つくづく、人間と言う奴は逞しいものだと結城は思う
<新宿>で起った奇妙で、そして凶悪な、様々な事件をよもや知らない訳ではあるまい。今日だけでも、<新宿>内では恐るべき事件が幾つも起った。
バーサーカーと思しきサーヴァントによる<新宿>二丁目での大立ち回り、クリストファー・ヴァルゼライドと言うサーヴァントが起こした、気狂いの類としか思えぬ程の環境破壊など。これだけの大事件が一日の間に立て続けに起こったら、普通はライブコンサートどころではないだろう。
しかしそれでも、人の社会と金の流れと言うものは止まる事がない。これだけの事件が起こってもなお、美城常務や、彼女の所属する346プロダクションは、コンサートを中止する気はゼロであると言うのだ。
屋外コンサートである為に、雨天か台風、また或いは災害が起こってコンサート会場自体が破壊されない限りは、
コンサートは恙なく行う、と言うのだ。最早此処までくれば、執念の領域である。そして、そんなイベントに並ぶ観客も観客だ。
<新宿>で起っている事件について知らない訳ではあるまい。それを承知で来ると言うのだから、結城にはてんでその心境が理解出来ない。

 結城美知夫は、346プロダクション主導のライブコンサートの会場、即ち、霞ヶ丘の新国立競技場の内部にいた。
屋外、つまり競技場の入り口を始点とした、346プロのこのイベントに入る為の列は、正に長蛇のそれと言っても過言じゃない程であり、この日の為に集めに集めたイベントスタッフが人を上手く効率よく並ばせ、競技場内部担当のスタッフがライブに来た客を手早く指定の席に案内しても。
列が途絶える事はない。それどころか次々と人が集まってくる。イベントを計画した側としては嬉しい悲鳴を上げたい所だろうが、現場の方が上げる悲鳴は、過労で倒れそうなそれであるのは、やはりこの手のイベントの宿命か。
尤も、結城は今回のイベントの特別出資者――つまりは、VIPに等しい存在である。当然、通常の参加者に比べて待遇が優遇される。
一般の列に並ばせるなど以ての外、優待者専用の出入り口から内部を通され、ステージの最前列或いは、最前列以外のアイドルの姿がよく見える特等席へと案内されるのだ。
尤も結城は、それ程までにアイドルのイベントに欠片も興味がない。双眼鏡でも借りて、遠目から眺めているだけでも十分なのだが。

「人が集まって良かったですね、美城様」

 と、結城が、さも他人事のような風に、そう口にする。

「全くです。今日の<新宿>で起った事件の数々を見て、胃が痛くなる思いでしたが……さしあたって、観客の動員は上手くいったようで何より」

 美城が相槌を打って来る。二名は、新国立競技場のボックス席から、今回のコンサートにやって来た観客の多くを見下ろしていた。
結城程の優待客を招待する席は、桟敷席の延長線上にあるようなそれではない。VIPの座るボックス席は、冷暖房完備の完全個室である。
一室の広さは十五帖、お高いマンションのリビング並の大きさである。壁にはスクリーンモニターが設置されており、多角度からアイドルのコンサート模様を、酒やつまみを嗜みながら楽しむ事が可能である。無論、スクリーンだけでなく生でその様子を拝む事だって可能だ。
ボックス席はメインステージ部分を上手く見れるよう角度を計算され尽くされており、視力の問題を除けば、確実に舞台の様子を観察する事が出来るのだ。
この席は、通常は金では買えない。金に加えて、主催へのコネが必要となるのだ。

 そんな席から見る観客席の方は、盛況と言う言葉ですら尚足りぬ程の盛況ぶりだ。
見渡す限り人、人、人。角砂糖に群がる蟻か何かのように、万にも届かんとする人間が集まって行く様子は圧巻である。
元々この新国立競技場は、競技場と言う名前からも解る通り、元々は陸上競技を筆頭とした様々なスポーツを行う為の場所である。
つまりは、フィールドと呼ばれる場所が存在し、そのフィールドの北側付近に、仰々しいメインステージが設営されている。其処を取り囲むように、観客が続々と集まって行くのだ。

 この新国立競技場の収容人数は、最大九万人にまでなったと結城は聞いている。その大台に届くのではないかと言う程の人数が、この中に集いつつある。
今にも満員御礼の垂れ幕が垂れ下がりそうな程の様子を見れば最高責任者である美城は元より、このプロジェクトに出資した結城も鼻高々であろう。
しかし結城は、表面上はにこやかな笑みを浮かべながら、この様子を眺めてはいたが、内心では酷くつまらなそうな感情を渦巻かせていた。
この場から美城が消え失せてしまえば、忽ち結城は酒の一杯でも呷り、やってられなさそうな態度を隠しもしないだろう。

 仕事の一環とは言え、これ程面倒な事もない。
こう言った、融資先のイベントに顔を出すと言うのは、行員ならば誰もが経験する事である。結城は元より、彼より何ランクも仕事の出来ない者だって経験する。
仕事上の義理で、こう言う興行に足を運ぶのは、結城でも面倒な事柄だが、今回は特に気乗りがしない最悪の部類だ。
何が面白くて、年端のいかない小娘が歌って踊るのを見なくてはいけないのだ。結城は、そう言ったものには全く関心を示さない。
芸術とは即ち、命の刻限に余裕のある者だけが楽しむ事の出来る、一時の清涼剤のような物である。言ってしまえば、何時死ぬのか解らない人間だからこそ楽しめるのだ。
自分の命が最早一月、事によっては二週間とない結城が、今更芸術や芸能の類を心の底から楽しめる訳がなかった。
生前からして、結城の芸術・芸能に対するスタンスはこれに終始するが、元の世界でのMWを巡る一件以降は、特にそのスタンスは強まりを見せている。
そんな中で、このイベントである。吐き気を催したくもなると言うものだった。

 此処から何時間も、年端もいかない小娘のつまらないキャピキャピした歌や踊りを見せられるのかと思うと、苦しくて仕方がない。
警察から何十時間もぶっ通しで取り調べを行われるよりもずっと苦痛の時間が続くのだ、内心気が滅入って仕方がない。
……と言うより、歌うのが十代のアイドルとかならばいざ知らず、いい歳した二十歳以上の女が、よりにもよってアイドル面して歌ったり踊ったりするプログラムも、確か今回のイベントではあった筈だ。MWの発作がないのに頭が痛くなってくる、人生の何処をどう歩み間違えれば、二十歳超えてアイドル面が出来ると言うのか。

 ――フレデリカって女のライブだけ見て何とか帰れないものかな……――

 そう思いながら結城は、予め手渡されていた当日の興行プログラムの予定表を眺め始める。
彼女が一番早く登場するタイミングは、どう甘めに計算してもステージ開始から三十分経過してからなのを見て、結城はより一層頭を痛めるのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 やっと此処まで来れたよ、と、順平も栄光も思ったに違いない。と言うか、実際問題思っている。
栄光が順平と合流し、コンサート会場であるところの霞ヶ丘の新国立競技場に入る為の列の最後尾に並んでから、一時間以上は優に経過していた。
この炎天下に、一時間行列に待たされるのだ。これ程の地獄があろうか。栄光の方もこれは相当堪えるらしく、三十分が経過した頃には、予め購入させておいた、550mlのミネラル麦茶を一本丸々空けていた。それと全く同じタイミングで順平も、炭酸飲料を一本空けていた。水分を補給していなければやってられない暑さである。
そんな暑さでもなお、ライブコンサートを見ようと、灼熱の炎天下の中列に並ぶ人間がこれ程いると言うのだから、驚きと言う他がなかった。
346プロダクションが事前にどれだけ広告を打ち、そしてイベントに出演するアイドルにどれだけのファンがいるのか、と言う事を知らしめさせる証左である。

「……こいつらは、アレだよな。順平。<新宿>で起った事件を承知の上で、アイドルのイベントの為に並んでるんだよな」

「そうとしか言いようがないっしょ、今じゃ誰でもスマホの一つや二つって時代だぜ? ニュースアプリやSNS、ネットに繋げばすぐ解る事だろ」

「そうか、そうだよなぁ……何つーか、逞しいと言うか何て言うか……」

 聖杯戦争の関係者でなくとも、今の<新宿>が危険な街になりつつある、と言う事は、NPC達でも理解し始めている頃合いであろう。
現に、<新宿>二丁目でもサーヴァントが大暴れをしていたし、後から知った事だが、クリストファー・ヴァルゼライドと言うバーサーカーが、放射線を撒き散らす宝具で、地形が変わるレベルの大暴れを行ったと言うではないか。こんなの、普通は最早コンサートどころじゃないだろう。
現在進行形で、<新宿>二丁目事件が原因による交通規制に巻き込まれているコンサート客もいるだろうし、最悪死んでいる客もいるかも知れない。
しかしそれでも、主催者達はコンサートイベントを敢行するのだ。そして、そのイベントにこうまで人が集まるのだ。
人間の社会と、其処に生きる人間の力強さや図太さ、と言うのは、NPCであっても変わらないらしい。恐れ入る、としか言いようがない。

 こう言った一大イベントが起こると、何処からともなくやってくる、ある者達が存在する。
テキ屋、と呼ばれる露店や屋台の類である。歩道のみならず、新国立競技場の敷地内にも、それらが店を出し、商売に精を出しているではないか。
焼きそば、たこ焼き、りんご飴。綿あめ、焼き鳥、大判焼きにかき氷などの食べ物から、射幸心を煽る、本当に当たりが入っているのか如何かが疑わしいくじ引きに、糊やテープで固定して当たりの品を落ちないようにしている射的等々。出店する屋台の内容は様々だ。
こう言ったテキ屋の中には、ヤクザ絡みの人間が経済活動の結果手に入る金銭、即ち『シノギ』を稼ぐ為にやっている事も、間々ある。
実際に、明らかに普通の筋ではなさそうな人物が、焼きそばを焼いていたりたこ焼きを回していたりしているのを、栄光は一時間の待ち時間で見て来た。
こいつらもこいつらで、<新宿>が滅茶苦茶になりつつあるのに、よくも知らぬ存ぜぬの顔で商売が出来るものだと感心してしまう。
恐らくは、<新宿>の全てが明日にでも廃墟になっても、この人種は生きのびて、自分達が仕切ろう仕切ろうと前に出て来るに違いない。褒めこそはしないが、この商魂の逞しさは、賞賛に値すると言えよう。

「どうした、屋台なんて見てよ。焼きそばでも食いたいのか? えいこー」

「奢ってくれるんだったら喜んで食べてやっても良いぜ?」

「今金欠気味だしちょっとナシで……」

「冗談だよ。……いや、何、今もウンザリする位実感してるだろうが、この人の数だ。凄まじい以外の何物でもないだろ?」

 栄光に言われるまでもない事だった。後ろを振り替えて見れば、まるで長絨毯のように何処までも続いている人の列。
そして前を見ても、それは同じ。漸く敷地内に入れるか如何かと言う位置に順平達はいるが、その近くに、看板を持ったコンサートスタッフの女性が、その看板を此方に向けているのが解る。受付まで残り二百m、それが看板に書いてあった内容だ。冗談だろ、と二人は思ったに違いないだろう。と言うより実際思っていた。

「まぁ、人の多さは今更感はあるな」

【其処でお前に一つ質問する。この新国立競技場、確か最大収容人数は余裕で五万を余裕で超え、六万飛んで九万人を超すらしいじゃないか。これだけの場所に、サーヴァントが襲撃を掛けに来ると思うか?】

 このタイミングで突然、栄光が念話による会話を行ってきた為、順平も慌てて、念話で言葉を返す。

【……ちぃと考え難いんじゃないかと思う】

【どうしてよ】

【仮に、この競技場に九万人……それよりも大幅に低く見積もって、五万人此処にやって来ると仮定するだろ?】

【おう】

【五万人ってお前、簡単に言うけどそりゃもう凄い人数だ。少なくとも、あの競技場に五万人もいたら、人だらけだろうよ】

【まぁそうだ、万人の大台ってのは相当なもんだからな】

【んで、俺達は契約者の鍵の通達で、少なくとも『百人超えるNPCを殺したら、討伐の対象になる』事が解ってる】

 契約者の鍵を見ればそれは明らかだ。明らかなイレギュラーであるクリストファー・ヴァルゼライドの事例は例外として、
セリューと凛の主従は、どちらも百人を超えるNPCを殺した事が発覚した為に主催者直々に指定した賞金首になっているのだから。

【五万人って言ったらよ、一割で五千人、一分で五百人だぜ? つまり、あの会場の中に集まった総人数のたった1%殺すだけで、もう討伐令の対象になるんだ。総人数の1%だぜ? 万人超す人間がいる中で、実際一人も被害を出させずに敵サーヴァントだけを殺す何て、アサシンクラスでもなければ土台無理な話だろ。それに、たとえアサシンクラスでも、暗殺者のサーヴァントが態々これだけ人がいる所に打って出るってのもちょっと考え難い。……まぁ要するに、此処でドンパチをおっぱじめる事のリスクを考えたら、襲撃なんか考えられないんじゃないか、って俺は思う訳】

【なるほどな~……。ちょっと馬鹿そうに見えて、意外と計算が出来るんだな】

【お、お前ねぇ……俺だってやる時はやるタイプよ? 一夜漬けでこの伊織順平様の右に出る者はいないんだから】

【はは、悪い悪い。想像以上に良い見地から物見てるなって思ってよ。確かにお前の言う通り、そう言うリスクを計算して、襲撃を仕掛けて来ないサーヴァントの方が殆どだ】

【だろ?】

【但し――】

 其処で、栄光は言葉を区切った。

【ごく稀だが、こういう時に限って襲撃を仕掛けてくる奴、って言うのが存在するんだ。サーヴァントやマスターってのも様々だからな、こいつらも計算に入れる必要がある】

【それは?】

【単刀直入に言っちまえば、『目立ちたがり屋』だ】

【何だそれ、目立ちたい為に危険を冒す奴がいるってのか?】

【確実にいる。んで、そう言う奴は二つのパターンに別れる。一つが、純粋にただ目立ちたい、自己顕示欲って奴を満たしたいだけの奴。これは問題じゃない。もう一つの方が厄介なんだ】

【それは?】

【『目立つと言う事が戦略上優位に働くスキルや宝具を持ってる奴』のケースだ】

 栄光の言葉に、順平は考え込んだ。目立つ事が、有利に働くとはどう言う事だろう。そう考えたのである。

【説明する。例えばさ、その五万人がいる会場に、サーヴァントが現れて人を殺すわ喰らうわの大立ち回りをしたとする。そんな奴に対して、NPCが抱く感情は何だと思う?】

【そりゃ、ビビるだろ。言い換えれば、恐怖って奴? 俺だってそんな奴が現れたら、先ずそんな気持ちになるぜ?】

【大体、何人程度の奴がビビると思う】

【……状況にもよるけど、その五万人のNPCから良く見える位置から、そんな大立ち回りをやって見せたとして……二万人以上は普通に恐怖するだろ】

【其処がポイントだ。『皆が一様に同じような感情を抱く』って所が、この場合のミソになる】

 栄光は其処から、説明を続けて行く。

【俄かに信じ難い所だろうけどよ。世の中にはな、人の特定の想念が集まれば集まる程強くなる奴ってのがいる訳よ。今話した例じゃ、恐怖だな。つまり、多くのNPCが自分に対して恐怖を抱けば抱く程、強くなる奴ってのがいるんだよ。無論、恐怖以外の時だってあり得る。そいつに対して希望を抱いたり、勇気付けられたりでも何でも良いんだ。兎に角、『多くのNPCがそのサーヴァントに対して抱いたある感情が、そいつの強化に繋がる』、って事があるかも知れないんだ。其処を注意しておいた方が良いかも知れない】

【でもよ、そう言うサーヴァントが、聖杯戦争に招かれてるとは……】

【そうだな、確かに限らない。だが、そう言う存在は間違いなくいるんだ。いるからこそ、警戒する必要がある】

 栄光がそう言った存在を何故事前に知っていて、それでいて此処まで警戒しているのか。それには訳がある。
それは、ある思いを抱いた人間の数が多ければ多い程己の強化に繋がる存在が、嘗て栄光の仲間だった事があり、そして敵であった事があるからだ。
それこそが、盧生・柊四四八、盧生・甘粕正彦だ。二人は共に、自分の姿或いは脅威に対して勇気を抱いた者が多ければ多い程、天井知らずに強さが上昇して行く、極めて特殊な技を持っていた。勇気を抱く者が多ければ多い程、強さが上がって行く。それは言葉にしたら、とても地味なものになるだろう。
しかし四四八と甘粕はその地味な技が極まった末に、ただの刀の一振りで市街地を吹き飛ばしたり、山脈を破壊したり、海を割ったりと言う、神話の中でしかあり得ぬ出来事を平然と行って見せたのだ。そんな存在を見て来た為か、栄光は、人の想念を集めると言う事の強さと厄介さを知悉している。
これが味方で、しかも眩しい程に性善な性格をしているのならばとても頼りになるのだが、その逆だった場合、これ程危険な存在はない。
順平の言った通りそんな力を奮える存在が、今回の聖杯戦争に招かれているとは限らないが、そう言う存在を意識しておくに越した事はないのである。

【他ならぬお前の忠告だからさ、俺っちも意識はするが……そんな奴を相手にどうやって対策するんだ? と言うか――】

 其処で、順平は言い淀む様子を見せ、数秒程経過した後に、彼は言葉を紡いだ。

【栄光。お前、メフィスト病院での事は大丈夫なのか?】

 順平の心配事はそれだった。UVM社に潜入しようとするも、結局時間的な都合が会わずに其処を後にし、その最中にメフィスト病院に寄っていた。
その事を順平は知っているが、その際に栄光が、メフィスト病院の主であるキャスターのサーヴァント、メフィストと遭遇。
其処で、不可解な治療をされたと言うではないか。治療の内容は、自分の記憶に関するものであるらしく、その施術をされてから、たまに、覚えのない記憶を思い出す――捏造する?――と言うのだ。その記憶は、生前の仲間だった伊藤野枝との言う女性とのものらしい。
これが栄光に言わせれば、覚えも何もないのだと言う。昔の仲間とのやり取りはそれこそ栄光は何から何まで覚えているつもりだったが、この野枝と呼ばれる女性とのやりとりは、全然覚えていないと言うのだ。だから、メフィストは偽物の記憶を挟み込んだ、と主張して憚らない。
つまり、メフィストは自分があの病院に赴くよう敢えて今の状態を仕向けさせた、と思っているのである。メフィスト病院に足を運ぶ事と引き換えに、今の状態を解除して貰う。大方こんな交換条件なのだろう。

【……確かに心配事ではあるが、現状本当に、覚えのない記憶がフラッシュバックするだけだしな。まぁ、それが本当に俺の記憶なのかってのも疑わしいんだけどよ……】

 額を手で抑え、栄光が考え込む。

【取り敢えずは、今は俺の解法で抑え込む必要もないかな。その記憶が思い起こされるのは、限定的な状況だけみたいだし、まぁ救いは其処だ。それに、何だかんだ言って、良い土産も貰えたしな】

【あの、魔力が籠った宝石の事か】

 それは、順平の学生鞄の中に仕舞われている、メフィストから貰った、スピネルと言う宝石だ。
ただの宝石ではない。栄光が数度に分けて全力で戦っても問題がない程の魔力を内包した、と言う枕詞が付く。
これをメフィストは、治療をさせてくれた報酬として気前よくポンと渡してくれたのである。しかも栄光が解析して見るに、此方に不都合な罠がないのだ。
思わぬ儲け物を貰えてラッキーだと順平も栄光も思ったが、直に考えを改める。逆に言えばメフィストは、この程度の代物を簡単に産み出せ、そして気前よく与える事が出来る程、潤沢な魔力のプールと途方もない技術があると言う事の証左なのだから。これとも場合によっては敵対せねばならないのかと思うと、ゾっとする。

【何にせよ、このイベントが終わり次第だな。俺も正直、こんだけ人がいるのに襲ってくるような奴がいるとは思えないが……平穏無事に終わるならそれで良し、サーヴァントと接触出来るのならば、それに越した事もなし。取り敢えずは、ライブを楽しむ事に専念しようぜ、順平】

【おう】

 言って順平と栄光は念話を打ち切った頃には、二人は既に国立競技場の敷地の中に入っていた。みると屋台はその敷地の中でも商売を行っているらしい。
超包子と言う字が大きく車体に書かれた、肉まん等の点心類を売っている改造ワゴンの店を見て、少しだけ、順平は腹を空かしたのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 オガサワラは単刀直入に言って相当参っていた。
社長であるダガー・モールスの、かぐや姫の無理難題どころか、理論上奇跡が起こっても不可能な仕事を負わされてしまっているのだから。
しかも、ただ不可能に終わるのならばまだしも、今のタスクが失敗に終わると、次の人事異動の時にとんでもない役職になるか、僻地に飛ばされる事が確定している。
転勤など、日本国内であればまだ良い方で、最悪は外国だ。オガサワラは外国語を一つも喋れないのである。そんな彼を外国に飛ばすような人事は……されないとも限らない。何せあのダガーであるから。

 オガサワラがダガーから命じられた仕事は、此処新国立競技場で本日行う、346プロのライブコンサート。
其処に、ダガー肝入りのアイドルである那珂を、ねじ込んで歌わせると言うものである。もう一度言うが、コンサートは今日この日から開催されるのである。
本日、しかも開催まで後三十分を切っているライブコンサートに、那珂を飛び入り出演させ歌わせろと言うのだ。
理論上奇跡が起きればと先程言ったが、奇跡は起こりうる可能性がどんなに低くても、0ではない時にしか起きない現象だ。元からゼロでは起きようがない。
今回はまさにそのゼロだ。今から346プロの上層部と交渉を行うにもそんな余地はないし、そもそも出演アイドルと何の打ち合わせもしてないのに今から那珂をねじ込み、歌って踊らせるにも、何のリハーサルもなしでは失敗確率は120%も良い所だ。とどのつまり、オガサワラは完全にチェックメイトの状態だ。

「あああああぁぁぁぁぁ……!! どうする、どうする!?」

 グルグルと、那珂と一緒にコンサート会場であるところの新国立競技場の周りを回りながら苦悶するオガサワラ。
考えるまでもなく不可能な仕事を任されたオガサワラだが、現地に来ればその不可能の度合いがどれ程のものかまざまざと思い知らされた。
先ずオガサワラは、コンサート会場に入る為のチケットを持っていないのだ。これは当たり前の話で、346プロのライブ客に混じって視察する社員をUVMは送っているが、その視察の仕事はオガサワラのそれではない。よって、彼にはチケットが予め配られていないのである。
当然チケットがない為、そもそもの問題として新国立競技場の中に入る事すら出来ない。この時点で相当な物であるが、もっと厄介な点が一つ。
仮に正規の手段がダメでも、結局UVM社も346プロも同じ業界である。元々芸能界と言う世界は既得権益がとても強い業界であり、
昔から存在する強豪会社同士は繋がりが強いが、新規参入したての若い会社には厳しく当たると言う傾向が強い。346プロもUVMも、歴史は同じ程度。
会社自体のパワーはUVMの方が頭一つ抜いているが、346プロは国内上位のプロダクションである。
つまりは、同じ業界同士の『なあなあ』を利用し、裏から新国立競技場にオガサワラは入ろうとしたのだが、これも通用しなかった。
そもそも今回の346プロのイベントの目的は、UVMの牙城を崩す為の物である事は、優れた業界人ならば誰もが知っている所であった。
346プロは今回のイベントで、UVM社を完全に追い越す事を目標にしているのだ。当然、それを御題目に掲げている346プロが、よりにもよってUVMの手先であるオガサワラを優待する訳がない。裏口から交渉をしようとオガサワラも動いたが、門前払いされた。

 那珂をねじ込まねばならない、しかしその最低条件である競技場の内部に入る事すらオガサワラには出来ない。 
実に気持ちの良い位の、詰みっぷりだった。教科書に載せても良い程の八方塞ぶりに、オガサワラは叫びたくなってしまう。どうすりゃいいんだ、と。

「いっその事侵入とかどう? オガサワラさん」

 と言う声に反応し、オガサワラは背後を振り向く。
其処には、明るいオレンジ色の制服に身を包んだ、己の担当アイドルである那珂がミネラルウォーターを飲んでいた。
「アイドルは喉が命だから冷たい飲み物はなるべく飲まないんだよ」、を有言実行しているらしい。ペットボトルには水滴が付着していない。完璧な温い真水である。

「侵入、って言いますと?」

「普通の手段じゃ入れないんだったら、そうするしかないでしょ。何処かから忍び込んで、コンサート開始まで待機。んで、丁度いいタイミングで飛び出す!! 良い作戦でしょ?」

「し、侵入って言いましても……当然346プロはコンサートスタッフや、この日の為に雇った警備会社の社員に見回りをさせてる訳で……忍び込むなんて不可能ですよ」

「そう、普通の手段だったら無理。だけどね、誰にも見つからない潜入だけが潜入じゃないよ」

「と、申されますと……?」

「真正面から侵入するんだよ、オガサワラさん」

「は、はい……?」

 那珂の言っている事が今一良く解らなかったので、首を傾げるオガサワラ。
「耳貸して」、と那珂は静かに口にし、彼に対して秘密の作戦を耳打ちする。最初の方は半信半疑だったオガサワラであるが、その作戦内容を那珂から聞かされる内に、次第に真面目そうな表情になって行き、そして――。

「……それしかないかも知れませんね」

 決して、雲一つないこの快晴の真夏日和に頭をやられた訳ではない。
本当に、それしか方策がなさそうだったから、オガサワラはそう口にしたのである。どの道このまま手薬煉引いていただけでは、事態は何も進展しない。
それ所か自分のUVMの社員生活の危機でもあるのだ。那珂の提供した作戦に、全てを賭けるしかなかった。

 オガサワラは、那珂が予め目星を付けていた、『契約している警備会社の社員の詰所』に通じているであろう、国立競技場の裏口方面へと向かって行く。
そして彼は躊躇なくそのドアを開ける。其処はまさに、雑務雑居と言う概念そのもののような、典型的な休憩室であった。
壁際に積まれた何かの段ボール、隅に設けられた喫煙スペース、そしてスタミナドリンクが普通にラインナップに存在する自動販売機に、カップヌードルの自販機。
正に此処は、肉体労働を主とする人間の休憩所に相応しい場所であった。

「な――」

「遅れて申し訳ございません!!」

 年配の社員が此方の氏素性を訊ねる前に、先手必勝と言わんばかりにオガサワラが、元気の良い声で頭を下げた。 

「本来ならば346プロの社員の方を通すべきだったのでしょうが、時間が余りにも押しておりますので、此処から失礼させて頂きます。私こう言う者です!!」

 と言ってオガサワラは、懐からUVMの社員証を取りだし、この詰所で一番歳の行った、所謂リーダー格と思しき人物にそれを手渡した。
訝しげにそれを眺めるのは、此方に氏素性を訊ねようとした、やや白髪の混じった四十代後半の警備員の男性である。
最初は得体の知れない人物に思ったらしいが、流石世界全土の音楽レーベルを見渡しても最大手のUVMの社員証だ。どんな免許証よりもずっとパワーのある身分証明書であった。

「ゆ、UVM社の……? 上からは、今回は346プロが単独で主催するイベントだと聞いておりましたから、そちらは関係ないのでは?」

 流石にその程度の情報は行き届いているらしい。
実際今警備員が口にした情報は一点の間違いもない完璧な真実であり、UVM社が今回のイベントに何らかの形で関わっているなど、ありえない事柄なのだ。

「……これはここだけの話ですが、実はUVM社は最後の最後で秘密のコラボレーションをする予定だったのですよ」

「えぇ!? でも、そんな話は……」

「されないのが当たり前なんです。秘密のサプライズイベントですから。346プロやUVM社では勿論、各方面にも戒厳令を敷いておりました。知らなくて当然なのです」

「さ、左様ですか……」

 ただただ、オガサワラの話した内容のスケールに、この場にいる警備員達は驚いたような表情を見せる。

「如何しても外せない仕事が此方の方でありまして、それを片付けていたら、此処まで時間が経ってしまったのです。これから急いで、346プロの方々と最後の打ち合わせをする予定です。ですので申し訳御座いません、此方から通させて頂けませんか!!」

 オガサワラの力強い語調に、警備員も気圧された。本当に時間がないのだ、と言う事が伝わってくるのである。

「そ、それは勿論構いませんが……此方で案内いたしましょうか?」

「いえ、それは結構です!! 道順の方は知っておりますので。それでは、失礼いたしました!! 行きましょう、那珂さん!!」

「はーい!!」

 そう言ってオガサワラと那珂は、急いで詰所から通路の方へと出、ふぅ、と一息吐く。
そして、那珂はオガサワラの顔を覗き込みながら、口を開いた。

「作戦成功だね、オガサワラさん」

「そうみたいですね……」

 深呼吸をしながらオガサワラが返事をする。
警備員と話している時は、ままよ、と言った感じで、半ば自暴自棄気味に振る舞った。演技を行う必要性もなくなった今、ドッと疲れが押し寄せてくる。
何から何まで全部嘘八百で塗り固めていたと言うのに、よくもまぁ淀みも緊張もなく、あそこまで出まかせをベラベラと口に出来たものだと、自分で自分を褒めたくなる。

 那珂の告げた作戦とは、こうである。
346プロの社員に通しても、内部に入れる可能性はゼロである。ならば、何も知らないコンサートスタッフや警備員を通して中に入るのが一番良いだろう、と。
この際鍵になるのが、UVM社の社員証である。先ずこれを見せて、然も自分が今回のイベントの関係者である事をアピールするのである。
だが流石に向こうも、今回が346プロ単独主導のイベントである事位は知っているであろう為、それは表向きの情報であり、実際には一つサプライズがあるのだ、と。
嘘を吐くのである。向こうも、芸能界ならばその程度のサプライズの一つや二つ、用意しているだろうと思い込む。
後は、最後の打ち合わせがあるから急いで346プロの人間の所に行かなくてはならない風を演出し、詰所から退室。
こう言う風にして、新国立競技場に入れば良いだろうと、那珂は考えたのである。社員を通すのではなく、業界の事情に疎い警備会社やアルバイトのコンサートスタッフを通じて、内部へと侵入する。正に、真正面からの侵入である。作戦は見ての通り、成功を修めた。

「……それにしても、那珂さん?」

「うん?」

「よく、こんな作戦を考え付けましたね。失礼に聞こえるかも知れませんが……頭の回転が凄く良くて、俺もビックリしましたよ」

 ドキッ、と言う効果音が聞こえそうな程、露骨に那珂が反応した。表情が、少し硬い。何か突いたら困る、痛い所を突かれたような反応であった。

「む、昔っからそう言うスパイ映画とか、好きなの!! そう!!」

 ははぁ、とオガサワラも思った。女性なのにそう言う映画が好きな事が恥かしいのか、と彼は考えた。
とは言えそれも、アイドルとして立派なアピールポイントの一つである。今後はこう言った側面も押し出して、スパイルックの服装で踊らせるのも、アリかも知れない。
取り敢えずステージが始まるまで、身を隠せそうな所を探そうと、移動を始めながら、オガサワラはそんな事を思うのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 昼食を軽く口にしてから、雪村あかりが新国立競技場に到着したのは、昼の一時頃だった。
あかりは実を言うと今回足を運ぶライブイベントを軽く見ていた。国立競技場を貸し切ってのイベントである、当然規模は大きいとは思っていた。
大きいとは思っていたが、すぐに競技場内に入れるとタカを括っていたのだ。しかし、それが間違いであると、彼女は思い知らされた。

 明らかに、競技場回りだけ人が多いのだ。客層の多くが男で、若い女性の割合も馬鹿に出来ない。
そんなNPC達が、二列になって何処かに並んでいるのだ。並ぶ先が何処であるのかは、明白だった。
新国立競技場である。彼らは皆、346プロのライブコンサートを見る客であるのだ。此処に来て初めて、スマートフォンで今回のライブの情報を調べ始める。
すると、一つの事実が解った。今回のライブが、346プロにとってもしくじれない程重大な物であると言うのは、予め知っていた。
それだけではないのだ。このライブは、<魔震>の復興から二十周年を記念して行われる、節目の大イベントであると言うのだ。
成程、それならばこれだけの人数は納得だ。アイドルの歌を楽しみたい男の他にも、そう言ったイベントに興味がある層も、ゼロではないのだから。

【これに並ぶのか?】

 心底不承不服と言うような声でバージルが念話で語り出す。
あかりだって、この列に並ぶのは嫌にも程がある。流石にこの列に並んで待つと言うのは、許容範囲を超えている。
並ぶのがとても面倒だし、仮にこんな所でサーヴァントに襲われれば、パニックを起こしたNPCでまともに戦うどころではなくなるだろう。
それに、バージル自身も、この人だかりを忌避しているのが、パスを通じて伝わってくる。二人の意見は合致していた。

【折角だし見て行こうよ、アーチャー】

 引き返す、と言う選択肢は今のあかりにはなかった。
<新宿>で勃発している戦闘の規模的に、恐らく聖杯戦争終了までに、<新宿>で予定されている人が多く集まる大規模イベントは、事実上これが最後になる、と言う確信があかりにはあった。明日明後日には、もう<新宿>に完全な形を保っているビルが建っているのか如何かすら危ういだろう。
つまり、このライブコンサートは、多くのサーヴァントが一時に、しかしそれでいて平和的に集える最後の機会になると言う事だ。
これだけの人数だ、まさか超常の力を振うサーヴァントも、或いは振えと命令するマスターもいないだろう。いたとすれば、相当の気狂いである。
この機会は、なるべく逃したくない。魔力量に乏しいあかりには、戦闘の負担を軽減出来る同盟相手、と言う名のスケープゴートが必要なのだ。バージルも、その点に関しては特に何も文句を言わない。

【貴様がそう言うのならば俺もそれに従うが……お前はこの行列に耐えられるのか】

【誰もこんなのに並ばないよ。忘れたの? さっき貰ったチケットは、優待券だよ? 行列何て知らないって言う風に、悠々と中に入れるよ】

【……そう言えばそうだったな。便利な物だな、お前の立場は】

【顔だけが妙に売れてるから、場合によってはこの上なく面倒だけどね。ま、さっさと行こう?】

 そう言ってあかりは足早にその場から移動する。
新国立競技場へと伸びている人の列が続く、屋台が立ち並ぶ歩道から――ベビーカステラの屋台に少し目が行った――、敷地内へと移動。
そしてあかりは、ある物を探す。コンサートスタッフの設営したイベント用パイプテントである。そして、直にそれは発見出来た。
その方向へと向って行き、目ぼしいスタッフの男性に声を掛ける。

「すいません、こちらなんですが」

 開口一番、あかりはそう言って、優待券をコンサートスタッフに見せた。

「優待客の方ですね。お名前は……磨瀬――!! あの天才子役の――」

「あーストップストップ!! 此処で騒がれるとキリがないですから、ね?」

 芸能人と言うのは有名になればなるほど、プライベートと仕事の境目がなくなって行く仕事の代表格である。
それは、人気から来る仕事の多さではない。人気になり過ぎると、たまの息抜きで旅行に行っても、それがいつもテレビに出てるあの有名人だとバレてしまい、サインや握手を求められたり、最悪此方に向かってカメラのシャッターを切られたり、プライベートの姿を隠し撮りされたり、と言う事態も少なくない。
あかりもまた、嘗てはそう言う事態になった事もままある。今は子役時代に比べて地味で目立たないような恰好をしてはいるが、それでも、
自分の熱心なファンが見れば気付かれてしまう。今まで自分が磨瀬榛名だと気付かれなかった事が、ある種の奇跡のような物であった。

「あ、了解いたしました。それでは、ご案内いたしますね」

 と言って、あかりに話しかけられたスタッフが先導役を務める。
同じパイプテントにいた同僚が、羨ましげな目線でその男を見ている。誰だって、綺麗な子役女優の案内役を引き受けてやりたい所であろう。
「いや~、それにしても僕ファン何ですよ!! 見てましたよ、デビルメン!!」、と、案内役の男があかりの気を引こうとするが、
彼女の相槌は素っ気ない。と言うより、そんな作品に出演してた記憶がない為、今一話を合せられない。この世界での自分は、どんなドラマや映画に出ていたのだろうか。

「此方からお入り下さい。内部の方にも案内係がおりますので、指定の席が如何しても解らない場合は彼らにお聞き下さい」

 一般の入口とは違う所に開かれた、所謂優待客専用の入口は、一時間もかけてまともに並ぶのが馬鹿なのではないかと思う程に空いていた。
新国立競技場は南北にそれぞれ入口があるが、現在一般客の入り口として開放されているのがその内の南の方角である。
二つの方角を一般客の入口に全部解放すれば、と思うだろうが実際はそうは行かない。残りの方は関係者や、今も火の玉の如く働いている346プロのスタッフや、各種キー局のADを筆頭としたTV局員達の出入り口として使われているのだ。つまりどう考えても、一方向しか一般客の入り口としてしか使えないのである。
あかりが案内されたのは、その北側の方角の入口である。「ありがとうございます」、と案内してくれた事に一礼すると、コンサートスタッフは、もっと何か話したかったらしい。名残惜しそうな顔で、その場を後にした。特にあかりの方も思う所はなく、そのまま内部へと入って行く。

 築二十年近く経過している建物らしいが、そもそもの建物自体が強固な事と、普段良く手入れをしているのだろう。
古びてくたびれた様子がその建物の中には全くない。寧ろ、此処五年以内に建築されたばかりの建物であると主張しても、恐らくは通じるであろう。
それ程までに内部はピカピカであった。全体的にシルバーを基調とした色味の建材をメインに使った、近未来的な内装は、子供心にワクワクするかも知れない。
そう言った内装をよく見ながら、あかりは、一直線に自分の席へと向かわず、敢えて寄り道を行おうとする。
物見遊山ではない。この建物はあかりとしても初めて入る場所である。万が一、この場所で戦闘に陥った場合、建物の構造に疎くて苦戦を強いられる、など笑い話にもなりはしない。暗殺者として、建物の構造を把握すると言う事は基本中の基本。ステージが始まるまで、ある程度建物の構造を把握しておきたいのである。

 あかりは先ず、入り口に設置してあった、新国立競技場のパンフレットの置かれたラックに近付き、それを一枚手にした。
その内部構造を、先ずは視覚的に把握する為である。競技場建設までの歴史の項を飛ばし、その構造を記してあるページに目をやる。
元々が競技場として建築された建物の為、陸上競技を行う為のフィールド部分、及び競技を見る為の観客席の構造。これは良い。
やはり目を通しておきたいのは、其処に通じるまでの各種経路である。が、流石に記されている経路部分は『観客』が通る所だけで、
選手や歌手・アイドル達が通る為の通路に関しては記載されておらず、情報が秘匿されている。これは、予想出来た事である。
が、元々あかりも俳優業を営んでいた為、こう言った関係者の為の道順については、凡そのアタリが付く。実際に目を通しておきたい所だが、さしあたっては己の勘を信頼する事にした。

 だが、このパンフレットは嘘をついている。『地上に面した部分の構造』しか説明していないのだ。
これはあかりとしても断言しても良かったが、確実にこの新国立競技場には、『地下フロア』が存在すると見て間違いないと感じていた。
子役女優であったあかりは知っている。舞台劇や演劇、歌舞伎などの劇場には、往々にして地下が存在するものなのだ。
劇場によっては、その地下フロアには、大道具をしまう為の倉庫であったり、リハーサル室であったり、迫り舞台を動かす為のシステム室があったりと様々だ。
だが、劇場であるのならば地下フロアが確実に存在する。そして、この競技場にも間違いなくそれは存在していなければならないのである。
新国立競技場が建造されるに辺り、間違いなく建造する者達は、運動競技の他に、コンサートイベントを行われる事を見越して、
何処かに大道具倉庫やリハーサルの為の部屋を設けたに違いないのだ。大道具倉庫ならばまだしも、リハーサル室は間違いなく防音完備の上に、観客の目につかない場所に作られている。故に、地上に面した所にリハーサル室があるとは考え難い。となれば、地下空間がこの建物にはある筈だった。

 もしも、観客に、ではなく、346プロのライブイベントの関係者に、聖杯戦争の関係者がいた場合。
地下フロアはこれ以上となく、身を隠すのに適した場所であろう。其処に足を運びたい。あかりはそう考えた。
上階に上る為の階段を探していると、簡単に地下に繋がる階段もセットで発見出来た。関係者以外立ち入り禁止の看板が置いてあったが、
どの道優待者席からやってくる人物の殆どがアイドル事業の関係者である。一般客が多く出入りしている南口の方とは違い、警備がやや緩い。

 階段を降りて行くと、感じられる雰囲気が他とは一味違う物になったのを、あかりは感じた。
上の階が、あくまでもお客様向けに整えられた空間なのに対して、地下は明らかに、今回のイベントの主役である者達、つまりは、
アイドル達の想念が渦巻いているような気がしてならなかった。緊張、期待、そして自信。渦巻く感情は複雑であったが、この三つに大別出来るだろう。
さしあたって此処から近い控室の方に足を運んでみると――。

「む、むむむ、むりくぼ……だめくぼ……もりくぼ、お家帰る……」

「今更出来る訳ないじゃないですか!! ほら、机の下から出て下さいよ森久保さん!!」

「ひいいいいぃぃぃぃ……もりくぼいぢめはやめて下さい輿水さん……!!」

「あーもう、大丈夫、大丈夫ですって!! このカワイイボクと、ボクに負けず劣らず可愛い輝子さんと小梅さんが先陣切って緊張和らげるんですから!! ね、二人とも!!」

「そ、そそそそそそそそそそうだぞボノノさん。わ、私た、たちゅ、達が先ず一番最初に頑張るから、しょ、そ、それを見て……」

「しょ、輝子ちゃん……凄いガタガタ震えてるけど……大丈夫? はい、お水」

「ふ、ヒヒヒヒ……小梅ちゃん優しい……」

「ひいっ……皆緊張してる……お家帰りたい……ポエム作りたくぼ……」

「? 幸子ちゃん、大丈夫? 立ち眩み」

「だ、大丈夫です……カワイイボクはこの日の為にコンディションをバッチリ整えてますから……ちょっと先行きが不安になった程度じゃへこたれませんよ……」

 閉じられたドア越しからでも、緊張の波が伝わってくる。正直あかりですら、本当に大丈夫かこの部屋の人達、と思う始末である。他のドアにも近付いてみると

「直射日光が当たる所ですからね~……お肌に染みが出来ないように、ケアを事前に行っておかないと……」

「……若い子はそんなの気にしなくても良いピチピチボディだから、はぁと羨ましいなって」

「わ、私は将来設計が出来る17歳ですから!! 長くアイドルとして動けるように先を見てるだけですよ!!」

「まだ何も言ってないし、若い子に倣ってクリームを塗ろうとしないのはダメだぞ☆ ナナ先輩♪」

 と言う会話や

「うおおぉぉーっ!! 出番まだですかねぇ、未央ちゃん、卯月ちゃん!!」

「お、落ち着いてって茜ちん!! 私達の出番はまだ先だから!! あと一時間以上も先だから!!」

 と言う落ち着きのない会話も聞こえてくる。どうやら346プロは、あかりの想像以上にアイドルの幅が広いらしかった。

【……オイ】

 と、バージルが念話で語りかけ始めた為、あかりは意識を集中させる。

【お前の思った通りだったな。このライブ――】

【いるの、かしら?】

【……いや、どうにも判然としない。NPCの気配でない事は確かだが……サーヴァントと呼べるものでない。何れにせよ、警戒をしておくに足る気配が感じる。注意しておけ】

【解ったわ】

 バージルの言っている事は何か要領を得ないが、何れにしても、良い予感ではない事は確かだった。それだけで十分だ。
波乱の予感を感じずにはいられない。そう思いながら、あかりは地下を後にしようとする。後ろの方で、「あれ……あの人、デビルメンに出てた……」言う女性の声が聞こえてくる。この出演した覚えのない作品は、この世界では有名であるらしかった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「――内部の偵察を終えました、お姉様」

 音もなくアスファルトに着地する小柄な女性がいた。
背格好こそ昨今の中学生と対して変わらないが、大人びた顔付きと洗練された声音は、見る者と聞く者にティーンエイジャーの印象を与えない。
贔屓目に見ても二十歳過ぎか、それか女子学生だと思うだろう。リボンで纏めたシニョンの緑髪が特徴的な、このトランジスタグラマーの女性。
名を、サヤ・キリガクレと言う。今しがた、主君であるセイバーのサーヴァント、チトセ・朧・アマツの命令を受け、それから帰還したばかりだった。

「御苦労だったな。どれ、こっちに来い。労わって撫でてやろう」

「ああそんな、いけませんわお姉様……私のした事など決して大それた事では……」

 と言いつつもちゃっかりと近付いて行って抱き着いて頭を差し出す辺りは、実にこの女らしい行動様式だった。
チトセの方も、自身の右腕とも言うべきこの部下の性癖については理解している為、特には何も言わない。
公約通り頭を撫でてやると、「ふぅ^~~~~~……」と言う、猫みたいな声を上げて、サヤが顔を服にすりつけて来る。そろそろ拳骨をかましてやる頃だろうか。

「内部の様子は如何だった」

 撫でる右手を頭から離すと、サヤもチトセから離れる。
先程の性癖の捻じ曲がったような行動が、嘘みたいだった。チトセの右腕にして忠臣、そして何十人もの人間をこの手で葬って来た、暗殺者としての表情で、サヤは口を開いた。

「お姉様の見立て通り、あの建物は単なる競技……と、所謂サーカスめいた興行の二つを行う為の施設、と見てほぼ間違いありません」

「変わったものはあったか?」

「地下がある以外には、特筆するべきものは何も。ただ、今回のイベントは……アイドル……まぁ、歌姫的なもの、と私は解釈しましたが。年端の行かない少女が歌って踊るのを楽しむもののようでしたが」

「成程、だからあそこまで男が列を成して並んでいたのか。日本(アマツ)……我々の祖先は、そんな物を楽しむだけの余裕があったと見えるな?」

「幻滅、致しますか?」

「しないよ。民がそんな物に浮かれる事が出来る程、世が平和である事の証左だからな。サーカスのない国では、民は不満を爆発させやすいものさ」

 「流石お姉様……優れた知見……」、と、サヤの熱の籠った目線が突き刺さるのをチトセは感じる。そんなに賢い事は言った覚えは、チトセにはないのだが。

 メフィスト病院から召喚されたチトセ達は、あの後病院を出、自分の気が赴くままに歩いていたら、考えられない程の人の行列を発見した。
何だ何だと思ったチトセであるが、この世界では自分の威光が余り意味を成さない事を知っていた彼女は、割り込んでその内容を確認する事を由としなかった。
だからこそ、部下であるサヤ・キリガクレを召喚し、あの内部の様子を探らせ、何が行われようとしているのかを調べさせた。
流石に諜報や潜入任務で鳴らしたサヤである。誰にも発見されず、見事に情報を集めきって見せた。「素人相手では、欠伸が出る程簡単でした」、とは彼女の言である。

「これだけ繁盛している興行の事だ。世間や世論の注目が集まる事だろう」

 「そう、だからこそ」

「襲撃するには持って来いだ」

「……されると、お思いですか? お姉様」

 神妙な声音で、サヤが言った。チトセの右腕にして、懐刀の声である。

「未来の事が解る政治屋なぞいないさ。されるかも知れないし、平穏無事に終わるかも知れない。と言うより、されない方がよっぽど良いに決まってる。だが、解っているだろう? サヤ。平和は何時だって唐突に崩れるものさ。昔からそうだったな。『大惨事になるか? なるか!?』と煽っている内には問題が起きないのに、惨事とは無縁の平和な時間の時に限って、空気を読まずに問題が起こる。あの大虐殺の時だってそうだった」

 チトセの、最早二度と風景を映す事の叶わない、ゼファーに抉られた右目に、あの大虐殺の光景が思い浮かぶ。
あの時誰もが、あんな日にあんな悲劇が起こる等とは、夢にも思わなかったに違いない。そう、何時だって悲劇とは、誰もが平和を謳歌し、平和に浮かれている時に限って。
絶頂の頂点にあと一息で届きそうな時に限って、空気を読まずに訪れるものなのだ。あの大虐殺を経験し、生き残ったチトセは、だからこそ生前、何時だって油断せずに生きて来たつもりだった。もう二度と取り零したくない何かを、逃がさない為に。

「これだけ人が集まるのだ、何かしらのアピールをするサーヴァントの一人や二人、いるかも知れんだろう」

「騒動が起れば、来ますか? ……光の英雄、クリストファー・ヴァルゼライドが」

「来るさ」

「何故?」

「奴も空気を読まん」

 後ろ手に手を組ながら、チトセは語り始める。 

「あの男は、万人が絶対に来て欲しい、救って欲しいと言うタイミングで現れ、その雄々しい勇姿を見せ付けるのだ。何故かと言えば、奴は『英雄』だからだ。救って欲しい時に現れて、難敵を討ち滅ぼすその姿は確かに英雄だろう? だが立場を変えて見ると、それは敵にとっては、『良い所を邪魔しにやって来た空気の読めない男』にしか見えぬ訳だ。仮にあの競技場を襲う者を敵とするならば、ヴァルゼライド元総統閣下は、間違いなく相手が得意の絶頂に立っている所に現れる。何故ならば、ヴァルゼライドは空気が読めないからな」

 「そのタイミングにこそ」

「私も赴く。聖杯に興味がないと言えば嘘になるが、この<新宿>と言う街に奴がいると言うのならば……私は衝動を抑える事が出来ん。奴を、この手で斃さねばならない」

 それは、チトセにとっては、聖杯を勝ち取るにも勝る名誉だった。
ヴァルゼライドを戦いの末に殺せるのであれば、死んでも良いとすら思っている。彼女にとって、あの光の英雄を殺すと言う事は、聖杯を手中に収める、それ以上の栄誉であった。
古の伝説に曰く、何千年も昔の騎士共が命を懸けてでも欲したとされる聖遺物、それが聖杯であると言う。
知らぬ、とチトセは斬り捨てる。それよりも、今の名誉であり、生前の名誉だった。この世界でヴァルゼライドを斃したとしても、世界が劇的に変わる訳でもなければ、己の過去が変わる訳でもない。己が生前、ついぞ成し得なかった事を果たしたいのだ。自分の人生に未練はない、一つを除けば。
ヴァルゼライドを斃す為に、世界の果てへと消えた、愛する男であるゼファー・コールレイン。ヴァルゼライドを斃す筈だったのは、ゼファーではない。
本来は、自分が光の英雄に清算を付ける筈だったのだ。付けられなかった結果、あの汚れた銀狼は、己がどれだけ手を伸ばしても届かぬ所へ行ってしまった。
自分の命が健在だった時は、嘗てゼファーと言う男がいた、と言う事実を胸に刻みながら、己の職務と人生を全うして生きたつもりだった。
だが、この世界に――嘗て自分が成し遂げる事が出来なかった行為と、最後に残った未練の象徴である、クリストファー・ヴァルゼライドがいると言うのなら。自分は、あの男を殺さねばならないのだ。今度こそ、今度こそ。

「……解りました、お姉様。私は何処までも貴女について行きます」

 チトセの、妄執とも言うべき覚悟を受け、サヤは片膝を付きながら、更に言葉を続ける。

「私めでは、あの光の英雄・ヴァルゼライドには勝つ事は出来ないでしょう。ですが、お姉様の露払い位は、させて下さいませ」

「……ほう?」

 片膝を付いて頭を下げるサヤに、目線を送る。

「お姉様の右腕である、このサヤ・キリガクレを信用して下さい。私はお姉様の次に強い星辰奏者(エスペラント)。となれば、私はこの<新宿>の地において、二番目に強い存在です。雑魚散らしは私に任せ、お姉様ゆるりと、光の英雄のお相手を」

「そうか。ならば信頼するとしよう。サヤ。私がゼファーの次に信頼していた我が右腕」

 其処で、サヤのこめかみに変な青筋が浮かんだ。
その様子を知りながら、チトセは、遠くの国立競技場を眺めた。彼女らは、ビルとビルの間の路地に、佇んでいるのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 つくづく師匠って凄い!! そう思わずにはいられないトットポップである。
トットポップと、その友人である宮うつつは、新国立競技場の内部にいた。チケットもなく、346プロ内部に顔の利く人物がいないにも拘らず、だ。
そんな、普通ならばライブイベントの行われる競技場内に入れない彼女らが、如何して内部に入り込めたのか。結論を述べれば、それは侵入したからに他ならない。

 普通は出来ない事である。内外問わず今競技場の中は見回りの為のコンサートスタッフや警備員、346プロの社員があちらこちらにいる筈なのだ。
346と何のかかわりも持たないコンサートスタッフや警備員ならば、トットポップとうつつの姿を見て、アイドルの一人なのだろうと勘違いを起こすかもしれない。
だが、346プロの関係者はそうも行かない。二人の姿を見れば、忽ち不審者と思い、通報する事であろう。
だから二人は、誰にも見つからずにこの新国立競技場の中に侵入せねばならないのだが、そんな事は通常出来る事ではない。
警備員やスタッフ達の人数や巡回ルートを知っているのであればまだしも、そんな情報はトップシークレットだ。普通は漏れ出る筈がないのだ。

 そのシークレットを、如何にかして手に入れられた、師匠のフレデリカを、トットポップはとてもリスペクトしていた。
本当に、どうやって手に入れられたのだろうか。師匠のフレデリカが齎した情報があったからこそ、二人はこれまで誰にも見つからずに、国立競技場の奥まで入り込む事が出来た。

 トットポップは筋金入りの飛び入り魔である。
音楽イベントがあるのならば、如何にかしてそれに入り込み、己の超絶のギターテクを、イベントのプログラムを無視して乱入、そして披露。
観客の注目を集めに集め、その時満たされる自尊心と自己顕示欲を糧に活動を続け、日本の閉塞的な音楽界にオゾンホール宜しくな風穴を開けたいのである。
つまりは――超迷惑な困ったちゃん。それが、トットポップと言う少女なのであった。

 飛び入り魔に必要な情報は、侵入ルートと脱出ルートの確保と言っても良い。
侵入ルートの重要性は言うまでもない、非正規の手段でコンサート会場に入り込むのだから、真っ先に考えねばならない事柄である。
問題が後者の脱出ルートで、言い換えれば逃走経路と言っても良い。これが難しい。来た道と同じルート以外にも、複数の逃げ道を用意しなければならないのだが、これが非常に頭を使う。
飛び入り魔は先ず音楽そのものの練習が第一だが、その次に重要なのが、逃走ルートをどれだけ確保できるかと言う事である。
何とフレデリカは、このルートすら構築してくれていた。「やだもう最高カッコイイ……」、そうリスペクトせずにはいられない。

「トットはどのタイミングで乱入するの……?」

 年端も行かない少女にも拘らず、纏う恰好は痴女のそれ。うつつは、眠たげな声で訊ねて来た。

「最初には乱入しないよ、解ってるだろうけど。飛び入るとしたら、中盤の山場か、大トリのどっちか!! どのタイミングが盛り上がるのか、その見極めも難しいのねこれが」

「ふぅん」

「何その返事ぃ? 真面目に答えたんだけどぉ?」

 と、他愛のない事を会話が出来る位、拍子抜けする程潜入は簡単で、遂にトットホップらは、競技場へと出る選手入場口の方まで辿り着いてしまった。
十数m先には太陽の光が燦々と降り注ぐ陸上トラックが見えるだけでなく、ガヤガヤと人の騒ぐ声が聞こえてくる。遂に自分達は、此処まで辿り着いた。
「おぉ……」、とうつつは、向かいの口から感じる圧倒的な数の人の気配に圧倒されかける。一方、トットポップの方はと言うと、テンションがアホみたいに上がっていた。
今から競技場の方へと飛び出して行き、得意のライトハンド奏法をギャリギャリ鳴らしまくってやりたい衝動に駆られるが、これをグッと堪える。
焦るなトットポップ。皆の注目が一点に集中する時間を見極めろ。そして、その時間に於いての絶頂の瞬間を見極め、その時にこそ乱入しろ。そう自分に言い聞かせる。今はまだ、躍り出る時ではないのだ。

 内なるトットポップと必死に格闘戦を繰り広げているトットポップであったが、刹那、示し合わせたように、うつつと彼女はハッと顔を見合わせる。
人の気配を感じたのだ。自分達が今いる、階段付近。その地下から、誰かが上ってくる。慌てて彼女らは、近くに位置していた、運動用具を安置する為の倉庫の部屋へと隠れた。中は電気をつけておらず、窓もない為真っ暗だが、雑然とした雰囲気だけは伝わってくる。其処で二人は、息を押し殺し、気配を極限まで薄めさせて、その人物らが行き過ぎるのを待っている。

「手筈の方は、解っておられるでしょうな。同志ク・ルーム」

「抜かりはない……」

 扉越しに聞こえてくるのは、二人の男の声だった。
一人は、扉越しから、しかも姿を見ずとも解る、インテリ風の男の声であるが、何処となく神経質そうな印象を聞く者に与える声である。一緒にいたくはない感じである。
もう一方の男の方は、聞く者の心胆を寒からしめる恐るべき低さの声である。神経質そうな男の声は、眼鏡を掛けてスーツを着てそうな、典型的な現代風の悪役風の姿がイメージ出来るが、一方の男の方はまるでどんな風貌なのかが想像出来ない。ただ恐ろしい、と言うイメージだけが先行する。
地の底から呼び出された悪魔か魔王が喋っているのでは、と思わずにはいられない。うつつとトットポップの身体から、冷たい汗が噴き出始めた。

「舞台が始まってから、時間にして三十分後程……。つまり、お前の肝入りのアイドルである、フレデリカと言う女が歌を歌ったその時に――」

「その通り。十世を放つんだ。これによって齎される利益と、達成されるタスクの数は計り知れないが、同時にリスクの方も未知数だ。決して油断はしてはならない」

「貴様に言われるまでもない……」

「失礼、貴方には最早言うまでもない事でしたな。老婆心が過ぎたようだ。間もなくステージが始まるだろう。十世の事と、私の事を、頼みましたぞ、同志ク・ルームよ」

「……ふん」

 其処で、恐ろしい男の気配が掻き消えた。
閉じたドア越しなのに、なぜそんな事が解るのか、と言うと、二人とも勘である。勘だが、消えた事だけが確かに解るのだ。
間違いなく、恐ろしい男は何処かに消え失せた。思わずホッとする二人。姿を見ずとも、恐怖と言う物を二人に叩き込む、正体不明の男の正体とは、果たして何なのか。

「肝入り、か」

 其処で、残されたインテリそうな男がクツクツと笑った。

「歌と踊りと愛嬌だけが取り柄の小娘に、誰が本気で肩入れするものか」

 其処で一呼吸おいてから、男は再び言葉を発した。

「私と始祖帝の野望の、真のプレリュードだ。最高のショーになるよう足掻いてくれたまえ、346の諸君、凡愚のNPC共」

 そうとだけ言い残すと、インテリそうな男の気配も、遠ざかって行く。
一先ずは、安心出来る状況がやって来た訳だが、次に湧き起こるのは、あの二名の正体である。
暗い部屋に隠れて、姿を見ずに声を聞いただけに過ぎない為解る筈がないのだが、二人の話している会話の内容は酷く抽象的で、謎めいている。
少なくとも、大の大人が会話するには、余りにもイタ過ぎる内容であるのは事実だが、何故か二人は、異常な程の迫真さを二人の会話内容から察する事が出来た。

 ……二人は、何を話していたのだろうか。
宮うつつは、二人の会話の内容から、『死』と言う物をイメージした。二人の話していた事柄は、ひょっとしたらこのコンサートに、異常な事態を引き起こすのでは……?

 ――……もしやあの二人、私達とは別の飛び入り魔!?――

 一方で、トットポップの考えた事柄はこれだった。
二人のあの会話の内容はいわゆるキャラクターだろう。誰もいないプライベートで、あんなTVや客前向けの演技を忘れないなど、相当なプロの鑑である。
トットポップの不屈の闘志と、負けず嫌いの心が忽ち燃え上がる。負けてはいられない。このコンサートを引っ掻き回し、名を残すのはこの私だ。その事を、あの二人のいけ好かない男と、音楽界に教える必要がある。

 そんな事を考えながら、トットポップは沸き立って来る心を鎮めようと努力した。
コンサートの開始まで、残り十分を切っている事を、彼女は取り出した携帯の電話機能から知るのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「大丈夫……大丈夫だから……まだ、耐えられる、耐えられるから……」

 彼女以外誰もいない、アイドルの着替えの為のロッカールームで、宮本フレデリカは、自分の鞄からカロリーメイトの箱を三箱取り出し、箱を引きちぎるように開け、ブロック状のショートブレッドを何本も口に放り込み、数回程咀嚼し、呑み込む。
飢えが満たされた、と思うのも、ほんの二秒足らず。直に、以前に倍する飢餓が彼女に襲い掛かる。

「お父さん、お母さん……神様……!!」

 仏教の世界観に曰く、餓鬼道と呼ばれる世界が存在すると言う。
精神的にも物質的にも貪欲に生きた者が転生する事になると言う世界であり、その世界は地獄道に次ぐ程の苦しみを味わわねばならない世界になると言う。
その世界に転生した住人を『餓鬼』と言い、常に水に渇き、食料に餓えている哀れな者共であると言う。
彼らの口元に食べ物や水を持って行っても、魔法のようにそれらが燃え尽きてしまい、何も口にする事が叶わなくなる。
飢え死にしようにも、その世界では飢え死にと言う概念が存在しない為に、死ぬ事も出来ない。その世界で、一生を餓えに苛まれ彼らは生活しなければならないと言う。

 そして、そんな餓鬼の状態にあり、それが限界を迎えようとしているのも、今のフレデリカであった。
耐えられない。しかし耐えなければ、駄目なんだ。そう必死に考えて、フレデリカは餓えの心を殺していた。
近くのロッカーに右手を掛けるフレデリカ。スチール製のドアに、フレデリカの白く細い指が、めり込み、食い込んだ。
ギリギリ、と言う嫌な音を立てて、指がスチールのドアに食い込んで行く。グシャッ、と言う音が響く。
スチールのドアの一部を、フレデリカは単純な握力で千切り潰したのである。ぽっかりと、フレデリカが空けた穴から、空虚なロッカーの中身が見え隠れしていた。

 透明な涙を流している事に気付いたフレデリカは、その涙を人差し指で掬い、そっと舐めた。
餓えは、まだまだ収まりそうにない事を、彼女はやはり知るのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆





     誰もが シンデレラ

     夢から今目覚めて

     はじまるよ 新たなストーリー描いたら

     掴もう! My Only Star

     まだまだ遠くだけど

     光降り注ぐ 明日へ向かうために