古代(草創期)


喧嘩史の出発点。原初の世界。
各地に喧嘩サイトが点在し、現存する最古の喧嘩師であるSelcia(当時は嬲)や、
少し前まで姿を見せていたイシヤのほか、今は亡き先人たちが鎬を削っていた時代を指す。
「喧嘩師」や「喧嘩サイト」といった言葉はこの時代においても散見される。

1、期間


始まりは喧嘩文化の発祥と同時だが、年代は不明で、少なくとも2000年以前とされる。
終わりは2004年初頭毒殺天国の成立まで。
(2003年までの方が区切りは良いが、厳密に言うとこの時期になる)

2、現代との違い


この時代に辿り着くには最低でも6年以上もの時を遡らなければならず、残されている史料は著しく少ない。
筆者の記憶も色褪せているので、飽くまで推測の域を出ないが、
当時は「喧嘩界」という枠組みが存在せず、一部のサイト間での交流はあったものの、
今ほど他所に対する意識は強くなかったと考えられる。
ただし「ネタ」を始めとする現代の喧嘩的概念のいくつかが無かったことを除けば、
喧嘩の方式などは現代とほぼ変わらないモノであったと言える。

3、当時の喧嘩サイト


当時の喧嘩サイトの特徴としては、アングラ色が顕著であったことが挙げられる。
(詳しくは前章を参照してほしい)

この時期の代表的サイトとして、}
「死人の館」「悪魔の館」「よしひろ板」「天上天下唯我独尊」
「コミュニティROOM」「大和殺楽喧嘩帝国」「ブラクラチャット(元サイトの名前は忘れた)」

などがある。
「喧嘩殺伐」「KTA」といった携帯サイトもこの時期に成立したと思われるが、
これらが「喧嘩界」という枠組みに入るのかについては微妙である。
天上天下唯我独尊(後の稲妻net.)とは交流深く、
中世には携帯サイト所属の喧嘩師と毒殺天国所属の喧嘩師が相見えることもあったが、
基本的に携帯サイト以外の喧嘩サイトとの繋がりは薄い。
年齢層や住民の頒布も喧嘩サイトとは大きく異なり、もなちゃとと同じく独自の文化を形成しているのだ。
当然、当人たちに「喧嘩界に所属している」という共通意識もないと考えられる。
なので、仮に喧嘩界に含むとしても、毒殺天国などといった中央とは程遠い、異国の地とするのが妥当であろう。

4、古代から中世へ


古代の末期に「隠し」の住人が姿を現し始め、
それに触発された砂漠地帯が毒殺天国を設立。
喧嘩界が激動し、飛躍的発展を遂げる中世へと移行していく。
最終更新:2014年12月29日 19:41