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緊急直言 胡錦濤主席の早大訪問歓迎せず

出元;http://www.asaho.com/jpn/coverright.html
日中友好の歴史は、中国の民衆や知識人と早稲田大学との文化・学術交流の歴史でもある。大隈重信以来、中国のキーパーソンが早大を訪れ、あるいは早大で学び、中国の政治・経済・金融・文化・学術などさまざまな分野で活躍してきた。早大の留学生総数は2721人だが、中国からの留学生は1057人と、全体の4割近くを占める(2007年11月1日現在)。法学部・法学研究科で法律を学ぶ中国人留学生は82人おり、何人かを私も教えている。過去・現在・未来に向かって、中国との文化・学術交流はきわめて重要であり、体制は違っても、重要な隣人であることに変わりはない。
   一方、早稲田大学は、学問の自由、進取と在野の精神と、「学の独立」を掲げ、外に向けて、とりわけアジアに向けて開かれた大学を標榜している。偏狭なナショナリズムとは無縁であり続けている。しかし、大学は常に、誰に対しても開かれているわけではない。相手が一国の元首であったとしても、政府・外務省とは違った、大学としての立場と見識によって、ゲストとして招くかどうかを自ら決定すべきである。 大学の自治の観点から当然だろう。
   加えて、 大学が招待する以上、構成員がこぞって歓迎できる相手であることが望ましいし、そうあるべきである。ただ、国家元首や政治家の場合は評価が対立し、それぞれの国における政治動向も反映して、時に反対運動が起こることもまた、思想や言論の多様性を前提とする大学の場合、ある意味では「日常的」風景といえるだろう。早大の歴史のなかで、たくさんの国家元首や政治家が来学したが、それについてこの11年間、講演「内容」を理由として、来学に批判的なコメントをすることはしなかった。しかし、今回は特別である。

  明日(5月8日)、中国の胡錦濤国家主席が大隈講堂で講演を行う。結論からいえば、私はこの来学を歓迎しない。むしろ、大学理事会は、大学としての見識を発揮して、これを断るべきであった。しかし、理事会は胡錦濤来学を演出し、福原愛選手(スポーツ科学部)+福田首相vs胡錦濤氏+中国選手の卓球のダブルスまでセットした模様である。これで、メディアは和気あいあいムードを演出するのだろうが、内閣支持率19.8%(共同通信5月2日)の福田首相の起死回生になるとはとうてい思えない。そんな茶番劇に協力する大学に、情けないを通り越して、悲しみすら覚える。

  一般に、外国の賓客が来学し、講演を行うときは、事前に教職員に対して参加を募る案内が届く。限られた範囲の人々を集めるような講演会でも、関連科目の担当教員には招待状が来る。学生の参加を募ることもある。しかし、今回は、講演会があることすら伏せられ、前日になっても公式ホームページに情報提供は一切ない。少なくとも私の所属する法学部の中国語関係の教員に対して講演会への参加案内はなかった。法学部がそうなのだから、全学的に中国関係の教員・研究者に参加を呼びかけるということはなされなかったとみてよい。全学に中国語を履修する学生はたくさんいるが、そういう学生たちに講演会への参加がアナウンスされることもなかった。大隈講堂に入れる早大生は、1998年11月の江沢民主席来学時のような、一般公募の学生たち(その個人情報の扱いをめぐって訴訟にまで発展したところの)ではなく、40人前後の「身元の確かな」中国留学経験者だけである。彼らには、事前に「政治的な質問はしないように」という趣旨のことが伝えられたようである。
   そして、明日、大隈講堂の一階前よりの座席を埋め尽くすのは、胡錦濤主席と一緒に来日した中国共産主義青年団の精鋭200人とみられている。昨日、軽井沢で静養した彼らは、元気いっぱいで「警護任務」につく。胡錦濤氏はこの青年団の出身で、1984年にその第一書記(最高指導者)に登りつめた人物である。中国共産党のエリート養成機関であり、まさに彼らは胡錦濤氏の「親衛隊」といってよいだろう。この親衛隊があたかも学生の聴衆のように拍手を送る。明日の夕方のニュース映像には、早大生が拍手しているように映るのだろうが、中国製の「サクラ」である。
   このように、 早大の教職員も学生もあずかり知らないところで、「早稲田大学は、胡錦濤主席を歓迎する」という行事がとりおこなわれる。これは相当な疑問符である。

  胡錦濤氏の警備は「米合衆国大統領並み」と聞く。明日、さまざまな団体が大隈講堂前で抗議行動を繰り広げるだろう。警備上の導線から、立ち入り禁止ゾーンが設けられる。木曜日というのは授業が集中する日である。昼過ぎから正門は閉鎖され、1号館で行われる政経学部のすべての授業が別の教室に変更となった。理由は「重要な行事が行われるから」と。南門周辺は3 限(13時から)の授業前に混乱が心配される。大学理事会は教職員にすら事前の情報開示もせず、警備上の事情を最優先させた。そこまでして、今、胡錦濤氏を早稲田に呼ぶ必要があるのか。

チベット問題が起きて、オリンピックの聖火リレーは、中国と北朝鮮を除くほとんどの国で混乱した事態をもたらした。「政火」のリレーとなって、「政治的火の粉」は全世界をめぐった。それだけ、中国が行ったチベットでの弾圧政策は世界中の心ある人々の怒りをかっているのだ。そうしたなかで、チベット事件以来、初めての外国訪問となる日本。そして、講演としては早大が初めてとなる。これは、胡錦濤氏が世界に向けて、自己の立場と行動を正当化する一大デモンストレーションの場として利用されるだろう。

  外務省からの依頼があったとしても、これだけ世界がチベット問題や人権問題について関心を高めているときに、大学としての見識を示すべきだったと思う。福田首相は早大出身である。あの森喜朗元首相もそうである。
   いま、日本も、日本政府も、早稲田大学も、世界中から注目されている。本当の友人というのは、相手にはっきりものをいう関係、いえる関係である。 だが、政府の対応にも、大学の対応にも、「人権」に対する毅然とした指針がみえない。
   チベット問題は、さまざまな複雑な背景をもつが、人民解放軍を投入して「鎮圧」した事実は否定できない。世界中からの厳しい批判に、胡錦濤氏の党の政府は、「中国がんばれ」というナショナリズムの高揚で乗り切ろうとしている。そして軍である。いま、中国各地で、「格差社会」の矛盾からさまざまな騒乱が起きている。それを抑圧するために登場するのが、「人民解放軍」である。
   胡錦濤氏は46歳でチベット自治区の党書記となり、1989年3月7日に、チベットのラサに戒厳令を布告して、弾圧政策の実施の最高責任者となった。そして、常に「人民解放軍」を投入して、チベットの人々の自由を抑圧してきた。

  来年は天安門事件から20年である。1989年6月4日(日)。自由を求めて天安門前に集まった学生・市民を、人民解放軍の戦車と装甲車が押しつぶした事件の全貌はいまだに明らかになっていない。中国の党・政府の公式発表は、「反革命暴乱を平定し、社会主義国家の政権を防衛し、人民の根本的利益を保護し、改革開放と現代化建設が引き続き前進するのを保証した」(1992年、中共第14回全国代表大会の江沢民報告)というもので、この評価は胡錦濤政権のもとでも変わっていない。胡錦濤氏は、天安門事件のときも、チベットに運動が波及しないように、担当区域に戒厳令を布告している。人民解放軍を統括する中央軍事委員会副主席に彼がなったのは、天安門事件の10年後である。

首相ゴードンブラウンに宛てた公開書簡

ダライラマとの会見が政府官邸ではないカンタベリー主教のロンドン公邸である、ランベスパレスで行われようとしていることに対して、ちょっと待った!の声。

5月8日付けプレスリリース
イギリス首相ゴードンブラウンに宛てた公開書簡
親愛なる首相へ

今月来英されるダライラマ法王との公式会見に合意していただいたことにたいして、および現在チベットの置かれている状況について話し合いがもたれるように、公式見解を発表していただいとことに対して、フリーチベットキャンぺーンを代表して、今一度、お礼を言わせていただきます。

しかしながら、聞き及びました噂によると,今回の会見が政府官邸ではない、ランベスパレスにて行われようとしていることに、危惧を覚えます。
私たちは、この予定を変更してダライラマとの会見を、1991年度12月の際のジョンメイジャー前首相や、1999年5月の際のトニーブレア前首相がされたように、政府官邸である10downing street にて行われるように強く要望します。

ご存じのように、ドイツ首相アンゲラ・メルケル(Angela Merkel)は、政府官邸にてダライラマと会見され、カナダ首相スティーブンハーパー(Prime Minister Stephen Harper)、も同様でした。また、アメリカ、ジョージブッシュ大統領は、ダライラマに、市民栄誉賞を与えられました。英国首相として同様のレベルでお迎えするのは当然といえましょう。

何百人もの死傷者を出し、何千とも言われる平和抗議運動の参加者の逮捕、外国人報道人の完全シャットアウト、拷問、脅迫と剥奪等を調査するための独立機関のチベット入国を拒む中国政府などの状況下、今こそがダライラマこそ,この何十年も続いている悲劇の解決の鍵を握る人物と認める時だとは思われませんか。

首相、あなたが今回のチベット動乱勃発後、初めてダライラマに会われる世界的レベルのリーダーです。
苦しみの中から非弾圧を叫ぶチベット人にとって正当なシンボルであるダライラマが、あるべき、お姿で認められることは必須なのです。

それを、実行するのにおいて、首相官邸である10 Dawning street で会われること以上ありません。
そうすることによって、イギリス人とチベットの人々に対してUK 政府が、公表している平和的打開策に対して真剣であるというはっきりとしたメッセージを送ることが出来るでしょう。

フリーチベットキャンペーンでは、出来る限り早急にダライラマとの会談を、10Dowing streetにて行われるよう公表していただくことを要望します。

フリーチベットキャンペーン代表
アン ホームズ


「チベット人権民主化センター」発表

イギリスフリーチベットキャンペーン発チベット最新ニュース
http://www.freetibet.org/newsmedia/tibet-news
http://www.tchrd.org/

夏河県で極度に緊迫した状況、外国人記者団に涙の訴えをした僧侶らについてなど。
5月9日2008年

  • チベット自治区、甘南省にあるラブラン寺では本日、非常に緊迫した状況を迎えています。
数千からなる人民武装警察と公安局の部隊による完全包囲後、数百人にも及ぶ僧侶が、逮捕された様子がチベット人権、民主化センターによって確認されました。(TCHRD発)

2008年5月7日、数千にも及ぶ人民武装警察と公共警備局の部隊が(推定約5000名)ラブラン寺を包囲、突然の一斉検挙を受けました。
およそ、140名もの僧侶が、逮捕させ、収容所に連行されたもようです。
翌日、連行された僧侶にたいしての釈放を求め多数の僧侶による抗議がなされ、当局はこの抗議運動が悪化をすることをおそれ連行された僧侶のうち18人以外を釈放。
その後も僧侶による抗議運動が続いた結果、残り18人中の11人が釈放されたとのことです。

その結果、武装警察による追加部隊の投入にも関わらず、
僧侶多数による、残り7人の釈放を求める抗議活動が続く中、当局はそれは完全拒否。引き続き抗議活動をする僧侶に対し強く警告。
「チベット人権民主化センター」では、この一連の抗議活動によって、一致団結による抗議の結果、釈放にこぎつける前例のため、残り7人の釈放を求める抗議の活性化が、更なる死傷者生む可能性を危惧しています。


  • 外国人記者団に涙の訴えをした僧侶ら、蒸発。
5月9日2008年

2008年4月7日、動乱勃発後、チベット自治区、甘南省での中国当局のアレンジによるチベット内の外国人記者団ツアー中に、記者団に対してにて涙ながらの抗議をした僧侶2人の行方が判らなくなっているのが、確認されました。
報道陣によるツアー後、間もなくタッブケイ僧とツゥンディ僧、2名ともの行方がわからなくなっています。地域のチベット人らは、彼等の挑戦的な行動が中華人民共和国政府にとって非常な辱めを受けることとなったため秘密裏にどこかに連れさられたのではないかと、不安を隠しきれない様子。
2人の僧侶の家族らが地元公安局に届け出たところ、当局では2人に対して認識がない様子を装い今日に至るまで、消息は判らず、2人の僧侶の家族らは、法律の管轄外で殺害された可能性もあるとしている。

「チベット人権民主化センター」では本件は強制的で非自発的な失踪として、当局の施行によるものと確信しており、当センターでは2人の僧が、既に法律の管轄外で殺害された可能性が高いとし、国連機関である” 強制的かつ、非自発的な蒸発を調査団体" (UN Working Group on Enforced and Involuntary Disappearance (UNWGEID)) が、当初から介入していれば、避けられたとして、早急に、同国連機関の協力要請を求める見解を発表。


  • チベット人女性、拷問に屈する
5月5日2008年

ガパ県出身のチベット人女性、名前ネチュンさん、38才、4児の母親が中国刑務所にて受けた残虐な拷問の末、死亡しました。
四川省チベット自治区ガパ県チャル フ村出身の、この女性は中国人刑務所看守らから受けた残虐な拷問の末死亡していることが「チベット人権民主化センター」の調査によって確認されました。

証言によりますと、ネチュンさんは、3月16、17日ガパ県内で行われた平和的抗議行動に参加したとして、18日未明、最初に公安オフィスビルの表札を取ったとの疑いで中国公安部隊によって逮捕されました。

3月26日、中国人刑務所看守らの手による、9日間にもおよぶ残虐な拷問の末、釈放された時の健康状態は非常に重体であったとされ、体中に無数のアザ、食事をすることも、言葉を発することもままならず、嘔吐を繰り返し呼吸困難であったとされています。

釈放後、ネチュンさんの家族らが県立政府病院へ運んだ所、診察を拒否され、病院側が当局による診察拒否の警告を受けていたと考えられます。
その結果、ネチュンさんの緊急を要する状態に対して、医療の介入がいっさい遮断された形となりました。

ネチュンさんは、医療行為を受けられないまま22日間の重体状態後、中国当局による完全なる職権濫用,職務怠慢などにより4月17日に死亡。また死者の霊を弔うための、法要を執り行うことすらも地元当局により強く禁止する警告を僧侶らに発しています。
これらの事実から、中国当局はチベット人の基本的人権を、最も惨く異常なほどの権力の濫用によって、踏みにじっていることが証明されています。

ネチュンさんは、4人の幼い子供を残し、夫も、当局からの連行をおそれてネチュンさんの逮捕後から消息を絶っているということです。

「チベット人権民主化センター」では、中国当局の手による、このような拷問後、死に至るケース
が、多く報告されていることに、非常な危惧をするものです。
これらの事実は、中国国内刑務所において今だ、拷問などを広くチベット人、政治囚にも使用することを証明しているとし、同センターでは中国政府に収容所内での供述書を取る際などでの拷問の使用を直ちに禁止する旨を要請し、国際所管、国連関係所管に、チベットにおけるチベット人の基本的権利が守られるように訴えます。


チベットの苦悩、わが恥

唐丹鴻 (タン・タンホン、1965年生まれ) は四川省成都出身の詩人で、ドキュメンタリー映画監督でもある。1990年よりチベットに関する数本のドキュメンタリー映画を製作した。3/21付けで以下のようなエッセイを執筆し、中国国外でホスティングされている自身のブログ上で公開した。以下は、China Digital Timesによる部分英訳 からの翻訳記事である。

10年以上にわたって、私は頻繁にチベットに入って長期滞在し、旅をしたり仕事をしたりしてきた。そして、路上の若者から民芸職人、草原の遊牧民、山村の呪医、そして省当局の一般職員、ラサの露天商、僧侶、寺院の掃除人、アーティスト、作家に至るまで、ありとあらゆる種類のチベット人に出会ってきた。私が出会ったそのようなチベット人の中には、数十年前にはチベットは独自の政府と宗教指導者、通貨、軍隊を持った小さな一国家であったと率直に私に語る人もいれば、無力感で押し黙る人や、漢人の私との会話を避ける人、気まずい話題だとためらう人もいた。過去に何があったとしても、中国人とチベット人は相互交流の長い歴史を持ち、その関係は両者で注意深く保持されるべきだと考える人もいる。また、鉄道プロジェクトや「北京路」「江_路」「四川-チベット路」といった道路に憤慨する人もいれば喜んで受け入れる人もいる。漢人はチベットに巨額の資金を投じているがそれ以上に欲しいものを得ていると語る人、漢人は開発に資金投入しているが同時に破壊も行っており、漢人が破壊しているものは正に我々チベット人が大切にしているものなのだと語る人…。私がここで言いたいことは、このようにチベット人たちも様々であるにしても、彼らは共通のものを持っているということだ。それは彼ら独自の歴史観であり、深い信仰心なのである。

チベットを訪れたことのある者なら、チベット人のこのような信仰心を肌で感じ取ったはずだ。実際、多くの旅行者が衝撃を受けるほどなのだ。そういう信仰の態度はチベット人の歴史を通して持ち続けてきたもので、日常の生活に現れている。これは、信仰心もなく今や金銭を崇拝するだけの漢人と比べると、非常に異なる価値観である。この信仰心はチベット人が最も大切にするものだ。彼らはこの信仰心を宗教的人格としてのダライ・ラマに投影する。

チベットを訪れたことのある者にとって、「よく見かけるチベットの光景」に違和感はないはずだ。ダライ・ラマを崇拝しないチベット人がいるだろうか。自分の所属する寺院にダライ・ラマの写真を掲げたがらないチベット人がいるだろうか。(我々漢人がかつて掲げさせられた毛沢東の肖像写真は政府によって印刷されたものだったが、ダライ・ラマの写真は外国からこっそり持ち込まれ、秘密裏に複写、拡大されるのだ)。ダライ・ラマを言葉で蔑みたいと思うチベット人がいるだろうか。ダライ・ラマに会いたくないチベット人がいるだろうか。ダライ・ラマにカター(儀礼用の白いスカーフ)を捧げたがらないチベット人がいるだろうか。

支配者が聞きたがる声のほかに、我々はチベット人の完全なる真実の声を聞いたことがあるだろうか。チベットを訪れたことのある漢人は、政府高官であろうが旅行者やビジネスマンであろうが、みなチベット人の真実の声を聞いたではないか。沈黙させられてはいてもそこかしこで響きわたる声を。

これが、チベット内のすべての寺院がダライ・ラマの写真を掲げることを禁じられている本当の理由なのだろうか。これが、すべての家を調べてダライ・ラマの写真を掲げる者を罰するためにあらゆる労働単位に役人を配置する理由なのだろうか。宗教的な祝日のたびに政府が信者を巡礼路で阻止する理由だろうか。公務員に対し自分の子どもたちをダラムサラで勉強させることを禁じ、これに反した場合は解雇され家屋も没収されるという政策の理由だろうか。微妙な時期にはいつも政府役人が寺院で会議を開いて僧侶に「党のリーダーシップを支持すること」や「分裂主義者のダライとは一切関係はないこと」を強制的に約束させる理由だろうか。これが、我々漢人が交渉の場につくことを拒否し常に非人間的な言葉を使ってダライ・ラマを侮辱する理由だろうか。結局のところ、これは「よく見かけるチベットの光景」を強調し、チベットの国民性のシンボルをより崇高なものにする、まさにその理由となっているのではないだろうか。

我々漢人は、「独立」の要求を放棄して現在は「中道」を唱導するダライ・ラマと話し合いのテーブルにつき、誠意を持って彼と交渉して、彼を通して「安定」と「調和」をなぜ実現できないのだろうか。

それは両者の権力の差異が大きすぎるからだろう。我々は人も多過ぎ力も強過ぎる。我々漢人は武力と金、そして文化的破壊と精神的レイプ以外に「調和」を実現する術を知らないのだ。

仏教を信仰する彼らは、因果と魂の輪廻転生を信ずるが故に、怒りと憎しみに対峙し、漢民族主義者たちが決して理解し得ない哲学を創り上げたのだ。私の友人である何人かのチベット人僧たちは寺院にいる「厄介者の僧侶」の類の僧侶にすぎないが、その彼らが私に「独立」についての彼らの見解を次のように説明してくれた。「実際、前世では私たちも漢民族だったかもしれず、来世で漢民族に生まれ変わるかもしれない。また、漢民族の中にも前世でチベット人だったり来世でチベット人として生まれたりするかもしれない。外国人も中国人も、男も女も、恋人も敵も、魂の世界では終わることなく輪廻する。輪が廻るかのように状態が生じて滅する。したがって独立を求める必要があるのだろうか」と。 この種の宗教、この種の信者のことをコントロールしやすいと誰が考えられるだろうか。ここにパラドックスがある。彼らに独立の望みを諦めてほしいと思うなら、彼らの宗教を尊重して保護するべきなのだ。

最近、私はチベットに関するオンライン・フォーラム上で過激なチベット人による投稿をいくつか読んだ。いずれの投稿も大体は次のように言っている。「我々は仏教を信じないしカルマ(業)も信じないが、チベット人であることを忘れてはいない。我々の祖国を忘れてはいない。今、我々はあなた方、漢人の信念、すなわち"権力は銃身から生まれる"という考えを信じている。あなた方漢人はなぜチベットにやって来たのか。チベットはチベット人のものだ。チベットから出て行け!」

もちろん、これらの投稿の背景には、漢人「愛国主義者」からの膨大な数にのぼる投稿がある。ほとんど例外なく、漢人の返信には「彼らを殺せ!」「全滅させろ!」「血で洗ってしまえ!」「ダライ・ラマは嘘つきだ!」など、我々漢人がすっかり慣れ親しんだ暴力崇拝者の「激情」の言葉が並ぶ。

私はこれらの投稿を読むととても悲しくなる。これが業なのか……

先週、インターネット妨害に起因する情報のブラックホールに直面して通じない電話の受話器を置いた後、新華社が言ったことを私でさえ信じてしまった。すなわち、「チベット人たちが店舗に火を放ち、ただ生活のためにそこにいただけの罪のない漢人を殺した」ということを、奇妙にも私は信じてしまったのだ。そして私は今なおどうしようもなく悲しい。一体いつの日からこのような種が蒔かれていたのか。1959年の動乱のとき? あるいは、文化大革命中の大粛清のとき? 1989年の弾圧のとき? 彼らのパンチェン・ラマを自宅監禁して漢人の操り人形で置き換えたとき? 寺院において政治的な集会と告解が数限りなく行われていた頃? あるいは、壮麗な雪山で、ダライ・ラマに会いたがっていたからというだけで17歳の尼僧が銃殺されたとき? ……..

それはまた、些細なことのようにみえて恥ずかしい思いをした数々の瞬間かもしれない。チベット人が漢人の露天魚売りから生きた魚を買い、その魚をラサ川に放したのを見たときや、ラサの路上に漢人の乞食がどんどん増えるのを見たとき (彼らは漢人地域ではなくチベットで物乞いをするほうが簡単だということを知っているのだ)、さらに朝陽に輝く聖なる山々の山肌に鉱山から出る醜い傷跡を見たとき、私は恥じ入る思いをした。また、漢人エリートたちが、中国政府は莫大な資金をチベットに投じ経済政策はチベット寄りでGDPも急成長しているのに「チベット人たちはほかに何を望むのか」と不平を言うのを聞いたとき、私は恥ずかしくて仕方なかった。

なぜあなた方は人には様々な価値観があることを理解できないのか。あなた方、漢人は洗脳や武器の力、金の力を信じているが、チベット人の心の中には何千年間にもわたって崇高な信仰があり洗い流すことはできないのだ。あなた方が自分たちのことを「奴隷社会からチベット人を救う救済者」と主張するなら、私はあなた方の傲慢さと妄想が恥ずかしい。銃を携えた軍警察がラサの路上で私の横を通り過ぎるとき、私がラサに行くたびに幾重もの軍事基地が見えるとき……そう、漢人の私は恥じ入るのだ。

何よりも、私が最も恥ずかしく思うのは「愛国的な大多数」だ。漢人は殺戮による征服しか知らなかった秦の始皇帝の子孫だ。力で弱者を抑え込む狂信的優越主義者だ。銃の後ろに隠れて犠牲者に発砲しろと命じる臆病者だ。ストックホルム症候群 (*1)に苦しむのだ。凌遅刑(*2) や去勢といった「高度な」文化が生み出した残虐な狂人なのだ。「愛国的」旗を振る不健全な人間なのだ。私はあなた方を軽蔑する。あなた方が漢人なら、私は自分があなた方の一員であることに恥じ入る。

ラサは燃えている。四川省や青海省のチベット地域では銃撃が行われている。私でさえこれを信じる。実際、私はこの事実を信じる。「彼らを殺せ!」「全滅させろ!」「血で洗ってしまえ!」「ダライ・ラマは嘘つきだ!」などと叫ぶ数々の「愛国的」投稿の中に、私は写し鏡のようにチベット人過激派の姿を見るのだ。あえて言うが、あなたたち若者(「愛国的若者」)は漢人とチベット人との間の何千年にもわたる友情の念を破壊する優越主義者の漢人なのだ。民族間の憎しみを増幅させているのはあなた方なのだ。あなた方は当局を「強く支持」しているわけではなく、実際には「チベットの独立」を「大いに支持」しているのだ。

チベットは消滅しつつある。美しい平和なチベットを作っている精神も消滅しつつある。チベットは中国になりつつある。チベットがそうなりたくないと願うものになりつつあるのである。チベットは疎外される不安に直面したとき、ほかにどのような選択肢があろうか。独自の伝統と文化にすがりついて古の文明を蘇らせるのか? あるいは、漢民族主義者の残忍な恥ずべき栄光を助長するだけの自滅的行動に出るのか?

そう、私はチベットを愛する。チベットが一国家であれ一地方であれ、チベットが自由意志を持つ限り、私はチベットを愛する漢人だ。個人的には、私は彼ら(チベット人たち)にも私が属している大きな家族の一員であってほしいと思う。私は、管理や強制されるのではなく、自らの選択で対等の立場で生まれる国家間および民族間の関係を尊重する。民族間、国家間で相手を恐れさせ従わせる「強権」感覚には興味がない。そのような感覚の背後にあるものにはまさに吐き気をもよおすからだ。数年前にチベットを後にしたが、惜別の念は私の日々の生活の一部となっている。私は歓迎される漢人としてチベットに戻りたいと痛切に願う。対等な隣人として、あるいは家族の一員として、真の友情を育むために。



■訳注:
1. ストックホルム症候群:犯罪被害者が、犯人と一時的に時間や場所を共有することによって、過度の同情さらには好意等の特別な依存感情を抱くこと (Wikipediaより)
2. 凌遅刑:清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつで、生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑 (Wikipediaより

チベット仏教―「対話」重視する現代性

 (朝日新聞2008年5月1日朝刊)上田紀行

 チベット情勢をめぐる議論には大きな欠落がある。それは時事的な出来事に目が奪
われ、その文明史的な意味、特に「仏教」の視点がまったく論じられていないことで
ある。

 私は06年の12月に、ダライ・ラマ一四世と二日間にわたる対談を行ったが(詳細は『目覚めよ仏教!―ダライ・ラマとの対話』NHKブックス)、伝統を重んじながらも現代性に満ち、極めて未来志向的で鮮烈な、ダライ・ラマの仏教思想に心底驚かされた。その内実を知ることなく、「中国対チベット」の政治問題としてのみ扱うのは、あまりに表面的な理解でしかない。

 それは徹底的に弱者の側に、苦しんでいる者の側に立つ思想である。大乗仏教の根
本には、「苦しんでいる者を何としてでも救いたい」という、菩薩の精神がある。チ
ベットは「苦しむ人々の声を一人逃さず聞きとどける」観音菩薩によって建国され、
ダライ・ラマもその化身とされており、「慈悲」の精神が仏教社会を支えてきた。

 その仏教は極めて現代的でもある。中国の侵攻を受け、インドに逃れたダライ・ラ
マは、科学者、経済人などとの、ジャンルと国境を超えた対話を精力的に行い、現代
が抱える問題の根源を探究し続けてきた。亡命という悲劇は、チベットだけで通用す
る仏教から、現代社会の苦しみに向かい合う世界仏教への転換をもたらしたのである。

 半世紀にわたる実践により、チベット仏教は「近代以前」の仏教から、「近代を超
える」座標軸を指し示す仏教へと脱皮した。ダライ・ラマは「私たち宗教者は自らを
戒めないと、すぐに民衆の搾取者となってしまう」、「もしかすると、私は今の中国
の指導者たちよりもずっと左翼系ですよ」などと語り、私は度肝を抜かれた。そこに
は、徹底的に「現代における慈悲の可能性」を追究してきた、透徹した知性がある。

 チベットへの長年にわたる抑圧、そして今回の弾圧に対しても、ダライ・ラマは非
暴力を貫き、対話による解決を訴え続けている。暴力の原因を誰か特定の人間に帰し、力には力で立ち向かうのではなく、その原因を世界を織りなす関係性の中で深く探究し、対話の中で互いが自らの内的価値を見いだしながら克服しようという、非暴力の仏教的実践の提言こそが、世界の多くの人々の心を捉えている。

 五〇年前に「弱きものを救う」と自らの前衛性を掲げてチベットに侵攻した中国が、いまチベット仏教の開かれた現代性の前に、前時代的な姿をさらしている。半世紀の間に、新旧の立場は逆転してしまった。どちらが弱き人間の苦しみの側に立つ者なのか、世界はいま厳しい目で状況を見つめている。

 その中で日本人は何をなすべきだろうか。それは第一に、大切な友人であればこそ、孤立する中国に、時代錯誤的な主張をやめ、一切の人権侵害と文化的抑圧を中止するよう強く求めることだ。そして第二に、日本の仏教徒は、日本仏教を現代の苦しみに向かい合うものへと再構築すべきだ。それを怠ってきた伝統教団は時代の流れに置き去られているが、若手僧侶の間では、寺を地域の活動拠点として開く努力、ウェブ上での活発な発信、宗派を越えて仏教の未来を語り合う試みなど、変革のきざしが見え始め、社会からの仏教に対する期待も高まりつつある。

 存亡の危機の中で世界に慈悲を発信し続けるチベットに、今こそ応えようという気
概が私たち日本人に求められている。

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最終更新:2008年05月14日 21:03