人が通る分には十分過ぎる程広く。しかし、サーヴァント同士が魔戦を繰り広げるには余りにも狭い。
そんな、<新宿>は新国立競技場の地下通路を、二匹の魔鳥が舞い、戦っていた。
混沌と邪悪とを世界に振り撒くベルク・カッツェと言う名の凶鳥と、勇気と義理とを重んじる大杉栄光と言う名の正義の燕が。

 余人の目には、紫色の残像と橙色の残光が、まるで浜辺のウミホタルのように廊下のあちらこちらを駆け巡っている様にしか見えないだろう。
そして、その残像の合間を縫うように、黄金色の光が瞬くのだが、これを橙色の光はヒュンヒュンと回避しながら、紫色の残像へと向かって行く。
何が何だか、解らない。そうとしか、見えなくて、当たり前だ。余人に語っても嘘か冗談の類としか受け止めて貰えないような死線を潜り抜けて来た、
伊織順平にですら、二人の戦いを切り取った一瞬の一コマすら見る事が叶わない。二人はそれ程の速度で、血で血を洗う死闘を行っていた。
残像と残光の正体は、傍目から見れば瞬間移動をしているとしか思えぬ程の速度で縦横無尽にその場を駆け巡る、ベルク・カッツェと大杉栄光と言う二人のサーヴァントであった。

 大の大人が数人も輪にならないと囲めない程の太さの幹を持つ大樹を、枝のように圧し折る威力を誇る、菱形の金属を張り合わせたような形状をしたカッツェの尻尾が、
音の二倍程の速度で廊下を駆け抜ける栄光の下へと迫るが、これを三次元的な軌道の限界を超えた、不可避の物理法則である慣性を無視した動きで回避する。
回避したと同時に、栄光がカッツェの方へと向かって行く。音速の加速度と、宝具・風火輪の強度を乗せた蹴撃は、Aランク相当の筋力を誇るサーヴァントの一撃に匹敵する。
耐久力にさして優れている訳でもないカッツェは、この一撃を直撃する事は避けたい。NOTEの力を応用させた空間転移で、別室の中にワープする事で栄光の一撃を回避。
その後、尻尾を鉄筋コンクリートの壁を突き破らせる程の勢いで貫通させ、栄光の方へと叩き付けようとするが、これを簡単に栄光は回避する。
戦って解った事だが、ベルク・カッツェと言うサーヴァントはこう言った技術が物を言う戦闘は不得手らしい。攻撃手段である尻尾による一撃にしても、
栄光は技術の粋と言う物を感じていなかった。ただ、凄まじい速度に物を言わせた攻撃。ならば、避ける事は容易いし、それどころか組みしやすい相手とも言えた。

 戦っている廊下から繋がっている、数多くの部屋、つまりはアイドル達の楽屋や控室として使われていた部屋を、転々と瞬間移動で移動するカッツェ。
攪乱のつもりなのだろう。恐るべき速さだ。単純なスピードであれば、先程競技場で話した蒼いコートのアーチャーに比べれば遅い方であるし、
強いサーヴァントなら見切れよう。だが、部屋から部屋を転々と転移し続けていると言う事実が其処に加われば、途端に見切る事が困難な攪乱として機能する。
これでは、カッツェに攻撃を当てるどころか、カッツェがいる部屋を推量する事すら困難である。――だが、相手が栄光と言う事が、カッツェの不幸であった。
栄光は一方向に狙いを定め、風火輪の出力を上げさせ特攻。後数mmで壁にぶつかる、と言う所で己の身体に解法の透を掛け、壁を幽霊のようにすり抜ける。
すり抜けた先の室内に、尻尾で今まさに攻撃を行おうとしているベルク・カッツェがいた。表情はマスクに似た被り物でうまく伺えないが、
驚愕の気配は十分過ぎる程栄光に伝わる。即座に地面を不様に転がり、カッツェは、空中を滑りながら移動する栄光の、顔面目掛けたドロップキックを回避。
栄光の両足が壁にぶち当たるや、鉄筋コンクリートで仕上げられている筈のそれがスポンジ生地の菓子みたいに崩れて行き、壁の裏側に隠された各種配線が露になる。

 栄光がドロップキックをスカしたのを見た瞬間、カッツェは尻尾を複雑な軌道を描かせて、栄光の方へと向かわせる。
部屋中を、カッツェの尻尾が蜘蛛の巣のように満たしてしまう。置いてあったちゃぶ台を破断させたり、備え付けの小さい冷蔵庫を粉々にしたり、
メイク用の鏡を破砕させたり、蛍光灯をバラバラにしたりと、物のゼロカンマ秒で、部屋に存在する全ての物を破壊し尽くしてしまった。
伸縮自在の尻尾は、その限界まで伸ばしてしまえば、こんな数畳程度の広さの部屋の全てを、尻尾で満たす事など造作もない。つまりは回避不可能な一撃である。
――それなのに、カッツェの尻尾は、栄光の身体に一撃を与えた感触を掴んでいない。栄光が別所に逃れたのか? 違う栄光はこの部屋に確かに存在する。
そう、栄光はカッツェの攻撃を避けてすらいなかった。栄光の身体を、カッツェの尻尾が素通りしているのである!! 胴体や頭部も貫いている風に、傍目には見える。
それなのに、栄光の身体は水で出来ているかのように、尻尾で体中を貫かれているにも拘らず平然としているのである。これぞ、解法の透の真骨頂、攻撃の素通りである。

 苛立ちを発散させながら、カッツェは尻尾を元の長さに戻し、己の身体をNOTEの力で透明化させ、その場から高速で移動、逃れようとする。
が、何かの力が働いたか、即座にカッツェの姿は元の、Gスーツを纏った状態。即ち、左半身がスケルトン状に透けて見え、右半身が紫色の横縞が幾つも走っている、
と言う不思議なコスチュームを纏った、ガッチャマンとしてのベルク・カッツェの姿が露になる。

 ――んだよこのクソ猿、畜生!!――

 Gスーツを纏ったベルク・カッツェは、真実誰の目にも映らない透明な状態になる。カッツェに言わせれば、世界すらも認識出来ない状態になる。
人の目には勿論の事、ありとあらゆる科学的・魔術的な感知手段ですら、カッツェの姿を捉える事は出来ない。真実不可視の状態になるのである。
そして其処から、一方的な攻撃を加えたり、世界を災禍の坩堝に叩き落とす、これこそが、カッツェの愉しみなのである。
それが、今や通用しない。如何なる技を使っているのか、カッツェの透明化は完全に引っぺがされ、その姿を露にされている。
ベルク・カッツェと言う邪悪なガッチャマンにとって、これはストレスだった。透明化を破られている、と言う事も無論そうである。
だが一番の理由は、下等な人猿と蔑み嘲笑している人間に、己の優美で強壮なガッチャマンとしての姿を見られている、と言う事それ自体が、怒りのツボを剔抉するに足る事柄なのだ。

 廊下へと躍り出たカッツェ目掛けて、栄光が中空を滑りながら追跡。
壁をすり抜けて移動し、栄光も廊下に出る。カッツェの位置を解法で探る。右方向、順平のいる方向である。
順平から見て左の楽屋と廊下を仕切る鉄筋コンクリートの壁が崩落する、其処から飛び出るのは、カッツェの尻尾であった。
ベルク・カッツェは、尻尾を以ってマスターを狙って攻撃しようとしている。これに気付いた栄光は、風火輪が橙色の火を噴かせ、この火力を推進力に順平の下へと移動。
其処で思いっきり右足を蹴り上げる。ガッキと、菱形の金属を張り合わせたようなカッツェの尻尾と、風火輪を装着した栄光の足が衝突するだった。
脚部に触れている尻尾を通じて、解法の崩を叩き込む栄光。「ぎぃっ……!!」と言う苦悶の声が上がる、カッツェの声だった。
急いで尻尾を栄光の脚から離すが、金属疲労を起こしてポッキリ折れてしまったかの如く、カッツェの尻尾の先端から一mに渡っての部分が、床にカランッと言う音を立てて落ちた。

 ――チッ、やり難いったらねぇ……!!――

 遠方へと消えて行くカッツェを、栄光は追跡する。 
言うまでもないが、カッツェがGスーツによる透明化を完全に無効化されているのは、栄光の解法の力によるものである。
生前の世界で邯鄲法を操って居た者の中でも、解法においては栄光の右に出る者など盧生と言う例外を除けば極僅かであった。
十万の剣林、百万の矢霰、千万の弾雨の中をすら悠々と歩いても体一つ害せる事が出来ない程解法の達者である栄光が解法を叩き込めば、
如何なカッツェの隠形と言えど、意味がない。位置も特定されるだけでなく、姿まで露にされる。カッツェの強みは今や、栄光によって完全に無効化されている事になるのだ。

 ではそれで、栄光の方が完全に有利であり、余裕に事を進められるのか、と言えば、全くそんな事は無い。栄光は寧ろ、やり辛さすら覚えていた。
確かに、栄光の解法でカッツェの透明化は無力化出来る。だがこの言い方は必ずしも正しい物とは言えない。
正確には――『栄光が全力の解法を叩き込んで初めて、カッツェの透明化が無力化出来る』、と言う方が寧ろ正しい。
ガッチャマンとしての特質を利用したカッツェの透明化、その練度たるや、栄光ですらが舌を巻く程であり、生半な解法の崩では崩せすらしないのだ。
カッツェの透明化を無効化させているのは、解法の崩と言う技術だが、これを全力で行うと、どうなるのか。
自身の身体に幽霊に似た透過の性質を付与させて、あらゆる攻撃を回避する『透』の技術が使えなくなるのだ。つまり、あちらを立てればこちらが立たずの状況に陥る。
解法は邯鄲の夢の中でも取り分けて高級技術であり、『崩』と『透』の両立は栄光であっても困難な程である。
攻撃一辺倒の状態にならざるを得なくなり、一撃でも被弾すれば、無事では済まなくなるのだ。この状況は栄光にとっても心理的な負担が大きい。

 他者が思う以上に、栄光に余裕はない。余裕綽々で屠り去らせる、と言う芸当は確かに出来ないかも知れない。
しかしそれでも、この戦い。栄光の方が有利である、と言う事実は覆らない。決定的なのは、互いの戦闘についての経験値の差だ。
恐らく相手、ベルク・カッツェは、今まで戦闘と言う戦闘と言う物を経験した事がなかったのだろう。この場合の戦闘とは、圧倒的な技量で相手を葬り去る、
と言うようなワンサイドゲームではない。拮抗した実力を誇る者同士が演じる、どちらかが生きどちらかが死ぬ、と言う様な互角の戦いの事を指す。
実力の近しい者達が戦う際に起る、駆け引き、カッツェはこの練度がかなり低い。付け入る隙があるとすれば、この差であろう

 カッツェを追い栄光は一階のロビーへと向かって行く――が。
途中でカッツェを追うのを止め、急いで元来た場所へとUターンする。……いや、正鵠を射た言い方は、まだ地下部分にいる順平の下へと急速に向かって行く、であろう。
真正面からの勝負には勝てないから、勝利の条件を自分を打ち倒す事から、自分を現界させる為のリソースを供給するマスター。
つまり、伊織順平の方に矛先を変える事があるだろう事など、栄光には御見通しだった。栄光は気付いていた。
自分の追跡していたベルク・カッツェが、宝具かスキルを利用する事で生み出した、『限りなく実体に近い分身』の類である事を。
逃走の最中にこれを作成し、栄光がこれを追っている内に、マスターを殺す算段だったのだろうが、そうは問屋が卸さない。
やはり予想通り、順平の近くにカッツェに近い気配がある。直にマスターの下へと近付いた栄光は、順平の前に立ち、精神統一。
カッツェが来るであろう位置を解法で割り出させ、その方向にシャドーの要領でハイキックを行う、と同時に、カッツェの頭部に栄光の右足甲が衝突。
これを受けて、カッツェの身体が霧のように消滅――「何ッ!!」と栄光が叫ぶ。何と、これすらも『分身』だった。カッツェの狙いは、初めから栄光でも順平でもなかったらしい。

「話は後だ。追うぞ、マスター!!」

「へっ……!? お、おう!!」

 今は順平に説明する間も惜しい。彼を守りながら、ベルク・カッツェを追跡せねばならない。
燕は今、悪しき魔鳥の翼をもいで地に落とすべく、己の主と共にその後を追い始めたのだった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 ベルク・カッツェの胸中を占める今の感情を一言で表すなら、『怒』だ。
猿と蔑む人間に後れを取るばかりか圧倒されている事実も、自分の得意とする技を無効化されたと言う事実も、全てが全て、腹ただしい。

 ――しかし、癪に障る事ではあるが、カッツェは認めねばならなかった。自分では、大杉栄光には勝てぬと言う事を。
戦闘経験の差と、技量の違いは最早埋め難いレベルとまでカッツェは認識、まともにやりあっては勝てないとすぐに判断。
そう、馬鹿正直に真正面から挑みかかっては行けない。其処から既に間違えていた事を、今更ながらにカッツェは気付いた。

 カッツェの持つ宝具であり、ガッチャマンに変身する為のキーアイテムである、幸楽災禍のNOTE。
これは、世界に騒乱と不和等のトラブルを引き起こさせる為なら、ありとあらゆる力を付与させると言う、その特別高いランクに恥じぬ力を持つ宝具である。
だが、この宝具にも一つの縛りがある。それは、トラブルを引き起こさせる範囲内で『のみ』しか、力を引き出せぬと言う事。
つまり、直接的な戦闘に関係する能力を、このNOTEは一切付与しない。岩盤を割ったり山を砕く力も与えねば、亜光速に迫る速度を与える訳でもない。
島を蒸発させる様なレーザーを発射させられる力も、数万度の炎を噴出させられたりと言った力も、このNOTEはカッツェに与えてくれない。
何故ならばそれらの力とは、戦闘と言う『己の方からアクションを起こして相手を傷付けさせる行為』に用いられるものだからであり、
即ちNOTEの本来の縛りから逸脱したものに他ならないからである。結局ベルク・カッツェの宝具を戦闘に無理くり使うとなると、、騒乱を引き起こさせる為の能力を戦闘に適宜応用するしかないのである。

 真正面から戦闘能力のぶつかり合いをして勝てないのであれば、如何すれば良いのか。
勝利の条件を、変えてしまえば良いのだ。相手を倒して勝利、ではない。此方が無傷でかつ、自分が楽しむだけ楽しんで、そして相手に窮状を押し付ける。
これを以って勝利とすれば良い。一見すれば難しい条件に聞こえるかもしれないが、カッツェの宝具はそれを可能とする。と言うより、それを達成させられる事に特化した宝具こそが、幸楽災禍のNOTEなのである。

 カッツェは現在、人の通りの多い新国立競技場のロビー近くにまで足を運んでいた。
競技場内で起っている諸々の死闘の規模と激しさに反し、入り口近くは嘘のように綺麗な状態を保っていた。破壊の累が、全く及んでいない。
この時カッツェは、己のNOTEの力で、先程346プロの多くのアイドルを先導するのに用いた、美城常務の姿に変身。目線の先にいる黒い服装の男に対して、叫んだ。

「だ、誰か助けてくれ!! 地下だ、地下で凶悪な集団ストーカーに襲われている!!」

 無秩序と混沌の落とし子たるベルク・カッツェは、風評被害を拡大させ、大杉栄光と言うサーヴァントとそのマスター・伊織順平が、
討たれるのも已む無しな悪漢と言うイメージを植え付けさせる事を以って、己の勝利条件とした。
だからこそ、人の多い所に逃げた。NPC、場合によってはサーヴァントやそのマスターがいるであろう方向に。

「――ほう、ストーカーで御座いますか。いやはや、こんな危険な場所にまでやって来るとは、貴女の熱心なファンなのでしょうなぁ」

 黒い服――正確には、『黒い略礼服』の男は、一言言葉を交わしたカッツェですら、イラつきを隠せくなりそうな程、現況を理解出来てい無さそうな、気だるげでとろそうなイメージを見る者に与える、間延びした男であった。

「それで、そのストーカーさんは、どう言う特徴をしているのでしょう?」

 よし、乗った、とカッツェはほくそ笑む。目の前の存在が、サーヴァントである事に既にカッツェは気付いている。
趨勢は完全に此方に傾いている、後はある事ない事吹聴すれば、カッツェが言う所の、メシウマ、の状態になる事は確実だった。

「年端も行かない少年の二人組だ。一人は帽子を被って髭を生やした男で、一人はパーカーを来た茶髪の青年。年端も行かない子供達だが、無辜のアイドルを何人も殺して回っている凶悪な殺人鬼なんだ!!」

「二人一組の殺人鬼、ですか。殺した時の爽快感も半分になりそうで、おすすめは出来ませんね」

 言っている事が、やけにおかしいと気付いたのは、この時であった。改めて、美城に扮したカッツェは、目の前のサーヴァントを注視する。
自分で切ったのだろう左右非対称の黒髪、よれよれの黒礼服、気だるそうな笑みを浮かべる表情、死人のように白い肌に反するような、ガッシリとした骨太で大柄な体格。
誰の目から見ても強そうにも見えないし、神話の時代の生きていた者が発する様な神韻もないこの男、当然の事ながら、ベルク・カッツェは知らない。初対面だ。
カッツェは確かに、目の前のサーヴァントを知らない。だが何故かこの男の事を、カッツェは既知の知識であるかのように、その顔その姿を覚えている。
この感覚は何だ、と考えるも、直にその訳を知る。この知識は、変身元である美城が予め知っていた知識だ。そうと解れば話は早いと、美城の記憶を徹底的に洗い出して――理解した。

 目の前にいる存在は、今日本所か世界中を騒がしている、<新宿>は神楽坂での大量虐殺の張本人。バーサーカーのサーヴァント・黒贄礼太郎その人であった。

「それは兎も角、情報のご提供、ありがとう御座いました」

 そう黒贄が告げた瞬間だった、右手に持っていた火かき棒を、美城に変身したカッツェの胴体に横薙ぎに一閃。
黒贄が火かき棒を振い始めたと殆ど同時に、カッツェは殆ど反射的に、ガッチャマン形態へと瞬間的に変身。
その後、尻尾を体中に簀子のように撒かせ、完全防御の体勢を取った。長い尻尾を使って作った障壁と、黒贄の攻撃が衝突。
結論を言えば、尻尾のバリヤーは、全くと言っていい程防御の体を成せなかった。尻尾の一部が砕け散り、その破片が中空を舞い始めると同時に、
凄まじい衝撃が身体に舞い込み、ベルク・カッツェは時速六百㎞程の速度で、黒贄から見て右斜め前方に吹っ飛ばされていく。
吹っ飛ばされる速度が余りにも速すぎる故か、衝突した鉄筋コンクリートの壁は、発泡スチロールめいて粉砕され、衝突してもなお勢いは減じる事無く、カッツェは遥か彼方へと吹っ飛び続けて行く。「ありゃ」、と。黒贄が、遂には見えなくなってしまったカッツェの方を見て、そんな声を上げた。

「っ、アイツは……!!」

 茫洋とした様子で吹っ飛ばされるカッツェを眺めていた中、こんな声が聞こえて来たので、黒贄はその方向に身体を向けた。
声のせいだけではない。サーヴァントの気配をも、その方角から感じた為である。

「おや」

 と、気の抜ける声を黒贄が上げる。帽子をかぶり、髭を生やした青年と、パーカーを着用した青年。
先程吹っ飛ばした美城――カッツェ――が話していた二名の特徴と合致したからだ。伊織順平と、ライダーのサーヴァント・大杉栄光。彼らが此処に到着した瞬間であった。

【ライダー……!!】

【解ってる。遠坂凛の従えてるサーヴァントだ】

 当たり前の事だが、<新宿>での聖杯戦争の参加者である以上、順平も栄光も、目の前の存在を知らぬ訳がない。
黒贄礼太郎。神楽坂での大量虐殺を引き起こした張本人、ルーラーから直々に討伐令が発布されたバーサーカーのサーヴァントである。

 タイタス10世が化けていた、偽物の黒贄礼太郎と戦っていた栄光であるから解る。目の前にいる黒贄は、正真正銘本物のサーヴァントだ。霊基の質が違い過ぎる。
それは、実力の違いをも表す。先程戦った偽物が、出来の悪いデッドコピーか粗悪品にしか思えぬ程、目の前にいる本物の黒贄は、桁違いに強い。
そして何よりも、放置していては間違いなく禍を招く、と言う事が、解法を用いずとも栄光には解るのだ。
解法を以って、栄光は黒贄を解析する。サーヴァントこそあるが、黒贄の本質は正真正銘、単なる人間でしかない。
だからこそ、栄光の背筋が凍った。栄光は、黒贄の事を人間と見ていない。彼を見ていると、栄光にはあるイメージが被るのである。
そう、甘粕と言う名の男に使役されていた、第八等廃神(タタリ)に位置される最悪の悪魔・神野明影と。
人間である筈の黒贄が、最悪の化生であるあの蝿声厭魅とイメージがダブるなど、あってはならない事柄なのだ。
幾千幾万、幾億人もの人間が数千年の月日を掛けて、抱き続け、蓄積させ続けた負のイメージが普遍的無意識で凝り固まり、洗練された末に、災禍の形を取って現れるあの怪物共と。同列の『人間』など、存在してはならないのだ。

 ――黒贄礼太郎は、人間の姿と本質を以ってこの世に現れた、『災厄』そのものだった。
存在自体が人の生存、世界の存続の危機を招く第八等廃神と同等の厄を持つサーヴァント。それが意味する所は二つ。
呼ばれてはならず、従えてはならぬと言う事。目の前の男は、人間であり天災そのもの。大地震や大波濤を御して従えられるものは神と地球を於いて他にいないが、目の前の黒贄礼太郎を御せるものなど、恐らくは神だろうが地球だろうが、不可能であろう。この男は真実規格外のサーヴァントであり、呼ばれる事自体が間違いな怪物であった。

 ――倒せるか……?――

 栄光が真っ先に考える事柄はそれだ。勝利への算段を考える栄光。退く、と言う選択肢は考えていない。
何故なら自分は、ヘタレでこそあるが、こんな土壇場で逃げ出すような卑怯者ではない、と言う矜持があるから。
そして何よりも――自分は嘗て、サーヴァントがずっとちっぽけに見える程の、凶悪な邪龍を鎮めて退けたと言う過去がある事。
思い出せ、大杉栄光と自分に喝を入れる。あの時は、■■との大切な■■を■■■■■てまで百鬼空亡(なぎりくうぼう)を退けたではないか。その時の恐怖と無念に比べれば、今の状況など――。

 ――また、変な記憶かよ……――

 メフィストの治療を受けてからずっとこれだ。
いよいよとなれば、直接あの藪に文句を言いに行くかと栄光は決めていた。何故、あの治療を受けてから、要所要所で、伊藤野枝の顔がフラッシュバックするのだろうか?

「……バーサーカー」

 言葉を紡いだのは、栄光の方だった。

「はい、何でしょう。それと、次の機会で宜しいですが、私の名前は黒贄礼太郎ですので、お間違えようの無く」

 一瞬、黒贄の言っている事が理解出来ない二人であったが、直に、今このバーサーカーは真名を自ら明かした事を理解する。 
【おい、どう言う事だコイツ!?】と、順平が念話を飛ばしてくるが、正直栄光ですら黒贄がどう言うつもりで真名を明かしたのか解らない。
名を明かす事で解禁になるスキルなり宝具なりがあるのかとも栄光は考えたが、もしもそれが事実なら、完全に機先を制された形になる。こうなっては仕方がない。起り得る何かを最大限警戒するしかない。

「アンタ……何で神楽坂で人を殺したんだ?」

 それは、順平達のみならず、他の主従にとっても疑問であった事だろう。
見る者が見れば、あの白昼堂々の殺戮が、魔力の無いマスターにとっての魔力供給手段である魂喰いを行っている訳でもない、本当にただの無為な虐殺である事が解るだろう。
何故、そんな事を行ったのか。それが、順平や栄光には解らなかった。黒贄を討伐する、と言う目的を達成する事において、こんな質問は無意味も甚だしいだろう。だがそれでも、二人はそれを聞いて置きたかったのだ。栄光の口にした疑問に答えるべく、黒贄が口を開いた。

「殺人鬼、ですからね。それはもうジャンジャン殺しますよ」

「……何?」

 眉を顰めながら、栄光が言った。間抜けその物の様な、豆鉄砲でも喰らったような、そんな表情であった。

「もう一度……聞くぞ。何で、殺したんだ?」

「理由は特にはないですよ。一切の理由も、善悪もなく、平等に殺す。それが、殺人鬼。そう言うものですよ」

「……そんな、つまらない理由でお前は人を殺すのか? ただ楽しいから、お前は人を殺すのか!! バーサーカー!!」

 聞いている内に立腹してしまった為に、栄光は声を荒げて詰問する。何処吹く風、と言う様な、薄い微笑みを浮かべたまま、相対する殺人鬼が言った。

「えぇ、そうですよ」

 迷いも何もない。予め用意していて、かつ、何遍も使い回しているような定型句でも口にするかのような即答であった。

「誰も、好きでない行為に全力を出す筈がないですからな。好きな行為だからこそ、全力で、そして時に逸って動いてしまうものです。私は殺人がとても楽しい。愛していると言っても良いでしょう」

「ふざけんな!! テメェ、殺される側の立場で考えた事があるのか!! 死ねば、皆それまで何だぞ!!」

 順平の、怒気も露な大声に対して、気だるげな視線を黒贄は向けた。

「うぅむ、それではそこの貴方は、蚊を潰し、家畜を屠殺する事に対して、忌避感を覚えるのでしょうかな? 殺される立場の事を仰るのなら、これらの行為も同列に考えねばならない筈ですが」

「屁理屈だろんなもん!! 尤もらしい事言ったって、人と家畜や蚊はどう考えても違う!!」

「……ハッ、行けない行けない。殺人鬼は倫理を語ってはいけないのでした。最近設定がブレていたからうっかりしていました。いやはや、私に倫理を語らせようとするなんて、相当なやり手ですなぁお二方」

 事此処に至って、二人も理解したらしい、話が通じないと。
バーサーカーなのに言葉が通じる、と言う疑問も、覚えなかった訳ではない。
何故此処まで、健常人と変わらない見た目と知性、言語能力の男が、バーサーカーとして呼ばれているのか。
その理由を理解した。余りにも、常人とは価値観がズレすぎているのだ。この男は思考の基準が、普通の人間や英霊とは、全くかけ離れた座標に存在している。
いや、それ以前の問題かもしれない。例えば普通の人間が物事を四則演算で考えている中、目の前の殺人鬼だけは幾何学で考えているような。それ程までに違っている。
要するに、価値観、そして思考に至るまでのプロセスが、余りにも異次元過ぎるのだ。だからこそ、目の前の存在はバーサーカー……『狂』ったサーヴァントなのだった。

「それにしても、先程スーツを着た女性の方が、貴方達が地下でアイドル達を虐殺して、千切っては投げての掃いては捨ててをしていたらしいですが……いやはや、同じ殺人鬼でもここまで価値観が違うのは、不思議ですなぁ」

 違う、と食って掛かろうとする順平を、栄光が念話で制止する。
栄光も順平と同じく反論しようとしたが、言葉が舌の上にまでやって来た瞬間に、違和感を感じたのだ。スーツを着た女性、と言う言葉のせいだ。
記憶の中にいるそれらしい人物を洗ってみて、直に思い当った。先程まで栄光はその存在と死闘を繰り広げていたのだ、思い当たらぬ訳がない。
ベルク・カッツェ、様々な星々を阿鼻叫喚の混沌に叩き落として来た、星渡りの魔人である。あの魔人は先程、346プロの役員の一人であるところの美城に変身していたではないか。
ある事ない事を、黒贄に吹き込んで、彼を此方に嗾けるつもりだったのだろう。その目論見は、事実上成功したも同然なのかも知れない。
何せ黒贄は、人を殺さずにはいられない殺人鬼。栄光や順平達も、既にターゲットの一つとして認識しているのだから。最早戦闘は免れないであろう。

 ――野郎、絶対に倒す……!!――

 と、栄光は次こそは、ベルク・カッツェを葬ると誓った。
……尤も栄光は、そのベルク・カッツェが先程、黒贄の一撃によって大ダメージを負いながら吹っ飛ばされた、と言う事実を知らないのであるが。

「……あっ、そうだ。すっかり忘れていました。後で凛さんにドヤされる所でした、いやぁ危ない危ない」

 外行きの用事の為靴を履いたその時になって、財布や携帯電話を忘れた事に気付いた、と言う様な素振りと口ぶりでそう言ってから、黒贄が栄光達に目線を向け直した。冷たく淀んだ、冬の川底の泥の様な黒い瞳。

「確か此処には、私の姿を真似たそっくりさんがいると聞いたのですが、何処にいらっしゃるのでしょう?」

 その存在に至っては、本当に即座に思い当たった。そうなって、当たり前だ。
黒贄が言う所の、そっくりな黒贄礼太郎――タイタス10世が変身した偽黒贄を討ち滅ぼしたのは、他ならぬ大杉栄光なのであるから。
言葉の内容を推理するに、如何やら黒贄、或いは遠坂凛は、偽黒贄の真実を確かめるべく、此処に足を運んだようである。此処に足を運んだ理由としては、道理、であろう。

「……向こうだ」

 と言って、栄光は、彼から見て真正面、つまりは、黒贄の背後の方を指差していた。
指差す場所は、今順平達と黒贄が佇んでいる、新国立競技場ロビーの右側の通路である。

「ははぁ、向こうですな」

 と言って、黒贄が後ろの方を振り返った、その時だった。
風火輪を纏わせた両足で思いっきり床を蹴った栄光が、黒贄の方へと亜音速の加速度を得て跳躍。
身体の正面を後ろに向けたままの状態の黒贄の頸椎目掛けて、風火輪を装着した右脚による回し蹴りを叩き込んだ!!
蹴られた方向へと、矢のように吹っ飛ばされる黒贄。そのまま、吹っ飛んだ先に立ちはだかるコンクリートの壁に衝突。其処に亀裂が入る程の勢いで、彼は背中から打ち付けられ、床の上にぐったりと倒れ込んだ。

「倒したか!?」

 順平が叫ぶ。栄光は、期待に満ちた己のマスターの問いかけに対し、無言を貫く。
今のが卑怯だと、栄光は思ってはいない。元々解法とは不意打ちに長けている所もある技術。相手が油断している所を容赦なく狙いに行く事に、栄光は何の躊躇いもない。

 倒した、筈である。己の右脚が捉えた感触は、文句なしのクリティカルヒットのそれ。頸椎を圧し折ったと言う実感も、確かに得た。
何よりも、解法を直に、思いっきり叩き込んだ一撃だ。生きている筈がない。即死の、筈なのだ。

 ――筈なのに、何故。黒贄礼太郎はまだ、『生きている』?
生命力が弱まるどころか、平時と全く変わらないのは、何が起っているからなのか?

 タッ、と地面に着地し、黒贄の方を油断なく睨めつけ続ける栄光。
グッタリと動かない状態でいた、黒礼服の殺人鬼が、寝起きのようにムクッ、と立ち上がった。
覚悟していた事だが、実際にやられると栄光としても驚く。順平に至っては、愕然、と言う言葉がこれ以上となく当て嵌まる程の、狼狽ぶりであった

「いやはや、こうまでよく不意打ちを貰うと、“誰かさん”の下にいた時を思い出しま……ハッ、いけないいけない。今の私は“彼”とは関係ない人の下にいるんでした、うっかりしていました」

 言っている言葉の意味は良く解らないが、平時と全く変わらぬ口ぶりで、頸椎を中頃から左直角に折れ曲がらせた状態で、黒贄がそう言葉を紡いだ。
皮膚と筋肉を突き破って、折れた頸椎が外に飛び出し、口からは蟹が泡でも吹くように血色の泡がブクブクとあぶいている。
時計の針が水平になるかの如くに、黒贄の頭は物の見事に左に回転させられており、そんな状態でも、平時と変わらぬ口調、平時と変わらぬ笑顔で、その場に佇んでいる。
魔力を供給するパス越しに、順平の恐れに似た感情が自身に伝わって来るのを栄光は感じていた。自身のマスターと、思いは同じだった。
解法すら乗せたクリティカルの一撃を受けて、強がりでも何でもなく平然とした様子のままの黒贄を見て、恐れを抱かぬ筈がない。あの一撃は、栄光にしてもこれ以上と無い一撃必殺の実感があった攻撃であったればこそ、である。

 無理やり、火かき棒を握ってない左手で、折れた頚骨の方に手を伸ばし、其処に力を込める。
ボキ、ゴキ、と言う厭な音が響き渡る。無理やり折れた首の骨をまた圧し折り、元の状態に戻したのである。が、少し位置修正に失敗したのか、やや首が斜めっている。

「何で、死んでねぇんだよ……」

 栄光の呟きを聞いて、黒贄が笑みを強めた。

「殺人鬼ですから。殺人鬼は、不死身の肉体を保つ努力を常に怠らないものです」

 眠たげな笑みを浮かべながらそう言った瞬間、黒贄の上半身が霞んだのを栄光は見逃さなかった。
順平の方に飛び退き、彼の来ている上着の襟を引っ掴み、そのままもう一回地を蹴り、順平ごと栄光は十m程先の地点まで跳躍、着地。
二回目の着地と同時に響き渡る、轟音。黒贄の火かき棒が床に衝突、衝突したポイントを中心にした直径十mの範囲が、すり鉢状に凹んだ音であった。

「ごほっ、ごほっ……!!」

 襟を唐突に引っ張られて気管支が締まったか、咳を続ける順平。
「其処から動くな、何かあったら念話を送れ!!」と、栄光は一喝。謝罪の言葉もなく、黒贄の下へと飛び掛かった。
埒外の耐久力と、戦闘続行性。それが、黒贄の異常なタフネスの正体なのだろう。確かにそれ自体は、脅威になる。
だが、そう言った手合いとの戦い方は決まっている。相手が人間の形をしているのなら、尚の事その戦い方は有効打となる。
攻撃が可能となる部位、つまり四肢を重点的に攻撃し、肉体から分離させてやるなどして破壊するよう動けばいいのだ。
不死身に近い耐久力を誇っていようが、攻撃出来る部位を無効化させてしまえば、恐れる要素は何もなくなる。攻撃が出来なくなれば絶対に此方側を害せないし殺せないのだから。
強烈無比なパンチや剣閃を放てる者なら腕を斬り飛ばし、岩を抉り破壊するキックを行える者なら脚の骨を砕いてやり、星をも落とす魔術を唱えられる者なら脳や口を破壊する。それらは、戦の常道なのである。

 此方に栄光が近づいて来たのに気付いた黒贄が、彼の動きに合わせるように火かき棒を上段から振り下ろす。
そしてこれを栄光が、解法の透で己の身体にすり抜けの性質を付与させ、黒贄の攻撃を透過。火かき棒は、水を殴った様にスルリと栄光の衣服や身体をすり抜けた。
黒贄の持っている火かき棒を当初栄光は宝具かと警戒していたが、解析してしまえば何て事はない。
材質はただのステンレス。付与されている神秘や特異性などゼロに近い。つまるところ、ホームセンターで売っているそれと何ら変わらぬ火かき棒だと知っていた。そんなもの、恐れるに足らず。解法の技術で、楽に回避出来てしまえる。

「ありゃ、もしかして貴方……」

 と、黒贄が、困惑と恐怖を露にした表情を見せた。虫が苦手な人間が、自分の寝室でゴキブリかムカデでも見た様な顔であった。
隙だらけだと、栄光は心中で叫ぶ。何か黒贄が言い切るよりも疾く、黒贄の鳩尾に風火輪を装着させた右足による前蹴りを叩き込んだ。
当然、解法の崩を蹴りのインパクトの瞬間に見舞ってある。蹴り足の伸びた方向に黒贄が吹っ飛んで行き、太い円柱状の柱の一本に衝突。
背中から其処に当たった黒贄は、一m程バウンド。床の上に俯せに倒れ込むが、むっくりとすぐに立ち上がった。
崩を叩き込んだ鳩尾の周辺、略礼服やその下のシャツが、腐敗しているかのようにボロボロと千切れて落ちているのが解る。
そして、千切れて落ちているのは服だけじゃない。衣服の下の筋肉が血管や神経ごと、ボトボトと床に雨垂れの如く落ちて行く。
余りにも大量に肉が落ちるので、内臓は愚か、骨格すらも栄光達に視認が出来る程であった。その内臓や骨にしても、解法の影響で床に落ちて行く。
相手の能力を解析したり、超常の魔術や不可思議な奇術の類を解体して無効化・崩壊させる解法の術。
これを生身の人間に行えば、その解体の術が直接生身にぶち込まれる事になり、結果、肉体が崩壊するのである。
栄光の様な達者の行う解法に直撃すれば、通常ならば五体満足などあり得ぬ話。大抵の場合バラバラが最もふさわしいレベルで相手の身体は散り散りになる。
ただ、サーヴァントであるならば対魔力が懸念になり本来通りの威力は発揮出来ないかも、と言う懸念が栄光にはあったが、対魔力が通常備わっていない三騎士以外のクラスなら、百%の威力で解法をぶち込める為、有利に事を運べる。

 ……そう思っていた筈なのだが、現実はこの通り。
黒贄は当たり前のように生きているし、露出している内臓や骨格、即ち肝臓や胃、肋骨がボロボロと崩れてその破片が地面に落ちて行っているにもかかわらず。
平時と変わらない様子で立ち尽くしながら、しかし、栄光と順平の方に恐怖も露の目線を向けているではないか。

「わ、私の攻撃が通じない……も、もしや貴方……ゆ、幽霊では……」

 己が現在進行形で負っている傷よりも何よりも、黒贄にはそっちの方が気がかりらしい。
「は?」と言う様な顔を浮かべる栄光。当然の事ながら、聖杯戦争に招聘されたサーヴァントである栄光は、聖杯戦争の基本的なシステムを頭に刻み込まれている。
況やその中には、サーヴァントそのものの知識も同様。サーヴァントとは即ち極めて霊格の高い人間霊である英霊であり、本質的には『幽霊』と何ら変わらぬ存在なのだ。
ただ、同じ幽霊の類とは言え、そこらの地縛霊と英霊とではその格、高級さが違い過ぎるのだが。
こんな知識は、サーヴァントとして呼び出されれば今更学ぶまでもない基本的な知識。黒贄はつまり、こんな超が付く程基本の知識を知らないのか、と栄光は訝しる。
言ってしまえば、今黒贄は、最も恐れる幽霊の類に自分がなっている事に、気付いていないと言う事になる。いよいよを以って、目の前のサーヴァントが解らなくなってくる栄光だった。

「い、いえいえそんな筈は……足もちゃんとありますし」

 そんな事を言いながら黒贄は、全くのノーモーション。身体を一切動かさず、腕の力だけで、手に持っていた火かき棒を栄光の方へと投擲した。
実に見事なまでの不意打ちだった。尤も黒贄は自分が不意打ちをしている、と言う意識は全くなく、ただ殺す為に腕を動かしただけなのであるが。
飛来する火かき棒に反応した栄光が、解法を飛来してくる火かき棒に叩き込み、後十数cmで此方の喉元を貫くか、と言う所でそれがバラバラに分解。
鉄片となって床の上に音を立てて落下して行く。これと同時に、栄光は風火輪の出力を一瞬で最大に設定、地を蹴り跳躍、そして、ツバメの如くに飛翔。
黒贄と栄光間の距離は九m弱。その内三m進む頃には、栄光は解法の力を用いて物理法則を無視した加速度を得た影響で、一瞬で音の速度に達していた。
ゼロカンマ一秒を遥かに下回る速度で、夢を操る戦士である栄光は蹴りの間合いにまで到達。黒贄の首目掛けて左足による回し蹴りを叩き込もうとする。
直撃すれば今度こそ、首が捩じ切れ吹っ飛ぶ程の威力を容赦なく栄光はその一撃に乗せている。これを黒贄は、身体を屈ませる事で回避した。
攻撃を躱された、と言う事実に栄光が少し驚いた。緩慢な動きの男だと当初は思ったが、順平から伝えられていた、敏捷のステータスの凄まじい高さは、
成程飾りではなかったようである。蹴りがスカを喰ったのを狙い、黒贄が動く。栄光の移動速以上のスピードで、この殺人鬼は腕を振ったのである。
当たれば喰らった箇所からその部位がちぎり取られる程の一撃。空中に浮いた状態の栄光はこの攻撃を、空中を滑るように移動、攻撃の範囲外まで逃れる事でやり過ごす。
しかし、黒贄はそれを許さなかった。栄光が距離を取ったと言う事実を一瞬で認識するや、床を蹴って彼の下へと一瞬で移動。
ロビーどころか、新国立競技場全体が揺れる程の強さで床を蹴った事で得た加速は、時速七〇〇㎞。余りの速度に、栄光が今度こそ驚愕する。反射神経どころか、単純な移動速度ですら魔人の域にあるらしい。

 栄光の方へと接近するなり、猛禽の爪のように指を折り曲げさせた右手を振う黒贄。容易く、振われた右腕の速度は音のそれを突破。
急いで透を己の身体に適用させ、黒贄の攻撃を透過、すり抜けさせてやり過ごす。
透は攻撃をすり抜けさせる事でダメージを高い確率でゼロレベルで低減させられる事もそうだが、攻撃を回避したと同時に即座に攻勢に転ぜられるのもメリットの一つ。
攻撃を回避後即、栄光は透を解除、黒贄の顔面に前蹴りを叩き込む。直撃……否、空気を蹴った感覚しか、栄光の脚には伝わって来ない。
スウェーバックの要領で状態を反らしながら跳躍する事で、黒贄が蹴りを避けたのである。迎撃が来る、栄光はそう考えた。

 ――だが、実際には違った。
黒贄はボクシングにおけるスウェーバックの要領で攻撃を回避したのではなく、それによく似た姿勢のまま、思いっきり後退しただけだった。
格闘技に於けるスウェーは回避後にすぐ反撃に転ぜられるように避ける動きを最小限に抑えるものだが、黒贄のそれは大きく動き過ぎだ。
これでは相手の攻撃後の隙を狙って攻撃しようにも、直に相手が元の姿勢に戻ってしまうだけの時間を与えてしまうので、逆効果と言うものだった。

「や、やっぱり幽霊だあああぁぁぁ、こ、殺せない手合いは皆幽霊なんだああああぁぁ」

 と、訳の分からない事を叫びながら、黒贄は、折れた首、そして、解法によって鳩尾辺りを崩されたまま、疾風の様な速度でその場から逃げ出し始めた。
訳の分からない言動と、突飛な行動に呆気にとられる栄光と順平。二人が、黒贄の奇行を見てから正気に戻るまでに、二秒程の時間が掛かった。

「お、追うのか!?」

 順平。

「決まってんだろ、あんなの放置したらヤバい事位俺にだって解る!!」

 栄光の答えは、やはり、順平の予想通りの物で、そして、順平が答えて欲しかったものでもある。
あんな危険人物を野に放つと言うのは、残り時間一秒で爆発を起こす上に勝手に動き回る時限爆弾を放置するのと同義である。
そんなもの、到底放っておけるわけがない。黒贄の後を追うべく、栄光と順平が走り始める。いつの間にか消えていたベルク・カッツェの動向も気になるが、今の優先順位は、彼より、あの黒礼服の殺人鬼なのであった。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 遠坂凛が、火中の栗を拾いに行くような真似だと承知の上で、新国立競技場の修羅場に足を踏み入れたのには、二つ、理由がある。
一つ。そもそも凛が此処にいる向おうと思い立った理由は、全くの偶然からのもの。此処に向かうまでの経緯は、次のような物だ。
人目につかないように人通りの少ない裏路地を歩いていた際に、運悪くNPCに見つかった為に魔術で数分程意識を奪い、
その時NPCが持っていたスマートフォンが映し出していた画面に目が行った。恐らくは、気絶直前まで見ていたのだろう。
それを偶然凛が見て、大層驚いた。NPCが見ていたスマートフォンの画面には、黒礼服の殺人鬼が、アイドルのステージで今まさに凶行を働こうとしていた場面を映していたのだ。
無論、その黒礼服の殺人鬼の真実のマスターである凛には、その映像に映るそっくりさん――黒贄礼太郎が偽物である事が解る。
当たり前だ、当の本人は今も凛の傍に霊体化して存在するのだから。真実本物の黒贄のマスターの凛からすれば、画面の向こうで大立ち回りをしている黒贄が偽物である事など、
一目見れば即座に解る事なのだ。偽物だとは解るが、何故黒贄の姿を模倣し、こんな凶行に及んでいるのか、と言う真意までは測りかねない。事の真相を確かめるべく、凛達はリスクを承知で新国立競技場と言う人目の付く場所に態々赴いたのである。

 二つ。自分の窮状を、偽黒贄及び偽物に大暴れさせた人物に全て擦り付けられるかも知れないと言う打算があった事。
遠坂凛は馬鹿ではない、むしろ魔術師としては知識・技術双方共に優秀な女性である。偽黒贄が何者で、そしてどう言う目的で今回の行動に移ったのか。
その訳を大方予想出来ている。恐らく偽黒贄の正体は、極めて高度な魔術で模倣された使い魔かそれに準ずる存在であろう。変身能力を持ったサーヴァントと言う線もあり得る。
では、どう言う目的で偽黒贄は新国立競技場に向かい、そして態々解りやすく、一見すれば無軌道そのものの様な悪目立ちをしようと思ったのか。
簡単な話だ、自分達が行った凶行の罪を、全て遠坂凛の主従に擦り付ける以外にない。遠坂凛の主従は今や聖杯戦争の参加者どころか、NPC達にも顔が売れすぎている。
そんな存在であるから、どんな悪い事をやっていてもおかしくないと、多くの者が思っても仕方がない事であろう。必然、濡れ衣や冤罪を背負わせやすい。
つまり、本来今回の事件の黒幕が負うべき責任や罪を、全て此方におっ被せようと言うのだ。
これ以上罪を背負わせられれば、本気でルーラーから何を言い渡されるか解らない。これ以上のマイナスを防ぎたいと言う意味で足を運ぶ事もそうだが、それ以上に。
自分に対してこれ以上の失点を課させ、そして、ただでさえ滅び行く可能性が高い自分達に冤罪を着せようとする存在達に、遠坂凛は忘れかけていた叛骨心と悔しさを覚えた。
自らの心に湧き上がってくるこの怒りの念、これを払拭させる方法を凛は思いついた。事件の首謀者が自分達に行おうとした事と同じ事をしてやるのだ。
そう、遠坂凛は自分達が行動する上で最大のネックである、討伐令の原因ともなった神楽坂での大量虐殺の罪を、今回の事件の首謀者に擦り付けようと画策しているのだ。
あの時の事件は、自分達に扮した誰かが実は行ったものである、と他の主従に誤解させ、自分達の罪状・責任を転嫁させる。こう言う事だ。
結局の所自分達が優先的に襲われる理由は、ルーラー直々に、討伐すれば令呪が一画貰える、と言うある種の賞金首扱いされている事が大きい。
先の香砂会の邸宅での一件などが正しくそうだった。彼女達は令呪が欲しかったからこそ自分達にアタックを仕掛けた。なら、この賞金首扱いが解かれれば?
俄然、襲われる可能性が低くなる。無論、NPC達からは永劫殺人鬼とその仲間扱いされない事はないだろうが、聖杯戦争参加者から襲われなくなるのならば御の字である。
では、この誤解を晴らさせるにはどうすれば良いのか? 自分達が、偽物の黒贄を葬ってやれば良いのだ。幸い、黒贄は強さだけは一級品であるし、こと『殺す』事に関しては黒贄の右に出るサーヴァントなど、先ずいるまい。十分、目的達成可能性があると踏んで、凛は新国立競技場まで向ったのだ。

 ――そして、『三つ目』。これは此処に足を踏み入れ、その惨状を目の当たりにした後で、やっておかねばならないと思いついた事であった。

「サイズ……合わないわね」

 そう言って凛は手に持っていた、明らかに女性用の学校制服と思しきものを、ロッカーの中に戻した。
新国立競技場は地下に存在する、着替え用のロッカールーム。其処に彼女はいた。部屋の中に設置された数十の、スチール製のロッカー。
その七割方は、もう開け、その中の制服を拝見した事になるだろうか。傍から見れば、とんでもない変態にしか見えないのだろうな、と凛は恐ろしくやるせなく、みじめな気持になった。

 遠坂凛が外部で行動する上で最大のネックになるのは、NPC間に於いてすらお尋ね物扱いされている、と言う事実が一番大きい。
しかし実際には、遠坂凛は魔術の達者であり、認識を誤認させる多少の魔術程度なら、問題なく行使出来る。これを使えば、外で行動出来なくもないのだ。
但しこの魔術は、『魔術をかけた側の存在の常識に大きく依拠』するものであり、誤認させる内容を大幅に上回るエラーを見ると、直に誤認が解除されてしまう欠点を持つ。

 ――つまりは、遠坂凛の『服装』である。
今の凛の服装は、血が張られたバケツの中身をひっ被せられたように赤黒く変色した血液が染みており、殺人でも犯して来たかのような風情を香らせている。
こんな状態で外に出てしまえば、施した認識誤認にも揺らぎが出る。そして何よりも、凛としてもこんな服装におさらばしたかった。着心地の最悪さは、最早語るまでもない。
以上の二つの理由から、新国立競技場でライブをしていたアイドル達の服を、そのまま頂戴しようと言うのである。傍から見れば、何と情けない真似であろうと思うだろう。
そしてそもそも、NPCとは言え元の持ち主の服を勝手に奪うと言うのは、凛の公序良俗に反するのではないかとも思うだろう。恥ずべき真似である、その事自体は凛も認識している。しかし、勝手に服を奪うと言う行為については、余り引け目を覚えていない。何故か?

 見て来た、からである。
『リハーサル室と銘打たれた大部屋で、大量に意識を失ったアイドル達の姿』を、だ。

 ――……あれは、何だったの……?――

 事の首謀者を探そうと、黒贄と別々になって行動、新国立競技場の地下に降り、其処を捜索している時である。
異様に破壊の様相が酷い所を、凛は発見してしまったのだ。それこそが、リハーサル室へと繋がる通路の方であった。
壁――鉄筋コンクリート製――と言う壁が粉々に破壊され、壁の先の楽屋や個室が見えてしまっているだけでなく、その個室にしても、
荒波に叩き付けられたように荒廃の体を成していたのである。嫌な予感を感じ、不用心だと知りつつも、リハーサル室へと繋がるドアを開け――愕然とした。
床に倒れ込み、転がる、煌びやかで華やかで、可愛らしい服装を来たアイドル達。そんな様相が、部屋中に広がっていたのである。
サーヴァントが関わっていると、真っ先に考えた凛。手近な場所で倒れ込んでいたアイドルの様子を確認すると、脈はあるし呼吸もあるが、意識だけが完全にない状態だった。
十中八九、サーヴァント或いは魔術に造詣の深いマスターの所業である事は、間違いない。間違いないが、どう言う手段で、これ程までの数のNPCを昏睡せしめたのか。その方法が凛には解らない。

 救う、と言う選択肢は凛にはなかった。
人の傷を癒し、そして回復させる魔術に不得手であると言う事もそうだが、それ以上に、治療を行うのに必要な魔力のリソースが割けない事が一番大きい。
リハーサル室で昏睡しているアイドル全員を救うには、遠坂凛が二十人以上いて漸く、と言ったところだ。一人二人なら救えたかも知れないが、それもしない。
そんな事をすれば、今度は自分が戦えるだけの力がなくなってしまうからだ。故に、アイドル達は見捨てた。言ってしまえば、我が身可愛さからである。
非情な選択であるとは、凛も重々承知している。だが、自分の『これから』の選択肢を幾つか捨ててまで、NPC達を救う気には到底凛はなれなかった。
聖杯戦争の残酷な現実に、運悪く直面してしまったから、諦めて欲しい。そう思いながら凛はリハーサル室を去る時に、思いついたのだ。
本来用意していた服の一つを、拝借しても良いのではないか、と。断言するが、あのNPC達はもう助からないと凛は思っている。脈と呼吸はあるが、それだけ。
事実上の植物人間と大して変わらないし、そしてそれ以上に、サーヴァント同士の戦闘の余波を蒙って一人たりとも生き残れない蓋然性の方が最早高いであろう。
救えない、そして、無理して救う意味もない。ならばせめて、多少なりともいらない物を自分に恵んで、役に立って欲しいものであると凛は思っていた。それが、服を勝手に頂戴と言う思考に繋がっていた。

 無茶苦茶な論理の帰結である事は、凛は百も承知だ。
凡そ横暴にも程がある考えではあるが、平時ならば考えもしない思考に逃げねばならぬ程に、凛の精神は疲れ切っていた。
凛を取り巻く現状は最低を極る物ではあるが、これが少しでも自分のアクションで改善されると言うのであれば、躊躇いなく凛はそれを行う。
……たった一週間で、此処まで人間は変われるものなのかと、凛は非常に悲しくなった。それについて涙も出ないのは、自分の心が強くなったのか、それとも、心自体もくたびれ果てて何も感じなくなったのか。凛には、もうそれが解らないのであった。

「……これなら、合うかしら?」

 と言って凛は、ロッカーの一つから、何処ぞの高校の制服を取り出した。
ブレザーは落ち着いたブラウン、スカートは赤のチェック柄。凛は与り知らぬ事であるが、島村卯月と言うアイドルの制服である。
これなら、と思い急いで凛は着用。胸部分がやや緩いが、それ以外は概ね着心地は良い。と言うより、数日前に浴びたままの血液が凝固したまま放置されている服装に比べれば、どんな服だって着心地が良いのは当たり前の話だった。

 これで、多少は行動がしやすくなった。
見る者が見れば遠坂凛であるとは一発で解るとはいえ、それでも、訝しがられる可能性はグッと減った。血塗れの服装では、怪しまれるとかそれ以前の問題であろう。
後は、今回の事件の首謀者を見つけ出すだけ。凛は、気を引き締めた。本当の戦いはこれからだ。
身体強化の魔術を己にかけ、不測の事態に備えてから、凛はロッカールームから廊下の方へと出た……その時だった。
時分から見て左方向に、人の気配を感じた。誰だ、そう思い、人のいる方角にバッと身体を向ける。

「っ……貴女、は……!!」

 其処にいたのは、三人の女性だった。
一人は日本人ではなく、サラサラの銀髪をしたスラヴ系の女性。凛について言葉を漏らしたのはこの女性だ。
もう一人は黒髪を後ろに長く伸ばした女性だが……顔は見えない。気絶しているのか、グッタリとした様子である。
そして最後の一人は、二人に比べてずっと幼い、同じく黒髪の少女だ。彼女は瞳に涙を溜めながら、気絶している女性――鷺沢文香の肩を支える
銀髪の女性をフォローする様に、文香の腰に手を伸ばして支えている。彼女達の来ている服装は一般客やコンサートスタッフのそれとは到底言い難く、
彼らが着る物よりもずっと煌びやかで、華々しいデザイン性をしていた。

 ――しまった、アイドルがまだ……!!――

 凛の予想通りである。此処にいる三人、アナスタシア、鷺沢文香、橘ありすは、今回行われていたライブイベントの主役アイドルグループ・クローネの一員だった。
まさか、まだ此処にアイドルがいたとは、凛は予想していなかった。先程リハーサル室で気絶しているか、既に逃げ出しているものかと思っていたのだ。
凛が気付かぬのも無理はない。クローネの生き残りの三人は、リハーサル室からはややかけ離れ、栄光とカッツェの戦闘の余波を蒙っていない楽屋に今までいたのだ。
フレデリカの恐るべき凶行の後、生き残った三人は、一緒に此処を出る決意をし、気絶した文香を抱えて外に出る予定だったのだ。その最中に、島村卯月の制服に身を纏った遠坂凛を目撃した事になる。

「な、何で此処に……卯月の制服を……」

 アナスタシアが呟いた前者の問いは今更ではあるが、後者の方は当然の疑問であろう。
世間的な遠坂凛の扱いは、黒礼服のバーサーカー・黒贄礼太郎の共犯者である。ならば、一緒に行動していると言うのが当然の筋であるし、
この場で鉢合わせない可能性はゼロじゃない。問題は後者の方だろう。何故、世にも恐ろしいと言う風評すら立っている女性が、
仲間であり友達でもあるアイドルの普段着を、身に着けているのか。それが、彼女達には理解出来ていなかった。

「……私がその気になれば、あの黒礼服も来るわよ。殺されたくなかったら速く此処から出なさい」

 低い声音で、凛がそう口にする。事実上の、恫喝であった。それを受けてアナスタシアは、冷やしたナイフで身体を刺されるが如き恐怖に駆られて、震えだした。
呼べば、黒贄が来る。それは事実だ。凛にはまだ令呪と、契約者の鍵が残っているのだから。……だが、本音を言えば、凛は彼女達を殺したくなかった。
一目見れば、彼女らがNPCである事などすぐに解る。彼女らの纏うものは、聖杯戦争の参加者のそれではなく、
命の危機に身を晒されて怯え惑う野兎や子リスのそれと全く違いなかった。そんな人物達を相手に、サーヴァントや魔術の暴力を凛は断じて振いたくなどなかった。
それはある意味、己が引き当てた最悪のサーヴァントに出来る、唯一の反抗だった。あれは、兎に角人を殺す。人を殺す事が何より楽しい男、それが黒贄礼太郎だ。
殺すべき相手は元より、殺すべきじゃない相手すらも、後で不利になると解っていても殺す。だって、人を殺す事が、食事や睡眠、セックスよりも楽しいのだから。
自分は、そんなバーサーカーとは違う。確かに魔術師の矜持として殺すべき場面もあるかも知れないが、少なくとも。あの男のように、殺しを楽しむ非道漢では決してないと。
凛は、心の底から思っていた。今此処で、アナスタシア達を見逃すのは、自分が黒贄とは違うと言う反抗であるのと同時に、遠坂凛と言う少女の持つ本来の人間性の発露、そして、彼女自身のある種の自己満足であった。

「は、早く逃げ……」

 アナスタシアが怯えた様子で、ありすに告げたその時だった。
ガクン、と、彼女の身体が、肩を貸させていた鷺沢ごと体勢を崩してしまった。「あっ……!?」と声を上げてアナスタシアがよろめくも、寸での所で踏みとどまる。
みると、今まで鷺沢の腰の辺りを支えていたありすが、いない。急に支え役の彼女がいなくなった事で、一気に体重がアナスタシアに掛かる形になった為に、体勢を崩してしまったのである。

 ドンッ、と、人と人とがぶつかる音が聞こえた。
その方向に、目線を向けるアナスタシア。ハッと息を呑みながら、彼女が目を見開いた。
ありすは、凛の方向に走りだし、彼女目掛けて体当たりを仕掛けたらしいのだ。先のぶつかる音は、ありすと凛がぶつかる音であった。
自分よりも何歳も年下、それこそ小学校高学年程度の年齢しかない少女の、唐突な行動に、凛もまた驚いていた。身体能力を強化させていた為に、衝撃自体は然程でもなく押し倒されもしなかったが、それでも、遠坂凛と言う少女を面喰わすのには、十分な威力がありすの行動にはあった。

「人殺し!!」

 そう叫びながらありすは、握り締めた左拳で凛の胸を叩いた。
平時なら兎も角、身体強化を施している今の凛には、この程度の衝撃は痒い程度しかないが――ありすの叫んだ言葉だけは、包丁でも突き刺されたかのように、凛の胸に例えようもない程に鋭い痛みを与えていた。

「あなたのせいで、皆死んだ!! あなたさえ来なければ、皆で楽しく、素晴らしくライブが終われた筈なのに!! 辛かったトレーニングが実を結んだんだって笑いあえたのに!!」

 平時のありすの声音をそのままに、彼女は憎悪と呪詛を込めた言葉を叫びながら、凛の胸を叩き続ける。
子供が自棄を起こしたようなその叩き方に、凛は全く痛みは感じない。だが、ありすが意味のある言葉を一つ紡いで行く度に、ガラス片でも突き刺さるような痛みが、彼女の胸に湧いてくるのだ。

「何で、何で此処に来たんですか!! 私達を不幸せにして、そんなに楽しいんですか!? 返して!! 周子さんを、奏さんを、唯さんも奈緒さんも、加蓮さんも凛さんも、皆返してよお!!」

 普段の敬語の口調も忘れ、年相応の子供の口調になりながら、ありすは思いの丈を全てぶちまけた。
黒贄礼太郎の乱入――つまり、遠坂凛が此処に来なければ、死ぬ事もなかった犠牲者達の名であった。
凛が此処に来なければ、彼女達は死ぬ事もなかった。プロデューサーも死ぬ事はなかった。ファンの皆も死ぬ事がなかったのだ。
ライブも成功し、皆でその事を喜び合い、時には泣き、後になれば、皆で喧しくもうるさい、打ち上げと言う名のどんちゃん騒ぎを楽しんで。
青春の一ページを過ごせた筈なのに、ありす達に降りかかったのは、悲劇と言う言葉ですらもなお足りない惨劇。余りにも悲し過ぎ、涙を流す事しか行動の取りようがない残酷な離別。それらは皆、遠坂凛と彼女の従えるバーサーカー・黒贄礼太郎が此処に来たが故に、齎された事柄であった。

 ……勿論、事の真実に遠坂凛は全く関わっておらず、例え彼女達がこの国立競技場に足を運ばずとも、悲劇は必ず起きていた事を、ありす達は知る訳もないのだが。

「返して……」

 ありすの叩く力が、その言葉を契機に弱くなって行く。
体格と年齢相応の力で叩いていた力が、赤子のそれのように弱弱しくなり、遂にありすは、地面に膝を付き、啜り泣き始めた。
その様子を、酷く哀しそうな……ともすれば、自分も泣いてしまいそうな程情けない表情で、凛は見下ろしている。
如何なるカルマがあって、自分はこんな目に遭っているのだろうか。最悪のバーサーカーであるところの、黒贄礼太郎を御し切れていなかったが故に起った、
あの神楽坂での大虐殺のせいなのだろうか? 解らない。解らないが、何て理不尽な憂き目なのだろう。凛自体は、何も悪い事をしていないと言うのに。
何故自分だけが、こんな意味不明なまでに重い運命を、背負わねばならないのかと。改めて、凛は思い知らされてしまった。

「や、やめて……アリスを殺さないで……!!」

 泣きそうな表情で、アナスタシアが凛に懇願した。
今までは年長者としてありすを怖がらせないよう努力はしていたが、ここでありすに何かがあったら、本当に、アナスタシアは狂ってしまいかねない。
今の彼女には凛が、今にもありすを無慈悲に殺してしまう風に見えてならなかった。

「ち、違う……」

 唇を音叉のように震えさせ、怯えた声音で凛が後ずさる。

「私は、殺してなんか……殺してなんか、ない……!!」

 他人に言っている、と言うより、自分に対して言い聞かせている様な素振りで、凛は呟き続ける。 
言った所で聞く訳がないと言う思いと、それでも言わねばならないと言う思いが鬩ぎ合った結果がこの、蚊の鳴く様な小さな声による、釈明にもならぬ釈明であった。

「私は、誰も殺してなんか――」

「その人殺しから離れて!!」

 弁解を凛が続けようとした、その時だった。気配を全く感じなかった――気付けてなかった――為に、驚きも大きい。
自身の声をかき消し、塗りつぶすような少女の叫びが背後から聞こえて来た為に、凛は慌てて振り向いた。
彼女の視界に映ったのは、緑色の髪をし、何処かの学校指定制服を身に纏った、整った顔立ちの少女だった。凛よりも小柄な身長のせいで、年齢差を窺わせない。
必死そうな表情をしながら、少女――雪村あかりは、凛の方と言うより、クローネの生き残った三人の方を見ながら、更に言葉を続けた。

「あ、貴女は……」

 アナスタシアが呆然と言う体で呟く。
凛は知らなかったろうが、アナスタシアと、涙でぐしゃぐしゃになった顔を件の緑髪の少女の方に向けているありすは、彼女の事を知っているのだ。
雪村あかり、芸名を磨瀬榛名と言う少女の名前と顔は、芸能界の中に生きるアイドル達にも名前が知れ渡っている。
幾つものドラマや映画のレギュラーを演じて来た、有名な子役であるのだから、アイドルたる彼女らが知っていても何もおかしくはなかった。

「速く此処から逃げて!! 危険だって解る筈でしょ!!」

 そう、あかりの言う通り、殺人鬼の共犯者と目されている遠坂凛の存在を抜きにして、この新国立競技場は危険な状態であるのだ。
そこかしこで、超常の力を秘めた怪人怪物達が鎬を削り合っている状態。その余波を何時蒙るか解った物ではないのだ。
速めに此処を立ち退かねば、競技場で命を散らした多くの人間達と同じ末路を辿るのは自明の理。
当初はポカン、とした様子であかりの言葉を聞いていたアナスタシア達であったが、彼女の言いたい事を理解したのか。
「アリス、立てますか……」と、精彩を欠いた声でアナスタシアが呼びかけると、マラソンを終えた後のようによろよろとありすが立ち上がり、彼女の方に向かって行く。
ありすはアナスタシアの下に戻るや、再び気絶している文香の腰を支える。そして、その状態で彼女らは遠坂凛から遠ざかる――つまり、あかりの方向へと近付いて行き、
そのまま彼女とすれ違い、遠ざかって行く。ありすらがチラチラと、あかりの佇んでいる方向に目を向ける。あかりも逃げないのか、と言う様な目線である。
それに気付いたか、ニコッ、とあかりは満面の笑みをありす達に向ける。名残惜しそうな表情を浮かべながら三人は、凛とあかりの両名から距離を取り、
近くの階段から上に上がって行き、同一フロアにいない事を確認すると、それまでアナスタシアやありすに向けていた笑顔から、一転。
途端に、同年代の少女が浮かべるそれとは思えぬ程、据わった表情と瞳で、凛の方をあかりは見据えた。

「貴女も、私の事を人殺しだと罵るのかしら……!?」

 先程のありすの言葉に、精神をやや乱されたらしい。その声音は、極度の緊張と心労で上擦っていた。

「何言ってるの? 実際の所人殺しでしょ?」

 火を点ければ紙は燃えるとでも言うように、当たり前の如くあかりはそう反論した。
そう、凛がどんなに殺してないと主張しようが、事情も知らない第三者からすれば、見苦しい言い訳としか捉えようがないのである。あかりの反応は、至極当然のものと言えた。

「私は――」

「そんな事、どうでも良いの。漸くお邪魔なアイドルが消えて、やり易くなったんだから」

 其処で、凛は気付いた。あかりの声音が、同じ年代の少女が発するものとは思えぬ程に、低く、冷たいものになっている事に。

「肝心な事は、貴女を殺せば令呪が一画手に入れられるって事」

 ――その意味を咀嚼、理解させられるだけの時間と余裕が、凛に与えられていた事は奇跡にも等しい事柄だった。
目の前の存在は、聖杯戦争の参加者。そう気付いた瞬間だった、あかりのうなじから、黒い鞭にも似た何かが伸びて、撓り、ビュンッと風を切って凛の下へと振るわれた。
凄まじい、速さだった。拳銃の銃弾、そのトップスピードにも匹敵する速度で振るわれたそれに、凛が反応出来たのは、ひとえに身体に施した強化の魔術。
そして、弟弟子が教えてくれた八極拳の訓練で培われた、危機察知能力があったからこそだった。

 慌てて腕を交差させて、自らの胸部目掛けて振るわれたそれを防御。
――角材で、思いっきり殴られたような痛みと衝撃が、交差させた両腕に舞い込んだ。痛みだけなら、まだ良かった。
黒い鞭の様なものが与えた衝撃は、そのまま凛を吹っ飛ばし、廊下の壁面に彼女を背中から激突させた。

「かはっ……!?」

 肺の中の空気を全て、乾いた吐息として凛は吐き出してしまった。
背中の皮膚が全て剥がれ、背骨が折れたのではないかと言う程の痛みが、彼女の背面を襲っている。
後頭部を強かに打ち、脳震盪を起こさなかったのは、打撃を与えられた瞬間に顎を咄嗟に引いていたからである。呆れる程商才のない弟弟子から、受け身の取り方を教わっていたのが功を奏した。

 目線を、あかりの方に向ける。凛の瞳が驚きに瞠られた。
彼女のうなじの辺りから、本当に黒い鞭の様なものが伸びているのだ。隠し武器の類ではない、伸びている位置的に見て、うなじから『生えている』と見るのが適当だった。
よく目を凝らして見てみると、それは鞭と言うよりは触手、に近い何かだと凛は気付いた。ひとりでにプルプルと黒い鞭状の何かが震えているのだ。
仮に触手だとして、当然人間の首にはあんな物は生えていない。後天的に埋め込まれたか、先天的に何らかの処置をされたと見るのが適切か。成程、あれを見られたくなかったから、あのアイドル達を速く下がらせたのか、と凛は合点がいった。

「よく防いだね」

 と、浮かべている酷薄そうな笑みとは裏腹に、内心あかりは驚いていた。
触手細胞を埋め込まれた事により萌芽したこの触手兵器、本気で振るえばその先端の速度は音の速度を容易く超える、恐るべき武器と化す。
人間に放てば骨は勿論内臓ですら破壊され、当たり加減次第では頭が砕け飛び、四肢だって断裂する。
本気で振るっていなかったとは言え、今の一撃、時速にして五〇〇㎞程は出ていたし、人体に直撃すれば骨の何本かは圧し折って然るべき威力だった筈である。
それなのに、凛の骨は一本たりとも折れていないし、内臓も同様。それだけならば当たり所をしくじってしまったで説明出来るが、この少女はあかりの攻撃に明らかに『反応した』。

 今の今まで、遠坂凛は普通の少女だと思っていた。
バーサーカーの制御に失敗した、哀れな程運がなく、愚かで、カモなマスター。それが、雪村あかりから見た遠坂凛と言う少女である。
その認識が今、微かに揺らぎ始めていた。目の前の少女は、何かを持っている。あかりはそう考え直し始めていた。

 ――そして、その認識の転向が、明確にあかりの命を救った。 

「――ッ!?」

 慌てて、あかりは左方向に飛び退こうとした。何故か。
遠坂凛の回りに、赤黒い弾丸の様なものが展開され、それが一斉に、黒い触手を武器とする少女の下へと掃射されたからだ。
十m程先の天井の蛍光灯に触手を伸ばし、巻き付け、そして収縮。この勢いを利用してあかりは凛の放った赤黒いガンドを回避するが、その内の一発が、あかりの脹脛を抉った。
苦悶に顔が歪む。歯を食いしばって、耐える。この程度の痛みは、触手細胞を埋め込まれてから日常茶飯事だっただろうとあかりは自身に激を飛ばした。
あかりをハチの巣にする筈だった数十発ものガンドは、向かいの鉄筋コンクリートの壁を虚しく穿つだけに終わった。あかりは総毛だった、あんなのをまともに喰らっていれば、どう考えても即死であるからだ。

 完全に、油断していた。あかりは自分の認識の余りの甘さに、自分で自分に唾を吐きかけたい位であった。
一番怖い暗殺者とは、自身を暗殺者であると全く悟らせない……即ち、誰が見ても殺しの才能などなさそうな人畜無害そうな外見をしていながらその『時』が来れば、
躊躇いも何もなくナイフを急所に突き刺すような人物である事を、あかりは他の誰よりも理解していた筈なのだ。何故ならば、彼女自身がそんな暗殺者だったからだ。
一番警戒していなければならない事柄について、不覚を取った。命までは取られなかっただろう、等言い訳にもならない。
遠坂凛の事を何も出来ない少女と思っていたがその実、恐るべき術を行使し、それを躊躇いもなく相手を殺すのに用いる恐るべき人物であったのだ。
そんな人物を、最初の一撃で葬れる千載一遇の機会を、あかりはみすみす逃してしまった。これ程馬鹿な話があるか。その事実に、彼女は例えようもない怒りを覚えていた。

 そして、遠坂凛もまた、あかりと同じ事を考えていた。
今のガンドで、あかりを殺し切れなかったのは大いなる失点以外の何物でもない。あかりを楽に殺せる筈だった最初で最後の機会は、あの瞬間を於いて他になかったろう。
純恋子との戦いで凛は気付いていたが、如何も聖杯戦争の参加者の多くは、自分の事を『無力な少女』と認識しているらしく、魔術師だとは露も思っていないらしい。
これを利用しない手など、ないだろう。何せ戦う術を知らない少女と思ってくれているのだ。その隙を狙って、ガンドを初めとした必殺の魔術を叩き込み、一撃で終わらせる。
そうすれば、最小限の魔力消費と労力で、マスターを殺せるのである。これ以上楽で有効的な作戦など、早々ない。
その作戦が今、失敗に終わってしまった。もう向こうも、凛と言う少女の素性をある程度知ってしまっている。油断などする筈がない、警戒して当たる事だろう。聖杯戦争の主従を脱落させられるまたとない機会をフイにしてしまったと言う事実に、遠坂凛もまた雪村あかり同様歯噛みしているのであった。

「騙してたのね」

 蛍光灯に巻き付けさせていた触手を其処から離し、床に降り立ってからあかりが言った。

「そんな計算初めからないわよ。ただ、皆が勝手に勘違いしてくれるから、それを利用しただけ。それに、騙してるのは、お互い様で、しょッ!!」

 言うに事欠いて何を言う、と言うのが凛の胸中である。そっちも触手と言う武器を隠しているじゃないか、そんな所だ。
そう叫びながら、凛は思いっきり地面を蹴りあかりから距離を取る。取りながら、機関銃の如き勢いでガンドを連発。
弾丸が点で襲い掛かってくると言うより、ある種の壁が飛来して来たとしか見えぬ程の密度で放たれた、赤黒の弾丸の数々を、あかりは訓練によって培った反射神経と、
埋め込まれた必殺の触手を至る所に巻き付けさせ、それが縮む勢いを利用しての高速移動で回避して行く。

 結局の所、この<新宿>にいる限り、遠坂凛は、<新宿>での聖杯戦争と言う宿命から逃れられない事。
そして、<新宿>にいる限り、自分が殺人鬼・黒贄礼太郎とつるんでいる悪党だと言う事実は変わらないのだと言う事を、この場で痛い程理解した。
自分には味方も、頼れる者もいないのだと、凛は再認してしまった。戦うしか道がなく、戦わなければ生き残れないと言うのであれば。
凛は、この場で敵対している、触手を振う少女を屠って、前に進むと強く誓った。

 ――アンタを殺して、根源に辿り着く……!!――

 そして目の前の少女を、神楽坂でであったハンチング帽の男が語っていた、あるかどうかすらも解らぬアカシックレコードへの階(きざはし)の為の犠牲にする事も、凛は誓った。今この瞬間だけ、凛は安堵出来ていた。戦っている最中だけは、ありすに罵られた人殺しと言うレッテルを、忘れる事が出来るから。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 ザ・ヒーローと、そのバーサーカーであるクリストファー・ヴァルゼライドの聖杯戦争へのスタンスは、一つである。
敵を見つければ、殺す。見敵必殺、とも換言出来る。この主従には敵も味方もない。聖杯戦争の参加者を見つければ、相手の理屈の是非もなく、相手を葬り去る。
全ては聖杯、己が抱いた理想の成就の為に。己のやっている事が、塵(ゴミ)にも屑(クズ)にも劣る所業であると解っていても、それを受け入れ相手を倒すのである。

 見敵必殺とある以上、先ずは敵を見つけると言うプロセスが重要になるのだが、この主従はその劈頭の段階でいつも苦戦している。
マスターであるザ・ヒーローも、彼の従えるヴァルゼライドも、敵を見つける、その位置を特定すると言うスキルや宝具を持っていないからである。
必然的に、自分の足で<新宿>中を駆け巡り、敵を見つけ次第殺す、と言う方法しか取れなくなる。これは非効率極まりない。
非効率であるだけならばまだ良い、<新宿>と言う狭い場所で行われている聖杯戦争にも関わらず、サーヴァントとの邂逅が今の所この主従は少ない。
行動方針から言えばもっと戦闘の回数が多くて然るべき筈なのに、想像を下回る回数の少なさであった。

 だが、この問題もクリアーしてしまうだろう、と二人は思うようになっていた。
単純明快、自分達に下された討伐令の事である。やはり、と言うべきか、ルーラー相手に喧嘩を吹っ掛けてしまえば、無事に終わる筈がなかったらしい。
契約者の鍵を通じて、自分達をターゲットとした討伐令が敷かれた事は、とうの昔に彼らは気付いている。主催者に叛逆したのだ、当たり前の処遇であった。
通常の主従ならば一気に窮地に陥ると思う所であろうが、彼らはそうとは考えなかった。報酬に令呪が貰える討伐対象になったと言う事は、
それだけサーヴァント達に狙われる可能性も高くなると言う事。無暗矢鱈に歩き回らなくても向こうの方からサーヴァントがやってくる。つまり、勝つのは自分達だと言う事だ。
どんなサーヴァントが来ようとも返り討ちに出来る自信はあったし、仮に<新宿>の聖杯戦争に参戦している全サーヴァントに一斉に襲い掛かられても、
勝つのは自分だとすら彼らは思っていた。要するに彼らは、討伐令を下されても絶望は愚か堪えてすらおらず、寧ろ勝利を得られる確実なチャンスとすら思っているのである。

 現在ザ・ヒーローとヴァルゼライドは、新国立競技場の内部にいた。
彼らがこの場所に起きた異変に気付いたのは、偶然ザ・ヒーローがスマートフォンを操作し、情報の整理をしていた時の事だった。
ニュースサイトを開いた際に、トップニュースとして扱われていたのが、この建物で起きていた事件であった。ヴァルゼライドに相談するまでもない。
それが、サーヴァントによる物だと気付いたのはすぐであった。そして、其処に向かうと決めたのもまた、両者共にすぐであった。
当然、騒ぎを聞きつけて多くの聖杯戦争の主従がこの場所に足を踏み入れる事であろう。それを期待して、二人の英雄はその場所へと駆けて行ったのだった。

 そして現在、ザ・ヒーローは新国立競技場の内部を警戒しながら歩いていた。
外界に面した競技場部分には、ヴァルゼライドを向かわせている。其処にサーヴァントがいる蓋然性が高いからである。
其方にバーサーカーを向かわせつつ、自分は内部にいるであろうマスター達を殺す。それが、彼らの取った作戦である。
今の所はマスターは愚かサーヴァントすら見つけられていないが、きっとこの内部にいる筈なのだ。虱潰しに探せば、結果は出る。

 ――内部を走っていたザ・ヒーローであったが、突如足を止め、その場に立ち止った。
二十m程先から此方に向かって歩み寄って来る、黒い影法師の様なものを認めたからである。
黒い厚紙を人の形の切り絵にしたようなシルエットだった。墨を被った人間が、近付いて来ていると当初は彼も錯覚した。
だが違う。よく目を凝らすと、近付いてくる者は黒い角帽と黒いマント、黒い学制服を着用した青年だった。だが、奇妙な点が見られる。
その制服は現代の時代性に即したものでなく、昔風、噛み砕いて言えば大正時代の人間が着るような、バンカラ風の恰好なのである。そもそも、マントを羽織っていると言う時点で、おかしいものがある。

 角帽から覗く、黒マントの青年の瞳と目が合った。
……ゾッとするような寒気を、英雄の名を冠するこの男が覚えた。
海を煮え立たせる魔術を苦も無く操り、大地を揺るがす力を誇る魔王の覇気を浴びた事もある。
山をも砕く稲妻を息を吸うように落とし、空をも二つに割って見せる神威を背負った大天使にも睨まれた事もある。
それと同じ感覚を、十数m先の、背格好も体格も自分と何ら変わらない、ただの人間に。事もあろうにザ・ヒーローが覚えているのだ。
この感覚は言ってしまえば、強い者が放射する、冷たく尖った殺意に充てられたそれであった。
己の瞳にステータスが視覚化されないと言う事実と、培って来た感覚から来る経験が、目の前の影法師がサーヴァントではなくマスターであると言う事を告げている。
それが、恐ろしかった。自分以外に、此処まで『達していた』存在が、この<新宿>に今まで息を潜めていた、と言う事実に。以前戦った、ルーラーのサーヴァントを従えるマスターは、その特異性から納得も行くが、目の前の青年は正真正銘ただの人間。ザ・ヒーローは疑いようもない戦慄を覚えているのだった。

 そしてそれは、相対する黒い書生の青年、葛葉ライドウにしても同じ。
彼もまた、ザ・ヒーローと同じ事を思っていた。目の前の存在は、別格に強い。
目の前の男は確かに、人間である。それは事実だ。が、その強さの閾値が異常の値を示していた。
単純な技量だけを言えば、彼より弱い英霊や悪魔など、掃いて捨てる程存在するだろう。それが、先ずあり得ない。
人は、単体で神も悪魔も産めない身体になっている。サーヴァントより強い生の人間は、外的要因なくして現代では生まれないし、生まれてもならないのだ。
とどのつまり目の前の男――契約者の鍵のアナウンスが称する所のザ・ヒーローと言う男は、ライドウから言わせれば受肉した英霊と何ら変わらなかった。
そう称さねばならない程、目の前の男は別格に強い。帝都に禍を齎すと言う理由から、見つけ次第即座に誅罰を加えんとライドウは心に決めていたが、事は、そう簡単には行かないようである。

 立ち止まっていたザ・ヒーローが、無言を貫きながら歩き出す。
ライドウの方は初めから立ち止まりすらしていなかったので、そのままであった。
彼我の距離が縮まって行く。十mを割り、八、六、四、二。完全に、得物であるヒノカグツチと赤口葛葉の間合いであった。
しかし彼らは、得物を抜かなかった。あろう事かそのまますれ違い、互いに交錯して行き過ぎていったのだ。

 ――行き違ってから、二m程経過したその瞬間だった。
音もなく両者は、懐から拳銃を引き抜き、相手の後頭部に照準を合わせた。百分の一秒以下の早業だった。
しかし実際には既に両者は身体の向きを相手の方に向けさせていた為に、後頭部に銃口を、と言う言い方は正鵠を射ていなかった。両者の額に向けていた、の方が正確であろう。

 躊躇いなく、二mと言う余りにもな短距離で、ライドウとザ・ヒーローはトリガーを引き、発砲。
けたたましい火薬の炸裂音が鳴り響き、銃口から弾丸が放たれる。両者は共に、サイドステップを刻む事で弾道から逃れた。常軌を逸した反射神経とは、この事を指すのだろう。
弾丸を回避後に、二人は示し合わせたように互いの得物、燃え盛る剣であるヒノカグツチと、鋼をも斬り断つ霊刀・赤口葛葉を引き抜き、駆け出した。

 緑色のオーラ状に可視化された霊的物質・マグネタイトを纏わせた赤口葛葉を、緑色の光の筋としか見えぬ程の速度でライドウが振う。
上段から振り下ろし、中段から薙ぎ払い、下段から斬り上げ、袈裟懸けに、逆袈裟に、と。
達人が全霊で振るう一太刀と同じ速度と同じ威力の一撃を、ライドウは当たり前のように一秒の間に幾度も幾度も超高速で行っているのだ。
常人は勿論の事、サーヴァントですら反応すら許さず、刀の振るわれた数だけ身体を武器ごと分割される程のこの連続攻撃を、ザ・ヒーローは防いでいた。
剣身が松明の如くに燃え上がる神剣・ヒノカグツチを最小限度に動かし、時には傾けさせ、ライドウの連撃をいなし続けている。
防戦一方と、傍目からは見えるだろう。しかし、炎の剣を振う英雄の、この涼しい顔はどうだ。今の状況を、彼は苦戦しているとすら認識していない。
赤口葛葉を振いながらも、自分の方が優勢に立っているとはライドウも思っていなかった。優勢を崩せるだけの技術を一つも持たぬような相手ならば、最初の発砲で射殺出来ているからだ。

 中段左から薙ぎ払われた霊刀の攻撃に合わせて、ザ・ヒーローが強く力を込めてヒノカグツチの剣身を動かし、ライドウの攻撃を弾いた。
本来は其処で、弾いた際に仰け反って体勢を崩したライドウに合わせて、ヒノカグツチを振り下ろす算段であった。しかし、その意図を見抜いたらしい。
仰け反り掛けたその瞬間に、床を蹴ってライドウは跳躍。右方向に大きく飛び跳ね、一気にヒノカグツチの剣身の射程から逃れる。
バッとその方向にザ・ヒーローが顔を向けた。ライドウは鉄筋コンクリートの壁に当たるその直前で、グルリと身体を一回転させて体勢を整え、両足をクッションに壁に足を付ける。
そして、誰が信じられようか、そのままライドウは壁を横走りしながら、コルトライトニングの銃弾を敵である英雄目掛けて乱射し始めたのだ!!
迫る鉛弾をヒノカグツチの一閃で蒸発させ、負けじとザ・ヒーローも追跡、追いすがりながら拳銃から弾丸を発砲する。
ライドウはこれを、壁を蹴って向かいの壁に跳躍し、壁に激突するかと言う所で、また壁を蹴って向かいの壁へと再び跳躍、
と言うワイヤーアクション宛らの非人間的な動きで銃弾を回避し続ける。無論その間、敵対してる英雄目掛けて銃弾を発砲し続ける事も忘れていない。しかも放たれた弾は、寸分の狂いもなくザ・ヒーローの心臓や脳部目掛けて飛来していた。

 ライドウが壁を三角蹴りの要領で跳躍する都度、九回程。
十回目に差し掛かったその時、ライドウは身体にマグネタイトを纏わせ、身体能力を強化。壁を蹴り向いの壁にジャンプするや、コンクリの壁を右足で蹴り抜く。
ライドウの靴底の踵が其処にめり込んだ瞬間、鉄筋コンクリートの壁が、数百年も経過していたかの如くに砕け散り、ライドウが壁の先の部屋の中に消えた。
その中に入ろうとするザ・ヒーローであったが、思い止まった。此方からでは破壊を免れた壁が、ライドウの動きを確認するのを遮っていたからだ。
黒い書生が、今の状況を見越してない筈がない。ザ・ヒーローが認識出来ないような状況をわざと作り上げたのだ。その理由は、一つ。不意打ちだ。
恐らくは、のこのこと追跡の為にライドウが蹴り抜いた壁の穴から部屋の中に入れば、其処で待機していた彼から手痛い一撃を貰う事は確実である。
これを防ぐには、如何すれば良いのか。挑発に乗らず、その場で待機していれば良い。根競べには、ザ・ヒーローは自信がある。相手が焦れて、破れかぶれの攻撃してくるとも思えないが、それでも現状一番の最適解は、自分の選択であるとこの英雄は疑っていなかった。

 二人の悪魔召喚士(デビルサマナー)が演じていた熾烈な死闘とはまるで真逆の、夜の山間の如き静寂が保たれたのは、数秒程。
その静けさはすぐに、ザ・ヒーローの真横の鉄筋コンクリートの壁が粉砕される、言う現象を以て打ち破られた。
来た、そう思いその方向にヒノカグツチを、反射的に振り下ろし、驚愕した。奇襲を仕掛けに来たのは、ライドウではなかった。
針金のように太く、見るだけで金属質を有している事が解る鋼色の獣毛生やした、巨大な獅子(ライオン)が、大口を空けて飛び掛かって来たのだ。

 ――ケルベロス!!――

 その姿、ザ・ヒーローが見間違える筈がない。一目で彼は、自分を食い殺さんと迫るその存在を、魔獣・ケルベロスだと看破した。
味方として共に戦えば誰よりも信頼出来る仲間である事はこの男はよく知っている。そして、敵対すればこれ以上となく恐ろしい悪魔である事も、よく解っていた。

 床を蹴り、ケルベロスの移動ルート上からザ・ヒーローは逃れた。
先程佇んでいた地点から五m程離れた地点に着地した瞬間、ガチンッ、と。総毛立つような恐ろしい、ケルベロスの牙と牙とが噛み合わさった音が聞こえて来た。
あの牙に噛まれれば、銃弾すらも容易く跳ね返す鱗を誇る竜種ですらがその鱗ごと割砕かれ筋肉を食いちぎられるのだ。人間が喰らえば、その末路は最早語るに及ばない。

 ザ・ヒーローは高速で思考する。
あの黒い書生、ただでさえ恐るべき強さを誇るだけでなく、この上悪魔をも使役出来るのかと心中でザ・ヒーローが唸った。
ケルベロスを使役出来る以上、元居た世界でも相当名を馳せていたサマナーである事は確実である。
ライドウ自身の強さは元より、使役する悪魔の強さも並外れていると来ている。勝算が、圧倒的に低い。
ザ・ヒーローとライドウの二名が対等の条件で戦うと言うのなら、勝率は半々だ。だが此処に、悪魔の助力を向こうが加える物とするならば、一気に不利になる。
この不利を覆すには、ザ・ヒーローも悪魔を使役するしかなく、実際彼もまた元居た世界では最強のデビルサマナーではあったのだが……その悪魔が、今はCOMPにいない。
とどのつまり今のザ・ヒーローは、ライドウには勝てない可能性が極めて高い。悪魔との絆や信頼関係、そしてこれを指揮する力が低いのなら付け入る隙はあった。
しかし、同じデビルサマナーであるからこそ、解る。ライドウの使役するケルベロスはその主と強い絆と信頼で結ばれているだけでなく、ライドウの指揮力も桁外れだ。
サマナーとしての実力が低ければ、ザ・ヒーロー相手にケルベロスをぶつけない。ケルベロスに炎の攻撃は絶対に通用しないからだ。
つまり、ヒノカグツチの攻撃が効かないのである。これを知っていて、ケルベロスを此方にぶつけに来たのだろうと、百戦錬磨の英雄は判断した。見事な策だと内心で唸る。打つ手が考えられない程、見事で、憎らしい作戦であった。

 グルリ、と頭をケルベロスが此方に向けた。ライドウから殺せ、と命令されたのだろう。その瞳には決然たる殺意が漲っていた。
ヒノカグツチは効かない、ベレッタの銃弾程度、獣毛に阻まれ刺さりすらしない。ケルベロスを相手に出来るのかと言う意味では、完全にザ・ヒーローは詰んでいた。
だが、マスターであるライドウを殺せば問題ない。無論、殺されてくれるかどうかは別問題であるが、現状手はそれしかなかった。
勿論相手のライドウも、自分を葬る以外向こうに勝ち目がない事など知っていると見て間違いない。相手の懐、即ち罠が張ってある危険地帯に、ザ・ヒーローは踏み込んで行かねばならないのだ。絶望的状況とは、まさにこの事を指す。

「上等だ」

 だが、『それがどうした』。今周りを取り巻く絶望と同じ程の絶望を、英雄は幾度も経験し、幾度も踏破している。
絶望など、飽きる程その身に降りかかって来たし、その度にこの英雄は乗り越えて来た。
絶望に屈さなかったからこそ、英雄なのだ。己が力で跳ね除け、乗り越え、高みへと上り詰めたからこそ英雄なのだ。
此度の状況は、過去ザ・ヒーローが味わって来たそれに勝るとも劣らぬ酷いシチュエーションではあったが、だからと言って膝を屈すると言う選択肢は、
初めからこの英雄には存在しない。乗り越える、と言う選択しかもう選べないのだ。酷い手傷を負うだろう。
最悪腕か脚の一本が犠牲になるかも知れない。――それで、目の前の強敵を倒せると言うのであれば、安いもの。それ程までの強敵が、葛葉ライドウと言う男であった。

 いよいよ身体の向きを、完全にザ・ヒーローの方に修正させ、獣特有の極端な前傾姿勢を取り始めたケルベロス。
強い殺意を示す姿勢であった。何かの契機で飛び掛かられ、喉笛を食いちぎられるのも時間の問題だ。
この恐るべき魔獣に対する警戒もそうだが、これを使役するライドウと、他にも召喚されているだろう悪魔についても警戒を怠っていない。
通常デビルサマナーは複数の悪魔を使役し、戦闘の際には総力戦或いは袋叩きの形態をとるのが当たり前なのだ。一対一の正々堂々、など悪魔の世界では通用しない。
明日生きられるのか、今日死ぬのかの世界では、卑怯だ何だは言い訳にもならない。数の暴力を使おうが不意打ち騙し討ちを行おうが、勝てば良いのである。
中庸の英雄とすら謳われるザ・ヒーローだからこそ、その理屈を痛い程理解している。ライドウもこの理論を理解している事だろう。となれば、ケルベロス以外の悪魔を何処かに潜ませている、と言う可能性も無きにしも非ず。下手をすればケルベロスは囮で、本命が別にある、と言う可能性すらある。一秒たりとも、油断が許されない綱渡りの状態であった。

 ケルベロスが一歩、右前脚から前に進んだ、その瞬間だった。
ザ・ヒーローから見て後方に存在する、先程ライドウが蹴り抜いて生み出した壁の穴から、高速で何かが飛来。
急なカーブを描いて、飛び出て来たそれがザ・ヒーローの方へと迫って行く!! この気配に気付いた彼は、急いで迫る物の方へと振り返った。
そしてそれ目掛けて、ヒノカグツチを上段から一閃。優れた反射神経が、自分に向かって迫るそれが、アボリジニが使う狩猟道具であるブーメランだと認識させる。
直撃していれば、脊椎が小枝のように圧し折れていただろう事は想像に難くない。ブーメランを破壊したザ・ヒーローは、即座にケルベロスの方に向き直った。
音もなく、ケルベロスは彼の方へと躍り掛かっていた。全長数m、重さにしてtは下らない巨躯にも関わらず、訓練されたシェパード犬の如き俊敏性と軽やかさであった。
地面を舐めるような低姿勢を一瞬で取り、そのままザ・ヒーローは走りだし、飛び掛かったケルベロスの股下を潜り抜ける。
常人ならば頭から転びそうなところ、そうなるどころか極めてスムーズかつ素早く走る事が出来たのは、彼の身体能力と悪運の強さの賜物であった。
股下からケルベロスを潜り抜け、この魔獣の背に回ったザ・ヒーローは、先程ケルベロスが破壊し、空けた穴へと侵入。
その穴は競技場内の屋内フードコートと繋がっていたらしい。ライドウを探そうと目線を配らせ、発見した。
場所は、全国規模で展開しているフランチャイズのハンバーガーのテナント、その厨房であった。先程ブーメランで攻撃した悪魔の姿は見えない。
だが確実に何処かにいる。高速でそう推理しながら、ベレッタを引き抜き、ライドウの方へと弾丸を発砲する。
眉間へと放たれたそれを、軽く頭を横に傾けさせる事でライドウは回避。弾が通り過ぎた事を感覚で認識するや、カウンターを飛び越え、着地。
高速で弾をリロードし終えていたザ・ヒーローは、ライドウの着地の隙を縫って、再び弾丸を数発発砲。
これを、赤口葛葉の鞘で弾き飛ばし、飛来する弾を弾いたと結論を下した後、床を蹴り、緑の英雄の下へと駆け出して行った。
黒い疾風が、近付いてくる。そんな錯覚を覚える程の、ライドウの移動速度。マグネタイトを身体能力の強化の術に転用させている為、その速度は優に時速三〇〇㎞を超える。

 赤口葛葉の間合いに入るなり、極めて鋭い中段突きを、ザ・ヒーローの鳩尾へとライドウが放った。
それをヒノカグツチの剣身で防御、その神剣に纏われる炎の破片と、赤口葛葉に纏わせているマグネタイトの小片が彼らの回りに舞い散った。
ライドウの赤口葛葉と現在進行形でせめぎ合いを演じ続けながら、ザ・ヒーローも彼に合わせ、COMPに内蔵された大量のマグネタイトの一部を、己の身体能力の強化に充てる。
その状態で、ライドウの振う霊刀からヒノカグツチを離し、思いっきり一閃。当然のようにライドウはその攻撃を防御するが、ザ・ヒーローが予想以上に力を込めていたせいか。
防御した姿勢のまま、剣の振るわれた方向に吹っ飛ばされた。それに合わせて、ザ・ヒーローが走る。吹っ飛ばされたライドウに追いつき、着地するよりも速くヒノカグツチを振り下ろし、それで決着を着けようと思ったのだ。

 ――だがそれは、ライドウがマントの裏地から何かを取り出し、迫るザ・ヒーロー目掛けて放擲すると言う動作で中断されてしまった。
黒いマントの書生に追い縋るまで後数mと言う所で、彼は走るのを止め、ライドウが投げた物目掛けて、ヒノカグツチを振い、迎撃する。
一瞬だが、パリンッ、と、ガラス質の物が砕ける音が聞こえた。直に、纏われている極熱の焔で蒸発。何を投げたのか、その時は解らなかった。
が、燃え盛る剣身の回りでパチパチと音を立てて燃えている、亜麻色の粉を見てその正体を察した。コショウである。
先程まで待機していたハンバーガーの店舗から、備え付けの調味料であるコショウの小瓶を手にし、懐に隠し持っていたのだ。
当然、銃弾にすら反応して迎撃できるザ・ヒーロー程の男にとって、こんな物を投げられてもさしたる脅威にはならない。
では何故、この男は、しまった!!、と言う様な顔をしているのか。これを迎撃する為に、足を止めてヒノカグツチを振ってしまったと言う事実の為である。
それはつまり、一瞬ではあるが、この何て事の無い調味料の小瓶に意識と瞳を奪われてしまったと言う事。ライドウ程油断が出来ない相手に、その迂闊な一瞬は死を招く。
その迂闊を引き出させる為に、ライドウはコショウ瓶を投げたのだろう。そして、ザ・ヒーローが高速で推察した事柄は、何処までも正しいものであった。





                        「   マ   ハ   ム   ド   オ   ン   」





 その独特な韻律で経を口ずさむような言葉は、ザ・ヒーローの心胆を寒からしめるには、十分過ぎる程の威力があった。
それこそは、念じるだけで、目線だけで、耐性の無い人間を殺せるとすら言われる程魔力に長けた悪魔達が用いる、最高級の呪殺の魔術であるからだ。
己の回りを、紫色に光っている梵字が取り囲み、暗黒の魔力の帳を形成した瞬間、ザ・ヒーローは吼えた。
今まさに、因果が巡り巡って、自身の下へと還ってくるのを、英雄は、この呪殺の魔術を以って思い知り始めているのであった。