人面瘡、と言う病気がある。
身体の何処かに人の顔の様な腫瘍或いは痣が浮き出ると言う奇病の事だ。
日本のみならず世界中で似たような病気は言い伝えられている。曰くその顔は物によっては人語を解し、人が食べるような食事を要求したりもするし、
機嫌が悪い時は毒液に似た汚液を吐きだす事もあると言う。しかし、このような病気が本当にあるのか、と言われれば、医者は皆否と答える。
この病気の正体は何て事はない、腫瘍の形が人の顔の様に見えるだけに過ぎないのだ。見ようによっては、目鼻や皺にも見えるし、ひくひく動く姿が呼吸しているように見える。
それだけの事なのだ。所詮人面瘡とは、祟りや怪異の物でなく、顔によく似た腫瘍に過ぎず、医学的にも十分分析可能な代物なのである。

 七月十四日の午後の事、<新宿>はメフィスト病院に、一人の女性患者が秘密裏に搬送された。
日本国内の患者ではない。その女性はアメリカ国籍を持った女性であった。
もっと言えば彼女は、十人に聞けば六人は知っていると答えるであろう程の、ハリウッドの大女優であった。
六歳の頃から子役として出演、端役から脇役、脇役から準レギュラー、そしてついには一つの大作映画のレギュラーを何本も務めると言う、
スターダムの典型を往った若き天才女優。そんな彼女が、二か月程前から活動を休止していると言うのは、ちょっとした芸能通の人間であれば有名な話である。
ハリウッドから干されていると言う噂も立っている。恋人が出来たのだと言う噂もある。スランプなのだと言う意見もある。
その全てが見当違いで、蓋し正しくないと言わざるを得ない。だがその女優にとって、そう言った噂が立っていてくれた方が、まだマシと言うものなのだった。

 女性の顔に異変が起こったのは、関係者によると活動休止を表明してから二週間ほど前であると言う。
彼女の顔がいやにむくんでいたのだ。彼女も関係者も、寝不足か何かから来る、生活態度上の異変であると思っていた。
しかし、日を追うごとにそのむくみは酷くなって行き、遂には、象皮病を思わせる程皮膚は厚みを増して行ったのだ。
現在に至る。今その女優の顔の皮膚は、元々小顔気味だった彼女の頭の皮膚量を遥かに超えており、百歳を超えた老婆か何かのように、皮膚が垂れ下がっている。
瞳は皮膚に埋もれかけ、鼻も口も醜く歪み。とても、あの大女優とは思えない程の醜女(しこめ)になっていた。

 これでは仕事も出来ない、と言う事もそうなのであるが、そもそも彼女は女優である。
つまり、人からの注目を浴び続けたい目立ちたがり屋のスター気質で、何よりも、自分のプロポーションと美貌に絶対の自信を持っている。
それがこのような形で壊されるとなると、精神の均衡の崩壊すら招きかねない。アメリカ中の様々な大病院を回ったが、弱り目に祟り目とはこの事か。
どの病院でも原因が不明であり、そして、現代の医学では治療が困難な程の皮膚病であると言う。
こう言った事実が積み重なった結果、女優は酷いノイローゼに掛かってしまい、ある時など泣きながら、顔の皮膚が自分を悪罵して来る、馬鹿にすると訴えた程だ。
関係者の誰もが、このままでは自殺を敢行してしまうのではないかと危惧していた、そんな時である。
風の噂で、極東の国日本の<新宿>に、治せる可能性がある病院があると聞いた。そして其処こそが、メフィスト病院。
ゲーテのファウストに登場する、世界でも特に有名なあの悪魔の名を冠した病院の事だ。
常識的に考えれば、ロクな病院ではないだろうと皆思うだろう。事実周りの人物達は、行くのは止した方が良いと助言した。
しかし、溺れる者は藁をも掴むとはこの事。彼女はこの病院を頼ったのだ。縦しんばこの病院がダメでも、日本はアメリカに劣らぬ経済大国。
治せる病院があるかも、と踏んだのである。

 メフィスト病院の地上四階の部屋に、彼女はいた。入院患者にあてがわれる部屋である。
ベットから上体を起こした状態で、彼女は死んだように微動だにしなかった。ベッドと一体化した銅像の様である。
無理もない。この数ヶ月で、彼女の心は病気のせいで微塵に砕かれ、精神も崖っぷちの手前に立たされている状態なのだ。
病が蝕むのは、何も身体だけではない。身体と心は繋がっている。己の身体に自信を持っている者は、その自信を傷付ける病に掛かった時、紐で牽引されるように心も病むのだ。
「貴女の病気は特別に院長が見て下さるようです。ですが院長は多忙を極める御方ですので、明日の診察まで私どもの病院の病室でお待ちを」。
そう言ったのはこの病院に勤務している形成外科の男だった。

 常識で考えれば先ずありえないような病院の名前であったが、看護婦や勤務スタッフの態度やプロ意識は、彼女が通ったどの病院よりも徹底している。
日本はサービスに対して過敏な国であるとは聞いたが、病院でもそうなのだろうか。だが、それと自分の病気が治るか否か、と言うのは別問題。
態度が悪くたっていい。金など幾らでも払う。彼女は、自分の病気を治してくれる、ブラック・ジャックを期待していた。

 部屋にチャイムの音が鳴り響いた。医者、或いは関係者の入室を告げる為の物である。
自分の病気を治してくれる、院長先生のお出ましのようである。数秒程して、病室の自動ドアが音もなく開いた。
――病室の白い壁紙、白い天井、白い床。それら全ての白さが、増したような感覚を、彼女は憶えた。
まるで付着した塵が消し飛び、和紙の漉き工程をリアルタイムで見ているかのようだった。
何が起った、と、女優がドアのある方向を見た時、言葉を失った。

「成程、一介の病院で治せぬ筈だ」

 部屋に入るなり、白いケープを身に纏ったその男は、無感情にそんな事を言った。
見た瞬間に答えの解る数学の方程式をこれから解こうとするような、無聊な態度。きっとこの男は、自分と、その病気の事について言っているのだ。

 ハリウッドの夢工場で長年活動し、精神を若干病んでしまった彼女の思考が灼かれる程の美の男だった。
人間の嫉妬が極限まで肥大化した、あの魑魅魍魎の伏魔殿であるハリウッドに身を置く彼女は解るのだ。
あの界隈に身を置く男優や女優の顔の美しさが、自前の物なのか、整形によるものなのか。目の前のケープの男のそれは、間違いなく自前のもの。
それは間違いない。だが、こんな顔があり得るのか? 母親の胎の中で蹲っている段階で、神から、美の権化となるべく宿命づけられたのでないのか?
北の果ての海に浮かぶ氷塊を球状にして眼窩に嵌めた様な、鋭く冷たい澄んだ瞳。垂直に伸びた鼻梁、一文字に結ばれた唇。薄く伸びた眉。
今まで共演した色男の男優が、冴えない田舎男にしか見えなくなる程の美しい男だ。この男がハリウッドの世界に進出しようものなら、その日の内に、今のハリウッドの力関係は、引っくり返って覆される事であろう。

 心なしか、顔の病巣が。あれだけ憎んで、ナイフで削ぎ落としたくなっていた程の、顔の腫瘍が、震えていた。
この時初めて、彼女はこの病巣に共感を覚えた。ああ、お前にも解るのか。あのケープの男の、天与の美が。
ケープの男、メフィストよ。お前の身体から発散させる美は、意識を持たぬ筈の病魔にすら、それを意識させるのか。

 音もなく彼女の元へと近付いてきたメフィストが、その人差し指でそっと、彼女の病巣を撫でた。
この病気にかかって以来、彼女の顔面の感覚は希薄である。物が触れても触れられていると言う感覚が解らないのだ。だが今なら解る。この男が触れていると言う感覚が。
一目見て解った。この男が、自分の来歴やパーソナリティについて、欠片ほどの興味も抱いていないと言う事が。
ただ、目の前の、自分が治すべき病気のみに、興味を傾倒させている。何と言う、プロフェッショナリズム。
自分の顔に触れると言うこの行為に、男は決して疾しい考えなど抱いていないだろう。だが何故か、女優は今、そんな思いを抱いて欲しいと願っていた。
自分とメフィストとの関係が、患者と医者以上の関係になって欲しい、と願っていた。

 ――だが現実は無慈悲であった。
急に、視界が開けて来た。いや、その言い方は正鵠を射ていない。視界をそれまで阻害していた、皮膚のたるみが急激になくなって行ったのだ。
弛んだ皮膚が戻って行く。皺だらけになっていた皮膚に張りが戻って行く。皮膚の厚みが、紙の様に薄くなる。
果たして誰が信じられようか。メフィストが病巣に触れただけで、時間が回帰するように彼女の精神を蝕んでいた顔の腫瘍が消え失せて行くのだ!!
まるで録画したビデオの巻き戻しを見るような。まるで全てCGで出来た映像を見るような。キリスト教信仰に篤い者が見れば、神が起こした奇跡だと感動するかも知れない。

 己を苦しめていた病巣が癒えて行く感覚を女優は憶える。
彼女とメフィストを繋ぐ唯一の関係が、剥がれ落ちて行く感覚を女優は憶える。それは同時に、永遠にこの白い美の具現に会えない事を意味する。
恐らくこの男は、この病気を治してしまえば、一生自分に興味がなくなってしまう。彼女の予感が、そう告げていた。

 メフィストの人差し指が、女優の顔から離れる。
スクリーン越しに何人もの男達を魅了し、何人もの女の羨望を買い。何人ものハリウッド関係者が、一緒に一夜を過ごしたいと願った美が、其処にあった。
しかしそれすらも、ケープの男の美に比べれば、粗雑なものであった。人と神とは争えない。人界の美が神の世界の美に、敵う筈がないのだ。

「終わりだ」

 メフィストは無慈悲にそう告げる。解り切った実験の経過を記録する、科学者めいた言葉だった。

「経過をスタッフにでも見させてから、明日にでも退院させよう。その日の内に、元の仕事に専念出来るだろう」

 白いケープを雲母の如くに煌めかせ、はためかせ。メフィストは彼女に背を向け、スタスタと去って行く。
この男が、女優の部屋にいたのは一分程度の短い時間。しかし彼女には、その一分が、十秒程にしか感じられなかった。

「あ、待って……!!」

 もっと話したい事が、と言おうとしたのだろう。しかしその時には、彼女の視界には、閉じたドアだけがあった。
部屋に、彼女だけが取り残された。メフィストがいなくなったせいで精彩を欠き、途端にみすぼらしくなった、白い部屋に。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 マスターのルイ・サイファーに曰く、聖杯戦争は既に始まりの鐘が鳴らされたと言う。
尤もこの美しいキャスターは、ルイにそんな事を言われるまでもなく、聖杯戦争がじきに始まる事位解っていた。
何故ならばメフィストもまた、音に聞こえた魔界都市の住民だから。人の命が羽より軽い、悪徳の都の魔人であるから。

 自分のメフィスト病院が、他参加者からどのように見られているのか、メフィストもおおよその察しはついていた。
大抵の者は皆、この病院が聖杯戦争の参加者の手によって運営されている、と言う事位は考えるであろう。
無理もない、今のメフィスト病院は、K大学病院を乗っ取る形で形成された固有結界なのだ。言うなればこの病院はこの世界の<新宿>にとっては異物である。
真っ当な新宿区の知識を持った人間ならば、その異常性に気付くであろうし、例え異世界からやって来たマスターであろうとも、この病院の名前から、
此処がただの病院でない事に気づくのは時間の問題であろう。となれば、他参加者はどのような行動に移るのか?
考えるまでもなかろう。襲撃である。メフィストのクラスはキャスターである。本来このクラスは直接戦闘に秀でているクラスではない。
予め誰にも気付かれず自領域、つまり陣地を確定させ、其処に自分にとって有利なフィールドを築き上げる、と言う籠城戦が通常セオリーになる。
この時、誰にも気取られないと言うのがポイントである。最も脅威となるキャスターとは、誰にも知られない場所で、徐々に戦力を蓄える者の事を言うのだ。

 それが、メフィストの場合はどうだ?
どんなに愚鈍なマスターでも、地図さえ見れば解る場所に堂々と。しかも一般人が怪我や病気の治療の為に普通に出入りしているのだ。
キャスターのクラスに限った事ではないが、本来魔術師や魔法使いと言う人種は、自分の研究成果を秘匿し、己のアトリエである工房など厳重な警備を施す。
そう言った処置をメフィストは全く取っていない。来る者を拒まずの姿勢だ。これではキャスターとして、失格の烙印を押さざるを得ないであろう。

 但しメフィストは、今のそんな境遇に全く危機感を感じていないし、彼のマスターであるルイ・サイファーも、現状に全く不満を覚えていない。
寧ろメフィストは好都合とすら思っていた。彼は聖杯になど全く興味はない。自分はただ、患者を救うだけ。自分の医術を求める者に、応えるだけ。
自分の宝具であるメフィスト病院は本来展開と維持に魔力が必要らしいが、イレギュラーによりそれらの消費のない代わりに、常時世界に流出している状態になっているらしい。
しかしそれはメフィストにとっては喜ばしい事だった。患者を救う為の施設が、魔力消費もいらず常時展開しているのだ。これで、自らの医術を発揮するのに滞りはない。
思う存分、生前の様に患者を救う事が出来る。仮に、このメフィスト病院に襲撃をかけるような不届き者がいる時には、問題ない。
その時は――その相手を殺せば良いのだから。その時になって、相手は初めて思い知るであろう。
メフィスト病院が何故、核爆弾が流通し、陣地を超越した魔術が蔓延るあの魔界都市にあって、その威容を保つ事が出来たのか?
病院の防衛システム、そして、病院を管理・運営する院長が、魔人の如き強さを誇るからに他ならない。

 メフィスト病院には、常に足りない者があるとメフィストが嘆いているものがある。
それは、人の臓器。メフィスト病院で患者に供される臓器の殆どが、この病院を襲撃した不届き者のそれである事は、有名な話なのだった。
この<新宿>でも、臓器を提供してくれる親切な者が来るだろうかと考えながら、院長室でメフィストが哲人めいて思考の海に沈んでいた、その時だった。
エクトプラズムの椅子に背を預けていたメフィストの真正面の空間に、切れ目が入り始めたのだ。横辺五m、縦辺三m程の長方形の形に。
その長方形の中の空間に、過去の遺物であるブラウン管テレビ等で見られた砂嵐の様なものが走り始める。しかし、それも半秒程の事。
すぐに砂嵐は、現代の如何なる液晶テレビでも叶わない程の画素数を誇る映像に切り替わった。映像は、看護士の服装を身に纏った、年配の女性を映している。
メフィスト病院に勤務する看護婦長だ。副院長、医師部長と並び、メフィストが全幅の信頼を寄せる優秀なスタッフである。

「何事かね」

 短くメフィストが訊ねた。

「院長にお客様がお見えになっております」

「どなたか訊ねてみたかね」

「『秋せつら』様です」

「――ほう」

 平時と変わらぬ態度で、メフィストがそう言った――ように見えるだろう。
しかし、彼との付き合いが長い者は解る。彼は今、少々驚いている。予想外――いや、本当を言えば、来るのではないかと、呼ばれていたのではないかとは感じていた。
だが、本当に呼ばれていて、しかもこんなに早くやって来るとは、流石のメフィストも予想外だったのだ。

「通したまえ」

「かしこまりました」

 其処で、通信が途絶えた。音もなく、空間に刻まれた長方形が閉じきり、切れ目も何も完全になくなってしまう。
空間をスクリーンに、病院内の光景を映し出す技術。メフィスト病院では驚くに値しないテクノロジーだった

「知り合いかい?」

 足を組みながら、エクトプラズムの椅子に座る黒スーツの男、ルイ・サイファーが訊ねた。
今の今まで、読書を嗜んでいたようである。彼が呼んでいた本とは、メフィスト病院の院長室にある、千を超し万にも届こうかと言う蔵書の一つ。
十五世紀半ばに、ヨーロッパで初めて活版印刷を発明したグーテンベルク、その技術を以て最初に刷った初版の聖書……の、エラー品である。
字は醜く歪み、文字の濃淡が甘いところが見られ、至る所に墨の後が付着した失敗作。嘗てグーテンベルクが捨てた筈の出来損ないの聖書を、何故メフィストは持っているのか?
そして何故、それを滑稽そうにルイは見つめていたのか?

「想い人だ」

「そうか」

 それだけ言って、ルイは再び聖書に目を通し始めた。其処から二人に、会話はなかった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「こんちゃ」

 見知った友人の家にでも上がる様な気楽さで、その男は現れた。
暑さを感じないのか、夏場であると言うのに黒色のロングコートを身に纏った、黒いワイシャツに黒いスラックスと、上から下まで黒一色の男。
――だが、何と高貴な黒なのだろう。男の現れた、メフィスト病院の院長室と言うのは、全体的に薄暗い。その中にあって、彼の黒は、宇宙の暗黒の様に映えていた。
それはひとえに、ロングコートの男の、天使が地上に降りて来たと錯覚する程の、天上の美が原因であった。
際立ちすぎた美は、身に纏う服や、その色味すらをも天上のステージへと押し上げる。いや、この男の場合は最早、伸びる影すらも美しいのだ。
そう言うものである。秋せつらと呼ばれる男は、そう言う男なのである。

「月並みな挨拶だが、久しぶりだな」

 エクトプラズムの席から立っていたメフィストが、そんな事を言って来た。
初めて彼を見た者が聞いても何とも思わないのだろうが、これでも彼は大分気を楽にして話している。相手が、秋せつらだからだ。

「お前の所の藪病院の名前を聞いた時には、中々驚いたよ。お前、自己主張しないと生きてけないの?」

 入口の方からスタスタと、メフィストの方を歩いて行きながらせつらが茶化した。
言うまでもなく、メフィスト病院が現実世界に流出している現状の事を言っているのだろう。

「イレギュラーな事態だ、仕方があるまい」

「嘘吐くなよ、お前の事だ。患者を治せるから別に良いかって思ってんだろ」

 流石に、生前からの付き合いのある男は違った。メフィストの考えている事など御見通しであった。

「そもそも、お前の病院のあった場所は歌舞伎町だろ。何でK大学の病院を乗っ取ってるんだよ、訴えられるぞ」

「元来医術と言うのは、卓越した師の下で血の滲むような研鑽の末に習得するものだ。学校に行き、単位を修得し、卒業すれば医者になれるものではない。
待ち時間も長い、我が病院では考えられないような初歩的なミスが目立つ。その様な病院、優秀な病院に淘汰されるべきだろう」

「お前みたいな変態と比較対象にされるK大の教授も研修生も可哀相だな、同情するよ」

 とうとう、せつらがメフィストの作業している黒檀の超高級デスクの所までやって来た。
その背後に、学校制服に身を包んだ、金髪の少女を引き連れて。

「かけたまえ」

 メフィストがそう言うと、せつらの背後に、蒼白いエクトプラズムが凝集し始める。
慣れているのか、せつらはそれに腰を下ろした。何をして良いのか解らず、アイギスはメフィストとせつら、そして、奥の方で本を読む、ルイの方をきょろきょろ見るだけ。
彼女なりに、混乱していると言う事が解る。

「彼女には用意してやらないのか」

 言うまでもなく、エクトプラズムを、だ。

「人ならば、な」

 流石に、魔界都市の住民。いや、この場合は魔界『医師』と言うべきか。
アイギスが人間ではない。機械の乙女である事など、一目見た瞬間から看破していたらしい。
生身の人間であればいざ知らず、疲労も何も知らない機械に、エクトプラズムを用意する必要がない。メフィストはこう言っているのだ。

「流石の魔界医師先生も、自分の性格の悪さと性癖だけは治せないのか。怖いね~、心の病ってのは」

 肩を竦め、露骨にメフィストを挑発して見せるせつらだったが、その魔界医師は全く微動だにしない。

「女は男の付随物だ。旧約聖書に曰く、アダムは己の肋骨からイヴを作り、イヌイットの神話では女は原初の男の親指から生まれた。
神が人を自分達の住まう世界にまで至らせられなかった最大の失敗要因は、女を創った事だ。女がいなければ今頃人は、神の玉座に王手をかけていた。追放された楽園を取り戻せた」

 それどころか、真面目な顔で反論する始末だ。

「安心したよ。その気持ち悪さがこの世界でも健在でさ」

 心底呆れたようにせつらが口にする。

「あの、そちらの方が仰った通り、私は疲れを感じませんので、気を使わなくても大丈夫ですよ? サーチャー」

「だそうだ。鉄の処女の方が人間が出来ているとは、恥かしくないのかね」

「機械の乙女に気を使われる方が恥ずかしいだろヤブめ」

 せつらの悪罵を無視し、メフィストはデスクの引き出しから何かを取り出し、せつらに対してそれを放った。
それを受け止めるせつら。一瞬攻撃か何かかと警戒したような素振りを見せるアイギスであったが、直にそれを解いた。
何て事はない。市販品の煎餅だった。何処のスーパーにも売っているような、工場で流れ作業的に作っているであろう事が解る品だ。
嫌そうな顔で袋を開けるせつら。「食べても大丈夫でありますか?」、とアイギスが念話で語り掛けて来る。「問題ない」とせつらが返す。
毒がない事位確認済みだ。目に見えぬ、1/1000ミクロンのチタン製の妖糸は、せつらに掛かればその食物に毒が含まれているか否かの判別すら可能とする。
毒は、入っていない。これは間違いなく言える事が出来た。では何故嫌そうな顔をしているのか。塩せんべいを袋から取り出し、齧った後のせつらの言葉を口にすれば、解る。

「まずい」

 心の底から言っているらしい。美しい顔をまずそうなそれに歪めて、更に彼は言葉を続ける。

「流石は大量生産品。此処まで不味く作れる才能を褒めてやりたいよ。うるち米を選ぶセンスもダメ、醤油やタレを塗るセンスもなっちゃない、焼き加減も論外。
秋せんべい店の店主に対して、よくもこんな不味い品をぬけぬけと茶菓子代わりに出せるな。とうとうボケたかよ」

「君の出す煎餅も最近は焼きが甘いだろう。女にいいようにされるからだ。君は一つの物と所に専念すると言う事が出来ないからな」

「人を多動の患者みたいに言うなよ、英霊になっても失礼な奴だな」

 煎餅を脇に置きながら、むかっ腹が立っていると言った様子でせつらがそう言った。
その様を見ながらメフィストは、机の上で両手の指をそれぞれ組み合わせ、その状態で両肘を黒檀のデスクの上に置いた状態で、せつらに言い放った。

「要件を言いたまえ」

「お前に会いたかった」

「“僕”の方に言われても嬉しくはないな」

「僕も言っていて気持ち悪かったよ」

 おえっ、と言ってから、せつらは言葉を続けた。

「昔の好(よしみ)で会いに来てやった。これは事実だ。この<新宿>はれっきとした“魔界都市”だ。となれば、僕以外にも見知った奴がいるんじゃないか思ってね。
そしたら、昔の腐れ縁が馬鹿正直に病院を経営してるじゃないか。顔を出さない訳にも行かないだろう?」

「同盟を組みに来たのではないのかね? サーチャーのサーヴァントくん」

 グーテンベルクの聖書のエラー品を捲るルイ・サイファーが静かにそう訊ねて来た。

「よせよ。回復の為の中継地点として利用するならともかく、こいつと同盟を組んでメリット何て欠片もない。このヤブが何度、自分の知識欲の為に相手と手を組んで僕を苦しめたと思ってるのさ」

 メフィストと言う男は秋せつらを懸想している。メフィストの優先順位の序列の中にあって、秋せつらと言う男は最上位に位置していると言っても良い。
但し、そのせつらと同じ位、行動の優先順位の序列を高く設定している物こそが、己の知識欲である。
治癒不可能な病気を治す為のメソッドを探す為ならば、せつらに対し不利になるだろうなと言う事をも平然と行う。
何せメフィストは生前、如何なる技術でも不可能とされる、『吸血鬼化した人間を元の人間に戻す治療の開発』の為に、敵対していた吸血鬼に己の血を吸わせ吸血鬼にさせた程であるのだから。

「お前の事だ。自分の知りたい事の為なら僕の反目に回る事もあるだろう。況してや今は聖杯戦争だ、そう言う事になっても仕方がない。が、一つ聞きたい事がある」

「何かな」

 美しい顔を絶対零度のそれに凍結させて、メフィストが訊ねた。
機械であるアイギスのCPUが、一瞬フリーズを起こした。余りの美しさの為に、彼女が有する人相識別システムが、エラーを起こしたのである。
システムが、告げている。理論上、このような顔の人類は、如何なる遺伝子配列でも生まれる事はない、と。では、メフィストの正体とは? そして、彼の美を見ても恬淡としている、せつらとは?

「お前、聖杯が欲しくないのか?」

 軽くメフィストに対し人差し指を指して、せつらが言った。
メフィストと、せつらとの間の空気が、凍結した。陽炎の如く歪むのではなく、空気分子の動きが、時が止まった様に停止しているのだ。
二人の周りを取り囲む空気が、零下にまで下がったような錯覚をアイギスは憶えた。今にも地面に、霜柱が生まれそうな寒さだった。
そんな時間が、何分も続いたような錯覚を、余人は憶えるだろう。だが実際には経過した時間は二秒にも満たない短い時間で、メフィストの返事も実際にはすぐだった。

「興味がない、と言えば嘘になる。如何な私とて、聖杯のオリジナルは見た事がないからな」

 だが、とメフィストは言葉を続けた。

「それだけだ。知識欲を満たす以上の役割を、聖杯には期待していない。願いについては、他の者にでも譲渡する気概だ」

「って、言ってますけど? おたくのサーヴァント」

 と、せつらが今度はルイに話題を振った。黒スーツを身に纏った金髪の紳士は、優雅な仕草で聖書に栞を挟み、音もなくそれを閉じ。
にこやかな笑みを浮かべて、せつらの方に向き直り、こう答えた。

「それで構わないよ。私は、メフィストの意思を尊重している」

 平然とルイの方もそう答えた。数秒程の沈黙が流れた後で、せつらはフッと笑みを零してから、口を開く。

「よく解った」

 すっくと立ち上がり、直立する黒い影の柱となったせつらが、メフィストの方に背を向け、一歩、また一歩。彼の方から遠ざかって行く。退室しようとしていた。

「行こうか、マスター」

「え? その、いいのでありますか?」

「良いよ別に。聞きたい事は聞けたしね。早く退散しないと、其処のヤブに身体を分解されちゃうぞ。真っ当な人付き合いが出来ないから、本とその中の知識しか友達がいない奴なんだからな」

 散々な事を口にしてから十数秒程した頃には、せつらは既に入口の所にまでいた。
遅れてアイギスも、彼の傍までやって来る。せつらがくるりとメフィストの方に振り返った。
遠目からでも解る、凍土の中で光るサファイアの柱めいたメフィストの美が、黒檀の黒とのコントラストを成していた。

「じゃ、また何れ」

「ああ、また何れ」

 そう別れの挨拶を交わすや、扉が無音で開き始めた。せつらとアイギスが、院長室から退室した。
部屋の中には、再びエラー聖書を開き始めたルイ・サイファーと、エクトプラズム製の椅子に背を預けるメフィストだけが遺された。

「彼を帰しても良かったのかい?」

 聖書に目を通しながら、ルイが訊ねて来た。

「機械の女の機嫌取りまで行うような恥知らずの人格は障害にもならんよ」

 冷徹にメフィストが返事を行う。「そうか」、と言ってルイもそれ以上の事は口にしなかった。

「“僕”の人格は、相も変わらず恥を知らないようだな」

 天窓に映る夏の青空を見て、メフィストはそう呟いた。今日も、天気予報にない豪雨が降るのであろうか?




◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

【サーチャー】

 メフィスト病院の院内を、霊体化させたせつらを引き連れて、アイギスが念話でこう言った。

【何かしたかい? マスター】

【あのメフィスト……と言う人はサーヴァントなのですよね?】

【アレがマスターで呼ばれる訳がないからね】

【何故、あの時倒さなかったのでありますか?】

 そもそもアイギスとせつらが、何故メフィスト病院にいるのか? それはせつらの要請でもあった。
元の世界での知り合いが運営していた病院と同じ名前の病院がある。その病院はしかも、この世界の<新宿>にはそぐわないしある筈がないものなのだ。
その病院の確認がてらに、寄ってみたい。せつらはそう言ったのである。そしていざ赴いてみたら、案の定せつらの知るメフィスト病院であり、その院長もやはり、であった。
と言う訳である。それは解る。だが何故、せつらはあの時メフィストを倒さなかったのか。それについて、彼女は理解が出来ずにいるのだ。
まさか昔の知り合いだから、気後れした、と言うのであろうか。解らない感覚ではないのだが……この聖杯戦争においてではやはり、問い質しておきたかった。

【色々あるが、先ずこの病院でアイツと戦いたくないんだよ。此処は、アイツのフィールドだ。この病院でアレと戦ったら、僕であってもどうなる事か】

 “魔界都市<新宿>”を身体で体現するとすら言われた秋せつらは、<新宿>に限って言えば知らない所などないと言われる程、その場所に精通していた。
しかしそんな彼でも、その全貌を把握しきれなかった場所がある。其処こそが、此処メフィスト病院なのである。
今でも、この病院には部屋数が幾つあるのか、どのような治療室が幾つあるのか、そして本当の収容患者数が幾つなのか。
せつらは愚か、彼が兎に角頼っていた<新宿>最高の情報屋である外谷ですら解らなかった程である。
曰く、この病院にはせつらは愚か、<新宿>区長であった梶原ですら把握できない場所に、秘密の分院が存在している。
曰く、今でもこの病院の何処かでは、医術の究極系である、死者を蘇らせる為の実験場が存在している。
曰く、この病院には、副院長や婦長と言ったメフィスト病院の要職ですら解らない場所に、<魔震(デビル・クェイク)>に関わったとされるある病人を匿っている。
全てが全て、噂であり、そして、あり得そうな話なのが、この病院の恐ろしい所である。実際せつらも、これらの話はある程度の事実に基づいているのだろうとすら思っている程だ。

 これらの話には、一つの共通項がある。それは、これらの噂の真実は全て、メフィストのみぞ知ると言う事だ。
秋せつらですら、メフィスト病院にこれらの施設や設備が存在するのかどうか、その確証は解らない。
せつらは愚か、病院に勤務するスタッフですら案内されない、知られていない領域がこの病院には幾つもある。
つまりこの病院のシステムの全貌や、本当の施設の数は、メフィストのみしか解らないのだ。あの院長室にしたって、侵入者を迎撃するシステムがもっとあるのかも解らないのだ。
そんな場所で、安心して戦える訳がないのだ。それに相手は、せつらが如何なる技を使うのか理解している。早い話がやり難いのだ。
何れにせよ、メフィストと戦うのであれば、この病院から引きずり出さねば安心も出来ない。アレは、せつらにすらも底を見せない白い魔人であるのだから。

 ――だが

【不利ってのもあるんだけど、アイツは生かしておいた方が得でもあるんだ】

【得、とは?】

【さっきも言っただろう。治療の中継地点として使うのさ、此処を】

【ッ、敵の治療を受けると言うのでありますか!?】

 念話越しでアイギスが驚くのも無理はない。思わず彼女はロビーで立ち止まってしまった。
同盟を組んでからであるのならば兎も角、同盟を組まないで、しかもあのような喧嘩腰のやり取りを交わした相手の治療を受ける等、普通に考えれば正気の沙汰ではない。
あのメフィストと言うサーヴァントやそのマスターは、如何にも聖杯には興味を示していなかったが、それらを抜きにしても、敵の治療を受けると言うのは忌避感がある。
これはアイギスに限らず、他の主従であってもそうであろう。彼女が抱く危機感は、常識的に考えれば至極真っ当な物である。だがせつらの返事は違った。

【あいつは患者の治療しか生きがいのない哀れな男なんだよ】

 念話越しに、せつらが続けた。感慨深そうな声であった。

【あいつはね、自分の治療技術を見せつけたくて見せつけたくて仕方がない目立ちたがり屋なのさ。だから、自分の治療技術を求める奴には、それに応えちゃうんだ。
例えそれが、後々自分の敵に回ると解っていても。例えそれが、この街を滅ぼしうる要因になると解っていても。あいつは絶対に治療を拒否しない】

 メフィストと言う男は、骨の髄まで医者である。彼は、自分を求めて来た患者を追い返すような真似はしないし、した事がない。
治療が出来ないからと言って、他の病院に回すような事をした、と言う噂など聞いた事もない。

 自分を頼り、最後の希望とする患者に対して、あの白い魔人は絶対の慈悲を以て応対し、その病巣を根絶する。メフィストと言う男は、そう言う人物なのだ。
例え、後々の自分の敵になると解っていても、彼は怪我も病気も治してしまう。治した後で、彼はその敵と対峙する。メフィストと言う男は、そう言う人物なのだ
自分が治療している患者を横取りされ、傷付けられ、自らの聖域であるメフィスト病院に害を成した者に対して、メフィストと言う男は悪魔となりて、地の果てであろうとも異世界であろうとも追跡し相手の息の根を止める。魔界医師とは、そう言う人物なのだ。

 とどのつまり、メフィスト病院の院長であるメフィストと言う男は、極限まで中立の立場を貫く男なのだ。
基本はせつらを贔屓しているが、状況次第では相手にもその力と知識を貸すし、そもそも全くの傍観者に徹する事だってある。
そんな男が、その中立のスタンスを崩す時は、一つ。患者を傷付けられ、横取りされ、病院に危害を加えた時である。
これらを犯さなければ、メフィストと言う男は体の良い治療屋なのだ。治療費も破格何てレベルじゃない程安いし、治療技術も驚く程高い。
だから生前もせつらは、怪我を負ったらとことんこの病院を利用してやっていた。この立場は、たとえ聖杯戦争でも絶対変える事はないだろうと言う自負がせつらにはあった。
そして事実その通りであった。実は今回メフィスト病院にやって来たのは、その確認の為もあるのだった。

【まぁ、精々利用し倒してやろうぜ。どうせ医術しか能のない奴なんだからさ】

 せつら以外の人物が口にすれば何が起こるか解ったものではない事を平然と言葉にするせつら。
取り敢えず今は、メフィストは脅威にはならないらしい。この男がそう言うのであれば、アイギスもそれに従う事とした。

【……ま、メフィストは何だかんだまだ解る相手だから良いんだ。敵に回れば確かに怖いが、今はそれ程怖くない】

【まるで……サーヴァントである、あのお医者様が、大して脅威にはならないとでも言うような口ぶりですね】

【あいつはね、自分の邪魔さえしなければ害にはならないよ。……僕はそれよりも、あいつのマスターの方に恐怖を覚えたよ】

【? あの金髪の紳士に、でありますか?】

 アイギスは、自分と同じ髪の色をしたあの黒スーツの男の姿を思い出す。
自分と同じで、せつらとメフィストの会話に一切割り込む事なく、ただ、薄い笑みを浮かべて本を読んでいたあの男を。
暗がりで本を読むその姿に、アイギスは、大それた恐怖を感じ取る事が出来なかった。何故せつらは、そんな男を脅威と見做しているのか?

【サーヴァントと言うものは、特別な触媒がない限りは、マスターの性格とある程度見合った存在が呼び出される事もあると言う】

 それは確かに、聞いた事がある。

【あのヤブを呼び寄せるマスターの事だ。どんな者なのかと考えてはいたが……断言出来る。あのマスターは、人間ではない。そして、メフィストよりもずっと危険だ】

 院長室に入った時――。
せつらは即座に、チタン製の妖糸を部屋中に張り巡らせ、トラップの類や、他に誰か潜んでいないか、と言う事を検分した。
結論から言えばあの院長室は、せつらの知るいつもの院長室ではあったのだが、一人だけ、信じられないような存在があの部屋にいる事を認識したのだ。
それこそが、あのマスターである、ルイ・サイファーだ。マスターが人間以外の存在である事は珍しくない。そもそもせつらのマスターがそうなのだから。
だがアイギスは、機械の乙女であると言う事は解っていた。あのルイと呼ばれる男は――人間以外の存在であるのは確かだが、『それが如何なる存在なのか』、
秋せつらの糸探りを以ってしても把握出来なかったのだ。まるで、水の中に糸を突っ込んでいるような感覚だった。捉え所がない。
メフィストのマスターは、人の形を真似した無窮の怪物ではないのか?人の形をした水ではないのか? 
人の似姿で<新宿>に現れた、宇宙の虚無ではないのか?

 解らないと言う事は、ある種姿が把握出来ている災厄や災害よりも恐ろしい事がある。
せつらの妖糸の技ですら理解が出来ない事象となれば、彼自身が不安感を覚えるのも、無理からぬ事なのだった。

【どちらにせよ、警戒はしておいた方が良い。何せ、『メフィストの方針に何の文句も言わない男』何だからね】

【……言われて見れば、そうでありますね】

 アイギスも漸く気付いたらしい。
そもそも真っ当な感性を持ち合わせたマスターであれば、あの場で敵対者にも等しい他参加者の秋せつらとそのマスターが、自らの牙城に入って来たにも関わらず、
黙って見逃すと言う行為や、一般のNPCの為に治療の門戸を開く、と言う行為は到底許せる筈がないだろう。
それに対して嫌な顔も見せない、と言う事実だけでも底が知れない。成程確かに、言われて見ればその通りだ。警戒しない訳には行かないだろう。

【まあ何にせよ、確認したい事だけは知る事が出来た。早く西新宿に戻ろうか】

【ええ、解りました】

 ロビーに立ち止まっていたアイギスが、再び歩き出し、病院の外へと向かい始める。
夏の朝の灼くような熱を内包した光がアイギスに降り注ぐ。今日は終日、晴れ模様になるとの事らしかった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 せつらが院長室を出てから、十分程が経過した時の事だった。
穢れの知らない白き闇が、院長室の自動ドアからスッと姿を現した。
風もないのに緩やかにはためくケープを纏うその魔人の名前はメフィスト。ゲーテの有名な戯曲の中に出てくる、あの悪魔の名を冠した医者。魔界医師。
――そして

「御客人との会話はいかがでしたかな」

 院長室の自動ドアの真正面の壁に、実体化した状態で背を預ける、長身の男がいた。
三mにも届こうかと言う体躯を持ちながら、その身体には厚みがなく、太みも無い。まるでナナフシの様に細い胴体と手足を持ち、
目の当たる部分だけ適当な丸い穴を空けた紙袋を頭に被せたその男こそ、『ファウスト』。同じくゲーテの戯曲の中に出てくる、メフィストに誘惑された老博士と同じ名を持つ、サーヴァント。

「相変わらず男らしさの足りぬ者だと、嘆かわしいばかりだった」

 目の前の男が何者であるのか、と言う誰何をせず、メフィストはそう答えた。
憂鬱気にそう答えるメフィストの仕草は、実に美しい。ファウストが思わず目を伏せて離さねばならない程には。しかしもはや、このランサーの瞼にはメフィストの美が焼き付いていた。

「さて」

 其処でメフィストが、言葉を区切った。それと同時にファウストも、身体を屈ませ始めた。直立すれば天井スレスレな程の身長を持つファウストにとって、棒立ちの状態は窮屈なのである。

「君の存在は何日も前から知覚していた。今は君一人だが、マスターの不律先生は来なくて良いのかね」

「やはり気づかれておりましたか。私の存在も、私のマスターも」

 ファウストはやはりと言った様な口ぶりでそんな事を言って来た。気付かれていると言うのはおおよそ解り切っていた事だ。今更驚くに値しない。

「マスターは今患者の回診に向かっております。私が此処におりますのは、マスターから貴方と一対一の会話の時間を許可して貰いましたから」

「聖杯戦争の参加者でありながら、自らの医者としての職分を忘れなかったか。後で不律先生の所に戻ったら、見事だと言っておきたまえ」

 素性の知れないサーヴァントに、お前と会話しに来た、と言う旨の言葉を告げられても、メフィストは平然としていた。
それどころかこのキャスターは、ファウストをマスターの下へと帰還させるつもりですらいるらしい。余りの底知れなさに、ファウストも思わず冷や汗をかきそうになる。

「先ず初めに、真名を明かす事は得策ではないと言うマスターの意向があります故、クラス名で話し合いをすると言う非礼をお許し下さい。
クラス名はランサー。私は今貴方と事を争うつもりは断じて御座いません。貴方も気付いておられるでしょうが、今院長室の周りには人払いの法術を展開しております。
ですが、ご安心を。貴方の力が必要な救急患者が搬送された場合には、即座に解くつもりでおりますので、気を悪くしないで下さい」

「要件を伺おう」

 話し合いに足るサーヴァント、と言う認識を持ったらしい。メフィストが、紙袋の奥底で光るファウストの瞳に目線を集中させた。
両膝を曲げ、上体を屈ませた状態で漸くメフィストと同じ目線の高さになると言う、規格外のファウストの身長であった。

「Dr.メフィスト。貴方の治療の腕前、霊体化した状態で盗み見るようで恐縮ですが、拝見させて戴きました。……素晴らしい技倆であると、言わざるを得ません。私も同じ医道に携わる端くれですが、貴方の如き腕前には、届いておりません」

 これは心の底からファウストは言っていた。
法術を利用した治療と言うのは、彼のいた世界でも珍しくなかった。しかし、法術は必ずしも万能の理ではなく、必要とあらば、原始的で、しかしそれでいて一番確実な、
麻酔を施してから身体を切開し、内部の病巣を手術で取り除くと言う方法もメジャーであった。
だが、メフィストはどうだ。秘術或いは魔術で病巣を、児童文学の中に出てくる魔法みたいに取り除き、必要とあれば病巣を、メスも麻酔も使わず取り除く。
どうやって? そう、メフィストは相手の身体に触れるだけで、病んだ内臓や主要、折れた骨を、患者の皮膚や筋肉を傷付き損なわせる事なく外部に摘出出来るのだ。
ファウストから見ても、恐るべき医術の腕前なのである。この世界の一般人からして見たら、魔法だ奇跡だと言わずして何と言うのだろうか。

「ほう、君も医者なのかね、ランサー」

「恥ずかしながら」

 そのたった七文字の言葉に、どれだけの含蓄が込められていたのか。
それを知るのは、嘗て一人の少女を、裏で糸引く陰謀があったとは言え、手術で殺してしまったファウストだけであった。

「一目見ただけで優秀な医者かどうかは解る。君は、この病院で働くに相応しい医者だ。如何かね、今なら面接抜きで採用するが」

「有り難い申し出ですが、私は一つ所に身を置く性分ではありませんので……、流浪の医者、と言う奴ですな」

「フム、残念だ。臓器もそうだが、優秀な医師も喉から手が出る程欲しいのだが」

 一瞬、凄まじく物騒な事を口にするメフィストであったが、その発言をファウストは聞かなかった事とした。

「……Dr.メフィスト」

「何か」

 腕を組み、背後の自動ドアに背を預ける形でメフィストが問うた。

「貴方もやはり、聖杯を求めておられるので?」

「その問いは、先程の客も聞いて来た」

「それに対し、貴方は何と」

「興味はあるが、かける願いはない。それ以上でも以下でもない」

「無欲、ですな」

 これもある程度ファウストの予想していた言葉だったらしい。さして驚きはしなかった。

「君は聖杯を欲しているのかね、ランサー」

「実は私も、聖杯にかける願いは特にないのですよ。あるとすれば……」

「あるとすれば」

「可能な限り、人を救う事、でしょうか。医者は、治す事が仕事ですから」

 紙袋の穴の奥で光る、発光体の瞳が光った。ふむ、とメフィストが短く言った。

「崇高な信念だ。少なくとも、私よりは」

「貴方は、違うと?」

「私は、私を求める者だけを救う。私の力を頼る者だけを癒す。そう言う医者だ」

「目の前に、病に苦しみ、傷付き倒れそうな者がいても、ですか」

「ランサー。病や傷と言うものは、その当人を識別する上で重要なパーソナリティだ。神が人に与えた聖痕(スティグマータ)だ。
それを誇りにし、バネにする者もいれば、それを嫌悪し、癒したがる者もいる。人は病や怪我を治す権利もあれば、それを受け入れる権利もある。
つまり、掛かりたい医者を選ぶ権利だって当然ある。私が治す患者は、私を求めた者だけだ、ランサー」

「Dr.メフィスト。その言い方では私には、貴方が患者に依存している医者である、と宣言している様にしか聞こえませんよ」

「かも知れないな。自分でも、時折自覚する」

 悪びれもなく、メフィストは口にした。翳のある姿だった。
人が来ない、時間の都合上陽もやや当たらない場所で佇むメフィストの姿は、神韻縹渺とした墨絵を連想させる美があった。

「もしも、私が聖杯を手に入れ、『この世から病と言う病を失くす』、と願うとしたら、貴方はどうするおつもりでしょうか?」

 心を強く持ちつつ、ファウストは、メフィストに訊ねた。嘗てない程、彼の心は強固だった。無理もない、この男の美は、真正面から臨むには危険過ぎる。
こうでもして、己の心を鋼でコーティングしないと、美に呑み込まれると判断したのだ。そして、こんな問いを投げ掛けたのには、意味がある。
これに対して、憤るか、それとも受け入れるかで、今後のメフィストとの付き合いを判断する、と言う事だ。果たして――

「前提からなってない」

 悪魔の名を冠する医師は、駄目押し以て返した。

「君は、いや、曲りなりにも医者であるならば、確実にそんな願いを託せない。況してや君の様な聡明で、腕の立つ医者ならば、な」

「……何故、でしょうか?」

「医者は、病の存在があってこそ初めて成り立つ人種の事を指す。人は、芽吹いた悪意の芽は刈り取れても、その種子までは焼き払えない。
その芽を刈り取る事で潤い、自己を保てる存在がいるからだ。医者から世界に蔓延する病を取り上げると言う事はつまり、己のレゾンデートルの喪失に等しい」

「全ての医者が、そうであると思うのは傲慢です。病の根絶に尽くす者もいれば、利潤を求める為に癒す者もいる。全てが全て、貴方の言った通りの者だけとは限りませんよ」

「無論その通りだ。だが、君はそのどちらでもないのだろう、ランサー」

「……と、言いますと?」

 ふぅ、と息を吐いてから、メフィストが言った。

「――多くの医師を見て来たが、君の様なタイプは初めて見るかもしれんな。過去への後悔から、医者を続けている者は」

「……!!」

 一際強く、ファウストの瞳が光った気がした。メフィストの目は対照的に、冷たかった。冬至の日の太陽の様に。熱放射機能が死に掛けている、老いたる太陽のように。

「何があったのかは解らないが、過去に誇りを持てぬ医師と言うものには患者も敏感だ。それはつまり、医師への不信感を招きかねない。次に会う時には、それを改めたまえ」

 バサッ、とケープをはためかせ、メフィストが歩き去って行く。
その最中に彼は言った。「君とはもう少し話していたかったが、院内の用事を片付けてからだ。人払いは解除しておきたまえ」、と。
白い魔人は、ファウストの視界から消え去り、霊体化したファウストですらが未だに全貌を把握できていない、メフィスト病院の何処かへと去って行く。
遺されたファウストは、痛い所を突かれた衝撃から立ち直り、ふぅ、と息を吐いた。永久凍土の中に転がる巨大な氷塊の様な冷たさと重苦しさを宿した美との対峙から、解放された、と言う事実も其処にはあった。

「……恐ろしい方だ」

 自分とは全く違う、医道に対する心構えを持つ男。ファウストの中で、メフィストに対する新しい認識が生まれた。
好ましいタイプの医者ではない。寧ろある意味では、利益や利潤を求める為だけに医術の腕を振う医者の方が、まだ良心的とすら言えるかも知れない。
だが、ファウストは感じていた。あの男の心の中で燃えている、断固たるプロフェッショナリズムを。自分を求めて来た患者だけは救うと言う、鉄の意思を。

 ――ああ、しかし。それにしても。

「過去への後悔から、ですか」

 見透かされているとは思わなかった。あの時一瞬だが、ファウストの脳裏を過ったのだ。
急激な勢いで平らになって行く心電図。止まらない血液。慌ただしく騒ぐ医師や患者達。混乱する、自分。
自分の道を狂わせた、あの時の手術の事を。無辜の少女を殺してしまった、忌まわしい記憶を。
ファウストはその日から狂い、世界を震撼させる殺人鬼となり、ある一件で正気を取戻し。可能な限り、人を救うべく活動する医者として活動するようになった。
それは罪滅ぼしである。それは贖罪である。自分が犯した許されざる罪に対する罰である。英霊となった今でも、そう言った奉仕の心は忘れていない。だが。

「私もまた、患者と病に依存する、か弱い医者なのでしょうかねぇ」

 ファウストと呼ばれる男の行う、病を癒し怪我を治すと言う奉仕活動は結局の所、病や諍いがあって初めて成り立つ贖罪なのである。
この世からこれらを根絶すると言う事は、ファウストの罪滅ぼしを行う為の基点がなくなると言う事に等しい。
何て事はない、メフィストの事を言えないのだ。彼もまた、病と患者に依拠する、弱くて儚い医者だったのである。

 ファウストの中で、メフィストの言葉は銅板に文字を刻むが如く、強く残った。
もしかしたら、ゲーテの戯曲の中で、メフィストに誘惑されたファウストもまた、こんな心境であったのかも知れない。

「……例え私が病に依存する医者だとしても、私の在り方を曲げるつもりはありませんよ。Dr.メフィスト」

 そう一人口にしてから、ファウストは廊下に張り巡らせていた人払いの法術を解除した後、直ちに霊体化を行った。
後には、早朝八時半の、<新宿>の朝の明るさだけが、廊下に残るだけだった。






【四ツ谷、信濃町方面(メフィスト病院)/1日目 午前八時半】

【アイギス@PERSONA3】
[状態]健康
[令呪]残り三画
[契約者の鍵]有
[装備]自らに備わる銃器やスラスターなどの兵装、制服
[道具]体内に埋め込まれたパピヨンハート
[所持金]学生相応のそれ
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯を手に入れる
1.マスターはなるべくなら殺したくない
2.サーヴァントだけを何とか狙いたい
[備考]
  • メフィスト病院に赴き、その帰りです
  • メフィストが中立の医者である事を知りました
  • ルイ・サイファーがただ者ではない事を知らされました




【サーチャー(秋せつら)@魔界都市ブルースシリーズ】
[状態]健康、霊体化
[装備]黒いロングコート
[道具]チタン製の妖糸
[所持金]マスターに依存
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯の探索
1.サーヴァントのみを狙う
2.ダメージを負ったらメフィストを利用してやるか
[備考]
  • メフィスト病院に赴き、メフィストと話しました
  • 彼がこの世界でも、中立の医者の立場を貫く事を知りました
  • ルイ・サイファーの正体に薄々ながら気付き始めています
  • 不律、ランサー(ファウスト)の主従の存在に気づいているかどうかはお任せ致します




【ルイ・サイファー@真・女神転生シリーズ】
[状態]健康
[令呪]残り三画
[契約者の鍵]有
[装備]ブラックスーツ
[道具]無
[所持金]小金持ちではある
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯はいらない
1.聖杯戦争を楽しむ
2.????????
[備考]
  • 院長室から出る事はありません
  • 曰く、力の大部分を封印している状態らしいです
  • ??????????????




【キャスター(メフィスト)@魔界都市ブルースシリーズ】
[状態]健康、実体化
[装備]白いケープ
[道具]種々様々
[所持金]宝石や黄金を生み出せるので∞に等しい
[思考・状況]
基本行動方針:患者の治療
1.求めて来た患者を治す
2.邪魔者には死を
[備考]
  • この世界でも、患者は治すと言う決意を表明しました。それについては、一切嘘偽りはありません
  • ランサーと、そのマスターの不律については認識しているようです




【ランサー(ファウスト)@GUILTY GEARシリーズ】
[状態]健康、実体化
[装備]丸刈太
[道具]スキル・何が出るかな?次第
[所持金]マスターの不律に依存
[思考・状況]
基本行動方針:多くの命を救う
1.無益な殺生は余りしたくない
2.可能ならば、不律には人を殺して欲しくない
[備考]
  • キャスター(メフィスト)と会話を交わし、自分とは違う人種である事を強く認識しました
  • 過去を見透かされ、やや動揺しています



時系列順


投下順



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00:全ての人の魂の夜想曲 アイギス 31:機の律動
サーチャー(秋せつら)
00:全ての人の魂の夜想曲 ルイ・サイファー 24:絡み合うアスクレピオス
キャスター(メフィスト)
00:全ての人の魂の夜想曲 ランサー(ファウスト) 24:絡み合うアスクレピオス