司令部のモニターには、デハドスのMSがなすすべも無く破壊されて行く光景が映し出されていた。
能力の程度に関係なく、パイロットたちの生命が失われて行く映像を見ながら、マスター・ベイトは苦い顔を作った。
「近接戦闘に特化したガンダムアデュナタがかく乱した後に、電子戦機であるガンダムデュナトンが敵部隊を沈黙させ、後続のMSがとどめを刺す。
ガンダム二機を撃墜の危険にさらす点を除けば、確かに理に適った戦術だ。しかし……」
ベイトは腕を大きく払って法衣を翻した。大仰な仕草である。
「こんなものは、品性の欠片もない卑劣な戦いだ。アンデレ権八郎、ガンダムマルスの出撃準備を始めてくれ」
「枢機卿猊下御自ら御出陣なさるのですか。対ガンダムならば、ノーメンクラートル隊でも充分かと愚考いたしますが。幸い、プロテラはシールド処理がされております」
「剣をとる者は剣によって滅ぶ。それを連邦の者どもに教えてやろうというのだよ」
我ながらよく言う、とベイトは顔色を変えずに思った。先に戦争を仕掛けたのはデハドスである。この矛盾に気付いた者もいるに違いない。
しかしベイトの目の前にいる義士たちは、それを面に出すのを恐れ、考えまいとしている。
「オラテ・フラテス(祈れ、兄弟らよ)。私は銃後の将軍でいるより、遍歴の騎士でありたい」
「ゼスス・キリシテ。サンタ・マリヤ。サンチャゴ……御武運をお祈り致します」
そう言って、アンデレ権八郎は再びその文句を繰り返した。司令部の者たちも総立ちとなり、十字を切ってアンデレ権八郎に合唱する。
信仰を持たぬ人間がこの光景を目撃したなら、彼らが素面でないと思うであろう。
能力の程度に関係なく、パイロットたちの生命が失われて行く映像を見ながら、マスター・ベイトは苦い顔を作った。
「近接戦闘に特化したガンダムアデュナタがかく乱した後に、電子戦機であるガンダムデュナトンが敵部隊を沈黙させ、後続のMSがとどめを刺す。
ガンダム二機を撃墜の危険にさらす点を除けば、確かに理に適った戦術だ。しかし……」
ベイトは腕を大きく払って法衣を翻した。大仰な仕草である。
「こんなものは、品性の欠片もない卑劣な戦いだ。アンデレ権八郎、ガンダムマルスの出撃準備を始めてくれ」
「枢機卿猊下御自ら御出陣なさるのですか。対ガンダムならば、ノーメンクラートル隊でも充分かと愚考いたしますが。幸い、プロテラはシールド処理がされております」
「剣をとる者は剣によって滅ぶ。それを連邦の者どもに教えてやろうというのだよ」
我ながらよく言う、とベイトは顔色を変えずに思った。先に戦争を仕掛けたのはデハドスである。この矛盾に気付いた者もいるに違いない。
しかしベイトの目の前にいる義士たちは、それを面に出すのを恐れ、考えまいとしている。
「オラテ・フラテス(祈れ、兄弟らよ)。私は銃後の将軍でいるより、遍歴の騎士でありたい」
「ゼスス・キリシテ。サンタ・マリヤ。サンチャゴ……御武運をお祈り致します」
そう言って、アンデレ権八郎は再びその文句を繰り返した。司令部の者たちも総立ちとなり、十字を切ってアンデレ権八郎に合唱する。
信仰を持たぬ人間がこの光景を目撃したなら、彼らが素面でないと思うであろう。
数日前は連邦軍基地であったところの一区画を効果範囲内に収めて、デュナトンがEMP兵装を起動した。
『ブリリアントな罠がオマエを篭絡するッ!』
「デュナトン、対空砲に近づきすぎるな」
ミレンナがそう言っても統牙は聞くものではない。彼は結果さえ出せば良いと考える類の人間である。
ミレンナはアデュナタのエナジー残量を確認した。なるべく節約して来たつもりであったが、半分を切っていた。
「この反応は」
ミレンナが一抹の不安を覚えたとき、凄まじい速度でこちらに接近してくる機体をセンサーが感知した。
カメラをそのスラスター光に向けて拡大すると、肥大化した頭部を持ち、真紅の装甲の上に銀の装飾を施したMSが映った。
左手にビームスマートガンを構えて、背中には巨大な十字架を背負っている。
「やはり出たか! ガンダムマルス!」
事前に渡された情報とは外見が違っているが、あのMSはデュナトンのEMPを恐れずに接近してくる。故にガンダムであることは確実である。
「デュナトン、下がっていろ!」
ミレンナは統牙の返答を待たず、アデュナタの管制システムを対ガンダム戦のものに切り替えた。全てのスラスターに火が入れられ、モニターにはガンダムマルスを模したホログラムが無数に表示される。
ホログラムの一つから赤い空間が扇状に広がった。アデュナタが体をひねって宙返りをすると、紙一重のところを真紅の光芒が横切って行く。
「なんて精度なの」
瞬時に弾道の再計算が完了して、モニターの殆どが赤い空間に占められる。これでは飽和攻撃を受けるのと変わりない。
ミレンナは、アデュナタの進行方向をマスドライバー施設に向けた。幸いにも機動性は勝っている。
ガンダム同士の戦闘は、一瞬で決着するか、さもなければどちらか一方のエナジーが切れるまで延々と続くといわれている。
両者とも一撃必殺のビーム兵装を持ち、事象予測による驚異的な回避能力で大抵の攻撃は当らないためである。
単純な運動性や機動性よりも、センサー類の性能とパイロットの技量とが結果を決めるといっても過言ではない。
『ブリリアントな罠がオマエを篭絡するッ!』
「デュナトン、対空砲に近づきすぎるな」
ミレンナがそう言っても統牙は聞くものではない。彼は結果さえ出せば良いと考える類の人間である。
ミレンナはアデュナタのエナジー残量を確認した。なるべく節約して来たつもりであったが、半分を切っていた。
「この反応は」
ミレンナが一抹の不安を覚えたとき、凄まじい速度でこちらに接近してくる機体をセンサーが感知した。
カメラをそのスラスター光に向けて拡大すると、肥大化した頭部を持ち、真紅の装甲の上に銀の装飾を施したMSが映った。
左手にビームスマートガンを構えて、背中には巨大な十字架を背負っている。
「やはり出たか! ガンダムマルス!」
事前に渡された情報とは外見が違っているが、あのMSはデュナトンのEMPを恐れずに接近してくる。故にガンダムであることは確実である。
「デュナトン、下がっていろ!」
ミレンナは統牙の返答を待たず、アデュナタの管制システムを対ガンダム戦のものに切り替えた。全てのスラスターに火が入れられ、モニターにはガンダムマルスを模したホログラムが無数に表示される。
ホログラムの一つから赤い空間が扇状に広がった。アデュナタが体をひねって宙返りをすると、紙一重のところを真紅の光芒が横切って行く。
「なんて精度なの」
瞬時に弾道の再計算が完了して、モニターの殆どが赤い空間に占められる。これでは飽和攻撃を受けるのと変わりない。
ミレンナは、アデュナタの進行方向をマスドライバー施設に向けた。幸いにも機動性は勝っている。
ガンダム同士の戦闘は、一瞬で決着するか、さもなければどちらか一方のエナジーが切れるまで延々と続くといわれている。
両者とも一撃必殺のビーム兵装を持ち、事象予測による驚異的な回避能力で大抵の攻撃は当らないためである。
単純な運動性や機動性よりも、センサー類の性能とパイロットの技量とが結果を決めるといっても過言ではない。
ガンダムアデュナタがマスドライバーの支柱を背にすることに成功した。ガンダムマルスのビームスマートガンはこれで封じられる。アデュナタはビームスコップを構え直した。
スコップとクローとの先端は仄かな赤い光を帯びているだけで、ビーム刃そのものは延びていない。これはエナジーの節約と、攻撃の間合いを読まれないためである。
「接近戦なら、アデュナタはオリュンポス・キングにだって負けない」
ミレンナの言ったオリュンポス・キングとは、GVX-001RXオリュンポス・キング・ガンダムのことである。現代のガンダムの始祖にして最強といわれるガンダムで、連邦軍兵士の間では英雄視されている。
ガンダムデュナトンが単機で多数を圧倒するガンダムであるならば、ガンダムアデュナタは一対一の戦闘に特化したガンダムであるといえた。
殆どのガンダムが多数を相手にする大火力兵器を装備している中、射撃兵装をビームバルカンのみに絞り、外見が異様になるのもかまわずセンサーを強化している。
加えて、白兵戦において万能な武器と呼ばれるスコップと、脚部のビームクローを装備している。ミレンナの断言は虚勢とばかりはいえないのである。
ガンダムマルスは背部にスマートガンを収納して、ビームクルセイダーズソードを正眼に構えている。対するアデュナタも両膝をやや曲げて、両手でビームスコップの切っ先をマルスの胴体に向けている。
二機は空中で制止していた。アデュナタはマルスのスマートガンを恐れてマスドライバーから離れようとせず、マルスはアデュナタの近接戦闘能力を警戒して斬りかかれないでいる。
離れた位置にいるデュナトンも、マスドライバーのあるためにビームライフルを構えたままである。
ミレンナの顎から汗の雫が落ちた。パイロットスーツの空調は快適で、汚れた空気がヘルメットに篭ることはなかったが、どうしてかミレンナには、うなじの辺りから漂う女の臭いがむせるように感じられた。
彼女は長らく集中した反動で頭がぼんやりし始めて、過去のことを思い出したのかもしれなかった。その間も、残りエナジーの数値は刻々と変化して行く。
長期戦となればこちらが不利である。ミレンナは通信回線を開いてみた。周波数はデイヴィッドの部隊にいたころに使っていたものである。
ガンダムマルスのパイロットが事前の情報通りマスター・ベイトであるなら、何らかの反応を見せるはずであった。
ミレンナは会話で敵を惑わすことで状況を打開しようという腹であった。彼女の師が得意としていたやり方である。
『やはりアデュナタに乗っているのは貴様であったか』
マスター・ベイトがモニターに映った。一年前最後に見たときより、頭髪に混じった白髪が増えているように思われた。
ベイトは黒い法衣を身に纏っていた。ノーマルスーツさえ着ていない。皺の刻まれた顔は、やはり以前と同様に、人間らしい感情を読み取れない威圧的な表情が張り付いている。
「降伏してください、大佐」
無論、ミレンナは彼を説得できるとは思っていなかった。そもそもベイトの人柄さえろくに知らないのである。
隊長の後見人で自分たちの部隊の後ろ盾であったけれども、得体の知れない人物という印象しか持たなかった。
「私たちとともに木星で戦った人が、なぜ謀反を」
『故郷を救うためよ、ミレンナ・カマシーヌ!』
と、言い終えると同時にマルスが加速してクルセイダーズソードを振り下ろす。
「だからといって、やり様はある!」
アデュナタが反射的にマルスの握り手を狙ってビームクローを蹴り上げるが、マルスは直前になって片手を柄から離してそれを逃れる。
ミレンナはすかさずビームスコップを起動してなぎ払った。ビーム刃の伸びたときには既にマルスは後退していた。
スコップが空を切り、三日月型のビーム粒子の残滓が空中で拡散する。今の空振りでスコップの間合いを見切られたかもしれない。
二機のガンダムは同時に姿勢制御を行い、再び先ほどと同じ位置で相対する。
マルスのクルセイダーズソードからは出力を絞りきれないためにビーム粒子が漏れていて、十字架が血を流しているように見えた。
マルスがクルセイダーズソードを払って真紅の飛沫を散らした。その芝居がかった動作の後、マルスは柄を右手に持ち直して切っ先をアデュナタの顔に突きつけた。
いつの間にかマルスからの通信が、部隊用周波数ではなく救難周波数に変わっていた。ベイトが何を思ってそうしたのか考える余裕は、ミレンナには残っていなかった。
『もはや内からは変えられぬ段階にまで、宇宙連邦は腐敗しているのだ。快と善を履き違え、何も知ろうとせずに豊かさを貪るルナリアン。その場限りの喝采を得たくて奴らに尻尾振る弁論術屋ども。
そんな人非人どものために、どれほどの民が食い物にされていることか!』
その口上を終えると、マルスはクルセイダーズソードを振ってビームの刃を伸ばした。そのまま柄に左手を添えて脇構えで突撃してくる。
逆袈裟に斬り上げる軌道がアデュナタのモニターに表示される。ミレンナはアデュナタを急上昇させつつ叫んだ。
「戦争を起こせば人が死にます! おかしくなります! 貴方はそれを知っているはず!」
『知っていても人は争う。私とて人の子だ! 民衆の理想のためなら捨石にもなろう!』
切り上げた姿勢からマルスが突きを放つ。
「理想と空想は違います!」
アデュナタは翼を羽ばたかせて、ビームスコップの横なぎで対抗した。相打ちを覚悟しての一閃である。クルセイダーズソードの刀身がアデュナタの翼を焼き、スコップのビーム刃はマルスの冠を掠めた。
「見切られた?」
両者はそのまますれ違い、互いの位置を入れ代えた。ほとんど同時に方向転換を終えるが、翼に穴をあけられたアデュナタは体勢を崩しかけていた。推力を補正する間も無く、マルスが上段構えで迫り来る。
『ガンダムすらも食い殺すワイルドさ!』
クルセイダーズソードが振り下ろされんとする直前に、下方からのビーム光がマルスの鼻先を掠めた。下に回ったガンダムデュナトンのものである。上空への射撃ならば施設を破壊する恐れはない。
『人はオレを「マッド・ロックの伝道士」と呼ぶ。来いよ、サムライおじいちゃん。どこまでもクレバーに抱きしめてやんぜ』
デュナトンが水平方向に移動しながらビームライフルを連射する。マルスはデュナトンのビームを回避することに専念した。その隙を逃さず、同じくデュナトンのビームを潜り抜けながらアデュナタがマルスに肉迫する。
スコップを槍のように構え、ビーム刃を最大出力にして突撃した。
真紅の光刃がマルスの胸に迫る。デュナトンのビーム掃射が檻の役目を果たして、マルスの回避ルートは残されていない。
マルスは最後の悪あがきのためか、クルセイダーズソードをスコップのビーム刃に合わせた。当然、ビーム刃同士は干渉しないのでその防御は意味を為さない。
勝った、とミレンナは確信した。しかしその刹那、スコップのビーム刃の赤色が薄らいだかと思えば、別な赤色の光がアデュナタの足元で瞬いた。
「……なぜ」
『確固たる信念を持たぬ貴様らでは勝てない。我らは信仰によって立っているからな! そして、主も我らに味方しておられるのだ!」
ミレンナが現状を理解したとき、モニターの各所にエラーの表記が並んで、機体状況の表示されたサブウインドウには、足のないアデュナタのホログラムがあった。
凱歌を上げるガンダムマルスの脚部は、ビームと思わしき赤い光の膜で覆われていた。
ミレンナはマルスに隠し武器があったのは理解できた。しかし、アデュナタが打ち負けたということは到底納得が行かなかった。
あの瞬間、確かにスコップのビーム刃が消えたのである。ビーム兵器に対する防御手段などきいたこともない。
アデュナタは地面に叩きつけられる直前にスラスターを吹かした。あらためて機体状況を確認すると、太ももの中ほどから下がビームで消滅させられたことがわかった。
戦闘能力を完全に失ったわけではないが、ガンダムを相手に出来る状態ではない。エナジーもせいぜい撤退できる分量が残っているに過ぎなかった。
『我らは敵を殺さない! その邪気を殺す!』
『テラヤバス』
味方を失ったデュナトンにマルスが襲い掛かる。デュナトンが乱れ打ちといわんばかりにビームライフルを撃つが、ことごとく回避される。
EMP関連を除けば、デュナトンの機体性能はガンダムタイプの中でも下から数えた方が早い。ましてや、今回の敵は量産機でなくガンダムで、それもアデュナタと正面から互角に渡り合ったガンダムマルスである。
マルスにデュナトンの相手は役不足であった。
『往ね! 邪教の徒よ!』
瞬く間にクルセイダーズソードによる連続攻撃がデュナトンを八つ裂きにした。コックピットブロックがどうなったかはミレンナのところからは確認できなかった。
『敵が増援を出してきました! 新型が、新型なんです! 中継区画が奪還されつつ、やつら運河にかまわず攻撃を――』
駄目押しに味方部隊から連絡が入る。ミレンナは拳を硬く握って、ノイズばかりとなった通信画面を叩いた。司令部のある本隊の方角に撤退信号が上がる。
「撤退といって、どこへ撤退するのです」
マスドライバーが使えなければ宇宙へは戻れない。
『デハドスが手段を選ばぬなら、こちらも手段を選ばぬまで。アルカディア地方で増援を待つ』
場合によっては戦時徴収の名目で略奪も辞さないということである。ミレンナは先ほどと同じ動作を行った。画面を叩いた衝撃で機体が爆発してくれればいいとさえも感じた。
「ミレンナ・カマシーヌ、椅子を暖めるしか能の無い女!」
このように屈辱に打ちひしがれているばかりで自分は感情を切り替えられずにいる。その器量の小ささを思うにつけ、ミレンナはどうしようもなく情けない気持ちに襲われた。
かつて彼女に修正を行ってくれた上官はもういなかった。
スコップとクローとの先端は仄かな赤い光を帯びているだけで、ビーム刃そのものは延びていない。これはエナジーの節約と、攻撃の間合いを読まれないためである。
「接近戦なら、アデュナタはオリュンポス・キングにだって負けない」
ミレンナの言ったオリュンポス・キングとは、GVX-001RXオリュンポス・キング・ガンダムのことである。現代のガンダムの始祖にして最強といわれるガンダムで、連邦軍兵士の間では英雄視されている。
ガンダムデュナトンが単機で多数を圧倒するガンダムであるならば、ガンダムアデュナタは一対一の戦闘に特化したガンダムであるといえた。
殆どのガンダムが多数を相手にする大火力兵器を装備している中、射撃兵装をビームバルカンのみに絞り、外見が異様になるのもかまわずセンサーを強化している。
加えて、白兵戦において万能な武器と呼ばれるスコップと、脚部のビームクローを装備している。ミレンナの断言は虚勢とばかりはいえないのである。
ガンダムマルスは背部にスマートガンを収納して、ビームクルセイダーズソードを正眼に構えている。対するアデュナタも両膝をやや曲げて、両手でビームスコップの切っ先をマルスの胴体に向けている。
二機は空中で制止していた。アデュナタはマルスのスマートガンを恐れてマスドライバーから離れようとせず、マルスはアデュナタの近接戦闘能力を警戒して斬りかかれないでいる。
離れた位置にいるデュナトンも、マスドライバーのあるためにビームライフルを構えたままである。
ミレンナの顎から汗の雫が落ちた。パイロットスーツの空調は快適で、汚れた空気がヘルメットに篭ることはなかったが、どうしてかミレンナには、うなじの辺りから漂う女の臭いがむせるように感じられた。
彼女は長らく集中した反動で頭がぼんやりし始めて、過去のことを思い出したのかもしれなかった。その間も、残りエナジーの数値は刻々と変化して行く。
長期戦となればこちらが不利である。ミレンナは通信回線を開いてみた。周波数はデイヴィッドの部隊にいたころに使っていたものである。
ガンダムマルスのパイロットが事前の情報通りマスター・ベイトであるなら、何らかの反応を見せるはずであった。
ミレンナは会話で敵を惑わすことで状況を打開しようという腹であった。彼女の師が得意としていたやり方である。
『やはりアデュナタに乗っているのは貴様であったか』
マスター・ベイトがモニターに映った。一年前最後に見たときより、頭髪に混じった白髪が増えているように思われた。
ベイトは黒い法衣を身に纏っていた。ノーマルスーツさえ着ていない。皺の刻まれた顔は、やはり以前と同様に、人間らしい感情を読み取れない威圧的な表情が張り付いている。
「降伏してください、大佐」
無論、ミレンナは彼を説得できるとは思っていなかった。そもそもベイトの人柄さえろくに知らないのである。
隊長の後見人で自分たちの部隊の後ろ盾であったけれども、得体の知れない人物という印象しか持たなかった。
「私たちとともに木星で戦った人が、なぜ謀反を」
『故郷を救うためよ、ミレンナ・カマシーヌ!』
と、言い終えると同時にマルスが加速してクルセイダーズソードを振り下ろす。
「だからといって、やり様はある!」
アデュナタが反射的にマルスの握り手を狙ってビームクローを蹴り上げるが、マルスは直前になって片手を柄から離してそれを逃れる。
ミレンナはすかさずビームスコップを起動してなぎ払った。ビーム刃の伸びたときには既にマルスは後退していた。
スコップが空を切り、三日月型のビーム粒子の残滓が空中で拡散する。今の空振りでスコップの間合いを見切られたかもしれない。
二機のガンダムは同時に姿勢制御を行い、再び先ほどと同じ位置で相対する。
マルスのクルセイダーズソードからは出力を絞りきれないためにビーム粒子が漏れていて、十字架が血を流しているように見えた。
マルスがクルセイダーズソードを払って真紅の飛沫を散らした。その芝居がかった動作の後、マルスは柄を右手に持ち直して切っ先をアデュナタの顔に突きつけた。
いつの間にかマルスからの通信が、部隊用周波数ではなく救難周波数に変わっていた。ベイトが何を思ってそうしたのか考える余裕は、ミレンナには残っていなかった。
『もはや内からは変えられぬ段階にまで、宇宙連邦は腐敗しているのだ。快と善を履き違え、何も知ろうとせずに豊かさを貪るルナリアン。その場限りの喝采を得たくて奴らに尻尾振る弁論術屋ども。
そんな人非人どものために、どれほどの民が食い物にされていることか!』
その口上を終えると、マルスはクルセイダーズソードを振ってビームの刃を伸ばした。そのまま柄に左手を添えて脇構えで突撃してくる。
逆袈裟に斬り上げる軌道がアデュナタのモニターに表示される。ミレンナはアデュナタを急上昇させつつ叫んだ。
「戦争を起こせば人が死にます! おかしくなります! 貴方はそれを知っているはず!」
『知っていても人は争う。私とて人の子だ! 民衆の理想のためなら捨石にもなろう!』
切り上げた姿勢からマルスが突きを放つ。
「理想と空想は違います!」
アデュナタは翼を羽ばたかせて、ビームスコップの横なぎで対抗した。相打ちを覚悟しての一閃である。クルセイダーズソードの刀身がアデュナタの翼を焼き、スコップのビーム刃はマルスの冠を掠めた。
「見切られた?」
両者はそのまますれ違い、互いの位置を入れ代えた。ほとんど同時に方向転換を終えるが、翼に穴をあけられたアデュナタは体勢を崩しかけていた。推力を補正する間も無く、マルスが上段構えで迫り来る。
『ガンダムすらも食い殺すワイルドさ!』
クルセイダーズソードが振り下ろされんとする直前に、下方からのビーム光がマルスの鼻先を掠めた。下に回ったガンダムデュナトンのものである。上空への射撃ならば施設を破壊する恐れはない。
『人はオレを「マッド・ロックの伝道士」と呼ぶ。来いよ、サムライおじいちゃん。どこまでもクレバーに抱きしめてやんぜ』
デュナトンが水平方向に移動しながらビームライフルを連射する。マルスはデュナトンのビームを回避することに専念した。その隙を逃さず、同じくデュナトンのビームを潜り抜けながらアデュナタがマルスに肉迫する。
スコップを槍のように構え、ビーム刃を最大出力にして突撃した。
真紅の光刃がマルスの胸に迫る。デュナトンのビーム掃射が檻の役目を果たして、マルスの回避ルートは残されていない。
マルスは最後の悪あがきのためか、クルセイダーズソードをスコップのビーム刃に合わせた。当然、ビーム刃同士は干渉しないのでその防御は意味を為さない。
勝った、とミレンナは確信した。しかしその刹那、スコップのビーム刃の赤色が薄らいだかと思えば、別な赤色の光がアデュナタの足元で瞬いた。
「……なぜ」
『確固たる信念を持たぬ貴様らでは勝てない。我らは信仰によって立っているからな! そして、主も我らに味方しておられるのだ!」
ミレンナが現状を理解したとき、モニターの各所にエラーの表記が並んで、機体状況の表示されたサブウインドウには、足のないアデュナタのホログラムがあった。
凱歌を上げるガンダムマルスの脚部は、ビームと思わしき赤い光の膜で覆われていた。
ミレンナはマルスに隠し武器があったのは理解できた。しかし、アデュナタが打ち負けたということは到底納得が行かなかった。
あの瞬間、確かにスコップのビーム刃が消えたのである。ビーム兵器に対する防御手段などきいたこともない。
アデュナタは地面に叩きつけられる直前にスラスターを吹かした。あらためて機体状況を確認すると、太ももの中ほどから下がビームで消滅させられたことがわかった。
戦闘能力を完全に失ったわけではないが、ガンダムを相手に出来る状態ではない。エナジーもせいぜい撤退できる分量が残っているに過ぎなかった。
『我らは敵を殺さない! その邪気を殺す!』
『テラヤバス』
味方を失ったデュナトンにマルスが襲い掛かる。デュナトンが乱れ打ちといわんばかりにビームライフルを撃つが、ことごとく回避される。
EMP関連を除けば、デュナトンの機体性能はガンダムタイプの中でも下から数えた方が早い。ましてや、今回の敵は量産機でなくガンダムで、それもアデュナタと正面から互角に渡り合ったガンダムマルスである。
マルスにデュナトンの相手は役不足であった。
『往ね! 邪教の徒よ!』
瞬く間にクルセイダーズソードによる連続攻撃がデュナトンを八つ裂きにした。コックピットブロックがどうなったかはミレンナのところからは確認できなかった。
『敵が増援を出してきました! 新型が、新型なんです! 中継区画が奪還されつつ、やつら運河にかまわず攻撃を――』
駄目押しに味方部隊から連絡が入る。ミレンナは拳を硬く握って、ノイズばかりとなった通信画面を叩いた。司令部のある本隊の方角に撤退信号が上がる。
「撤退といって、どこへ撤退するのです」
マスドライバーが使えなければ宇宙へは戻れない。
『デハドスが手段を選ばぬなら、こちらも手段を選ばぬまで。アルカディア地方で増援を待つ』
場合によっては戦時徴収の名目で略奪も辞さないということである。ミレンナは先ほどと同じ動作を行った。画面を叩いた衝撃で機体が爆発してくれればいいとさえも感じた。
「ミレンナ・カマシーヌ、椅子を暖めるしか能の無い女!」
このように屈辱に打ちひしがれているばかりで自分は感情を切り替えられずにいる。その器量の小ささを思うにつけ、ミレンナはどうしようもなく情けない気持ちに襲われた。
かつて彼女に修正を行ってくれた上官はもういなかった。
宇宙連邦軍は敗退した。
デハドスの兵士たちが喚声を上げた。喚声に応えて、教皇ペトロ四郎の演説が行われる。勝利を得た兵士たちへの労いと、犠牲となった敵軍の兵士への追善の祈祷である。
略式の祈りが済んで兵士たちがしんとなると、続いて詩を詠い上げた。
『十ぺるしいぬん、さんてくるしす、でいにるしす、あめん』
通信を聞いている全ての兵士が朗誦する。
『あめん』
勝利の余韻に浸っている兵士の様子を窺いつつ、ベイトはアンデレ権八郎に通信を繋げた。
「広報部へは、こんなもので良かっただろうか」
『さすが大佐ですね。予定にはありませんでしたが、素晴らしい絵が撮れました。早速編集に回します。ガンダム二機を相手に立ち回って勝利する。この映像は、きっと相当な効果を上げますよ』
彼らのほかにこの通信を聞く者はない。故に、アンデレ権八郎はベイトを大佐と呼んでいる。
「世辞はいい。所詮は水もの、老兵の無謀と変わりないさ。マルスの状態も芳しいとはいえんのでな。我が方の損害はどうか」
『徴兵組の士官が相当数戦死いたしました。いかがなさいますか』
「二階級特進が妥当だろう」
『では、方々の遺族には……』
「いいや、文字通りの二階級特進さ。私の権限で彼らをノーメンクラートルへ配属させる。今はまだ殉教者をまとめて供養する時勢ではない。反戦教派に口実を与えかねん」
『了解、そのように手配いたします』
「ああ。それと、今夜あたりディオゲネス行きの便は出せるだろうか」
『運河の復旧に暫くかかりますのでテレウスの帰還次第になりますが、おそらくご期待には沿えるでしょう。しかし番組の収録はどうなさるのですか』
「以前見せてくれたCG合成があるだろう。大根の私よりも本職の役者がやったほうが効果的さ。君とて、本心ではそう思っているのだろう?」
『はい』
アンデレ権八郎が即座に答えたのを見てベイトは小さく笑った。ベイトの腹心の一人である彼は、純粋な義勇兵と違って気の抜き方を心得ている。
『ディオゲネスに行かれるということは、やはり聖女を?』
「老人どもが喚き始めている。そろそろ火星を民衆の手に取り戻す頃合だ」
『大佐?』
アンデレ権八郎の顔色が変わったとき、ベイトは鼻の下に冷たいものが流れているのを感じた。拭ってみると手に赤い筋が出来ていた。鼻血である。
「小言はいらない。私の体だ。パイロットとしては欠陥品だが、当分くたばることはないさ。人類の革新、それを君たち若者に見せるまではな」
ベイトはそう言って通信を切ると、突っ伏して咳き込んだ。先ほどああは言ったものの、唾液の中にも血液が混じっていた。
「マルスには暫く乗れんか……」
ふと、戦場で演じた三文芝居が思い出された。ミレンナ・カマシーヌに放った言葉が真実に心にもない言葉であったのか、なぜか己でも疑わしく思われた。
自分自身の命を何よりも優先するのがマスター・ベイトという男の格律である。けれども、殉教という自己犠牲の精神に心引かれている自分もいた。
「なんという矛盾。だが、このような矛盾を孕むことこそが、オールドタイプの業というものか」
マスター・ベイトは未熟な現在の自分を罵りながらも、さほど遠くない未来の情景に思いをはせて、自分自身を慰めた。
デハドスの兵士たちが喚声を上げた。喚声に応えて、教皇ペトロ四郎の演説が行われる。勝利を得た兵士たちへの労いと、犠牲となった敵軍の兵士への追善の祈祷である。
略式の祈りが済んで兵士たちがしんとなると、続いて詩を詠い上げた。
『十ぺるしいぬん、さんてくるしす、でいにるしす、あめん』
通信を聞いている全ての兵士が朗誦する。
『あめん』
勝利の余韻に浸っている兵士の様子を窺いつつ、ベイトはアンデレ権八郎に通信を繋げた。
「広報部へは、こんなもので良かっただろうか」
『さすが大佐ですね。予定にはありませんでしたが、素晴らしい絵が撮れました。早速編集に回します。ガンダム二機を相手に立ち回って勝利する。この映像は、きっと相当な効果を上げますよ』
彼らのほかにこの通信を聞く者はない。故に、アンデレ権八郎はベイトを大佐と呼んでいる。
「世辞はいい。所詮は水もの、老兵の無謀と変わりないさ。マルスの状態も芳しいとはいえんのでな。我が方の損害はどうか」
『徴兵組の士官が相当数戦死いたしました。いかがなさいますか』
「二階級特進が妥当だろう」
『では、方々の遺族には……』
「いいや、文字通りの二階級特進さ。私の権限で彼らをノーメンクラートルへ配属させる。今はまだ殉教者をまとめて供養する時勢ではない。反戦教派に口実を与えかねん」
『了解、そのように手配いたします』
「ああ。それと、今夜あたりディオゲネス行きの便は出せるだろうか」
『運河の復旧に暫くかかりますのでテレウスの帰還次第になりますが、おそらくご期待には沿えるでしょう。しかし番組の収録はどうなさるのですか』
「以前見せてくれたCG合成があるだろう。大根の私よりも本職の役者がやったほうが効果的さ。君とて、本心ではそう思っているのだろう?」
『はい』
アンデレ権八郎が即座に答えたのを見てベイトは小さく笑った。ベイトの腹心の一人である彼は、純粋な義勇兵と違って気の抜き方を心得ている。
『ディオゲネスに行かれるということは、やはり聖女を?』
「老人どもが喚き始めている。そろそろ火星を民衆の手に取り戻す頃合だ」
『大佐?』
アンデレ権八郎の顔色が変わったとき、ベイトは鼻の下に冷たいものが流れているのを感じた。拭ってみると手に赤い筋が出来ていた。鼻血である。
「小言はいらない。私の体だ。パイロットとしては欠陥品だが、当分くたばることはないさ。人類の革新、それを君たち若者に見せるまではな」
ベイトはそう言って通信を切ると、突っ伏して咳き込んだ。先ほどああは言ったものの、唾液の中にも血液が混じっていた。
「マルスには暫く乗れんか……」
ふと、戦場で演じた三文芝居が思い出された。ミレンナ・カマシーヌに放った言葉が真実に心にもない言葉であったのか、なぜか己でも疑わしく思われた。
自分自身の命を何よりも優先するのがマスター・ベイトという男の格律である。けれども、殉教という自己犠牲の精神に心引かれている自分もいた。
「なんという矛盾。だが、このような矛盾を孕むことこそが、オールドタイプの業というものか」
マスター・ベイトは未熟な現在の自分を罵りながらも、さほど遠くない未来の情景に思いをはせて、自分自身を慰めた。
向かいの壁には、煙草に×印をつけた標識が貼られている。壁の塗装も染み一つない白さで、それを燻らせるのは気が引けた。デイヴィッドは二本目の煙草に火を点けた。
死を思え、と、彼は彼の後見人に云われたことがある。
『――それは逃げていく老人を追いかけ、卑怯な若者の足や臆した背中をも容赦しない』
『用心深く鉄と青銅で身を隠していても、死はそのように守られた首を奪い去る』
『太古のある民族は、宴会の食器に人間の骸骨を使っていた。それは残虐性の嗜好によるものではない。快楽に身をまかせている最中も、己が死すべきものであるという事実を忘れぬためだ』
『哲学、宗教、自然科学、俗流形而上学に至るまで、様々な思想が現れては消えて行き、死を知ろうと試みた。
何よりも恐れるべきは死で、それさえ恐れなくなってしまえば、浮世の恐れなど取るに足りぬことになると考えたからだ。たとえそれが己の死であろうと、他人の死であろうとな』
『死をあらかじめ思いみることは、自由をあらかじめ思いみることだ。いかに死ぬかを知ることは、あらゆる隷属と束縛から人を解き放つことだ。
デイヴ、死を思えという言葉は、死を恐れよというのではなく、死を征服する勇気を持てということなのだよ』
死を思え、と、彼は彼の後見人に云われたことがある。
『――それは逃げていく老人を追いかけ、卑怯な若者の足や臆した背中をも容赦しない』
『用心深く鉄と青銅で身を隠していても、死はそのように守られた首を奪い去る』
『太古のある民族は、宴会の食器に人間の骸骨を使っていた。それは残虐性の嗜好によるものではない。快楽に身をまかせている最中も、己が死すべきものであるという事実を忘れぬためだ』
『哲学、宗教、自然科学、俗流形而上学に至るまで、様々な思想が現れては消えて行き、死を知ろうと試みた。
何よりも恐れるべきは死で、それさえ恐れなくなってしまえば、浮世の恐れなど取るに足りぬことになると考えたからだ。たとえそれが己の死であろうと、他人の死であろうとな』
『死をあらかじめ思いみることは、自由をあらかじめ思いみることだ。いかに死ぬかを知ることは、あらゆる隷属と束縛から人を解き放つことだ。
デイヴ、死を思えという言葉は、死を恐れよというのではなく、死を征服する勇気を持てということなのだよ』
下穿きを湿らせて、涙と鼻水でまみれた顔をしたデイヴィッドに、マスター・ベイトがそう言った。そのころデイヴィッドは十代であった。
何年か後に読んだ本にほとんど同じようなことが書いてあり、ベイトの顔を見るにつけ、噴出すのを堪えたことも思い出された。
受け売りに違いない台詞を知らん顔して平然と言い放った後見人が、滑稽でもあり、頼もしくも感じられた。
「しかし大佐、人間はそんな合理的に出来ちゃいないんです」
デイヴィッドは昔の思い出で緩みかけた顔を引き締めて、苦々しげに煙を吐いた。いくら死を思おうとも、現在の自分の置かれている状況で心の平静を保つことは出来なかった。
苛立ちと羞恥心とがデイヴィッドの心をかき乱し、煙草の減りも普段の二倍に近かった。
デイヴィッドのいる空間に、白衣の女性がいそいそとした足取りで入って来た。
知らない顔であるが容貌はなかなかよろしく、場所が食堂や休憩室であったならば、下心で声をかけていたかもわからない。
しかしその女性は、煙草を吸うデイヴィッドの姿を見止めるや否や顔を顰めて転進し、言葉も無く去って行った。
彼女がいやな顔をしたのは副流煙を嫌ってのことではない。ゲイリーあたりならむしろ喜ぶかもしれんが、と失敬なことを考えながら、デイヴィッドは背後の扉に寄りかかった。
「デイヴ」
少女の声が聞こえた。デイヴィッドは気だるそうに腕を上げて扉を軽く叩いた。
「はいはい。ちゃんとここにいる……畜生が」
デイヴィッドとドルダは約一分毎の間隔でこのような問答をしていた。
前に一度、デイヴィッドは耐えられず逃げ出したことがあり、そのときに蒙った衛生上の損害と失った面目とに比べれば穏便なものとはいえ、矢面に立つデイヴィッド当人にしてみれば到底許容できるものではない。
食堂でのことがあって以来、デイヴィッドはヴァニナに少女の教育の片棒を担がせるようになって、今少女のしているような行為に関する直接的な教育もヴァニナに任せた。
しかし、ヴァニナにはヴァニナの仕事があるうえに、ドルダという少女は付き添いなしにはどこへも行こうとしなかった。
ドクターに言っても、デイヴィッドが叱られるばかりである。軍人が一般市民の気持ちを理解しないように、病人相手に器具を扱いなれている医者はデイヴィッドの屈辱を理解しなかった。
やっと水の流れる音が聞こえた。ドルダに手を洗わせると、デイヴィッドは彼女の首根っこを掴んで逃げるようにそこを去った。
入り口の壁には、スカート穿きの人間を模した赤い印と、「W.C」という文字が書いてある。
何年か後に読んだ本にほとんど同じようなことが書いてあり、ベイトの顔を見るにつけ、噴出すのを堪えたことも思い出された。
受け売りに違いない台詞を知らん顔して平然と言い放った後見人が、滑稽でもあり、頼もしくも感じられた。
「しかし大佐、人間はそんな合理的に出来ちゃいないんです」
デイヴィッドは昔の思い出で緩みかけた顔を引き締めて、苦々しげに煙を吐いた。いくら死を思おうとも、現在の自分の置かれている状況で心の平静を保つことは出来なかった。
苛立ちと羞恥心とがデイヴィッドの心をかき乱し、煙草の減りも普段の二倍に近かった。
デイヴィッドのいる空間に、白衣の女性がいそいそとした足取りで入って来た。
知らない顔であるが容貌はなかなかよろしく、場所が食堂や休憩室であったならば、下心で声をかけていたかもわからない。
しかしその女性は、煙草を吸うデイヴィッドの姿を見止めるや否や顔を顰めて転進し、言葉も無く去って行った。
彼女がいやな顔をしたのは副流煙を嫌ってのことではない。ゲイリーあたりならむしろ喜ぶかもしれんが、と失敬なことを考えながら、デイヴィッドは背後の扉に寄りかかった。
「デイヴ」
少女の声が聞こえた。デイヴィッドは気だるそうに腕を上げて扉を軽く叩いた。
「はいはい。ちゃんとここにいる……畜生が」
デイヴィッドとドルダは約一分毎の間隔でこのような問答をしていた。
前に一度、デイヴィッドは耐えられず逃げ出したことがあり、そのときに蒙った衛生上の損害と失った面目とに比べれば穏便なものとはいえ、矢面に立つデイヴィッド当人にしてみれば到底許容できるものではない。
食堂でのことがあって以来、デイヴィッドはヴァニナに少女の教育の片棒を担がせるようになって、今少女のしているような行為に関する直接的な教育もヴァニナに任せた。
しかし、ヴァニナにはヴァニナの仕事があるうえに、ドルダという少女は付き添いなしにはどこへも行こうとしなかった。
ドクターに言っても、デイヴィッドが叱られるばかりである。軍人が一般市民の気持ちを理解しないように、病人相手に器具を扱いなれている医者はデイヴィッドの屈辱を理解しなかった。
やっと水の流れる音が聞こえた。ドルダに手を洗わせると、デイヴィッドは彼女の首根っこを掴んで逃げるようにそこを去った。
入り口の壁には、スカート穿きの人間を模した赤い印と、「W.C」という文字が書いてある。