赤羽根探偵と奇妙な数日-1-

「……うっ」

 女がえずく声が、焦げ臭いアパートの一室に響いた。
 まったく。人間の丸焼きなんて誰だって拝みたくないモンだっていうのに。

「―――宮前っ、いつまで交通課のつもりだ、嫌ならとっとと辞表を出してこい馬鹿野郎っ!」
「……っ、す、すみませんっ」

 俺の叱咤激励で、ようやく平静を取り戻したのか日和っ子がカラ元気で答える。……まぁ、吐かないだけマシ、か。

「お前は消防から状況を確認して来い。こっちは俺らでやる」
「っ、でも―――」
「―――いいから行ってこいってんだ馬鹿野郎っ!」
「はいっ!!」

 ……ったく。男女で差別されてる被害妄想に取り付かれる前に自分の与えられた仕事くらいやってのけろっての。

「―――仏さんの死因は?」

 俺が飛ばした檄のせいで、気まずい雰囲気の中で遺体の写真を撮影し続ける鑑識に声を掛ける。あくまで、普通の声色でだ。

「直接の死因は銃殺、ですね」
「銃殺?」
「遺体はかなり焼け焦げてますが、恐らく。
 火事による死体損壊が激しいので司法解剖に回さない限り詳しいコトはわかりませんが」

 確かに、側頭部"らしき"部分に風穴が開いてて、そこから血"らしい"ものが流れた焼け跡がこびり付いている。

「撃たれ死んでから、ここに点いた火に巻かれて仏さんは焼け焦げたってコトか」
「今の所は推測の域を出ませんが」

 ……ということは、犯人はかなりの恨みを持った人物か? 仏さんの財布らしきものも消防署員が見つけたらしい。
 ……キナ臭い事件だな、色々と。

「……宮前ぇッ!!」
「っ、拝島さん。耳元で叫ばないでくれますか」
「あ、悪い」

 

 

――――

 


『―――次のニュースです。
 本日未明、新宿区のアパートで火災が発生しました。
 ……消防隊が駆けつけた時、周囲の空気が乾燥していた為、完全に鎮火するまでに二時間程掛かり、アパートの中から身元不明の男性の遺体が発見されました。男性は40~50歳と見られており、警察では放火の可能性も視野に入れ捜査を進めています』

 ―――うわ、この近くじゃねーか。

 街頭ビジョンにデカデカと映し出された物騒な事故を報じてた女子アナに背を向け、区が備え付けた灰皿に、フィルターぎりぎりまで焼け焦げた赤ラークを投げ捨てて、その場を後にする。

 やれやれ、仕事も一息吐いたトコだし……今日は店仕舞いにするか。

 ―――早いもんで、西暦が2000年を数えてから10年が経つ。
 過去を懐古するような大層な年月も生きてねぇけどよ、変わったよなぁ世の中ってのも。
 時に目まぐるしく、時に欠伸が絶えないくらいに鈍い速度で。
 ……あくまで俺の主観だが。

 それが、どこぞの誰かの差し金なのか、地球が誕生してからン億年と繰り返してきた自然の摂理みてぇに生き物全てに端っから決定づけられたモンなのか、そんなもんは知らん。
 そこまで突き詰める探求心も根気も持ち合わせてないもんでね。

 俺は、その変化に便乗して数年前から"ある商売"を始めた。
 が。何番煎じかもわからん商売を始めた俺にはロクなお鉢が回って来ない。
 衣食住だけで事務所は火の車。
 出てくんのは溜め息と金ばっかで、良いコトなんてなーんもねぇ。

 ―――そんな俺に追い討ちのごとく叩きつけるような雨がいきなり降り出しやがった。
 ヒトが珍しく仕事に勤しんでたって時に限ってなんでだ。
 日頃の行いのせいか? 善良な市民を捕まえて酷ぇことしやがるな、お天道さんよ。
 ったく、折角の一張羅のコートが台無しだ。どこぞのファッションセンターで4980円だったんだぞ畜生。
 ……とりあえず適当にコンビニの傘立てにあった壊れかけのビニール傘を拝借し、人ごみに紛れるて帰ろう、と―――

 ―――そんな中の出来事だった。

 落としモノを交番に届けて褒められるのは小学生まで。
 人生の処世術めいた言葉が頭を掠めた。
 足がつきそうにない金目のモンならガメちまえば良いし、そうでなければ目もくれないで大抵スルーだ。
 生憎、他人様を助けるために余力を残してるような真っ当な生き方をしてないもんでね。
 まぁ、表向きに真っ当な生き方をしていても俺みたいな考え方の奴は少なくないのが今の御時世ってやつらしい。
 社会の底辺を絵に描いたようなアウトロー気取りが言えた義理じゃないのは、分かってるつもりだが。

 ……冷たいモンだな、雨も人も。

 薄暗いビルの狭間で―――行き交う人々に"ないもの"として扱われてたアイツに声を掛けたのは単なる気まぐれだった。
 ……と思う。

「風邪ひくぞ」
「………」

 折り目正しい体育座りをしていた"落としモノ"が、一瞬だけこちらを向いて、視線を真向かいの雑居ビルの壁に戻す。

 ……無視かよ。

 ―――長い黒髪、真っ黒なTシャツにノーブランドのジーンズ。年の頃は……10代半ばつったとこか。
 ったく、可愛らしい面してんのに色気もなんにもありゃしない。……いや、Tシャツが張り付いてる身体のラインはなかなかだが。

 ヤク中かなんかか? 視神経がキチンと機能してるかも怪しいほど目が虚ろだし……いや、その割にはシャブ痕も見当たんねぇし、血色も悪くねぇ。
 ……多分、違うか。

「……アンタ、誰?」

 あれこれと思い倦ねていると、愛想もへったくれもない質問が雨を跨いで飛んできた。
 ……相変わらず、目線は灰色の壁に向けたまんまで。

「―――ヒトに名前を訊くんなら、まず自分が名乗るのが社会のルールだろーが」
「……悪い」

 まず"悪い"と思ってんならそんな謝罪の仕方があるか。
 とかクレーマーみてぇな言葉が口からはみ出しそうになったが、そこは、ほらオトナの度量の見せどころってヤツだ。
 ボックスの中の、ラスト一本の赤ラークを口に含んで、100円ライターで火を着け、言葉を待つ。
 ……くそっ、この雨の湿気を十二分に含んだせいか、吸い込んだ煙がちっとも美味いと思えねぇ。
 済し崩し的に味わうタバコの灰が濡れたアスファルトに落ちる刹那、ようやく奴が口を開く。

 それは、"落としモノ"の正体を表すのに十二分なものだった。

「―――オレ……誰なんだ?」
「………あン?」

 ―――この話は、単なるフィクションにもなりそこねた、気狂いの手記だ。
 そう思って、本気にせずに軽ぅい気持ちで流し読んでくれ。


  【赤羽根探偵と奇妙な数日-1日目-】

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 ―――先に言っとくとだ。

 この商売ってのは拳銃を携帯したり、どっかの怪しい組織に薬を飲まされて小学生にされたり、あまつさえ殺人事件に出くわしては国家権力を差し置いて事件を解決に導くなんてコトは九割九分無い。そんなんは推理小説だけの話だ。
 大抵は、やれ居なくなったペット探せとか、やれ旦那の素行を調査しろとか、そういう地味ぃな作業を繰り返し、漸くオマンマにありつける訳だ。

 ……要約しよう。

 俺にはガキ一匹養うだけの余力がある訳ねぇっつー話だ。
 付け加えるなら、あのガキが記憶喪失だろーが同情で バカと偉そうな人間は例外なく高い位置が好きだと言うが。


「こんばんはっ、赤羽根のオジさん」
「"おにーさん"だっ。何度言やぁ分かるんだ」
「あははっ、若さを主張するようになったら老いの前兆ですよ~? オジさんっ」
「………ちっ」

 通された執務室に居たのは―――目当ての奴……じゃなく、そいつお抱えの口の減らない―――青いリボンで短いポニーテールに結った大人とも子供とも付かない綺麗な笑みを浮かべた嬢ちゃんだった。
 そういや、今日は土曜日だったな。学生である嬢ちゃんが居るのも納得出来る。
 嬢ちゃんの名前、なんつったっけか。
 えーと…………忘れた。

「あ、せんせーなら外出中ですよ?」


 手持ち無沙汰なのか、嬢ちゃんは手のひらサイズのルービックキューブをカチャカチャと弄くり回しながら言う。
 ……仮にも"委員会"の長の執務室――しかも委員長席――で何やってんだ……?
 

「………官僚ってのは国民からの血税を湯水のように使いながら、暇こいてるモンだと思ったが」
「あははっ。
 別にせんせーを擁護するつもりもないけど、そーいうヒト達はご自分で勧んでそう仕向けてるみたいですよ?
 そうじゃない人種も沢山居ますって」

 諭すような口調で嬢ちゃんは言う。それから、俺の影に隠れて微動だにしない黒髪の少女に漸く気付いたらしい。

 ―――先に言っとくとだ。

 この商売ってのは拳銃を携帯したり、どっかの怪しい組織に薬を飲まされて小学生にされたり、あまつさえ殺人事件に出くわしては国家権力を差し置いて事件を解決に導くなんてコトは九割九分無い。そんなんは推理小説や少年漫画だけの話だ。
 大抵は、やれ居なくなったペット探せとか、やれ旦那の素行を調査しろとか、そういう地味ぃな作業を繰り返し、漸くオマンマにありつける訳だ。

 ……要約しよう。

 俺にはガキ一匹養うだけの余力がある訳ねぇっつー話だ。
 付け加えるなら、あのガキが記憶喪失だろーが同情で手を差し伸べられるような真っ当な精神も持ち合わせてないね、悪ぃけど。
 ま、そんなこと知ったこったと再度路上に放置することも出来たが、それじゃ流石に夢見が悪い。
 野垂れ死なれて、枕元にバケて出られた日にゃ……安物ベッドの骨組は間違いなく崩れ落ちるだろーしな。


 ――だからこうして、わざわざ会いたくない奴のオフィスまで来てるわけだ。
 ま、依頼料の請求も兼ねて、だがな。

 ……しっかし、こんなデカいビルのてっぺんで何をやってるんだか、あの坊ちゃんは。
 バカと偉そうな人間は例外なく高い位置が好きだと言うが。


「こんばんはっ、赤羽根のオジさん」
「"おにーさん"だっ。何度言やぁ分かるんだ」
「あははっ、若さを主張するようになったら老いの前兆ですよ~? オジさんっ」
「………ちっ」

 通された執務室に居たのは―――目当ての奴……じゃなく、そいつお抱えの口の減らない―――青いリボンで短いポニーテールに結った大人とも子供とも付かない綺麗な笑みを浮かべた嬢ちゃんだった。
 そういや、今日は土曜日だったな。学生である嬢ちゃんが居るのも納得出来る。
 嬢ちゃんの名前、なんつったっけか。
 えーと…………忘れた。

「あ、せんせーなら外出中ですよ?」


 手持ち無沙汰なのか、嬢ちゃんは手のひらサイズのルービックキューブをカチャカチャと弄くり回しながら言う。
 ……仮にも"委員会"の長の執務室――しかも委員長席――で何やってんだ……?

「………官僚ってのは国民からの血税を湯水のように使いながら、暇こいてるモンだと思ったが」
「あははっ。
 別にせんせーを擁護するつもりもないけど、そーいうヒト達はご自分で勧んでそう仕向けてるみたいですよ?
 そうじゃない人種も沢山居ますって」

 諭すような口調で嬢ちゃんは言う。それから、俺の影に隠れて微動だにしない黒髪の少女に漸く気付いたらしい。

「で、そちらの可愛らしい子はどちら様ですか? ひょっとして―――赤羽根さんの……これですか?」

 ―――小指を立てんな。いつの時代のリアクションだ。

「―――生憎、俺の守備範囲外だ」
「……前に同じく」

 背後からキッパリとお断りの言葉が飛んでくる。……別に悔しくなんてねぇよ。

「あれ、もしかして―――」

 俺とコイツのやりとりを聞いて、嬢ちゃんは漸く事態を把握したように首を傾げて見せた。

「もしかしなくても例の病気の患者だよ。嬢ちゃん」

 今まで、無邪気に笑っていたポニーテールの少女の顔つきが一瞬にして引き締まる。
 へぇ、そんな凛々しい面も出来るのか。

「……異性化疾患、ですか」
「ご明察」

 ―――タダでさえ世の中はどっかトチ狂ったみたいな状況下だって言うのに、それに追い討ちを掛けたのが、嬢ちゃんの云う"異性化疾患"。

 ここ数年で、インフルエンザ並の発症率を以て猛威を振るう奇病にまで伸し上がった病気だ。
 思春期に差し掛かった男のみが発病するこの病気は、未だに原因も完全な治療法も見いだせていない。
 唯一、分かってるコトは、15、6歳までに女の味を覚えないとゲームオーバー―――その後の一生を女として過ごさなきゃなんねぇってことくらいだ。
 俺の背後に隠れて黙りこくってるコイツもその被害者らしい。
 最近じゃ、国でも異性化疾患を無視する事は出来ないらしく、対策委員会を設けてまで対応に当たっている。
 ま、そのオコボレに俺も与ってるわけだがな。

「しかも―――」
「―――随分と早かったな」

 ……っと、ちっとばっかしお喋りが過ぎちまったみてぇだな。
 もうちっとばっかし可愛らしい"自称、敏腕秘書"の嬢ちゃんとの会話を楽しんで居たかったが、本命の御到着か。

「よぉ、お坊ちゃま」
「……。
 すまねぇが、少し席を外して貰って構わないか?」

 相変わらずの鉄仮面っぷりで俺の冗句混じりの挑発を無視して、この執務室の主は嬢ちゃんに声を掛ける。
 よし、コイツに便乗しない手は無いな。

「あー、嬢ちゃん。出来ればコイツの話し相手になっててくれっと、もれなく"おにーさん"が喜ぶぞ」
「あれあれ? いいんですか"赤羽根のオジさん"? このコだって当事者みたいなものじゃないですか」
「ガキんちょに聞かせられねぇような下世話な話もするンだよ。
 聞きたいか? どこのキャバクラやピンサロに上物がいるかとか、生本番は幾らだとか」
「……けっこーです。いこっ、スケベ菌が伝染っちゃうから」

 ガキと言っても女は女だ。こういう話に嫌悪感を抱かないワケがない。話を逸らすには打ってつけなのだが……スケベ菌ってなんだよオイ。
 と、反論する前に素早い扉の開閉音がそれを拒む。

「……自業自得だな」

 相変わらずの嫌味ヤローに睨みを利かせて訴える。
 が、奴は取り合う様子もなく、さっきまでポニーテールの嬢ちゃんが座っていたキャスター付きの豪勢な椅子にゆっくりと腰掛けた。
 ……その一連の仕草が一々サマになってるのも何かムカつく。
 だが、四の五の言っては居らンねぇか。こいつぁビジネスだかんな。

「……へぇへぇ。俺が悪う御座いました。
 さて。人払いも済ませたこったし、商売の話でもしましょーかねぇ、神代さん?」
「その方がありがたい。下劣な冗句に付き合えるほど僕は人間が出来ていないからな」
「……チッ」

 ……この嫌味なくらいに爽やかな面をぶら下げたヤローの名は神代 宗。
 下の名前は官庁のHPにでもアクセスすりゃ出てくる(らしい)が俺は興味が無いので知らん。探偵事務所にあるまじきことだが、ウチのパソコンは専らスタンドアローンなんでね。

 ……奴さんは俺が商売を始めた中で1、2を争うほどの上客だが人間としては全く反りが合わない。
 所謂"お堅い"人種だ。
 プライベートじゃ絶対に付き合いがないと言い切れる。

 コイツとの仕事の上での付き合いは数年前からだが、それについては割愛させてもらう。
 人間、20余年も生きてると暴かれたくない臑の傷なんて幾つもあるもんだろ?
 好奇心は猫を[ピーーー]っつーくらいだ。ま、気にすんな。

 ―――神代は、件の異性化疾患に対するサポートを行う"異性化疾患対策委員会"とかいう何とも捻りもない機関の委員長代理を務めている。

 そーいうのは大抵、時間の余ってる割には余生の短いジジババの仕事かと思っていたが―――なんでも、このお坊ちゃまは政治の名家の出らしく、20代後半(30過ぎてたか?)の若さで委員長代理の役に就いているらしい。
 いいねぇ、親の黒光りってよ。……なんか違うか? まぁいい。

 兎に角。

 コイツは異性化疾患の案件に対する全権限と責任を背負って立つ人間なんだとよ。想像もつかねぇ世界だが。

 俺は、コイツから度々依頼を受けている。
 その内容は厚労省から15、6の健全な童貞男子諸君に発行される"性別選択権行使に関する通知"に対する裏付け調査だ。
 その"通知"があれば漏れなくタダでオンナを抱ける。ただし、一回限りだけどな。
 そんなオイシイ話を世の中の思春期真っ只中のガキんちょが放っておくわけねぇから、そこンところで悪巧みしねぇように目を光らせるのが俺達、民間業者ってワケだ。
 ま、マジで童貞なのかとか、オンナの二重食いをしてねーかとか、そんなトコの調査をするわけだな。

 ……俺なら、どんな手段を使おうが両手じゃ数えらんねーほどオンナを抱いてやろうとか思うがね。

「―――それで、あの娘は何だ? 一応、此処は一般人は立ち入り禁止なのだが」

 ヤケに豪勢な作りの扉の向こう側に、人の気配がなくなったと分かるや否や神代は不服そうに溜め息を吐く。

「ンだよ、好みじゃねぇってか? あのポニーテールの嬢ちゃん並みのルックスなんてそうそう居ねぇんだよ。こーの面食いが」
「………」
「……んなマジな顔で睨むなよ。
 冗談が通じないとモテねぇぜ?」
「―――用向きは何だと訊いている」

 不機嫌そうな面の眉間に更に深ぁいシワがよる。
 ……ったく。この坊ちゃんには、話の要所要所にワンクッション置くっていう、コミュニケーションの作法を求めるだけ無駄なのか?
 それとも、俺にその必要が無いと言いたいのか。
 ……いや、どっちにしろ失礼だろ。

「まー、その、なんだ―――」
「―――金なら貸さんぞ」
「違うわっ!!」
「以前にパチンコで7万スッたとか言ってなかったか?」

 言うな。その話は言うな。確率1/99が1200回当たんなかった悪夢を思い出させンなっ!

「……では、なんだ?」
「……あのガキを預かって欲しい訳なんだが」
「……? あの娘はキミの親族か何かか?」
「んにゃ。昨日、新宿三丁目の路地裏で拾っただけだ。名前も知らん。生憎、身元が分かるような物も持ち合わせてなかった」
「家出か? そのような捜索は警察の仕事だろう。
 何故、警察ではなく"委員会"を選ぶ?」

 無論、サツに届けを出すコトも考えたさ。でもよ、下手すりゃ未成年者略取とかで俺が捕まるかもしんねぇし。
 しかも、アウトローな稼業をしてるせいか委員会を除く公的機関と頗る相性が悪い。
 ……それに、あのガキに幾つか気になった事もある。

「嬢ちゃんと話してたのを聞いてたんだろ?」

 無論、先ほど俺にスケベ菌が云々と言った青いリボンのポニーテールの"自称、敏腕秘書"の嬢ちゃんのことだ。

「不本意ながらな」

 ……この野郎はどこまで潔癖症なんだか。

「自己弁護なんざ要らん。
 それに、別に盗み聞きしたことを責めるつもりはねーよ。余計な面倒が省けるしな」

 俺は漸く本題に入る。

「……あのガキんちょは異性化疾患が発病しちまったんだろう。それも、ごく最近にだ」
「ごく最近?」

 鸚鵡返しに神代は呟く。

「そーじゃなきゃ、いくら元男だからってノーブラでトランクスなんて下着で、いつまでも新宿なんか彷徨くかっての」

 奇妙な沈黙。

「とりあえず、身柄を拘束していいか」
「……は?」
「僕の前で婦女子暴行を公言しておいてその態度か。恥を知れ」

 ……何か、この坊ちゃんはとてつもない誤解をしているようだ。
 しつこいようだが俺は目の前でふんぞり返ってるイケメン嫌味野郎とは違い、ロリコンのケは無い。
 俺の名誉の為に補足しておくが、目の前で身構えてるイケメン嫌味野郎のアタマで想像してるようなコトも断じてしていないぞ。断じて。

「単に風呂を貸して、その間にびしょ濡れになってた服を洗濯しただけだっつの。
 生憎、あの位のガキんちょは守備範囲外なモンでね」

 その後に、"ロリコンのお前さんと違ってな"と付け加えてやろうかと思ったが、これ以上話がコジれるのは色々と面倒だと判断し、俺は返事を待つことにした。

「………。冗談だ」

 真顔で誤魔化しても説得力は無いぞ、坊ちゃん。

「……へーへー。異性化疾患対策委員会の委員長代理様はユーモアのセンスもおありなようで」
「………」

 ……勝った。内心でガッツポーズを取る。

「なんだ、その顔は」
「生まれつきだっつの。
 んで、いいか。話を先に進めても」
「……ああ」

 再び、顔を背けて俺はほくそ笑んだ。

「―――記憶喪失?」

 俺がコトのあらましを話し終えると、神代は推理小説のテンプレート的な反応を示した。

「あぁ。名前すら覚えてねんだとよ。
 一応、あのガキんちょの外傷は調べたが、それらしき痕は見当たんなかった」

 素人目の判断だから断言はしかねるが。

「外傷性の記憶障害じゃないと?」
「その可能性が皆無たぁ言わねぇが―――」

 あまり建設的な考え方じゃない。俺はその確認を含めて此処に来てんだからな。

「―――それより異性化疾患の知識に明るいアンタに話を訊いた方が手間が省けると思ってな。色々と」
「―――併発症、というコトか?」

 流石、代理とはいえ伊達に公僕組織の長を務めては居ないらしい。流石に頭の回転が早い。
 俺は賺(すか)さず首を縦に振った。

「性別が変わって、脳から分泌されるホルモンバランスだって一変しちまうくらいの病気なら、アタマのネジが弛んだっておかしな話じゃねーだろ?」

 いくら素人の俺が想像で語った所で、勝手な推測の域を出ない。的を射た意見ではあると思うんだが。そこは、餅は餅屋に訊けってこった。

「……前例はないな。
 異性化疾患に於ける併発症―――則ち、第一次性成婦人症と定義されているものだが―――その大分類であるⅠ種、Ⅱ種、Ⅲ種の中に言語野や海馬に障害を来す症例は今のところ確認されていない。
 確かに、発病の際にアセドアルレヒドに似た分泌物が体内精製される、という事例はあったがそれは頭痛や目眩、吐き気といった、所謂"二日酔い"の症例に似たもので、自らの名前を忘却するほどの強い記憶障害を伴うような症例は―――」
「―――長えよ。一行で言えっての」

 タイムイズマネーって言葉を知らねーのか、このロリコンは。

「……その仮説は99.98%有り得ない」

 0.02%の可能性は残るってか。
 どこからそんな数値が算出されてんのかはさておいて。

「んじゃ、何だ? 心因性の記憶喪失だってことか? はぁ、ドラマじゃあるまいし」

 そこで、会話に奇妙な間が生まれる。
 ……神代の野郎が会話に詰まる時、それは大抵―――俺に取って良い意味を為さないことが大半だ。

「………一つ頼めるか?」
「あン?」

 ―――そらきた。

 ――――昔、俺に依頼をしてきた中年のオヤジが言ってたが、家族がデパートを訪れる際、男の立ち位置ってのは大抵ドライバー兼荷物係と相場が決まっているらしい。
 誰が決めたか知らんが、迷惑極まりないルールだなオイ。

 詰まるところ、そういう紋切り型の不文律に縛られんのが嫌で独身貴族を気取ってたのに、エスカレータ脇に据えられたベンチには―――何故か俺と、両手の指じゃ数え切れないほどの紙袋が放置されていた。
 某有名デパートの紙袋の中身は、暴利を貪ってるとしか言いようが無い値段の衣類がわんさか詰め込まれていて、そんな俺をあざ笑うかのように、幸せそうな一家が今日の晩飯について熱く議論しながら横切っていく。
 俯いた視線の先には、鏡のように磨かれた床と、そこに映り込んだ憔悴しきったオッサン……じゃない、"お兄さん"の顔。
 ……誰に主張してんだ俺は。

 はぁ……これだけのモンをイチドキに買える財力があったら俺はどんだけの間、豊かな生活を送れると思ってんだ、あの嬢ちゃん達は?

「あっかばっねさんっ!」

 その大量の紙袋をこさえた張本人が、跳ねるような口調と足取りで駆け寄ってくる。自称"神代の敏腕秘書"の嬢ちゃんだ。

「そんなとこでヘタってないで、ちょっとは見てあげてくださいよー」

 別にヘタってた訳じゃない。人生の理不尽さを嘆いてただけだ。

「……あのなぁ、嬢ちゃん―――」
「―――いつになったら名前、覚えてくれるんですか?」

 不満そうに頬を膨らませる嬢ちゃん。いや、覚えてない訳ではない。今さっきまでド忘れしちまってただけだ。

「"坂城 るい"。 元プロ野球選手、坂城 亮のむす―――」
「―――そんなコトはどうでもいいんですっ!」

 強い語気。
 どうやら嬢ちゃんの地雷を踏んじまったらしい。……面倒臭ぇな。

 ―――ついつい容姿とか普段からの振る舞いで忘れちまいそうになるが……。
 今、目の前で手を腰に当てて、俺を睨みつけてるポニーテールの嬢ちゃんは――俺が拾ったガキんちょと同じ―――異性化疾患に冒された元少年だ。

 なんでも世間で蔓延ってる症例とは違う稀なモンだとかで、神代が手元に置いているとか何とか。
 ま、イケメンロリコンの考えてる建て前なんぞ知らん。知りたくもねぇし。

「……そんなコトよりも、あのコの服、少しは見立ててあげてくださいよ」

 物思いに耽っていた俺を現実に引き戻したのは、今し方よりも少し低いトーンで不貞腐れるような嬢ちゃん――坂城るいの声だった。
 嬢ちゃんの言う"あのコ"とは……無論、昨日俺が保護した元男の少年のことだ。
 今は、若者向け婦人服コーナーであれこれと勧めてくる店員にあたふたしている。
 ……見ている分には面白いので、放っておくか。

「……そもそも、なんで一週間アイツを預かるだけなのに、こんなに服を買い込む必要性があるんだ?」
「思春期の子のキモチに鈍感な赤羽根さんには、多分一生解りませんよーだ」

 いや、解りたくもねぇよ。
 ―――って口に出してしまいたいが、るいには服選びに付き合って貰っている手前、これ以上嬢ちゃんに不機嫌になられても困るから、だんまりを決め込むことにする。

「……あのコ、きっと不安なんです」
「そりゃぁ、てめぇの名前すら覚えてねぇんだし不安にもなるだろうが」

 ついでに言えば、アイツの不安の大部分は、未だに店員のお勧め攻勢から放ったらかしにしてるからじゃねぇのか?

「―――赤羽根さんが思ってる以上に、もっと、ずぅっとです」

 ……何かしら自分と重なる部分があるのか、ポニーテールに結った髪をふるふると揺らしながら、るいは洋服売り場を店員と共に右往左往するアイツを遠い目で見つめながら呟いた。

「だからこそ赤羽根さんに、あのコを守って欲しいんです」

 ……ん?

「"守る"たぁ、随分と大袈裟な言い回しだな?」
「っ……あはは、特に深い意味なんてないですよ。なーんていうのかな。
 私なりの文学的誇張だと思ってくれたら幸いですっ」

 嬢ちゃんはそう言って、殊更に綺麗な笑みを浮かべた。
 だが、その直前、
 "しまった"
 そう言わんばかりの彼女の一瞬の虚を映した表情を、俺は見逃さなかった。
 ……が、今それを此処で指摘したトコで、どうにもならないだろう。
 俺の観察眼が曇ってなきゃ―――この嬢ちゃんは、知己に対しての物腰こそ柔らかいよう見えても、頭の回転が頗る早いし、度胸も据わっている。
 流石は高級官僚(ロリコン)の御墨付きと言ったところか?
 恐らくはお茶を濁され、やんわりと話を流されんのが関の山だ。
 どこぞの臑に傷を抱えた破落戸を相手にするよりも組し辛い相手だと言える。

「……ま、こいつもお仕事だ。それ相応に対応させてもらうさ」
「……そーいう考え方、嫌いじゃないです」
「奇遇だな。俺もだ」
「あはっ、赤羽根さんてお茶目ですねっ」
「だろ?」

 互いの腹をさぐり合った笑みが交差した。

「じゃっ、次行きますよーっ」
「……は?」

 こんな山みたいに洋服がありゃぁ一週間の生活には事は足りるだろう?
 背伸びをしてから、俺とアイツを手招きする少女に、目で訴える。

「あれ、今言ったじゃないですか?」

 るいはクスクスと右手で口元を押さえながらイタズラっぽい笑みを浮かべた。

「お仕事でしょ? それ相応の対応、してくださいねっ」

 こンの野郎。
 いや、野郎じゃねぇか……。
 くだらないコトをを考えてる内に、俺の怒りのボルテージは下がっていく一方で、結局、下がり切った怒りを溜め息に乗せて吐き出すしか無かった。


 ―――んで。
 大量の紙袋を抱えて憔悴しきった俺と、
 未だに俯いたまんま依然として口を開こうともしない黒髪のロングヘアの元少年(仮)と、
 イヤホンから流れる音楽に合わせて短めのポニーテールを小刻みに揺らし、ルンルン気分で鼻歌を歌いながらデパートを見渡す元少年(こっちは確定)の三人がエスカレーターを登っていく。
 全く以て珍妙極まりない構図だ。

 ……ったく、端から見たらどう見えるんだ、この怪しい集団は?

「こっちこっちっ!」
「いらっしゃいませー。本日はお父様の服をお探しですかぁ?」
「……」

 ……勢い良く駆け出した嬢ちゃんに声を掛けた紳士服売り場の店員が全てを物語っていた。って、違う! 断じて違うぞっ!
 俺はこんなでっかいガキを持つような歳じゃねぇっつの!!
 ―――って、紳士服?
 しかも、……なんつーか、フォーマル臭がしない。
 所謂オッサン服じゃなくて……客層が若い者向けの服が所狭しと並んでいる。

「さぁ、第二ラウンド開始っ!」

 狐に両頬を摘まれたような面をしていたであろう俺達を後目に、嬢ちゃんは、アタマの中でゴングを鳴らしたように飛び出して、ハンガーに引っかかっている無数の洋服をあーでもないこーでもないと選び始める。

 ―――いくら神代に預かった魔法のカード(金)があるからって、嬢ちゃんの購買意欲は異常だろ……。
 はぁ。
 昨今の異性化疾患の元男って、こんなにバイタリティに溢れているモンなのか……?


 付き合いきれず"よっこらせ"の掛け声を皮切りに、俺は再びエスカレーター脇の冷えた金属の椅子に山程の紙袋を置き、腰掛ける。
 相も変わらず、浮かれたテンションで服を買いあさるポニーテールの少女に溜め息をつきながら。

「んで、お前さんは行かねぇのか?」

 紙袋の山を挟んで反対側に、ちょこんと腰掛けた黒髪の少女に俺は声を掛ける。

「……サイズは覚えたからって、あの子が言ってた」
「それにしたって、テメーの着る服くらいテメーで選んだらどうな」「キョーミない」

 言い終える前の拒絶。
 ったく、見た目と違って可愛げがねぇなぁコイツ。もーちっと愛想良くしてれば、それなりに見えんのに。
 ……ま、中身が男じゃそれすらも屈辱なのかもしれないが。

「こんな布切れに必要以上に金を使うなんてバカげてる」

 大量の紙袋を睨み付けながら言う。
 ……ま、その意見に同意出来ない訳じゃねぇんだけど。

「テメーの金じゃねぇんだし、せっかく嬢ちゃんが選んでくれたんだから、あんま文句は言わねー方がいいぞ?
 さて、と」
「っ、どこ行くんだよ?」
「んぁ? 便所だよ便所」
「……オレも、行く」

 ……何が悲しくて女と連れションなんて初体験をこんなとこで経験せにゃならんのだ。
 頭ん中で少し毒づいてから、まぁ、催しちまったモンは仕方ないと割り切って、俺達は男子便所へと歩を進め―――
 ―――って、ちょっと待て。
 ちーっとストップ。

「なんだよ?」

 いやいやいや。何でそんな"当然だ"っつー面してるんだ?

「……お前さんは、あっちだ」

 "あっち"に必要以上のアクセントを加えて俺は入り口前で足を止め、ピンク色のタイルで敷き詰められた壁の、男としての不可侵領域を指差した。
 ………が。

「入りづらい」

 弱々しい返答が返ってきた。
 理由は……まぁ、分からなくはないぞ。うん。
 男として、人生で関わりを持つことはないであろう、その聖域に足を踏み入れるんだからな。

「それに、その……仕方も分からない」

 どうやら小さい方らしい。って、冷静に分析してる場合じゃないだろ、俺!

「俺だって分かんねーよっ!」
「アンタ、大人だろ?」
「大人だって知らねーモンは知らねーんだよッ! それが世の常なんだっつの!」
「世の中のせいにして逃げるなよ、知る努力をしてくれよ」
「そんなとこに努力を注ぐ気なんざ起きねぇよっ!!」
「じゃあ……じゃあ、どうすればいいんだよっ」
「知るかっ!!」

 ……不毛だ。
 あまりに不毛過ぎる口論が男子便所の前で繰り広げられていた。
 先に言っておくが、探偵の仕事ってのはゴミに塗れたり人の言動に難癖をつけたりもするが、男性用トイレの入り口で思春期の少女と用の足し方を論争するなんて要項はねぇぞ。
 ……多分。

「……どうすれば、いい、んだよ……」

 とりあえず涙目でこっち見んな腿擦り合わせんな! あらぬ誤解を受ける前にその仕草をやめ―――

「―――お客様、申し訳ありませんが―――」

 ―――あぁ、遅かった。
 背後から大人びた女性の声。

「す、すンませ―――」

 恐る恐る固まった筋肉を無理矢理に動かして振り返ると、紙袋を両手に持ったポニーテールの……って。

「―――ぷっ、あっははは! 赤羽根さんってば、へーんな顔」

 ……自称敏腕秘書の嬢ちゃんだった。
 俺達が男子便所の前で不毛を通り越して無毛の口論をしてる間に買い物を済ませたらしく、俺よりも二回りほど小さな両手には弥次郎兵衛を連想させるほどの紙袋がぶら下がっている。
 恐るべし、魔法のカードの魔翌力。計画的にご利用していない。


「……で、何でこんなとこで痴話ゲンカなんてカップルっぽいことしちゃってるんです? もしかして……フラグ立ちました?」
「「立ってないっ!」」
「……す、凄いシンクロ率と殺気ですね」

 ―――んで。
 俺は今し方起きた諸事情を、ビビりまくっていた嬢ちゃんに話すと、元少年と共に意気揚々と男子便所へと旅立った。
 アイツは色々と喚いて抵抗していたが……嬢ちゃんのことだ、上手くやってくれるだろう。一連の話を聞いた途端凄い笑顔になってたしな。

 ……俺が用を足してるコンクリートの分厚い壁を隔てた向こう側では、思春期男子が唾垂モノのピンクーい世界が広がってるンだろうな、あの個室トイレの1.5畳くらいの空間で―――

『ほら、ここに座って……あーほら、下着も脱がなきゃ』
『や、だ……やだぁ……っ!』
『だいじょぶ、私も女の子だよぉ?』
『あ、ぅ……』

 ―――的な。………興味ねーけど。

 神代ならムッツリした面で悦びそうなネタだが。
 ……あー会話だけでも録音するべきだったかもしれねーなぁ、高く売れそうだし。

 ……ふぅ、スッキリした。
 ………。
 ………あくまで排泄的な意味でだからな。

 ……待つことが苦手な性分なんで、俺は手洗いと生温いエアータオルでなるべく時間を掛けた上で、男子トイレを後にしたつもりだったが……売り場に見知った顔は無かった。
 ……やっぱ女ってのは不便なんだな、イロイロと。

 ―――ブーッ、ブーッ

 呑気なコトを考えていると愛用のジャケット(4980円)の内ポケットが震えだした。
 どーせ、口うるさい大家からの―――滞納してる家賃請求だろう、なんて誤魔化そうかと思索しながら携帯を弄る。
 ……が、サブディスプレイには予想に反した名前が表示されていた。

 "ロリコン"と。

 仕様がなく通話ボタンに親指を伸ばす。

「あいはい、こちら赤羽根探偵事務所の所長、赤羽根です。ただいま電話に出ることが出来ません、ご用の方は発信音の後に―――」
『―――使い古した冗句に付き合うつもりはない。何度目だと思ってるんだ?』

 スピーカーの向こうから、呆れ果てたようなイケメンボイスが返ってくる。

「両手両足の指じゃ足りないくらいか?」
「今ので18回目だ」

 げ。律儀に数えてやがった。

 ……この一連の言動には、一応、相応の意味があるんだが―――説明するのが面倒なので割愛させてもらう。

「ったく、ノリが悪ぃな。そんなんじゃモテねーぜ坊ちゃん」
『その切り返しにも飽きたのだが』

 ……くそ。
 異性化疾患対策委員会の委員長代理様にも煽りに耐性がついて来やがったか。
 つまんねぇな。

「んで、今や単なる荷物持ちと成り下がってる俺に、お役人様が何の御用でしょーか」
『今し方、業者から連絡が入った』

 精一杯のイヤミで返してやったが、神代は意に介することもなく話を続ける。

『今居るデパートの6Fで、今後の仕事には必要不可欠となる代物を受け取って欲しい。取り急ぎで作らせたものだ。
 詳しくは彼女に訊いてくれ』

 このロリコンと俺との間に共通する女の知己は……悲しいかな、あの嬢ちゃん―――坂城るいと、彼女と一緒にトイレに入っていった、あの黒髪の元少年しか居ない。

「……嬢ちゃん、にか?」

 消去法で考えると、事情を知っていて、尚且つ神代の動きを理解のしているのはただ一人だ。

『そうだ。受け取りには恐らく合い言葉が必要になる』
「……合い言葉だぁ?」

 ……何か急激にキナ臭い話になってきたな。嫌いな話じゃねぇが。

『……キミも探偵の端くれだったな。合い言葉はキミに推理してもらうことにしよう』
「あぁん? ンなの俺に何のメリットが―――」
『―――正解して、品物を受け取れたら、依頼料を上乗せしよう』
「乗った」

 ん? 何か、釣られた気がしないでもないが……まぁいい。

「ただ、ノーヒントってのは……ちぃと厳しくねぇか?」
『……そうだな。ではヒントだ。
 合い言葉は
 "平仮名だと七文字"。
 それと"キミは一週間の間、あの娘の保護者だということを忘れるな"。
 これだけだ』

 ………。
 なんだそりゃ。

『では健闘を祈る』

 ブツっ、ツッ、プーッ、プーッ……

「ってオイっ!? 待て、まだてめーには聞きたい事が山ほど―――!」
「……なぁに一人で盛り上がっちゃってるんです?」

 ……いつの間にか俺の背後には、るいと……ん? 誰だ、この娘?
 腿のギリギリの辺りまでカットされたジーンズ、そこから伸びる黒いストッキングが脚線美を強調させている。
 そして、上半身は花の刺繍をあしらった薄いピンクのワンピースに身を包んだ少女の姿がそこにあった。
 ……まさか。

「可愛いでしょー? どうです、私のファッションセンスも捨てたもんじゃないですよね!」

 まるで人形を愛でる小さな女の子のように、うっとりとその対象を見つめながら嬢ちゃんはエヘンと胸を張った。
 C……いやDはあるか?
 ……っと。いかんいかん。
 つまり、嬢ちゃんの言動から察するに、この少女は俺が拾ってきた元男に間違いない。……のだが、その変貌ぶりに俺は言葉も出なかった。
 ボサボサで伸び放題だった髪はヘアゴムとピンで綺麗に整えられていて、まるで別人だ。
 遠い昔、想いを寄せていた初恋の美少女すら霞んで見える。

「うーん。
 やっぱり、もうちょっとユニセックスなのが良かったかなぁ?」
「………うぅ」

 ……何だこの男子禁制の排他的な空気。両者とも元男だというのに、この二人とは海溝よりも深い溝を感じる。
 ……別に寂しくねぇよ。

「でもねっ、ほら、赤羽根さんだってあまりの可愛さにきっとガッチガチになってるよー?」
「なってねーよ。新感覚ガムもビックリのフニャンフニャン具合だっつの!」
「あはっ、別に"どこが"とは言ってませんけど? それともそっちまで"淋しん棒"さんなんですかぁ?」

 可愛い面を下げて俺の下半身を指差しながら、嬢ちゃんはとんでもなくお下劣なコトを口走りやがった。
 スケベ菌が云々と罵ってた奴の言葉とは到底思えない。

「……アンタ、淋びょ―――」
「―――断じて違うっ! てめぇまで俺を遠巻きに見るんじゃねぇよ!!」
「あれあれ、必死になると本気で疑っちゃいますよ~? "オジさん"?」

 ……このガキ共、いつか泣かす。絶対ぇ泣かす。
 って、マズい。今日はとことんペースを崩されてる気がする。ンな茶番に付き合ってる場合じゃねぇってのに。

「ったく……今し方、嬢ちゃんのボスから連絡があった」
「え、せんせーからですか?」

 前々から気になってたんだが、どうしてこの嬢ちゃんはロリコン―――神代のことを"先生"呼ばわりするんだ?
 確かに神代は政治家の家系の息子らしいが、官僚であって厳密に言えば"先生"と呼ばれるような地位には居ないはずなんだが。
 ………ま、気にしても仕方が無さそうだ。
 訊いたところで、この嬢ちゃんは笑ってはぐらかすのが目に見えているしな。

「―――あぁ。此処に来た本来の目的の代物を回収しろってよ」
「……ふぅん」

 楽しげに自分の作品に熱視線を送っていた嬢ちゃんの声のトーンが急に下がる。

「随分と淡白な反応だな?」
「ん~……。
 せんせーって偶にボキャブラリーがズレてるんですよね。
 なーんていうか、若干中二病みたいな感じ」

 浮かれた雰囲気を纏っていても嬢ちゃんはかなりのリアリストらしく、随分とドライに言ってのけた。
 ……現役女子高校生に言われたい放題だな神代。少し同情が湧かなくもない。

 ……同情ついでだ。少しフォローに回るとするか。

「その中二病、今回のは多分、俺のせいだな」
「……へ?」

 

「―――大人って、想像してたよりも子供っぽいヒトのが多いんですね」
「ガキだな」

 コトのあらましを説明したら、思春期真っ只中の二人から一笑に伏された。
 くそっ、バカにしやがって。

「しょーがねぇだろ? こちとら生活が懸かってんだからよ」
「パチンコなんか打つからですよ。あーんなの、胴元が有利に決まってるじゃないですか」
「ダメ人間だな」
「ぐ……っ」

 返す言葉もない。
 ………神代、今ならお前に親近感が湧かなくもないぞ、ありがたく思ってくれ。
「と、とにかくっ、嬢ちゃんは何か神代に聞いてねぇのかよ?」
「あれ、ズルするんですか?」
「ズルじゃねぇ。手段を選ばないだけだ」
「日本語って便利ですよねー」
「いくらイヤミを言われようと、こっちは今後の生活が掛かってんだ。一歩も譲る気はねぇぞ」

 年下相手に言われ放題に言われたんだ、もはや意地もプライドもあったモンじゃない。ならば、相応の戦い方をするだけだ。

「はぁ……」

 少女達の青息吐息の二重奏が聞こえてくる。
 ……やがて、諦観じみた顔で嬢ちゃんが口を開いた。

「……多分、神代せんせーの言ってるのは、"コレ"のコトですね」

 そう言って、嬢ちゃんは自らの胸元を指差した。……どうしても制服のリボンの下の膨らみに目が行くのは男としての不可抗力なのだろうか。

「どこ見てるんですか? えっち」
「指差したから見ただけなのに、酷ぇ言われ様だな」
「そーじゃなくて―――っ!」
「―――制服?」

 回答したのは出題された俺ではなく、事の成り行きを見守っていた元少年だった。

「そっ、正解っ! キミはどこぞの探偵さんよりも推理力あるねっ」

 ぐ……耐えろ。耐えるんだ俺。

「制服だぁ? なんでンなモンを用意する必要があるんだ?」

 ……あのロリコン官僚の趣味か?

「いくら赤羽根さんが暇だからって、四六時中この子を見張るなんてムリがありますからね」
「失礼にも程があるだろ」

 ―――今、確かに嬢ちゃんは言った。

 突っ込みを入れても構わなかったが、嬢ちゃんから得られそうな情報が制限されちまう可能性があるから黙っておくか。

 ……"見張る"、ねぇ。
 どうして記憶喪失の元少年に、こんなにも委員会が肩入れするんだかな。何か特別な理由でもあんのか?

「―――て、事はコイツの制服を受け取る時の"合い言葉"を推理しろってことか」
「さぁ? 手続きをしたのはせんせーですし、その時に私は居ませんでしたから。
 私は、せんせーにこの子の服の大体のサイズを教えたくらいですよ?」

 本当に知らないのか、それとも持ち前の演技力でトボけているのかは分からないが、嬢ちゃんは腕組みをしながら何かを考えてる素振りで答える。
 ……ったく。

「ほんじゃま、行きますか」
「「えっ?」」

 一つオクターブの高い疑問の声の二重奏。

「売り場は何階だ?」
「だ、ちょっ、待っ、ストップストップっ! 待って下さいよ!」

 慌てた口調の嬢ちゃんが、フロアの案内掲示板に向かおうとする俺の上着の裾を掴んで引き止めてくる。

「なんでだよ」
「合い言葉も分かってない状態で行ったって、素直に店員さんが渡してくれる訳ないじゃないですかっ!」
「……素直に負けを認めた方がいいと思う」

 ………どうやらコイツらの中での俺は、とことん過小評価らしいな。


 ………ん?

 ―――今、誰かに見られてたような……?
 いや、"見られてた"というよりは"見張られていた"と言った表現の方が近い。
 売り場を行き交う人の流れに紛れちまったのか、今は何も感じないが。
 ……気のせいか?
 単にロリコン官僚の中二病が感染しただけか?
 だとしたら……この上なく恥ずかしいだけじゃねーか。


「……ほら、行くぞ」
「だからぁ、待って下さいよ!」

 俺は両手に一杯の紙袋を肩に担ぎ上げて、エスカレーターに向かった。
 嬢ちゃん達も慌てて俺の後に付いてきている。

 その後を、誰かが尾けてくる様子は無い。

 ……気にするだけ無駄だったか。

 

 ―――しかしまぁ、こうやって売り場に足を運ぶのなんて久々だな。
 俺が学生だった頃に比べても、売り場に並ぶ制服の種類はそれほど大差無いような気がする。
 店頭に並んでるようなテンプレートな着方をしてるガキんちょをあんまし見かけないせいか、少し意外に感じた。

「なぁに、女子の制服まじまじ見てるんですかっ? すけべー」
「……あのな」

 そういう理由で見てた訳じゃねーのに、賺さず嬢ちゃんは俺をからかってくる。

「ねー、キミもそう思うでしょ?」
「……ん? あぁ」

 嬢ちゃんに急に話を振られた元少年は、意にも介せず店頭に並ぶ制服を茫然と見つめるだけ。

「あ、はは……」

 途端に嬢ちゃんの顔が複雑なものへと変わっていく。
 ……やっぱ、自分と重なる部分があるのかもしれねーな。
 ……うぉっ?!

「……赤羽根さん」

 急に嬢ちゃんがシャツの襟元を掴んで、俺を引き寄せる。

「……あのコを傷付けたりしたら、私……比較的本気で怒りますからね」

 小さな声で、嬢ちゃんはそう耳打ちしてきた。
 ……声こそ小さいが間近に迫った嬢ちゃんの目は、さながら猛禽類のように鋭く光っていた。
 下手を打ったら俺が殺されかねねぇな、こりゃ。

「……前に言ったろ? コイツは仕事だ。それ相応の対応をさせてもらう」

 ―――例え、探偵業から一線を画した仕事だとしてもな。 ……さて。

「すんませーん」

 俺はレジカウンターで電卓を叩いていたオバサン店員に声を掛けた。
 俺の風貌も相俟ってか、オバサンは一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐに張り付けたような笑みに変えて、こっちに駆け寄ってくる。

「はい、いらっしゃいませー」
「今日が、コイツの制服を受け取り日だっつーんで来たンスけど」

(ちょ……っ、赤羽根さんっ!?)
(でーじょーぶだっつの)

 未だに呆然と女子用の制服を見つめてる元少年を指差して俺は言う。
 隣で自称、敏腕秘書様があたふたしてるが知ったこっちゃない。

「……失礼ですが、お名前をよろしいですか?」

 ちっ、こんな中途半端な時期でも一応確認は取るのな。
 向こうさんが勝手に勘違いしてくれりゃあ、こっちのものだったんだが。
 最近はやっぱ異性化疾患の影響があるのか、予約は少なくないらしいな。
 どうやら正面突破しか無ぇみたいだ。……はぁ、面倒臭ぇ。

 ……今一度、ロリコンとの電話口の会話を反芻する。

 ―――合い言葉は平仮名で七文字。

「赤羽根―――」

 そんでもって、俺は"一週間"の間、このクールビューティ候補を預かる立場な訳だ。

 ……ったく、センスのねぇネーミングだな、神代大先生よ?

「―――なのか。
 "赤羽根 なのか"です」

 ………しばしの静寂。店内放送のリードサックスが耳に痛い。

「はい、赤羽根様ですね。承っております。少々お待ちください」

 足早に、オバサン店員は裏に引っ込んで行く。
 姿が見えなくなった途端に、俺と嬢ちゃんは盛大に溜め息をついた。

「……すっっげぇぇ緊張した。
 当てずっぽうにしちゃ上手くいったな」
「もーっ、もし間違ってたらどーするつもりだったんですかっ!?」
「全速力で逃げた」
「……サイテーだこの人」

 俺らが下らない仮定の話も、元少年には届いていなかったようだ。
 だから、俺は声を掛ける。

「おい―――」
「………」

 反応が無い。昨日、俺が拾った時とおんなじような面をして固まったまんまだった。
 ったく。

「……"なのか"っ!」
「―――っ?」

 そこで、漸く元少年……いや、"なのか"の視線がこちらに向く。

「……多分、今から制服の調整するから、用意しとけよ」
「……なの、か?」

 黒髪をふわりと揺らしながら、なのかは自分の"名前"を反芻する。

 ―――へぇ、そーいう面は、もうしっかりオンナになってんだな。

 そう口に出そうとして、やめる。
 傷つけんなって釘刺されてんのに、そんな事を口走ったら隣に居る敏腕秘書様にぶん殴られそうだしな。

「そうだ。
 今日からお前は俺の家族だ」
「……かぞく」
「だから本当の名前を思い出すまで、お前の名前は
 "赤羽根 なのか"だ。……いいな?」
「………センス悪いね」

 うるせぇ。俺が名付け親じゃねーんだ、クレームならロリコン官僚につけてくれ。

「……嫌なら、1日でも思い出す努力をするこった」
「そうする」

 ちっ、ルックスはともかく、やっぱ可愛げねぇな。
 そもそも"なのか"なんて可愛らしい名前、コイツの柄じゃねーだろ。

「―――お待たせ致しました」

 営業用だと思われる茶色い声と共に店員が姿を現す。
 その手には、今嬢ちゃんの着ているものと同じ様な制服が掛けられていた。
 整理用のタグには"赤羽根 名佳"の文字。……あれで、"なのか"って読むのか?

「……俺、アンタんとこに編入になるのか?」

 なのか―――分かりづらいな、名佳が、不安そうに囁いた。
 そりゃそうか、何も覚えてねぇのにフツーの生活をさせるっつーのはなぁ。
 実際に記憶喪失の人間の側に居合わせるのはコイツが初めてだが、大抵、病院なり何なりで検診を受けたり入院したりするもんだろう。
 それが、いきなり学校に通うなんて無理がある。

「ん~。ま、そんな感じかな」

 事も無げに嬢ちゃんは軽い調子で頷く。
 ……そんな事が分からないくらい想像力が欠如してるような脳みそはしてねぇと思うんだが。

「だいじょぶだいじょぶ! 私が付いてるし、学校には私の"親友"が居るからっ。
 ……ほらほらっ、試着してきなよっ、ねっ?」
「あ、あぁ……」

 半ば強引に名佳を試着室へと押していく嬢ちゃん。
 慌てて、その後をオバサン店員が追っていく。

 ………試着室に名佳を押し込んでから、嬢ちゃんは戻ってきた。

「―――どういうつもりだ?」
「……何がです?」

 視線を交わさず、言葉をやりとりする俺達。視界の先では試着室のカーテンが不思議な踊りをしている。こちらのMPが下がりそうだ。

「今回のあのガキ―――名佳の一件は、どうも手回しが良すぎるし、委員会の正規の対応策とも著しくかけ離れてる。
 勘ぐらないのが無理ってモンだろ」
「あれあれ? 探偵サンって依頼者の詮索はしないのがルールじゃないんですか?」
「茶化すな。こっちが実害を被るリスクがあるのであれば話は別だっつってんだよ」

 再びの静寂。店内放送のリードサックスが、耳に痛い。
 しばらくして漸く観念したのか、小さな溜め息が聞こえてきた。

「実は、私もよく分かってないんです」
「あン?」
「いくら私設の敏腕秘書を自称しても肝心なコトは私に流れてはきません。
 ……当然、ですよね。一介の女子高生に与えられる情報量なんて、大したコト、ないんですから」

 俺の視線の端っこで、どこか寂しげに嬢ちゃんは俯いた。
 ………チッ、嬢ちゃんが言ってるコトがホントにしろウソにしろ、ズルい逃げ方を知ってやがる。

「過度は信頼はするなよ。
 俺は単なる調査係だ。……年頃のガキのお守りなんざ仕事の範疇外だからな」

 ―――誰かを守るとか、んなの、俺に出来っこねぇんだからよ。

「……でも、あの子――"なのちゃん"は赤羽根さんを信用してくれてますよ。それだけで十分だと思います」
「なのちゃん?」
「あだ名です。今決めました」
「新聞の四コマ漫画みてーだな」
「うるさいです」
「へーへー」
「へーは一回でいいです」
「へー」

 ……ったく。
 どこをどう見たら、あのガキが俺を信用してるように見えんだか甚だ疑問だ。

「―――っと、じゃあ、私はお暇しますねっ、急がないと門限に遅れちゃいますっ」

 思い出したように、嬢ちゃんは俺に向き直り、青いリボンで結った短いポニーテールをふわりと揺らすように頭を下げる。
 腕時計で時刻を確認……っと、もうこんな時間か。

「名佳に挨拶しなくていいのか?」
「お邪魔かなぁって思いまして。"家族のコミュニケーション"の」

 ―――家族、ね。

「私も、"今の家族"や"仲間"が大好きなんで、そこは空気を読んだワケですっ」

 "今の家族"か。
 ……まぁ、それこそ余計な詮索は無用だな。

「―――大事にしろよ、そーいうの」
「……はいっ」

 満面の笑みを浮かべて嬢ちゃんは言う。
 いつも生意気でヒネくれっけど、そん時ばかりは、年相応の可愛らしい女の子に見えた。
 多分、この嬢ちゃんは過去さえ知らなきゃ相当モテるんだろーな、きっと。

「―――お待たせ致しましたー」

 試着室から茶色い営業用ボイスが聞こえる。

「それじゃ、失礼しますっ」

 嬢ちゃんが、再びアタマを下げてから跳ねるような急ぎ足でエスカレーターへと向かう。

 さて、そんじゃあ名佳の制服姿を拝んだら今日の仕事はシマイだな。

 ―――――っ!?

 妙な違和感が全身を走り抜けた気がした。
 視線? いや、そんな間接的なモンじゃない、もっと何か、こう……だぁっ、面倒臭ぇっ!
 どこだ、どっからだっ!? 名佳……じゃねぇ、俺か?! ……いや、違う。
 ……まさか!

「―――嬢ちゃんっ!」
「え………っ!?」

 クソったれが……!
 名佳に気を取られすぎて嬢ちゃんにまで気が回んなかった!
 嬢ちゃんのすぐ側まで、マスクと黒のニット帽、コートで身を包んだ男か女かもわかんねぇような奴が駆け寄ってってやがる!

「きゃ……っ!?」

 嬢ちゃんの右肩に下がってた学生鞄をひったくり、そいつは非常階段へと逃げていく。

「嬢ちゃんっ!!」
「っ!?」

 その一部始終を目撃していた俺と名佳は、直ぐに嬢ちゃんの元へと駆け寄る。

「大丈夫かっ!?」

 見たところ、派手にすっ転んだだけで嬢ちゃんに目立った外傷は無い。

「待ってろ、直ぐに―――」
「―――ダメっ! 赤羽根さんは此処にいてなのちゃんを見ててっ!!」
「あ、おいっ!?」

 俺の制止を振り切って嬢ちゃんは、どこぞの陸上部員も真っ青の速度で、逃走経路である非常階段へと消えていく。

「……大丈夫、かな」

 カタカタと小刻みに震えながら、名佳が呟く。

「わかんねぇ、とりあえず―――」

 ―――致し方なくケータイでサツに連絡を取ろうとしたその刹那。
 非常階段に鋭い音が響き渡った。
 なんつーか、スリッパかなんかでアタマをぶっ叩いたような音。
 とりあえず人の命を奪うような物騒なモンじゃねぇ事は確かだが……。

「………っ!」
「あ、おいっ!?」

 指で弾かれた輪ゴムのように駆け出す名佳。
 くそっ、放っとくワケにもいかねーしな……。ネガティブな義務感から二人の跡を追う。

 二人は………階段の中腹に居た。

 ひったくり犯はその場には居なかったが、嬢ちゃんの鞄はどうやら無事らしい。

「……っはぁ、はぁ……」

 くそっ、ちょこっと全速力で走っただけなのに、俺の心肺機能は悲鳴を上げている……ちっと禁煙するべきか……?

「大丈夫ですか?」

 呼吸を整えているうちに俺の台詞を取られてしまった。逆に台詞を奪った張本人はケロリとしている。
 一体何をしたんだ……嬢ちゃん?

「飛び降りて犯人を蹴るなんて……無謀だって」
「うーん、あと3センチ右ならクリーンヒットしてたんだけどなぁ」
「そういう、問題じゃなくて……」

 ……二人の会話が全てを物語っていた。とりあえず、今後嬢ちゃんの機嫌を損ねないコトを心に誓いながら、俺は口を開く。

「……嬢ちゃんが無事なのは分かった。荷物は大丈夫か?」
「ん~、中には貴重品とか壊れたりするものは入ってませんから大丈夫だと思います」
「一応、中身を確認しといた方がいい」
「……ですね」

 ―――結論から言うと、嬢ちゃんの荷物は無事だった。無くなったり壊れたりしてる物はないらしい。

「―――うん、バッチリです。
 せんせーから預かったクレジットカードも無事だし。うん、良かった良かった」

 ―――ちっとも良くねぇよ。
 結局、あの不審者が嬢ちゃんの鞄を狙ってた理由もハッキリしねーし。金目当てだったにしても、カードなんざ直ぐに差し止められんだろ。
 金だって高校生が持つレベルの上限程度だし、こんな人の行き交う場所でひったくりなんざリスク高すぎる。
 ……一体、なんだったんだ?

「遅くなっちゃったし警察と神代せんせーへの報告は、後日私から行います」
「いーのかよ、そんなんで」
「いーんです。ほら、その為の"神代家"の看板ですしっ」

 ……政界の名家の看板ってすげーのな。

「赤羽根さん達はとりあえず戻った方がいいですよ? このままだと逮捕されちゃいます」
「なんでだよ」
「だって、なのちゃんの、それ」

 嬢ちゃんはあっけらかんと名佳の制服を指差した。
 ………マズい。まだ、サイズ調整の途中だったんだ。

「やべ……戻るぞっ!」
「あ、え、う、うんっ」

 ……俺達は、急いで非常階段を上っていき、事情を説明しに制服売り場まで戻っていく。
 ……そして、嬢ちゃんは。

「……まさか、ね」

 誰もいない非常階段で、ポツリと呟いた。


  【赤羽根探偵と奇妙な数日-1-】

  完

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最終更新:2012年08月19日 02:34
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