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東方動乱

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東方動乱

東方動乱は西方中原での呼ばれ方で、東方では単に「大動乱」と呼ばれる。

大師ダム・ダーラ聖都計画の最初の段階の陰謀であり、東方全土の旧秩序を崩壊させた巨大な争乱。
彼の命を受けた月の門カルラ西部域のスラゼン国に占星術師として
潜り込み、隣国ヒゼキアを攻めるように煽った。
東方歴2433年、その結果ヒゼキアは滅亡。
なお、滅ぼしたスラゼンは、その直後にハグドーン?国に攻撃され滅亡している。

それまではかろうじて均衡を保っていた東方諸国だったが、この件をきっかけに一斉に領土拡張に方針を変更し。各地で戦乱が一気に増大した。
基本俗事には不介入の方針を保っていた東方聖刻教会だったが、民草の受ける被害の甚大さに、当時の法王アショーカは、悩み抜いた末についに通常の調停以外に武力介入を決断。
東方歴2440年、1500年間教都防衛以外では戦うことのなかった聖刻騎士団が派遣されることになった。
当時の団将は機神ラドウ・クランド

聖刻騎士団は東部域→南部域→西部域と転戦を繰り返し、最後には西部の大国ライリツをトールハルの戦いで打ち破り、戦乱を平定した。ライリツとの決戦の時点でワースランを発ったころの戦力の三分の一を失い、決戦後にほぼ壊滅と大差ないありさまだった。

なお、グッテン・カムリは当時西部域の一軍閥を率いる豪族に過ぎなかったが、この時西の豪族をまとめ上げて教会に加勢。終戦につながる功績を持って、空席のあった八聖家入りを果たしている。

聖刻騎士団は建て直しに奔走することになり補充と増強の為に選抜を緩和、戦士ながら戒律を保つ聖職者(修道士あるいは修道騎士と言うべきだが、この世界線では気功術は扱えない)のみならず、《八聖者》に題する信仰心の点では皆無同然の世俗騎士も入団することになる。

だが、中原方面が手薄になり、シン国に隣接していた穀倉地帯ハムルを奪われた。

練法師組織の争いも裏で激化した結果、聖刻教会練法師団が勝利。恭順・降伏しなかった組織は追放もしくは滅ぼされた。ヒゼキアを根城としていた拝火(アバダ)は黒の僧正の封印の監視も放棄せざるを得ず、シン国に庇護されることになる。

唯一の勝利者となった教会は、結果的に発言力が増して東方中へ悪影響を及ぼす。
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