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&ref(http://image01.wiki.livedoor.jp/n/8/niwaka368/8d2b956f3a59d149.jpg) 寺檀制度をこえて(http://www.tgiw.info/tera/objection/kaimyo.html )  問題なのは現代において寺檀制度とそれを支える大家族制度・隣組制度などが特に都市部において崩壊してきていることです。日本において仏教徒は9000万人と言われていますがこれは檀家の構成員を全て仏教徒とした上での数で、信仰する宗教が仏教であると答える人は30%(一番多いのは「なし」で60%)にも満たない状況であり、多くの人々の意識が菩提寺に向いていないことは明らかです。核家族化が進み、ほとんどの家に仏壇がなく、郷里の本家との関係も希薄であり、普段お寺とは付き合いがなく家族が亡くなれば葬儀屋さん頼みという状況では到底寺檀制度など前提にできません。ましてや寺檀制度は日本仏教が帯びた時代的特徴にすぎないことを考えると、「本来ならば寺檀制度に従うべきである」ということ自体筋が通っていないと言えます。  地域・時代に適応することは仏教の大事な特性です。東南アジアには東南アジアの仏教があり、中国には中国の仏教があり、韓国には韓国の仏教があります。また近年ではその教えの柔軟さゆえに欧米で人気を集めていることはご存知の方も多いでしょう。ですから、十分な思慮をもって時代に対応し、因習にとらわれることなく仏教の現代的意味を絶えず問い直していくのが僧侶の大事な役目なのです。寺檀制度が機能しなくなればそれに変わる新しい仕組みが模索されなければなりません。  そこで寺檀制度を抜きにして考えていくと、仏教の葬式である以上、戒名(もちろん生前戒名ならばよりよい訳ですが)は葬式導師として直接対面している僧侶が授けるべきであり、その導師が菩提寺の住職なのはその後の法事が滞りなく行われやすくするという理由だけにとどめるべきではないかと思います。このように考えれば[ケース1]は(それでも宗派は同じであるべきかもしれませんが)戒名をつけなおす必要など全くなく、[ケース2]は葬式を主宰する僧侶が菩提寺に遠慮することなく戒名をつければいいのです。仏教という観点で大事なのは仏教を正しく保持する僧侶が戒名を授けることであって、どの僧侶が授けるかということではないはずです。サンガに属し和合する僧侶はひとつなのです。(少なくとも同じ宗派の)僧侶を差別することはやってはいけないことだと思います。  生みの親より育ての親ニも言います。目の前にいる僧侶がたとえ葬儀屋さんに紹介された見ず知らずの方であっても、その出会いはひとつの深き仏縁でありましょう。その僧侶にとっても受戒を行うということは菩提寺であるか否かに関わらずそこにいる以上きわめて責任大なのであり、自らつけた戒名を手ずから授けるその場こそが仏法を発揚し教化する重要な場なのです。いずれは供養を引き受けることになる菩提寺の住職は葬式導師をしなくても、狭隘なナワバリ意識など持たずにその僧侶に同じ仲間として絶対の信頼を置かなければなりません。  この僧侶間の和合を本質とする連携こそが、寺檀制度をこえて現代に仏教を花開かせる原動力になるのではないかと思うのです。誤解のないように申し添えますと、私は旧来どおり菩提寺の住職が葬式導師をするべきではないと言っているのではなく、むしろ都会に住んでいて郷里が遠距離であってもできるだけ菩提寺の住職に相談して葬式を主宰してもらうように努力することが望ましいと思います。しかしもしそれが叶わない場合、あるいは菩提寺がなかったり日ごろの付き合いが希薄だったりする場合には必ずしも菩提寺を媒介する必要はないという主張をしたいのです。  しかし残念なことにこのような考えは一般的ではありません。またこのような考えの実現には現実問題としてさまざまな障害があるのも事実です。ひとつひとつ吟味を重ねながら、仏道を邁進していきたい所存です。 どうしたら、うまくだまして金儲けという議論。仏道を邁進していきたいのなら、出家してください。出家してこそ僧侶でしょう。ふざけるな。  戒名は授戒している正式な戒のある僧侶より、仏教徒になりたい人がいただくもの。出家していない破戒坊主に戒名かかれたら、家は破壊される。  破戒僧が寺を私物,私仏化して、破戒を繰り返し、日本を破戒してきた。日本の破壊は、破戒より始まった。そうかそうかですね。  寺請制度のため、キリスト教だけではなく、神社も神葬祭を禁じられ衰退したのであります。明治の神仏分離令は元の状態に戻したのみです。それで存続できづ葬式仏教に堕するとは唯の金儲けですね。  隠れキリシタンは仕方なく神社の形で祀られております。 枯松神社  長崎県西彼杵郡外海町にある枯松神社は、 隠れキリシタンを祀った神社です。 日本では他に2ヶ所、伊豆大島のおたあね大明神・長崎の桑姫神社があります。 キリシタン禁制の二百数十年、多くの隠れキリシタンがこの場所に来て寒さを しのぎながらオラショを伝習したと言い伝えられています。  ※隠れキリシタンとは? 江戸時代のキリシタン禁制によって、宗門改めをのがれるため表向きは仏教徒を よそおいながらキリスト教徒としての信仰をもちつづけた人々のことです。 長崎県には、今でもこの信仰形態を続けておられる方がいらしゃるそうです。  ※オラショとは? ポルトガル語のキリシタン用語で "祈り"という意味です。
寺檀制度をこえて(http://www.tgiw.info/tera/objection/kaimyo.html ) 問題なのは現代において寺檀制度とそれを支える大家族制度・隣組制度などが特に都市部において崩壊してきていることです。日本において仏教徒は9000万人と言われていますがこれは檀家の構成員を全て仏教徒とした上での数で、信仰する宗教が仏教であると答える人は30%(一番多いのは「なし」で60%)にも満たない状況であり、多くの人々の意識が菩提寺に向いていないことは明らかです。核家族化が進み、ほとんどの家に仏壇がなく、郷里の本家との関係も希薄であり、普段お寺とは付き合いがなく家族が亡くなれば葬儀屋さん頼みという状況では到底寺檀制度など前提にできません。ましてや寺檀制度は日本仏教が帯びた時代的特徴にすぎないことを考えると、「本来ならば寺檀制度に従うべきである」ということ自体筋が通っていないと言えます。 地域・時代に適応することは仏教の大事な特性です。東南アジアには東南アジアの仏教があり、中国には中国の仏教があり、韓国には韓国の仏教があります。また近年ではその教えの柔軟さゆえに欧米で人気を集めていることはご存知の方も多いでしょう。ですから、十分な思慮をもって時代に対応し、因習にとらわれることなく仏教の現代的意味を絶えず問い直していくのが僧侶の大事な役目なのです。寺檀制度が機能しなくなればそれに変わる新しい仕組みが模索されなければなりません。 そこで寺檀制度を抜きにして考えていくと、仏教の葬式である以上、戒名(もちろん生前戒名ならばよりよい訳ですが)は葬式導師として直接対面している僧侶が授けるべきであり、その導師が菩提寺の住職なのはその後の法事が滞りなく行われやすくするという理由だけにとどめるべきではないかと思います。このように考えれば[ケース1]は(それでも宗派は同じであるべきかもしれませんが)戒名をつけなおす必要など全くなく、[ケース2]は葬式を主宰する僧侶が菩提寺に遠慮することなく戒名をつければいいのです。仏教という観点で大事なのは仏教を正しく保持する僧侶が戒名を授けることであって、どの僧侶が授けるかということではないはずです。サンガに属し和合する僧侶はひとつなのです。(少なくとも同じ宗派の)僧侶を差別することはやってはいけないことだと思います。 生みの親より育ての親ニも言います。目の前にいる僧侶がたとえ葬儀屋さんに紹介された見ず知らずの方であっても、その出会いはひとつの深き仏縁でありましょう。その僧侶にとっても受戒を行うということは菩提寺であるか否かに関わらずそこにいる以上きわめて責任大なのであり、自らつけた戒名を手ずから授けるその場こそが仏法を発揚し教化する重要な場なのです。いずれは供養を引き受けることになる菩提寺の住職は葬式導師をしなくても、狭隘なナワバリ意識など持たずにその僧侶に同じ仲間として絶対の信頼を置かなければなりません。 この僧侶間の和合を本質とする連携こそが、寺檀制度をこえて現代に仏教を花開かせる原動力になるのではないかと思うのです。誤解のないように申し添えますと、私は旧来どおり菩提寺の住職が葬式導師をするべきではないと言っているのではなく、むしろ都会に住んでいて郷里が遠距離であってもできるだけ菩提寺の住職に相談して葬式を主宰してもらうように努力することが望ましいと思います。しかしもしそれが叶わない場合、あるいは菩提寺がなかったり日ごろの付き合いが希薄だったりする場合には必ずしも菩提寺を媒介する必要はないという主張をしたいのです。 しかし残念なことにこのような考えは一般的ではありません。またこのような考えの実現には現実問題としてさまざまな障害があるのも事実です。ひとつひとつ吟味を重ねながら、仏道を邁進していきたい所存です。どうしたら、うまくだまして金儲けという議論。仏道を邁進していきたいのなら、出家してください。出家してこそ僧侶でしょう。ふざけるな。 戒名は授戒している正式な戒のある僧侶より、仏教徒になりたい人がいただくもの。出家していない破戒坊主に戒名かかれたら、家は破壊される。 破戒僧が寺を私物,私仏化して、破戒を繰り返し、日本を破戒してきた。日本の破壊は、破戒より始まった。そうかそうかですね。 寺請制度のため、キリスト教だけではなく、神社も神葬祭を禁じられ衰退したのであります。明治の神仏分離令は元の状態に戻したのみです。それで存続できづ葬式仏教に堕するとは唯の金儲けですね。 隠れキリシタンは仕方なく神社の形で祀られております。枯松神社  長崎県西彼杵郡外海町にある枯松神社は、隠れキリシタンを祀った神社です。日本では他に2ヶ所、伊豆大島のおたあね大明神・長崎の桑姫神社があります。キリシタン禁制の二百数十年、多くの隠れキリシタンがこの場所に来て寒さをしのぎながらオラショを伝習したと言い伝えられています。 ※隠れキリシタンとは?江戸時代のキリシタン禁制によって、宗門改めをのがれるため表向きは仏教徒をよそおいながらキリスト教徒としての信仰をもちつづけた人々のことです。長崎県には、今でもこの信仰形態を続けておられる方がいらしゃるそうです。 ※オラショとは? ポルトガル語のキリシタン用語で"祈り"という意味です。

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