第四世代自動学習装置『VIRTUAL BOY』を長時間連続して使用するのは健康上好ましくないといわれている。
目安として一時間ごとに十分から十五分の休息が勧められている。
同種の装置の個人使用で守られているとは言いがたい制約ではあるけれども、
自由の制限されるスクール生活においては自己責任という語が持ち出せない以上、授業の合間に必ず三十分の休憩時間が設けてある。
休憩時間に生徒たちは、談話をしたりスポーツをしたり、映像作品を鑑賞したり食事をしたり、
スメッグを吸ったりモロンで遊んだり、恋愛を楽しんだりと、めいめい好きに振舞っていた。
アランはというとセーレとテニスでもしようと思い立ったのであるが、授業終了と同時にエセクにつかまって、彼の相手をしなければならぬ羽目に立ち入ってしまった。
エセクは机に肘を付いて、手に持ったチョコレートバーを舌先で撫で回しながらアランに話しかけていた。
素直に齧らずに、もっぱら表面のチョコばかりを溶かして、ちゅっぱちゅっぱという音を鳴らしている。
「でさぁ、アランさんってほら、アレじゃん? なんつーか、イケてるメンってゆーかぁ、マジさぁ、マジでイケメンさんじゃん?」
「知ってるよ……ってきたない。食べてから喋りなよ」
エセクが顔を近づけた拍子にアランの腕に飛沫が当たった。アランはモロンを呼んだ。チョコと唾液の混合液を拭わせるためである。
エセクは「ふひひっ」と舌の隙間から息を漏らす類の笑い声を出して続けた。
「サーセン。でなでな、アランさんは俺らよりカッケーわけじゃん、出来たときから、はじめっからのイケメンたんね」
「だからなに」
当たり前のことである。個々人の知能指数や身体能力、それから体の造りにばらつきが出るのは当然であり、それが個性というものである。
そうして、長所と短所の相殺と後天的な影響を踏まえれば、必然的に皆平等な価値を持ち、平等に幸福なのである。
これは科学的に証明されていることで、全てのコーディネイターがスクールで習うことである。
「ならさ、ハ、ハハ、ハスハちゃんもさ、イケてるウォウメンっとゆうことに」
「なんでハスハが出てくるのさ」
エセクの挙動がおかしいのはいつものことであるが、ハスハの名を言いよどむあたり、少し変な感じがした。
「だってアランさんもイディットじゃん」
「ロットが同じだからって言いたいの?」
ロット、つまり姓が同じであるということは、一つの人工子宮から一時に製造されたということである。
人工子宮からは男女一対一の割合で、平均七十二個の受精卵を作ることが出来るといわれている。
人工子宮は一つにつき一回しか使えない消耗品であるので、そこからまず男女一体ずつの胎児を人工子宮の原料として確保する。
二十体は幼児保育施設へと出荷され、そこでコーディネイターになる。残ったのは全部処分される。
同ロットのコーディネイターは、大抵は製造後一年を過ぎると別々の施設に行くことになるが、
アランとハスハの場合は、初等、中等、高等と、毎度同じスクールの同じクラスで教育を受ける羽目になり、そのうえ指定居住施設も隣接していた。
アランは以前まで、この手の縁続きは非常に珍しいだろうと思っていたが、調べてみたところそんなわけでもないらしい。
アランの通うスクールでは十クラスに一クラスの割合で、似たような偶然が確認されている。
毎年のクラス換えで同ロットの人物と再会したのもあわせると思いのほか結構な人数に上るかもしれない。
同ロットだけあって、確かにアランとハスハは容姿が似ている。ともに銀髪で、琥珀色の瞳を持っている。
成人間際といえども肉体的には発育の途上である。首から下は除くとしても、顔のつくりに目立った性差は生じていなかった。
鬘や詰め物を使えば見分けが付かないかもしれないが、それを試そうと思い切るほどアランは倒錯した嗜好を持ち合わせない。
「でも男女の物差は違うよ」
「けどロット一緒っしょ」
言葉の意味が通じなかったようである。
「だから、男と女だと、ルックスの基準が」
「んもう! アランさんってば謙遜しちゃって!」
「は?」
どうしたことか、エセクは耳を赤くしてアランの背中を叩き出した。痛くはないが鬱陶しい。そもそもわけがわからない。
するとエセクは急にひそひそ声になって、
「アランさんとハスハちゃんは、その、キョウダイだもんな」と言った。
「なっ」
アランの顔が火照った。
「下品なこと言うなよ!」
エセクは照れ隠しにある種の言葉を口にしたのである。そういう点で潔癖なアランにすると、とても堪えられるものではなかった。
ここでエセクが『家族』などという口にするどころか思うのですら憚られる言葉で追撃したなら、アランは気ちがいめいた羞恥心に駆られるまま、耳を両手で押さえて突っ伏してしまうに違いない。
公共で禁じられる種類の言葉はいつの時代になっても少年少女の学び舎から放逐され得ないものである。
とはいうものの、卑猥な単語を言って喜んだり、勝ち誇った気になったりするのは子供だけだ、としたり顔で言ってのける人の見解が、ここでは運良く当てはまってくれた。
コーディネイターは優秀なので十五歳で判断力が頂点に達し、大人と見なされる。
十四歳のエセクが最低限の分別を備えているのは当然であった。
「めんご、サーセン。チョリッスッスッス」
「ほんと、やめてよね」
アランは気を取り直して尋ねた。
「それで、ハスハがどうしたのさ」
「いやぁ、うーん、マジでさぁ、あーちょいマジってゆーかヤバイってゆーかぁ。マジでマジでぇ、カノジョってさぁ、かわゆくね」
「それはない」
ハスハ・イディットという少女はそのような高い評価を与えるに適さない。人は性質で位が決まる。
初対面ならまだしも一年近く顔をつき合わせたクラスメイトなら、顔の造型など評価基準から外れている。
ハスハは性根が一般的でないのである。付き合っても面白くないのである。
「いやいやいやいやかわいいっしょ。マジで可愛い感じ、正直ちょーイケてるって」
「少し変わってるよ」
暗い、と言わないのが作法である。君みたいに、と付け足さないのは常識である。
「とゆうかクールっしょ。クール、クール、クール。ビークールミークールウィァコゥールよ。なんてーかきゃわいいってゆうよりぃ、美人系?
そんでちょい影っぽいの。そこんとこストラウィクしちゃったりなんか、しない?」
「しないから」
エセクの話はいちいち頭の中で翻訳しなければ理解できない。アランは少々忌々しくなって早急に結論を出すことにした。
「ハスハと付き合いたいの?」
「は、はぁ? しょしょしょんなのあるわきゃ、ある、かなぁ? てゆーかてゆーかアランさんだって」
「付き合いたいんだろ、エセクが」
「はい」
急に大人しくなった。薄気味悪くて仕方ない。放って置けば持て余しそうであったので、アランは助け舟を出した。
「なら付き合えばいいじゃないか」
「いや、でも」
付き合いたい相手に自分の望みを伝えて、それから共に楽しむ。ただそれだけのことである。
「なんか、こわい」
〈こいつ、何言ってるんだ〉とアランは思ったが、エセクの只ならぬ様子を見て黙っていた。口調が変わっているのである。
「アランさん、ハスハちゃんと付き合ったことあるんしょ。ど、どうだった」
「どうって……普通」
面倒だったとは言えまい。
「アドバイスなんか、しちゃってくれちゃったりなんかして」
「助言も何も、スポーツとかじゃないんだから、常識だよ。
付き合おうとかそのまま言わなくたって、今夜食事しようとか、遊びに行こうとか、セックスしようとか誘う。
もし先方の都合が付かなくて断られたら、また機会に誘うことにして他の女の子に声をかける。
その日楽しんで気に入ったなら、一週間ぐらいは互いだけを相手にいろいろする。
この期間中はときどき、好きだとか愛してるとか言い合わなくちゃいけない。それが決まりだもの。
この言葉で周りの人に自分たちが付き合ってるってことを知らせるんだ。
で、一週間過ぎてお互い飽き始めたら、すぐ関係を解消して、それぞれ別の新しい相手を見つける。
それからまた同じように繰り返す。この循環作用が恋愛ってものだろう?」
修身のプログラムで教え込まれた常識を、アランはエセクにわざわざ説明してやった。
エセクもハスハと同様に成績が不良で、理解していない可能性が考えられたからである。
「アランさんの言うことはわかるよ。でも、なんかちょっと違うような気がしないでもないような、ちょいヤバイ感じってゆうか……」
歯切れが悪い。斜め下を向いて、とんがった髪の先を指で弄んでいる。彼はためらっているのではあるまいかという考えがアランの頭に浮かんだ。
「まさか、やらしいこと考えてるんじゃないだろうな」
「ちちちちげーっての! これっぽっちも疚しくないから! マジで、激マジ。ほら、俺ってぇ、ピュアじゃん?」
「楽しみは明日に伸ばしちゃいけない」
アランは真面目な顔で言った。
「わーってるって。俺変態じゃねーし。アブノーマルアンチだし」
「ならハスハを誘いなよ。それでセックスしたり、シアター行ったりして、健全なお付き合いをしてみなよ」
彼女を相手に健全な交際が出来るかは甚だ疑わしいが、アランはエセクをけしかける必要を感じた。
不純な異性交遊の黙認は人倫に背くのである。
エセクは休み時間の終わる間際にやっと気持ちを固めた。
「よ、よし、よっしゃ! 次の授業が終わったら俺はハスハちゃんに交際を申し込む!」
「あっそ」
「ああでも!」
断られたらどうしよう、と小声で呟くのが聞こえた。
「君、気持ち悪いね」
アランは正直に言ってしまった。
この日の最後の授業が始まっても、エセクは教室に現れなかった。二限後の休み時間からずっと、姿を晦ましたままである。
そのときエセクに連れられて行ったハスハのほうはちゃんと授業に出席していた。彼女は心なしか機嫌が悪そうであった。
アランの視線に気が付くと、ちらとアランを見返して、恨めしげな目つきをする。道理にかなわぬ悪意にアランは不愉快を感じた。
エセクのことはこうして思い出すまで大して気に留めていなかっただけに、彼女の態度は余計に理不尽に思われた。
エセクとハスハにあったらしいやり取りについて、アランは一切関知していないのである。
そうであるのに彼女は「あなたのせいよ」と言わんばかりの顔をする。
ハスハに対してはアランにも正当な言い分があり、後口が悪いとはいわれない。
けれどもエセクの欠席については、彼をけしかけたアランに非の一端があるようにも思われた。
〈エセクのやつ、なにしてんだ〉
ただでさえ彼は学業が不振なのである。出席単位が貰えずに、卒業も危ぶまれるかもしれない。
自分の行為が遠因となって友人が落第するのは心外であった。
アランの評価に響くことはないとはいえ、精神衛生の上でよからぬ影響を蒙りかねなかった。
再びエセクの姿を見たのは放課後である。エセクは廊下のソファーに寝ころんで、天井を凝視しながらなにやらうわ言を呟いていた。
アランといえども翻訳できないモロンじみた妄言である。うわ言の区切りごとに「ふひひっ」という例の笑い声も漏らしている。
その有様を見てアランはかかり合う気をそがれたが、同伴していたセーレがエセクに興味を示してしまった。
セーレは鈴を転がすような声でエセクに問いかけた。
「エセク君はなにをしてるの?」
エセクは天井に向かって話を続けた。
「……前々から俺にはお見通しだったんだ。左手の奥歯がめこめこ疼いて、時が見えるって捏造するんだ。だからCMの繋ぎはやつらの共謀さ。
さっきから耳元で、便所の落書きがひそひそ囁いて来る。ここだけの話さ、俺は選ばれし少数者。非個人的な、だぜ。
なのに活字の見出しがBGMを付けてもったいぶってやがる。ソースが濃厚すぎて舌が痺れるから、今月の標語は考える暇の節約にして、日光の悪口を黙殺しなきゃならないんだ。
真実の眼を持たぬ者にはわからぬだろうがな……そうだ静まれ! オレの左手よ怒りを静めろ!」
セーレは優しく微笑んだ。
「どうしたの?」
彼女にはエセクの独白は高踏的で理解しかねたのであろう。無論、アランも同様である。
見ると、エセクの目頭にはあめ色の目やにが堆積し、瞳孔はせわしく収縮を繰り返していた。
「セーレ。彼、スメッグ中だよ」
それも相当の量をきこしめている。一日の服用量の推奨限度を超えているのは間違いない。
「ほら」
アランはエセクの眼前で手を振ってみた。エセクはにたにた笑っていた。
「そっかぁ、残念っ。お話できないのね」
「みたいだ」
エセクはすごく幸せそうに独り言を繰り返していた。ハスハと何があったか知らないが、ともかく今は至福の時を過ごしているのである。
アランも気分の優れないときにはスメッグを使うよう心がけている。おそらくエセクは何か不愉快な思いをして、アランと同じようにスメッグに頼ったのであろう。
スメッグを用いれば、どんな嫌な気分もたちどころに吹き飛んでくれる。これを利用しないのはハスハのような変わり者の気のあるコーディネイターばかりである。
アランはエセクをハスハのような劣等人と同格にしてしまったことを心の中で詫びた。今の姿を見れば、エセク・スカンティは健全なコーディネイターであると確信できる。
少なくとも明日の朝まで、彼は恍惚の状態でいることであろう。このまま刺激せずに放っておけば、どれかモロンが来て彼を住居まで運んでくれる。
友人が幸せでいるのを見てアランも快い気持ちになって来た。これは仁徳の効用というばかりでなく、エセクの発散するスメッグ臭に当てられたせいかもしれない。
「さ、行こうか。間に合わなくなるからね」
「あれっ? アラン、なんか元気なってない?」
「そうかな」
「そうよ」
アランは、この先待ち受けている楽しみに胸を躍らせてセーレの手を引いた。クラス一の美少女と、気侭に遊び楽しむのである。
ふざけてしなだれかかってくるセーレの華奢な身体を仕返しに擽ってやりながら、コーディネイターとして製造されて良かったと、アランは心の底から思った。
アランがセーレと寄り添って歩き出して少しすると、ハスハ・イディットは窓の外を眺めるふりを止して、セーレの背中を正面に見据えた。
気取られる心配の無くなったのはわかっていたが、なるべく性急にならぬよう気を遣いながら歩みを速めた。
ソファーを横切るときには、スメッグで歪んだエセクの顔を一瞥して鼻を摘んだ。
欲しもしないコミュニケーションを強いて来た少年にこれ以上かかり合う気は持てなかった。
犬猫のように哀れっぽい声を出したりすればまた別な情動を喚起されたかもしれないが、エセク・スカンティという少年は薬物で精神の健康を保って、文化的な生活を能率的に享楽している。
やはり彼もハスハとは異なり、ありふれたコーディネイターの一体に過ぎなかった。
「人形……」
少女は歩きながらそう呟いてみた。放課後の校門には生徒や用務モロンが幾体もひしめいていた。少女の呟きに耳を止める者は一つとしてなかった。
コーディネイターの無関心とモロンの白痴とは今に始まったことではない。彼らは皆己の無邪気な衝動に隷従するのに精一杯で、その奉仕に寄与し得ないものに注意を向けることは罪でさえある。
人民は人民の楽しみたり得るからこそ人民として認められる。それが黄金律と世間で呼ばれるところのものである。
十四歳の少女はこのように断定調で物事を考えることで自己を外界と隔離し、自負心を養っていた。
ハスハは群集に紛れてアランたちの後を追った。二人の姿を見失う心配はなかった。
最初の行き先は見当が付いていた。二人の間で交わされるであろうやり取りもまた、今までの経験で知っていた。
町の大通りは賑わっていた。午後になると授業を終えた学生らが、コーディネイターの本分である歓楽に精を出すために大量に集まって来るのである。
殆どの学生は二人以上の組になっていて、ハスハのように一人でいる学生は数えるほどであった。
そういう学生もいつまでも独立していられるわけではなく、心細げな顔で辺りを見回すと、手ごろな相手を見つけるや否や声をかけて新たな組を作る。
ハスハも幾度かそうした独身者に声をかけられたが、その都度沈黙でもって応じることで、孤独を避ける機会をむざむざ逃していた。
ハスハは気分が優れなかった。原因は些細なことで、正常なコーディネイターなら気にかけないことであった。
大通りには人間の密集によりスメッグと香水の臭いが充満し、空気が重量を持っているかのように感じられた。
四方から、聞き慣れない流行歌が大音量で響いて来て体内を振動させた。
そこいらじゅうにある空中モニターはめまぐるしい映像を絶えず流し、その光の明滅は瞼を通しても完全に遮断されなかった。
気にすまい気にすまいといくら繰り返しても、こうした環境は少女の注意を強制した。
自分の意思では無くすことの出来ぬ感官への働きかけは、ただこらえるほかない。
ハスハはアランたちがレストランに入るのを見届けると、手近なベンチに腰を下ろした。
半時間ほどしてアランたちが出て来ると立ち上がり、再び人ごみに紛れて歩き出した。
ゲームセンター、ブティック、シアターと、アランたちが娯楽施設を移動する毎に、ハスハはその後に付いて行った。
待っている間に小休止することもあり、二人の目を避けるために物陰で立ち尽くすこともあった。
じっと動かないでいることは苦でなかった。少女には毎日の早朝に扉の前で一時間以上立ち続けるという習慣があった。
コーディネイターでありながら類稀な忍耐力を持つ少女といえども、半日中神経を酷使して疲れを感じたのかもしれない。
アランがセーレの肩を抱いてセーレのアパートメントに入って行く光景を前にすると、ハスハの顔が俯いた。
前髪がかかって目元が隠れたので傍から彼女の表情は読み取れない。
この場に誰かが居たならば、歯軋りの音を耳にしたことであろう。
「これはどういうことよ!」
「音声入力です」
ナギが凄まじい剣幕でクリトンに食って掛かる。コンティはその怒声が自分に向けられたわけでないというのに、一瞬ぎくりとしてしまった。
長年の付き合いで培われた条件反射である。矢面のクリトンはというと、胸倉を掴まれながらも平然と構えている。
「だから、何でそんなもんが要るのかって聞いてんのよ!」
ナギは上目遣いで相手の目を睨みつつ、「ぁあっ?」と低い声を発して威嚇した。
小声で「やんの? アンタ、ねぇやんの?」と宣戦を布告するのを忘れない。年頃の娘にあるまじき態度である。
「エランバイタルというパラメータがっ、ですね、ガンダムドルダにはあるんですよ」
クリトンは喉の戒めを左手で無理やりに解いて答えた。「なんて野蛮な」と聞えよがしに呟いてから、ナギが反応する隙を与えないで、
「ガンダムドルダのSEジェネレータの出力は、エランバイタルの数値に応じて引き出されます。
エランバイタルそのものに関しては調査中で詳しいことはわかっておりませんが、今現在判明していることは、
エランバイタルは搭乗者の生体反応のデータから算出されるということ、そして上昇の条件の一つに、搭乗者の感情が関わっているということです。
ようはですね、出力を上げるにはエランバイタルを上げる必要があり、エランバイタルを上げるには搭乗者の感情を高める、つまり興奮させる必要がある。
そして、興奮するのに最もうってつけの方法は――イカす技名を叫ぶ! これ以外に考えられません。
音声入力という制約は、そのためになくてはならないものなのです」と熱っぽい口調で語った。
クリトンはコンティの知らぬ間に精神主義に転向し、MSの性能が搭乗者の情緒に左右されるなどということを本気で考えるようになったらしい。
コンティの心に憐憫の情が沸きあがった。世間知らずのコーディネイターはバッシュの深酒に付き合わされたせいで、どこか患ってしまっていたのかもしれない。
思い当たる徴候は三つも四つも挙げることが出来る。単なる冗談と思いたいが、前に彼はMSに竹槍を装備させてみたいとこぼしたことがある。
「く、クリトン。あの、な、何か悩み事があるなら聞いたげるわよ」
ナギの優しさはコンティのそれと性質が異なるようであった。
聞かなかったことにするという消極的な態度をとらずに、彼女の得意とする省略三段論法で得たらしき結論でもってクリトンを宥めにかかった。
今度はクリトンのほうが怪訝な顔をした。ナギの態度がますます神妙になると、
「感情の昂りで強くなるってんなら、多血質のナギは確かに適任だ」
と、いつの間にか現れていたバッシュが口を挟んだ。
「なに? アンタまさか、この腐れコーディの言うこと信じるの?」
多血質と言われてナギが気を悪くしたのをよそに、バッシュは中指で鼻をほじり始めた。コンティから見ても憎たらしい仕草である。
「信じない理由はないさな」
「いや、常識的に考えておかしいわよ」
「Dollタイプは常識じゃ計れんよ。大体俺らの科学力っつうご大層な代物もな、この忌々しい鼻のモノを根絶するに至っちゃいない」
汚い例である。
「兵器としてありえないって言ってんの! なんで叫ばなきゃ攻撃出来ないわけ? そんな必要あるの? トリガー引けばそれでいいじゃない。
初めっから全力出せばいいのよ。機械で、兵器なんだから。それを何? 気合が無いと技が出ないって、まるで漫画、子供のおもちゃよ!」
「いいか嬢ちゃん。MSは兵器じゃない、おもちゃだ」ぴんと立てた中指の先端を振りながら、バッシュは気どった口調で言った。バッシュの意見にクリトンも同調する。
「そうですよナギさん。我々はコーディネイターの機動遊具を使って戦争しているのです。少しくらいの馬鹿馬鹿しさは我慢しなくちゃあなりません。
そもそもですね、こんなに無駄の多い兵器あるわけないでしょう?」
諭すような言葉であるが、その顔と身振りはいかにもナギを馬鹿にしきっている。バッシュもクリトンに負けじと鼻を鳴らした。
「ったく、これだから教養の無い女は困る。頭に行く栄養はどこに行っちまったんだ? 胸に行ったってわけでも無さそ――」
突然にバッシュの体がくずおれた。その刹那コンティの目には、三日月と呼ばれる顎の急所に華奢な手の影が吸い込まれて行ったのが見えていた。
「バッシュさんは女心というものが解っておられませんね。
ここは極めて自然に、極めて正当な評価でもって安産型と、つまり栄養がおし――ちょっ、やめ……あいたっ、いたたっ、取れる取れる!
止めっ、ほんと取れる。ほんとに取れますって! ほんとやめて、右手取れるからほんとやめて」
ナギは無表情でねじ上げていたクリトンの右腕を離した。
クリトンは目に涙を溜め、襟を開いて機械の義手と生身の肉体との接合部を弄り出した。だいぶ段差が生じてしまったらしい。
「あぁ、哀れむべきアンジェリーナ三世。さぞや痛かったろう」
そう言いながら鋼の右手を左手で撫で回す。その労わり様は、年来の恋人に対するが如くである。
人道の見地からは一声かけねばなるまいが、真面目な返答をされても具合が良くないのでコンティはクリトンを敬して遠ざけることにした。
そうかといって、黙ったままでは間が持たない。コンティはおずおずとナギに問いかけた。
「感情を込めた音声と連動することはわかった。それで、どんな文句なんだ」
「ん」
ナギは不機嫌そうに端末の画面を指して見せた。画面には、それぞれ機能に応じた叫び文句が並んでいる。
「えっと武装は……必殺ドルダパンチ、究極ドルダキック、昇天ドルダビーム、友愛ドルダソード……このドルダウイングというのは、内蔵型フライトユニットのことか」
「コーディらしい、最っ低のネーミングよ」
「あぁ、まあそれは……」
大声で叫ぶには何となくためらわれる文句であろう。ナギような女性の叫ぶ姿は想像しがたい。
「どうせ叫ばなきゃいけないんなら、もっとセンスのある、カッコいい技名じゃないとだめよ。
永遠力暴風雪(エターナルフォースブリザード)とか死魔殺炎烈光(ディアボリック・デスバースト)とかル・ラーダ・フォルオルみたいな」
ふふん、とナギが得意げに慎ましやかな胸を張った。コンティは自分の胸を掻き毟りたくなった。
「そう、だな」
声が、震えていた。
「でしょう?」
コンティは彼女からほんの少し距離をとった。この一歩は小さいが、彼の心にとっては多大な一歩である。
「もう登録してしまいましたから、暫く変更は出来ませんよ」
ういんういんという駆動音を右手から鳴らしつつ、クリトンが勝ち誇って言った。
「解析をしていてわかったのですが、Dollタイプに入力したプログラムはおいそれと書き換えるわけにはいかないようなのです。人間の脳や意見と同じようにね」
「だったら何でアンタが勝手に決めてんのよ!」
「私は皆さんに信頼されてますから」
「答えになってない!」
堂々巡りで、このままではいつまで経ってもナギは納得しそうに見えなかった。
彼女の暴力を警戒してか、クリトンがコンティにどうにかしろと言いたげな流し目を送って来る。
そこでコンティは自分の考えを述べることにした。ガンダムを手に入れたときから、常々思っていたことである。
「そんなに嫌なら、俺が乗ろうか」
「結構よ。あんたあたしに勝ったこと無いでしょ」
自分の提案に対してそう答えられてしまっては、コンティは性差別的な表現を持ち出すにもいかなくなった。彼女の操縦技能は解放戦線随一である。
コンティの表情が少し曇ったのに気付いたのか、ナギは決まり悪げにガンダムの方を見上げた。
「……わかってるわよ。あたしがやらなきゃいけないってことくらい、わかってる」
ドルダ云々と叫ぶのが余程嫌であったと見え、ナギは自分自身に言い聞かせるように呟いた。
えたいの知れない機体に命を預けるという深刻な事情もあろう。
ここでコンティのほうが強情を張っていれば、近い将来に異なる結果が生じていたかもわからない。
ともあれコンティ・ネイブリットなる青年は、幼馴染に対する負い目から謙譲の徳を逞しゅうしたために後悔の種を撒くことになった。無論、一般の場合と同様に刈取りの見込みは定かではない。
「よろしい。ではまず発声練習と行きましょうか。はいせーのっ」
「……そうね」
ひどく楽しげに促すクリトンに、ナギは無言でつかつかと歩み寄った。
コンティは顔を背けた。憎からず思っている女性の蛮行を目撃するのは気持ちの良いものではない。
「あんの莫連、的確に入れやがった」
そこに、バッシュが顎の据わり具合を手で確かめながら立ち上がり、ふと正気づいたようにコンティの顔を見据えた。
「コンティ、お前の未来を思って忠告してやる。古人曰く、二回は紳士の流儀である、三回は貴人の義務である、四回は妻の権利である」
「は?」
脳震盪でも起こしたのか、脈絡のないことを並べている。
「つまりだ、夫はすべからく雀の勤勉と種馬の精力を持たねばなら――」
「バッシュお兄さん、何をおほざきになっていらっしゃいますの?」
「処世訓さ」
バッシュの背後に立つナギの顔は笑みを湛えていたのであるが、なぜかコンティはそれを直視し続けることが出来なかった。
「どるだぱんち」ナギはぼそっと呟いた。
「揉めるだろうと思ってたけど、この調子なら心配なさそうだね」
様子を見に来たケレンが苦笑した。
「どこが」
どう見ても暴力沙汰に発展している。バッシュとクリトンがこぞってナギを挑発するようなことを言い、その度にナギが腕力でもって報いているのである。
「そういう意味じゃないさ」
ケレンは視線を、じゃれ合っている三人からガンダムドルダに移した。
「Dollタイプ――六十年前の世界大戦の折に現れ、その戦争が崩壊戦争と呼ばれる所以となった存在。
たった四機のDollタイプが、七日間のうちに、あらゆる国家に属するあらゆる軍隊を滅ぼした。
旧国家と呼ばれるところの体制ごとね……人間いや、ナチュラルに変革をもたらした、いわば神の如き力をだよ、いったい誰が手にするのだろうか」
コンティは何か見透かされたような気がした。
「ケレン・カタリ、お前」
「勘繰りは止してくれ。僕は夢想家じゃない。自分の無能を弁えてるし、富くじは買えない性質なんだ。
ごくささやかな楽しみで満足する、安上がりな人種さ。今みたいに、ささやかなね」
ケレンはそう言うと、とうとうクリトンの義手が外れたのを見て楽しげに笑った。そうして一頻り笑ってから、コンティに振向いた。
「君らはたしか、子供の頃からの付き合いだと聞いてるけど」
ナギとバッシュ、それからこの場に居ないロウのことを指したのであろう。コンティは照れくささから気のない風を装った。
「くだらない。ただの腐れ縁だ」
「羨ましいね。君らには絆がある。言葉で云々しなくてもいい、本心からの」
面はゆいことを言う。ナギはというとケレンの言葉を肯定するために違いないが、バッシュの鳩尾を踵で踏みつけていた。
「どいつもこいつも、フィーカ以外には手厳しいようだが」
コンティは妹の名を挙げてケレンの気持ち悪い説に反駁した。
フィーカ・ネイブリットという少女には、ナギもバッシュも、堅物のロウでさえ甘いのである。極端な贔屓の代償がお互いに向けられているとも考えられる。
「親愛の情というのは傍から見るほうが分かり良いものさ。実際、見ていて気持ちがいいよ。
こういうのが、いつまでも続けばいいと僕は思う」
話をどこへ持って行こうというのかケレンは立て続けに恥ずかしい台詞を吐く。
コンティが最早会話を打ち切りたい気持ちになりかけると、
「だからこそ、これからは事を慎重に行う必要がある」
「何のことだ」
「ガンダムのパイロット、ナギ・ヴァニミィ。コンティ、君が彼女を守るんだ」
コンティはいきなりそんな役目を任されて戸惑ったが、ケレンは冗談めいた口吻でもなく、穏やかならぬ様子で続けた。
「偶像を先取りされて癇癪を起こす連中がいるのさ。解放戦線のメンバー全員が竹馬の友というわけじゃない。
今思えば、Doll-DAにガンダムの名をつけたのはまずかった。信仰の自由を許す寛容も軽率だったろう」
「ガンダミスト……ガノテア機関か」
「確証はない。だが、ロウやウーティスも何か勘付いているようだ。ともかく君には、それを知らせておこうと思ってね」
「なぜ俺に?」
「ガンダムドルダとそのパイロットを守るのに適任だからさ。
君なら彼女に四六時中ひっ付いていても、左程嫌な顔はされまい。寧ろ喜ばれるかもしれないくらいだ」
「なっ……」
真面目な話が急にからかうような調子を帯びて来て、コンティは耳が熱くなるのを感じた。
「じゃ、そういうことだから」
ケレンはコンティが否定するのを待たず歩き出した。
「いいかい、コンティ。彼女に纏わり付いて、離れることのないようにするんだよ。
何なら寝床まで同伴してもいい。フィーカちゃんには内緒にしてあげるから」
ケレンの去り際の言葉を何らかの感官で察知したのであろうか、ナギは靴底でバッシュの脆弱な頭皮に摩擦熱を与えつつ、ケレンが笑いながら去っていくのを鋭い眼で睨み付けていた。
アランはセーレと一緒に彼女の部屋で二時間過ごした。その間、セーレは変なことは何ひとつされなかったし、アランもソクラテスがアルキビアデスにしたようなことはしなかった。
「そろそろ行くよ」とアランが身繕いを終えて言うと、セーレが浴室から手を出して振った。
「また明日ねっ」
文化的な健康の代償も安くは付かなかった。一歩ごとに気だるさが増して行き、瞼が重く伸し掛かって来た。
一人きりで、恋人に気を遣う必要が無くなっただけ余計に気力が萎えて行った。アランは手のひらで口を覆ってあくびをした。
「まだあったかな」
ポケットを探ってタブレットケースを取り出した。振ってみるとカラカラと音がした。二三粒はあるらしい。
眠気覚ましなので一粒だけ齧って、効果を早めるために深呼吸した。鼻がつんとした後、甘い感覚が鼻腔全体に広がった。
「どうりで眠いわけだ」
すっかり夜になっていた。天蓋は電飾を小さく瞬かせるばかりで、町を照らす仕事は街灯に任せている。
眠気を誘う調べが、どこからともなく響いて来る。夜空にMSは飛んでいない。
道端にたむろするコーディネイターたちも口数少なく、すっかり満足しきった風な穏やかな顔で、別れの挨拶を交わしている。
立体映像のMr.マラディックですら、「さあみんな! 夜だ! 夜が来た! おうちに帰ってセックスだ! 寝る前にセックスをしよう!」と健康推進週間の標語を叫び、両手に掴んだ二つの枕を振り回している。
「アラン……すこし、いい?」
セーレのアパートを出て暫くすると、背後から声をかけられた。
声の主が誰であるかは振向くまでもなくわかっていた。その聞き慣れた声は、デートの途中に感じられた視線と同じ人物の発したものであろう。
〈またかよ〉とアランは思った。憂鬱な気持ちから、昼間は意識に上らすまいと苦心していたのである。
「アラン」
先ほどよりはっきりした語調で言われた。
アランは聞こえぬふりをしてやり過ごそうと思っていたのであるが、声の聞こえた方角が真横に移ったので、返事をするのは止むを得なかった。
「ハスハ? ……また、偶然だね」
目は口ほどにものを言う。疚しさを偽装したいアランはハスハと見詰め合う形になったが、ものの数秒と経たぬうちに辛抱できなくなって視線を逸らした。
「こんばんは」
「あ、うん。こんばんは」
単純な夜の挨拶である。てっきり嫌味でも言われるかと思っていたアランは拍子抜けがした。
落ち着いてみれば、彼女の呼びかけを無かったことにしようとしたアランよりも、放課後からずっとアランの許可無く尾行を続けたハスハの方こそが、倫理的な面で不利であろうと思われた。
世間の通例に当て嵌まらざるコミュニケーション手段を用いるのが不法であることは、よくよく考えるまでもないことである。
しかしハスハが急に目を伏せたのを見ると、元あった疚しい気持ちがぶり返して来た。
生来の付き合いで培われた以心伝心というものは厄介である。一挙一動で感情の動きを察知される。
そのうえ不必要にも情が移っているために、一切の責任を相手に押し付けるにはためらわれてしまう。〈不健全だ〉
「ごめんなさい」
謝られることで、アランは余計に心細い気持ちにさせられた。
これがこの利口な動物の手口である、と決めてかかって開き直ることも出来なくはないが、他人の心を一語でもって表すのは悪魔の存在を証明するのに似ている。
存在しないに越したことはないので、人間の善良さというものは大抵の場合、精神的にも物質的にも当人に対しては負担を与えるしか出来ないという考えもある。
「気にしないでよ。僕も君に話したいことあったし」
第48居住区の自然公園は、キーウィタースで最も美しい公園の一つに数えられている――尤も、これと同等の評価を得ている公園は四十以上ある――
こんもり盛り上がった緑色の塊は、遠目で一見すると酷く不恰好で均衡を欠いているように思われる。
けれどもその針葉樹林に足を踏み入れて見渡すと、不精なのは実は外見だけで、中はモロンの心のように精妙に設計せられていることが納得できよう。
園路に敷かれた白砂利は、大中小の三種で形と大きさが完全に統一されていて、その手触りといったら菓子の糖衣とあまりに似ているので、子供が思わず口に入れたくなるほどである。
園路は縦横に交差しつつ森を区切っていて、無数の交差点にはそれぞれ、人々のふれあいのための広場が設けてある。
用途や景観は様々であるが、大抵の広場では休憩用にベンチが付いていて、芝生のぐるりを色とりどりの花壇が巡っている。
文化的な娯楽に事欠かぬよう隅っこに売店も置いてある。売り子モロンが直立姿勢で店番していて、昼夜を問わずコーディネイターに楽しいひと時を提供している。
想像上でこの自然公園から針葉樹を除外すれば、傾斜のなだらかな禿山が思い描かれるであろう。
園路や広場が密集しているのは山のふもとで、上方へ行くにつれて園路が複雑な軌道を描き、本数も減って行く。
頂上付近は殆ど森といっても良く、通常の散策で足を踏み入れることはまずあるまい。
山の中腹、ひと気の疎らなところでは、木々の隙間から苔むした岩が顔を出し、その根元から清水が絶えず湧き出ている。
滾々と湧き出るとはいうものの、水溜りの端から零れ落ちるに過ぎない流れは、平地の川に比べればちょんぼりした趣を呈している。
水辺を取り囲む羊歯植物たちは、侮っているのか、でなければ無感覚であるかして、葉先を濡らさせるがままにしている。
清水は植物に擽られ、岩に弄ばれつつも、窪んだ地肌をひたすらに洗い続けて、流れ去って行く。そうするとあるとき、似たような境遇のものとめぐり合う。
暫くは近寄ったり離れたりして相手の様子を窺うが、孤独を逃れるためか、共同によって得られる利潤を慮ったのか、しだいに惹かれあい、いつしか一つの流れとなる。
清水たちはこのようにして合流を繰り返し、谷川とはいわないまでも、小川として面目を保つくらいにはなる。
しかし、どんなものでも寄り集まると生まれの違いが際立つのか、めいめい勝手な行動をとりたがり始める。
ある水は岩の隙間に這入り込もうとし、またある水は小石を撫でて遊んでいる。苔を剥がそうと一生懸命なのもある。
拗ねて渦を巻くのや、岩肌を蹴って流れに逆行しようというのも出てくる。
そうして、これら協調性に欠ける水どもに大多数の水は反発し、無理にでも下へ下へと引っ張って行く。
これらもろもろの作用が重なると、必然、小川は快い水音を立てるのである。
自然公園に設置された植物は、樹木や芝生、花壇の花といった直接触れられるものを除くと、殆どが無機質の人工物である。
したがって、わざわざ川を作ったりして、生態系の管理などというとてつもなく面倒な手間をかけるに及ばない。
降雨で齎された水分は樹木などに吸収される他、余剰分は地下の下水施設によって排出される。
この川は自然らしい景観を演出するためのものであり、また同時に、いわば贅沢な音響装置なのである。
コーディネイターは音楽抜きの生活を送らない。何となれば音楽とは、最も手軽な娯楽の一つであり、最も情緒に影響しやすいものである。
音楽は魂の言葉である、思想以上のものである、と述べた人も数多い。
故に町中では休み無く流行歌が流れていて、遊技場から寝床まで、ありとあらゆる場所でそれぞれの模範的情緒に合致した音楽が人々の耳に届けられる。
勿論この自然公園でも、木々の枝に偽装したスピーカーが無数に配置され、放送局の職員によって吟味、選出された流行歌が不快でない程度の音量で響いている。
が、人々の気分が市街地と代わり映えしないのでは、自然公園を設置した目的に背いてしまう。
文明人が原始的な状況に置かれることによって喚起せしめられるある種の情緒の獲得こそがその目的なのである。
動物や植物といった自然物との触れ合いに、人間の精神を安定させ、健全な情操を育む効果があることは、機械産業の発達以前より喧しく言われて来た。
それは時代ごとの科学思想によって否定されたり肯定されたりを繰り返したが、消費と娯楽の観念は不動であったので、手際よくやれば大量消費を齎す自然環境偽装技術は絶えず進歩を続けた。
その成果の一つが人工河川のせせらぎであり、いずこからともなく響き渡る微かな水音と流行歌の伴奏は、一種の二律背反と呼ばれる音楽の概念を一層際立たせて、
文明社会と個人的幸福に有益な心理状態をば、より完全に、より安易に引き起こすことに貢献している。
無論、これらの効果は環境音のみで出されるのではない。いうまでもないことであるが、経済的に見て人間は手間のかかる動物である。
視覚と聴覚、要するに思考に介在せず実在性を与え得る感官の併用が最低限必要である。
加うるに嗅覚、味覚、触覚の三つの感官に対しても配慮が為されている。
花と木々と芝生、それから土砂の含有物は一応有機物の範疇にあるので、自然らしい腐臭を発散する。
その上、植物に擬態した散布装置がごく微量のスメッグを撒き散らしてもいる。
味覚については、売店に土の味のするチョコレートバーなどが置いてある。
植物には虫一つ付いていない。その生育の具合も、不必要な発芽を無くす遺伝子発現制御技術と定期的な植え替えとによって常に均一である。
外的要因によって阻害されない植物の完全に自然な感触が、手のひらを楽しませてくれるのである。
もっとも樹木に関しては敢えて不均一な枝ぶりを作ったり、根を余計に這わしたりして、少しばかり野生に近づける努力が厳密きわまる計量のもとに行われている。
この自然公園の性質を鑑みて、特筆すべきはその衛生面であろう。
人は自然の中にいると開放的になり、手に持った物品を地面に放置して省みない。
犬と似た習性を発現させることもあり、目立つ樹木があれば、根元に廃棄物で印をつける。
薄暗がりになっている場所においては、別な事情が作用して殊に酷い結果を生じる。
時には誰かが創作意欲を発揮して、相合傘なんぞを木の肌に彫り付けて行く。
こうも気侭に楽しんで行かれては、さぞかし文明的な景観が広がりそうに思われたが、どういうことか、自然公園は常に自然的な景観を保っている。
そのくせ屑篭一つ置かれていない。市街地どころかモロン居住区に匹敵する清潔さであるけれども、広場を見渡しても清掃モロンのようなものは見受けられない。
注意深い人が観察を続ければ、遊びに来たコーディネイターが立ち去ったと同時に、突如林から黒い影が出現し、ごみを掻っ攫って再び林に消えて行くのに気付くであろう。
その黒い影の正体は、黒子を着た特殊清掃モロンである。
彼らは普段人目につかぬ木々の陰に潜んでいて、コーディネイターが何か捨てるや否や、隙を見て表に飛び出し、相手に気付かれる前に持ち去ってしまう。
さっと現れてさっと片して行くのである。市民の精神衛生に配慮した結果の隠密性である。
彼らは非常に優秀なモロンで、その優秀さは表象結合教育の他、彼らの主な食料がコーディネイターの食べ残しであることにも起因している。
自然公園には、黒子モロン以外の生き物も暮らしている。小鳥や栗鼠といった愛くるしい小動物である。
種は様々であるが、後頭部に不自然な突起があることと、寿命が本来の半分である点で一致している。
これらは概して人懐こく、羽の痛むのもかまわず足元を飛び回ったり、わざわざ人目に付くような枝に登って木の実を頬張ったりする。
目を合わすと首を傾げるのはしょっちゅうである。行儀も良く、排泄の類は然るべき所でしか行わない。
ところで、もし何らかの拍子で後頭部の突起に強い衝撃が加わると、彼らは地面に落ちてのた打ち回った挙句、動かなくなってしまう。
目をぱちくりさせて、ここはどこだと言いたげに、辺りをじっと見つめている。黒子モロンが回収に来るまで、ずっとそのままである。
一言すると、昨今、悪戯好きな少年少女の間では、例の突起を指で弾くのが流行っている。
チッチッチッと舌を鳴らせば小動物たちは嬉しそうに寄って来るので、手軽な娯楽といえよう。
夜が来ると、自然公園はその姿を一変させる。
あたり一面に薄墨の天幕が幾重も折り重なり、あたかも黒色の霧が立ちこめているようで、その暗闇の中には、ややもすると人の顔に見える木の肌がぼんやりと浮かび上がり、
枝が軋み、葉がひそひそ囁き合い、何者かが狩人のように木々の間を這いまわり、
ぱちりぱちりと枝の折れる音を響かせるたびに来訪者を怯えさせる、というのでは無論無い。
大概の娯楽施設は二十四時間の営業が義務付けられているので、この自然公園も、ただ別の用途に向くように快適さの方針を替えるのである。
目立った変更点は幾つか挙げられよう。
まず山肌の各所に設けられた通風孔が生暖かい息を吐き、夜気の冷たさを和らげる。
樹木に埋め込まれた園路灯が、辺りの暗さを宵闇にとどめている。
スピーカーからは蕩けるように甘ったるい音色が流れ、恋人たちの気分を昂らせ、静めもする。
その他にも数々の変更点があるが、畢竟するに夜間の自然公園は、屋外の休息施設として用いられるということである。
そうしてこのいわば恋人たちの時間といわれるような時間帯に、アラン・イディットとハスハ・イディットは自然公園にやって来たのであった。
タクシーを呼ばなくていいというハスハに付き合って、アランは家路を歩くはめになった。自然公園を通り抜けるのは、近道するためである。
もっと短い道のりもあるにはあるが、それは車道であったりMS用道路であったりする。都市設計が一般の歩行者に優しくないのはこの時代でも変わりない。
ふれあい広場に差し掛かかると、アランは売店を見止めてハスハに尋ねた。
「夕食はもう済ました?」
ハスハはゆっくり首を横に振った。アランはというとセーレの部屋で済ませていた。
「何か買って来ようか?」
「いらない」
ハスハのことであるから、どうせ昼食すらろくにとっていないに違いない。
「ご飯食べないと、体に良くないよ。僕も一緒に食べるからさ」
少女は再び首を横に振った。
〈面倒な女〉
二人のやり取りは、先ほどからずっとこんな具合である。
アランが何か切り出すと、ハスハは首を振るか、「そう」とだけ言うかして、すかさず無言の行を再開してしまう。間を持たすどころか、取り付く島もない。
少女がいつも通りの朴念仁であったなら居心地の悪さを味わわずに済むのであるが、どうも今は、何か言いたげな素振りを見え隠れさせているのである。
前を向いて歩きながらも、ちらりちらりとアランの顔を横目で盗み見て来る。
そのたびにアランは、「何だよ」と、乱暴な言葉を返したいのを堪えた。
〈一粒じゃこんなものか〉
アランはさりげなくポケットに手を突っ込んでタブレットケースに触れてみた。あくまで触れるだけである。
実をいうと、先ほどハスハに夜食を提案したのは、買出しにかこつけて彼女の目を逃れ、スメッグを齧るためであった。
そうでもなければ己の胃袋を酷使してまで、彼女の健康を思い遣るはずがない。
〈一粒が一生を左右する〉
アランはスメッグ恋しさのあまり、心の中でコマーシャルの決まり文句を叫んでみた。〈まったくもって金言だよ、こいつは〉
アランは広場をさっと見渡した。薄暗がりの中、人々がベンチで睦み合っているのがわかった。
木陰の前の芝生には、男物と女物の服が取り散らかしてあった。皆が皆寸暇を惜しんで楽しんでいる。
〈だのに、僕はというと――〉
アランはハスハに目をやった。他の人々と違って既に疲弊していることと、エセクに言われた下品な言葉が思い出されたこととで、自然な感心は消え去っていた。
このとき、アランはハスハに顔を見返され、彼女の瞳が揺らいだのがわからなかった。
〈――だもんな〉
アランは思わずにやりと笑った。スメッグの効果が切れかけているのである。
「アラン」
「へ?」
アランは間の抜けた顔で応じた。
「え、何?」
「アラン、大丈夫?」
ハスハが心配そうに尋ねたのが分かると、アランは慌てて口元を引き締めた。アランはハスハの顔を直に見られなかった。気恥ずかしかった。
妙な思い巡らしで悦に入ったことやモロンじみた顔面弛緩、目の前の少女への軽蔑心が露見しかけたことなどが、次々に原因として推察された。
こうした思考そのものも、アランの精神の平衡を崩すのに手伝った。
「別に、ハスハには関係ないだろ」
声の調子に難点のあるのは、言ってから気が付いた。しかしアランは少女の反応を待たずにまくし立てた。
「僕のことより、君のほうこそどうなのさ……ねえ、僕ら今年で卒業だよ。来年には大人なんだよ。そのこと、ちゃんとわかってる? わかってないよね?
ハスハ、全っ然成長してないし、成長しようともしてないんだもの。そもそもさ、昔からさ、君って、なんというか、その、少し変わってるでしょ。
いつも一人でいるし、遊ばないし、ちゃんと付き合ったのだって結局僕一人じゃないか。おかしいよそんなの。普通じゃ考えられない、絶対ありえない。
子供のうちはまだ許されるかもしれないけど、でも、もう十四歳なんだよ。あと一年もしないうちに十五、大人だよ。なのに今の君はというと、ねえ、どうなの?」
アランをこうまで駆り立てたのは、一般で悪酔いと呼ばれるスメッグ欠乏の一症状である。
本音以上のものを含んだ言動は、素面ではなかなか出来るとはいわれない。
アランは歩きながら説教を続けた。歩きながらの話はやけに脱線することが多い。これは新陳代謝が影響していると思われる。
座ってものを考えるときより、散歩中のほうが思いがけない考えが浮かぶともいわれている。
アランはハスハの浮きっぷりやら、娯楽への無理解やら、思いやりの欠如やら、社交に対する軽蔑やら、学力の不足やらを、
あるいは直接、あるいは遠まわしに、全体としてねちっこい語り口で責め立てた。
殆ど独り言に近い説教を行う場合、相手を勝手にこうと決めてしまって、風車に向かって打ちかかるのと同種の危険が生じる。
打算無き、換言すれば真心からすると思い込まれる類の啓発においてその危険は倍化する。
アラン・イディットなる一コーディネイターがそれを逃れたか、もしくは果敢に飛び込んで行ったかは、後の彼自身の判断に委ねられる。
「――君のそういう考え方がまずありえない。わかる?」
まるで自身がコーディネイター全体を代表しているかの如くであるが、こう言い終えたころにはアランも幾分か冷静さを取り戻し、独りよがりをしたという負い目が芽生えかけていた。
アランが自分の話に夢中でいるうちに、二人は木々のアーチをくぐって開けた場所に着いていた。
そこは見晴らしのいい広場で、眼下に街並みが一望できた。金銭換算で最新MS数十機分に喩えられる夜景であるが、アランたち以外に人影はなかった。
まだ今の時間帯、来園者たちは視覚より触覚を楽しませるのに懸命なのであろう。
二人はどちらからともなく足を止めた。アランは決まり悪さから口を閉ざし、夜景に見入るふりをした。
本当は早くハスハと別れて彼女とのやり取りをスメッグで忘れ去りたいのであるが、友人を残して帰宅するというのは礼儀に反する。
コーディネイターたるものコーディネイターらしく振舞わねばならぬのである。
ハスハは家路を急ぐどころか手すりにそっと触れながら、何やら思い詰めたような顔で夜の街を見つめた。
〈あーあ〉
果たしてアランの嫌な予感は当たった。
「ねえ、アラン」ハスハが振向いた。
「私はわからないの……」
〈出たよ、やっぱり〉アランはげんなりした。昔付き合っていた頃に散々聞かされた下らない疑問である。ハスハは町を見下ろして続けた。
「コーディネイター――遺伝子調整で天性を賦与されたる人類。全員が平等、全員が優れている。悩むことも、苦しむことも、退屈することすらない。
私たちは好きなことを、ただそれだけをして生きていられる。
働くのは、モロンたちだもの――知能薄弱者の群、労働者なるべくして生産された人非人、人間にとって一番効率の良い労働手段。
完全な人類と完成された道具、そして、ベンセレム――完成された世界と、完全な幸福。でも、この世界は本当に理想の世界なのかしら。私たちは本当に幸せなのかしら」
〈授業でそうだと習ったろうに〉ハスハのような輩は、客観的にものを考えられないのである。
アランは彼女の問いに沈黙で答えることにした。何を言ったとて、どうせ少女は自分語りを止めまい。
「もうこんな世界に生きていけない。私はときどき、そう思うことがあるわ。ううん、いつもそう思っているかもしれない。
この世界はどこかがおかしい、私にとって、何かが狂った世界のように感じられてしまうの」
ハスハの社会に対するそれと同じくらいの居心地の悪さを、アランは感じた。
「君は考えすぎなんだよ」
〈だから理性に異常を来たす〉
おそらくハスハの頭の中では原因と結果の取り違えが起きているのであろう。
自分が異常であるから世の中を間違っていると思うのではなしに、世の中が間違っているから自分が異常になってしまうと、すっかり思い込んでいる。
「そう……そうかもしれない。でも――」
〈うんざりさせやがる〉アランは自分を棚に上げた。
「見て、アラン」とハスハは下の広場に歩いている一組の男女を示した。二人は売り子モロンからモロン・バーガーを受け取って、一度口を付けると投げ捨てた。
〈あの娘かわいいな〉
「作るのはモロン、使うのはコーディネイター。働くのはモロン、楽しむのはコーディネイター。
食事、家、衣服、MS、色々なお店。生活も娯楽も、私たちはみんなモロンに頼っているわ」
〈恋愛は違うけどね〉
アランがちょっと気をとられた隙に、可愛い女性と残飯は消えていた。後者はどうでもよろしいが、前者は実にもったいない。
「生きるために食べるのではなく、食べるために生きる。私たちは何も生み出さないわ。
ただ消費するだけ――それなら、私たちの人生にどんな意味があるの? 私たちはどうして生きているの?
私には、わからないのよ……」
「消費は市民の義務だよ」
コーディネイターにとっては消費こそが第一である。幾人の異性と付き合うか、幾機のMSを乗り潰すか等、つまりどれだけ消費したかが個人の価値査定の基準となる。
その過程でいかにしてというのは問題ではない。ともかくそれで生産者のモロンは存在することを許される。
付け加えていうならば、モロンはコーディネイターに養われ、それがモロンの充足理由なのである。
「そうね。私たちはそう教えられて生きて行くわ。
生まれてから死ぬまで、毎日、何べんも何べんも、繰り返し――今日手に入る楽しみを明日に伸ばしてはいけない。
自分の判断より他人の判断を軽くみてはいけない。万人と同じように振る舞い、しかも万人と違う人間とならなければいけない。
そして、ひたすら楽しんでいなければいけない――私たちはこの言葉通り生きるよう教え込まれる。
徹底的に、教育されるの。大人になれば、完全にそう生きるようになるでしょう。大人になるとはそういうことよ。
私たちより二十も三十も年上の人たちだって、十五歳で大人になり、それからずっと、同じように、変わらずに、幸せに生きて行く。
けれどそこに、私たちの自由は本当にあるのかしら? 水平化された価値観、単一化された意欲、それはまるで――」
「僕らは自由だよ」
自分でもよくわからないが、アランは侮辱されたように感じてつい言い返した。語調がきつい感じになっていたのは否めない。
ハスハは手すりに落ち葉が乗っているのを見つけると、それを摘んで空中で放した。落ち葉はひらひら舞い降りて、地面で微かな音を立てた。
「自分の意志で落ちた。この木の葉も、そう思ったのかもしれない……」
〈はいはい。それはよかったね〉
アランは三日三晩寝床で過ごした程疲れた気がした。そしていい加減会話を打ち切りたくなったので、深刻そうな顔を作った。
「ハスハの言うことは分かるよ。僕にも覚えがある。でもさ、そういうのって仕方ないじゃない? くよくよしたって始まらないよ。せっかくの人生なんだから、とことん楽しまなくっちゃ」
ハスハは悲しそうに目を伏せた。まるで私を理解してくれないと言わんばかりである。
〈あれ、間違ったかな?〉
妙な悩みを打ち明けてきた少女に対しては、アランは先ほどの返答を用意していた。ハスハとの付き合いで懲りて以来、対抗策を作ったのである。
実際の効果はなかなかのもので、思春期特有の変態的な情緒を催した少女らは大抵、直ちに精神の正常な状態を取り戻すのであった。しかしハスハ本人には効果が無かったようである。
気まずい沈黙が続いた。ハスハは歩き出す気配を見せず、そうかといってアランの方から立ち去るにしても、具合が悪くて仕方ない。
何かきっかけを掴まなければならないとアランは判断した。
アランは記憶を探って、近頃自然公園で流行っているという遊びを思い出した。
クラスメイトの言ったところによると、舌を鳴らせばいいのである。
「ねえ、ハスハ。この前聞いたんだけれどさ」
アランはチッチッと舌を鳴らした。小鳥が歌いながら寄って来て、アランの手にとまった。
「ここを指でこうすると」
小鳥の後頭部にある突起を、アランは思い切り指で弾いた。
笛を乱暴に吹いたような鳴き声が辺りに一瞬響いて、小鳥はすてんと地べたに落ちた。
それから小刻みに羽をばたつかせて、横たわったりひっくり返ったりを忙しく繰り返していた。
「おもしろいだろ?」
そう微笑んでハスハに振向いた途端に視界が揺れ、アランは乾いた音と顎骨の鳴る音を同時に聞いた。
アランは痛む頬を押さえながら、腕を振り切っているハスハを睨んだ。
「ぶったね、誰にも――」ぶたれたことなかったのに、と続けようとしたところ、返す刀で反対側の頬を打たれた。つまり、二度もぶたれたのである。
堪忍袋の緒は筋肉と同じで、使う機会が無いと退化する。
「――あなたはそんな人じゃなかった」
アランは危うく激怒しかけたが、コーディネイターの倫理に人一倍敏感でもあったので、努めて平静を装った。
「僕はこんな人だよ」
ハスハは飛べない小鳥を掬うように拾い上げた。繊細な手つきで小鳥の翼を一撫ですると、きっとなって言い放った。
「あなたはなにもわかっていない」
アランは嘲笑った。スクールでの評価は、全ての科目でアランが勝っているのである。
脳に受信機を埋め込んだに過ぎない小鳥は、せいぜいモロン・バーガー一個分の値段でしかない。アランはそのことをちゃんと知っていた。
「君、必死すぎ。それ安物だよ」
「黙って!」
ハスハは声を荒げた。彼女らしくもない。
「アランは……私の知っているアランはそんなこといわない」
〈ほんと気持ち悪いな〉
アランは肩を竦めた。
「こんなの、みんなやってることさ」
少女は答えなかった。アランよりも、もはや機能しない小鳥に注意が向いていると見える。
茂みの向こうで清掃用の黒子モロンが夜食を得る機会を窺っているのが見えた。
〈あほらし〉
アランはハスハを残して立ち去った。そうして暫く歩き、スメッグのことを思い出してポケットを探った時であった。
何の前触れもなく青白い光芒が上空を横切り、少し遅れて、くぐもった激しい音が鐘の音のように鳴り渡った。
「何かの宣伝かな」
アランはのんきに呟いた。
第48居住区の上空でアメタペイストの放ったビームはヴェスタを掠めて、たまたま射線上にあった高層ビルに大穴を開けた。
年配のコーディネイターやの文化施設やの入居するそれが轟音を立てて崩れ落ちるのと同時に、ヴェスタの電磁迷彩が剥がれて、片翼の欠けた船体が顕わになった。
ヴェスタは浮力の均衡を失くして左に傾いた。重力制御を行っていなかった艦内も同様に傾いた。あらゆるものが左傾した。兵器格納庫と厨房は酷い有様であった。
ブリッジの艦長席に陣取っていたロウ・ブレーンは、ちょうど立ち上がりかけた折であり、足場が頼りないと感じた直後にすてんと転んで床を滑り降りた。
ロウが端末にしがみ付いて顔を上げると紙コップが転がって来て蓋が外れ、中のコーヒーを彼の体にぶちまけた。
香りの良い湯気を上げるそれは、オペレーターのフェララ・クティッシーという女性がロウの命令を無視してブリッジに持ち込んだものである。ロウは火傷に構わず叫んだ。
「損害報告!」
「第一左翼消失! SEジェネレータ出力二十パーセントに低下してます!」
フェララが端末に散らばった食べかけのドーナツを払い除けて報告した。
「再構築は」
「出力が足りません!」
「ジョウ、右翼の出力を――」
「面舵いっぱいまっすぐだね」
ウーティスの代理で操舵を勤めていたジョウ・ハーテンは、ロウが指図するより早くヴェスタの舵を取っていた。
ヴェスタが前進を止め、その代わりに平衡を取り戻した。
「余剰出力――」
「もうフィールドに回したよ。ベェン、敵さんは?」
もう一人のオペレーターであるベン・スパンキンスという美少年が、リーダーのロウにではなく同性の恋人に報告した。
「後方のSE反応はアメタペイストと思われ……動体反応? ジョウさん!」
「フェラ――」とロウが言いかけると、
「女! フィールド全方位!」とジョウが怒鳴った。
夜景がぼやけたかと思うと、空中に無数のMSが現れてヴェスタの行く手を阻んだ。フライトユニットを装備したそれらは、特殊な迷彩布を被っていたのである。
一斉射撃が行われ、ヴェスタの前方の空間が波打った。逸れた弾丸の殆どは市街地に降り注ぎ、公共施設や夜道を歩く人間などを破壊した。
「MOS-B八、MOS-H七、なっ……、ゆゆゆ輸送機も、さ、三時の方角から」
「増援、そういうのもあるのか」
恋人の涙声の報告を聞くとジョウが他人事のように呟いた。ロウは艦長席に戻りながら舌打ちした。
「待ち伏せか……」
「予期はしてたろう」
「市街地だぞ」
「だから網にかかるのさ」
ヴェスタは交戦を避けるためになるべく市街地を通る航路を選んでいたのであるが、それが却って裏目に出たらしい。
敵の善意に縋って戦略を立てるのは良し悪しである。
敵MS部隊のうちのMOS-Bビアーは、胸部機関砲では効果が無いのに気づいたのであろう。
掘削破砕マニピュレータで不可視の力場をこじ開けようと、両腕を大きく上げて背伸びの姿勢で飛び込んで来た。
その進行はSEフィールドに阻まれる。体とスラスター光とが激しく揺れる様は、網を抜けようともがく羽虫を思わせた。
「前と後ろ、どっちを先に掘られるか。ボクは前のほうは未経験だがね。さぁて、これからどうしようか、リーダー」
それを今考えているのである。SEフィールドを艦首に集中展開し、残りの出力を推進に回せばMOSタイプの部隊は振り切れる。
しかしアメタペイストまで振り切れるとは思われない。こちらのMS隊とヴェスタの砲撃を駆使して蹴散らそうという強攻策は論外である。
アメタペイストどころかMOS部隊ですら、真っ当にやり合って勝てるかもわからない。
いくらMSの性能とパイロット個人の技量で上回るはいえ、アーミー・モロンの連携能力はナチュラルの職業軍人の平均をも遥かに凌駕している。
各個撃破に持ち込まれて全滅するのは目に見えている。
そもそもアメタペイストが現れた時点で万策尽きたのではあるまいか、とロウが緊張と困惑とで鈍った頭で考えたとき、ブリッジの扉が開いた。
「お待たせです!」
クリトンが老人の乗った車椅子を急停車させた。床にタイヤの後が付いた。
「ウーティス!」
「ロウさんはそちらを持ってください」
手の開いているのはロウだけであった。
ブリッジの中央には、一風変わったシートが据え付けてある。
手足の当たる部分には拘束具が、頭と腰の当たる部分には奇妙な出っ張りがあった。
クリトンはロウに手伝わせて老人の体をそこに横たえると、首の据わっていない老人の頭を両手で押さえた。
「フェララさん、お願いします」
「は、はい」
フェララが端末を操作すると、氷柱のような端子がシートから突き出て老人の体を串刺しにした。
背骨を貫く端子が支柱の役目を果たし、老人の背筋がしゃんとなった。ところが胴体の様子とは裏腹に、老人の手足は痙攣した。
数秒して拘束具のがたつく不快な音が収まった。すると、ブリッジの主モニターに球形のマスコットが映り、黄緑色のそれが耳と思わしき箇所をぱかぱかと開閉させながら跳ね回った。
「神経電位接続完了しました。制御システムをセミオートに移行します。
SEジェネレータ出力七十パーセントに上昇。第一左翼再構築。艦載通常兵装オールグリーン。SEフィールド、拡張します」
力場が広がり、ビアーの体を押し返した。ヒューブリスから放たれた弾丸のほうは、上空に向かう弾道を描き始めた。
『お早うございます、皆さん。絶体絶命ですね』
ウーティスが全システムを掌握したことにより、飛行艦ヴェスタは本来の力を取り戻した。
Doll-A07は、空中でキロプティーランスを傘のように広げて静止していた。その先端は飛行艦ヴェスタに向けられている。
『充填率四十パーセント。チャージ続行』
砲身の輝きが増して行く。抑え切れない出力が電光と化し、引き付けられるようにアメタペイストの全身に絡みついた。
このMSと一体化している少女も全身を擽られるのを感じた。キロプティーランスがその力の解放を待ちわびて暴れ出し、少女の腕はがたがたと揺れた。
アメタペイストが武器の力をもてあましているのは、傍目にも明らかであった。
それを喩えて言うならば、どこぞの気取った令嬢が日傘を差して優雅に散歩していたところ、突如暴風雨に見舞われたというような有様である。
『充填率五十パーセント。エランバイタル安定。チャージ続行』
少女の目が攻撃目標に注がれた。敵艦の足止めと電磁迷彩の展開を妨害するという任務を、MOSタイプ部隊は順調に果たしていた。
先だっての第一射は敵艦の電磁迷彩を解いて座標を特定するためのものに過ぎない。
これから放たんとする第二射のビームは、敵艦をSEフィールドごと消滅させるのに、威力も精度も申し分の無いものである。
キロプティーランスの最大出力はアメタペイストをもってしても防ぎ切れない。SEフィールドを多少強めても、消滅の時刻を数瞬遅らせる程度であろう。
それほどの威力であるので眼下の市街地もただでは済むまいが、少女の任務に市街地の保全という内容は含まれていない。
少女は戦場の状況を把握するために町を見下ろした。
少女の鋭敏な視覚は町の地形ばかりでなく、コーディネイターと呼ばれる物体の一体一体を詳細に把握した。その物体の殆どが顔の筋肉を盛んに活動させていた。
キロプティーランスの発する白光を、琥珀色の瞳は波打つように反射した。それに呼応して、アメタペイストのバイザーに光の亀裂が走った。
『エランバイタル上昇、規定範囲内。充填率六十五パーセント。エランバイタル安定。チャージ続行』
作戦の妨害となりそうなものは地上に見当たらなかった。コーディネイターのいる町を観測する必要はもはやなくなった。
少女はゆっくり瞬きをすると、再び攻撃目標を見据えた。
ポスト・フェストゥムが司令部に向けて歩いていると、行き先からザリー・マッカティンが走って来て直立不動の姿勢を取った。
無論、ポストの行く手を阻んでしまわぬよう通路の右端に寄っての敬礼である。
「おはようございます、閣下」
搾り出すような声であった。全力疾走の息切れを堪えているからであろう。
「早すぎる」
ポストはザリーに目をくれずに通り過ぎた。夜更けというにも早すぎる時刻である。
心地よいまどろみで意識が薄ぼんやりした頃合に、ポストは戦闘開始の報を受けたのであった。
ポストの恰好は、彼が寝床から直接やって来たことを物語っていた。
球形のマスコットが球模様に編み込まれた寝巻きを身に纏い、同じマスコットを模したぬいぐるみを右手に抱えていた。足を進めるたびにナイトキャップの毛玉が揺れた。
その顔はというと苦虫を噛みつぶしたように歪んでいたが、別段安眠を妨害されて全世界を憎悪しているというためではなく、
ただ、体質として起き抜けはいつも自然とこういう顔になって暫く戻らないだけである。
内心では、想定外の状況を前に六十年ぶりの胸のときめきを感じていた。六十年前といえば、管理局がナチュラルの戦争に武力介入した時期である。
ポストは局長専用の司令部直通エレベータに入ると、敬礼したまま静止しているザリーに声をかけた。
「君も乗りたまえ」
「ありがとうございます! 閣下!」
これは彼が常時誇っている持ち前の慈悲心を発揮して、ザリーの階段を上る労を省いてやろうと思い立ったということではない。
エレベータに乗っている間に、ザリーに現状を説明させるためである。
「リグ・ヴェーダから直接要請があったというのだな」
「はい、閣下。管理局からはDoll-A一機を出撃させよとのことであります」
「稼動中のアメタペイスト全機は各工業区の警備に当たっているはずだ。呼び戻したのか」
「まことに勝手ながら、リグ・ヴェーダの指示により、整備のため待機中であった機体を出撃させました」
「あの三機か」
先回の作戦に参加したDoll-A69、Doll-A27、Doll-A07の三機である。
戦闘直後でフォーマットの済んでいない生体CPUは、エランバイタル超過による暴走の危険がある。
〈リグ・ヴェーダも余程急いでいたと見える。或いは……〉
「どれを出した」
「Doll-A07であります」
「七号か。君が選んだのか」
「はい、閣下。Doll-A07のパラメータは優秀であります。故に今回の単独任務に最も適していると、ザリー・マッカティンは判断致したのであります」
〈贔屓だな〉
ポストは面白半分に釘を刺すことにした。
「ザリー君、優秀かどうかを判断するのは君ではない。私だ」
「申し訳ございません! 閣下!」
「だが、七号が優秀だという君の意見は覚えておくことにしよう」
「恐悦至極であります! 閣下!」
ポストはザリーの目の色が変わったのを見逃さなかった。このイェニチェリー・モロンの目に宿ったのは、条件反射の輝きとばかりは言い切れない。
〈この男は餌付け次第で面白い逸物に化けるかもしれぬ〉ポストが教えられるより教える方を好む人間であるのはいうまでもない。
エレベータが指令室に着いた。ポストは前もって中指を立てることで歓迎の手間を省いた。
指を立てる本数に他人の態度が左右されることは太古の賢人も言っている。
大型モニターには、最大出力のビームを放たんとしているアメタペイストが映っていた。
市街地上空に浮かぶ監視装置が捉えた映像である。
「ふむ」と言ったきり、ポストは映像そのものには頓着せず自分専用の椅子に腰掛けると、ぬいぐるみを膝に乗せて、テーブルのコーヒーカップを手に取った。
温度は温めで、砂糖は氷山のようになるくらい入れるのが彼のこだわりである。〈うむ、不味い〉
「ザリー君、いくつか質問だが」
「どうぞ、閣下」
「あのMOS部隊の管轄は」
「不明であります! 閣下!」
「Doll-Aへの指令は」
「リグ・ヴェーダから直接発せられているであります! 閣下!」
「予測被害状況は」
ザリーがオペレート用モロンに指示を出すと、市街地の三次元マップに攻撃目標を中心とした半透明の球体が形成され、その球体の下方、地表と重なる部分が赤々と点滅した。
「ビーム直撃の余波によりD-78区画一帯が、塵一つ残さず消滅するであります! 閣下!」
「なら止めさせんか」
「了解であります! 閣下!」
リグ・ヴェーダの思惑が何であれ、市民の安全を守るのが管理局の使命である。
いかに敵対勢力が残虐非道の人非人集団であり、それを皆殺しにして真の自由と尊厳と独立とを勝ち取ることが正当な資格を持つ人間にとっての権利であり義務であったとしても、
勝手に始めた殺し合いに市民を巻き込むという法は無い。コーディネイター社会では人民皆兵が理念化せられていないからである。
ザリーはマイクで呼びかけた。
「Doll-A07、攻撃を中止せよ」
『管理局の指令を拒否。リグ・ヴェーダの指令を優先。攻撃続行』
Doll-A07が合成音声で返答する。
「繰り返す、Doll-A07、市街地の保全を優先し、直ちに攻撃を中止せよ」
『拒否』
ポストはザリーの結果報告を待たずに叫んだ。Doll-Aのみでなく、MOSタイプ部隊も止めねばならない。
「定言命令、レベル4!」
無数のオペレート用モロンたちは即座にポストの命令に反応して、攻撃中止の定言命令を発動した。
市街地の中央には、Tセンタービルと呼ばれる二本のビルが建っている。
これは先日襲撃を受けた工業区にあったものと同じもので、音響と映写とによって定言命令を発動させる装置である。
Tセンタービルの屋上が割れると、硝子を爪で引っかくような音にあわせて、めまぐるしく変動する幾何学模様が天蓋一面に映し出された。
その映像と音声がMSのセンサーに捉えられ、パイロットのアーミー・モロンは攻撃中止の暗号を否応無く認識させられる。
そして徹底的な調教と間断なき暗示とにより、普遍的格律として本能化されるまでに刷り込まれたこの道徳以上の命令を、アーミー・モロンは実行するはずであった。
『全部隊、定言命令無効。既にレベル7の定言命令を実行中です』
アナウンス用モロンが愛くるしい声で報告した。定言命令は、それより上位の定言命令でしか打ち消せない。そのため能動的な定言命令は通常は下位のものを用いることになる。
Tセンタービルの発動できる最高位の定言命令は、たった今ポストが発動させたレベル4で、現時点でそれ以上の定言命令は用意できない。
〈こちらに舵をとらせぬつもりだな〉
「あの、閣下。Doll-A07が、応答を拒絶しました」
震える声でザリーが告げた。そのモロンらしくない様子にポストは興味をそそられたが、今はアメタペイストに攻撃を止めさせる方が先決である。
「受信はある。呼びかけを続けたまえ」
「07、応答せよ07!」
『充填率七十パーセント。エランバイタル安定。チャージ続行』
ザリーの声は空しく響き、アメタペイストはビームの発射準備を着々と進めていった。
「応答せよ07! 07! 応答――シンシア!」
〈それが彼女の名か〉
取り乱したために思わず叫んでしまったのであろう。ザリーははっとしたような顔でポストに振向いた。
「いいぞ、ザリー君。時間稼ぎにはなる」
ポストはキロプティーランスの充填速度が下がったのを示した。
「応答せよ07」
ザリーは落ち着きを取り戻して呼びかけを続けた。そこはかとなく得意そうな声色であった。ポストの鼻孔が膨らんだ。
「工業区のDoll-A83とDoll-A22を、第48居住区に急行させろ」
そうポストがモロンに指示を出すと、ザリーはまるで定言命令を使われたように口を噤んでしまった。
「市街地の防衛を最優先に、攻撃目標はDoll-A07及び所属不明MOS部隊。
Doll-A07を撃墜しても構わん。何があっても、市民を護るのだ」
ザリーの顔が青ざめた。
〈どうせ発射には間に会うまい。避けるべくもない人死にならば〉
ポストの下した決断はむしろ事態を悪化させたといえた。
Dollタイプ同士が戦闘するということにでもなれば、市街地の被害が072工業区を上回るのは確実である。
この不祥事は傍観者に純粋な憤激の種を提供してくれるが、後始末の手間を省くという利点もあった。
「どうしたのだねザリー君。早くセミ・モロンに呼びかけたまえ。さあ」
「Doll-A07、攻撃を、中止、せよ。応答、せよ、07。応答……」
〈これで無数のコーディネイターと一人のイェニチェリー・モロンの運命は委ねられた。Doll-DAに〉
ポストは襲撃時の映像にあった未知のMSの姿を思い浮かべてほくそえんだ。
〈私の知らないDollタイプ。ガンダムの面影を持つ神の人形……私は神を試していられるのだろうか。それとも神に試されているに過ぎないのだろうか〉
「シンシア」
ビーム発射まで間もないとき、ザリーはまたもや少女の名前を呟いた。やはり、答えは返って来なかった。
ウーティスが復帰したとはいえ、本職の軍人でない指揮官が即時に有効な打開策を講じかねるのは、相当な天才か無能でない限り恥じ入ることではない。
沈黙の中、ブリッジにいる全員の視線はロウに集中していた。リーダーが発言するのを待っているのである。
十秒経った。ロウはいかめしい作り顔でブリッジを見渡した。
ウーティスのモニターが刻一刻と、アメタペイストのSE反応が増大していくのを示していた。
ジョウの顔つきが「どうする?」と尋ねているように思われた。
ベンが怯えたように目を逸らした。フェララの視線は冷たかった。
最後に、普段通りの下心ありげな微笑みを浮かべるクリトンと目が合った。
「ガンダムだ。それしか手はない」
ロウが呻くように言うと、クリトンは得々と手を鳴らした。
「はい! こんなこともあろうかと」
『ブリッジ、ドルダの起動が済んだ』
サブウインドウが開いて格納庫のケレンが映った。
「ちゃんと使えるようにしておきました、ガンダムドルダを」
ガンダムドルダはロウの知らぬ間に起動を終え、ケレンの後ろで腕を振り上げたり屈伸したりしていた。
「よし、直ちに発進準備だ。フェララ、カタパルトの」
『馬鹿か君は? 敵は後ろだ。フェララちゃん、後部ハッチの支度、頼むよ』
「了解です、ケレンさん」
ジョウが「おやまあ」というような顔をした。ロウに割り込んで指示を出したケレンが言い添えた。
『状況は把握している。ビームが来るんだろう? なら、するべきことは決まってる』
ガンダムドルダの強力なSEフィールドでビームを防ぐのと、ロウが主導権をとろうと焦って時間を浪費しないことである。
「ガンダムは持つのか」
「ゲインは五倍!」
『五分五分ですかね』
クリトンが親指を立て、ウーティスが答えた。ウーティスが今まで黙していたのは、格納庫の方に処理能力を割いていたからであろう。
そして有能な彼はガンダムの起動作業の他に、ケレンに作戦立案をさせてもいる。
『けれど今は、ガンダムの力を信じよう。僕たちが生きるために、そしていつの日か、未来を、真の自由を勝ち取るために』
「ああ、そうだ」
ロウはケレンの言葉を聞きながら、覚えず爪を噛んでいた。
良人が美容院の領収書を見ていやな顔をすると細君は良人の女性関係を疑う。電球の交換を頼んだときの良人の顔で細君は良人の浮気を確信する。
女の勘と世間で呼ばれるところのそういうものとは別物の予感を、ナギはガンダムドルダのコックピットで感じていた。
ナギの傍らでコンティが言った。
「本当に、いいのか」
ナギは振向かず、コンソールだけを見つめていた。最終調整は済ましてあった。コンティはきっと、彼らしくもない深刻な顔をしているに違いなかった。
「コンティのくせに生意気よ」
いつも回りに振り回されているコンティ・ネイブリットの顔には、困惑だけ浮かんでいればいいのである。
「駄目だ。やっぱり俺が」
「あんた、あたしに逆らえると思ってるの? やい、弱虫コンティ、泣き虫コンティ」
ナギは幼い頃のあだ名を持ち出しながらコンティに振向いた。
「ふざけるのは、止せよ」
バッシュではないが、こうも頑なでいられては一泡吹かせてやらねば気が済まなくなって来る。
ナギは突然コンソールに顔を向け、口に手を当てて仰天して見せた。
「あっ!」
「どうし――」
注意を逸らしたコンティを捕らえるのは容易かった。歯がかつっと音を鳴らした。
ほんの僅かな時間なのに随分長く息を止めていた気がした。じんとする自分の唇を舐めると鉄の味がした。
「まぬけ」
コンティは呆然としていた。
えいっという軽い掛声とともにナギはコンティを蹴飛ばしてコックピットから放り出した。
ガンダムの手の平に受け止められて、コンティはようやく立ち直った。
「おまっ、今何した」
ナギはコックピットから身を乗り出し、
「フィーカへの言伝なんか頼まない! アンタにも、何も言ってやらないんだからね!」
そう叫んでコックピットハッチを閉じた。
「つけておけばよかったかも」
こっそり買ったきり、引き出しの奥にしまい込んである口紅を思い浮かべながら、ナギはそっと唇に触れ、指で血を伸ばしてみた。
今の自分の顔のうちでは、そこだけがひんやりと感じられた。
ガンダムの手はコンティをぽいと投げ捨てたも同然であった。ガンダムが後部ハッチに向けて歩いて行く。
それを見送りながらコンティが立ち上がろうとすると、
「ガキってのは分からんものだな。ついこないだまで天使だったってのに、バッシュ兄さんは複雑な気持ちだよ」
と言って、バッシュがコンティに手を差しのべた。
「散々煽っておいて」
悪趣味な覗き見や自分たちの年齢など、他にも考慮させたい事柄はあるが口論している暇はない。
パイロットは自分のMSに乗り込んで待機しなければならなかった。一緒に駆けながらバッシュが言った。
「どのみちな、ドルダとヴェスタは一蓮托生さ」
それはコンティの疚しい気持ちを紛らわすための言葉であったかもしれないが、却ってコンティは自責の念を感じさせられた。
余計な一言とは、こういうもののことを言うのである。
初めの数歩は気を遣ったがディズンのOSを基にしているだけあって、操縦の手応えの頼りなさは誤魔化せた。
SEドライブジェネレータの内部慣性制御で重心をディズンに近似させたおかげもあろう。
しかし反応が聊か機敏に過ぎて危なっかしいきらいもあった。
「これ、おっきいの?」とナギは思った。それは第三者の納得しうる根拠の無い、粗野な実感であった。
装甲越しに感ずる外界との距離、または装甲の抽象的な厚み、さらに支離滅裂な表現では感覚移入を行い得る空間の拡がり、意識の温帯感覚、
こういった実地で語ると恥をかく類の心霊的感覚が、他のMSよりずっとずっと大きいのである。
同じ人型MSのティハターンでは、脆くて狭い卵の殻の内側にいるように感ぜられ、ディズンやキルケニーではその装甲相応である。
ガンダムドルダのそれはいわば大鯨の腹の中で、たとえ外の世界の一切が水に飲まれようとも自分だけは安全を確信していられるに違いない。
そう考え至るとナギは不意の寒気に襲われた。コンティの体温がコックピットから消えてしまったことが惜しまれた。
Doll-DAのコックピットはティハターンやディズンと違って、完全な単座式である。
『ガンダムドルダは発艦と同時に最大出力でSEフィールドを展開。ビームを無効化した後、アメタペイストの撃破に移行。
発艦のタイミングはこちらで測る。やれるな、ナギ』
ロウからの通信がナギの感傷を断ち切った。
自分らしくもない、そうナギは瞬間的に心中の己に命令して、自信に満ちた顔になるように力んで見せた。
「発進、バリヤー、ぶん殴るね。楽勝よ」
即席の作戦図案のサブウインドウに映るのに続いて、クリトンが早口で注意事項を述べる。
『DollタイプのSEドライブはコックピットの慣性をも無効化してしまいます。貴女の操縦に合わせた擬似慣性を働かせてありますがその分運動性が落ちるので任意に切り替えてください』
「酔いたくないなら加減しろってこと?」
『はい。それから何より大切なのは、魂の叫び! だということを忘れないで下さいね』
「最低」
しつこい念押しである。
『ガンダムドルダ、フライトモード起動して下さい』
不真面目の矯正手段を考える暇はない。ナギはフェララの声に従ってコンソールに手を触れた。
ハッチの前に棒立ちでいたガンダムドルダが、足を肩幅まで広げて中腰になる。
それと同時に、だらりと伸ばされていた肘が操縦者のナギの肘と同じように曲げられ、弛緩していた手は硬い拳に握られた。
そしてやや臀部を突き出すように前かがみになり、頭を上げて前方を見据えた。
ガンダムが大用の気張りを連想させるこの姿勢をとり終えると、ナギはもろもろの思考を打ち消すかのように叫んだ。
「ドルダ・ウィーングッ!」
狭いコックピットでの反響で濁るかに思われたが、不思議なことに、それは木霊のように響いて聞こえた。
『ノリノリじゃねえか』
もはやバッシュの呟きなど誰も気に留めない。機体パラメータが一挙に変動する。ガンダムの双眼が閃くように発光した。ぎゅいん、という音が鳴っても違和感はない。
瞳から放たれた光は隈取に零れ、涙のように頬の線に流れたと思うと、瞬時に全身の装甲の合わせ目に伝わった。角や装甲の欠けた断面には、毛穴の滲みに似たぶつぶつの光が散った。
そうして背面、肩、肘、腰、脹脛、踵、それから尻たぶの装甲がばね仕掛けのように次々と展開して、蛍を思わせる光の粒とともに、細長い板が突き出し、ガンダムドルダの輪郭が刺々しく変貌した。
これは空力に対して無謀な形をしているが放熱板の類でもない。
機体の表面積と幅の増加でSEフィールドの空間干渉の効率を良くするというアンテナのようなものらしく、その作用の結果のみを考えれば、クリトンの形容もあながち的外れとは言い切れない。
『敵SE反応変化! ビーム来ます!』
『ハッチ開け! 後部フィールド解除!』
「覚悟している暇もない!」
時間についてはむしろ僥倖に過ぎた。敵は破壊を確実にするためであろうけれども、こちらの準備の整うまでの何分もの時間を与えてくれたことには疑いを差し挟む余地がある。
上手く事が進むという予感に急かされた解放戦線の面々は、目の前の難関を乗り越えるに懸命で、今は正しく一丸となっていた。
ハッチが開く。コーディネイターの歓楽境は夜景だけなら自然保護区の大都市とそう変わりない。
とにかく多数の光り物でさえあれば美を感ずる資格を持つ動物は、ここで如何なる感慨と描写を述べるべきか。そういう高尚な思索を行う余裕は、誰にも残っていなかった。
キーウィタースの天蓋は自然保護区のそれに比べて低く、電飾も肉眼で見ることが出来る。その無数の光点のなかに、ひと際目立つ輝きがあった。
Doll-Aアメタペイストである。ナギは解放戦線の仲間と無数の祖先の命を奪った管理局の人形を睨み付けた。
恐れはある。しかし戦意も敵意も充分ある。より強い力を手にした今ならば、暴力以外の思考は必要でない。
ガンダムドルダの背後が、大きく歪んだ。空間そのものを弓と化して引き絞るかのように背景が陥没した。
ヴェスタ後部のSEフィールドが消え、後部ハッチの中に風が吹き込む。センサーがそれを示した微かな時間、ナギは自身の肌にも風を感じた。
『Doll-DAガンダムドルダ、発艦どうぞ!』
アメタペイストの光が強まるのとほぼ同時に、ガンダムドルダは加速した。
ほんの束の間であった。
アメタペイストの光が急激に変色し、四方に散ったかと思うと激しい光が新たに生まれる。
擬似慣性で息がつまり、迫り来るビーム以外の光の点がすべて光の線と化し、視界の両脇に縞模様を描く。
見る間もないはずなのに時間がゆっくり流れているように感じられ、みるみるうちにビームの青白い光が膨張して行く。
Doll-DAの出力が不足してしまうならば、今のナギはむざむざ焼かれに飛び込むようなものである。
感ずる間も思う間も無しに肉体が炭化する。人知れず食事に気をつけたり一人合点して胸筋を鍛えたりした一切が、ビームの黒点の足しに過ぎなくなる。
そんな馬鹿げたことは承知できる筈がない。強張った肺に残る空気がようやっと本来の出番が来たとばかりに上り出す。
クリトン・キーンの願望が成就する。死中を目前とした衝動の氾濫が、年頃の娘をして絶叫せしめた。
「処女で――」
エランバイタルの表示が変化する。ナギの想いを受けたガンダムが、その力を解き放つ。
「――死ねるかぁ!」
視界いっぱいに、光が広がった。
棒が管になった。ビームの形状の変化を述べるにはこれで充分である。
ガンダムドルダの前面に展開されたSEフィールドは、アメタペイストの放ったビームを中心から押し広げて空洞を作った。
相当な厚みのある管であったので、ヴェスタの脇に逸れていたMSは全て消失した。
空洞の真ん中あたりに浮遊するヴェスタと、その正面で攻撃に精出していたMS数機は直撃を逃れたが、それらも安閑としてはいられなかった。
主モニターの映像でビーム光の無いところ、ほの暗い円が昇るのを見て、ロウが喚いた。
「引かれているのか? 慣性制御!」
『間に合いません! 操舵で逃げます!』
そうウーティスが答えたのを聞き、フェララが端末にしがみ付いた。
「揺れるの? ねえ揺れるの?」
『すごく!』
「みんなつかま――」と言いながら、誰よりも身構えの遅れていたロウが舌を噛んだ。
大気による減退の際、ビームは鈴の鳴るのに似た音を立てる。ほんの微かな音である。
大概は発射音や爆発音などに掻き消されるので、直にビームで焼かれる生き物が「今何か聞こえたかしらん」と焼かれる刹那に思いかけるか、
ビームを用いた殺し合いの最中に色々な感覚を研ぎ澄ませることの出来たMSパイロットが「いや、聞いた。確かに聞こえた」と複雑な心境で語るくらいである。
ヴェスタの乗組員とMOSタイプMSに搭乗するアーミー・モロンたちはこの希少な音色に、聞き入る機会を得たのであった。
飛行艦ヴェスタが右傾左傾し、艦首をもたげたと思いきや慌てて下に向き直ったり、更には斜め上を向いて艦尾をぐらぐら揺らしたりする。
ビームの管の厚みは不均一でその配分も刻々に変動する。管の内部で働く引力は一定でない。
SEドライブジェネレータを搭載しているヴェスタですら、不細工な動きをしてやっと堪えている。
民生品のそれに比べて必ずしも良品であるとはいえないフライトユニットを装備するMOSタイプMSが、ヴェスタほど器用でいられる道理は無い。
二種のMOSタイプのうち、重量の少ないMOS-Bビアーが先に制御を失った。高い回避性能が却って災いした。
アーミー・モロンがスラスターを吹かし過ぎたことに気付くころには手遅れである。
ビアーは回転しながらビームの川面に飛んで行く。そこで四肢を四散させつつ水切りのように数回弾んで消えてしまう。
MOS-Hヒューブリスの方は推力の不足が原因である。スラスターを吹かしても吹かしても、ビームの川面が迫り来る。
鈴の音の喧しい距離まで近づくと、ビーム粒子の飛沫が当たって装甲に無数の穴ぼこが出来る。
体の一部が直接川面に触れたときには鑢をかけられたように全身が振動し、それから間もなく沈んで行く。
パイロットはコックピット内部に流入したビーム粒子でとっくに焼け死んでいる。
MOSタイプMSの全滅したとき、ロウは耳をそばだてた。
「ノイズ? いや」
『ビームです!』
「もういや!」
フェララが耳を塞いで金切り声を出した。ジョウの腕に抱かれているベンが息を呑んだ。クリトンは音の明瞭さに感嘆した様子であった。
『左翼接触!』
その報告とともにブリッジががくんと揺れた。ロウは目を瞑ってしまった。
『左舷熱量上昇! フィールド出力六十、五十、三十五、七――消失』
音が消えた。この瞬間、ロウは目を開けるのを恐れた。
夜の帳が下りた。夜空を照らした白光は、終わってみれば寸刻の幻影のようにも思われた。光の行方は定かではない。
ビームはそれを安全な場所で見物する市民の目を楽しませると、二三の高層ビルの上層を焼き飛ばした後、市街地と工業地とを区切る壁を穿った。
生まれる前から抑圧され、生まれた直後にSEフィールドで形を歪められたビームは、己の役目を果たせなかった。
期待に背いた途端に見捨てられた。しかしもはや自由であった。
大気で完全に拡散してしまうまでの残り少ない時間を目一杯有意義に用いて、工業区のモロンでも焼いていることであろう。それがこのビームの本分であり、最高度の合目的性なのである。
ビームはその性質上土木工事にも廃棄物処理にも適さない。殺人用具としてのみ役に立つ。
資質と意欲は不一致でなくもないが、それは客観の第三者にしてみれば一主観の迷妄に過ぎない。こういった不一致をあからさまにすることは不健全で非文化的な精神の把持を白状するのと道義である。
ビームの破壊目標が移転した一方、ガンダムドルダは前腕を交差させた姿勢で硬直していた。純白の装甲は漆黒と化していた。
装甲の節々の奥まったところが白く滲んでいることから、その変色が熱のためであることが察せられた。いかにも丸焼けという感じであった。
全身から立ち上る煙が微風で揺らいだ。ガンダムはアサルトフィールドの光を浴びたモロンのように、形だけ留めていないとも限らなかった。
パイロットも沸騰して破裂して蒸発しているかもしれなかった。
アメタペイストがキロプティーランスを構え直すのと時を同じくして、ガンダムドルダは動き出した。
黒光りする両腕が関節の軋む音を立てて下ろされた。ガンダムの顔が上がり、双眼が瞬いた。
薄緑ではなく、真紅の光であった。「おれは怒ったぞ」とも、「姉ちゃんもう堪忍して」とも受け取れた。
ナギ・ヴァニミィもまた、眩んでいた目を見開いた。彼女の眼光は敵意一点張りである。生ぬるい感触がこめかみから頬に伝い下りた。
全身がじっとり湿り気を帯び、彼女には饐えて感じられる臭いがコックピットに充満していた。下着の引きつる心地がした。背中の金具の部分に汗疹が出来そうであった。
最後のに関しては自身の見得も遠因であるが、ナギはこれら不快の責めの一切を、無闇に熱いビームを放ったアメタペイストに帰した。
あのMSのビームのせいでシャワーを浴びねばならなくなった。そもそもあのMSは、MSのくせにドレスなんぞを着て生意気である。
あんなふりふりしたスカートは、人間様の自分でさえ穿けた機会がない。人形は人形らしく、怪獣の相方をして首でももげればいいのである。
「モーションフィールド、セット」
ガンダムドルダが空間を踏みしめる。装甲の隙間から漏れた緑光が、波紋に乗って四散する。
左足を前に出したレの字になる位置に足が置かれ、背筋は真っ直ぐ、軽く握った拳が構えられた。
アメタペイストのSE反応は微弱であった。頑張り過ぎて息切れをしているのであろう。第三射を放つにはもう暫しの時間がかかる。
こちらに飛び道具が無いのを見抜いているのか、撃てない武器を悠然と向けている。
如何な挙動をされようと即座に対処し得るという自負もあろう。移動するでもなく、ガンダムドルダと同じように一定の座標に静止している。
ナギは大きく息を吸った。画面が白兵戦モードに切り替わり、ディズンのそれと同じカーソルがアメタペイストに重なった。
アメタペイストがこの間合いに安全を感じていようがいまいが、ナギにはどうでもいい。うちはうち、よそはよそである。
「必殺!」
この間合いはガンダムドルダにとって一足の間合いであった。
制御が不安定なこともあってガンダムドルダの加速で生じた空間の歪みは、アメタペイストの加速のように透明な蛇腹を作らなかった。
それは残像を生じさせた。無数の残像であった。縦一列に、何千体ものガンダムドルダが並んで見えた。
写真に写せば、拳を繰り出さんとするガンダムドルダの動作がひと齣ひと齣確かめられたろう。映像で見ると気味の悪い光景である。
アメタペイストが咄嗟にキロプティーランスを手放して、両手をスカートに突っ込んだ。ドルダの奇抜な挙動に慄いたのでは無論ない。
ガータースティレットが手のひらに吸い寄せられて刀身のビーム発生器が起動する。が、それよりも一拍先にナギの叫びが木霊した。
「ドルダ――」
ドルダの足が空を蹴る。足元からの力が足首、膝、股、腰、腹、胸、首、肩、肘、手首と伝わる毎に増幅されて行く、全身の関節を用いた一撃である。
以前に解放戦線のメカニックたちが酔狂で製作し、ティハターンで試したところ財政を圧迫する結果に終わった動作プログラムがこれに転用されていた。
空中分解しなかった躯体がプログラムを忠実に実行する。振り降ろされんとする拳にSEフィールドが集約される。
大気の影響を直に蒙って、頭の角がぽきりと折れる。内的SEフィールドの作用でその部分だけ異常な硬度を持つに至り、ドルダの右手が光って唸る。
「――パンチ!」
それは音の壁を越えた衝撃によるものか、首の骨格の砕けたことによるものか、判別するのは難しい。町中に反響する凄まじい音であった。
ガンダムドルダの繰り出した一撃はアメタペイストのSEフィールドを容易く貫き、その繊細そうな横っ面に打ち込まれた。
アメタペイストは殴り飛ばされた。ぐるんぐるんと独楽回りして飛んで行った。その形状からして慣性モーメントの大きいのは一目に察せられる。
なまじ姿勢制御を試みているために、ゆっくりと蛇行した軌道を描く。いわば殺虫剤を浴びた羽虫の類である。
勝てる、とナギは思った。ドルダの全身に内的SEフィールドが再び染み渡った。ドルダの機動力ならアメタペイストに追いつける。
ナギは殆ど無我夢中でアームレイカーを動かした。今追撃すれば、確実に落せるのである。
ナギの高まった動体視力は、アメタペイストの肩の『Doll-A07』という文字をはっきり見分けていた。
Dollタイプは管理局の象徴である。解放戦線にとっては仲間の仇である。
そしてナチュラルにとっては、過去の大戦で文明を踏みにじり、人は籠の鳥に過ぎなかったという醜悪な世界観を齎し、
人類という総体であったところの観念をしてナチュラルという一種族に凋落せしめた機械仕掛けの神である。
「人形なんかに、人間は負けない!」
狙いは勘で間に合わせる。随時修正してもいい。ガンダムドルダが左、右、左、の順で三度腕を突き出し、四度目に両拳を打ち合わせる。
そのまま全身を大の字に広げて宙返りして、手足を縮こめた。四肢それぞれから独立に発せられたSEフィールドが共振し、より強い、より安定した斥力場が構築される。
そして左足と左腕が曲げられ、右足と右腕が伸ばされた。手足の先端は全て目標に向いている。
ロックオンカーソルが、堕ちて行くアメタペイストを捉える。止めを刺す下準備が整った。
ガンダムドルダが竜巻のように回転しつつ後退し、再び先ほどの構えをとる。助走である。あとは加速を待つばかりである。
もはや叫ぶのにためらいは無かった。
「究極! ドルダ・キーッ――え?」
いきなり真正面の画面にシステムエラーの表記が出た。あまりにでかでかと出たので、アメタペイストの姿も隠れてしまった。
「ちょっと、どうしたのよ!」
アームレイカーの手応えが消えた。フィードバックが無くなったのである。
「ふざけるんじゃ――」
機体パラメータを呼び出すと、ガンダムドルダを模したホログラムの関節部分が真っ赤になっている。
「――ないっ、て、嘘……」
どうにか修正するべくコンソールを弄った途端、今度は別なエラーの表記が出て、勝手に新たなプログラムが起動する。
そのプログラムでもエラーが出て、それからまた新たなプログラムというふうに連鎖して行き、瞬く間にコックピットはエラーの赤文字で埋まってしまった。
「この、止まりなさいよ! 止まりなさいって言ってるでしょ!」
ナギは腰に寒気が走るのを感じた。慣性制御が利いていない。
ガンダムドルダがナギの怒声を、字義通り受け取ってしまったのかもしれなかった。
「嘘、嘘よね、嘘なのよね」
体がふわりと浮き上がる。赤色灯で照らしたように赤く染まったコックピットに、ナギの悲鳴が響いた。
きゃあという悲鳴であった。
三機の編隊を組んだ輸送機が、殆ど三機同時に速度を上げる。
この輸送機らはヴェスタのセンサーに捉えられた後、今の今まで戦いを遠巻きに眺めていた。
輸送機の大振りの翼には、MSが四機ずつぶら下がっている。合計で十二機のMOSタイプMSである。
フライトユニットを装備しているのもあれば、地上用のキャタピラシューズを穿いているのもある。
『GUNDAM・DAICHI・NI・OTSU』
『コード確認。作戦を第三段階に移行。降下地点、自然公園区域』
暗号通信を受け、輸送指揮官のモロンが命令を取り次いだ。MOSタイプMSの単眼が次々に点った。
輸送機が自然公園の上空に差し掛かるとパイロットのアーミー・モロンたちは、
『イキマース』
『イキマース』
『イキマース』
『イキマース』
そう順々に音声を発して降下した。
フライトユニットの有無にかかわらず、十二機のMOSタイプMSはそれぞれの降下地点で軟着陸した。
ある機体は広場の真ん中に着陸し、ある機体は木の繁ったところに着陸した。
店舗を下敷きにする機体や、偶々に事の最中であったコーディネイターを踏みつけた機体、五点接地転回法で着地する機体もいた。
いずれにしても目立つことには変わりない。
自然公園に居合わせたコーディネイターたちは当惑した。
彼らはこの日何かの行事があるという話は聞いていなかった。噂すら聞かれなかった。
物見高いコーディネイターたちが、見慣れない首なしMSのそばに押しかけた。首なしMSは膝を屈めて硬直していた。
女性コーディネイターが首なしMSの装甲に恐る恐る触れてみて、さっと手を引込めた。
男性コーディネイターが笑いながら装甲を蹴りつけた。二三の少年が、胸の単眼を狙って石ころを投げた。
粗大ごみの発生を検知した黒子モロンがMSの足首に取っ組み合いを挑んだ。
そうして、恋人にカメラを持たせた男が、MSの腕を伝ってよじ登ろうとしかけたときであった。
どすんという音がした。首なしMSの背負ったコンテナが、いきなり地面に落ちたのである。
「こいつ、動くぞ」と誰かが言った。事実、首なしMSの本体も鷹揚に動き出した。コーディネイターたちは大いにはしゃいだ。
「すごい!」
「ダサい!」
絶えず刺激を求めるコーディネイターにとって、見たことの無いMSというのはいい見世物である。
「ディズンより、ださーい」
そう自分の恋人に言われた男性などは、胸中にほんの少しばかりの残念を感じた。
ナチュラル的な物言いでは、寝取られたというような気持ちである。彼はディズンの旧式を愛用し、そこに自分の個性を見出していたのである。
極一部のコーディネイターの微妙な心境に関係なく、落ちたコンテナの蓋が開き、その中身があらわにされる。
ぎゅうぎゅうの鮨詰めで収納された無数のアーミー・モロンである。コーディネイターたちはぎょっとして首なしMSから離れた。
彼らにとりアーミー・モロンは、工場見学くらいでしか見る機会のないモロンである。その大柄な体躯に気後れしてしまうのも無理はない。
モロンの全ての能力は、コーディネイターに劣るよう調整されている。主人が召使に劣るのは、絶対にあり得ないからである。
しかしアーミー・モロンは見るからに逞しく思われる見た目をしている。霊長の所以たる知性についてはともかくも、体力では勝るとも劣らないとも限らない。
アーミー・モロンたちは押し合うことなくコンテナを出ると、首なしMSの股をくぐってその前に整列した。
背の低いモロンが一番遅れてコンテナを出た。コマンダー・モロンである。
それは眉間に皺を寄せ、顎を無理にしゃくれさせていた。コマンダー・モロンは列の前に立って金切り声を出した。
「提げ銃! 立て銃! 担え銃! 着け剣! 捧げ銃!」
アーミー・モロン全員が声に合わせて小銃を動かした。めりはりの利いた動作であった。
それはほんの短かったが、これほどまでに一糸乱れぬモロンの踊りはそうそう見られるものではない。
コーディネイターたちは感心の声を上げた。そして拍手が沸き起こった。
コーディネイターの体には、兎にも角にも即時に大げさな喜びを表現する癖が染み付いている。加うるに彼らはアーミー・モロンの持つ道具の用途を知っていない。
コマンダー・モロンは喝采に応えるように続けた。
「弾をこめ!」
アーミー・モロンが小銃に弾倉を装填する。
「戦闘レベル! ターゲット確認!」とコマンダー・モロンが叫び、
これまで黙していたアーミー・モロンが『戦闘レベル! ターゲット確認!』と合唱した。
「Dモード、起動!」
『Dモード、起動!』
「でっでっでっでっでっでっ……」
『でっでっでっでっでっでっ……』
アーミー・モロンの声が律動する。いつの間にかコマンダー・モロンの声もその律動に重なっている。
この歌の後には何を見せてくれるのかという期待に、コーディネイターたちの顔が綻んだ。
筒の尖端はコーディネイター一人一人に向けられてある。たぶん風変わりなクラッカーか何かの類であろう。でっでっでっ、の声が次第に大きくなって行く。
「でっでっでっでっでっでっ……」
『でっでっでっでっでっでっ……』
アーミー・モロンの顔が一斉に笑みの形に歪んだ。よく見れば足と胴体の境目が、不自然な形に隆起している。
外なる男性が動乱を起こし、内なる力によって不細工に突き立ったのは明らかであった。
「――デストローイ!」
無数の光が瞬いて、何かの弾ける音がした。弾丸が風を切り、無数の絶叫がその音を掻き消した。殺戮が始まった。
目安として一時間ごとに十分から十五分の休息が勧められている。
同種の装置の個人使用で守られているとは言いがたい制約ではあるけれども、
自由の制限されるスクール生活においては自己責任という語が持ち出せない以上、授業の合間に必ず三十分の休憩時間が設けてある。
休憩時間に生徒たちは、談話をしたりスポーツをしたり、映像作品を鑑賞したり食事をしたり、
スメッグを吸ったりモロンで遊んだり、恋愛を楽しんだりと、めいめい好きに振舞っていた。
アランはというとセーレとテニスでもしようと思い立ったのであるが、授業終了と同時にエセクにつかまって、彼の相手をしなければならぬ羽目に立ち入ってしまった。
エセクは机に肘を付いて、手に持ったチョコレートバーを舌先で撫で回しながらアランに話しかけていた。
素直に齧らずに、もっぱら表面のチョコばかりを溶かして、ちゅっぱちゅっぱという音を鳴らしている。
「でさぁ、アランさんってほら、アレじゃん? なんつーか、イケてるメンってゆーかぁ、マジさぁ、マジでイケメンさんじゃん?」
「知ってるよ……ってきたない。食べてから喋りなよ」
エセクが顔を近づけた拍子にアランの腕に飛沫が当たった。アランはモロンを呼んだ。チョコと唾液の混合液を拭わせるためである。
エセクは「ふひひっ」と舌の隙間から息を漏らす類の笑い声を出して続けた。
「サーセン。でなでな、アランさんは俺らよりカッケーわけじゃん、出来たときから、はじめっからのイケメンたんね」
「だからなに」
当たり前のことである。個々人の知能指数や身体能力、それから体の造りにばらつきが出るのは当然であり、それが個性というものである。
そうして、長所と短所の相殺と後天的な影響を踏まえれば、必然的に皆平等な価値を持ち、平等に幸福なのである。
これは科学的に証明されていることで、全てのコーディネイターがスクールで習うことである。
「ならさ、ハ、ハハ、ハスハちゃんもさ、イケてるウォウメンっとゆうことに」
「なんでハスハが出てくるのさ」
エセクの挙動がおかしいのはいつものことであるが、ハスハの名を言いよどむあたり、少し変な感じがした。
「だってアランさんもイディットじゃん」
「ロットが同じだからって言いたいの?」
ロット、つまり姓が同じであるということは、一つの人工子宮から一時に製造されたということである。
人工子宮からは男女一対一の割合で、平均七十二個の受精卵を作ることが出来るといわれている。
人工子宮は一つにつき一回しか使えない消耗品であるので、そこからまず男女一体ずつの胎児を人工子宮の原料として確保する。
二十体は幼児保育施設へと出荷され、そこでコーディネイターになる。残ったのは全部処分される。
同ロットのコーディネイターは、大抵は製造後一年を過ぎると別々の施設に行くことになるが、
アランとハスハの場合は、初等、中等、高等と、毎度同じスクールの同じクラスで教育を受ける羽目になり、そのうえ指定居住施設も隣接していた。
アランは以前まで、この手の縁続きは非常に珍しいだろうと思っていたが、調べてみたところそんなわけでもないらしい。
アランの通うスクールでは十クラスに一クラスの割合で、似たような偶然が確認されている。
毎年のクラス換えで同ロットの人物と再会したのもあわせると思いのほか結構な人数に上るかもしれない。
同ロットだけあって、確かにアランとハスハは容姿が似ている。ともに銀髪で、琥珀色の瞳を持っている。
成人間際といえども肉体的には発育の途上である。首から下は除くとしても、顔のつくりに目立った性差は生じていなかった。
鬘や詰め物を使えば見分けが付かないかもしれないが、それを試そうと思い切るほどアランは倒錯した嗜好を持ち合わせない。
「でも男女の物差は違うよ」
「けどロット一緒っしょ」
言葉の意味が通じなかったようである。
「だから、男と女だと、ルックスの基準が」
「んもう! アランさんってば謙遜しちゃって!」
「は?」
どうしたことか、エセクは耳を赤くしてアランの背中を叩き出した。痛くはないが鬱陶しい。そもそもわけがわからない。
するとエセクは急にひそひそ声になって、
「アランさんとハスハちゃんは、その、キョウダイだもんな」と言った。
「なっ」
アランの顔が火照った。
「下品なこと言うなよ!」
エセクは照れ隠しにある種の言葉を口にしたのである。そういう点で潔癖なアランにすると、とても堪えられるものではなかった。
ここでエセクが『家族』などという口にするどころか思うのですら憚られる言葉で追撃したなら、アランは気ちがいめいた羞恥心に駆られるまま、耳を両手で押さえて突っ伏してしまうに違いない。
公共で禁じられる種類の言葉はいつの時代になっても少年少女の学び舎から放逐され得ないものである。
とはいうものの、卑猥な単語を言って喜んだり、勝ち誇った気になったりするのは子供だけだ、としたり顔で言ってのける人の見解が、ここでは運良く当てはまってくれた。
コーディネイターは優秀なので十五歳で判断力が頂点に達し、大人と見なされる。
十四歳のエセクが最低限の分別を備えているのは当然であった。
「めんご、サーセン。チョリッスッスッス」
「ほんと、やめてよね」
アランは気を取り直して尋ねた。
「それで、ハスハがどうしたのさ」
「いやぁ、うーん、マジでさぁ、あーちょいマジってゆーかヤバイってゆーかぁ。マジでマジでぇ、カノジョってさぁ、かわゆくね」
「それはない」
ハスハ・イディットという少女はそのような高い評価を与えるに適さない。人は性質で位が決まる。
初対面ならまだしも一年近く顔をつき合わせたクラスメイトなら、顔の造型など評価基準から外れている。
ハスハは性根が一般的でないのである。付き合っても面白くないのである。
「いやいやいやいやかわいいっしょ。マジで可愛い感じ、正直ちょーイケてるって」
「少し変わってるよ」
暗い、と言わないのが作法である。君みたいに、と付け足さないのは常識である。
「とゆうかクールっしょ。クール、クール、クール。ビークールミークールウィァコゥールよ。なんてーかきゃわいいってゆうよりぃ、美人系?
そんでちょい影っぽいの。そこんとこストラウィクしちゃったりなんか、しない?」
「しないから」
エセクの話はいちいち頭の中で翻訳しなければ理解できない。アランは少々忌々しくなって早急に結論を出すことにした。
「ハスハと付き合いたいの?」
「は、はぁ? しょしょしょんなのあるわきゃ、ある、かなぁ? てゆーかてゆーかアランさんだって」
「付き合いたいんだろ、エセクが」
「はい」
急に大人しくなった。薄気味悪くて仕方ない。放って置けば持て余しそうであったので、アランは助け舟を出した。
「なら付き合えばいいじゃないか」
「いや、でも」
付き合いたい相手に自分の望みを伝えて、それから共に楽しむ。ただそれだけのことである。
「なんか、こわい」
〈こいつ、何言ってるんだ〉とアランは思ったが、エセクの只ならぬ様子を見て黙っていた。口調が変わっているのである。
「アランさん、ハスハちゃんと付き合ったことあるんしょ。ど、どうだった」
「どうって……普通」
面倒だったとは言えまい。
「アドバイスなんか、しちゃってくれちゃったりなんかして」
「助言も何も、スポーツとかじゃないんだから、常識だよ。
付き合おうとかそのまま言わなくたって、今夜食事しようとか、遊びに行こうとか、セックスしようとか誘う。
もし先方の都合が付かなくて断られたら、また機会に誘うことにして他の女の子に声をかける。
その日楽しんで気に入ったなら、一週間ぐらいは互いだけを相手にいろいろする。
この期間中はときどき、好きだとか愛してるとか言い合わなくちゃいけない。それが決まりだもの。
この言葉で周りの人に自分たちが付き合ってるってことを知らせるんだ。
で、一週間過ぎてお互い飽き始めたら、すぐ関係を解消して、それぞれ別の新しい相手を見つける。
それからまた同じように繰り返す。この循環作用が恋愛ってものだろう?」
修身のプログラムで教え込まれた常識を、アランはエセクにわざわざ説明してやった。
エセクもハスハと同様に成績が不良で、理解していない可能性が考えられたからである。
「アランさんの言うことはわかるよ。でも、なんかちょっと違うような気がしないでもないような、ちょいヤバイ感じってゆうか……」
歯切れが悪い。斜め下を向いて、とんがった髪の先を指で弄んでいる。彼はためらっているのではあるまいかという考えがアランの頭に浮かんだ。
「まさか、やらしいこと考えてるんじゃないだろうな」
「ちちちちげーっての! これっぽっちも疚しくないから! マジで、激マジ。ほら、俺ってぇ、ピュアじゃん?」
「楽しみは明日に伸ばしちゃいけない」
アランは真面目な顔で言った。
「わーってるって。俺変態じゃねーし。アブノーマルアンチだし」
「ならハスハを誘いなよ。それでセックスしたり、シアター行ったりして、健全なお付き合いをしてみなよ」
彼女を相手に健全な交際が出来るかは甚だ疑わしいが、アランはエセクをけしかける必要を感じた。
不純な異性交遊の黙認は人倫に背くのである。
エセクは休み時間の終わる間際にやっと気持ちを固めた。
「よ、よし、よっしゃ! 次の授業が終わったら俺はハスハちゃんに交際を申し込む!」
「あっそ」
「ああでも!」
断られたらどうしよう、と小声で呟くのが聞こえた。
「君、気持ち悪いね」
アランは正直に言ってしまった。
この日の最後の授業が始まっても、エセクは教室に現れなかった。二限後の休み時間からずっと、姿を晦ましたままである。
そのときエセクに連れられて行ったハスハのほうはちゃんと授業に出席していた。彼女は心なしか機嫌が悪そうであった。
アランの視線に気が付くと、ちらとアランを見返して、恨めしげな目つきをする。道理にかなわぬ悪意にアランは不愉快を感じた。
エセクのことはこうして思い出すまで大して気に留めていなかっただけに、彼女の態度は余計に理不尽に思われた。
エセクとハスハにあったらしいやり取りについて、アランは一切関知していないのである。
そうであるのに彼女は「あなたのせいよ」と言わんばかりの顔をする。
ハスハに対してはアランにも正当な言い分があり、後口が悪いとはいわれない。
けれどもエセクの欠席については、彼をけしかけたアランに非の一端があるようにも思われた。
〈エセクのやつ、なにしてんだ〉
ただでさえ彼は学業が不振なのである。出席単位が貰えずに、卒業も危ぶまれるかもしれない。
自分の行為が遠因となって友人が落第するのは心外であった。
アランの評価に響くことはないとはいえ、精神衛生の上でよからぬ影響を蒙りかねなかった。
再びエセクの姿を見たのは放課後である。エセクは廊下のソファーに寝ころんで、天井を凝視しながらなにやらうわ言を呟いていた。
アランといえども翻訳できないモロンじみた妄言である。うわ言の区切りごとに「ふひひっ」という例の笑い声も漏らしている。
その有様を見てアランはかかり合う気をそがれたが、同伴していたセーレがエセクに興味を示してしまった。
セーレは鈴を転がすような声でエセクに問いかけた。
「エセク君はなにをしてるの?」
エセクは天井に向かって話を続けた。
「……前々から俺にはお見通しだったんだ。左手の奥歯がめこめこ疼いて、時が見えるって捏造するんだ。だからCMの繋ぎはやつらの共謀さ。
さっきから耳元で、便所の落書きがひそひそ囁いて来る。ここだけの話さ、俺は選ばれし少数者。非個人的な、だぜ。
なのに活字の見出しがBGMを付けてもったいぶってやがる。ソースが濃厚すぎて舌が痺れるから、今月の標語は考える暇の節約にして、日光の悪口を黙殺しなきゃならないんだ。
真実の眼を持たぬ者にはわからぬだろうがな……そうだ静まれ! オレの左手よ怒りを静めろ!」
セーレは優しく微笑んだ。
「どうしたの?」
彼女にはエセクの独白は高踏的で理解しかねたのであろう。無論、アランも同様である。
見ると、エセクの目頭にはあめ色の目やにが堆積し、瞳孔はせわしく収縮を繰り返していた。
「セーレ。彼、スメッグ中だよ」
それも相当の量をきこしめている。一日の服用量の推奨限度を超えているのは間違いない。
「ほら」
アランはエセクの眼前で手を振ってみた。エセクはにたにた笑っていた。
「そっかぁ、残念っ。お話できないのね」
「みたいだ」
エセクはすごく幸せそうに独り言を繰り返していた。ハスハと何があったか知らないが、ともかく今は至福の時を過ごしているのである。
アランも気分の優れないときにはスメッグを使うよう心がけている。おそらくエセクは何か不愉快な思いをして、アランと同じようにスメッグに頼ったのであろう。
スメッグを用いれば、どんな嫌な気分もたちどころに吹き飛んでくれる。これを利用しないのはハスハのような変わり者の気のあるコーディネイターばかりである。
アランはエセクをハスハのような劣等人と同格にしてしまったことを心の中で詫びた。今の姿を見れば、エセク・スカンティは健全なコーディネイターであると確信できる。
少なくとも明日の朝まで、彼は恍惚の状態でいることであろう。このまま刺激せずに放っておけば、どれかモロンが来て彼を住居まで運んでくれる。
友人が幸せでいるのを見てアランも快い気持ちになって来た。これは仁徳の効用というばかりでなく、エセクの発散するスメッグ臭に当てられたせいかもしれない。
「さ、行こうか。間に合わなくなるからね」
「あれっ? アラン、なんか元気なってない?」
「そうかな」
「そうよ」
アランは、この先待ち受けている楽しみに胸を躍らせてセーレの手を引いた。クラス一の美少女と、気侭に遊び楽しむのである。
ふざけてしなだれかかってくるセーレの華奢な身体を仕返しに擽ってやりながら、コーディネイターとして製造されて良かったと、アランは心の底から思った。
アランがセーレと寄り添って歩き出して少しすると、ハスハ・イディットは窓の外を眺めるふりを止して、セーレの背中を正面に見据えた。
気取られる心配の無くなったのはわかっていたが、なるべく性急にならぬよう気を遣いながら歩みを速めた。
ソファーを横切るときには、スメッグで歪んだエセクの顔を一瞥して鼻を摘んだ。
欲しもしないコミュニケーションを強いて来た少年にこれ以上かかり合う気は持てなかった。
犬猫のように哀れっぽい声を出したりすればまた別な情動を喚起されたかもしれないが、エセク・スカンティという少年は薬物で精神の健康を保って、文化的な生活を能率的に享楽している。
やはり彼もハスハとは異なり、ありふれたコーディネイターの一体に過ぎなかった。
「人形……」
少女は歩きながらそう呟いてみた。放課後の校門には生徒や用務モロンが幾体もひしめいていた。少女の呟きに耳を止める者は一つとしてなかった。
コーディネイターの無関心とモロンの白痴とは今に始まったことではない。彼らは皆己の無邪気な衝動に隷従するのに精一杯で、その奉仕に寄与し得ないものに注意を向けることは罪でさえある。
人民は人民の楽しみたり得るからこそ人民として認められる。それが黄金律と世間で呼ばれるところのものである。
十四歳の少女はこのように断定調で物事を考えることで自己を外界と隔離し、自負心を養っていた。
ハスハは群集に紛れてアランたちの後を追った。二人の姿を見失う心配はなかった。
最初の行き先は見当が付いていた。二人の間で交わされるであろうやり取りもまた、今までの経験で知っていた。
町の大通りは賑わっていた。午後になると授業を終えた学生らが、コーディネイターの本分である歓楽に精を出すために大量に集まって来るのである。
殆どの学生は二人以上の組になっていて、ハスハのように一人でいる学生は数えるほどであった。
そういう学生もいつまでも独立していられるわけではなく、心細げな顔で辺りを見回すと、手ごろな相手を見つけるや否や声をかけて新たな組を作る。
ハスハも幾度かそうした独身者に声をかけられたが、その都度沈黙でもって応じることで、孤独を避ける機会をむざむざ逃していた。
ハスハは気分が優れなかった。原因は些細なことで、正常なコーディネイターなら気にかけないことであった。
大通りには人間の密集によりスメッグと香水の臭いが充満し、空気が重量を持っているかのように感じられた。
四方から、聞き慣れない流行歌が大音量で響いて来て体内を振動させた。
そこいらじゅうにある空中モニターはめまぐるしい映像を絶えず流し、その光の明滅は瞼を通しても完全に遮断されなかった。
気にすまい気にすまいといくら繰り返しても、こうした環境は少女の注意を強制した。
自分の意思では無くすことの出来ぬ感官への働きかけは、ただこらえるほかない。
ハスハはアランたちがレストランに入るのを見届けると、手近なベンチに腰を下ろした。
半時間ほどしてアランたちが出て来ると立ち上がり、再び人ごみに紛れて歩き出した。
ゲームセンター、ブティック、シアターと、アランたちが娯楽施設を移動する毎に、ハスハはその後に付いて行った。
待っている間に小休止することもあり、二人の目を避けるために物陰で立ち尽くすこともあった。
じっと動かないでいることは苦でなかった。少女には毎日の早朝に扉の前で一時間以上立ち続けるという習慣があった。
コーディネイターでありながら類稀な忍耐力を持つ少女といえども、半日中神経を酷使して疲れを感じたのかもしれない。
アランがセーレの肩を抱いてセーレのアパートメントに入って行く光景を前にすると、ハスハの顔が俯いた。
前髪がかかって目元が隠れたので傍から彼女の表情は読み取れない。
この場に誰かが居たならば、歯軋りの音を耳にしたことであろう。
「これはどういうことよ!」
「音声入力です」
ナギが凄まじい剣幕でクリトンに食って掛かる。コンティはその怒声が自分に向けられたわけでないというのに、一瞬ぎくりとしてしまった。
長年の付き合いで培われた条件反射である。矢面のクリトンはというと、胸倉を掴まれながらも平然と構えている。
「だから、何でそんなもんが要るのかって聞いてんのよ!」
ナギは上目遣いで相手の目を睨みつつ、「ぁあっ?」と低い声を発して威嚇した。
小声で「やんの? アンタ、ねぇやんの?」と宣戦を布告するのを忘れない。年頃の娘にあるまじき態度である。
「エランバイタルというパラメータがっ、ですね、ガンダムドルダにはあるんですよ」
クリトンは喉の戒めを左手で無理やりに解いて答えた。「なんて野蛮な」と聞えよがしに呟いてから、ナギが反応する隙を与えないで、
「ガンダムドルダのSEジェネレータの出力は、エランバイタルの数値に応じて引き出されます。
エランバイタルそのものに関しては調査中で詳しいことはわかっておりませんが、今現在判明していることは、
エランバイタルは搭乗者の生体反応のデータから算出されるということ、そして上昇の条件の一つに、搭乗者の感情が関わっているということです。
ようはですね、出力を上げるにはエランバイタルを上げる必要があり、エランバイタルを上げるには搭乗者の感情を高める、つまり興奮させる必要がある。
そして、興奮するのに最もうってつけの方法は――イカす技名を叫ぶ! これ以外に考えられません。
音声入力という制約は、そのためになくてはならないものなのです」と熱っぽい口調で語った。
クリトンはコンティの知らぬ間に精神主義に転向し、MSの性能が搭乗者の情緒に左右されるなどということを本気で考えるようになったらしい。
コンティの心に憐憫の情が沸きあがった。世間知らずのコーディネイターはバッシュの深酒に付き合わされたせいで、どこか患ってしまっていたのかもしれない。
思い当たる徴候は三つも四つも挙げることが出来る。単なる冗談と思いたいが、前に彼はMSに竹槍を装備させてみたいとこぼしたことがある。
「く、クリトン。あの、な、何か悩み事があるなら聞いたげるわよ」
ナギの優しさはコンティのそれと性質が異なるようであった。
聞かなかったことにするという消極的な態度をとらずに、彼女の得意とする省略三段論法で得たらしき結論でもってクリトンを宥めにかかった。
今度はクリトンのほうが怪訝な顔をした。ナギの態度がますます神妙になると、
「感情の昂りで強くなるってんなら、多血質のナギは確かに適任だ」
と、いつの間にか現れていたバッシュが口を挟んだ。
「なに? アンタまさか、この腐れコーディの言うこと信じるの?」
多血質と言われてナギが気を悪くしたのをよそに、バッシュは中指で鼻をほじり始めた。コンティから見ても憎たらしい仕草である。
「信じない理由はないさな」
「いや、常識的に考えておかしいわよ」
「Dollタイプは常識じゃ計れんよ。大体俺らの科学力っつうご大層な代物もな、この忌々しい鼻のモノを根絶するに至っちゃいない」
汚い例である。
「兵器としてありえないって言ってんの! なんで叫ばなきゃ攻撃出来ないわけ? そんな必要あるの? トリガー引けばそれでいいじゃない。
初めっから全力出せばいいのよ。機械で、兵器なんだから。それを何? 気合が無いと技が出ないって、まるで漫画、子供のおもちゃよ!」
「いいか嬢ちゃん。MSは兵器じゃない、おもちゃだ」ぴんと立てた中指の先端を振りながら、バッシュは気どった口調で言った。バッシュの意見にクリトンも同調する。
「そうですよナギさん。我々はコーディネイターの機動遊具を使って戦争しているのです。少しくらいの馬鹿馬鹿しさは我慢しなくちゃあなりません。
そもそもですね、こんなに無駄の多い兵器あるわけないでしょう?」
諭すような言葉であるが、その顔と身振りはいかにもナギを馬鹿にしきっている。バッシュもクリトンに負けじと鼻を鳴らした。
「ったく、これだから教養の無い女は困る。頭に行く栄養はどこに行っちまったんだ? 胸に行ったってわけでも無さそ――」
突然にバッシュの体がくずおれた。その刹那コンティの目には、三日月と呼ばれる顎の急所に華奢な手の影が吸い込まれて行ったのが見えていた。
「バッシュさんは女心というものが解っておられませんね。
ここは極めて自然に、極めて正当な評価でもって安産型と、つまり栄養がおし――ちょっ、やめ……あいたっ、いたたっ、取れる取れる!
止めっ、ほんと取れる。ほんとに取れますって! ほんとやめて、右手取れるからほんとやめて」
ナギは無表情でねじ上げていたクリトンの右腕を離した。
クリトンは目に涙を溜め、襟を開いて機械の義手と生身の肉体との接合部を弄り出した。だいぶ段差が生じてしまったらしい。
「あぁ、哀れむべきアンジェリーナ三世。さぞや痛かったろう」
そう言いながら鋼の右手を左手で撫で回す。その労わり様は、年来の恋人に対するが如くである。
人道の見地からは一声かけねばなるまいが、真面目な返答をされても具合が良くないのでコンティはクリトンを敬して遠ざけることにした。
そうかといって、黙ったままでは間が持たない。コンティはおずおずとナギに問いかけた。
「感情を込めた音声と連動することはわかった。それで、どんな文句なんだ」
「ん」
ナギは不機嫌そうに端末の画面を指して見せた。画面には、それぞれ機能に応じた叫び文句が並んでいる。
「えっと武装は……必殺ドルダパンチ、究極ドルダキック、昇天ドルダビーム、友愛ドルダソード……このドルダウイングというのは、内蔵型フライトユニットのことか」
「コーディらしい、最っ低のネーミングよ」
「あぁ、まあそれは……」
大声で叫ぶには何となくためらわれる文句であろう。ナギような女性の叫ぶ姿は想像しがたい。
「どうせ叫ばなきゃいけないんなら、もっとセンスのある、カッコいい技名じゃないとだめよ。
永遠力暴風雪(エターナルフォースブリザード)とか死魔殺炎烈光(ディアボリック・デスバースト)とかル・ラーダ・フォルオルみたいな」
ふふん、とナギが得意げに慎ましやかな胸を張った。コンティは自分の胸を掻き毟りたくなった。
「そう、だな」
声が、震えていた。
「でしょう?」
コンティは彼女からほんの少し距離をとった。この一歩は小さいが、彼の心にとっては多大な一歩である。
「もう登録してしまいましたから、暫く変更は出来ませんよ」
ういんういんという駆動音を右手から鳴らしつつ、クリトンが勝ち誇って言った。
「解析をしていてわかったのですが、Dollタイプに入力したプログラムはおいそれと書き換えるわけにはいかないようなのです。人間の脳や意見と同じようにね」
「だったら何でアンタが勝手に決めてんのよ!」
「私は皆さんに信頼されてますから」
「答えになってない!」
堂々巡りで、このままではいつまで経ってもナギは納得しそうに見えなかった。
彼女の暴力を警戒してか、クリトンがコンティにどうにかしろと言いたげな流し目を送って来る。
そこでコンティは自分の考えを述べることにした。ガンダムを手に入れたときから、常々思っていたことである。
「そんなに嫌なら、俺が乗ろうか」
「結構よ。あんたあたしに勝ったこと無いでしょ」
自分の提案に対してそう答えられてしまっては、コンティは性差別的な表現を持ち出すにもいかなくなった。彼女の操縦技能は解放戦線随一である。
コンティの表情が少し曇ったのに気付いたのか、ナギは決まり悪げにガンダムの方を見上げた。
「……わかってるわよ。あたしがやらなきゃいけないってことくらい、わかってる」
ドルダ云々と叫ぶのが余程嫌であったと見え、ナギは自分自身に言い聞かせるように呟いた。
えたいの知れない機体に命を預けるという深刻な事情もあろう。
ここでコンティのほうが強情を張っていれば、近い将来に異なる結果が生じていたかもわからない。
ともあれコンティ・ネイブリットなる青年は、幼馴染に対する負い目から謙譲の徳を逞しゅうしたために後悔の種を撒くことになった。無論、一般の場合と同様に刈取りの見込みは定かではない。
「よろしい。ではまず発声練習と行きましょうか。はいせーのっ」
「……そうね」
ひどく楽しげに促すクリトンに、ナギは無言でつかつかと歩み寄った。
コンティは顔を背けた。憎からず思っている女性の蛮行を目撃するのは気持ちの良いものではない。
「あんの莫連、的確に入れやがった」
そこに、バッシュが顎の据わり具合を手で確かめながら立ち上がり、ふと正気づいたようにコンティの顔を見据えた。
「コンティ、お前の未来を思って忠告してやる。古人曰く、二回は紳士の流儀である、三回は貴人の義務である、四回は妻の権利である」
「は?」
脳震盪でも起こしたのか、脈絡のないことを並べている。
「つまりだ、夫はすべからく雀の勤勉と種馬の精力を持たねばなら――」
「バッシュお兄さん、何をおほざきになっていらっしゃいますの?」
「処世訓さ」
バッシュの背後に立つナギの顔は笑みを湛えていたのであるが、なぜかコンティはそれを直視し続けることが出来なかった。
「どるだぱんち」ナギはぼそっと呟いた。
「揉めるだろうと思ってたけど、この調子なら心配なさそうだね」
様子を見に来たケレンが苦笑した。
「どこが」
どう見ても暴力沙汰に発展している。バッシュとクリトンがこぞってナギを挑発するようなことを言い、その度にナギが腕力でもって報いているのである。
「そういう意味じゃないさ」
ケレンは視線を、じゃれ合っている三人からガンダムドルダに移した。
「Dollタイプ――六十年前の世界大戦の折に現れ、その戦争が崩壊戦争と呼ばれる所以となった存在。
たった四機のDollタイプが、七日間のうちに、あらゆる国家に属するあらゆる軍隊を滅ぼした。
旧国家と呼ばれるところの体制ごとね……人間いや、ナチュラルに変革をもたらした、いわば神の如き力をだよ、いったい誰が手にするのだろうか」
コンティは何か見透かされたような気がした。
「ケレン・カタリ、お前」
「勘繰りは止してくれ。僕は夢想家じゃない。自分の無能を弁えてるし、富くじは買えない性質なんだ。
ごくささやかな楽しみで満足する、安上がりな人種さ。今みたいに、ささやかなね」
ケレンはそう言うと、とうとうクリトンの義手が外れたのを見て楽しげに笑った。そうして一頻り笑ってから、コンティに振向いた。
「君らはたしか、子供の頃からの付き合いだと聞いてるけど」
ナギとバッシュ、それからこの場に居ないロウのことを指したのであろう。コンティは照れくささから気のない風を装った。
「くだらない。ただの腐れ縁だ」
「羨ましいね。君らには絆がある。言葉で云々しなくてもいい、本心からの」
面はゆいことを言う。ナギはというとケレンの言葉を肯定するために違いないが、バッシュの鳩尾を踵で踏みつけていた。
「どいつもこいつも、フィーカ以外には手厳しいようだが」
コンティは妹の名を挙げてケレンの気持ち悪い説に反駁した。
フィーカ・ネイブリットという少女には、ナギもバッシュも、堅物のロウでさえ甘いのである。極端な贔屓の代償がお互いに向けられているとも考えられる。
「親愛の情というのは傍から見るほうが分かり良いものさ。実際、見ていて気持ちがいいよ。
こういうのが、いつまでも続けばいいと僕は思う」
話をどこへ持って行こうというのかケレンは立て続けに恥ずかしい台詞を吐く。
コンティが最早会話を打ち切りたい気持ちになりかけると、
「だからこそ、これからは事を慎重に行う必要がある」
「何のことだ」
「ガンダムのパイロット、ナギ・ヴァニミィ。コンティ、君が彼女を守るんだ」
コンティはいきなりそんな役目を任されて戸惑ったが、ケレンは冗談めいた口吻でもなく、穏やかならぬ様子で続けた。
「偶像を先取りされて癇癪を起こす連中がいるのさ。解放戦線のメンバー全員が竹馬の友というわけじゃない。
今思えば、Doll-DAにガンダムの名をつけたのはまずかった。信仰の自由を許す寛容も軽率だったろう」
「ガンダミスト……ガノテア機関か」
「確証はない。だが、ロウやウーティスも何か勘付いているようだ。ともかく君には、それを知らせておこうと思ってね」
「なぜ俺に?」
「ガンダムドルダとそのパイロットを守るのに適任だからさ。
君なら彼女に四六時中ひっ付いていても、左程嫌な顔はされまい。寧ろ喜ばれるかもしれないくらいだ」
「なっ……」
真面目な話が急にからかうような調子を帯びて来て、コンティは耳が熱くなるのを感じた。
「じゃ、そういうことだから」
ケレンはコンティが否定するのを待たず歩き出した。
「いいかい、コンティ。彼女に纏わり付いて、離れることのないようにするんだよ。
何なら寝床まで同伴してもいい。フィーカちゃんには内緒にしてあげるから」
ケレンの去り際の言葉を何らかの感官で察知したのであろうか、ナギは靴底でバッシュの脆弱な頭皮に摩擦熱を与えつつ、ケレンが笑いながら去っていくのを鋭い眼で睨み付けていた。
アランはセーレと一緒に彼女の部屋で二時間過ごした。その間、セーレは変なことは何ひとつされなかったし、アランもソクラテスがアルキビアデスにしたようなことはしなかった。
「そろそろ行くよ」とアランが身繕いを終えて言うと、セーレが浴室から手を出して振った。
「また明日ねっ」
文化的な健康の代償も安くは付かなかった。一歩ごとに気だるさが増して行き、瞼が重く伸し掛かって来た。
一人きりで、恋人に気を遣う必要が無くなっただけ余計に気力が萎えて行った。アランは手のひらで口を覆ってあくびをした。
「まだあったかな」
ポケットを探ってタブレットケースを取り出した。振ってみるとカラカラと音がした。二三粒はあるらしい。
眠気覚ましなので一粒だけ齧って、効果を早めるために深呼吸した。鼻がつんとした後、甘い感覚が鼻腔全体に広がった。
「どうりで眠いわけだ」
すっかり夜になっていた。天蓋は電飾を小さく瞬かせるばかりで、町を照らす仕事は街灯に任せている。
眠気を誘う調べが、どこからともなく響いて来る。夜空にMSは飛んでいない。
道端にたむろするコーディネイターたちも口数少なく、すっかり満足しきった風な穏やかな顔で、別れの挨拶を交わしている。
立体映像のMr.マラディックですら、「さあみんな! 夜だ! 夜が来た! おうちに帰ってセックスだ! 寝る前にセックスをしよう!」と健康推進週間の標語を叫び、両手に掴んだ二つの枕を振り回している。
「アラン……すこし、いい?」
セーレのアパートを出て暫くすると、背後から声をかけられた。
声の主が誰であるかは振向くまでもなくわかっていた。その聞き慣れた声は、デートの途中に感じられた視線と同じ人物の発したものであろう。
〈またかよ〉とアランは思った。憂鬱な気持ちから、昼間は意識に上らすまいと苦心していたのである。
「アラン」
先ほどよりはっきりした語調で言われた。
アランは聞こえぬふりをしてやり過ごそうと思っていたのであるが、声の聞こえた方角が真横に移ったので、返事をするのは止むを得なかった。
「ハスハ? ……また、偶然だね」
目は口ほどにものを言う。疚しさを偽装したいアランはハスハと見詰め合う形になったが、ものの数秒と経たぬうちに辛抱できなくなって視線を逸らした。
「こんばんは」
「あ、うん。こんばんは」
単純な夜の挨拶である。てっきり嫌味でも言われるかと思っていたアランは拍子抜けがした。
落ち着いてみれば、彼女の呼びかけを無かったことにしようとしたアランよりも、放課後からずっとアランの許可無く尾行を続けたハスハの方こそが、倫理的な面で不利であろうと思われた。
世間の通例に当て嵌まらざるコミュニケーション手段を用いるのが不法であることは、よくよく考えるまでもないことである。
しかしハスハが急に目を伏せたのを見ると、元あった疚しい気持ちがぶり返して来た。
生来の付き合いで培われた以心伝心というものは厄介である。一挙一動で感情の動きを察知される。
そのうえ不必要にも情が移っているために、一切の責任を相手に押し付けるにはためらわれてしまう。〈不健全だ〉
「ごめんなさい」
謝られることで、アランは余計に心細い気持ちにさせられた。
これがこの利口な動物の手口である、と決めてかかって開き直ることも出来なくはないが、他人の心を一語でもって表すのは悪魔の存在を証明するのに似ている。
存在しないに越したことはないので、人間の善良さというものは大抵の場合、精神的にも物質的にも当人に対しては負担を与えるしか出来ないという考えもある。
「気にしないでよ。僕も君に話したいことあったし」
第48居住区の自然公園は、キーウィタースで最も美しい公園の一つに数えられている――尤も、これと同等の評価を得ている公園は四十以上ある――
こんもり盛り上がった緑色の塊は、遠目で一見すると酷く不恰好で均衡を欠いているように思われる。
けれどもその針葉樹林に足を踏み入れて見渡すと、不精なのは実は外見だけで、中はモロンの心のように精妙に設計せられていることが納得できよう。
園路に敷かれた白砂利は、大中小の三種で形と大きさが完全に統一されていて、その手触りといったら菓子の糖衣とあまりに似ているので、子供が思わず口に入れたくなるほどである。
園路は縦横に交差しつつ森を区切っていて、無数の交差点にはそれぞれ、人々のふれあいのための広場が設けてある。
用途や景観は様々であるが、大抵の広場では休憩用にベンチが付いていて、芝生のぐるりを色とりどりの花壇が巡っている。
文化的な娯楽に事欠かぬよう隅っこに売店も置いてある。売り子モロンが直立姿勢で店番していて、昼夜を問わずコーディネイターに楽しいひと時を提供している。
想像上でこの自然公園から針葉樹を除外すれば、傾斜のなだらかな禿山が思い描かれるであろう。
園路や広場が密集しているのは山のふもとで、上方へ行くにつれて園路が複雑な軌道を描き、本数も減って行く。
頂上付近は殆ど森といっても良く、通常の散策で足を踏み入れることはまずあるまい。
山の中腹、ひと気の疎らなところでは、木々の隙間から苔むした岩が顔を出し、その根元から清水が絶えず湧き出ている。
滾々と湧き出るとはいうものの、水溜りの端から零れ落ちるに過ぎない流れは、平地の川に比べればちょんぼりした趣を呈している。
水辺を取り囲む羊歯植物たちは、侮っているのか、でなければ無感覚であるかして、葉先を濡らさせるがままにしている。
清水は植物に擽られ、岩に弄ばれつつも、窪んだ地肌をひたすらに洗い続けて、流れ去って行く。そうするとあるとき、似たような境遇のものとめぐり合う。
暫くは近寄ったり離れたりして相手の様子を窺うが、孤独を逃れるためか、共同によって得られる利潤を慮ったのか、しだいに惹かれあい、いつしか一つの流れとなる。
清水たちはこのようにして合流を繰り返し、谷川とはいわないまでも、小川として面目を保つくらいにはなる。
しかし、どんなものでも寄り集まると生まれの違いが際立つのか、めいめい勝手な行動をとりたがり始める。
ある水は岩の隙間に這入り込もうとし、またある水は小石を撫でて遊んでいる。苔を剥がそうと一生懸命なのもある。
拗ねて渦を巻くのや、岩肌を蹴って流れに逆行しようというのも出てくる。
そうして、これら協調性に欠ける水どもに大多数の水は反発し、無理にでも下へ下へと引っ張って行く。
これらもろもろの作用が重なると、必然、小川は快い水音を立てるのである。
自然公園に設置された植物は、樹木や芝生、花壇の花といった直接触れられるものを除くと、殆どが無機質の人工物である。
したがって、わざわざ川を作ったりして、生態系の管理などというとてつもなく面倒な手間をかけるに及ばない。
降雨で齎された水分は樹木などに吸収される他、余剰分は地下の下水施設によって排出される。
この川は自然らしい景観を演出するためのものであり、また同時に、いわば贅沢な音響装置なのである。
コーディネイターは音楽抜きの生活を送らない。何となれば音楽とは、最も手軽な娯楽の一つであり、最も情緒に影響しやすいものである。
音楽は魂の言葉である、思想以上のものである、と述べた人も数多い。
故に町中では休み無く流行歌が流れていて、遊技場から寝床まで、ありとあらゆる場所でそれぞれの模範的情緒に合致した音楽が人々の耳に届けられる。
勿論この自然公園でも、木々の枝に偽装したスピーカーが無数に配置され、放送局の職員によって吟味、選出された流行歌が不快でない程度の音量で響いている。
が、人々の気分が市街地と代わり映えしないのでは、自然公園を設置した目的に背いてしまう。
文明人が原始的な状況に置かれることによって喚起せしめられるある種の情緒の獲得こそがその目的なのである。
動物や植物といった自然物との触れ合いに、人間の精神を安定させ、健全な情操を育む効果があることは、機械産業の発達以前より喧しく言われて来た。
それは時代ごとの科学思想によって否定されたり肯定されたりを繰り返したが、消費と娯楽の観念は不動であったので、手際よくやれば大量消費を齎す自然環境偽装技術は絶えず進歩を続けた。
その成果の一つが人工河川のせせらぎであり、いずこからともなく響き渡る微かな水音と流行歌の伴奏は、一種の二律背反と呼ばれる音楽の概念を一層際立たせて、
文明社会と個人的幸福に有益な心理状態をば、より完全に、より安易に引き起こすことに貢献している。
無論、これらの効果は環境音のみで出されるのではない。いうまでもないことであるが、経済的に見て人間は手間のかかる動物である。
視覚と聴覚、要するに思考に介在せず実在性を与え得る感官の併用が最低限必要である。
加うるに嗅覚、味覚、触覚の三つの感官に対しても配慮が為されている。
花と木々と芝生、それから土砂の含有物は一応有機物の範疇にあるので、自然らしい腐臭を発散する。
その上、植物に擬態した散布装置がごく微量のスメッグを撒き散らしてもいる。
味覚については、売店に土の味のするチョコレートバーなどが置いてある。
植物には虫一つ付いていない。その生育の具合も、不必要な発芽を無くす遺伝子発現制御技術と定期的な植え替えとによって常に均一である。
外的要因によって阻害されない植物の完全に自然な感触が、手のひらを楽しませてくれるのである。
もっとも樹木に関しては敢えて不均一な枝ぶりを作ったり、根を余計に這わしたりして、少しばかり野生に近づける努力が厳密きわまる計量のもとに行われている。
この自然公園の性質を鑑みて、特筆すべきはその衛生面であろう。
人は自然の中にいると開放的になり、手に持った物品を地面に放置して省みない。
犬と似た習性を発現させることもあり、目立つ樹木があれば、根元に廃棄物で印をつける。
薄暗がりになっている場所においては、別な事情が作用して殊に酷い結果を生じる。
時には誰かが創作意欲を発揮して、相合傘なんぞを木の肌に彫り付けて行く。
こうも気侭に楽しんで行かれては、さぞかし文明的な景観が広がりそうに思われたが、どういうことか、自然公園は常に自然的な景観を保っている。
そのくせ屑篭一つ置かれていない。市街地どころかモロン居住区に匹敵する清潔さであるけれども、広場を見渡しても清掃モロンのようなものは見受けられない。
注意深い人が観察を続ければ、遊びに来たコーディネイターが立ち去ったと同時に、突如林から黒い影が出現し、ごみを掻っ攫って再び林に消えて行くのに気付くであろう。
その黒い影の正体は、黒子を着た特殊清掃モロンである。
彼らは普段人目につかぬ木々の陰に潜んでいて、コーディネイターが何か捨てるや否や、隙を見て表に飛び出し、相手に気付かれる前に持ち去ってしまう。
さっと現れてさっと片して行くのである。市民の精神衛生に配慮した結果の隠密性である。
彼らは非常に優秀なモロンで、その優秀さは表象結合教育の他、彼らの主な食料がコーディネイターの食べ残しであることにも起因している。
自然公園には、黒子モロン以外の生き物も暮らしている。小鳥や栗鼠といった愛くるしい小動物である。
種は様々であるが、後頭部に不自然な突起があることと、寿命が本来の半分である点で一致している。
これらは概して人懐こく、羽の痛むのもかまわず足元を飛び回ったり、わざわざ人目に付くような枝に登って木の実を頬張ったりする。
目を合わすと首を傾げるのはしょっちゅうである。行儀も良く、排泄の類は然るべき所でしか行わない。
ところで、もし何らかの拍子で後頭部の突起に強い衝撃が加わると、彼らは地面に落ちてのた打ち回った挙句、動かなくなってしまう。
目をぱちくりさせて、ここはどこだと言いたげに、辺りをじっと見つめている。黒子モロンが回収に来るまで、ずっとそのままである。
一言すると、昨今、悪戯好きな少年少女の間では、例の突起を指で弾くのが流行っている。
チッチッチッと舌を鳴らせば小動物たちは嬉しそうに寄って来るので、手軽な娯楽といえよう。
夜が来ると、自然公園はその姿を一変させる。
あたり一面に薄墨の天幕が幾重も折り重なり、あたかも黒色の霧が立ちこめているようで、その暗闇の中には、ややもすると人の顔に見える木の肌がぼんやりと浮かび上がり、
枝が軋み、葉がひそひそ囁き合い、何者かが狩人のように木々の間を這いまわり、
ぱちりぱちりと枝の折れる音を響かせるたびに来訪者を怯えさせる、というのでは無論無い。
大概の娯楽施設は二十四時間の営業が義務付けられているので、この自然公園も、ただ別の用途に向くように快適さの方針を替えるのである。
目立った変更点は幾つか挙げられよう。
まず山肌の各所に設けられた通風孔が生暖かい息を吐き、夜気の冷たさを和らげる。
樹木に埋め込まれた園路灯が、辺りの暗さを宵闇にとどめている。
スピーカーからは蕩けるように甘ったるい音色が流れ、恋人たちの気分を昂らせ、静めもする。
その他にも数々の変更点があるが、畢竟するに夜間の自然公園は、屋外の休息施設として用いられるということである。
そうしてこのいわば恋人たちの時間といわれるような時間帯に、アラン・イディットとハスハ・イディットは自然公園にやって来たのであった。
タクシーを呼ばなくていいというハスハに付き合って、アランは家路を歩くはめになった。自然公園を通り抜けるのは、近道するためである。
もっと短い道のりもあるにはあるが、それは車道であったりMS用道路であったりする。都市設計が一般の歩行者に優しくないのはこの時代でも変わりない。
ふれあい広場に差し掛かかると、アランは売店を見止めてハスハに尋ねた。
「夕食はもう済ました?」
ハスハはゆっくり首を横に振った。アランはというとセーレの部屋で済ませていた。
「何か買って来ようか?」
「いらない」
ハスハのことであるから、どうせ昼食すらろくにとっていないに違いない。
「ご飯食べないと、体に良くないよ。僕も一緒に食べるからさ」
少女は再び首を横に振った。
〈面倒な女〉
二人のやり取りは、先ほどからずっとこんな具合である。
アランが何か切り出すと、ハスハは首を振るか、「そう」とだけ言うかして、すかさず無言の行を再開してしまう。間を持たすどころか、取り付く島もない。
少女がいつも通りの朴念仁であったなら居心地の悪さを味わわずに済むのであるが、どうも今は、何か言いたげな素振りを見え隠れさせているのである。
前を向いて歩きながらも、ちらりちらりとアランの顔を横目で盗み見て来る。
そのたびにアランは、「何だよ」と、乱暴な言葉を返したいのを堪えた。
〈一粒じゃこんなものか〉
アランはさりげなくポケットに手を突っ込んでタブレットケースに触れてみた。あくまで触れるだけである。
実をいうと、先ほどハスハに夜食を提案したのは、買出しにかこつけて彼女の目を逃れ、スメッグを齧るためであった。
そうでもなければ己の胃袋を酷使してまで、彼女の健康を思い遣るはずがない。
〈一粒が一生を左右する〉
アランはスメッグ恋しさのあまり、心の中でコマーシャルの決まり文句を叫んでみた。〈まったくもって金言だよ、こいつは〉
アランは広場をさっと見渡した。薄暗がりの中、人々がベンチで睦み合っているのがわかった。
木陰の前の芝生には、男物と女物の服が取り散らかしてあった。皆が皆寸暇を惜しんで楽しんでいる。
〈だのに、僕はというと――〉
アランはハスハに目をやった。他の人々と違って既に疲弊していることと、エセクに言われた下品な言葉が思い出されたこととで、自然な感心は消え去っていた。
このとき、アランはハスハに顔を見返され、彼女の瞳が揺らいだのがわからなかった。
〈――だもんな〉
アランは思わずにやりと笑った。スメッグの効果が切れかけているのである。
「アラン」
「へ?」
アランは間の抜けた顔で応じた。
「え、何?」
「アラン、大丈夫?」
ハスハが心配そうに尋ねたのが分かると、アランは慌てて口元を引き締めた。アランはハスハの顔を直に見られなかった。気恥ずかしかった。
妙な思い巡らしで悦に入ったことやモロンじみた顔面弛緩、目の前の少女への軽蔑心が露見しかけたことなどが、次々に原因として推察された。
こうした思考そのものも、アランの精神の平衡を崩すのに手伝った。
「別に、ハスハには関係ないだろ」
声の調子に難点のあるのは、言ってから気が付いた。しかしアランは少女の反応を待たずにまくし立てた。
「僕のことより、君のほうこそどうなのさ……ねえ、僕ら今年で卒業だよ。来年には大人なんだよ。そのこと、ちゃんとわかってる? わかってないよね?
ハスハ、全っ然成長してないし、成長しようともしてないんだもの。そもそもさ、昔からさ、君って、なんというか、その、少し変わってるでしょ。
いつも一人でいるし、遊ばないし、ちゃんと付き合ったのだって結局僕一人じゃないか。おかしいよそんなの。普通じゃ考えられない、絶対ありえない。
子供のうちはまだ許されるかもしれないけど、でも、もう十四歳なんだよ。あと一年もしないうちに十五、大人だよ。なのに今の君はというと、ねえ、どうなの?」
アランをこうまで駆り立てたのは、一般で悪酔いと呼ばれるスメッグ欠乏の一症状である。
本音以上のものを含んだ言動は、素面ではなかなか出来るとはいわれない。
アランは歩きながら説教を続けた。歩きながらの話はやけに脱線することが多い。これは新陳代謝が影響していると思われる。
座ってものを考えるときより、散歩中のほうが思いがけない考えが浮かぶともいわれている。
アランはハスハの浮きっぷりやら、娯楽への無理解やら、思いやりの欠如やら、社交に対する軽蔑やら、学力の不足やらを、
あるいは直接、あるいは遠まわしに、全体としてねちっこい語り口で責め立てた。
殆ど独り言に近い説教を行う場合、相手を勝手にこうと決めてしまって、風車に向かって打ちかかるのと同種の危険が生じる。
打算無き、換言すれば真心からすると思い込まれる類の啓発においてその危険は倍化する。
アラン・イディットなる一コーディネイターがそれを逃れたか、もしくは果敢に飛び込んで行ったかは、後の彼自身の判断に委ねられる。
「――君のそういう考え方がまずありえない。わかる?」
まるで自身がコーディネイター全体を代表しているかの如くであるが、こう言い終えたころにはアランも幾分か冷静さを取り戻し、独りよがりをしたという負い目が芽生えかけていた。
アランが自分の話に夢中でいるうちに、二人は木々のアーチをくぐって開けた場所に着いていた。
そこは見晴らしのいい広場で、眼下に街並みが一望できた。金銭換算で最新MS数十機分に喩えられる夜景であるが、アランたち以外に人影はなかった。
まだ今の時間帯、来園者たちは視覚より触覚を楽しませるのに懸命なのであろう。
二人はどちらからともなく足を止めた。アランは決まり悪さから口を閉ざし、夜景に見入るふりをした。
本当は早くハスハと別れて彼女とのやり取りをスメッグで忘れ去りたいのであるが、友人を残して帰宅するというのは礼儀に反する。
コーディネイターたるものコーディネイターらしく振舞わねばならぬのである。
ハスハは家路を急ぐどころか手すりにそっと触れながら、何やら思い詰めたような顔で夜の街を見つめた。
〈あーあ〉
果たしてアランの嫌な予感は当たった。
「ねえ、アラン」ハスハが振向いた。
「私はわからないの……」
〈出たよ、やっぱり〉アランはげんなりした。昔付き合っていた頃に散々聞かされた下らない疑問である。ハスハは町を見下ろして続けた。
「コーディネイター――遺伝子調整で天性を賦与されたる人類。全員が平等、全員が優れている。悩むことも、苦しむことも、退屈することすらない。
私たちは好きなことを、ただそれだけをして生きていられる。
働くのは、モロンたちだもの――知能薄弱者の群、労働者なるべくして生産された人非人、人間にとって一番効率の良い労働手段。
完全な人類と完成された道具、そして、ベンセレム――完成された世界と、完全な幸福。でも、この世界は本当に理想の世界なのかしら。私たちは本当に幸せなのかしら」
〈授業でそうだと習ったろうに〉ハスハのような輩は、客観的にものを考えられないのである。
アランは彼女の問いに沈黙で答えることにした。何を言ったとて、どうせ少女は自分語りを止めまい。
「もうこんな世界に生きていけない。私はときどき、そう思うことがあるわ。ううん、いつもそう思っているかもしれない。
この世界はどこかがおかしい、私にとって、何かが狂った世界のように感じられてしまうの」
ハスハの社会に対するそれと同じくらいの居心地の悪さを、アランは感じた。
「君は考えすぎなんだよ」
〈だから理性に異常を来たす〉
おそらくハスハの頭の中では原因と結果の取り違えが起きているのであろう。
自分が異常であるから世の中を間違っていると思うのではなしに、世の中が間違っているから自分が異常になってしまうと、すっかり思い込んでいる。
「そう……そうかもしれない。でも――」
〈うんざりさせやがる〉アランは自分を棚に上げた。
「見て、アラン」とハスハは下の広場に歩いている一組の男女を示した。二人は売り子モロンからモロン・バーガーを受け取って、一度口を付けると投げ捨てた。
〈あの娘かわいいな〉
「作るのはモロン、使うのはコーディネイター。働くのはモロン、楽しむのはコーディネイター。
食事、家、衣服、MS、色々なお店。生活も娯楽も、私たちはみんなモロンに頼っているわ」
〈恋愛は違うけどね〉
アランがちょっと気をとられた隙に、可愛い女性と残飯は消えていた。後者はどうでもよろしいが、前者は実にもったいない。
「生きるために食べるのではなく、食べるために生きる。私たちは何も生み出さないわ。
ただ消費するだけ――それなら、私たちの人生にどんな意味があるの? 私たちはどうして生きているの?
私には、わからないのよ……」
「消費は市民の義務だよ」
コーディネイターにとっては消費こそが第一である。幾人の異性と付き合うか、幾機のMSを乗り潰すか等、つまりどれだけ消費したかが個人の価値査定の基準となる。
その過程でいかにしてというのは問題ではない。ともかくそれで生産者のモロンは存在することを許される。
付け加えていうならば、モロンはコーディネイターに養われ、それがモロンの充足理由なのである。
「そうね。私たちはそう教えられて生きて行くわ。
生まれてから死ぬまで、毎日、何べんも何べんも、繰り返し――今日手に入る楽しみを明日に伸ばしてはいけない。
自分の判断より他人の判断を軽くみてはいけない。万人と同じように振る舞い、しかも万人と違う人間とならなければいけない。
そして、ひたすら楽しんでいなければいけない――私たちはこの言葉通り生きるよう教え込まれる。
徹底的に、教育されるの。大人になれば、完全にそう生きるようになるでしょう。大人になるとはそういうことよ。
私たちより二十も三十も年上の人たちだって、十五歳で大人になり、それからずっと、同じように、変わらずに、幸せに生きて行く。
けれどそこに、私たちの自由は本当にあるのかしら? 水平化された価値観、単一化された意欲、それはまるで――」
「僕らは自由だよ」
自分でもよくわからないが、アランは侮辱されたように感じてつい言い返した。語調がきつい感じになっていたのは否めない。
ハスハは手すりに落ち葉が乗っているのを見つけると、それを摘んで空中で放した。落ち葉はひらひら舞い降りて、地面で微かな音を立てた。
「自分の意志で落ちた。この木の葉も、そう思ったのかもしれない……」
〈はいはい。それはよかったね〉
アランは三日三晩寝床で過ごした程疲れた気がした。そしていい加減会話を打ち切りたくなったので、深刻そうな顔を作った。
「ハスハの言うことは分かるよ。僕にも覚えがある。でもさ、そういうのって仕方ないじゃない? くよくよしたって始まらないよ。せっかくの人生なんだから、とことん楽しまなくっちゃ」
ハスハは悲しそうに目を伏せた。まるで私を理解してくれないと言わんばかりである。
〈あれ、間違ったかな?〉
妙な悩みを打ち明けてきた少女に対しては、アランは先ほどの返答を用意していた。ハスハとの付き合いで懲りて以来、対抗策を作ったのである。
実際の効果はなかなかのもので、思春期特有の変態的な情緒を催した少女らは大抵、直ちに精神の正常な状態を取り戻すのであった。しかしハスハ本人には効果が無かったようである。
気まずい沈黙が続いた。ハスハは歩き出す気配を見せず、そうかといってアランの方から立ち去るにしても、具合が悪くて仕方ない。
何かきっかけを掴まなければならないとアランは判断した。
アランは記憶を探って、近頃自然公園で流行っているという遊びを思い出した。
クラスメイトの言ったところによると、舌を鳴らせばいいのである。
「ねえ、ハスハ。この前聞いたんだけれどさ」
アランはチッチッと舌を鳴らした。小鳥が歌いながら寄って来て、アランの手にとまった。
「ここを指でこうすると」
小鳥の後頭部にある突起を、アランは思い切り指で弾いた。
笛を乱暴に吹いたような鳴き声が辺りに一瞬響いて、小鳥はすてんと地べたに落ちた。
それから小刻みに羽をばたつかせて、横たわったりひっくり返ったりを忙しく繰り返していた。
「おもしろいだろ?」
そう微笑んでハスハに振向いた途端に視界が揺れ、アランは乾いた音と顎骨の鳴る音を同時に聞いた。
アランは痛む頬を押さえながら、腕を振り切っているハスハを睨んだ。
「ぶったね、誰にも――」ぶたれたことなかったのに、と続けようとしたところ、返す刀で反対側の頬を打たれた。つまり、二度もぶたれたのである。
堪忍袋の緒は筋肉と同じで、使う機会が無いと退化する。
「――あなたはそんな人じゃなかった」
アランは危うく激怒しかけたが、コーディネイターの倫理に人一倍敏感でもあったので、努めて平静を装った。
「僕はこんな人だよ」
ハスハは飛べない小鳥を掬うように拾い上げた。繊細な手つきで小鳥の翼を一撫ですると、きっとなって言い放った。
「あなたはなにもわかっていない」
アランは嘲笑った。スクールでの評価は、全ての科目でアランが勝っているのである。
脳に受信機を埋め込んだに過ぎない小鳥は、せいぜいモロン・バーガー一個分の値段でしかない。アランはそのことをちゃんと知っていた。
「君、必死すぎ。それ安物だよ」
「黙って!」
ハスハは声を荒げた。彼女らしくもない。
「アランは……私の知っているアランはそんなこといわない」
〈ほんと気持ち悪いな〉
アランは肩を竦めた。
「こんなの、みんなやってることさ」
少女は答えなかった。アランよりも、もはや機能しない小鳥に注意が向いていると見える。
茂みの向こうで清掃用の黒子モロンが夜食を得る機会を窺っているのが見えた。
〈あほらし〉
アランはハスハを残して立ち去った。そうして暫く歩き、スメッグのことを思い出してポケットを探った時であった。
何の前触れもなく青白い光芒が上空を横切り、少し遅れて、くぐもった激しい音が鐘の音のように鳴り渡った。
「何かの宣伝かな」
アランはのんきに呟いた。
第48居住区の上空でアメタペイストの放ったビームはヴェスタを掠めて、たまたま射線上にあった高層ビルに大穴を開けた。
年配のコーディネイターやの文化施設やの入居するそれが轟音を立てて崩れ落ちるのと同時に、ヴェスタの電磁迷彩が剥がれて、片翼の欠けた船体が顕わになった。
ヴェスタは浮力の均衡を失くして左に傾いた。重力制御を行っていなかった艦内も同様に傾いた。あらゆるものが左傾した。兵器格納庫と厨房は酷い有様であった。
ブリッジの艦長席に陣取っていたロウ・ブレーンは、ちょうど立ち上がりかけた折であり、足場が頼りないと感じた直後にすてんと転んで床を滑り降りた。
ロウが端末にしがみ付いて顔を上げると紙コップが転がって来て蓋が外れ、中のコーヒーを彼の体にぶちまけた。
香りの良い湯気を上げるそれは、オペレーターのフェララ・クティッシーという女性がロウの命令を無視してブリッジに持ち込んだものである。ロウは火傷に構わず叫んだ。
「損害報告!」
「第一左翼消失! SEジェネレータ出力二十パーセントに低下してます!」
フェララが端末に散らばった食べかけのドーナツを払い除けて報告した。
「再構築は」
「出力が足りません!」
「ジョウ、右翼の出力を――」
「面舵いっぱいまっすぐだね」
ウーティスの代理で操舵を勤めていたジョウ・ハーテンは、ロウが指図するより早くヴェスタの舵を取っていた。
ヴェスタが前進を止め、その代わりに平衡を取り戻した。
「余剰出力――」
「もうフィールドに回したよ。ベェン、敵さんは?」
もう一人のオペレーターであるベン・スパンキンスという美少年が、リーダーのロウにではなく同性の恋人に報告した。
「後方のSE反応はアメタペイストと思われ……動体反応? ジョウさん!」
「フェラ――」とロウが言いかけると、
「女! フィールド全方位!」とジョウが怒鳴った。
夜景がぼやけたかと思うと、空中に無数のMSが現れてヴェスタの行く手を阻んだ。フライトユニットを装備したそれらは、特殊な迷彩布を被っていたのである。
一斉射撃が行われ、ヴェスタの前方の空間が波打った。逸れた弾丸の殆どは市街地に降り注ぎ、公共施設や夜道を歩く人間などを破壊した。
「MOS-B八、MOS-H七、なっ……、ゆゆゆ輸送機も、さ、三時の方角から」
「増援、そういうのもあるのか」
恋人の涙声の報告を聞くとジョウが他人事のように呟いた。ロウは艦長席に戻りながら舌打ちした。
「待ち伏せか……」
「予期はしてたろう」
「市街地だぞ」
「だから網にかかるのさ」
ヴェスタは交戦を避けるためになるべく市街地を通る航路を選んでいたのであるが、それが却って裏目に出たらしい。
敵の善意に縋って戦略を立てるのは良し悪しである。
敵MS部隊のうちのMOS-Bビアーは、胸部機関砲では効果が無いのに気づいたのであろう。
掘削破砕マニピュレータで不可視の力場をこじ開けようと、両腕を大きく上げて背伸びの姿勢で飛び込んで来た。
その進行はSEフィールドに阻まれる。体とスラスター光とが激しく揺れる様は、網を抜けようともがく羽虫を思わせた。
「前と後ろ、どっちを先に掘られるか。ボクは前のほうは未経験だがね。さぁて、これからどうしようか、リーダー」
それを今考えているのである。SEフィールドを艦首に集中展開し、残りの出力を推進に回せばMOSタイプの部隊は振り切れる。
しかしアメタペイストまで振り切れるとは思われない。こちらのMS隊とヴェスタの砲撃を駆使して蹴散らそうという強攻策は論外である。
アメタペイストどころかMOS部隊ですら、真っ当にやり合って勝てるかもわからない。
いくらMSの性能とパイロット個人の技量で上回るはいえ、アーミー・モロンの連携能力はナチュラルの職業軍人の平均をも遥かに凌駕している。
各個撃破に持ち込まれて全滅するのは目に見えている。
そもそもアメタペイストが現れた時点で万策尽きたのではあるまいか、とロウが緊張と困惑とで鈍った頭で考えたとき、ブリッジの扉が開いた。
「お待たせです!」
クリトンが老人の乗った車椅子を急停車させた。床にタイヤの後が付いた。
「ウーティス!」
「ロウさんはそちらを持ってください」
手の開いているのはロウだけであった。
ブリッジの中央には、一風変わったシートが据え付けてある。
手足の当たる部分には拘束具が、頭と腰の当たる部分には奇妙な出っ張りがあった。
クリトンはロウに手伝わせて老人の体をそこに横たえると、首の据わっていない老人の頭を両手で押さえた。
「フェララさん、お願いします」
「は、はい」
フェララが端末を操作すると、氷柱のような端子がシートから突き出て老人の体を串刺しにした。
背骨を貫く端子が支柱の役目を果たし、老人の背筋がしゃんとなった。ところが胴体の様子とは裏腹に、老人の手足は痙攣した。
数秒して拘束具のがたつく不快な音が収まった。すると、ブリッジの主モニターに球形のマスコットが映り、黄緑色のそれが耳と思わしき箇所をぱかぱかと開閉させながら跳ね回った。
「神経電位接続完了しました。制御システムをセミオートに移行します。
SEジェネレータ出力七十パーセントに上昇。第一左翼再構築。艦載通常兵装オールグリーン。SEフィールド、拡張します」
力場が広がり、ビアーの体を押し返した。ヒューブリスから放たれた弾丸のほうは、上空に向かう弾道を描き始めた。
『お早うございます、皆さん。絶体絶命ですね』
ウーティスが全システムを掌握したことにより、飛行艦ヴェスタは本来の力を取り戻した。
Doll-A07は、空中でキロプティーランスを傘のように広げて静止していた。その先端は飛行艦ヴェスタに向けられている。
『充填率四十パーセント。チャージ続行』
砲身の輝きが増して行く。抑え切れない出力が電光と化し、引き付けられるようにアメタペイストの全身に絡みついた。
このMSと一体化している少女も全身を擽られるのを感じた。キロプティーランスがその力の解放を待ちわびて暴れ出し、少女の腕はがたがたと揺れた。
アメタペイストが武器の力をもてあましているのは、傍目にも明らかであった。
それを喩えて言うならば、どこぞの気取った令嬢が日傘を差して優雅に散歩していたところ、突如暴風雨に見舞われたというような有様である。
『充填率五十パーセント。エランバイタル安定。チャージ続行』
少女の目が攻撃目標に注がれた。敵艦の足止めと電磁迷彩の展開を妨害するという任務を、MOSタイプ部隊は順調に果たしていた。
先だっての第一射は敵艦の電磁迷彩を解いて座標を特定するためのものに過ぎない。
これから放たんとする第二射のビームは、敵艦をSEフィールドごと消滅させるのに、威力も精度も申し分の無いものである。
キロプティーランスの最大出力はアメタペイストをもってしても防ぎ切れない。SEフィールドを多少強めても、消滅の時刻を数瞬遅らせる程度であろう。
それほどの威力であるので眼下の市街地もただでは済むまいが、少女の任務に市街地の保全という内容は含まれていない。
少女は戦場の状況を把握するために町を見下ろした。
少女の鋭敏な視覚は町の地形ばかりでなく、コーディネイターと呼ばれる物体の一体一体を詳細に把握した。その物体の殆どが顔の筋肉を盛んに活動させていた。
キロプティーランスの発する白光を、琥珀色の瞳は波打つように反射した。それに呼応して、アメタペイストのバイザーに光の亀裂が走った。
『エランバイタル上昇、規定範囲内。充填率六十五パーセント。エランバイタル安定。チャージ続行』
作戦の妨害となりそうなものは地上に見当たらなかった。コーディネイターのいる町を観測する必要はもはやなくなった。
少女はゆっくり瞬きをすると、再び攻撃目標を見据えた。
ポスト・フェストゥムが司令部に向けて歩いていると、行き先からザリー・マッカティンが走って来て直立不動の姿勢を取った。
無論、ポストの行く手を阻んでしまわぬよう通路の右端に寄っての敬礼である。
「おはようございます、閣下」
搾り出すような声であった。全力疾走の息切れを堪えているからであろう。
「早すぎる」
ポストはザリーに目をくれずに通り過ぎた。夜更けというにも早すぎる時刻である。
心地よいまどろみで意識が薄ぼんやりした頃合に、ポストは戦闘開始の報を受けたのであった。
ポストの恰好は、彼が寝床から直接やって来たことを物語っていた。
球形のマスコットが球模様に編み込まれた寝巻きを身に纏い、同じマスコットを模したぬいぐるみを右手に抱えていた。足を進めるたびにナイトキャップの毛玉が揺れた。
その顔はというと苦虫を噛みつぶしたように歪んでいたが、別段安眠を妨害されて全世界を憎悪しているというためではなく、
ただ、体質として起き抜けはいつも自然とこういう顔になって暫く戻らないだけである。
内心では、想定外の状況を前に六十年ぶりの胸のときめきを感じていた。六十年前といえば、管理局がナチュラルの戦争に武力介入した時期である。
ポストは局長専用の司令部直通エレベータに入ると、敬礼したまま静止しているザリーに声をかけた。
「君も乗りたまえ」
「ありがとうございます! 閣下!」
これは彼が常時誇っている持ち前の慈悲心を発揮して、ザリーの階段を上る労を省いてやろうと思い立ったということではない。
エレベータに乗っている間に、ザリーに現状を説明させるためである。
「リグ・ヴェーダから直接要請があったというのだな」
「はい、閣下。管理局からはDoll-A一機を出撃させよとのことであります」
「稼動中のアメタペイスト全機は各工業区の警備に当たっているはずだ。呼び戻したのか」
「まことに勝手ながら、リグ・ヴェーダの指示により、整備のため待機中であった機体を出撃させました」
「あの三機か」
先回の作戦に参加したDoll-A69、Doll-A27、Doll-A07の三機である。
戦闘直後でフォーマットの済んでいない生体CPUは、エランバイタル超過による暴走の危険がある。
〈リグ・ヴェーダも余程急いでいたと見える。或いは……〉
「どれを出した」
「Doll-A07であります」
「七号か。君が選んだのか」
「はい、閣下。Doll-A07のパラメータは優秀であります。故に今回の単独任務に最も適していると、ザリー・マッカティンは判断致したのであります」
〈贔屓だな〉
ポストは面白半分に釘を刺すことにした。
「ザリー君、優秀かどうかを判断するのは君ではない。私だ」
「申し訳ございません! 閣下!」
「だが、七号が優秀だという君の意見は覚えておくことにしよう」
「恐悦至極であります! 閣下!」
ポストはザリーの目の色が変わったのを見逃さなかった。このイェニチェリー・モロンの目に宿ったのは、条件反射の輝きとばかりは言い切れない。
〈この男は餌付け次第で面白い逸物に化けるかもしれぬ〉ポストが教えられるより教える方を好む人間であるのはいうまでもない。
エレベータが指令室に着いた。ポストは前もって中指を立てることで歓迎の手間を省いた。
指を立てる本数に他人の態度が左右されることは太古の賢人も言っている。
大型モニターには、最大出力のビームを放たんとしているアメタペイストが映っていた。
市街地上空に浮かぶ監視装置が捉えた映像である。
「ふむ」と言ったきり、ポストは映像そのものには頓着せず自分専用の椅子に腰掛けると、ぬいぐるみを膝に乗せて、テーブルのコーヒーカップを手に取った。
温度は温めで、砂糖は氷山のようになるくらい入れるのが彼のこだわりである。〈うむ、不味い〉
「ザリー君、いくつか質問だが」
「どうぞ、閣下」
「あのMOS部隊の管轄は」
「不明であります! 閣下!」
「Doll-Aへの指令は」
「リグ・ヴェーダから直接発せられているであります! 閣下!」
「予測被害状況は」
ザリーがオペレート用モロンに指示を出すと、市街地の三次元マップに攻撃目標を中心とした半透明の球体が形成され、その球体の下方、地表と重なる部分が赤々と点滅した。
「ビーム直撃の余波によりD-78区画一帯が、塵一つ残さず消滅するであります! 閣下!」
「なら止めさせんか」
「了解であります! 閣下!」
リグ・ヴェーダの思惑が何であれ、市民の安全を守るのが管理局の使命である。
いかに敵対勢力が残虐非道の人非人集団であり、それを皆殺しにして真の自由と尊厳と独立とを勝ち取ることが正当な資格を持つ人間にとっての権利であり義務であったとしても、
勝手に始めた殺し合いに市民を巻き込むという法は無い。コーディネイター社会では人民皆兵が理念化せられていないからである。
ザリーはマイクで呼びかけた。
「Doll-A07、攻撃を中止せよ」
『管理局の指令を拒否。リグ・ヴェーダの指令を優先。攻撃続行』
Doll-A07が合成音声で返答する。
「繰り返す、Doll-A07、市街地の保全を優先し、直ちに攻撃を中止せよ」
『拒否』
ポストはザリーの結果報告を待たずに叫んだ。Doll-Aのみでなく、MOSタイプ部隊も止めねばならない。
「定言命令、レベル4!」
無数のオペレート用モロンたちは即座にポストの命令に反応して、攻撃中止の定言命令を発動した。
市街地の中央には、Tセンタービルと呼ばれる二本のビルが建っている。
これは先日襲撃を受けた工業区にあったものと同じもので、音響と映写とによって定言命令を発動させる装置である。
Tセンタービルの屋上が割れると、硝子を爪で引っかくような音にあわせて、めまぐるしく変動する幾何学模様が天蓋一面に映し出された。
その映像と音声がMSのセンサーに捉えられ、パイロットのアーミー・モロンは攻撃中止の暗号を否応無く認識させられる。
そして徹底的な調教と間断なき暗示とにより、普遍的格律として本能化されるまでに刷り込まれたこの道徳以上の命令を、アーミー・モロンは実行するはずであった。
『全部隊、定言命令無効。既にレベル7の定言命令を実行中です』
アナウンス用モロンが愛くるしい声で報告した。定言命令は、それより上位の定言命令でしか打ち消せない。そのため能動的な定言命令は通常は下位のものを用いることになる。
Tセンタービルの発動できる最高位の定言命令は、たった今ポストが発動させたレベル4で、現時点でそれ以上の定言命令は用意できない。
〈こちらに舵をとらせぬつもりだな〉
「あの、閣下。Doll-A07が、応答を拒絶しました」
震える声でザリーが告げた。そのモロンらしくない様子にポストは興味をそそられたが、今はアメタペイストに攻撃を止めさせる方が先決である。
「受信はある。呼びかけを続けたまえ」
「07、応答せよ07!」
『充填率七十パーセント。エランバイタル安定。チャージ続行』
ザリーの声は空しく響き、アメタペイストはビームの発射準備を着々と進めていった。
「応答せよ07! 07! 応答――シンシア!」
〈それが彼女の名か〉
取り乱したために思わず叫んでしまったのであろう。ザリーははっとしたような顔でポストに振向いた。
「いいぞ、ザリー君。時間稼ぎにはなる」
ポストはキロプティーランスの充填速度が下がったのを示した。
「応答せよ07」
ザリーは落ち着きを取り戻して呼びかけを続けた。そこはかとなく得意そうな声色であった。ポストの鼻孔が膨らんだ。
「工業区のDoll-A83とDoll-A22を、第48居住区に急行させろ」
そうポストがモロンに指示を出すと、ザリーはまるで定言命令を使われたように口を噤んでしまった。
「市街地の防衛を最優先に、攻撃目標はDoll-A07及び所属不明MOS部隊。
Doll-A07を撃墜しても構わん。何があっても、市民を護るのだ」
ザリーの顔が青ざめた。
〈どうせ発射には間に会うまい。避けるべくもない人死にならば〉
ポストの下した決断はむしろ事態を悪化させたといえた。
Dollタイプ同士が戦闘するということにでもなれば、市街地の被害が072工業区を上回るのは確実である。
この不祥事は傍観者に純粋な憤激の種を提供してくれるが、後始末の手間を省くという利点もあった。
「どうしたのだねザリー君。早くセミ・モロンに呼びかけたまえ。さあ」
「Doll-A07、攻撃を、中止、せよ。応答、せよ、07。応答……」
〈これで無数のコーディネイターと一人のイェニチェリー・モロンの運命は委ねられた。Doll-DAに〉
ポストは襲撃時の映像にあった未知のMSの姿を思い浮かべてほくそえんだ。
〈私の知らないDollタイプ。ガンダムの面影を持つ神の人形……私は神を試していられるのだろうか。それとも神に試されているに過ぎないのだろうか〉
「シンシア」
ビーム発射まで間もないとき、ザリーはまたもや少女の名前を呟いた。やはり、答えは返って来なかった。
ウーティスが復帰したとはいえ、本職の軍人でない指揮官が即時に有効な打開策を講じかねるのは、相当な天才か無能でない限り恥じ入ることではない。
沈黙の中、ブリッジにいる全員の視線はロウに集中していた。リーダーが発言するのを待っているのである。
十秒経った。ロウはいかめしい作り顔でブリッジを見渡した。
ウーティスのモニターが刻一刻と、アメタペイストのSE反応が増大していくのを示していた。
ジョウの顔つきが「どうする?」と尋ねているように思われた。
ベンが怯えたように目を逸らした。フェララの視線は冷たかった。
最後に、普段通りの下心ありげな微笑みを浮かべるクリトンと目が合った。
「ガンダムだ。それしか手はない」
ロウが呻くように言うと、クリトンは得々と手を鳴らした。
「はい! こんなこともあろうかと」
『ブリッジ、ドルダの起動が済んだ』
サブウインドウが開いて格納庫のケレンが映った。
「ちゃんと使えるようにしておきました、ガンダムドルダを」
ガンダムドルダはロウの知らぬ間に起動を終え、ケレンの後ろで腕を振り上げたり屈伸したりしていた。
「よし、直ちに発進準備だ。フェララ、カタパルトの」
『馬鹿か君は? 敵は後ろだ。フェララちゃん、後部ハッチの支度、頼むよ』
「了解です、ケレンさん」
ジョウが「おやまあ」というような顔をした。ロウに割り込んで指示を出したケレンが言い添えた。
『状況は把握している。ビームが来るんだろう? なら、するべきことは決まってる』
ガンダムドルダの強力なSEフィールドでビームを防ぐのと、ロウが主導権をとろうと焦って時間を浪費しないことである。
「ガンダムは持つのか」
「ゲインは五倍!」
『五分五分ですかね』
クリトンが親指を立て、ウーティスが答えた。ウーティスが今まで黙していたのは、格納庫の方に処理能力を割いていたからであろう。
そして有能な彼はガンダムの起動作業の他に、ケレンに作戦立案をさせてもいる。
『けれど今は、ガンダムの力を信じよう。僕たちが生きるために、そしていつの日か、未来を、真の自由を勝ち取るために』
「ああ、そうだ」
ロウはケレンの言葉を聞きながら、覚えず爪を噛んでいた。
良人が美容院の領収書を見ていやな顔をすると細君は良人の女性関係を疑う。電球の交換を頼んだときの良人の顔で細君は良人の浮気を確信する。
女の勘と世間で呼ばれるところのそういうものとは別物の予感を、ナギはガンダムドルダのコックピットで感じていた。
ナギの傍らでコンティが言った。
「本当に、いいのか」
ナギは振向かず、コンソールだけを見つめていた。最終調整は済ましてあった。コンティはきっと、彼らしくもない深刻な顔をしているに違いなかった。
「コンティのくせに生意気よ」
いつも回りに振り回されているコンティ・ネイブリットの顔には、困惑だけ浮かんでいればいいのである。
「駄目だ。やっぱり俺が」
「あんた、あたしに逆らえると思ってるの? やい、弱虫コンティ、泣き虫コンティ」
ナギは幼い頃のあだ名を持ち出しながらコンティに振向いた。
「ふざけるのは、止せよ」
バッシュではないが、こうも頑なでいられては一泡吹かせてやらねば気が済まなくなって来る。
ナギは突然コンソールに顔を向け、口に手を当てて仰天して見せた。
「あっ!」
「どうし――」
注意を逸らしたコンティを捕らえるのは容易かった。歯がかつっと音を鳴らした。
ほんの僅かな時間なのに随分長く息を止めていた気がした。じんとする自分の唇を舐めると鉄の味がした。
「まぬけ」
コンティは呆然としていた。
えいっという軽い掛声とともにナギはコンティを蹴飛ばしてコックピットから放り出した。
ガンダムの手の平に受け止められて、コンティはようやく立ち直った。
「おまっ、今何した」
ナギはコックピットから身を乗り出し、
「フィーカへの言伝なんか頼まない! アンタにも、何も言ってやらないんだからね!」
そう叫んでコックピットハッチを閉じた。
「つけておけばよかったかも」
こっそり買ったきり、引き出しの奥にしまい込んである口紅を思い浮かべながら、ナギはそっと唇に触れ、指で血を伸ばしてみた。
今の自分の顔のうちでは、そこだけがひんやりと感じられた。
ガンダムの手はコンティをぽいと投げ捨てたも同然であった。ガンダムが後部ハッチに向けて歩いて行く。
それを見送りながらコンティが立ち上がろうとすると、
「ガキってのは分からんものだな。ついこないだまで天使だったってのに、バッシュ兄さんは複雑な気持ちだよ」
と言って、バッシュがコンティに手を差しのべた。
「散々煽っておいて」
悪趣味な覗き見や自分たちの年齢など、他にも考慮させたい事柄はあるが口論している暇はない。
パイロットは自分のMSに乗り込んで待機しなければならなかった。一緒に駆けながらバッシュが言った。
「どのみちな、ドルダとヴェスタは一蓮托生さ」
それはコンティの疚しい気持ちを紛らわすための言葉であったかもしれないが、却ってコンティは自責の念を感じさせられた。
余計な一言とは、こういうもののことを言うのである。
初めの数歩は気を遣ったがディズンのOSを基にしているだけあって、操縦の手応えの頼りなさは誤魔化せた。
SEドライブジェネレータの内部慣性制御で重心をディズンに近似させたおかげもあろう。
しかし反応が聊か機敏に過ぎて危なっかしいきらいもあった。
「これ、おっきいの?」とナギは思った。それは第三者の納得しうる根拠の無い、粗野な実感であった。
装甲越しに感ずる外界との距離、または装甲の抽象的な厚み、さらに支離滅裂な表現では感覚移入を行い得る空間の拡がり、意識の温帯感覚、
こういった実地で語ると恥をかく類の心霊的感覚が、他のMSよりずっとずっと大きいのである。
同じ人型MSのティハターンでは、脆くて狭い卵の殻の内側にいるように感ぜられ、ディズンやキルケニーではその装甲相応である。
ガンダムドルダのそれはいわば大鯨の腹の中で、たとえ外の世界の一切が水に飲まれようとも自分だけは安全を確信していられるに違いない。
そう考え至るとナギは不意の寒気に襲われた。コンティの体温がコックピットから消えてしまったことが惜しまれた。
Doll-DAのコックピットはティハターンやディズンと違って、完全な単座式である。
『ガンダムドルダは発艦と同時に最大出力でSEフィールドを展開。ビームを無効化した後、アメタペイストの撃破に移行。
発艦のタイミングはこちらで測る。やれるな、ナギ』
ロウからの通信がナギの感傷を断ち切った。
自分らしくもない、そうナギは瞬間的に心中の己に命令して、自信に満ちた顔になるように力んで見せた。
「発進、バリヤー、ぶん殴るね。楽勝よ」
即席の作戦図案のサブウインドウに映るのに続いて、クリトンが早口で注意事項を述べる。
『DollタイプのSEドライブはコックピットの慣性をも無効化してしまいます。貴女の操縦に合わせた擬似慣性を働かせてありますがその分運動性が落ちるので任意に切り替えてください』
「酔いたくないなら加減しろってこと?」
『はい。それから何より大切なのは、魂の叫び! だということを忘れないで下さいね』
「最低」
しつこい念押しである。
『ガンダムドルダ、フライトモード起動して下さい』
不真面目の矯正手段を考える暇はない。ナギはフェララの声に従ってコンソールに手を触れた。
ハッチの前に棒立ちでいたガンダムドルダが、足を肩幅まで広げて中腰になる。
それと同時に、だらりと伸ばされていた肘が操縦者のナギの肘と同じように曲げられ、弛緩していた手は硬い拳に握られた。
そしてやや臀部を突き出すように前かがみになり、頭を上げて前方を見据えた。
ガンダムが大用の気張りを連想させるこの姿勢をとり終えると、ナギはもろもろの思考を打ち消すかのように叫んだ。
「ドルダ・ウィーングッ!」
狭いコックピットでの反響で濁るかに思われたが、不思議なことに、それは木霊のように響いて聞こえた。
『ノリノリじゃねえか』
もはやバッシュの呟きなど誰も気に留めない。機体パラメータが一挙に変動する。ガンダムの双眼が閃くように発光した。ぎゅいん、という音が鳴っても違和感はない。
瞳から放たれた光は隈取に零れ、涙のように頬の線に流れたと思うと、瞬時に全身の装甲の合わせ目に伝わった。角や装甲の欠けた断面には、毛穴の滲みに似たぶつぶつの光が散った。
そうして背面、肩、肘、腰、脹脛、踵、それから尻たぶの装甲がばね仕掛けのように次々と展開して、蛍を思わせる光の粒とともに、細長い板が突き出し、ガンダムドルダの輪郭が刺々しく変貌した。
これは空力に対して無謀な形をしているが放熱板の類でもない。
機体の表面積と幅の増加でSEフィールドの空間干渉の効率を良くするというアンテナのようなものらしく、その作用の結果のみを考えれば、クリトンの形容もあながち的外れとは言い切れない。
『敵SE反応変化! ビーム来ます!』
『ハッチ開け! 後部フィールド解除!』
「覚悟している暇もない!」
時間についてはむしろ僥倖に過ぎた。敵は破壊を確実にするためであろうけれども、こちらの準備の整うまでの何分もの時間を与えてくれたことには疑いを差し挟む余地がある。
上手く事が進むという予感に急かされた解放戦線の面々は、目の前の難関を乗り越えるに懸命で、今は正しく一丸となっていた。
ハッチが開く。コーディネイターの歓楽境は夜景だけなら自然保護区の大都市とそう変わりない。
とにかく多数の光り物でさえあれば美を感ずる資格を持つ動物は、ここで如何なる感慨と描写を述べるべきか。そういう高尚な思索を行う余裕は、誰にも残っていなかった。
キーウィタースの天蓋は自然保護区のそれに比べて低く、電飾も肉眼で見ることが出来る。その無数の光点のなかに、ひと際目立つ輝きがあった。
Doll-Aアメタペイストである。ナギは解放戦線の仲間と無数の祖先の命を奪った管理局の人形を睨み付けた。
恐れはある。しかし戦意も敵意も充分ある。より強い力を手にした今ならば、暴力以外の思考は必要でない。
ガンダムドルダの背後が、大きく歪んだ。空間そのものを弓と化して引き絞るかのように背景が陥没した。
ヴェスタ後部のSEフィールドが消え、後部ハッチの中に風が吹き込む。センサーがそれを示した微かな時間、ナギは自身の肌にも風を感じた。
『Doll-DAガンダムドルダ、発艦どうぞ!』
アメタペイストの光が強まるのとほぼ同時に、ガンダムドルダは加速した。
ほんの束の間であった。
アメタペイストの光が急激に変色し、四方に散ったかと思うと激しい光が新たに生まれる。
擬似慣性で息がつまり、迫り来るビーム以外の光の点がすべて光の線と化し、視界の両脇に縞模様を描く。
見る間もないはずなのに時間がゆっくり流れているように感じられ、みるみるうちにビームの青白い光が膨張して行く。
Doll-DAの出力が不足してしまうならば、今のナギはむざむざ焼かれに飛び込むようなものである。
感ずる間も思う間も無しに肉体が炭化する。人知れず食事に気をつけたり一人合点して胸筋を鍛えたりした一切が、ビームの黒点の足しに過ぎなくなる。
そんな馬鹿げたことは承知できる筈がない。強張った肺に残る空気がようやっと本来の出番が来たとばかりに上り出す。
クリトン・キーンの願望が成就する。死中を目前とした衝動の氾濫が、年頃の娘をして絶叫せしめた。
「処女で――」
エランバイタルの表示が変化する。ナギの想いを受けたガンダムが、その力を解き放つ。
「――死ねるかぁ!」
視界いっぱいに、光が広がった。
棒が管になった。ビームの形状の変化を述べるにはこれで充分である。
ガンダムドルダの前面に展開されたSEフィールドは、アメタペイストの放ったビームを中心から押し広げて空洞を作った。
相当な厚みのある管であったので、ヴェスタの脇に逸れていたMSは全て消失した。
空洞の真ん中あたりに浮遊するヴェスタと、その正面で攻撃に精出していたMS数機は直撃を逃れたが、それらも安閑としてはいられなかった。
主モニターの映像でビーム光の無いところ、ほの暗い円が昇るのを見て、ロウが喚いた。
「引かれているのか? 慣性制御!」
『間に合いません! 操舵で逃げます!』
そうウーティスが答えたのを聞き、フェララが端末にしがみ付いた。
「揺れるの? ねえ揺れるの?」
『すごく!』
「みんなつかま――」と言いながら、誰よりも身構えの遅れていたロウが舌を噛んだ。
大気による減退の際、ビームは鈴の鳴るのに似た音を立てる。ほんの微かな音である。
大概は発射音や爆発音などに掻き消されるので、直にビームで焼かれる生き物が「今何か聞こえたかしらん」と焼かれる刹那に思いかけるか、
ビームを用いた殺し合いの最中に色々な感覚を研ぎ澄ませることの出来たMSパイロットが「いや、聞いた。確かに聞こえた」と複雑な心境で語るくらいである。
ヴェスタの乗組員とMOSタイプMSに搭乗するアーミー・モロンたちはこの希少な音色に、聞き入る機会を得たのであった。
飛行艦ヴェスタが右傾左傾し、艦首をもたげたと思いきや慌てて下に向き直ったり、更には斜め上を向いて艦尾をぐらぐら揺らしたりする。
ビームの管の厚みは不均一でその配分も刻々に変動する。管の内部で働く引力は一定でない。
SEドライブジェネレータを搭載しているヴェスタですら、不細工な動きをしてやっと堪えている。
民生品のそれに比べて必ずしも良品であるとはいえないフライトユニットを装備するMOSタイプMSが、ヴェスタほど器用でいられる道理は無い。
二種のMOSタイプのうち、重量の少ないMOS-Bビアーが先に制御を失った。高い回避性能が却って災いした。
アーミー・モロンがスラスターを吹かし過ぎたことに気付くころには手遅れである。
ビアーは回転しながらビームの川面に飛んで行く。そこで四肢を四散させつつ水切りのように数回弾んで消えてしまう。
MOS-Hヒューブリスの方は推力の不足が原因である。スラスターを吹かしても吹かしても、ビームの川面が迫り来る。
鈴の音の喧しい距離まで近づくと、ビーム粒子の飛沫が当たって装甲に無数の穴ぼこが出来る。
体の一部が直接川面に触れたときには鑢をかけられたように全身が振動し、それから間もなく沈んで行く。
パイロットはコックピット内部に流入したビーム粒子でとっくに焼け死んでいる。
MOSタイプMSの全滅したとき、ロウは耳をそばだてた。
「ノイズ? いや」
『ビームです!』
「もういや!」
フェララが耳を塞いで金切り声を出した。ジョウの腕に抱かれているベンが息を呑んだ。クリトンは音の明瞭さに感嘆した様子であった。
『左翼接触!』
その報告とともにブリッジががくんと揺れた。ロウは目を瞑ってしまった。
『左舷熱量上昇! フィールド出力六十、五十、三十五、七――消失』
音が消えた。この瞬間、ロウは目を開けるのを恐れた。
夜の帳が下りた。夜空を照らした白光は、終わってみれば寸刻の幻影のようにも思われた。光の行方は定かではない。
ビームはそれを安全な場所で見物する市民の目を楽しませると、二三の高層ビルの上層を焼き飛ばした後、市街地と工業地とを区切る壁を穿った。
生まれる前から抑圧され、生まれた直後にSEフィールドで形を歪められたビームは、己の役目を果たせなかった。
期待に背いた途端に見捨てられた。しかしもはや自由であった。
大気で完全に拡散してしまうまでの残り少ない時間を目一杯有意義に用いて、工業区のモロンでも焼いていることであろう。それがこのビームの本分であり、最高度の合目的性なのである。
ビームはその性質上土木工事にも廃棄物処理にも適さない。殺人用具としてのみ役に立つ。
資質と意欲は不一致でなくもないが、それは客観の第三者にしてみれば一主観の迷妄に過ぎない。こういった不一致をあからさまにすることは不健全で非文化的な精神の把持を白状するのと道義である。
ビームの破壊目標が移転した一方、ガンダムドルダは前腕を交差させた姿勢で硬直していた。純白の装甲は漆黒と化していた。
装甲の節々の奥まったところが白く滲んでいることから、その変色が熱のためであることが察せられた。いかにも丸焼けという感じであった。
全身から立ち上る煙が微風で揺らいだ。ガンダムはアサルトフィールドの光を浴びたモロンのように、形だけ留めていないとも限らなかった。
パイロットも沸騰して破裂して蒸発しているかもしれなかった。
アメタペイストがキロプティーランスを構え直すのと時を同じくして、ガンダムドルダは動き出した。
黒光りする両腕が関節の軋む音を立てて下ろされた。ガンダムの顔が上がり、双眼が瞬いた。
薄緑ではなく、真紅の光であった。「おれは怒ったぞ」とも、「姉ちゃんもう堪忍して」とも受け取れた。
ナギ・ヴァニミィもまた、眩んでいた目を見開いた。彼女の眼光は敵意一点張りである。生ぬるい感触がこめかみから頬に伝い下りた。
全身がじっとり湿り気を帯び、彼女には饐えて感じられる臭いがコックピットに充満していた。下着の引きつる心地がした。背中の金具の部分に汗疹が出来そうであった。
最後のに関しては自身の見得も遠因であるが、ナギはこれら不快の責めの一切を、無闇に熱いビームを放ったアメタペイストに帰した。
あのMSのビームのせいでシャワーを浴びねばならなくなった。そもそもあのMSは、MSのくせにドレスなんぞを着て生意気である。
あんなふりふりしたスカートは、人間様の自分でさえ穿けた機会がない。人形は人形らしく、怪獣の相方をして首でももげればいいのである。
「モーションフィールド、セット」
ガンダムドルダが空間を踏みしめる。装甲の隙間から漏れた緑光が、波紋に乗って四散する。
左足を前に出したレの字になる位置に足が置かれ、背筋は真っ直ぐ、軽く握った拳が構えられた。
アメタペイストのSE反応は微弱であった。頑張り過ぎて息切れをしているのであろう。第三射を放つにはもう暫しの時間がかかる。
こちらに飛び道具が無いのを見抜いているのか、撃てない武器を悠然と向けている。
如何な挙動をされようと即座に対処し得るという自負もあろう。移動するでもなく、ガンダムドルダと同じように一定の座標に静止している。
ナギは大きく息を吸った。画面が白兵戦モードに切り替わり、ディズンのそれと同じカーソルがアメタペイストに重なった。
アメタペイストがこの間合いに安全を感じていようがいまいが、ナギにはどうでもいい。うちはうち、よそはよそである。
「必殺!」
この間合いはガンダムドルダにとって一足の間合いであった。
制御が不安定なこともあってガンダムドルダの加速で生じた空間の歪みは、アメタペイストの加速のように透明な蛇腹を作らなかった。
それは残像を生じさせた。無数の残像であった。縦一列に、何千体ものガンダムドルダが並んで見えた。
写真に写せば、拳を繰り出さんとするガンダムドルダの動作がひと齣ひと齣確かめられたろう。映像で見ると気味の悪い光景である。
アメタペイストが咄嗟にキロプティーランスを手放して、両手をスカートに突っ込んだ。ドルダの奇抜な挙動に慄いたのでは無論ない。
ガータースティレットが手のひらに吸い寄せられて刀身のビーム発生器が起動する。が、それよりも一拍先にナギの叫びが木霊した。
「ドルダ――」
ドルダの足が空を蹴る。足元からの力が足首、膝、股、腰、腹、胸、首、肩、肘、手首と伝わる毎に増幅されて行く、全身の関節を用いた一撃である。
以前に解放戦線のメカニックたちが酔狂で製作し、ティハターンで試したところ財政を圧迫する結果に終わった動作プログラムがこれに転用されていた。
空中分解しなかった躯体がプログラムを忠実に実行する。振り降ろされんとする拳にSEフィールドが集約される。
大気の影響を直に蒙って、頭の角がぽきりと折れる。内的SEフィールドの作用でその部分だけ異常な硬度を持つに至り、ドルダの右手が光って唸る。
「――パンチ!」
それは音の壁を越えた衝撃によるものか、首の骨格の砕けたことによるものか、判別するのは難しい。町中に反響する凄まじい音であった。
ガンダムドルダの繰り出した一撃はアメタペイストのSEフィールドを容易く貫き、その繊細そうな横っ面に打ち込まれた。
アメタペイストは殴り飛ばされた。ぐるんぐるんと独楽回りして飛んで行った。その形状からして慣性モーメントの大きいのは一目に察せられる。
なまじ姿勢制御を試みているために、ゆっくりと蛇行した軌道を描く。いわば殺虫剤を浴びた羽虫の類である。
勝てる、とナギは思った。ドルダの全身に内的SEフィールドが再び染み渡った。ドルダの機動力ならアメタペイストに追いつける。
ナギは殆ど無我夢中でアームレイカーを動かした。今追撃すれば、確実に落せるのである。
ナギの高まった動体視力は、アメタペイストの肩の『Doll-A07』という文字をはっきり見分けていた。
Dollタイプは管理局の象徴である。解放戦線にとっては仲間の仇である。
そしてナチュラルにとっては、過去の大戦で文明を踏みにじり、人は籠の鳥に過ぎなかったという醜悪な世界観を齎し、
人類という総体であったところの観念をしてナチュラルという一種族に凋落せしめた機械仕掛けの神である。
「人形なんかに、人間は負けない!」
狙いは勘で間に合わせる。随時修正してもいい。ガンダムドルダが左、右、左、の順で三度腕を突き出し、四度目に両拳を打ち合わせる。
そのまま全身を大の字に広げて宙返りして、手足を縮こめた。四肢それぞれから独立に発せられたSEフィールドが共振し、より強い、より安定した斥力場が構築される。
そして左足と左腕が曲げられ、右足と右腕が伸ばされた。手足の先端は全て目標に向いている。
ロックオンカーソルが、堕ちて行くアメタペイストを捉える。止めを刺す下準備が整った。
ガンダムドルダが竜巻のように回転しつつ後退し、再び先ほどの構えをとる。助走である。あとは加速を待つばかりである。
もはや叫ぶのにためらいは無かった。
「究極! ドルダ・キーッ――え?」
いきなり真正面の画面にシステムエラーの表記が出た。あまりにでかでかと出たので、アメタペイストの姿も隠れてしまった。
「ちょっと、どうしたのよ!」
アームレイカーの手応えが消えた。フィードバックが無くなったのである。
「ふざけるんじゃ――」
機体パラメータを呼び出すと、ガンダムドルダを模したホログラムの関節部分が真っ赤になっている。
「――ないっ、て、嘘……」
どうにか修正するべくコンソールを弄った途端、今度は別なエラーの表記が出て、勝手に新たなプログラムが起動する。
そのプログラムでもエラーが出て、それからまた新たなプログラムというふうに連鎖して行き、瞬く間にコックピットはエラーの赤文字で埋まってしまった。
「この、止まりなさいよ! 止まりなさいって言ってるでしょ!」
ナギは腰に寒気が走るのを感じた。慣性制御が利いていない。
ガンダムドルダがナギの怒声を、字義通り受け取ってしまったのかもしれなかった。
「嘘、嘘よね、嘘なのよね」
体がふわりと浮き上がる。赤色灯で照らしたように赤く染まったコックピットに、ナギの悲鳴が響いた。
きゃあという悲鳴であった。
三機の編隊を組んだ輸送機が、殆ど三機同時に速度を上げる。
この輸送機らはヴェスタのセンサーに捉えられた後、今の今まで戦いを遠巻きに眺めていた。
輸送機の大振りの翼には、MSが四機ずつぶら下がっている。合計で十二機のMOSタイプMSである。
フライトユニットを装備しているのもあれば、地上用のキャタピラシューズを穿いているのもある。
『GUNDAM・DAICHI・NI・OTSU』
『コード確認。作戦を第三段階に移行。降下地点、自然公園区域』
暗号通信を受け、輸送指揮官のモロンが命令を取り次いだ。MOSタイプMSの単眼が次々に点った。
輸送機が自然公園の上空に差し掛かるとパイロットのアーミー・モロンたちは、
『イキマース』
『イキマース』
『イキマース』
『イキマース』
そう順々に音声を発して降下した。
フライトユニットの有無にかかわらず、十二機のMOSタイプMSはそれぞれの降下地点で軟着陸した。
ある機体は広場の真ん中に着陸し、ある機体は木の繁ったところに着陸した。
店舗を下敷きにする機体や、偶々に事の最中であったコーディネイターを踏みつけた機体、五点接地転回法で着地する機体もいた。
いずれにしても目立つことには変わりない。
自然公園に居合わせたコーディネイターたちは当惑した。
彼らはこの日何かの行事があるという話は聞いていなかった。噂すら聞かれなかった。
物見高いコーディネイターたちが、見慣れない首なしMSのそばに押しかけた。首なしMSは膝を屈めて硬直していた。
女性コーディネイターが首なしMSの装甲に恐る恐る触れてみて、さっと手を引込めた。
男性コーディネイターが笑いながら装甲を蹴りつけた。二三の少年が、胸の単眼を狙って石ころを投げた。
粗大ごみの発生を検知した黒子モロンがMSの足首に取っ組み合いを挑んだ。
そうして、恋人にカメラを持たせた男が、MSの腕を伝ってよじ登ろうとしかけたときであった。
どすんという音がした。首なしMSの背負ったコンテナが、いきなり地面に落ちたのである。
「こいつ、動くぞ」と誰かが言った。事実、首なしMSの本体も鷹揚に動き出した。コーディネイターたちは大いにはしゃいだ。
「すごい!」
「ダサい!」
絶えず刺激を求めるコーディネイターにとって、見たことの無いMSというのはいい見世物である。
「ディズンより、ださーい」
そう自分の恋人に言われた男性などは、胸中にほんの少しばかりの残念を感じた。
ナチュラル的な物言いでは、寝取られたというような気持ちである。彼はディズンの旧式を愛用し、そこに自分の個性を見出していたのである。
極一部のコーディネイターの微妙な心境に関係なく、落ちたコンテナの蓋が開き、その中身があらわにされる。
ぎゅうぎゅうの鮨詰めで収納された無数のアーミー・モロンである。コーディネイターたちはぎょっとして首なしMSから離れた。
彼らにとりアーミー・モロンは、工場見学くらいでしか見る機会のないモロンである。その大柄な体躯に気後れしてしまうのも無理はない。
モロンの全ての能力は、コーディネイターに劣るよう調整されている。主人が召使に劣るのは、絶対にあり得ないからである。
しかしアーミー・モロンは見るからに逞しく思われる見た目をしている。霊長の所以たる知性についてはともかくも、体力では勝るとも劣らないとも限らない。
アーミー・モロンたちは押し合うことなくコンテナを出ると、首なしMSの股をくぐってその前に整列した。
背の低いモロンが一番遅れてコンテナを出た。コマンダー・モロンである。
それは眉間に皺を寄せ、顎を無理にしゃくれさせていた。コマンダー・モロンは列の前に立って金切り声を出した。
「提げ銃! 立て銃! 担え銃! 着け剣! 捧げ銃!」
アーミー・モロン全員が声に合わせて小銃を動かした。めりはりの利いた動作であった。
それはほんの短かったが、これほどまでに一糸乱れぬモロンの踊りはそうそう見られるものではない。
コーディネイターたちは感心の声を上げた。そして拍手が沸き起こった。
コーディネイターの体には、兎にも角にも即時に大げさな喜びを表現する癖が染み付いている。加うるに彼らはアーミー・モロンの持つ道具の用途を知っていない。
コマンダー・モロンは喝采に応えるように続けた。
「弾をこめ!」
アーミー・モロンが小銃に弾倉を装填する。
「戦闘レベル! ターゲット確認!」とコマンダー・モロンが叫び、
これまで黙していたアーミー・モロンが『戦闘レベル! ターゲット確認!』と合唱した。
「Dモード、起動!」
『Dモード、起動!』
「でっでっでっでっでっでっ……」
『でっでっでっでっでっでっ……』
アーミー・モロンの声が律動する。いつの間にかコマンダー・モロンの声もその律動に重なっている。
この歌の後には何を見せてくれるのかという期待に、コーディネイターたちの顔が綻んだ。
筒の尖端はコーディネイター一人一人に向けられてある。たぶん風変わりなクラッカーか何かの類であろう。でっでっでっ、の声が次第に大きくなって行く。
「でっでっでっでっでっでっ……」
『でっでっでっでっでっでっ……』
アーミー・モロンの顔が一斉に笑みの形に歪んだ。よく見れば足と胴体の境目が、不自然な形に隆起している。
外なる男性が動乱を起こし、内なる力によって不細工に突き立ったのは明らかであった。
「――デストローイ!」
無数の光が瞬いて、何かの弾ける音がした。弾丸が風を切り、無数の絶叫がその音を掻き消した。殺戮が始まった。