中世(黄金期・勃興期)


「毒殺天国」と「隠し」
これら二つの存在により喧嘩界が大きく揺れ動き、また発展した激動の時代。
昨今よく目にする「喧嘩界」という枠組みはこの時代に完成された。
現代においてはこの時期以前の喧嘩師を「古参」と称することが多く、喧嘩史にとっての大きな分かれ目となっている。

1、期間


期間は2004年の初頭、毒殺天国の誕生から2005年末(或いは2006年初頭?)毒殺天国崩壊までの約2年間。
更にこの時代を二つに分けると、毒殺天国の誕生から中世氷河期の終了(第二世代の登場)までの1年間を前期、
第二世代の登場から毒殺天国崩壊までのもう1年間を後期とすることができる。

2、現代との違い


現代喧嘩社会の枠組みや形式、及び喧嘩的概念のほとんどが、この時期誕生・確立されている。
この時期の様式などがそのまま現代にまで受け継がれており、
違いと言えるほどの相違点は、「変化」ではなく「有無」で語れるのみであろう。

3、前期・後期の流れ


「隠し」に触発され誕生した毒殺天国。
前期はこの隠しと毒殺天国の交流、また同サイトの発展が主で、喧嘩界全体が繁栄している、というわけではなかった。
焼け石夏の陣~稲妻net遠征という二大戦役を経て、毒殺天国は絶頂期を迎えたものの、
SUGARチャットレンタルサービス終了に伴う中世氷河期が到来。
数ヶ月後、2005年の4月頃に起こった第二世代の大量流入により、氷河は融解、
喧嘩界の黄金期が本格的にスタートする。

後期は、喧嘩界が最も活気に満ち溢れていた時期である。
敢えて名付けるなら、月並みながら「喧嘩界大乱時代」といった具合であろうか。
各地で喧嘩サイトが大量に作られ、また廃れていった、古参新参入り乱れる激動の情勢による。

4、第二世代の登場


中世氷河期を終わらせ、喧嘩界に新たなる風を呼び込んだ新興勢力、それが第二世代である。
彼らの登場により喧嘩界全体が活性化し、各サイト間の交流も盛んになった。
また彼らの大きな特徴として、その結びつきの強さが挙げられ、2005年の初頭から後期にかけて一大勢力を形成するに至った。
なお「第二世代」とは2004年以前の喧嘩師と区別するための便宜上の呼称であり、
当時そう呼ばれていたわけでも、彼ら以前の喧嘩師を「第一世代」と呼ぶわけでもない。

彼らは2005年の4月頃から急速に勢力を拡大していったが、
その中心人物が、のちに「シビア虐殺楽園」を設立するsecret(後の匁、巫とも)である。
彼のルーツは喧嘩サイトとは無縁のコミュニティであったが、そこで活発に喧嘩活動を行っていたようだ。
何をきっかけにしたのかは不明だが、secretは喧嘩界に進出し、
「DarkSide」や「黒雫」といったサイトを経て、前述した「シビア虐殺楽園」を設立するに至る。
匁を頂点に据えたグループは第二世代の中でも一際巨大な勢力を保っていた。
これを脅威と見たか、単なるサイト発展を見据えての戦力増強か、のちに彼と一部の幹部が毒殺天国に招待されている。

また、匁以外に第二世代の中で強い影響力を持っていたのが、
「炯眼楽園」の管理人であるAtrociousと、「蒼穹」の管理人である雪山偈だ。
炯眼楽園は毒殺天国ですら失敗した「喧嘩大会」の実施に見事成功し、運営能力と所属住民のバイタリティの高さを証明している。
毒殺天国の喧嘩師にも引けを取らないまじかるタルるートなどの逸材も獲得し、一時代を築いた。
「蒼穹」は知名度こそ高いものの、表立った行動はほとんどしていない。
しかし、その金城鉄壁たるセキュリティはもちろんのこと、零、開陳などの強者や、謎の最強喧嘩師「腋亦」など、人材面の補強にも隙はなく、
隠しサイトに必要不可欠な要素である「思わせぶりさ」も兼ね備え、隠しサイトとしての確固たる地位を確立した。
ここで挙げた以外にも、第二世代の喧嘩師により無数の喧嘩サイトが設立されている。

このように、毒殺天国に匹敵するまでには至らなかったものの、この時期の彼らの活力には目を見張るものがあったと言える。
しかし、この時代に生きた喧嘩師の多くと同様に、彼らもまた、中世終了後に姿を消してしまっている。

5、当時の勢力


この時代の勢力としては、2004年中期、毒殺天国の本格的な発展以降から中世終了まで、常に毒殺天国の一強体制であった。
「Bitch」も強豪サイトとして名を馳せはしたが、Bitch管理人を含む有力喧嘩師が毒殺天国の常連であり、両サイトが対立することはなく、
また喧嘩界に対する影響面でも毒殺天国には及んでいないことから、毒殺天国の地位を脅かすには至らなかった。

先述したように、第二世代も有力サイトを含め数多くの喧嘩サイトを設立したが、彼らの中心的人物である匁と、それに追随する一派の幹部、
新勢力を代表するサイトの一つである「炯眼楽園」の最強喧嘩師なども同様に毒殺天国に引き入れられ、
毒殺天国の一強体制はより確固としたものになっていった。
毒殺天国が強大になり、有名になり、発展していくことで当時の毒殺「以外」の喧嘩師に芽生えたのは、
毒殺天国に対する敵対感情や反骨精神ではなく、畏敬と羨望の念であった。
下克上が起きることもなく、ただひたすらに毒殺天国が君臨し続けたこの時代、
確かに喧嘩界は迸る活気に満ち溢れていたが、筆者が考える
「喧嘩界の真に理想的な状態」
にはまだ遠かったと言える。

6、当時の文化


文化的な面でまず特筆されるのは、後期に流行して以来、新時代にまで連綿と受け継がれている「本家・分家制度」である。
サイトを本家と分家に分かち運営するこの手法は、喧嘩サイトとしての魅力や神秘性を醸し出す上で実に画期的であった。
その結果、本家・分家制度は当時「隠し」という言葉に憧れていた喧嘩師たちに広く伝播し、新時代以降も好んで使われる運営手法となった。
まさに隠しブームに沸いたこの時代を象徴する文化といえよう。
なお、詳しい説明は第三巻の第五章を参照して欲しい。

第二に特筆すべきは、まかが考案(あるいは、大々的に発表)した「ランク付け」というシステムである。
彼が管理する喧嘩界の総合情報サイト「ユグドラシル」にて行われたこれは、
喧嘩師の「■攻撃力■防御力■スタミナ■オーラ」を「A:超スゴイ B:スゴイ C:普通 D:ニガテ E:超ニガテ」
の五段階で評価するというもので、独断と偏見に依っているにも関わらず、
当時このランクが各所で引用されるなど、爆発的な流行を見せた。
その理由としては、まず、まかとユグドラシルの知名度の高さが挙げられる。
(「粘着」という非難を浴びながらも)毒殺天国のトップとして君臨した事実は、
当時の喧嘩界においては非常に大きなステイタスであった。
次に、ランク付けの目新しさが挙げられる。
毒殺天国をはじめとする諸サイトでもランキング制度は採用されていたが、
もなちゃとの喧嘩文化に代表される個人能力のランク付けを大々的に喧嘩界に導入したのはまかが最初であった。
三つ目は、対象喧嘩師の多さ。
簡易ながらも当時の喧嘩師の多くを紹介したことが、閲覧者の興味を大いに惹いたのだろう。
また、元来喧嘩師とは自身の強さと相手の強さを比べたがる・知りたがる性質があり(当然と言えば当然なのだが)、
低年齢の喧嘩師ほどそれがより顕著である。戦闘力換算のような、分かりやすい、目に見える形でのランクを望むのだ。
これは「もなちゃと」関連サイトに必ずと言っていいほどある格付けを見ても分かる。
アルファベットを用いて具体的に喧嘩師の強さを表記したことは、容易に喧嘩師の力量を知ることができるという点で非常に効果が高く、
また低年齢の喧嘩師(当時、喧嘩師の多くが学生であった)の興味をくすぐるものがあったのだろう。
当然、ユグドラシルの知名度の高さゆえ、己の実力を広範に流布することができることから、
喧嘩師の功名心に大きく作用した点も挙げられる。
(しかし彼構わず評価対象としたことで、ある毒殺常連とまかの間に軋轢が発生、「まか事件」へと発展してしまった。)

もなちゃと同様に「SS」や「神」といった少年漫画的インフレーションが発生しているものの、
現在においても一部のサイトで「ランク付け」は未だに行われている。

7、中世から近代へ


終始一強体制ではあったものの、「毒殺天国」を中心に、古参と第二世代……
今は亡き有名強豪喧嘩師や、将来有望な新参がひしめき合った喧嘩史中世。
史上最も「群雄割拠」に近づいた時代であるが、毒殺天国の崩壊により事態は一変、
有名喧嘩サイトも第二世代も根こそぎ姿を消し、混乱期に陥ってしまう。
暗黒時代の到来かと思われたが、そこに姿を現したのがアカテン率いる「平成喧嘩塾」である。
毒殺天国常連とも仲深く、一部の古参と喧嘩界の重鎮Selciaの引き入れに成功した喧嘩塾は、
混迷する喧嘩界情勢を徐々に鎮静、自らを中心とした新時代・・・すなわち、喧嘩史における「近代」へと移行していく。
最終更新:2015年05月01日 01:31