやがったおかげさまで。
……気付いた時にはどうしようもなく、手遅れだった訳だ。
……けれど本当に苦しかった夏も、今日でようやく終わる。これでもうノリノリで海行って水着見せられたり、祭行って浴衣見せられたりする事もないのだ。合法的に距離が取れる。これだけ新学期に感謝したのは初めてかもしれない。
「やあ、ようこ」
「バーボンハウスではありません。つーか来たのはお前だ。お帰り下さい」
「だが断る」
なので新しく新調した女子のブレザー姿を見せに来たらしい。意味が判らない。明日でいいじゃねぇか。
「よし、このまま桃鉄99年徹夜な」
「……今日、親が田舎に帰ってていないんだが」
「むしろ好都合じゃない?」
迷惑過ぎて鼻血が出そうだ。
そして何より迷惑なのは、追い返すどころかこんなどうでもいい事に高鳴る俺の心臓だ。
で、何故こんな事になっているのか。
「………………」
「………………」
きっかけはたいした事じゃない、ような気がしない事もない。
またふざけたのかマジなのかも判らないコイツが、眠い、ひざ枕ーとか言ってじゃれてきただけだ。
なのに、溜まっていた何かが少し零れた。
ほんの少し。表面張力で余分に出てた分が少し垂れた、その程度。
……いっそ、派手にいってくれればここまでヘタレた事にはなってなかったろうに。
下の体がほんの少し身じろぎして、一瞬ビクつく。それはもちろん七瀬にもしっかり伝わったのか、少しすまなそうな顔をされた。
「あ、悪い」
「え、いや」
なんだこれは。意味が判らない。
完全に動けなくなっている俺を真っ直ぐ見つめて、相変わらず、澄ましたような顔で七瀬が笑う。
「………………そろそろ、なんかしないか?」
「……なんかって何だ」
「……いや、まあ、その……あー離れる、なりなんなり、いやまあお前がこの体勢で桃鉄やりたいならそれでもいいが」
俺の番だ。振らなければ桃鉄は進まない。
……そしてここで振れば、多分何も進まない。ついでに恐らく、コイツはそれはそれで許してくれるだろう。
ならまあ、砕けてみたい。
真っ直ぐに、瞳の奥のその向こうまで覗き込むように。
「……嫌だ、と言ったら」
少しだけ、その中が潤んだような気がしたのは自惚れだろうか。
「…………じゃあ、お前の注文を聞こうか?」
最終更新:2008年09月08日 20:26