この場にいる誰もが、思う事が一つある。
どうして、こんな事になったのだろう。それぞれの思いや感情を抱いている彼女らであるが、全員が心の何処かに、この疑問を抱き続けている。

 新国立競技場の地下に設置されたリハーサル室だった。
此処は名前通りリハーサルや打ち合わせだけでなく、本日の興行において出番がまだ先であるアイドル達の控室としても機能する、言ってしまえば広めの憩いの場である。
当然此処には数多くのアイドル達が集っている事になるのだが……その表情は一様に暗い。いや、暗いだけでなく、全員泣いている
そこ彼処を見渡しても、泣いている少女が殆どだ。小中学生程度の年齢のアイドルなど、皆このような感じであった。

「大丈夫、大丈夫ですから……だから泣きやみましょう……?」

 泣きやむのが止まらないアイドル達を泣きやませようと、年長のアイドル達が心を砕いていた。
安部菜々と呼ばれるアイドルは、流石にこの状況下ではキャラクターを保つ事が出来ないのか、大人としての態度で、泣いている子供達を泣き止ませようと必死だった。
が、努力は全く実らない。それはそうだ、起っている状況も状況だが、大人達の方も泣きたくてたまらない気持ちであるのだ。
子供は心を敏感に感じ取る。大人がこの調子では、泣き止む筈もない。そして大人達の方も、今この場で、明るく笑顔を振りまく、と言う気にはなれずにいた。

 アイドルの仲間が一時に何人も死んだ、その様子を、このリハーサル室のモニターで彼女達は眺めてしまっていた。
クローネのアイドル達は一瞬で四人も、あたら若い命を花のように散らしてしまった。その死にざまは余りにも無惨、そして、死んだ時間も一瞬。
だからこそ彼女達は、初めてその映像を見た時、何が何だか解らなかった。余りにも常識離れした展開に、脳の処理が追いつかなかった。
そして、脳が事態の理解をしてしまった瞬間、半ば狂乱に近い叫び声が上がった。親しい仲間を殺された少女はその名を叫び、またある者は意識を失ってしまった者もいる。

 そうして、現在に至る。
アイドル達の混乱は全く収まらない。それどころか時間を置き、冷静になればなるほど事態を認識する時間も増える為に、より酷くなる一方だ。
誰もが思う。どうして、こうなっているのだろうと。失敗したらどうしようと緊張しながらも、でもなんだかんだでステージ上ではいつも通りどころか、いつも以上の力を発揮して、ステージを大成功させて、皆でその事を喜び合う。そんな結末が、本当はあった筈なのだ。
だが、今はどうだ。ステージは大成功どころか、あの神楽坂で大量虐殺を行った黒礼服の殺人鬼が乱入したせいで、ライブは失敗。
いやそれどころか、仲間を喪ってしまい、今や自分達ですら命の危険がないとは言えない危険過ぎる状態。
この場において誰もが、こんな事態なのに逃げ出そうと口にしない。逃げる方がベストであるし、仲間を置いて逃げ出しても誰も卑怯者とは罵るまい。
それが出来なくなる程、彼女達の頭は混乱していた。彼女達もまた、新国立競技場から現在進行形で逃げ出そうとしている、パニック症状に陥っている民衆同様の存在なのであった。

「――皆っ、大丈夫だったか!?」

 そんな一同の状況を打ち破るように、一人の大人の声が聞こえて来た。
皆がその方向に顔を向ける。スーツを身に纏った、妙齢の女性。此処にいるアイドル達は、皆彼女の名前を知っている。

「み、美城常務!? 如何して此処に――」

 それまで子供の面倒を見ていた菜々が、驚いた様に口を開く。
顔中に汗を張り付けて、346プロのアイドル部門、その事実上の最高責任者にして、今回のライブイベントのメインプロデューサー。美城と呼ばれる女性が、その姿を現した。

「来るに決まっているだろう、今は非常事態何だ!!」

 そう、考えてみれば当然の話。そして、その当然の帰結が思い浮かばない程、彼女達は混乱の状態に立たされていた。
メインプロデューサーと言う事は事実上の最高責任者。イベント全体の指揮や、各種人員の配置場所を決めると言う強力な権限を持っている他、
今の様な非常事態が起こった場合の指揮も担当せねばならない。そして、今がその時なのだ。来るに決まっている。

「……映像は見えないのか」

 と言って美城は、リハーサル室に設置されていた巨大なモニターの方を見る。波一つ立つ事のない、墨の満たされた硯のように真っ黒い画面があるだけだった。

「変な青緑色の何かが迫った、と思った瞬間に、こんな風に……」

「そうか……では此処からだと何が起っているのか、解らないと言う事か」

「……はい」

 其処で、再び沈黙が流れた。

「大槻唯、塩見周子、速水奏、神谷奈緒……そして、彼らのプロデューサー。尊い命を、失ってしまった」

 啜り泣く声はなおもやまない。

「……胸が痛い、と言う他ない。彼らは皆、死ぬには余りにも若く、余りにも可能性に満ちていた。……私は、それが許せない。だから、今こそ彼らに誅罰を与えねばならぬと、固く誓った」

 美城の口から出た言葉に、皆がキョトンとした表情を浮かべる。
言っている事の意味が理解出来ない、と言うのは子供達の方に多い。そして、意味を理解している者も、余りにも突飛な言葉の為に、絶句の表情を隠せずにいる。

「ち、誅罰って……私達に、どうやって!? そもそも、そんな事が出来る訳――」

「出来る!!」

 本田未央の言葉に対して、美城が一喝した。

「見た筈だ、あの殺人鬼が超常の力を振う瞬間を。思い出せる筈だぞ」

 美城の言う通り、皆は見ていた。あの殺人鬼が謎の力を以て雷を落とし、目に見えぬ力で相手を粉々にしたり。
思い出したくもない光景であったが、彼女達は思い出そうと必死だった。確かにあれは、普通の光景では断じてない。

「私は君達に、彼の殺人鬼が奮う力と同じ様な力を奮える道具を持っている。それを以て、対抗するんだ。そして、仲間の仇を取るんだ」

「そ、そんな、突拍子もない事を……」

「今一度言う、出来る」

 手近にいた、泣き腫らした顔の輿水幸子のスマートフォンを借り、それを手慣れた動きで操作。
――刹那、美城の真横に、蒼白く光り輝く、巨大な頭とそれとは不釣り合いの小さめの胴体を持った怪物が、何の前触れもなく現れた。
随所から上がる悲鳴と、渦巻く恐怖の感情。それを美城は、強く一喝し鎮める。

「この力は私達を救うに値する力。そして本質的には、あの殺人鬼が奮うそれと同じ。だが、私達はそれを正しい方向に使う事が出来る!! 恐れる事はない……今こそ、戦うんだ!!」

 と、檄を飛ばす美城であったが、何せ起っている事態が事態である。
我こそは、と思う人物など中々いない。皆が沈黙し、互いの表情を見あったり、美城の立ち居振る舞いを眺めたり、と。己の主張を示そうとしない。

「あ、あの……常務」

 と、やや控えめに手を上げる人物に、美城は目線を送り、この場にいたアイドル達も、その声の上がった方向に身体を向けた。
本田未央、と呼ばれる、如何にも快活そうな容姿をした少女だった。その見た目に違わず、普段は明るく、誰とでも仲良くなれる性格なのだが、流石にあの虐殺を前にして平時のテンションを保てはしなかった。

「その……お化け? みたいなの、私にも操らせて下さい……」

「み、未央ちゃん!?」

 隣にいた島村卯月がこれに反応する。
まさか自分の知り合い、それもかなり仲の良い部類に属する人物が、こんな得体の知れない提案に乗るとは、思っても見なかった。とでも言うような顔である。
他の人物についても同じで、先陣を切るのがまさか未央だとは、と言う様な顔を隠せないアイドルも大勢いる。

「ほ、本当にやるの!? だって、こんなお化けみたいなの操るなんて……」

「……正直、私も気乗りはしないよ。得体が知れないのを操るの何て、私だっていやだもん。……だけど、友達が死んでるのに、なんにも出来ないなんて許せない!! 皆の晴れ舞台が台無しになってるのに、ただ翻弄されるだけ何て、悔しくて、我慢出来ない!!」

 思いのたけを、血でも吐くが如くにぶちまけた。発した言葉が、火の玉になりかねない程の強い言葉であった。
未央の思う所を、理解出来ない、と言うアイドルはこの場に一人たりとも存在しなかった。恐怖と言うカーテンに本質を隠されてはいたが、抱く思いは皆同じ。
何故、こんな事になったのかと言う思いと、今自分達に降りかかっている事に対する恐怖。そして、それらについての、怒り。
この三つを抱いていないアイドルなど、この場に一人たりともいなかった。彼女達は、自分達には想像も出来ない程の魔宴、聖杯戦争の被害者だった。
彼女達NPCは、聖杯戦争の参加者が駆るサーヴァントの暴力に翻弄される、無力の象徴だった。川の流れ、吹き荒ぶ風に蹂躙される蟻と変わらなかった。

「常務、そのお化け、操れるようにしてよ!!」

「ま、待って!! 美城常務、そのお化けみたいなの、本当に操って大丈夫なんですか!?」

 疑問としては当然の物だろう。超常の力である事は理解したが、これが何のリスクもなしに操れるとは思えない。卯月の疑問に、美城が答える。

「結論を言えば、リスクはない訳ではない。私の横にいるこれが破壊されれば、その人物は意識を失う。昏倒だな」

「それは――」

「だが、死にはしない」

 卯月が反論するより早く、美城が付け加えた。

「リスクはある、それは否定しない。だが、死ぬ訳ではない。それは本当だし、それを怖いと思ったのなら、私は戦う事を強要しない。だが、それを理解しても戦いたいのなら、私の近くに寄るんだ。この怪物――『CROWDS』を操る力を、お前達の携帯やパソコンに落とし込む」

 再び、水を打ったような沈黙がリハーサル室を支配する。美城が提示した、怪物、即ちCROWDSと呼ばれる存在を操るリスク。
それを聞いて尻すぼみしてしまった者も多い。昏倒、つまり意識を失うと言う事だろう。それについて恐れがないと言えば嘘になる。寧ろ、かなり怖い者が殆どだ。
……それを理解して尚、未央や、他の、行動的で知られるアイドル達が、美城の下へと集まって行く。覚悟を決めたらしいのと、恐怖よりも、一矢報いたいと言う気持ちが勝ったのである。

 美城は、自分の所に寄って来た、提案に乗るアイドルの携帯端末に、Bluetooth経由で件のアプリを転送。
それを確認したアイドル達は、恐る恐ると言った様子で、そのアプリを実行。「CROWDSの操作に画面を触る必要はない、勝手に動けと命令すれば、その通りに動く」。
アプリを開いたのを見計らって、美城がそう補注を加える。「凄い……」、とか、「本当だ……」、と、CROWDSを操作しているアイドル達が感嘆の念を口にした。
他のアイドル達には解らないが、如何やらCROWDSは此処ではない何処かで展開されているらしい。場所は容易に想像出来る。あの競技フィールド以外の何処にあるのか。

「皆の仇ッ!!」

 そう口にした未央であったが、その、一秒後であった。
手にしていたスマートフォンを床に落としたのは。落した衝撃で、保護フィルムを張っていなかった液晶が割れる。
彼女が、それを認識していたかどうかは解らない。落したと同時に、彼女の意識は闇の中に落ち、糸の切られたマリオネットのようにガクッ、と地面に膝を付、倒れたのであるから。

 方々から、「未央!?」とか、「未央ちゃん!!」と言う声が上がる。
これが、CROWDSを破壊されると言う事だった。卯月が慌てて駆け寄り、未央の体調を調べる。息はある、脈もある。本当に、昏倒の状態であった。

「怯まないでくれ、既にメフィスト病院は手配してある!! いくら倒れても、CROWDSを操作出来るこのアプリがある限り、お前達は何時どんな所でも戦え、死ぬ事もない!! 自分は怖くない、戦って仇を討ちたい、と言う者がいるのなら、今一度言う。私の所にくるんだ!!」

 その言葉を契機に、二の足を踏んでいたアイドルが次々と、美城の下へと駆け寄って行き、最初にCROWDSのアプリを渡されたアイドル達も、その言葉に勇気を貰ったか。
次から次へと、競技場内のCROWDSを操作し、其処にいるだろう宿敵の排除に向かい始めた。自体の趨勢に呆気にとられ、卯月はおろおろとした様子を隠せない。
困った様に、美城の顔を見つめる卯月。キビキビとしていて、怖いけど、しかしそれでいて誰よりも346プロと言う会社と其処に所属するアイドル達の事を考えている大人。
それが、美城常務と言う人物だと卯月は思っていた。……だが、何故だろう。今の彼女のその顔が、酷く悪辣な物に見えるのは――何かの、見間違いなのであろうか?



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 何が起っているのだ、と言う思いだけが、美城の心の中を支配していた。
今日のこの日の為に、ありとあらゆる方面に宣伝を打っていた。仕掛けた宣伝も様々だ。
チラシやパンフレットの配布と言う古典的手段を行えば、テレビCM、果てはネットワークが発達した現代だからこそ可能なSNSや動画サイトを用いた宣伝など。
凡そ考え得る全ての手段で、美城及び346プロダクションは、今日のイベントを成功させる為様々な営業をして来た筈なのだ。
後は、アイドルの興行が成功するだけだが、これに関しては心配などしていなかった。自分達が手塩にかけて育てたアイドルなのだ、失敗する可能性など、ある筈がないのだから。

 ――だが、他者からの暴力的な介入があったとなれば、話は別だ。
美城は特等席からこの様子を眺めていたが、それ故に良く見えた。アイドルのライブステージを襲撃し、大槻、速水、塩見、そして神谷の四人を殺したのは。
あの、<新宿>の神楽坂で大量虐殺を行った、黒礼服の殺人鬼であると。それを見た瞬間、美城は、己の用意して来た物が。己の業界人としての全てを掛ける覚悟で、昼も夜もなく働いて整えて来たこの舞台が、崩れて行くのを肌で感じた。全ては、水泡に帰してしまった。

 しかし、それについて絶望する時間はなかった。アイドルが――年端もいかない若い女子達が亡くなった。
確かに悲しい。何故、彼女達が死ぬ必要があったのかと叫びたくなる。が、それについて悲しむ時間は美城には無かった。彼女はこれから責務を果たさねばならないのだ。
346プロの責任者の一人として、其処に所属するアイドル達の身の安全を保障せねばならない身として。他のアイドル達を退避させ、安全を絶対の物にしなければならないのだ。
だからこそ美城は、黒礼服の殺人鬼が現れた瞬間、急いで特等席であるVIP用のボックス室から飛び出し、目的の場所へと走り始めたのだった。

 ヒールだから走り難い、転びそうになる。しかし今は一秒とて惜しい。自分の判断ミスが、アイドル達の死を招く。責任は重大であった。
走り始めて三十秒と経っていないのに、体中が汗だらけである。夏の暑さから来る物ではない。嫌な予感から来る冷や汗である。
最後に激しい運動をしてから何年も経過していて、運動不足も甚だしい状態なのに、全然疲れが訪れない。
それよりも何よりも、身体全体が張り裂けそうになる程の責任感で、如何にかなりそうだった。

 自分が、悪いと言うのだろうか。美城は考える。
今日だけで起った<新宿>の諸々の事件、彼女が知らない訳がない。実際、中止した方が良いのでは、と言う意見も少ないながらに社内でも上がった。
しかし、それをやるには最早遅すぎた。その事件が、コンサート開始の前日、一週間前に起っていれば、それも可能だったであろう。
今日の朝や昼では、無理である。もうその頃には客も並んでいたし、各種キー局もスタンバイしていた。今更中止、何て言える筈がない。
況してやUVMの牙城を崩す為の大事な一大イベント。それに掛ける思いは、美城も、346プロダクションも並々ならぬものがある。
だから、危険だと解って実行した。事件は起こったのだろうが、自分達の所にはそんな事件は起こらない。そんな思いで、コンサート開催に踏み切ったのだ。
――その結果が、これである。346プロで夢を叶えようと邁進していた尊い命が幾つも失われ、その晴れ舞台を見ようと駆けつけた観客も、何百人と犠牲になった。
自分が、間違っていたのかと自問する。答えは返って来ない。走りながら美城は、ただ、自分は正しかったのだと思い込むしかなかった。
そう思いながら、アイドル達のいる所に駆ける時、彼女の瞳に涙が浮かんだ。こんな、筈じゃなかったのだ、と。小さく彼女は口にした。

「じゃどう言う筈だったんですかぁ?」

 と、言う声が響いたと同時に、美城の移動ルート上にそれが現れた。
二mを優に超す背丈をした、長身の男だった。346に所属している、諸星きらりと言うアイドルよりもずっと大きいだろうと、頭の何処かで美城が考えた。
ピンクがかった赤色の髪を後ろに長く伸ばしており、ドライヤーを掛けていないのかモジャモジャである。その髪が目を隠していて、表情を読み取らせない。
そんな存在が突如進行ルート上に現れるものだから、突然バッと、美城は立ち止まった。

「ンチャwwwwwwwwwwwwwwwwww」

 と言って、その長躯の男が会釈をして来た。軽薄さを隠し切れぬ声である。

「な、何だ君は……? 私は急いでいるんだ!!」

「私との会話イベントでフラグ立ててないからどけないでーすw。それに、こーんな騒動が起きてるんだったら興味わかない訳がないじゃな~い。それで、何があったんですかぁ?」

 チッチッチッチッチッチッチッ、美城が何が何だか解らない、と言う風な顔をしている間に、目の前の怪人は舌打ちを高速で繰り返していたが、二秒後程に

「おっそーい!!(SMKZ) もういい!! 私紳士的に聞くの止める!!」

 と、癇癪を起した様にそう叫ぶと、その男は突如として美城に近付いて行き、彼女の頬に両手を触れさせるや、無理やりその唇を奪った。
「ムグッ!?」と、突飛としか思えぬ目の前の男の行動に、美城は目を丸くし、自分が何をされているのか悟った瞬間、その胸中を驚愕と怒りが支配した。
二秒程のキスの後、男が美城の唇から己の唇を離す。それを見て美城が、烈火の如く激昂した。

「貴様!! 一体何を……――!?」

 激昂が、引潮のように引いて行く感覚を覚える美城。
驚愕ではない。恐怖である。先程まで目にしていた、怒りを覚える程無礼な長身の男が消え失せ、逆に、その男がいたその位置に――『自分がいた』。
346プロの常務である美城が目の前にいるのだ。背格好も顔つきも、見に纏うスーツからヒールまで。全部が全部、自分のもの。目の前の男は、いつの間にか、自分に変身しているのだ!!

「あーなるほどそう言う事ね、理解したわ(理解してる)」

 腕を組みながらコクコクと、美城に変身した男は頷いた。声音まで、同じだった。

「なんだ……何だ、お前は!?」

 怯えながら、美城は叫んだ。自分と同じ姿をした人物が、勝手に動くその様子に、彼女は堪らない程の恐怖を覚えてしまった。

「失礼しましたwwwwwwwwwww私、水島ヒロですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」

「馬鹿にするな!! 私の顔でふざけた事を言うのは――」

 其処で、偽物の美城は、本物の襟をガッと掴み。

「ままま、焦らないで下さいよ常務。急いでアイドルの所に向かいたいんざんしょ?wwwwwwwww」

 其処で、自分の使命を思い出した。そう、今は目の前の怪人にかまけている時間はないのだ。
今の美城は、一分一秒とて無駄にする時間は存在しない。早くアイドルの所に駆けつけねば、彼らの命が――

「ミィが代理人として出向いてあげますから――」

 其処で、偽物の美城の、狂喜としか表現出来ぬ狂った笑みが、虚無その物の如き真顔になった。自分に、こんな顔が出来るのか、と美城は場違いにも思ってしまった。

「用済みじゃ、とっとと失せろや」

 其処で偽物は、本物の美城から手を離し、突き飛ばした。
紙のように彼女は吹っ飛んで行く。其処は、階段だった。頭から段差に落下し、ゴロゴロと転がって行くのを感じる。
その時に、頭が割れ、身体の骨が折れんばかりの衝撃が、身体に舞い込んで行く。意識が、痛みと、脳に来る衝撃で遠くなる。
暗くなりつつある己の視界に最後に映ったのは、下卑た笑いを、自分の声と自分の姿で上げながら、霞のようにその場から消える怪人――ベルク・カッツェの姿であった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「みん……な……っ、プロ、デューサー……!!」

 先程までメインステージに、プロジェクトクローネの面々であるアナスタシアは、メインステージから離れ、自分達の楽屋まで避難した瞬間に、堰を切った様に泣いた。
ステージにいる間は涙を堪えていたが、楽屋につき、先程までメンバー全員が此処で、打ち合わせを行ったり他愛もない会話をしていたと言う事実が残っていたのを見て、皆は泣いた。死んだ塩見周子、速水奏、大槻唯、神谷奈緒の荷物やスマートフォンが、そのまま楽屋の真ん中のロングテーブルに置かれていた。
彼女らが飲みかけていたドリンクも、そのまま置かれていた。ほんの十分前まで、彼女らが此処にいて、彼女らと会話をしていたと言う事実を認識した瞬間、アナスタシアは泣いた。二度と戻ってはこない、無惨に殺された友達の事を思って、皆は泣いた。

「どうして、こんな事に……」

 涙を隠せぬ鷺沢が、呟いた。
その疑問は、誰しもが思う所だった。346プロダクションのアイドルに限らず、観客達も、そう思っているに相違ない。
自分達が、何をしたと言うのだろうか。何の権利があって、大切な友人達の命を、自分達の晴れ舞台を見に来た罪のない人々を殺すのだろうか。
友を失った事による哀しみと、何故失わねばならないのかと言う理不尽に、彼女らは、身が捩じ切れんばかりに泣いていた。
黒贄礼太郎に扮した10世に、脇腹を貫かれた加蓮も、今は痛みよりも悲しみの方が勝っているらしい。彼女から流れ出る涙は、痛みからではなく哀しみからだった。

「……ねぇ」

 今まで不気味な程沈黙を保っていた、宮本フレデリカ、と言う名前をした金髪の少女――今回のライブコンサートの事実上の目玉と言っても過言ではなかったアイドルが。
今この瞬間になって口を開いた。啜り泣く声が部屋に響く中にあって、奇妙な程平静を保ったフレデリカの声は、よく目立つ。皆が、彼女の方に顔を向け始めた。

「もしも、だけどさ~……皆を酷い目に遭わせた、あの殺人鬼を、如何にか出来るって方法があったら……どう、する?」

 何㎞も走り込んだ後のような、荒い息遣いを抑えながら、フレデリカが口にした。
そしてそれは、驚愕に値する内容だった。あの殺人鬼を、倒す、と来た。誰だって不可能に思うだろう。
相手は息を吸うように雷を落とし、謎の力で人間を粉々に爆散させる超能力の持ち主。とてもではないが、人間の身体能力では倒せる便もないであろう。
それを、打倒する術を知っていると言うのだ。そう、普段ならばクローネのムードメーカーとして、時は空気を弛緩させ皆をリラックスさせたりする、と言う緩いキャラクターがウリの、フレデリカが、である。

「じょ、冗談では……い、言ってない、よ……?」

 皆も、流石にこんな局面で、フレデリカが冗談を言う様なキャラクターだとは認識していない。
本当に、倒せる術が、或いはそうでなくとも、付け入る隙の様なものを、理解しているのかもしれない。

「でも……どうやって?」

 文香が、恐る恐ると言った様子で訊ねて来る。そう、やはり方法が問題になって来るのだ。

「……余り、皆に言いたくなかったんだけど……アタシね、あ、あの怪物と、同じ力が奮えるんだ」

 言ってフレデリカは、右腕にそれまで巻かれていた包帯を解いた。
皆は、擦り傷か何かでも負っていたから、フレデリカはそこに包帯を巻いていたのではと考えていた。
――実態は違った。彼女が包帯で隠していた位置には、黒い、痣の様なものが刻まれていたのだ。
否、それはただの痣ではない。よくよく目を凝らして見ればそれは、独特の紋様をしたタトゥーではないか。
とてもではないが、フレデリカにそんな物を刻む趣味があるとは思えない。それ程までに悪趣味なタトゥーなのだった。

「ふ、フレデリカさん? それ……」

 ありすが、不思議に思い訊ねて来た。

「こ、怖い女の人に脅されて……刻まれちゃってね……、その日以降、アタシ、変な力が発揮出来るようになっちゃったの……。それが怖いから……ずっと、包帯で……」

 皆は愕然とした。あの殺人鬼と同じ様な力を与えられ、誰にも相談出来ず、心細い思いをして。
しかしそれでも必死にその恐怖に耐え続け、フレデリカは今日まで生き続けていたのだと言う。想像だに出来ぬ過酷なそれまでの生活に、皆は言葉に詰まった。
今この瞬間、フレデリカはその力を使って、仲間達を助けようとしている。誰もがそう思った。何と、健気なのだろう。
此処で、フレデリカを迎えられねば、嘘だと皆は思った。今はフレデリカを排斥している場合ではない。皆で一丸となってこの状況を打開しない事には、どうにもならないのであるから。

「……フレデリカは、危険な目に遭わないんですか?」

 アナスタシアが、神妙な顔つきで訊ねた。

「た、ぶん……」

 フレデリカの答えは、酷く曖昧だ。

「フレデリカにまで死なれたら……わ、私達、立ち直れないよ……だ、から、絶対死なないって約束して……」

 加蓮が、息も絶え絶えと言う様子で言葉を紡ぐ。10世に貫かれた脇腹は、軽い応急処置が施されているが、本当に軽い応急処置だ。
話すのだって恐ろしく苦痛な筈であるが、それを耐えてでも、今の言葉を伝えたかったらしい。

「ほ、本当に……協力、してくれる、の……?」

 フレデリカが、眦に涙を浮かべて訊ねて来た。これが、最後の確認、今生の別れとでも言わんばかりの態度であった。

「……私は乗るよ、フレデリカ」

 ややあって、凛が言った。

「だけど、私もフレデリカが死ぬのは絶対嫌。……教えて、何をすれば良いの?」

 皆の目線が、フレデリカに集まる。

「アタシ、のね……力になって、一緒に戦うの」

 なおも要領を得ない、フレデリカの答え。

「一緒にって……私達、戦う力は……」

 凛が、フレデリカの答えに戸惑いながら答える。
彼女の言う通り、フレデリカ以外の面々は、あの黒礼服の殺人鬼を相手に抵抗出来る力を持たない。周知の事実であった。

「大丈夫……戦う、必要は、ない……から」

 其処まで言ってフレデリカは、右腕の半ばに刻まれた刺青とも痣とも取れるシンボルを抑えた。「フレデリカさん!!」、と、ありすが心配そうな声を上げる。

「『一緒』に……戦おうね、皆……」

「フレデ――」

 其処で、フレデリカの右腕が消えた。
誰もが、肩から先の動きを見る事が出来なかった。至近距離で、ツバメやハヤブサがトップスピードで移動しているのを見ているような気分だ。
フレデリカの腕が、戻る。コスチュームである黒長手袋が、消えていた。右腕全体が露出されており、その露出された部分に、白と黒のボディタトゥが刻まれていた。
肌色の部分が一つとして存在しない。白地に黒いラインが走っていると言う、独特のタトゥだ。

 ――その右腕の下腕全体が、目に痛い程鮮やかな深紅色の液体に覆われていた。
その右手には血濡れた肉の塊のような物が握られており、フレデリカは、スナック菓子でも食べるような感覚で、それを口へと運び、咀嚼した。

「――え、ふ、フレデリ……カ?」

 脳の処理が追いつかない、とでも言う様な風に、加蓮が呟く。
呟いている最中に、彼女の顔が苦痛に歪む。何だと思い、痛みの生じた方向に顔を向ける。ポカン、とした表情を浮かべてしまった。
胴体の右半分が、完全に消滅し、其処から大量の血液が流出し、内臓が零れ落ちて行っているのだ。

「う、そ……」

 そう呟いて、加蓮は仰向けに倒れ、事切れた。最期の表情は苦痛に歪むようなそれではなく、自分の身に起った自体が理解出来ず、呆然としたようなそれであった。

「フレデリカ――!?」

 凛が、フレデリカの名前を叫ぶ。再び、フレデリカの右腕が消えた。
凛の胸部に、バスケットボール大の風穴が一瞬で空く。肋骨も両肺も心臓も、全て、フレデリカの右腕に抉られてしまった。
黒い髪をしたアイドルの口から、バケツをひっくり返したような大量の血液がたばしり出た。彼女もまた、自分の身に起った事態を理解出来ていなかった。

「……え?」

 そう呟いて、凛は床に両膝を付き、糸の切られたマリオネットのように、くたっと倒れ、息を引き取った。
フレデリカの右腕には、また新しい、血濡れた肉の塊が握られていた。慣れた手つきでそれを口元へ運び、一口齧る。
――その瞬間だった。フレデリカの瞳に、正気の色が戻ったのは。

「え、嘘……? り、凛、ちゃん? 加、蓮……ちゃん?」

 幽霊でも見たような表情と声音だった。
フレデリカの瞳には限りない恐怖の色が浮かび上がっており、その目で、血を流し続ける死体となった、加蓮と凛の双方に目線を送る。返事は、来ない。
「ッ……!?」と、此処で漸く、己の右腕に握られた『もの』に気付き、不浄な物のようにそれを地面に投げ捨てた。

「ち、違うの!!」

 弁疏の為、フレデリカがアナスタシア達の方に目線を送った。

「ひっ……!!」

 畳床の上に腰を抜かしていたありすが、怪物を見るが如き目でフレデリカの事を見ていた。
瞳に浮かび上がっている恐怖の色は、フレデリカの今のそれの比ではない。恐れから来る涙をその双眸から流し続けるだけでなく、自分に迫る未来を予測しているのか。
ガチガチと上下の歯を鳴らしている。恐怖が限界に達していたか、股の間から、小水も零れさせていた。

「文香ちゃん」

 言ってフレデリカが文香の方向に顔を向ける。頭の処理の限界を迎えたか。彼女は、フレデリカが二名を殺している間に、気を失い、倒れていた。

「アーニャちゃん」

 彼女の方は事態を細やかに認識したらしい。
口を両手で抑えていたか、やがて、凛と加蓮の身に訪れた、悲惨で、無惨にも程がある結末に耐え切れず、胃の中の物を全て吐き出してしまった。
未消化だった昼食のものが全て戻されるが、それでも尚吐き足りないのか。ついには、胃液すら吐き出していた。

「あ、ありすちゃん――」

 目線を、アナスタシアから、小動物のように縮こまっているありすの方に向ける。
それに気付いた、年端の行かない少女が、膝を曲げ、頭を抑え始めた。身体を襲う震えが、より一層強くなる。

「こ、こないで……」

 冬山に裸で放り出されたように、彼女の歯はガチガチと音を立てており、言葉を紡ぐのも難しい状態だ。
それでも、この言葉を紡ぐ事が出来たのは、奇跡のような物だったであろう。

「ありす、ちゃん……」

 一歩、ありすの所に近寄るフレデリカ。

「――来ないでぇ!!」

 肺の中に辛うじて残った空気を、全て吐き出す様にしてありすが叫んだ。怒気ではなく、恐怖でもって構成された、懇願するような泣き叫びだった。
その叫びに思う所があったか、アナスタシアは、畳の上を這いながら、何とかありすの下へと近付き、彼女を抱き寄せる。
ありすはアナスタシアの胸の中で、普段のキャラクターを金繰り捨てた、年相応の泣き声を上げて、啜り泣き始める。
その状態でアナスタシアは、フレデリカの方を睨みつけ、恐怖と焦燥で声を上擦らせながら、一喝した。

「こ、これ以上近付いたら、私達も貴女を――!!」

 声の続きを聞くのが怖い、とでも言うように、フレデリカがその場から逃げ出した。
楽屋と廊下を仕切るドアは、フレデリカの突進で蝶番ごと吹っ飛ばされ、向かいの楽屋のドアに勢いよく衝突。
そのまま彼女は廊下へと躍り出て、消え去ってしまった。後には、渋谷凛と北条加蓮の死体と、三人のアイドルが残される形となった。
泣き止まないありすを、どう慰めれば良いのか解らない。アナスタシアは、呆然とした表情で、天井の照明を見上げるのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 限界だった。
ステージにいる間は、不思議と飢餓が抑えられていた。パフォーマンスをしている間は、大丈夫に違いない。そう思っていた。
あの殺人鬼が現れ、周子達を焼き殺した瞬間、彼女の理性は一気に吹っ切れた。常人ならば、吐き気を催すような人間の身体の焼ける臭い。
それをフレデリカは、牛や豚にスパイスを塗して焼いた様ないい匂いだと思った。それを嗅いだ瞬間、彼女の理性は決壊した。
抑えつけていた飢餓が一気にあふれ出たが、それをメインステージが設置されていたフィールド内で発揮しなかったのは、殆ど奇跡にも等しい所業であった。

 飢餓を満たしたいと言う本能が理性を追い越し、暴走し、凛と加蓮の命を、この手で奪った。
その事実を認識した瞬間、体中の毛穴から冷たいものが噴き出てくる、堪えられない程の恐怖が身体を包み込んだ。
そしてその恐怖が身体から心根を支配していてなお、二人の身体は、とても美味しかったと舌が覚えており、そして、全部食べずに残して逃げたのを勿体ないと思っている自分を、フレデリカはこれ以上となく嫌悪していた。

 凛の内臓は、良く煮込んだ鳥のもものように柔らかく、ほのかな塩気が実に良かった。
加蓮の肉は、結構な時期を病院で過ごしていたと言う事実を感じさせぬ程香気だっていて、ハーブか何かと一緒に煮込まれた牛の肉のように美味だった。
フレデリカが正気に戻ったのは、二人の肉を食べ、飢えが若干満たされた事で、理性が本能に若干勝ったその瞬間であった。
何て、取り返しのつかない事をしてしまったのだ、と。フレデリカは堪らなく後悔し、そして、クローネから向けられる怪物やお化けでも見るような目線に、ゾッとした。
そんな目線を向けられるだけの事を、フレデリカはやってしまった。非難がましい目線、自分に対する恐怖の籠る目線、自分に対する憐憫が隠し切れない目線。
それら全てを向けられる事が怖くて、フレデリカは逃げてしまった。そして、もう一つ。そんな目線を向けられているのに、アナスタシア達を『美味しそう』だと思った自分が恐ろしくなり、あの場から逃げ出してしまった。

 何処に向かって走っているのか、解らない。
口についた血を拭う事も忘れ、怪物みたいになった右腕を元に戻す事も忘れ、宮本フレデリカは何処かに向かって走っていた。
クローネの生き残りの目から逃れる為――彼女達を、この手で殺さない為に。

 国立競技場内部は、不気味な程人がいなかった。
今フレデリカが走っている所が、一般客とは違う、TV局や346プロの関係者のみが入る事が出来る、競技場北側の入口であると言うせいもあるだろう。
今頃南側は、大量の人間でごった返しているに相違あるまい。つまり、大量の人間――食糧――がいると言う事で……、其処まで考えて、かぶりを思いっきり振った。
何て事を、考えるのだろうと。今この状況、人っ子一人いない状況の方が、良いに決まっている。自分はこのまま行けば、死を振り撒き続ける。
それを避ける為、フレデリカは逃げ続ける。この一心で逃げ続けた末、遂にフレデリカは、北側の大入口まで到達、外に出る。
国立競技場では、あんなに悲しい出来事があったと言うのに、外はこんなにも晴れているものなのかと、心の何処かでフレデリカは考えた。
何れ此処にも、警察や、自分達のライブを中継しにやって来たのとは違う刑事事件等を主として担当するTVレポーターが、やって来るのだろう。そうなる前に、何処か遠くに――

「ふ、フレ……ちゃん?」

 逃げる筈だったのに。
運命の神が振った賽子は、宮本フレデリカと呼ばれる少女に、安息の時を許さなかった。彼女の目の前には、白衣を纏った、己の友人であるアイドル、一ノ瀬志希が、呆然として佇んでいるのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 生中継されていた、余りにも無惨で、凄惨な光景を見た時、一ノ瀬志希は全身の血が引いていくような感覚を覚えた。
突如として現れた、黒礼服のバーサーカー、黒贄礼太郎と、それによって殺される、自分の見知ったアイドル達。
予想だにしていなかった展開に、休憩室にいた他のスタッフ達も、志希同様驚愕を隠せぬ風であった。永琳ですらも、それは同じ。
まさか数万人規模で人が集まるこの一大イベントで、こんな野放図極まりない大虐殺を行う愚か者がいる何て、永琳は予測出来なかったのである。

 テレビ越しからでも、現場の生の戦々恐々ぶりが伝わってくる迫真さ。それが、この映像が3Dによる物ではない、真実の映像である事の証左だ。
その映像を見て、黒贄が行う恐るべき凶行を何分か見た時。志希はいても立ってもいられなくなり、メフィスト病院から支給された白衣を脱ぐ事すらしないで、休憩室を飛び出し、遂には院外へと駆け出した。
白衣を着た少女が勢いよく病院の中を走るものであるから、スタッフや患者を含めた多くの人間が、何があったと言わんばかりに彼女に目線を投げ掛けて来るが、それが気にならない程、志希は必死であった。

【助けに、行くつもりかしら?】

 駐車場から歩道に出たその時になって、永琳が念話で訊ねて来る。無言を以って、志希が返した。

【元居た世界では確かに友人だったのかも知れないけれど、此処ではNPCでしょう? 助けに行く意味は、ないと思うわよ】

 永琳の言葉はとても冷酷で、無慈悲であり、そして、主である志希の事をどれだけ慮っているのか、志希にはよく解る。
永琳の言う通り、この世界で活動している、聖杯戦争の参加者以外のあらゆる存在はNPCに過ぎない。
346プロのアイドル達は皆一ノ瀬志希と言う人物の事を知っているし、友達だとも認識している。志希だって、そう思っている。
だが、どんなに互いが仲間だ友達だと思っても、この世界の住民は全てNPCであり、志希が本来いた世界とは何の関わりも接点もない存在だ。
パラレルワールドに生きる人間達、と言う解釈の方が解りやすいかも知れない。この世界の住民達が、志希の元々の世界の住民ではなく、
しかも元の世界に無傷で帰らなくてはならないと言う志希の目的上、要らぬ火中の栗を拾いに行くのは、そもそもの方向性として間違っている。
つまりは永琳の言う通り、今志希が行おうとしている、346プロの仲間を助けに行く、或いはそうでなくとも、新国立競技場に向かうと言う行為は百害あって一利なしの選択でしかない。

【……確かに、そうかもしれない】

 志希は、永琳の意見を肯定した。彼女の意見にも正しさがある――いやそれどころか、ある観点から見たら、正しさしかない意見であったからだ。

【でも、所詮NPCだからって理由で見ないフリしたらあたし……とっても後悔しそうな気がする……】

【理屈も何もないわね】

 呆れた様子で永琳が言う。

【NPCだって解っても……この世界の346プロの皆は、あたしの知ってる人達と本当にそっくりで……だから】

【見捨てられない、と】

【悪い事なの?】

【聖杯戦争に勝ちたいなら悪手。だけど、感情の動きとしては、正常じゃないかしら】

 永琳が続ける。

【主君に振り回されるのは、こっちに行っても変わらない、か……。因果からは、天才でも逃れられないみたいね】

【え?】

【独り言よ。それより、貴女が競技場に向かいたいと言うのなら、私もそれに従うわ。フォローは既に考えてる。だけど、我儘を聞いてあげる代わり、これだけは約束なさい】

【……何?】

 真面目なトーンで永琳が口にした為、つられて志希の方も、真面目なそれになってしまう。

【恐らくは新国立競技場には、間違いなくサーヴァントが一人以上はいると見て間違いないし、サーヴァントと鉢合わせになる可能性がとても高い。そうなった場合、全ての行動の選択権を全て私に委任なさい】

【……解った】

【宜しい】

 否定する理由がない。どの道、志希は何時だって重要な局面は永琳に任せて来た。
それが正しいからである。永琳は志希以上に頭も良く、多方面の才能に長じている。志希が頼るに値する、優れたサーヴァントであった。
その証拠に永琳は、全力疾走で国立競技場へと向かう志希を疲れさせない為に、身体に作用する魔術を彼女に掛け、疲労が蓄積しない状態にさせている。
こうする事で、常に全力で志希を走らせる事が出来、スムーズに目的地へと向かわせる事が出来る。こう言った所においても気配りが出来る辺りが、八意永琳と言うサーヴァントが優秀である事の何よりの証左であった。

 メフィスト病院――もとい、元々存在していたK大の大学病院と、新国立競技場までは目と鼻の先である。
歩いて十分、自転車があればもっと速く到着できる程近い。全速力で走れば、五分と掛かるまい。実際、それだけの時間で、志希は新国立競技場に到着した。
遠目から見ても、大量の人間が慌ただしく逃げ出しているのが解るレベルで、その潰乱ぶりが見て取れるようであった。
まだ警察がやって来ていないのは、永琳達が此処に潜り込むと言う意味では、不幸中の幸いと言うべきだろう。NPC達にしてみれば、事態の鎮静が遅れる為に堪ったものではないだろうが、どの道警察程度ではサーヴァントは対処出来ない。彼らはどの道、詰んでいた。

 観客が入る為のルートと、346プロや業界の関係者だけが入れるルートが別々に解れている事を知っていた志希は、
北側入り口、即ち関係者口から競技場内に入ろうと決めていた。永琳もそれについては異存はないと言う。NPCが少ない場所であるのなら、それに越した事はないからだ。
騒ぎが騒ぎの為、本来ならば人の数が少なくて然るべき筈の北口周りにも、NPCがちらほらと見られる。
既に事態の詳細が行き届いているのか、NPC達は皆困惑した表情を浮かべて、競技場を見上げていたり、競技場の方が気になりつつも、
その場から距離を取ろうとしている者に別れている。また中には、屋台を捨てて逃げ出している的屋もいる程で、今回の事態がどれ程NPCに混迷を齎しているのかよく解る。

 どちらにしても、この程度の人数なら、簡単に忍び込めるだろう。――そう思っていた、その時だった。
競技場の入り口から、見知った少女が慌てた様子で飛び出して来たのだ。明るい金髪、整った欧州風の顔立ち、柔かなボディラインが特徴的な魅惑的な身体つき。
その少女を、一ノ瀬志希は知っている。宮本フレデリカと言う名前のその女性は、志希の友人であった。この世界でも、その立ち位置は変わっていない。
お互い緩い性格が特徴的で、波長も合っていた事から、元居た世界でも346プロに入った瞬間から真っ先に友達になれた程だが……何故だろう。今のフレデリカは、頗る余裕がなさそうに見える。

「ふ、フレ……ちゃん?」

 だがそれよりも志希の目を引いたのは、フレデリカの右腕だ。
見間違いじゃない。彼女の肘から先は、紅い液体が今も滴っていて――。

「――下がりなさい!!」

 その一喝が、志希の意識を一瞬空白にした。
永琳が霊体化を解除。乙女を守る騎士の様に、志希を背後にするような立ち位置になるや否や、いつの間にか手にしていた弓矢をフレデリカに番えていた。
実体化と同時に、周囲に極めて強い認識阻害の結界を展開させるのも忘れない。これから起こる、無惨な戦闘を誰にも気取られないように。

「あ、アーチャー!?」

 何をしているのだ、と言う様な非難がましい声音で、志希が叫ぶ。友人であるフレデリカに矢を向けるなど、志希からすれば正気ではないだろう。
だが永琳の方は至って冷静沈着だった。フレデリカは、右腕に傷を負って血を流しているのではなく、誰かを傷付けた際の返り血がその手から滴っている、と言う事など永琳には御見通しである。
だがそれだけで、フレデリカをギルティだと決めつけた訳ではない。
永琳が本当に彼女が危険な存在だと思ったのは、別の要因。彼女の存在の余りの不安定さなのである。宮本フレデリカの存在は、酷く曖昧で、ブレている。
今の彼女は、人と、それ以外の存在の『情報』が揺らぎ、鬩ぎ合っている状態。言ってしまえば今のフレデリカは、人と、『何か』の中間を彷徨っている存在である。NPCですらない。それだけなら、問題ではない。問題は、その人以外の情報が極めて危険な存在のものであり、今この瞬間に暴走する事が目に見えていると言う事なのである。

 断言出来る。戦闘は、最早避けられない。
これより永琳は、宮本フレデリカ――もとい、フレデリカを侵食している怪物との戦闘に突入する事になる。
殺すか、殺されるか。それでしか終わらない。つくづく、主君の為に厄介事に巻き込まれるのが、自分の宿命らしいと永琳は苦笑いを浮かべてしまった。

「し、き……ちゃん……志希、ちゃん……!!」

 身体の中に救う病巣や悪性腫瘍の齎す痛みに耐えるように、フレデリカが身体を極度に震わせ、地面に膝を付いた。
「フレちゃん!!」、と叫び、前に出ようとする志希だったが、当然永琳は許さない。バッと、志希の靴を踏んで抑えた。

「逃げ、て……もう、耐えられない……!! 何処か、遠くに……ィ!!」

 頭を掻き毟りながら、四つん這いの状態でフレデリカが叫ぶ。
哀願に近い、痛切な叫び声だった。宮本フレデリカ、と言う人格が、怪物の人格にとって変わるまで、もう一分の猶予もない。
間違いなく暴走する。フレデリカ、と言う少女もそれを予期しているのだろう、でなければ、こんな言葉は出ない。

「アーチャー、お願い!! フレちゃんを助けて!!」

 ――否。殺す。
本心を言えば、助けたい。救える者は救いたい。永琳だってメフィストと同じ、プライドの高い医者である。患者が救えませんでした、など我慢が出来ない。
だが、永琳は既に知っている。既にフレデリカが救えないと言う事を。彼女を苛んでいる要因は腫瘍でもなく感染症などの病気でもない。
もっと根元的――万物を構成する最小の要素、原子より小さく素粒子よりも細やかなもの、情報が改竄されているせいだと永琳は見抜いていた。
これは、治せない。病気を治すのと、万物を構成する情報を治すのとでは次元が違い過ぎる。生前ですら、治せたか如何か解らない程だ。
メフィスト病院に連れて行けば治せるのかも知れないが、それをする気は永琳には無い。
病院に連れて行く間に、フレデリカが完全に暴走し、志希を殺す事を危惧しているのだ。そうなってしまえば元も子もない。
つまり永琳は、主である一ノ瀬志希を守る為に、彼女の友人である宮本フレデリカを殺すのだ。
……絶対に治る事のない、情報の改竄と言う現象に苦しむフレデリカを唯一救う方法、外部から死を齎すと言う救いを以って、彼女に引導を渡そうと言うのだ。

「……天才が、聞いて呆れるわね」

 これしか方法が思い浮かばない自分の知性と、救ってやりたい存在を殺す事で救うと言う陳腐なやりかたしか出来ない自分の実力を、永琳は呪った。
呪いながら、彼女はフレデリカの胸部に鏃の照準を合わせ――この瞬間、彼女の暴走が本格的な物となった。

 腕に刻まれた痣のような物から、白色の光の筋が彼女の前身にくまなく走り初め、それが頭頂部から爪先にまで走るや、彼女は光の柱に包まれた。
光の柱の内部では、永琳ですら瞠若する程の大量の魔力が嵐のように荒れ狂っていたが、直にそれは安定して行き、光の柱の内部に存在する何かに収斂する。
変身を終えた、いや、フレデリカの三次元空間上での姿が、彼女を苛んでいた何かに乗っ取られた、と言う言い方の方が正しい事であろう。
光の柱が止まると、永琳の見立て通り、其処にはフレデリカではない、真実フレデリカ以外の怪物が存在した。後ろで志希が、息を呑む声が聞こえた。

 光の柱から現れた存在は、フレデリカとは似ても似つかぬ、人間の女性を基(もとい)にした何かであった。
身長は永琳と同じ程で、プロポーションはフレデリカ以上にグラマラスで、女性的である。髪の色は変身前同様の金髪であるが、後ろに前に、
その髪が長く伸びているだけでなく、その輝きたるや煮溶かして不純物を全て取り除いた黄金の如くに美しく光り輝いていた。
だが何よりも目を瞠るのは、その身体の色だろう。石灰か何かのように彼女の身体の色は真っ白で、その白い皮膚の上に墨に似た黒い刺青を全身に幾何学的に走らせているのだ。
その双眸は驚く程機械的で冷たく、右手に握られた磨製石器を思わせる武骨な黒曜石製のナイフは、人間に備わるプリミティブな恐怖を喚起させる、武骨だが恐るべき凶器である。

 永琳が予測した以上に、これは危険な存在だった。
救うだの何だのとは言っていられない、どの道、葬るしか道はないだろう。それ程までに危険な存在だと永琳は判断し、そしてそれは残酷なまでに正しかった。
宮本フレデリカの変身した怪物――悪魔――こそは、古の昔メソポタミアや西セムの民族が崇拝した大地母神であるからだ。
数多の名と数多の姿を持ち、数多の土地で形を変えて尊崇されて来た、肥沃な大地の化身にして、自然の恵みと厳しさをか弱い人間に教える偉大なる母神。
そのあまりの信仰の強さの故に、彼の基督教は彼女を悪魔に貶め、しかしそれでも、その信仰を完全に消し去らせる事は出来なかった、強壮な女神――を模した怪物。

「人類……裁かれねばならない……美しい霊と、美しい地……そして、ママ・メムアレフの為……違う、私は……!!」

 変身した高次存在本来の物であろう低いハスキーボイスと、フレデリカの声である若い女性の声が、二重音声になっている。
まだ、怪物本来の意思と、フレデリカの意思が鬩ぎ合っている状態だ。フレデリカの意思は消えていない。
尚の事、倒されねばならないと永琳は思った。ただでさえ強大な力を持っている上に、この悪魔は人類に対する明白な敵意すら抱いている。
放っておいて良い筈がないし、放っておいてもこの場にいる志希達が真っ先に狙われる。悪魔の意思がフレデリカの意思に打ち勝って顕在化する前に、この場で斃さねばならないのは明白だ。

「この地に、母はいない……なれば私が、地上を破壊し、ニンゲンを殲滅し尽くすまで……美しい霊と、嘗てこの地に生きていた気高きニンゲンの為に……!!」

「嘗ての栄華に縋る貴女の様は、私の目から見ても美しくなくてよ。旧き地母神……『アシェラト女神』」

 永琳のその言葉は、確実に、眼前の悪魔――地母神・アシェラトの怒りの要訣を抉った。怒気が、瞳と身体から迸る。空間が、ぐにゃりと水あめの如く歪み出した。

「貴様……私達と同じ旧き神であると……言うのに、私達の悲……願を嘲弄すると、言うか」

 完全にアシェラトの物となった声を受け、失笑とも言う様なリアクションを永琳は取ってしまった。張りつめた永琳を笑わせるに足る一言だったのである。

「時に忘れ去られた存在ならば、静かに滅びを受け入れなさい。この世において全ては、仮初の客。私も神も、それは同じ」

「――神は、滅ばぬ……からこそ神なのだ。私は滅ばない!!」

 かぶりを振るう永琳。出来の悪い弟子か生徒に呆れる教師宛らの態度であった。

「言っても無駄だったようね。これだから、感情的な地母神様はイヤなのよ」

 フッと、永琳の顔から失笑の表情すら消え失せた。感情が死んでいるとしか思えぬ、能面の如き無表情だった。
その表情のまま、番えた矢をアシェラトの方に放った。時間流を局所的に加速させ、初速の段階で音を超える程の速度で矢を放つ、永琳が使う弓術の絶技である。
それをアシェラトは、手に握った黒曜石のナイフを振い、粉々に破壊。それと同時に、体内に循環されていた魔力を調整。

「アギダイン――!!」

 その一言と同時にアシェラトは、頭上に巨大な火球を展開させる。局所的に小規模な太陽が降りてきたように、周りが明るくなる。
この恐るべき大火球を、旧き女神は永琳と志希目掛けて高速で飛来させる。摂氏にして八千度以上は下るまい。
直撃すれば志希など骨どころか灰すらも残らず焼き尽くされる。これを永琳は、弓を持っていない左手で軽く払った。
誰が信じられよう、永琳のか弱い繊手が火球を打ち叩いた瞬間、それは幾千幾万もの火の欠片になって砕け散ったのである!!
アシェラトが目を見開かせる、が、原理を明かせば何て事はない。永琳が有する埒外の対魔力が齎した結果に過ぎない。彼女の対魔力は、女神の扱う超絶の魔術ですらも一方的に無効化させる。

 火球を砕いたばかりの永琳の左手に、一瞬で五本もの矢が握られていた。
それを彼女は、マシンガン染みた速度で次々と右手に握った和弓に番えて行き、連射させて行く。
放たれた矢は軌道上で細い光の筋――レーザー――のようになり、十m先のアシェラトの急所に放たれて行く。
これをナイフ状の石器で次々砕いて行く、しかし永琳は止まらない。放った五本の矢が破壊されると殆ど同時に、また矢を番えて高速連射させていたからだ。
しかも、先程の倍の十本。これは堪らないとアシェラトも考えたか、最初の四本を砕いた後、左方向にステップを刻み、矢の軌道上から逃れた。
残りの六本の矢は新国立競技場の内部、北側入り口の先に広がっていたロビーに消えて行く――かに思われたが、物理法則の下では有り得ない程のUターン軌道を描き、
勝手にアシェラトの方に向かって行くではないか!! アシェラトも異様な気配を感じたのか、背後を振り返り驚きの表情を浮かべていた。
永琳は放った弓矢に、自動追尾の術式を当て嵌めていたのである。命中するか破壊されるまでは、地の果てでも永琳の放った矢は相手を追跡するのである。

 アシェラトは火球を矢に放ち、直撃させる。着弾と同時に火球は、レーザーと化した矢諸共、噴火を思わせる火柱になり破壊される。
石畳が一瞬で融解し、溶岩状になる程の威力。流石、高位の悪魔が放つ魔術であった。アギダインと呼んでいた魔術が砕かれると同時に、永琳がアシェラトに接近。
いつの間にか弓矢は三次元と四次元の間の隙間にしまわれており、永琳は空手だった。アーチャークラス、それも筋力のステータスに優れぬ永琳が、素手で戦闘を行おうと言うのである。

 右手の指を全てピンと立てた状態で永琳は、アシェラトに対して手刀を行った。
水平に振り抜かれようとするこの攻撃を、この地母神はナイフの刃部分で防御、永琳の手首を斬り飛ばそうとする。
が、ナイフ越しにアシェラトの身体に舞い込んだのは、高速で放たれた砲丸に直撃したような凄まじい衝撃。
その衝撃に対して何の対策もしていなかった為に、彼女の身体は紙のように吹っ飛んだ。これが、本当に、生身の女の身体と石器が衝突した際に生じたエネルギーなのか。
アシェラトを吹っ飛ばしたのは確かに、永琳の手刀に内包されていたエネルギーであった。アシェラトが地面に着地したのと殆ど同じタイミングで、永琳は再び接近。
既に手刀の間合いに入っていた永琳は、右手刀を振り下ろすも、これをナイフの刃部分で防御。鉄槌でも落とされたような凄まじい衝撃がアシェラトの腕に走るばかりか、余りの攻撃の威力に、防御した彼女を中心に地面が浅いすり鉢状に陥没した。

 無論、今の永琳の常識では考えられない腕力と、黒曜石製とは言えナイフの刃に手を当てても切れない異常な耐久力には訳がある。
何て事はない、強化の魔術を己に施しているだけだ。但し、永琳程の魔術の達者が行う強化の魔術は、人間の魔術師が行うそれとは一線を画する。
ただの包丁の切れ味を宝具レベルにまで引き上げる事も、ただの小石の硬さを鋼の数倍にまで引き上げる事は愚か、強化の魔術の最高峰である他者の強化、遂には曖昧な概念を更に曖昧にさせる事など、永琳にとっては赤子の手を捻るようなもの。そんな彼女が、己の身体能力と言う狂化の魔術の基本を行えばどうなるか?
各種ステータスを、実質上Aランク以上に相当する修正を行う事が出来るのだ。これを永琳は行っていた。彼女程のサーヴァントにとって、ステータス程意味のない指標はない。己の意のままに、その値を乱高下させる事が出来るからだ。

 力を込め、アシェラトは永琳を弾き飛ばそうとする。永琳は抵抗を行わず、地母神が力を込めた方向に吹っ飛ぶ。
吹っ飛ぶと言うよりは、殆ど打ち上げられたと言う風が適切であり、永琳はアシェラトの単純な腕力で、十五m程も頭上へと飛ばされていた。
其処に悪魔が、アギダインを何発も永琳目掛けて飛来させるが、その全てを永琳は、左手指から発射した蒼白い色をした魔力の弾丸で粉砕させて行く。
魔力の弾丸を放つ技術、即ちガンドと言う初歩的な技術ですら、永琳が行えば対魔力ですら信頼に足るのかと疑問を抱かせる程の必殺の一撃と化す。
矮化されているとは言え、神霊の名を冠する強大な悪魔が放つ魔術ですら、相殺に持ち込める程にだ。

 重力を制御する術法を用い、アシェラトの腕力で吹っ飛ばされた高度十五m地点を浮遊しながら、永琳はガンドの弾幕を放ちまくる。
それは最早弾幕と言うよりも、弾『壁』とも言うべき代物で。真正面から見れば回避する隙間が一切存在しない。
そんなものが、アシェラトを押し潰す様に、四方八方から向かって来るのである。これを地母神の姿をした悪魔は、身体を独楽の如く回転させ、
手に持っていたナイフの風圧と衝撃波で破壊し、無効化させる。これ位は出来るのか、と永琳も実力の予測を更新させた。
スペルカードルールに則った弾幕では、多少は相手が回避出来る程度の間隙を用意するのが暗黙の了解であるのだが、そんなルールが存在しない聖杯戦争においては、永琳も容赦しない。回避不能、反応困難の、反則そのものの弾幕を永琳は平然と行い続ける。

 其方がその気なら、と、アシェラトは宙に浮いている永琳目掛けて黒曜石のナイフを高速で幾度も振り抜いた。
すると、この地母神が振り抜いのと同じ向きと角度をした、黒紫色の光の筋が空間に刻まれ始め、それが高速で永琳の方へと飛来して行くではないか。
斬撃エネルギーの可視化と実体化、アシェラト女神程の神格であれば成程、そんな芸当造作もない事だろう。だが、永琳からすれば面白みのない技術だ。
迫りくる斬撃エネルギーを、拳大程のガンドを放って尽く破壊、エネルギーを破壊したままの勢いを保ちながら、蒼白いガンドがアシェラトの方に向かって行く。
これを黒曜石の凶器で以って殴打、永琳の方へとホームランの要領で打ち返す。ガンドが身体に到達するよりも速く、永琳は瞬間移動の魔術を構築させ、直に地上にワープ。事なき事をえる。

 此処まで戦って、永琳には解った事が一つある。このアシェラトは、間違いなく本物の神霊ではないと言う事。
身体能力こそは確かに、本物に近いのかも知れない。だが、神が神である為に必要な、最大の要素を目の前の存在は欠いていた。
つまりは、『権能』である。アシェラト程の神格が奮う権能は凄まじい物で、仮にだが、この場にいるアシェラトが真実本物であるとしたら、
サーヴァントの身に矮小化された永琳では万に一つも勝ち目は存在しない。サーヴァントの永琳がアシェラトと渡り合えている理由は、一つ。
目の前のそれが、権能を行使出来ない紛い物の神格に過ぎないからである。身体能力は十分過ぎる程脅威だが、権能の扱えない神など、その強さの半分以上も損なっていると同義。つまりは――弱い、と言う事だ。

「……フレ、ちゃん……」

 志希が、変わり果てたと言う言葉ですらが控えめに見える程の変貌を遂げた、宮本フレデリカ=アシェラトを見て、呆然と呟く。
無二の友である少女が、自分の引き当てたサーヴァントと、殺すつもりの熾烈な戦いを繰り広げていると言うこの現実を、まだまだ認識出来ていない様子だった。
何故フレデリカが、よりにもよって自分の引き当てたサーヴァントと戦う最初の存在になってしまったのかと、志希は己に降りかかる運命の残酷さを、呪っているのかもしれない。

 機先を制したのはアシェラトの方だった。
持っていた黒曜石のナイフを思いっきり永琳の方に突き出した。距離にして十数mも離れている為、普通は当たる筈がない。
しかし、持っている得物の見かけ上のリーチの差など、何の意味も持たないのが聖杯戦争での戦いである。
突き出させたナイフの先端から、具現化した貫通エネルギーの凝集体となった光芒が射出、永琳の身体を貫こうとする。
攻撃が放たれた事を、常識を逸脱した思考速度で永琳は認識、攻撃が放たれたのを見てから回避行動に移る。
身体を半身にする事で、アシェラトの放った攻撃を回避した永琳は、彼女の周りの空間の時間流を意図的に遅く設定。
悪魔は次の行動に移ろうと身体を動かし、体内の魔力を循環させようとするが――行動速度が素人、それこそ志希にすら視認出来る程に遅い。
アシェラトは驚きの表情を浮かべようとしているが、それを作るのだってスローモーションカメラで撮影した様に遅すぎる。
時間の流れが遅い空間にいれば、耐性のないものは如何なる動作、如何なる生理反応もスローになる。脈拍や血液の流れでさえも、だ。況や、魔力の循環など。

 時間流の遅い空間にいる存在は、時間の流れが正常の空間にいる者から見れば、極端にスローの状態になる。
と言う事はつまり、攻撃を叩き込むカモであると言う事だ。永琳がそれを狙わぬ筈がない。案山子同然となったアシェラトに対して、
手元の空間に産み出させたクレバスの様な裂け目に手を突き入れ、其処から弓矢を取りだし、高速で番えて発射。
弓道の的の様に其処から動けずにいたアシェラトは、永琳の一撃に命中。音の五倍の速度で射出された矢は、アシェラトの胸部に命中したばかりか、鏃は背中まで貫通。
直撃の勢いを受けて、地母神の女体が後方に数mも吹っ飛び、仰向けに倒れた。血が、女神の口から溢れ出て、白と黒の身体を紅く染め上げた。

 アシェラトの頭上に、青く激発する榴弾を大量に生み出させ、それを凄まじい勢いで永琳は落下させる。
しかし、直に意識を取り戻したアシェラトが放った、アギダインと呼ばれる火球の連発により、永琳の放った榴弾は全て到達前に焼き尽くされてしまった。
意外としぶといと思いながら、永琳は地を蹴り、二十m程も離れた距離を一瞬でゼロにし、倒れているアシェラトの方に接近。
彼女の腹部目掛けて、右足で思い切りストンピングを行う永琳。これに気付いたアシェラトが、急いで立ち上がって回避。
永琳の右足が石畳に衝突する。踏みつけられた地点を中心とした直径数mがクレーターになったのと同時に、アシェラトも攻勢に転じる。
黒曜石のナイフを縦に振り下ろすのを見た永琳は、空間転移の術を用い、ナイフの軌道上から幻のように消え去る事で回避。
ナイフが振り下ろされたゼロカンマ一秒後程に、先程まで永琳がいた地点に、深い三本の痕が刻まれた。
獣の爪痕の如きそれは、硬い石畳を果肉をスプーンで抉るような容易さを以って削り取られており、それが一方向に十数m程も伸びている。
直撃していれば、どうなっていたか。対魔力は物理的な衝撃を緩和させられない、こればかりは素の耐久力で耐えるしかないが、永琳としては直撃は避けたい所だった。

 成立させた空間転移の術で移動した先は、アシェラトの五m背後だった。
その地点で番えだすが、この瞬間、アシェラトが何らかの呪言を小声で口にするのを永琳は聞いた。「テトラカーン」、確かにそう呟いた。
急激に嫌な予感を感じ取った永琳は、鏃の照準をアシェラトではなく、アシェラトから数m狙いを前にした地点に定め、其処に矢を放つ。
矢は石畳に当たった瞬間砕け散るばかりか、石畳も破砕させ、その礫を凶悪な女悪魔の方に飛来させる。速度にして亜音速、掠ればその部位は一瞬でミンチになる威力だ。
それがもうすぐ衝突する、と言うその時だった。永琳の目ですら見えなかった、ルビーの板のような透明な赤色の障壁が突如としてアシェラトの前に出現。
矢が弾き飛ばした石礫がこれに命中した瞬間、衝突時のスピードを完全に保ったまま、永琳の方へと反射されて行くではないか!!
拙い、と思い、永琳が身体を半身にさせるが、回避が間に合わなかった。礫の一つが左肩に命中。肩の一部を、肩甲骨ごと抉り飛ばされ、其処から血が噴出した。

「あ、アーチャー――!?」

 事態を認識した志希が、悲鳴に近い声を上げる。
現状自分が最大限頼れる相手である永琳が、血を流す、と言う誰の目から見ても明らかな手傷を負ったのだからそんな声も上げるだろう。

「……時間が経過する毎に力を取り戻してる……? だとしたら厄介ね」

 一方永琳の方は、骨すら砕かれる程の一撃を貰ったと言うのに、恐ろしく涼しい顔をしていた。
まるでこの程度の痛みは、慣れっこであるとでも言うように。痛覚が完全に機能していないか麻痺しているとしか思えない程の、恬淡さであった。

 永琳が命中させ、今まで胸部に突き刺さったままだった矢をアシェラトは引き抜く。傷が驚く程軽微だ、回復の術にも長けているらしい。
負わせた傷を安定状態にさせるや、アシェラトの体内に、魔力が循環して行くのを永琳は感じ取った。

 悪魔の意識が表面化して行くと言う事は即ち、肉体もまた悪魔のそれに近づくと言う事と意味合いは一緒である。
つまり、時間が経てば経つ程、宮本フレデリカ=アシェラトは危険な性質を帯びて行くと言う事になる。
完全に悪魔に意識が乗っ取られれば、それは最早一個のサーヴァントと殆ど変りがない。そうなる前に、仕留めねばならないだろう。

「テラダイン」

 独特の韻律でアシェラトがそう呟いた瞬間、自分の立っている地面に、魔力が収束して行くのを永琳は感じた。
跳躍、空を飛んで回避する永琳。すると、先程まで永琳が立っていた地面が、まるで地中に埋め込まれていた不発弾が発破される様に砕かれ、爆散。
どうやら、ある種の対人地雷を踏んだような、凶悪な威力の爆発を地面から発生させる魔術らしい。あの場に後ゼロカンマ数秒程佇んでいたら、永琳の下半身は粉々になっていた事だろう。

 空に飛び上がった永琳に目線を送るアシェラト。二の矢は既に、整え終えているらしい。
先程放ったテラダイン、と言う魔術は言わば当てるつもりのない魔術。此方が、本命であるらしい。桁違いの魔力が、アシェラトの体内で収束して行くのが永琳には解る。

「――メギドラ!!」

 その言葉と同時に、永琳とアシェラトの間に、アメジストに近い色味をした紫色の球体が現れた。
ただの球ではない、凄まじいまでの魔力と熱エネルギーを内包した球体である。そのエネルギー量の総量は凄まじく、炸裂させればこの地点からでも、新国立競技場の半分近くは消し飛び、近場に存在する<新宿>の首都高速にも甚大な被害が出る。確実に言えるのは、永琳は無事で済むが、マスターの志希がそうはならないと言うう事だ。

 急いで永琳は暴走寸前のエネルギー球の下へと近付いて行き、そこに左手を突き入れる。
このメギドラと言う魔術は特別らしい、永琳レベルの対魔力ですら、一方的に無効化する性質を持っているらしい。
左手が一瞬で黒焦げになり、炭化寸前になる。味わった事のない痛みに眉を顰める永琳だが、彼女の行動は迅速だ。
即座にこのメギドラと言う魔術を解析、性質を理解するや、急いで対になる要素の魔力を注入させ始めたのだ。いわば中和だ。
見事に永琳の行った事は功を奏し、魔力球はゆで卵の殻のように剥離されてゆき、無害化される。

 だがこれもまた、アシェラトにとっては予測出来た事柄らしい。
この女神の真なる狙いは、アーチャーのマスターである一ノ瀬志希だったらしい。この地母神は永琳がメギドラを対策している間、地を蹴り、志希の下へと近付いていた。

 ――拙いッ!!――

 メギドラを無害化させた永琳は、炭化してしまった左手を治す事すらせず、空間転移の術を成立させる。
時間が経過して行くうちに、アシェラトの方も永琳と志希の関係性に気付いたらしい。極めて高い単独行動スキルを誇るとはいえ、主であるマスターがいなくなれば、さしもの永琳も活動限界が早まってしまう。それだけでなく、この世界に於いては永琳の主は蓬莱山輝夜ではなく一ノ瀬志希。
主を死なせると言う事については、自分の死よりも強い忌避感を永琳は抱いている。仮初の主とは言え、自分が付いていながら主を殺すと言う醜態は、永琳には我慢出来ない。己の矜持の為に、永琳はアシェラト達の方へと転移した。

 危機が迫っていると言う事自体に、志希は気付いていなかった。
元よりアシェラトと永琳の攻防は、人間の反射神経の限界を容易く超える程の速度で行われている。ただの人間である一ノ瀬志希が、反応出来る筈がなかった。
故に、気付かない。アシェラトが目の前に現れ、志希の方目掛けてナイフを振り下ろそうとしている事に。自分の目の前が、アシェラトが立ちはだかったせいで暗く陰った事すらも、気付いていないだろう。

「――志希、ちゃん」

 一瞬だが、性質がフレデリカの物に変わっていた。アシェラトの恐ろしげな瞳に、人間的な色が過る。表情も、酷い懊悩で彩られていた。

「え、フレ、ちゃ――」

 志希が何かを言うより速く、アシェラトの鳩尾に、血濡れた手が生えた。
アシェラトの背後に回った永琳、彼女の右貫手が、プリンに針でも刺すような容易さで、頑丈な女神の身体を貫いたのだ。
血の雫が飛び散り、志希の白衣と顔に、降り掛けの雨粒のように付着して行く。酷く生暖かく、ぬめっている。
何処か塩くさい鉄の香りが、志希の嗅覚が捉える。其処で漸く、我が前で起っている事態を彼女は認識した。
永琳はアシェラトの身体に蓋をしている右腕を引き抜いた。ドボッ、と言う効果音が付きそうな程の勢いで、血液が鳩尾に空いた風穴から溢れ出た。

 ――この瞬間だった
今まで永琳が戦っていたアシェラトと言う存在に、ビデオ映像を巻き戻したような急速な変化が齎されて言ったのは。
白かった肌は一瞬で白人相応の肌色になり、伸びていた金髪が短くなって行き、手にしていたナイフも粒子になって消えて行く。
そして、志希と永琳の前に現れたのは、クローネのコスチュームに身を包んだ、宮本フレデリカの姿だった。
怒れる地母神としての面影は顔にも身体にもなく、大地の恵みと怒りを象徴する大量の魔力も、既にフレデリカにはない。十九歳相応の小娘としての風格を纏った、一人の人間の姿があるだけだった。

「――ああ、美味しそう」

 志希の背後十m程先に停車されていた、ケバブの移動販売車を見ながら、フレデリカがそう言った。
ドッ、と言う音を立ててフレデリカが仰向けに倒れ込む。「フレちゃん!!」、と志希が叫び、彼女の所へ駆け寄った。

「す、凄い……お友達だね~シキちゃん……あ、アタシにもそう言う友達……いたんだよ~……う、嘘、だけど……」

「喋らないで!! 血が、血が……!!」

 こうしてる間にも、フレデリカの身体からは血が流れ続けている。
永琳の貫手によって生み出された鳩尾の風穴は元より、如何やらアシェラトの時に負った傷も据え置きらしい。
無理やり矢を引き抜いた傷も完全には回復し切っておらず、其処からもだくだくと、生の証である紅い液体が流れ続けていた。死の瞬間まで秒読みである事が、素人でも受け取れよう。

「ねぇ、アーチャー!! 傷……治してよ!! フレちゃんの傷も、治せるんだよね!?」

「……」

 首を横に振る永琳。途端に、絶望の紗幕が志希の顔を覆った。
無論の事、永琳は嘘を吐いている。フレデリカを苛む傷を治す事は、永琳にしてみれば赤子の手を捻るよりも容易い事。
だが、フレデリカを苛んでいる最も重要な、情報改竄による悪魔への変身能力、こればかりは現状治す事は出来ない。
これがある以上フレデリカは暴走を引き起こし、志希の命に危険を齎す可能性が極めて高い。つまり永琳は、治せないのと同時に、治したくないのである。
これは即ち、八意永琳と言うサーヴァントが持つ医術の敗北であった。殺した方が楽になると言う道への、逃避であった。

「そ、そうだ、ねぇフレちゃん!! メフィスト病院って知ってるよね?どんな病気でも治してくれるって病院何だけど、あたし達今其処でちょっと働いてるの!! す、凄いでしょ? だから、其処に行って、治そうよ。ね、ね!!」

「……あはは、初めて、見た……。シキちゃん、意外と泣き虫さんだね……」

 言ってフレデリカはよろよろと、血に濡れていない左手を上げて、志希の頬にそっと触れた。
フレデリカの思わぬ動作に一瞬たじろぐ志希だったが、直に、その意図を知る。眦がやけに熱いと思った彼女は、目元を指で触れてみる。
透明な雫が、志希の細い指から滴り落ちた。他ならぬ自分の眼から、今も泉のように湧き出てくるそれを、志希は止めようとどんなに思っても、止める術を持たなかった。

「え? あ、あれ? おかしいな……あたしが泣いてたら、フレちゃんを励ましたって……」

 白衣の袖で何度も何度も顔を拭うが、全く涙が止まらない。ただ袖に、温い濡れ痕を作るだけだった。

「……アタシね、二人、殺しちゃった。加蓮ちゃんと凛ちゃん……」

「……えっ?」

 予想だにしない言葉に、志希が呆然とした表情を浮かべる。

「悪い奴を……やっつける為に、って……嘘、吐いてね……。本当は、お腹が空いてるのを我慢……出来なくて、酷い事して……それで……それで……」

 血液の塊が、フレデリカの口から溢れ出た。「フレちゃん!!」、悲痛そうな叫び声が響き渡る。

「だから……ね、二人の所に行って……あ、謝りたいなぁ……って。で、でも……許して、くれるかなぁ……と言うか、アタシ、あんな酷い事して、二人と同じところ、い、行ける……のかな……?」

 話の内容が、全く頭に入って来ない。脳の処理が追いつかないのと、脳がフレデリカの言っている言葉の理解を拒んでいるせいで、全く言っている意味が咀嚼出来ない。
頭蓋の内部が燃えているように熱く、その熱に充てられたせいか、今も双眸から溢れ出る涙は、灼熱の溶岩のように熱かった。

「し、シキちゃ~ん……な、泣いて……ばかりじゃ変な顔になっちゃうぞ~……♪ す、スマイルスマイル……」

 口の回り愚か、首すらも血でぬらつかせているフレデリカが、ヒクヒクと痙攣した口の端をつり上げて、無理やり笑みを作ろうとした。
それにつられて、志希の方もいつもの笑みを浮かべようとするのだが、口の端が、糸で縫いつけられたように上がらない。
上げようとしても、ふるふると唇が震えるだけで、笑みと言うよりは寧ろ、哀しみを必死に抑えている風にしか、傍からは見えなかった。

「……し、シキちゃん……」

「な……に……?」

「……お腹……空いちゃったな……アタシ。あそこの美味しそうなケバブ、お、……奢って、欲しいなぁ……って」

「け、ケバブ……って」

 後ろを振り返る志希。確かに其処には、ワゴン車を改造した、移動式のケバブの屋台が存在した。
店員は気の弱い者だったか、焼いている途中だったケバブの肉塊をそのままに、何処かに逃げ出し、無人の状態であった。

「わ、解った。待っててね!!」

 間違いなく、これが今生の別れとなると、志希も悟ったらしい。最後の頼み位、聞いてやらねば嘘である。
急いでケバブの販売車の方へと駆け出し、店員が作り置いている筈の物を探し、見つけた。パンに分厚い肉を挟んだそれを手に取ってから、志希は急いで店内に千円札を置き、フレデリカの方へ駆け寄る。

「ちょっと冷たいけど、たぶん美味しいと思うよ!!」

 そう言って志希は、フレデリカの口元にケバブを持って行く。
……全く、フレデリカがケバブを咀嚼する感覚が、志希の腕に伝わって来ない。パンに挟まれた千切りにされたキャベツやレタスなどの野菜が、
ただパラパラと落ちて行くだけ。嘗て悪魔に変身出来、そして自らの在り方と悪魔に変身出来る事による副作用に苦しんでいた少女、フレデリカの瞳は、閉じられていた。
瞳から頬に掛けて、何か透明な雫が通った跡が、志希には痛い程解る。鉄のように重い瞼が閉じられたその表情は、笑いながら泣いているように志希には見えた。
そっと、頬を触ってみる。何が起っているのかは、実を言うと触れずとも解る。誰だって解るだろう。だが、解っていても、彼女は解りたくなかった。
だから、最後の確認と言う意味で、触れてみた。フレデリカの身体から急速に熱が引いて行くのを、志希は再認してしまった。触れねば良かったと、彼女は思った。

「……貴女が向こうに行っている間に、亡くなったわ」

 其処で、志希の身体に火が灯った。
持っていたケバブを放り捨てて立ち上がり、無慈悲にフレデリカの状態を告げた永琳の頬を、右掌で打擲した。
パンッ、と言う小気味の良い音が鳴り響く。音速にすら反応出来る程の反射神経を持つ永琳が、避けなかった。永琳の身体は、叩いた志希の方が申し訳ないと思う程に、柔らかかった。

「……」

 黙って永琳が、志希の方を見つめる。まだ、その目には涙が溜まっていた。

「……生き物ってさ、本当に謎が多いよね……。虫や犬、鳥の謎だって解明出来てないのに、自分達ヒトの謎だって人間は全部解き明かせてない……。だけどね、一つだけ。生き物に対して、確かに解る事が、あると思うの」

「それは?」

「どんな生き物だって、死ぬ事からは避けられない」

 至極、当然の事だった。
ませた子供ですら、今時は知っている理屈だろう。しかし永琳はそれに対して茶々を入れずに、聞き続ける。

「『死』なんて、究極的には全ての生き物が最後に経験する不可避の生理現象でしょ? 地球だって太陽だって、宇宙だって永遠じゃないんだから、人間なんかが永遠に生き続けられる筈ない。消えてはまた生まれて、の繰り返し。だからね、死ぬ何て事、そんな悲しく思わない方が、幸せに生きられるんじゃないかな~……って、……あたし、思ってた。だ、だって……誰だって、経験するんだもん……」

 言葉が後の方になるに連れて、プレゼンテーションを行う様な饒舌さが志希の口から失われ、計画性も纏まりもないアドリブをしているかのように、口調の統一も無くなり、言葉を選ぶと言う事にも時間が掛かるようになって行く。

「でも、口でそう言っても、心ではそう思ってても……全然……ダメだね……。NPCだから、泣く事はないって……アーチャーは言うのかも知れないけど……あたし、凄い悲しくて……悔しくて……」

 其処で、堪えていた感情が決壊し、涙が志希の瞳から溢れ出た、石畳に落ちて、涙が砕ける音すら聞こえそうな程の静寂を、志希が思いを乗せた言葉で切り裂いた。

「NPCだって解ってても、元居た世界のフレちゃんじゃないって解っても!! あたし、全然駄目で、フレちゃんの死を本当のフレちゃんの死と重ねてて!! フレちゃんと一緒に笑おうとしても笑えなくって!! 涙だけが出て悲しい気持ちになってて!! フレちゃんの苦しみを慰めたくても慰められなくて!!」

 話す内容もまとまりがなく、ただ心の中に浮かんでは消える言葉を一つ残さず、後悔しないように、ヒステリー気味に志希は叫び続ける。
それを永琳はただ聞き続ける。心に浮かび続ける闇を、志希が吐き出し終えるまで。やがて、志希の方も、身体の内部を燃やし続けていた感情の焔が消えたのか、思いの丈を叫ぶうちに頭も冷え、叫ぶトーンも落ち込んで行く。萎んだ風船のような態度で、彼女は口を開いた。

「あたし……結局、何も出来なかった……。フレちゃんを慰める事も、一緒に笑う事も――」

「泣いて、あげられてるじゃない」

 志希が何かを言うよりも速く、永琳が言葉を挟み込んだ。

「な、泣いて……って……」

「彼女の死を、医者の分際で私は避けさせる事が出来なかった。その上、死んだ彼女の為に、流す涙もない。けど貴女は、彼女……フレデリカの為に、泣いてあげれてるでしょ?」

 今も流れ続ける涙を、志希は指で掬った。人差し指の半ばまで、熱く濡れそぼった。

「……私は、殺したフレデリカの為に、泣いてあげる事は出来ないけど、貴女はそうじゃない。キチンと、彼女の死を悲しんであげられてる。その時点で貴女は、私よりもフレデリカと言う少女の事を救えているのよ」

 志希は、黙って聞き続ける。

「離別の哀しみを癒すのに、医術は不要。ただ、感情に任せるまま、泣き続ければ良い。貴女に泣かれても、私は困らないし笑わないわ。思い切り、子供みたいに泣きなさい」

 沈黙を保ち続ける志希を見て、永琳は言った。

「……良いのよ、子供で。人の為に涙を流せる自分を、誇りに思いなさい。一ノ瀬志希」

 其処で、志希から遠慮が消えた。 
よろよろとふらつく足で永琳の方に近付き、倒れ掛かるように永琳の方に抱き着いた。

「ひっ……うっ……ああああああああああぁああぁぁあああぁあああぁあああぁぁああぁ!!」

 志希の方も、溢れ出る感情を堪えきれなかったらしい。
感情の荒波を堰き止めていた理性と維持と言うダムは、永琳に触れた瞬間決壊。愛児を失った母親の如き号哭を上げ、志希は涙を流し続けながら叫んだ。

「フレ、ちゃんが……フレちゃんがああぁああぁああぁぁああぁああぁぁあああぁ……!!」

 自分の服が涙で汚れる事も厭わず、永琳は志希を泣かせ続けた。それで、彼女の気が済むならば安いものだった。
志希に胸を貸してやりながら、永琳は、あの白亜の大医宮に君臨する、一人の魔人の事を考えていた。
白いケープを身に纏う、この世の美の体現者。女神ですら蝙蝠の如く逃げ散らしてしまうだろう、運命と偶然を味方につけたような美貌の持ち主、ドクターメフィストの事を。

 プロフェッショナリズムと言う言葉を用いる事すら躊躇われる程の、常識を逸脱したプライドを持った男。
それが、メフィストと言うサーヴァントだと永琳は思っていた。実際、医術の道を志す者であれば、それだけのプライドは必要になるだろう。永琳だってそう思う。
だが、あの男のプライドの高さは異常である。度を超えたメフィストのプロフェッショナリズムを、永琳は内心で嘲笑していた。
其処が、付け入る隙になると。不必要な程の倨傲さは命取りになる、と言う世の法則を大先輩として教えてやろうかとも、思っていた。

 だが実際は、自分もまたメフィストと同じだったようだと、永琳は自身について再認した。
志希の友人であると言う贔屓を抜きに、フレデリカと言う人物を救えなかった自分の無力が堪らなく腹が立つ。殺すと言う事でしか救えなかった自分が呪わしい。
――そして、人間の情報を改竄させて悪魔にさせると言う手法を取る何者かの存在が、殺してやりたい程憎々しい
事の張本人の顔も姿も名前も永琳は解らない。だが一つ言える事がある。このような事を行う存在をこそ、きっと、吐き気を催す程の邪悪と、言うのだろうと。

 ――……あの魔界医師と、同じ穴のムジナのようね、私――

 志希に胸を貸し続けながら、永琳は思う。受けた恨みは十倍どころか百倍に返してやらねば気が済まない。
人を悪魔化させる技術を持ったこのサーヴァントは、八意永琳の全霊を以って滅ぼさないと溜飲が下がらない。永琳は、元凶となるサーヴァントを絶対に葬るのだと心に誓った。

 ――結局自分と言う女もまた、ドクターメフィスト同様、プライドの高過ぎる一人の医者である事を、八意永琳は改めて認識したのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 完全に観客全員が逃げ切り終え、無人の廃墟に近しい様相に成り果てた新国立競技場のフィールド内。
そんな状況にも関わらず、この場に残っている者が二名、存在した。観客ではないし、況してや残された者でもない。二人は自分の意思で残っている者だった。
一人は、見事な業物の刀を神技の如き軌道で振るい続ける、蒼いコートをたなびかせる銀髪の美青年だった。
刀を振るう、その一つ一つの動作が洗練された武の極致。足運び、重心の移動、そしてその剣筋の鋭さ。
どれもがこの時代の武術者では足元にも及ばぬ水準であり、その技練から放たれる居合は、空間すらも斬り取れそうな程の速度と威力を内包しているのだ。
もう一人は、黒いローブを纏った立派な偉丈夫だ。彼は両手に握った、先の蒼コートの男の身長程もある大剣を、己の手足の如く振っていた。
大きい得物程、振い難く扱いにくいが常識であるが、それは常人が認識している武の法則。この大男にとっては、そんな法則は当てはまらないらしい。
まるで小刀でも振っているような器用さで両大剣を振い、迫り来る蒼コートの剣閃を弾き続けるその姿は、正にギリシャ神話に語られるスパルトイ宛らだった。

 蒼コートの男バージルと、黒灰色のローブを羽織る魔将ク・ルームの死闘は、尚も続いていた。
次々と現れた、蒼白く光る不気味な怪物を五分と掛からず殲滅。時間を掛ける必要もない程、あの怪物は、二人の烈士の前では無力だった。
そして、邪魔者がいないと解ると、双方は再び激突。観客の誰もがいなくなったこの闘技場の内部で、死闘を繰り広げていた。

 趨勢は終始、バージルが有利であった。
振う大剣が二本に増えた所で、バージルとク・ルームではそもそもの霊基の出来が余りにも違い過ぎる。
使い魔と言う枠を飛び越え、極めて高位の精霊の類である英霊たる彼らサーヴァントに、使い魔としての枠を出ないク・ルームでは、出力に限度がある。
単純なステータスでは、互角だろう。だが、宝具と言う英霊=サーヴァントの最大の武器を活用するバージルを相手に、ク・ルームが勝利を拾える可能性は、偶然の女神が微笑みでもしない限り、あり得ない。そしてその女神は、魔将を見放している。邪悪なる者の使い魔に堕ちた男には眼中にない、とでも言うように。

 連続して響き渡る、バージルの閻魔刀とク・ルームの大剣の衝突音。
戛然とした金属音が一続きに鳴り響きまくる。ク・ルームはその技巧を以って、致命傷に至る攻撃を大剣で防いではいたが、それ以外の攻撃は喰らう事が多い。
その証拠に生傷の数はク・ルームの方はかなり多いのに対し、バージルの身体にはそんなものは愚か土埃すら付着していない。双方の技量差を示す、何よりの証左ではないか。

 一秒間の間に無数に放たれる、バージルの魔速の居合に、ク・ルームは対応。
剣を二本も持っている、と言うアドバンテージを利用し、急所や末端に対して寸分の狂いなく放たれる、閻魔刀の一撃を次々に防いでいる。
……ように、素人には見えるだろう。しかし実際には、細かい、直撃しても戦闘不能には至らないレベルの攻撃についてはク・ルームは防御を諦めており、直撃を甘んじている。彼程の戦士ですら、直撃は最早避けられない、と覚悟を決める程の、恐るべきバージルの技量よ。

 ――とは言え、ク・ルームはこれを己の敗北だと露程も思っていない。
元々ク・ルームは、十世が思いの外芳しい結果を残せなかった、その尻拭いとして今戦闘を行っている。
この時点で戦略的にも敗北を喫しているとは思うだろうが、結果的には多くのNPCにク・ルーム=タイタス=アルケアの因子を刻み込める事が出来たであろうし、結果的にはバージルと大杉栄光と言う、一筋縄では行かないサーヴァントの情報を二名も知る事が出来た。NPCにアルケアの情報を刻み込む、と言う当初の目標は、
確かに始祖・タイタスが意図してものを下回るだろう。だが、驚異的なサーヴァント二体の情報を手土産にすれば、結果的にはイーブンにまで持ち込める。
つまり、元は十分過ぎる程取れているのだ。後は頃合いを見て、退散するだけである。尤も、バージルが相手では先ず逃れられまい。
極めて不服であるが、命の数を一つ減らして逃亡する必要があるようだ。まさか今日だけで命を三つも失う羽目になるとは思っても見なかった。
聖杯戦争、かくも恐るべき戦場かと、ク・ルームの背骨が震える。タイタスから聞かされていたが、かくも恐るべき魔戦であったとは。

 バックステップで距離を離し、覚悟を決めるク・ルーム。
玉砕覚悟で大剣を構え、突進を始めようとした、その時だった。自分の頭上から、第三者の気配を感じ取ったのは。
上空の敵意は一言で言えば、烈火だ。迂闊に触れれば肉どころか骨すらも灰にする程激しい敵意。
それにも関わらず、その敵意は極めて指向性が高く、目標目掛けて一点に向けられており、何の迷いもない。そう――これは、強者だけが放てる敵意であった。

 頭上を見上げるク・ルーム。其処には、紅い外套をはためかせ、天蓋から降り注ぐ隕石の如き勢いで此方に堕ちて来る誰かがいた。
其処から先の事を、この魔将が知る事はなかった。誰かが堕ちて来た、と認識したその瞬間。この魔将の身体は、頭頂部から股間に掛けて、見事なまでに真っ二つにされ消滅していたからである。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「……いるのではないかと、思っていた」

 そう口にするバージルの声音には、ク・ルームに対して言っていたそれとは次元の違う程の敵意と殺意が溢れていた。
ク・ルームと話す際、バージルは、彼を一太刀で斬り捨て、処理をする程度の認識で話していた。言ってしまえば、路傍の小石と同じ感覚でしかなかったと言う事だ。
――今は、違う。バージルは目の前で佇む、紅コートのセイバーを完全に、対等な敵として相手する気概でいた。
それはつまり、手を抜いて戦って勝てる相手では絶対にないと言う事。バージル自身が、死を覚悟する程の強敵。居丈高な態度を崩しもしないバージルが、そう認めているのと同義だった。

 そう認めるのも、当たり前の存在だった。
バージルは、目の前の紅の魔剣士の存在を、生前から知っていた。そして、目の前の男は、バージル程の強さの男を二度に渡って打ち倒している。
バージルが、今のままの姿だった時。そして、殺してもなお足りない程憎んでいる悪魔共の頂点・ムンドゥスに操られていた時。
目の前の存在こそは、自分と唯一対等であった男であり、そして真実、自分を超えた男。

「来たか、『ダンテ』」

 その名を、この地で口にする機会は二度とない、と思っていたかと言うと嘘になる。血の繋がりと言うものは、英霊の身になっても消えぬものらしい。
根拠こそなかったが、バージルは、己の悪魔の血で、この<新宿>に己の血縁がいるのではないのか、と言う予測を遥か前から立てていたのである。
そしてそれは、紅コートの魔剣士・ダンテにしても同様。彼もまた、己に流れる大悪魔・スパーダの血を以って、自分の血縁がいるのではないかと考えていたのだ。

「アンタが出張るイベントはロクな事にならねぇな」

 厳かさを隠さぬバージルに対し、ダンテの語り口は軽く、おちゃらけたそれに聞こえるだろう。事実、ダンテの表情は、常通りの不敵な笑みのそれである。
……だが、声の端々から裂いて現れるような、圧倒的な覇気はどうだ。その道に通暁する戦士は元より、枝すら振るった事のない腕白の対極にいるような子供ですらが、ダンテの並々ならぬ敵意を感じ取れるだろう。

「華の舞台だってのに、ノーフードで、ノーアルコール。それに、……ハハハ、ひでぇな。目玉の可愛い子猫ちゃんも、あんなザマだ」

 ダンテが、先程10世が破壊したメインステージの方に目線を向けた。
破断されたステージの中央あたりに、黒焦げになった三人のアイドルの死体と、下半身だけが黒焦げになり、上半身に何かに貫かれたような血色の風穴が穿たれ、倒れ伏している少女の姿があった。

「お前は何時だって時間にルーズだろうが。何かと時間に遅れ、中途半端に得物を取り逃す」

「だが何時だって、メインディッシュには間に合うぜ」

 ダンテの返答は、即答とも言うべき速さだった。

「アンタの事は大体解ってるつもりだ。欲しいんだろ? 聖杯がよ。親父が泣くぜ、バージル」

「貴様には関係ないだろう、ダンテ。俺は、より力を手に入れ、貴様が狩り残した悪魔共を斬り尽くすまで」

「Wow、素晴らしい心構えだ。拍手を送ってどうぞどうぞと言いたい所だが、生憎俺は聖杯を破壊する立場でね。アンタの心を此処で挫く必要があるんだ」

「その返事も、薄々だが予測出来ていた。そして、俺達が出会えば、戦うしか道がないと言う事も」

 其処で、ダンテがガンホルスターから、黒色の銃身を持った巨大な拳銃、エボニーを取りだし、バージルの額に照準を合わせた。
陽の光を受けて、名の通りのエボニー(黒檀)の名を冠したその銃身が、ギラリと、死神の振う鎌めいて輝いた。

「奇遇だな、俺もなんだ。トラブルが起ったら仲良しのキスで円満に、とはいつも行かないな俺達は。双子、だってのによ」

 沈黙が、場を支配した。身体に変調を来たしかねない程の、濃密な殺意が場を満たし、そして荒れ狂った。
足元にはグチャグチャに耕された芝生の地面、どれが男でどれが女なのかも解らぬ程粉々になったNPCの死体。
酸鼻を極る悲惨で無惨なこの光景の中にあって、二人の魔剣士は、己の殺意と敵意を曇らせる事無く。これから死闘を演ずる相手の事を、睨みつけていた。

「感動の再開なんだ。笑って戦って、笑って死ねよ。バージル」

 そう口にするダンテの顔も、笑っていなかった。

「……前者は、お前を斬り殺す事よりも難しいな。後者に至っては、俺には出来ない」

 鯉口を切ってから、バージルが告げた。

「死ぬのはお前だからだ。ダンテ」

 両者の姿が、霞のように消えたのは、この瞬間だった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「逝きすぎイイイイイイイィィィィィィィ~~~~~~~~~~~~~~wwwwwwwwwwwwwww(宝塚ボイス)」

 リハーサル室の床に、敷かれた絨毯めいて転がっている、様々なアイドルの姿を見て、美城――否、ベルク・カッツェはのびのびとした声で叫んだ。
集団ヒステリーでも起こした後のように、様々なコスチューム、様々な年齢、様々な体格が地面に横たわっている。
此処に血が流れていれば、機関銃の一声掃射を受けて倒れた群衆の姿だ、と説明しても皆は信じるだろう。それ程までの、壮絶な光景だからだ。

 カッツェの扇動により、この場にいるアイドル達の九割九分が、己の持っているスマートフォンやPC類に、CROWDSを操作出来るアプリを落とし込み、
CROWDSを競技場内で戦っているであろう存在の下に差し向けた。その結果が、この通りだ。CROWDSがNPCならば兎も角、サーヴァント相手には糞の役にも立たない。
この事をカッツェは知っていた。自分が対処出来る存在なのだ。強さに秀でたサーヴァントが、あんな図体だけデカい、的そのものの怪物に後れを取る筈がない。
要するにアイドル達は、――実際には死んでいないが――無駄死にに近いのである。無論、そうなる事もカッツェは知っていたし、万に一つも勝つ事は愚か、
サーヴァントに手傷を負わせる事すら出来ないだろうと踏んでいた。そうと解っていて何故、カッツェがアイドルを差向かわせたのか。

 ――簡単な話だ。全ては、己の悦楽の為だ。
破滅的な光景、人間同士が醜く争う情景、ドロドロとした憎劇。それこそが、カッツェが人間に対して求めるもの。
愛、友情、努力、結束、成功、決意。そんな物、人間に対して求めていない。生き物の本質は並べて、戦争と階級闘争である。
そしてその末の破滅を、カッツェは何よりも好む所とする。それを特等席から眺めるのは、カッツェにとってはこれ以上と無い愉悦なのだ。
それは聖杯戦争の参加者だろうがNPCだろうがどうでもいい。人が争い破滅する、その姿が良いのだ。
本当の敵は誰で、今やるべき事は何なのか。それを見失い、勝手に暴走して勝手に倒れて行くアイドル達の姿は、実に楽しかった。
仲間が意識不明に陥っても、何の疑問も抱かずカッツェにアプリを落とし込んでくれと頼んで来たアイドルがいた時など、
美城の姿を崩してしまう程の爆笑を堪えるのに必死だった。その目で、CROWDSを破壊された存在がどうなるかを見ているにも拘らず、このザマ。
この、暗黒面のカオスの具現化たるアサシン・カッツェが、こう叫ばぬ筈がない。

「ンンンンンンンwwwwwwwwwwwwwメシウマアアアァアァアァァァアアァァァァア!!!!!!!!!wwwwwwwwwwwwwwwwww」

 テンションが上がり過ぎて、地面に転がっていた適当なアイドルを蹴り飛ばした。
蹴りが当たった瞬間、そのアイドルの胴体から骨が飛び出、風のような速度で壁に激突。うめき声を上げる事無く、その少女は地面に倒れた。
頭からコンクリートの壁に激突したせいか、あり得ない方向に首が曲がっている事に、カッツェは気付いたか如何か。

 さて、と、これからの予測を立てるカッツェ。
九割九分のアイドルは、見ての通りの様子なのだが、残りの一分のアイドルは、アプリを落とし込む為の端末を持っていなかったり、
怖くなって逃げ出したと言う理由で取り逃してしまった。これを、追ってみるかとカッツェは思い移動を始めようとした、その時だった。

 ガチャッ、と、ドアが開く音が聞こえて来た。その方向に顔を向ける。
するとその方向には、パーカーを身に纏う、オレンジがかった茶髪の青年と、野球帽を被った無精ひげの青年がいるではないか。
二人は、リハーサル室の驚くべき光景に、驚愕の表情を隠せぬ様子であった。パーカーの青年――大杉栄光が口を開く。

「なん……だよ……これ!!」

 そう、言いたくもなるだろう。床のタイルが見えないと言っても過言じゃない程に、大量に倒れ込んだ346プロのアイドル達。
一部屋に大量人間を集め、其処に毒ガスを散布した風な破滅的な光景にしか、余人には見えないだろうし、そう言っても信じてしまう程の説得力があった。

「き、君達は……!?」

 此処でカッツェは、カッツェとしての仮面(ペルソナ)ではなく、美城としての仮面(ペルソナ)を被ってそう言った。
演技である。二人を騙す為の。そして、彼らを破滅させる為の。

「いや、今は如何だって良い!! 君達、緊急事態なんだ。手を貸し――」

「その必要はねぇよクソ野郎ッ!!」

 栄光は、主である順平が初めて聞く様な、怒気を露にした様な声でそう叫び、美城に扮したカッツェの下に飛び掛かる。
その両脚には既に風火輪が装着されており、其処から炎状のエネルギーを推進力代わりに噴出させ、カッツェの反応を許さぬ程の速度で急接近。
そして、彼の顔面に右脚による回し蹴りを叩き込むが、サーヴァントとしての反応速度でカッツェは、慌てて両腕でこれを防御。
しかし、防御の際に力を込めていなかったか、カッツェは弾丸みたいな速度で蹴られた方向へと吹っ飛んで行き、先程蹴り飛ばしたアイドルが衝突したコンクリの壁に激突。栄光の蹴りの威力は、吹っ飛ばされたカッツェがその激突の勢いで、コンクリの壁を薄焼きの煎餅みたいに砕いて尚余りあるほどの威力があった。

「ら、ライダー!?」

 順平が困惑したような声を上げる。
命令を無視しての突飛な行動よりも寧ろ、栄光がこんな声を上げられるのか、と言う事実に寧ろ驚いていた。

「マスター!! そいつはNPCじゃねぇ、NPCに化けてるサーヴァントだ!!」

 地面に着地してから栄光が叫ぶ。
そう、栄光は気付いていた。元々栄光達は、競技場内を移動しながら、栄光の持っている解法の技術で、何処に誰が隠れ潜んでいるのかを虱潰しに探していた。
此処に現れたのも、その一環。此処リハーサル室の壮絶な光景を前に順平は怯んだが、栄光だけは、唯一この場所に置いて無事な状態だった美城=カッツェを、解法の技術で解析していた。結果は、黒。いやそればかりか、目の前に倒れ伏している大量のアイドル達が、なぜこうなったのかと言う原因だと言う事も解った。

 これが解っていたから、先んじて栄光はカッツェに攻撃を仕掛けた。事実だ。
だがもう一つ、理由がある。それこそが、重要な事柄であった。それは、大杉栄光から見たベルク・カッツェが、心底のクソ野郎に映ったと言う事である。
カッツェは明らかに、此方を演技でハメようとしていたが、栄光はそれを先述の解法で見抜いていた。その腐った性根が、許せない。
同じ手法でこの場にいるNPCも陥れたのだろう。目の前のサーヴァントは自身の悦楽の為に、地上に混沌を齎し、人類が破滅するまで争い戦わせる、
絶対悪その物だと栄光は認識した。そんな存在、栄光は知っている。生前見た事があるからだ。蝿声厭魅と言う名前の、無窮の悪意が形を成した存在であった。

「え、NPCって……俺には全然」

「俺じゃねぇとわかんねぇよ!! そしてこいつは、この光景を作り出した、張本人のクソ野郎だ!!」

「誰がクソだこのチビガキがああぁあぁあぁぁ!!!」

 怒気を露にそう叫び、カッツェは、先程蹴り飛ばしたアイドルを再び、栄光の方へと蹴り飛ばした。
サッカーボールの如き勢いで吹っ飛ばされたそのアイドルを、慌てて栄光はキャッチするが、身体が異様に冷たい。そして、首がほぼ直角に折れている事にも気付いた。
誰がやったのか。答えは一つだった。怒りが、身体を支配して行くのが、栄光には解る。

「テメェッ!!」

 栄光が口角泡を飛ばして叫ぶと同時に、カッツェが変身を解除する。
美城の姿から元の、ボサボサの赤髪を長く伸ばした長躯の男の姿に。口元は怒りに歪み、体中からは異常とも言うべき殺気が、瀑布の如くに迸っていた。

「ドアをノックしてから部屋に入る者だって、教わらなかったんですかぁ~????wwwwwwまぁ、人に勝手に蹴りかかる育ちの悪い猿には解らないんでしょうがねwwwwwwwwww」

 おどけた口調でそうは言うカッツェだったが、伸ばした前髪から見え隠れする、血のように紅い瞳は、全く笑っていなかった。

「マスター、コイツに普通の理屈は通じねぇ、このまま放っておけば災厄になるゴミだ!! この場で仕留める必要があるぞ!!」

「……テメェ、猿の分際でゴミだクソだのと……」

 其処でカッツェは、右手にノート状のアイテムをアポートさせ、それを水平に伸ばした。
これこそが、ベルク・カッツェがガッチャマン形態になる為に必要な宝具、幸災楽禍のNOTE。これを出す以上、目の前のサーヴァント、大杉栄光に齎す結果は一つ。『死』以外にはなかった。

「ミィを仕留めるって言ったな……? 燕が鷹に勝った試しは何処にもないですよぉ?wwwwwwww」

「自分で自分の事を鷹って言う奴は、総じて雀みたいな強さしかねぇんだよ。クソ野郎」

 ――其処で、ベルク・カッツェの切れた堪忍袋の緒が、ズタズタに引き裂かれた。

「……五体満足で死ねると思うなよ野蛮な猿がァ……!!」

 その一言を契機に、NOTEに魔力が収束して行く。それを見て、順平も構えた。

「BIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIRD GO!!」

「ライダー、お前に全てを任せるぜ。そいつを処理しろ!!」

「応ッ!!」

 カッツェに蹴り飛ばされて死んだアイドルを床に置いてから、大杉栄光は変身したベルク・カッツェの下へと向かって行く。
人を幾人も喰らって来たかのような悍ましい姿の凶鳥に、翼を燃やしながら燕が特攻して行く様子に、今の構図は似ている。
悪なる鳥と善なる鳥が、今、<新宿>の地下を舞おうとしているのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 如何して、こうなっているのか安部菜々には理解が出来なかった。
何故皆、あんな怖いのを平気で操ろうとしているのか。何故皆、あんな怖い存在と戦う気概があるのだろうか。
絶対に、逃げた方が楽なのに。警察やらに任せた方が、丸く収まる筈なのに、どうして自分達だけで解決しようとするのだろうか。
それが、彼女には解らなかった。だから、逃げ出した。あの、狂気と狂奔が渦巻くリハーサル室から、幾人かの年少の子供達を引き連れて。

 アプリを落とし込む為のスマートフォンを、まだ買っていなかった事が菜々には幸いした。
ガラケーではどう足掻いてもアプリを操作できないからだ。だから、美城の提案には乗るに乗れなかった。もっと言えば、洗脳されなかったと言うべきなのかも知れない。
この機に乗じて菜々は、リハーサル室にいた小さいアイドル達、即ち、赤城みりあと佐々木千枝、城ヶ崎莉嘉の三人を引き連れて、新国立競技場の外へと出ていた。
菜々の力では、この三人を外に出すだけで手一杯だった。次戻った頃には、もう多くのアイドルが、駄目になっているかも解らない。
だがそれでも、現状マシな物にするべく、せめて子供達は救ってやりたかった。年長者として、その義務があると思ったのだ。

「良いですか、皆!! すぐ近くにTV局の中継車とかがある筈ですから、其処に助けを求めに行くんですよ!! 絶対に保護して貰えますから、ね!!」

 此処までくれば、後は関係者に保護を言い渡せば全て丸く収まる筈。
誰もいなくなった警備員の詰所から外に出た安部奈々は、一緒に同行していた三人の小さいアイドル達にそう告げた。

「で、でも菜々ちゃんは、どうするの……?」

 莉嘉が心配そうに顔を見上げて来た。まだ泣き足りないのか、眦に涙が溜まっている。

「私は、また中に戻って、皆を戻します」

「だ、ダメだよ!! い、いっしょに行こうよ!!」

 みりあの方が、今度は懇願する。つられて莉嘉や千枝も、一緒になって頼み込んだ。
その健気さに菜々は涙が出そうになるが、今は彼女達の安全の方が重要だった。

「ナナは、ほら、大丈夫ですから!! 皆は早く家族の所に戻ろうね……? お願いだから」

「菜々ちゃん……」

 不安そうに、菜々の顔を見上げる三人。言いたい事が解ったのか、皆はこれ以上、何も言わなかった。

「うん、いい子だね。それじゃぁ、私、行って――」

「あの、すいません。此処に私と同じ礼服の殺人鬼がいるって本当ですか?」

 三人を抱きしめようとしていた菜々達の方に、そんな、気の抜ける男の声が聞こえて来た。声は明らかに、菜々達に向けられていた。

「……へ? 確かに、それらしい人はいましたけど……」

「そうですか、ありがとうございます」

 菜々が、その男の方に顔を向けると、菜々の首に、凄まじいまでの衝撃が舞い込んで行き、その衝撃で首が捩じ切られる。
ぶちぶちと嫌な音を立てて筋繊維が引き裂かれ、その勢いのまま菜々の首が宙を舞った。三人を抱きしめようと言う姿勢のまま、彼女は、三人の少女のアイドルの方に、ドッと倒れ込んだ。

「ありゃ」

 先程まで自分達と話していたアイドルの無惨な死に方を、三人は理解出来ていないようだった。
三人の子供達を見下ろすのは、凶器くじ番号五十九番、ステンレス製の火かき棒を右手に持った、黒礼服の殺人鬼、黒贄礼太郎であった。

「……ま良いか。子供は社会の為に必要ですし、環境保全環境保全」

 そう言って黒贄は、菜々達が先程出て来た警備員の詰所のドアから、競技場の内部へと入って行く。
黒贄が閉めたドアから、三人の子供達の悲痛な叫び声が聞こえて来たが、黒贄がそれを認識していたのかどうかは、解らない。