1990-99年

「1990-99年」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

1990-99年」(2006/06/07 (水) 14:33:06) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

***1990 赤山容造 1990「Ⅲ土器・石器と遺構の分析 1中期前半の土器」『三原田遺跡』第2巻 群馬県企業局 野村一寿 1990「6群4類 曲隆線文土器」『松本市坪の内遺跡』松本市教育委員会 山口逸弘 1990「群馬県における阿玉台式の諸様相」『研究紀要』第7号 群馬県埋蔵文化財調査事業団 ***1991 赤山容造 1991「どのようにして三原田式土器が生まれたか-半隆起線文手法の系統について-」『群馬県立歴史博物館紀要』第12号 群馬県立歴史博物館 寺内隆夫 1991「長野県上水内郡三水村・上赤塩遺跡出土の縄文中期時について」『長野県考古学会誌』第61・62号 長野県考古学会 山口逸弘 1991「「新巻類型」と「焼町類型」の文様構成-群馬県の縄文時代中期中葉の二者-」『土曜考古』第16号 土曜考古学研究会 ***1992 寺内隆夫 1992「浅間山東側からの視線、西側からの視線-焼町土器の成立をどうとらえるか-」『長野県考古学会誌』第67号 長野県考古学会 山口逸弘 1992「新道系土器群の変容過程-利根川上流域を中心として-」『研究紀要』第9号 群馬県埋蔵文化財事業団 ***1995 寺内隆夫 1995「浅間山麓の縄文中期中葉の土器」『長野県考古学会大会資料』 ***1996 小林真寿 1996「浅間山麓の縄文中期中葉土器論 焼町土器の研究」『長野県考古学会誌』第80号 寺内隆夫 1996「斜行沈線文を多用する土器群の研究-「後沖式」の設定は可能か?-」『長野県の考古学』㈶長野県埋蔵文化財センター 三上徹也 1996「長野県の中期中葉から後葉の様相」『縄文セミナー 第11回中期中葉から後葉の様相』 ***1997 小口達志 1997「伊那谷の後沖式土器と焼町土器」『伊那』第45巻4号 水沢教子 1997「焼町土器を切る」『佐久考古通信』第71号
***1990 赤山容造「Ⅲ土器・石器と遺構の分析 1中期前半の土器」『三原田遺跡』第2巻 群馬県企業局 野村一寿「6群4類 曲隆線文土器」『松本市坪の内遺跡』松本市教育委員会 山口逸弘「群馬県における阿玉台式の諸様相」『研究紀要』第7号 群馬県埋蔵文化財調査事業団 ***1991 赤山容造「どのようにして三原田式土器が生まれたか-半隆起線文手法の系統について-」『群馬県立歴史博物館紀要』第12号 群馬県立歴史博物館 寺内隆夫「長野県上水内郡三水村・上赤塩遺跡出土の縄文中期時について」『長野県考古学会誌』第61・62号 山口逸弘「「新巻類型」と「焼町類型」の文様構成-群馬県の縄文時代中期中葉の二者-」『土曜考古』第16号 ***1992 寺内隆夫「浅間山東側からの視線、西側からの視線-焼町土器の成立をどうとらえるか-」『長野県考古学会誌』第67号 山口逸弘「新道系土器群の変容過程-利根川上流域を中心として-」『研究紀要』第9号 群馬県埋蔵文化財事業団 ***1995 寺内隆夫「浅間山麓の縄文中期中葉の土器」『長野県考古学会大会資料』 ***1996 小林真寿「浅間山麓の縄文中期中葉土器論 焼町土器の研究」『長野県考古学会誌』第80号 寺内隆夫「斜行沈線文を多用する土器群の研究-「後沖式」の設定は可能か?-」『長野県の考古学』㈶長野県埋蔵文化財センター 三上徹也「長野県の中期中葉から後葉の様相」『縄文セミナー 第11回中期中葉から後葉の様相』 ***1997 小口達志「伊那谷の後沖式土器と焼町土器」『伊那』第45巻4号 水沢教子「焼町土器を切る」『佐久考古通信』第71号

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: