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冨士浅間神社」(2006/01/22 (日) 18:57:18) の最新版変更点

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<h1 class="title">富士本宮浅間社</h1> <div class="main">主祭神 : 浅間大神(あさまのおおかみ)<br> :木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)<br> 相殿神 : 瓊々杵尊(ににぎのみこと)<br> 相殿神 : 大山祇神(おおやまづみのかみ)<br>  「日本(ひのもと)の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」と万葉の歌人高橋蟲麻呂が詠んだ清らかで気高く美しい富士山。この霊山を御神体として鎮まりますのは、浅間大神・木花之佐久夜毘売命にまします。<br>  木花之佐久夜毘売命は、大山祇神の御息女にして大変美しく、天孫瓊々杵尊の皇后となられた御方です。命はご懐妊の際、貞節を疑われたことから証を立てるため、戸の無い産屋を建て、周りに火を放ち御出産になられました。そして、無事3人の皇子を生まれたという故事にちなみ、家庭円満・安産・子安・水徳の神とされ、火難消除・安産・航海・漁業・農業・機織等の守護神として全国的な崇敬を集めています。<br>  木花という御神名から桜が御神木とされています。境内には500本もの桜樹が奉納されており、春には桜の名所として賑わいます。また、申の日に富士山が現れた故事から神使いは猿といわれています。<br> <br> <hr noshade="noshade" size="1"> <br> 〒418-0067 静岡県富士宮市宮町1-1<br> <br> 【起 源】<br> <br>  「富士本宮浅間社記」によれば、第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとあります。第11代垂仁天皇はこれを憂い、その3年(前27)に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められました。これが当大社の起源です。<br>  その後は姫神の水徳をもって噴火が静まり、平穏な日々が送れるようになったと伝えられています。この偉大な御神徳は、万人の知るところとなり、篤い崇敬を集める事となりました。また、富士山を鎮めるため浅間大神をお祀りしたのは当大社が最初であり、全国にある浅間神社の起源ともなっています。<br> <br> <br> <br> <br> 山宮参道<br> <br> 【現在の鎮座地(大宮)に遷座】<br> <br>  最初に祀られた「山足の地」は、特定の地名を指すのではなく、富士山麓の適所を選んで祭祀を行った事を示すと考えられています。特定の場所に祀られるようになったのは、山宮(現在の鎮座地より北方約6キロ)にお祀りされてから後のことです。山宮は社殿が無く古木・磐境を通して富士山を直接お祀りする古代祭祀の原初形態を残す神社で、祭祀形態の変化をうかがい知ることが出来ます。<br>  社記によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の夷(えびす=賊徒)を征伐するため駿河国(するがのくに)を通られた際、賊徒の野火(野原で四方から火をつけ攻められること)に遭われました。尊は、富士浅間大神を祈念して窮地を脱し、その賊徒を征伐されました。その後、尊は山宮において篤く浅間大神を祀られたと伝えられています。<br>  後に、大同元年(806)坂上田村麿は平城天皇の勅命を奉じ、現在の大宮の地に壮大な社殿を造営し、山宮から遷座されました。<br> 富士山の神水の湧く地が御神徳を宣揚するのに最もふさわしかった為ではないかと考えられます。<br> <br> <br> <br>  ふじさんほんぐう せんげんたいしゃ<br> 静岡県富士宮市宮町1−1  <br> 棕櫚の葉<br> 式内社 駿河國富士郡 淺間神社 名神大<br> 旧官幣大社<br> 駿河國一宮<br> <br> 木花之佐久夜毘賣命<br> 配祀 天津日高日子番能迩迩藝命 大山津見神<br> 合祀 荒御魂神 彌都波能賣神 須佐之男命 日之宮神<br> 合祀 天照大御神 應神天皇 市杵嶋姫命 水神 見目神飯酒御子神<br> <br> 富士山本宮浅間大社公式サイトを開く<br> <br> 静岡県富士宮市にある。<br> 富士宮駅から北西に1Kmほどの宮町に鎮座。<br> <br> 社前に駐車場があり大きな朱の鳥居が立つ。<br> 鳥居をくぐり、参道を歩くと朱の楼門。<br> 楼門の中、正面に社殿があるが、全体的に<br> 淡いピンク色で、独特の雰囲気がある。<br> <br> 本殿は『浅間造』とよばれ、当社独自の形式。<br> 二階建ての本殿なのだ。<br> <br> 長野を深夜に出発して、山梨経由で到着。<br> 早朝だったが、朝の散歩がてら参拝をする方も多く、<br> 湧玉池の周りでは近所の方々が体操などをしていた。<br> <br> 湧玉池は、富士の雪解け水が湧出する池で、<br> 天暦年間に駿河守になった平兼盛の和歌集に<br> 「駿河にふじという所の池には、いろゝなるたまなんわくといふ、<br> それに りんじの祭しける日 よみてうたはする」とあり、<br> さらに「つかふべきかずにをとらす浅間なるみたらし河の底にわく玉」<br> と歌われた池。<br> <br> <br> 駿河国一之宮。<br>  孝霊天皇の御代、富士山が噴火。垂仁天皇の御代、富士の神霊を<br> 富士の山足の地(麓)に鎮祭したのが当社のはじめ。当初は、特定の地に祀られていたわけではなく、その時々に、適当な場所を定めて祭祀を行っていたが、後、景行天皇の御代、現在地の北東6Kmの山宮に磐境を設けて祀られるようになった。その後、大同元年(806)に現在地に遷座し、社殿の造営がはじまった。<br>  全国にある浅間神社の総本社であり、富士山信仰中心の神社で、富士山山頂には奥宮がある。<br>  境内社は以下の通り。<br> 本殿左に三之宮浅間神社(淺間第三御子神)、右に七之宮浅間神社(淺間第七御子神)。<br> 境内右手の湧玉池周囲に、天神社(菅原道眞)、水屋神社(御井神・鳴雷神)、<br> 稲荷神社(宇迦之御魂神・大宮能賣神・猿田毘古神)、厳島神社(市杵嶋姫命)。<br> 当社周囲には、若之宮浅間神社や二之宮浅間神社などもある。<br> 棕櫚は、神霊の憑代で、富士大宮司の紋。<br> <br> 富士山本宮浅間大社<br> 御祭神<br> 主神 木花之佐久夜毘賣命<br> 配祀 天津日高日子番能邇々芸命<br> 大山津見神<br> 御由緒<br>  人皇第七代孝霊天皇の御代、富士山が噴火し、人民が難散し国内が荒れ果てたので、第十一代垂仁天皇の御代に至り、富士の神霊を山足(山麓)の地に鎮祭した。これが浅間大社の創祀である。第十二代景行天皇の皇子日本武尊が東征の際、浅間大神の神助を畏み、山宮の地(現在地の北方六キロ)に篤く大神を祭られた。その後、平城天皇の大同元年(八〇六)坂上田村麿が勅命に依り、神霊を山宮より大宮(現在地)に遷し奉った。以来実に一千百余年、全国一千三百余社に及ぶ浅間神社の総本宮として、全国的に篤い崇敬をあつめている東海最古の名社である。<br>  古来、朝廷の尊崇極めて篤く、延喜の制では名神大社に列し、駿河国の一宮として崇められた。武家時代に入ってからは、源頼朝をはじめ、北条義時、武田信玄、同勝頼、等の各武将は、それぞれ神領や神宝を献納して篤く崇敬した。<br>  特に徳川家康は天下を平定した、奉賛のため、慶長九年(一六〇四)に本殿以下の諸社殿を奉建し、更に富士山八合目以上を社地として寄進した。<br>  本殿は二層の楼閣をなし、浅間造りと称し重要文化財に指定されている。<br> 富士山信仰<br>  霊峰富士山は、古来浅間大神の鎮まり坐す神体山として、全国の登拝者の最も尊崇するところである。頂上には奥宮、久須志神社の二社が鎮坐しているが、共に浅間神社の奥宮で、八合目以上はその聖域にして境内地である。<br> 祭礼神事<br> 例祭 十一月 四日<br> 流鏑祭 五月 五日<br> 御田植祭 七月 七日<br> 開山祭 七月 七日<br> 閉山祭 九月 七日<br> 湧玉池<br>  神社の東側神苑にある。富士山の雪解け水が溶岩を浸透し、神立山の山裾からこんこんと湧出している。湧出量毎秒三・六Kl(約二〇石)、水温は年間を通じ十三度C。特別天然記念物に指定されている。この池は古来、富士登拝者が沐浴潔斎をしたところである。<br> <br> −境内案内−<br> <br> 富士山本宮浅間大社の栞<br> <br>  第七代、孝霊天皇の御代富士山が噴火し鳴動常なく人民恐れて逃散し年久しく国中が荒れ果てたので第十一代垂仁天皇は其の三年に浅間大神を山足の地に祭り山霊を鎮められた。これを当浅間大社の起源とする。ついで第十二代景行天皇の御代日本武尊が東夷御征伐の時駿河国に於て賊徒の野火に遇われたが富士浅間大神を祈念して其の災をのがれた給い、その賊を征服するや山宮の地(大宮の北方約6キロ)に於て厚く大神を祭られた。其の後第五十一代平城天皇の大同元年坂上田村麿勅を奉じて現在の大宮の地に壮大な社殿を営み山宮より遷し鎮め奉った。爾来一千百余年全国一千三百余に及ぶ浅間神社の総本社として全国的崇敬をあつめる東海の名社となっている。<br>  古来朝廷の御尊崇極めて厚く延喜の制には名神大社に列し、駿河国一宮として勅使の奉幣神領の御寄進等にあずかり、武家時代に入るや源頼朝は神領を寄進し、北条義時・足利尊氏同義持等何れも社殿を修営し、武田信玄・同勝頼父子は諸種の宝物を献上し社殿を奉建し、豊臣秀吉も亦神領を寄進した。慶長九年徳川家康は戦国擾乱の鎮静と将軍宣下の奉賽のため本殿・拝殿・楼門その他を奉建し更に同十一年には富士山八合目以上を当社へ寄進した。爾来徳川氏は本社を崇敬すること極めて深く、家光は社領を献じ家綱・綱吉・家治・家斉・家定・家茂等も夫々祈祷料・修理料を寄進した。<br>  又室町時代に始まった富士登拝は江戸時代に入っていよいよ殷盛を極め以来今日に至っているが、本宮所在の大宮は富士山表口と称せられ関西方面から来る道者(どうじゃ)の登山口たることは勿論、特に本宮を崇敬する関東、東北の道者も此の道を選び、又甲斐、信濃より来る道者も少なくなかった。彼等は社人中特定の道者坊に着いた後本宮に参詣し、更に境内の湧玉池にて斎戒沐浴して登山するのを習いとした。<br>  明治に及んでは其の四年五月十四日国幣中社に、同二十九年七月八日官幣大社に列せられた。<br> </div> <img src="http://image02.wiki.livedoor.jp/img/cmn/search.gif" alt= "「富士本宮浅間社」をウェブ検索する" style= "vertical-align: middle;" border="0" height="16" width="16"><br> <br> <h1 class="title">北口本宮冨士浅間神社</h1> 冨士浅間神社<br> 吉田口登山道の起点、冨士浅間神社のご案内<br>  そびえたつ富士山を背に諏訪の森に鎮座しており、冨士のお山開きは神社の鳥居に張られた注連縄を切らなければ始まらず、またお山じまいの火祭りは神社の秋祭りであるというように富士山と北口本宮冨士浅間神社とは深く強いもので結ばれています。<br>  祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、彦火瓊々杵命(ひこほのににぎのみこと、大山祇命(おおやまづみのみこと)です。<br> <br> <h1 class="title">山宮浅間神社</h1> 山宮浅間神社(やまみやせんげんじんしゃ)<br> 【概要】<br> 浅間大社の社記によると人皇第12代景行天皇の御世皇子日本武尊が勅命により東夷を征討される途次、駿河国で賊の攻撃に遇われた際、陣中で富士の神を祈念され、無事災難を免れられた。尊は深く富士の神の恩恵を感謝され神霊を山宮に祀られたと伝えている。<br>  平城天皇の大同元年(806)征夷大将軍坂上田村麻呂が勅命により東夷を征討した帰途浅間大神の神威を畏み奉って現在浅間大社のある地(大宮と称した)に壮大な社殿を造し神霊を山宮から遷し奉った。浅間大社とは山宮(元の宮)と里宮という関係になっている。<br> 【鎮座地】 静岡県富士宮市山宮<br> 【解説】<br> 里宮から約5.5Km北東に位置し、大宮口登山道(県道180号)途中にある。地図によっては、地域の名前を冠して宮内浅間神社と記載されているのもあるようだ。 山宮は神体を祀る本殿がなく生垣で囲まれた空間が神殿となっていいます。山宮は現在の本宮浅間大社の元宮で、社殿が無く石組みだけがあり、神社の原初形態を今に残しています。山宮は、色々と説があるようですが、実際にその場に立ってみると、とても強いエネルギー場であり、富士の代表的パワースポットと言え、富士の神々にダイレクトに繋がる場です。これだけのパワーをもっている「場」なので、下手な神殿を作らないで瑞垣のみとしたのは正解で、ここは「場」という空間そのものが神殿と言えます。<br>
<h1 class="title">富士本宮浅間社</h1> <div class="main">主祭神 : 浅間大神(あさまのおおかみ)<br> :木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)<br> 相殿神 : 瓊々杵尊(ににぎのみこと)<br> 相殿神 : 大山祇神(おおやまづみのかみ)<br>  「日本(ひのもと)の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」と万葉の歌人高橋蟲麻呂が詠んだ清らかで気高く美しい富士山。この霊山を御神体として鎮まりますのは、浅間大神・木花之佐久夜毘売命にまします。<br>  木花之佐久夜毘売命は、大山祇神の御息女にして大変美しく、天孫瓊々杵尊の皇后となられた御方です。命はご懐妊の際、貞節を疑われたことから証を立てるため、戸の無い産屋を建て、周りに火を放ち御出産になられました。そして、無事3人の皇子を生まれたという故事にちなみ、家庭円満・安産・子安・水徳の神とされ、火難消除・安産・航海・漁業・農業・機織等の守護神として全国的な崇敬を集めています。<br>  木花という御神名から桜が御神木とされています。境内には500本もの桜樹が奉納されており、春には桜の名所として賑わいます。また、申の日に富士山が現れた故事から神使いは猿といわれています。<br> <br> <hr noshade="noshade" size="1"> <br> 〒418-0067 静岡県富士宮市宮町1-1<br> <br> 【起 源】<br> <br>  「富士本宮浅間社記」によれば、第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとあります。第11代垂仁天皇はこれを憂い、その3年(前27)に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められました。これが当大社の起源です。<br>  その後は姫神の水徳をもって噴火が静まり、平穏な日々が送れるようになったと伝えられています。この偉大な御神徳は、万人の知るところとなり、篤い崇敬を集める事となりました。また、富士山を鎮めるため浅間大神をお祀りしたのは当大社が最初であり、全国にある浅間神社の起源ともなっています。<br> <br> <br> <br> <br> 山宮参道<br> <br> 【現在の鎮座地(大宮)に遷座】<br> <br>  最初に祀られた「山足の地」は、特定の地名を指すのではなく、富士山麓の適所を選んで祭祀を行った事を示すと考えられています。特定の場所に祀られるようになったのは、山宮(現在の鎮座地より北方約6キロ)にお祀りされてから後のことです。山宮は社殿が無く古木・磐境を通して富士山を直接お祀りする古代祭祀の原初形態を残す神社で、祭祀形態の変化をうかがい知ることが出来ます。<br>  社記によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の夷(えびす=賊徒)を征伐するため駿河国(するがのくに)を通られた際、賊徒の野火(野原で四方から火をつけ攻められること)に遭われました。尊は、富士浅間大神を祈念して窮地を脱し、その賊徒を征伐されました。その後、尊は山宮において篤く浅間大神を祀られたと伝えられています。<br>  後に、大同元年(806)坂上田村麿は平城天皇の勅命を奉じ、現在の大宮の地に壮大な社殿を造営し、山宮から遷座されました。<br> 富士山の神水の湧く地が御神徳を宣揚するのに最もふさわしかった為ではないかと考えられます。<br> <br> <br> <br>  ふじさんほんぐう せんげんたいしゃ<br> 静岡県富士宮市宮町1−1  <br> 棕櫚の葉<br> 式内社 駿河國富士郡 淺間神社 名神大<br> 旧官幣大社<br> 駿河國一宮<br> <br> 木花之佐久夜毘賣命<br> 配祀 天津日高日子番能迩迩藝命 大山津見神<br> 合祀 荒御魂神 彌都波能賣神 須佐之男命 日之宮神<br> 合祀 天照大御神 應神天皇 市杵嶋姫命 水神見目神飯酒御子神<br> <br> 富士山本宮浅間大社公式サイトを開く<br> <br> 静岡県富士宮市にある。<br> 富士宮駅から北西に1Kmほどの宮町に鎮座。<br> <br> 社前に駐車場があり大きな朱の鳥居が立つ。<br> 鳥居をくぐり、参道を歩くと朱の楼門。<br> 楼門の中、正面に社殿があるが、全体的に<br> 淡いピンク色で、独特の雰囲気がある。<br> <br> 本殿は『浅間造』とよばれ、当社独自の形式。<br> 二階建ての本殿なのだ。<br> <br> 長野を深夜に出発して、山梨経由で到着。<br> 早朝だったが、朝の散歩がてら参拝をする方も多く、<br> 湧玉池の周りでは近所の方々が体操などをしていた。<br> <br> 湧玉池は、富士の雪解け水が湧出する池で、<br> 天暦年間に駿河守になった平兼盛の和歌集に<br> 「駿河にふじという所の池には、いろゝなるたまなんわくといふ、<br> それに りんじの祭しける日 よみてうたはする」とあり、<br> さらに「つかふべきかずにをとらす浅間なるみたらし河の底にわく玉」<br> と歌われた池。<br> <br> <br> 駿河国一之宮。<br>  孝霊天皇の御代、富士山が噴火。垂仁天皇の御代、富士の神霊を<br> 富士の山足の地(麓)に鎮祭したのが当社のはじめ。当初は、特定の地に祀られていたわけではなく、その時々に、適当な場所を定めて祭祀を行っていたが、後、景行天皇の御代、現在地の北東6Kmの山宮に磐境を設けて祀られるようになった。その後、大同元年(806)に現在地に遷座し、社殿の造営がはじまった。<br>  全国にある浅間神社の総本社であり、富士山信仰中心の神社で、富士山山頂には奥宮がある。<br>  境内社は以下の通り。<br> 本殿左に三之宮浅間神社(淺間第三御子神)、右に七之宮浅間神社(淺間第七御子神)。<br> 境内右手の湧玉池周囲に、天神社(菅原道眞)、水屋神社(御井神・鳴雷神)、<br> 稲荷神社(宇迦之御魂神・大宮能賣神・猿田毘古神)、厳島神社(市杵嶋姫命)。<br> 当社周囲には、若之宮浅間神社や二之宮浅間神社などもある。<br> 棕櫚は、神霊の憑代で、富士大宮司の紋。<br> <br> 富士山本宮浅間大社<br> 御祭神<br> 主神 木花之佐久夜毘賣命<br> 配祀 天津日高日子番能邇々芸命<br> 大山津見神<br> 御由緒<br>  人皇第七代孝霊天皇の御代、富士山が噴火し、人民が難散し国内が荒れ果てたので、第十一代垂仁天皇の御代に至り、富士の神霊を山足(山麓)の地に鎮祭した。これが浅間大社の創祀である。第十二代景行天皇の皇子日本武尊が東征の際、浅間大神の神助を畏み、山宮の地(現在地の北方六キロ)に篤く大神を祭られた。その後、平城天皇の大同元年(八〇六)坂上田村麿が勅命に依り、神霊を山宮より大宮(現在地)に遷し奉った。以来実に一千百余年、全国一千三百余社に及ぶ浅間神社の総本宮として、全国的に篤い崇敬をあつめている東海最古の名社である。<br>  古来、朝廷の尊崇極めて篤く、延喜の制では名神大社に列し、駿河国の一宮として崇められた。武家時代に入ってからは、源頼朝をはじめ、北条義時、武田信玄、同勝頼、等の各武将は、それぞれ神領や神宝を献納して篤く崇敬した。<br>  特に徳川家康は天下を平定した、奉賛のため、慶長九年(一六〇四)に本殿以下の諸社殿を奉建し、更に富士山八合目以上を社地として寄進した。<br>  本殿は二層の楼閣をなし、浅間造りと称し重要文化財に指定されている。<br> 富士山信仰<br>  霊峰富士山は、古来浅間大神の鎮まり坐す神体山として、全国の登拝者の最も尊崇するところである。頂上には奥宮、久須志神社の二社が鎮坐しているが、共に浅間神社の奥宮で、八合目以上はその聖域にして境内地である。<br> 祭礼神事<br> 例祭 十一月 四日<br> 流鏑祭 五月 五日<br> 御田植祭 七月 七日<br> 開山祭 七月 七日<br> 閉山祭 九月 七日<br> 湧玉池<br>  神社の東側神苑にある。富士山の雪解け水が溶岩を浸透し、神立山の山裾からこんこんと湧出している。湧出量毎秒三・六Kl(約二〇石)、水温は年間を通じ十三度C。特別天然記念物に指定されている。この池は古来、富士登拝者が沐浴潔斎をしたところである。<br> <br> −境内案内−<br> <br> 富士山本宮浅間大社の栞<br> <br>  第七代、孝霊天皇の御代富士山が噴火し鳴動常なく人民恐れて逃散し年久しく国中が荒れ果てたので第十一代垂仁天皇は其の三年に浅間大神を山足の地に祭り山霊を鎮められた。これを当浅間大社の起源とする。ついで第十二代景行天皇の御代日本武尊が東夷御征伐の時駿河国に於て賊徒の野火に遇われたが富士浅間大神を祈念して其の災をのがれた給い、その賊を征服するや山宮の地(大宮の北方約6キロ)に於て厚く大神を祭られた。其の後第五十一代平城天皇の大同元年坂上田村麿勅を奉じて現在の大宮の地に壮大な社殿を営み山宮より遷し鎮め奉った。爾来一千百余年全国一千三百余に及ぶ浅間神社の総本社として全国的崇敬をあつめる東海の名社となっている。<br>  古来朝廷の御尊崇極めて厚く延喜の制には名神大社に列し、駿河国一宮として勅使の奉幣神領の御寄進等にあずかり、武家時代に入るや源頼朝は神領を寄進し、北条義時・足利尊氏同義持等何れも社殿を修営し、武田信玄・同勝頼父子は諸種の宝物を献上し社殿を奉建し、豊臣秀吉も亦神領を寄進した。慶長九年徳川家康は戦国擾乱の鎮静と将軍宣下の奉賽のため本殿・拝殿・楼門その他を奉建し更に同十一年には富士山八合目以上を当社へ寄進した。爾来徳川氏は本社を崇敬すること極めて深く、家光は社領を献じ家綱・綱吉・家治・家斉・家定・家茂等も夫々祈祷料・修理料を寄進した。<br>  又室町時代に始まった富士登拝は江戸時代に入っていよいよ殷盛を極め以来今日に至っているが、本宮所在の大宮は富士山表口と称せられ関西方面から来る道者(どうじゃ)の登山口たることは勿論、特に本宮を崇敬する関東、東北の道者も此の道を選び、又甲斐、信濃より来る道者も少なくなかった。彼等は社人中特定の道者坊に着いた後本宮に参詣し、更に境内の湧玉池にて斎戒沐浴して登山するのを習いとした。<br>  明治に及んでは其の四年五月十四日国幣中社に、同二十九年七月八日官幣大社に列せられた。<br> </div> <img src="http://image02.wiki.livedoor.jp/img/cmn/search.gif" alt= "「富士本宮浅間社」をウェブ検索する" style= "vertical-align: middle;" border="0" height="16" width="16"><br> <br> <h1 class="title">北口本宮冨士浅間神社</h1> 冨士浅間神社<br> 吉田口登山道の起点、冨士浅間神社のご案内<br>  そびえたつ富士山を背に諏訪の森に鎮座しており、冨士のお山開きは神社の鳥居に張られた注連縄を切らなければ始まらず、またお山じまいの火祭りは神社の秋祭りであるというように富士山と北口本宮冨士浅間神社とは深く強いもので結ばれています。<br>  祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、彦火瓊々杵命(ひこほのににぎのみこと、大山祇命(おおやまづみのみこと)です。<br> <br> <h1 class="title">山宮浅間神社</h1> 山宮浅間神社(やまみやせんげんじんしゃ)<br> 【概要】<br> 浅間大社の社記によると人皇第12代景行天皇の御世皇子日本武尊が勅命により東夷を征討される途次、駿河国で賊の攻撃に遇われた際、陣中で富士の神を祈念され、無事災難を免れられた。尊は深く富士の神の恩恵を感謝され神霊を山宮に祀られたと伝えている。<br>  平城天皇の大同元年(806)征夷大将軍坂上田村麻呂が勅命により東夷を征討した帰途浅間大神の神威を畏み奉って現在浅間大社のある地(大宮と称した)に壮大な社殿を造し神霊を山宮から遷し奉った。浅間大社とは山宮(元の宮)と里宮という関係になっている。<br> 【鎮座地】 静岡県富士宮市山宮<br> 【解説】<br> 里宮から約5.5Km北東に位置し、大宮口登山道(県道180号)途中にある。地図によっては、地域の名前を冠して宮内浅間神社と記載されているのもあるようだ。山宮は神体を祀る本殿がなく生垣で囲まれた空間が神殿となっていいます。山宮は現在の本宮浅間大社の元宮で、社殿が無く石組みだけがあり、神社の原初形態を今に残しています。山宮は、色々と説があるようですが、実際にその場に立ってみると、とても強いエネルギー場であり、富士の代表的パワースポットと言え、富士の神々にダイレクトに繋がる場です。これだけのパワーをもっている「場」なので、下手な神殿を作らないで瑞垣のみとしたのは正解で、ここは「場」という空間そのものが神殿と言えます。<br> <br> <h1 class="title">富知神社(ふくちじんじゃ)<br></h1> 【概要】<br> ふちじんじゃ、ふぢじんじゃ とも呼ばれる。<br> 第七代天皇孝霊天皇の二年(紀元前288年)に創建と伝えられ、延喜式には「富士郡 三座 倭文神社 淺間神社 富知神社」と記されている。 富士山そのものを祀る神社であり、不二神社、福知神社、福地明神社とも呼ばれる。 大同元年(806年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が浅間大神を山宮の地から現在の富士山本宮浅間大社の地に遷座する時に、その地にあった富知神社を現在の位置に移したと伝えられいる。富士大神を祀る場である富士宮にあった富知神社を移動し、その場に浅間大神が祀られたということになる。 延暦十九〜二十一年(800〜802)には富士山が噴火したという記録もあることから、富士の鎮火の祈願のために、浅間大神を勧請したということが考えられる。 つまり、富知神社が富士山・富士大神を祀る根本の神社であると言える。<br> 【鎮座地】 静岡県富士宮市朝日町12-4<br> 【解説】<br> 御祭神は大山祇命とされていますが、富士大神(ふぢおほかみ)を呼ぶとダイレクトに繋がるので、どうも後から記紀に合わせて御祭神が整理されてしまったように思えます。見た目は普通の小さい神社に見えるし、参拝する人も少ないのですが、富士大神と繋がるとかなり強烈なエネルギーが降りてきます。慣れないと頭ぐらぐらするくらい強いです。まさに、富士山本体のエネルギーとダイレクトに繋がります。富士の根源的な神である富士大神と繋がるのであれば外せない神社です。<br>

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